01_どしゃぶりの唐揚げ
「ひっ」と小さく声を上げて、後退りした。
湿り気のある得体の知れない黒い物体が、くるぶしの周りをなぞる。
「ニャア」
可愛らしい鳴き声に、力が抜けた。
「なんだ、黒猫か。しかし、びしょ濡れだねぇ」
足元に向かって微笑んだ。黒猫はぷいと顔を逸らして、勝手に店の中に入っていく。
「おいおい。勝手に入らないでくださいよ」
追いかける私を尻目に、猫は何かを探しているかのような素振りで、開店前の店内を練り歩いた。ピタっと止まり、厨房の神棚の前に行儀よく座る。黒猫が一瞬、頭を下げたように見えた。次の瞬間、ひょいと厨房の隅にある椅子の上に飛び乗ると、我が物顔で座る。私を一瞥すると、「ニャア」とふてぶてしく鳴いた。
「何この猫。図々しい」
私はひとつ、鼻から息を吐く。厨房の奥の階段を上がり、母屋のタオルを手に取った。濡れたまま丸まっている黒猫に、タオルをかける。わしゃわしゃと拭きあげてから、黒猫を撫でた。手のひらに、じんわりとした温もりを感じる。
生き物の体温を肌で感じたのは、どれくらいぶりだろうか。母が亡くなって三年経つ。母は何かあると、私をぎゅっと抱きしめた。感情の波を、つぶさに感じとる繊細で優しい人だった。
母が亡くなった時、私の心にはぽっかりと穴が空いた。私はまるで、外側だけ綺麗に塗装されたイースターの卵みたいに、空っぽになった。今でも厨房に立つと、母が抱きしめていた部分が空洞だと感じることがある。何かが、足りない。今日は、黒猫の温かさが、欠けた穴にくすぐったい。
その日は結局、一日雨だった。
濡れた洗濯物を取り込んで、再び洗濯機を回す。夜になると、雨音はさらに強さを増した。
古い店内は、電気をつけていてもどこかくすんでいる。雰囲気があると言えば聞こえはいいが、ただ古いだけだ。最近は老朽化が進んでいるのか、電気がいきなり消えることもある。
バチッと音がして、電気が一瞬だけ消えた。珍しくお客さんがいない店内に、突然、眩い光が射し込む。空気を揺らすような落雷に、地面が震えた。
「うわ」
突然の轟音に、声が漏れる。厨房で小さく寝息を立てていた黒猫も、にゃっと鳴いて飛び起きた。今日のお客さんは、この黒猫だけだった。仕込みが無駄だが、こんな日もある。明日に回せるものは、明日に回すだけのこと。今日はさっさと店じまいをしよう。
のれんを下ろしに、店の入口に向かった。今日はいつも以上に、戸が開かない。私は両手をかけると、力まかせにこじ開けた。建て付けが悪すぎる。老朽化が酷い。そろそろこの店も、売り時かもしれない。
外に出ると、視界の端に視線を感じた。人影が視界に入る。やたらとぼんやりした輪郭をしていて、私は目を擦った。不動産業者であれば、招き入れて話を聞こう。誰にもバレることなく、話が聞ける。
「あの……。こんばんは」
私の声に、人影が反応した。ぼんやりしていた人影が、声を聞いた途端にくっきりする。背筋の伸びた、着物の女性だ。女性と私の視線が交差した。違和感を感じた。女性の瞳に吸い込まれる。瞳の色は黒いというより、まるで闇のようだ。心拍が速くなる。
「こんばんは」
女性は優しく微笑んだ。
「── お食事ですか?」
恐る恐る尋ねてみる。女性は小さくお辞儀をした。
「このタオル使ってください」
雨に濡れた女性を放ってはおけず、店に招き入れてタオルを差し出した。梅雨時期にしては厚手の着物に違和感を覚える。女性と一瞬、手が触れた。雪に触れたかのように、私の手がじんと冷える。雨に打たれて体が冷えたにしては異様な冷たさに、私は眉根を寄せた。
女性は目を動かしながら、店内を見回している。私の足元の黒猫を一瞥し、柔らかく目尻を下げた。
「あら、香菜ちゃんも黒猫を飼っているのね。鈴菜ちゃんの飼っていた猫にそっくり」
突然、私と母の名前を呼ばれ、肩に力が入る。自分の胸の内を探ってみたが、目の前の女性に心当たりはない。母がやっていた頃のお客さんだろうか。黒猫は私の足元にぴったりとくっつき、ふーと息を吐いて牙を見せつけた。
「すみません。知らない人にびっくりしてるのかな。それより、母をご存知なんですか?」
「紹介が遅れました。私、松原といいます。あなたのお母さんとは親しくさせていただいて」
「そうなんですね。すみません。実は母は三年ほど前に他界しておりまして。今は娘の私が、店を継がせていただいています」
小さく頭を下げると、松原さんの口から優しげな笑い声が漏れた。
「知っていますよ。鈴菜ちゃんから聞きました。香菜ちゃんがお店を継いでくれたこと、お母さん、心配しながらも喜んでいましたよ」
違和感で胸がざわついた。私が店を継ぐことを決めたのは、母が亡くなった後のことだ。死んだ母が、私が店を継いだことを知るはずもない。松原さんと私の間に見えない壁を感じ、私は、ははと乾いた笑い声を出すことしか出来なかった。
できるだけ平静を装い、質問を返す。
「── ちなみに、母とはどういったご関係だったんですか?」
「昔、私もお店をやっていて、鈴菜ちゃんは常連さんで。料理を教えたりして、親子みたいに仲良くさせていただいていたんです」
母から聞いたことがある。行きつけの居酒屋さんで、料理を教えてもらっていたと。おかげで料理が好きになったとも話していた。父ともその居酒屋で出会ったと聞いた気がする。でも、目の前にいる松原さんはどうみても、母が話していた女将さんよりだいぶ若い。怪しげな松原さんと名乗る女性に、疑惑の目を向けながらも、突然の謎の状況に好奇心が湧き上がる。
「もしかして、居酒屋さんの?」
「そうなの。はじめまして、香菜ちゃん」
「なんだ。そうだったんですね。 遠慮なく入ってきてくださればよかったのに」
「もう店じまいだったのよね。突然押しかけて、ごめんなさいね」
私は頭を振った。
「謝らないでください。お会いできて、すごく嬉しいです。あ、せっかくなので何か召し上がりませんか?」
松原さんの言うことが本当なら、会えて嬉しいのというのは、本当の気持ちだ。嘘ではない。
私はそそくさと厨房に戻り、母手製のレシピノートを開く。確か唐揚げのページに、写真が貼ってあったはずだ。
唐揚げのページを開くと、母と居酒屋の女将が並んで写っている写真が貼ってあった。私は厨房から、こっそりと写真に写っている女将と松原さんを見比べる。少し老けているが、間違いなく同一人物だ。しかし、多少シワが増えている程度。本当ならもっと歳をとっていていいはずだけどと、首を捻る。
気を取り直して、唐揚げを揚げた。
確かこの唐揚げは、女将さんから教えてもらったレシピだと言っていた。酒と醤油、それに砂糖。さらに、生姜とすりおろしニンニクで下味をつける。極めつけは隠し味の焼き肉のタレ。衣は片栗粉をしっかりとつけるのが美味しくなる秘訣だと母に教えてもらった。ガリッと歯ごたえがあるのが私の好みで、この唐揚げはみずたま亭の一番人気メニューだ。
コンロのつまみをひねる。コンロも最近、調子が悪い。少し苛立った。やっと火がつく。鍋に、片栗粉がたっぷりついた鶏肉を滑らせた。パチパチと油の弾ける音がする。唐揚げたちの拍手の音が聞こえてきた。
「香菜ちゃん、今だよっ!」
「はいよっ」
狐色になった唐揚げをバットにあげる。カリカリの表面にほくそ笑む。食べ物たちの声を聞いていると、不思議と心が落ち着いた。十代の頃は、この声が煩わしくて料理を遠ざけていたのに、不思議なものだ。母には聞こえない、私にしか聞こえない特別な声。
お盆の上に、白飯、揚げと玉ねぎのお味噌汁を注いだお椀を乗せる。大皿にはたっぷりのキャベツの千切りに、もりもりの唐揚げを乗せた。小鉢には、副菜の茄子の煮浸しとかぼちゃのサラダ。
お盆の上に視線を落とした松原さんの顔が、突然、曇った。冷たい空気が店内に流れる。松原さんは私をじっと見つめたまま、口を開いた。
「香菜ちゃん? これって……」
目を向けられて、私は松原さんの瞳を見つめる。たまり醤油のように艶のある松原さんの瞳は、黒く、そして吸い込まれるように深い。
次回予告 02_恋する唐揚げ
怪しすぎる松原さんに見つめられると、不穏な気持ちになる。
それにしてもこの人、一体、何者?
