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18_真面目ないなり寿司

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「じゃあ私は、愛宕神社に行ってくる。香菜はゆっくり休んでおけよ」

菖蒲さんはそう言い残すと、戸を開けて店を出て行った。
私は店の前で、菖蒲さんの背中を見送る。空を見上げると、灰色の雲が気だるげに垂れ込めていた。心なしか頭も痛い。昨日の疲れが、血液の中を揺蕩たゆたっている。

手に持っていた張り紙を、すりガラスの引き戸にセロテープで貼り付けた。

── 臨時休業のお知らせ。
誠に勝手ながら、本日の営業はお休みさせていただきます。

張り紙を貼った引き戸を開けて、店に入る。
両手を組んで、ググッと上に伸びをした。ふぅと肩の力を抜き、私は厨房に入った。朝一番に掃除をしておいた神棚に手を合わせ、頭を下げる。

冷蔵庫に手をかけた。取り出したのは、油揚げ。
半分に切って、中を開けて袋にする。グラグラと沸かした湯に放り込み、油抜きをしていく。別の鍋に水を入れて、たっぷりの花がつおで一番出汁をとった。何を作るのかと言えば、懲りもせず、いなり寿司だ。

厨房に湯気が舞う。
湿度の高い今日のような日に湯気を浴びると、額から、じっとりと汗が滲んだ。丸まった母の背中を思い出す。背中から伸びる首元に、噴き出すように張り付いていた汗が目に浮かんだ。どんなに熱くても、母は厨房と真摯に向かい合っていた。きっと、母に見えていたのは、料理の向こう側のお客さんの笑顔だったのだろう。

出汁に砂糖と醤油を入れた。いつもなら、食材たちが分量を教えてくれる。今日も声は聞こえない。母はいつも大さじを何杯、入れていたのだろうか。

「お母さんは、香菜が羨ましい。一人で料理するのも楽しいけれど、香菜みたいに、おかあさんも食材たちとおしゃべりしながら、楽しく料理してみたい」
母の声が、湯気に混じって聞こえてきた。あの時の私は、母に何と返事をしたのだろうか。

小皿に煮汁を移す。一口味見をした。
なんだかしょっぱい。甘味が足りない。
砂糖を足しながら、自分の言葉を思い出した。

「うるさいばっかりだよ。食べ物の声が聞こえたって、いいことないし」

私はそう答えたんだ。十七歳だった。取り立てて激しい反抗期がなかった私にしては珍しく、苛立って投げやりに答えたんだった。
「そっか……」
小さく呟いた母の顔から伝った汗が、シンクに落ちた。あれは、本当に汗だったのだろうか。

再び味見をした。
今度は、ちょうど良さそうだ。
「ん。美味しい」

ご飯は土鍋で炊いた。
炊飯器で炊くよりずっと手間がかかるけど、美味しいご飯が炊ける。母は日曜日の夜、二人のために母屋で土鍋のご飯を炊いてくれた。平日は店のご飯を食べていたけれど、日曜日の母のご飯は、私だけのために作られたもので、特別に美味しかった。

厨房に炊きたての白米の匂いが広がった。鼻をすんと啜る。甘くて幸せの匂い。胃腸が動き出す。
美味しいって、幸せだ。知っていたのに、わかっていなかった。ご飯が作れることも、食べてもらえることも、当たり前になりすぎていたのかもしれない。

土鍋の蓋を開ける。ピンと立った白米から、今にも声が聞こえてきそうだ。しかし綺麗に並んだお米たちは優等生で、静かに整列を続けている。

「美味しく炊けてくれてありがとう。君たちは、今からとびっきり美味しい、いなり寿司になりますよ」

自然と頬が緩んだ。
ただ、ご飯に声をかけただけなのに、どうしてか胸が熱くなった。反抗した後に仲直りをしようと焼いたホットケーキを、母が美味しそうに食べてくれた時の申し訳ないような嬉しいような。自分でも名前をつけにくい、色んなものがないまぜになった感情。

ご飯を酢飯にして、炒りごまをたっぷり混ぜる。味の沁みたお揚げにご飯を詰めた。出来立てを一口味見する。前より美味しくできた気がする。琥珀にも喜んでもらいたい。この重たい体に沈んでいるのは、ただの疲れじゃない。琥珀の哀しみだ。

重箱に、いなり寿司をきっちり並べて詰めた。
母が使っていた赤と白の風呂敷に包む。紙袋に入れて、店を出た。堪えきれなくなった雨は、しとしとと地面を濡らしていた。

私は傘を差す。

差したのは、お気に入りの水玉の傘だ。淡い水色は晴天の空色で、傘を差すと雨なのに私の頭上だけ晴れ間が広がっていてなんだか嬉しい。狐の嫁入りみたいだと思う。なんだか心が弾んだ。てくてくと歩くと、バス停に着いた。
穂結小学校前。
ここから乗る人は、大抵、街中に出て行く。私はバスを何本も見送った。私の目的地は、穂結山の展望台なのだ。

ようやくやってきたバスは、がらんとしていた。平日の雨の日に、展望台に行こうという人間は、私ぐらいのものらしい。
バスにゆらゆら揺られていると、体の中の疲れが全身に回った。窓の外の景色も、次第に緑色に変わっていく。目に優しい景色は、私の睡魔を襲った。

「……、……客さん、終点ですよ」

私は、運転手に声をかけられて目を覚ます。
「あ、すみませんっ!」

料金を払い、慌ててバスを降りた。
案の定、展望台には誰もいない。霧がかかったみたいに視界の悪い穂結町を見下ろすと、自分が別世界に入り込んだ気分になる。しゅわっと霧のような薄い雨が、肌に張り付いた。

「あ、傘……」

手に持っていたはずの傘がないことに気づく。バスの中だ。私はバスに視線を送る。慌てて追いかけた。しかし、追いつくはずはない。バスは私にお尻を向けたまま、どんどん小さくなっていった。

「お気に入りの傘だったのにな……」
小さくため息をついた。仕方なしに、傘もささずに、展望台の裏の小道に足を踏み込む。雨というよりかは、霧に近い。これでは、傘があってもなくても、大して変わりはない。

雨の山は、静かで少し薄気味悪い。視界も悪いし、空気も冷たい。鳥肌が立った。これが寒さによるものか恐怖心なのか、それすらも私にはわからない。ただ、お稲荷さんに行く。私の頭にはそれしかなかった。

滑らないように、慎重に石の階段を歩く。一歩一歩、少しずつ、確実に。

前回来たときは、達也もいたし菖蒲さんもジョージさんもいた。ピクニック気分で楽しかったけれど、今日は全然、楽しくない。こんな山奥で一人で転けたら、誰も助けてくれない。階段を一段登る毎に、決意が一つずつ落ちていく。そして次第に後悔が込み上げてきた。わざわざ、今日でなくても良かったかもしれない。一分が、何十分にも感じる。お稲荷さんが、遠くに感じた。

雑草の生い茂る山道を霧が覆う。息を吸うと、湿度の高い空気が喉に張り付いた。水を打ったような静けさの中、私の吐息だけが耳を支配する。夢に入り込んだようなゆるさと居心地の悪さに、私ははぁはぁと息を吐き、自分の存在を確かめた。生ぬるい風が私の頬を優しく撫でる。その風は霧を散らした。目に朱色が飛び込んできた。

しんと静かなお稲荷さんに、私は懐かしさを感じる。迎え入れられたような安心感があった。私に沈む琥珀の哀しみが、そう感じさせるのだろうか。

私は丁寧に頭を下げ、鳥居をくぐる。右側の狐の石像に深々とお辞儀をした。短い参道の真ん中を避け、一歩ずつ前に進む。

神殿の前に立った。背筋を伸ばす。賽銭箱に賽銭を投げ込み、両手を合わせ、頭を下げた。
二拝二拍手一拝。

次の瞬間、晴れ始めていた霧が一気に濃くなった。


── 琥珀色の霧。


茶色い小狐が、私の目の前を横切った。




次回予告 19_霧のぼた餅
これは、現実?
それとも夢?


#創作大賞2025 #ファンタジー小説部門





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