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ローマ郊外のサン・カリストのカタコンベを訪ねて~死んだら無か?虚無への恐れに震える

【ローマ旅行記】(12)ローマ郊外のサン・カリストのカタコンベを訪ねて~死んだら無か?虚無への恐れに震える

キリスト教の街ローマを考える上でやはり「墓」という存在は大きな意味を持つ。

サン・ピエトロ大聖堂もそもそもの始まりは聖ペテロの墓だ。ローマという街は墓を中心として発展を続けてきた歴史がある。

僧侶である私にとって、墓や埋葬の歴史というのは実に興味深い。というわけで私もローマ有数のお墓たるサン・カリストのカタコンベを訪れることにしたのである。

さて、そもそもであるがカタコンベとは何か。石鍋真澄氏は次のように解説している。

さて、初めのうちは特別な墓地をもたなかったキリスト教徒が、カタコンべという自分たちだけの地下墓地を造るようになったのは、二世紀の初めころからだといわれる。その発端となったのは、富裕な信者が貧しい仲間を一族の墓に埋葬してやったことであった。ドミティッラやプリシッラのように、多くのカタコンべが今日も最初の墓の所有者や土地の寄進者の名で呼ばれているのは、そのためである。

キリスト教徒がカタコンべという地下墓地の形式を選んだのは、彼らの埋葬法が土葬だったからであった。つまり、土葬にする場合、地上では広い土地が必要だが、地下なら必要なだけ掘り下げればいい、そうすれば都市に近いところに安価に墓が造れる、というわけである。

それに、生前の仲間と死後もともに集まり、静かに復活の日を待つには、地下の方がふさわしいと考えられたのであろう。また、カタコンべには多くの殉教者も葬られたから、信者たちはそのそばに墓を造って、わが身の救済をより確実なものにしたいと願ったせいもある。

そんなわけで、この地下墓地は大いに発達した。三、四世紀になると、カタコンべは教会の所有ないしは管理下に置かれるようになり、組織的に造られていったのである。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P149-150

カタコンベが造られ始めたのは2世紀に入ってから。

都市の近くに安く墓を造るという実用的な面から始まったのがきっかけだった。

私はアッピア街道クラウディア水道橋の見学と一緒にこのカタコンベを訪れた。

こちらがサン・カリストのカタコンベの入り口。ここから先の建物から地下に入っていく。カタコンベ内はもちろん撮影禁止だ。

Callixtus のカタコンベの墓龕 Wikipediaより
カタコンベで典礼を祝うキリスト教徒。Wikipediaより

私もガイドの後ろをついてこのカタコンベ内を歩いていく。この近辺の土地は土が柔らかくて掘りやすかったといっても、これほど深くまで掘り進めるその熱意にはたしかに驚く。今はこうして通路にはライトが設置されているが当時はまさに真っ暗だったはず。火を使った明かりといっても限度がある。そんな中こんなに奥深く迷路のようなカタコンベを作っていったということに呆然としてしまう。

もしこんなところに明かりもなく一人取り残されてしまったら恐怖でどうにかなってしまいそうだ。

このカタコンベの見学では想像していたよりも地下深くまで降りることはなかった。ただ、所々通路の向こう側の暗闇を見ることがあってその先の深淵を想像することになった。このカタコンベ内の迷宮ぶりはアンデルセンの『即興詩人』でもその暗黒の恐怖が非常にリアルに描写されていて面白い。ぜひ『即興詩人』もローマに来られる際はおすすめしたい作品だ。

そしてこのカタコンベの途中で、ある有名なお墓を見ることになった。

聖セシリアの墓 Wikipediaより

こちらは聖セシリアの墓。聖セシリア(サンタ・チェチリア)は二世紀頃のローマ帝国の殉教者で、音楽家と盲人の守護聖人として有名。そのお墓がまさにこのサン・カリストのカタコンベにあったのである。ちなみにこの写真の彫刻は1600年にステファノ・マデルノによって製作されたもののレプリカ。オリジナルはローマのサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に納められている。

そしてこの聖セシリアはラファエロの絵画でも有名だ。ボローニャ絵画館に所蔵されているこちらの『サンタ・チェチリア』はロシアの文豪ドストエフスキーも好んでいたことで知られている(詳しくは「ラファエロの『サンタ・チェチリア』を観にボローニャ国立絵画館へ~ドストエフスキーも魅了された名画を堪能」の記事参照)。

音楽の守護聖人ということでこの絵には楽器が描かれている。だが、音楽の守護聖人なのに壊れた楽器が無造作に置かれているという何とも不思議な構図である。一人一人の顔やポーズ、服の描写はやはりラファエロらしさがある。無類のラファエロ好きのドストエフスキーにはやはりどんぴしゃな作品だったのだろう。

カタコンベから地上に戻ってきた。この野原の下がカタコンベなのだ。何も知らずにここを眺めたら何の変哲もない草地だ。だが歴史を知ってしまったらそうはいかない。このカタコンベだけでなく、ローマという街そのものが死と密接につながった都市なのだ。そしてキリスト教は「死と復活」を説いてきた。ローマやバチカンがなぜこれほどまでに人々を引き付けるのかという鍵はここにあるのかもしれない。

現代はたしかに死をタブー視し遠ざけようとする。死の場面が私たちの日常から切り離されている。しかしはたしてそれで本当にいいのだろうか。死があるから私たちの生もあるのである。死と生は一体だ。死を遠ざけることは私達の生すら遠ざけることになる。

私達は必ず死ぬ存在として生きている。そして無数の死を見送って最後は自分も見送られる生を生きている。死と共に生きるというあり方は人間の叡智ではないだろうか。死と身近にあるからこそ人はより深く生きて来られたのではないか。もちろん悲しみはある。苦悩もある。だがそれでも死を遠ざける世界に私は危惧の念を覚えずにはいられない。まさに現代人は死生観を失ってしまったのではないか。自らの個としての「生と死」しかない。死んだら終わり。無。後は野となれ山となれ。こうした考えを否定するつもりはない。しかしこうした考えの人しかいない世界になったらどうなるか、私は恐ろしくてたまらない。

「世の中の安定のために死生観を持てと?」

そういう批判もあるかもしれない。

だが私はそうした社会面だけでなく、個人の生においても死生観は重要なものだと思っている。「死んだら無だ」と思う人はそうした生を生きているのである。「どうせ死んだら無なんだし」という生き方をしているのである。それはものすごく「死」に影響を受けているとも言えまいか。

それに死んだら無だとしたら、そもそも私たちは何のために生きるのか。

実は私はこの旅の途中、猛烈な死の恐怖を感じた。特に危険な目に遭ったわけでもなんでもない。列車の中で見た広告ポスターを見た瞬間、それは起こってしまったのだ。

私は人形やぬいぐるみに弱い。異様に弱い。そのポスターは30くらいになろうかという男が暗い部屋の中で人間大のくまのぬいぐるみを抱えてひとり座っている写真だった。私はそれを見てなぜか猛烈な恐怖を感じてしまったのである。

虚無。もし自分が死んでしまったら何が残るのか。今やっていることもこれからやろうとしていることも結局全て無に帰すのだろうか。だとしたら今の私に何の意味があるのだろうか・・・

全てが無に帰す。全てが無意味。死ねば虚無が待っている・・・その恐ろしさを急に感じてしまったのである。

私は電車の中で凍り付いてしまった。これだけ準備して苦労してやって来たヨーロッパ。自分の集大成としてここにやって来たはずだった。覚悟を持ってやって来たはずだった。しかしそれが全くの無意味だとしたら。行き着く先が結局虚無であるなら・・・その恐怖に襲われてしまったのである。死ぬことそのものよりも虚無への恐れだった。

「死んだら無」ということはあまりに恐ろしいではないか?どうして世の人はそれに耐えていけるのか?死が目の前に迫ってもそれを言えるのだろうか?

私はそんなことを思ってしまったのである。

私はなぜ生きて、死なねばならないのか。「死んだら無」で片づけられるだろうか。残念ながら私にはできない。

究極的には人生には意味などないかもしれない。ただ生きてただ死ぬだけだ。

だが、それでもなお追い求め、それに救われて力強く最後まで生き切るということもあるのではないか。

私はそう思う。いや、そう思いたい。

話は大きくなってしまったがローマが美の殿堂だけではなく、「墓の街」「死と祈りのローマ」であるということに思いを馳せたカタコンベ見学であった。

続く

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主要参考文献
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』

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