フォロ・ロマーノとパラティーノの丘、見どころ満載の古代ローマの絶景を堪能!
【ローマ旅行記】(6)パラティーノの丘からの絶景は最高!古代ローマのロマンに浸る

コロッセオを見学した私はいよいよローマ帝国の中心部フォロ・ロマーノを訪れた。


2019年にローマを訪れた際は日程の都合上バチカンに専念せざるをえず、こちらを訪れることはできなかった。
そのことをかなり残念に思っていたので、今回は3年越しの待望のフォロ・ロマーノであった。

私はコロッセオ側の入り口から入場したので、まずはパラティーノの丘というフォロ・ロマーノを一望できる場所へ向かった。

あぁ・・・なんと素晴らしい・・・!話には聞いていたがこれほどとは!
天気も快晴。最高のコンディションだ。私は思う存分この景色を楽しんだ。まさに古代ローマのロマンの塊だ。
ただ、このフォロ・ロマーノの絶景であるが、つい150年程前まではそのほとんどが土に埋まったままだったそうである。

写真はフォロ・ロマーノにあった看板を写したものだが、たしかにかつてのフォロ・ロマーノはほとんど地中に埋まっていた状態だったのである。今の景色を知っていると想像もできないくらいだ。こんな素晴らしい遺跡がすっぽり埋まっていて誰にも見向きもされなかったというのは信じられない話だ。
このことについていつものように石鍋真澄氏の解説を聞いていくことにしよう。
フォロ・ロマーノはなぜ埋もれてしまったのか
ローマ帝国が滅亡してキリスト教の時代になると、フォロ・ロマーノにあった古代の建物のうち、いくつかはキリスト教の聖堂に改築された。そうした聖堂も、大部分は長い歴史の中で、あるいは近代の整備・発掘のおりに破壊されたが、一部は今日も残っている。
ロムルスの神殿を利用したサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ聖堂や、パラティーノの丘のふもとのサンタ・マリア・アンティークワ聖堂、そしてかの有名なローマの元老院(クーリア)などがそうだ。だが、それ以外の建物、とりわけ神殿などは荒れるにまかされ、すでに八世紀には自然崩壊が始まっていたといわれる。
それにレオ四世時代(八四七-五五)の大地震をはじめ、地震による倒壊もたびたび繰り返された。また、このフォロ・ロマーノはもともとカンピドーリオとパラティーノ、そしてクイリナーレという三つの丘に固まれた湿地であったのを、クロア力・マクシマ(大下水道)の整備によって利用できる土地に変えられたという、いわくつきの場所であった。
だから、長年の風雨やたびたび起こったテヴェレ河の洪水は、次第にフォロ・ロマーノを土砂で埋めていったのである(それとともに、周囲の丘との標高差は縮まっていった。現在ではカンピドーリオもパラティーノもたいして高いように見えないが、古代には「ローマの七つの丘」と呼ぶにふさわしい高さだったと思われる。
そしてこれに、私闘に明け暮れた中世の封建貴族の中にフォロ・ロマーノに陣取って、古代の建物を要塞に改築したり、その上に塔を建てたりする者が出るにおよんで、古代のモニュメントの破壊はますますひどくなった。
古い版画を見ると、セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門に塔が付けられていたり、ティトゥス帝の凱旋門などはすっかり城塞に組み込まれていたことが分かる。一九世紀にヴァラディエがこのティトゥス帝の凱旋門を修復した際には、一度すっかり解体しなければならないほどだったという。
かくして、聖堂の塔や封建貴族の城塞の塔が林立していたフォロ・ロマーノはカンポ・ヴァッチーノのほかに、カンポ・トッレキアーノ(塔の野)という名称でも呼ばれていたのである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
略奪や破壊、自然崩壊、地震、洪水、改築など様々な理由で古代ローマの遺跡は徐々に埋もれていった。
そして次の箇所でさらに驚きの事実を知ることになる。なんと、古代ローマ荒廃の最大の理由がバチカンによる大理石の調達にあったというのだ。
サン・ピエトロ大聖堂の大理石はフォロ・ロマーノからやって来た!?
このように、自然崩壊や地震、洪水、そして改築などが崩壊の原因だったと考えられる。しかしそれだけではなく、原因の最大のものは、何世紀にもわたって続けられた、フォロ・ロマーノからの石材の持ち出しであった。
今日、ローマの古い聖堂を訪れて使われている柱を何気なく見ると、太さも石材もまちまちで、そのうえイオニア式柱頭があるかと思えばコリント式もあるといった具合に、まったくふぞろいなものにしばしば出くわすことがある。いつのことだったか正確には思い出せないのだが、河向こうのサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂に入って、祭壇に近い柱に寄りかかり、薄暗い聖堂に午後の陽が差すのを見ていたとき私はそのふぞろいの列柱から強烈な印象をうけ、これがローマなのだ、とひどく感動したことがあった。
もちろん、それらの柱は古代のどこかの建物に使われていたものである。巨大な一本石であるオべリスクまで船で運んできた古代ローマ人とは違って、中世のローマの人びとに花崗岩や斑岩のような石材をエジプトから運べというのは無理な相談だったし、またその必要もなかった。
彼らがフォロ・ロマーノやその周囲にあった皇帝たちのフォロなどから、石材を調達したのは、当然すぎるくらい当然だったのである(サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂など、ローマの古い聖堂の床は、コスマーティという一族が中世後期に美しいモザイクで装飾したものだが、その材料もほとんどすべて古代の建物から調達されている)。
つまり、聖堂をはじめとするローマの多くの建物は、古代の建物の石材を組み立て直して造られた、いってみれば古代建築の再生品なのである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

「聖堂をはじめとするローマの多くの建物は、古代の建物の石材を組み立て直して造られた、いってみれば古代建築の再生品なのである。」
この言葉には驚いた。全盛期を誇ったローマ帝国は地中海世界の覇者で海上輸送も思いのままだった。だからこそ大量の大理石を獲得することができたのだが、帝国崩壊後のローマにはそんな力はもちろんない。
そうなると建築資材をどこから調達するのかという問題が生まれてくる。その解決策がフォロ・ロマーノからの転用ということになったのである。
そして次の箇所でさらに驚くべきことが語られる。
しかし中世までの石材の持ち出しは、まだそれほどひどいものではなかった。フォロ・ロマーノに歴史的な光が当てられるようになったのはルネッサンス時代になってからだが、皮肉なことに、フォロ・ロマーノのモニュメントがもっともひどい、ほとんど決定的といっていい破壊を受けたのも、このルネッサンス時代だった。
ルネッサンスの教皇たちが躍起になった「レスタウロ・ウルビス(ローマ再建)」を支えたのは、フォロ・ロマーノを初めとする古代のモニュメントの石材だったのである。
とりわけサン・ピエトロ大聖堂や巨大なファルネーゼ宮造営に心血を注いだパウルス三世は、フォロ・ロマーノに致命的な痛手を与えた。教皇はサン・ピエトロ大聖堂造営のために、ファッブリカ(工事監督局)に古代のモニュメントから石材を得る独占的な権利を与え、また資金を得るためにそれを売却することさえ許したのだ。
かくしてフォロ・ロマーノは徹底的に掘り返され、その結果、彫刻や使える石材は運び出され、またはんぱな大理石は焼いて石灰にして建築資材に利用された。こうした作業がいかに徹底していたかは、フォロ・ロマーノの建物の多くが基台まで失われていることからも想像できよう。
著名な考古学者ヒュルセンは、一五四〇年から五〇年にかけての一〇年間の破壊は、それ以前の二世紀間の破壊をうわまわるものだった、といっている。そしてそれ以降の石材の掘り出しは、いってみれば「落ち穂ひろい」のようなものであった。実際、一七世紀にはフォロ・ロマーノの破壊はやんだが、ようするに掘り尽されてしまったのである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

この美しく圧倒的な巨大さを誇るサン・ピエトロ大聖堂がフォロ・ロマーノの大理石からできていた!
これには私も驚いた!2019年にバチカンを訪れた時にはこのことを知らなかった。
このことを知ってから改めて見るサン・ピエトロ大聖堂はまた一つローマの歴史の奥深さを感じさせるものだった。古代ローマの貴重な遺跡に何てことをしてしまったのだという思いもよぎってしまうが、これも人間の歴史だ。
複雑怪奇こそ人間世界なり。ここで私はあらゆるものをひっくるめての人間の歴史だと改めて感じ入ったのであった。

パラティーノの丘からコロッセオ側を見下ろす。
こちらはまだ緑が残っているが、かつてはここも完全に埋まっていたのだ。建物が見えないほど地面は高く、そこに草木が生い茂っていた。そんな姿を想像しながら私は丘からの風景を眺めた。
フォロ・ロマーノを歩く

さあいよいよフォロ・ロマーノを散策する。
先程私が立っていたパラティーノの丘はこの写真の左上。ちょうど展望台になっているのが見えると思う。


う~む、やはり上から見下ろすとのはまた違う!目の前にあのローマの遺跡がどんと立ち並ぶ。2000年前の遺構がこれほど残っているのというのはやはり埋まっていたおかげもあるのだろう。剥き出しのままだったらもっと原型を失っていたはずだ。


私はこの「アントニヌス・ピウス帝とファウスティーナの神殿」の柱にまず打たれた。近くでこの柱を見上げるとその迫力に圧倒されてしまう。まさに「神殿」。人知を超えた圧倒的スケールを体現するその姿に息を呑んでしまった。

カンピドーリオを正面にフォロ・ロマーノの中心部を歩く。この辺りは神殿の柱なども多く残っており、かつての面影を感じることができる。2000年前、ここをローマ人が行き交っていたのだ。『テルマエ・ロマエ』の世界が現にここにあったのだ。
私はこの映画だけでなく、フィリップ・マティザック著『古代ローマの日常生活』や佐藤幸三著『図説 永遠の都 カエサルのローマ』など、フォロ・ロマーノの生活が書かれている本を読んできた。政治や文化の中心であるここフォロ・ロマーノではあるが、人々の生活の場としてのフォロ・ロマーノも現として存在していた。
雑多な人々がごった返していたであろうローマの日常を想像しながら歩いたフォロ・ロマーノは実に刺激的だった。

遺跡の端には無造作に置かれた巨大な石があった。遺跡感が漂う。こうした石をバチカンに持ち帰ってサン・ピエトロ大聖堂が作られたのだ。そして左の建物のように少しずつ建物ごと分解して綺麗に大理石を調達していったのだろう。
もったいない気もするが、「朽ちるままになって滅びるくらいなら美しく再活用しようではないか!」という心意気も感じないわけではない。何せ1500年代の話だ。遺跡の保全などという概念もあるはずもない。朽ちるまま崩れ去るのを黙って見ているのか、それとも古代ローマの叡智を再びローマに復活せんと意気込んだルネサンスの熱き想いを実行するのか。
そう考えると暗黒時代と呼ばれたヨーロッパの中世から復活しようとする巨大な意志も見えてくる。「かつて世界を席巻したローマ帝国を今ここに復活させる」とてつもなく壮大なプロジェクトではないか。
もちろん、これにはイスラーム勢力の拡大やルターによる宗教改革という事情も絡んでいる。ローマカトリックは今こそその強さを示さねばならなかったのだ。


先ほども紹介した写真だが両方の画像を比べてほしい。今は下の写真のように凱旋門の全貌を見ることができるが、かつては上の版画のようにその半分以上が埋まっていたのである。この凱旋門はカンピドーリオの丘のすぐそばにあって高い位置にあるにも関わらずこの高さまで埋まっていたのだ。そう考えるとフォロ・ロマーノがいかに地中深くまで埋まっていたのかがよくわかる。

私はこの旅に出る前、古代ローマの栄枯盛衰の物語にそれこそどっぷりはまってしまい、様々な本を読むことになった。
カエサル、キケロー、ブルータス、アウグストゥス、アントニウス、クレオパトラ、セネカ、カリギュラ、ネロ、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウス・・・歴史に名を残す錚々たる人物達がここに生きていたのだ。なんと浪漫溢れることだろう!
やはりローマに来たらフォロ・ロマーノは必須だ。ローマに来たならここに来なければならない。
2000年前の驚異の繁栄とその崩壊は歴史ファンでなくともそのスケールの大きさに圧倒されることだろう。
私にとっても素晴らしい体験となったフォロ・ロマーノであった。
続く
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主要参考文献
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』
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