初心者にもおすすめの三島由紀夫作品は?読む順番も考えてみた
三島由紀夫作品は何から読むべき?おすすめの順番を考えてみた

昭和を代表する作家、三島由紀夫。
私が彼の作品を読もうと思い立ったのはスリランカ内戦と日本の学生紛争の関係について学んでいたのがきっかけでした。これは2023年に私がスリランカに渡航する時のことでした。(詳しくは「キャンディのペラデニヤ大学で1971年のマルクス主義学生による武装蜂起について考える」の記事参照)
日本の思想や時代の流れを考える上でやはり三島由紀夫は外せません。三島由紀夫を知れば、もっと日本のことを知れるに違いないと思ったのです。
そしてそもそも、私は前々からいつか三島由紀夫作品を読んでみたいと思っていたのでありました。
と言いますのも、私は2022年に「親鸞とドストエフスキー」の研究のためローマを訪れていました。
そしてその時にお世話になったイタリア人のガイドさんに「三島由紀夫は素晴らしい。彼の文体は非常に美しい。ドストエフスキーが好きなあなたなら必ず気に入るでしょう」と薦められていたのです。
イタリア人から三島由紀夫を薦められるという不思議な体験ではありましたが、これをきっかけにドストエフスキー好きの私としてはぜひ読んでみたいと強く思ったのでありました。
ただ、その後も旅行記の執筆や仏教の勉強もあり、なかなか三島文学に取りかかるタイミングを見出せないまま時が過ぎてしまいましたが、ようやくその時が訪れました。スリランカ仏教の流れで期せず交差した三島由紀夫。この機を逃す手はありません。そこから三島作品を一気に読んでいくことになったのです。それが昨年2023年末から翌年にかけてのことでした。
まさにちょうど三島由紀夫生誕100年の年たる2025年を目の前にしたそのタイミングで三島作品と向き合えたのは不思議なご縁を感じます。
私自身、三島由紀夫の作品や生き様を通して数多くのことを考えさせられました。私の2024年のインドの旅はまさに三島に導かれたといっても過言ではありません。
私にとって三島との出会いは仏教を考える上でも大きな転換点となりました。三島由紀夫という大人物と出会えたことに私は心の底から感謝しています。
そして今回の記事ではそんな三島由紀夫作品を読むならば何から読んでいけばスムーズかを私なりに考えてみました。
それぞれのリンク先ではより詳しくその作品についてお話ししていますのでぜひそちらもご覧ください。
では、さっそく始めていきましょう。
三島作品を読む前に・・・
三島由紀夫は1925年に生まれ、1970年に衝撃の自決を果たした作家ですが、2024年を生きる私達にとっては遠い過去になりつつある存在です。21世紀以後に生まれた若い世代にはそれは特に顕著でしょう。
というわけでまずはいきなり三島由紀夫作品に突入する前に、彼の大まかな生涯の流れやその作品の特徴についての入門書を読むことをおすすめします。
その中でも私が一番おすすめしたいのが新潮社の『文豪ナビ 三島由紀夫』というガイドブックになります。

この本がとにかく優秀!コンパクトでありながら三島由紀夫の生涯やその特徴がわかりやすくまとめられています!
新潮社さんのこの試みは実にありがたいです。難しそうで敬遠しがちな文豪たちへの入り口として非常に優れています。文豪たちの名作の何が面白くて何がすごいのか、そしてどの作品から読むのがおすすめかまで懇切丁寧に語られます。小難しい文学論や哲学談義もないのもありがたいです。誰もが気軽に入門できるこの本に拍手喝采です。
そしてもう一冊。
きずな出版より2020年に発行された櫻井秀勲著『三島由紀夫は何を遺したか』もおすすめです。

三島由紀夫と親しい関係であった著者だからこそ知る姿をこの本で学ぶことができました。
これらの入門書でざっくり三島由紀夫や彼の作品の流れを学んだ後、私はいよいよ三島作品に取りかかりました。そして私はあっという間に三島沼にはまることになってしまったのです。
では、いよいよ三島作品の最初にふさわしい作品をこれより紹介します。それぞれのリンク先ではより詳しくその作品についてお話ししていきますので興味のある方はぜひそちらもご参照ください。
『金閣寺』(1956年)

私にとって、これが最初の三島作品。緊張の一瞬でした。
「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」
この言葉から始まる物語。
三島の独特の文体はどこから始まるのか。世界で称賛される美しさはどこにあるのか。
淡々と語られる冒頭の言葉を私は注意深く読み進めました。
すると、なんと、最初の2ページ目にして私の胸を打つ美しい描写が現れたのです。
舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮られて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂いが嗅がれ、海が時化ると、沢山の鷗がのがれてきて、そこらの田に下りた。
「しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた」
なんという表現でしょう!この時点で私は三島文学の強烈な文体を感じることとなりました。
そしてこれから先も三島スタイルはとどまることを知りません。
その中でも特に印象に残っているのが次の一節です。
たまたま、機関学校の制服は、脱ぎすてられて、白いぺンキ塗りの柵にかけられていた。ズボンも、白い下着のシャツも。……それらは花々の真近で、汗ばんだ若者の肌の匂いを放っていた。蜜蜂がまちがえて、この白くかがやいているシャツの花に羽根を休めた。金モールに飾られた制帽は、柵のひとつに、彼の頭にあったと同じように、正しく、目深に、かかっていた。彼は後輩たちに挑まれて、裏の土俵へ、角力をしにいったのである。
脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。五月のおびただしい花々が、この感じを強めた。わけても、庇を漆黒に反射させている制帽や、そのかたわらに掛けられた帯革と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。
よくぞまあこれだけの美しい言葉を並べられるなと私はもはや呆気に取られてしまいました。
特に「そのかたわらに掛けられた帯革と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。」という表現・・・!三島由紀夫にしかできない圧倒的な美文とはこういうことかと唸ったのでありました。
どうしてこんな文章が書けるのか。どうしてこんな表現が出てくるのか。過剰とすら言えるほど美しく飾られた文体!
文章を書きたいと思う人間にとってこれほど敗北感を感じる文章はないのではないかと思うほど圧倒的な美文です。
と同時に、これは自分の理想とする文章ではないし、現代において受け入れられる文章なのかと言われるとそれも怪しい。そんな印象も持ってしまいます。ですがそんな疑問も吹き飛ばす陶酔感が確かにあります。よくわかりませんがいつの間にか没入させられてしまう言葉の美しさが間違いなくあるのです。これは衝撃でした。
そしてストーリーにしても、主人公の告白という形で物語が進んでいくのでありますが、ま~粘っこい!どこまでも強烈な自意識が渦巻いています。自分は他者と違う。それもどうにもならないほど違うということにコンプレックスを持ちながらそれを誇り、自身のアイデンティティーともなっている。
もうどうにもならないくらいどうにもならない青年僧の内面がこの作品では語られます。
「金閣寺を焼かねばならぬ」
なぜ青年僧はそう思わねばならなかったのか。それを幼少期からその決行まで我々は見ていくことになります。
この作品を読んだ後の異様な持続力・・・。読み終わってそれで終わりではないのです。読後何日経ってもこの小説の異様な感化力が持続し、「あれはいったい何だったのか」と私を掴んでしまうのでした。
この文体。この熱量・・・!恐るべき作品です。これぞ三島由紀夫。他の作品を読むのが楽しみになる一冊です。
いや~ものすごい作品でした。
『憂国』(1961年)

この作品は2.26事件に際し親友を討たねばならなくなった中尉が「今夜腹を切る」と妻に告げ、そのまま命を絶つという衝撃的な物語です。ページ数にしてわずか30ページほどの短編ですが恐るべき濃密さです。
三島自身、この作品について次のように述べています。
『憂国』は、物語自体は単なるニ・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変りはない。
「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」
三島自身がこう述べるほどの作品が『憂国』です。私自身、最初の三島体験となった『金閣寺』の次にこの作品を読んだのですが、この『憂国』を読んで私はいよいよ三島の魔力に取り憑かれてしまったのでした。
『憂国』には濃厚な死の気配があります。
幸福な夫婦生活が目の前にあるにも関わらず、中尉は高潔な死を自ら選び取ります。そしてそれに迷いなく殉じる妻・・・。
もしこの小説が中尉一人の自刃であったならばこの作品はここまでの迫力を持っていなかったことでしょう。
と言いますのも、この二人の強い愛はまさに死の対置である生を強調し、その生がまた死を強調するのです。
また、三島自身が「ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福である」と述べるようにこの作品における三島の官能的な描写は飛び抜けています。しかも単に官能的に優れているのではなく、死という存在があるからこそ、生が燃えるような輝きを以て我々の前に現れてくることを示したのでした。
・・・それにしても中尉の自刃の描写はあまりに強烈です。そしてその壮絶な死の過程を妻が目の前で見届けるのです。このシーンは息を呑まずにはいられません。なぜそこまでして大義に奉ずることができるのか。命を懸けることができるのか。
この「死」を強く意識した「生」は『葉隠入門』でも三島が強く主張していたことであります。2020年代を生きる私たちは「死」を見ないように見ないように生きている時代と言えるかもしれません。その私たちより50年以上も前からそんな日本を憂いていたのが三島由紀夫だったのです。三島が現代においてさらに強い意味を持つであろうことをこの作品から私は感じたのでありました。
現代を生きる軟弱な私には想像を絶する世界です。いや、三島が生きた当時の人もきっとそこまでの覚悟を持てる人はほとんどいなかったのではないでしょうか。だからこそ三島の自決はあまりに衝撃的だったのでしょう。
三島はこの小説を発表した9年後の1970年に自刃しています。自らの身体に刀を突き刺し、さらにそこから腹部を割いてゆく・・・まさにこの小説通りの死に様、生き様を見せたのが三島由紀夫という男だったのでした。
「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」
三島のこの言葉が私の中に強烈に響いています。『憂国』はまさに三島の人生への覚悟が詰まった恐るべき作品です。
『仮面の告白』(1949年)

今作『仮面の告白』は三島由紀夫の初の長編となった作品です。しかもそうした「始まりの作品」でありながらこの小説はかなりどぎついです。後の三島を予感させる内面の苦悩、葛藤、嵐がすでにここに描かれています。
本作の主人公は同性愛的傾向を持ち、さらには若い男の流す血に性的興奮を持ってしまうという特異な少年です。ですが、彼はそのことに煩悶し、世間一般の幸福も望んでもいました。
しかし、やはり彼にはそのような平穏は許されていなかった・・・
彼は「社会普通の幸福である結婚」を求めるのです。彼は自分が女性に性的関心がないことを痛いほどわかっています。しかし性的欲情がなくとも心が通じ合えさえすればそれも変わるかもしれない、女性を愛することができるかもしれないと必死に努力します。・・・しかし、彼の一縷の望みはあっけなく潰えることとなります。その決定的瞬間を三島はあまりに強烈な文章で私達に突きつけます。
私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。―私には凡てがわかった。
期待と不安、あまりに悲痛な願いと絶望。この三秒は文学史上に残る名文なのではないでしょうか。
この「凡てがわかった」という一言の悲しみたるや・・・
『仮面の告白』は少年の悲痛な内面を吐露した作品です。「世間一般の求める幸福」が自分には得られないという絶望。どうあがこうと自分は決定的に社会とはずれている・・・求める幸福は決して得られることはない・・・。
この作品は三島由紀夫の自伝的な小説と呼ばれています。三島自身は妻を持ち子もいますので完全には小説そのままではありませんが、彼の抱えていた悩みやその生育過程が今作に大きな影響を与えたとされています。
『潮騒』(1954年)

この小説は三島由紀夫29歳の年の作品ですが、数ある三島作品の中でも特異なポジションにある作品です。
と言いますのも、三島作品といえば『金閣寺』や『仮面の告白』など、異常なほどの自意識に苦しむ主人公の恐るべき心理ドラマや、『憂国』のような、血が流れるバイオレンスな描写が有名です。
しかしこの『潮騒』は「平和で静穏な小説であり、この作家としては例外的に、犯罪も血の匂いも閉め出された世界なのである」と解説されるほど三島らしからぬ異質な作品です。
舞台は伊勢の海に浮かぶ歌島という孤島。本土から隔たれたこの美しい島で、二人の若者の恋が語られます。
ある意味三島由紀夫らしくはない作品ではありますが、読みやすさはトップクラスです。シンプルに、面白いです。読みやすくて面白い三島作品をまずは読みたいという方にもぜひおすすめな作品です。
『不道徳教育講座』(1959年)

次におすすめする作品はこちらの『不道徳教育講座』です。この作品は小説ではなく三島のエッセイ集になります。
この作品はタイトルこそ『不道徳教育講座』という刺激的でダークなイメージを醸し出していますが、中身は意外や意外、結論は不道徳どころではない王道へと着地します。この挑戦的なタイトルは三島由紀夫流のユーモアが込められた大いなる逆説なのでありました。
『金閣寺』や『憂国』を読んだ後にこのエッセイを読んだ私ですが、三島由紀夫ってこんなに面白い人なんだ!と新鮮な驚きを感じながらの読書となりました。
『金閣寺』や『憂国』とは全く異なる三島のリラックスした言葉を聞くことができます。私もくすっと笑ってしまうような箇所が何度もありました。三島の多面的な人間性を知る上でもこの本は興味深く刺激的です。
ただ、言われてみればたしかに三島由紀夫のユーモア、面白さは以前見た映像でも伝わってくるものがありました。
それが有名な東大全共闘との討論です。
私もこの映画を観たのですが、淡々と語り続ける三島由紀夫でありますがなんとも絶妙なトーンで機知に富んだユーモアを繰り出し、学生達も大うけするという場面が何度も出てきます。あんなピリピリした空間で当意即妙のユーモアを発揮できるのは並大抵のことではありません。『不道徳教育講座』を読んでいると、「なるほど、そりゃ東大でもあんなに面白い事が話せるわけだ」と納得することとなりました。
しかもこうしたユーモア溢れるエッセイの中に思わずドキッとしてしまうような教えが説かれるのです。この映画の中にもありましたが、敵対していたはずの全共闘の学生ですら三島由紀夫を思わず「先生」と呼んでしまうという珍事がありましたが、その気持ちもわかるなと思ってしまいました。単に上から教条的に教え込むのではなく、自然と教えを聞きたくなるような、慕いたくなるような、そんな雰囲気があるのが三島由紀夫という男なのだということを本書を通じて感じることになりました。
余談になりますが、本書の後半には三島由紀夫の筋肉論が掲載されています。
いうまでもなく肉体ははかないもので、第一、今の世の中では、体だけでは一文にもならない。金になるのは何らかの形の知能です。おまけに知能のほうは、年をとるにつれて累積されてゆくが、体のほうは、三十代から衰退の一路を辿りはじめる。そうかといって、金にもなるしモチもいい知能だけを後生大事にしている男は、私には何だか卑しくみえる。一回きりの人生なのですから、はかないものをもう少し大事にして、磨き立てたっていいではないか。筋肉はよく目に見え、その隆々たる形はいかにも力強いが、それが人間の存在の中で一等はかないものを象徴しているというところに、私は人間の美しさを見ます。

三島は30代に入ってから肉体改造に取り組み、ボディ・ビルに勤しんでいました。その三島の筋肉論を聴けるのも本書の醍醐味でもあります。それにしても、この三島の筋肉の美学には痺れますね!近年の筋肉ブームを考えると、この三島の筋肉論が一種のムーブメントに発展してもおかしくありません。
ここではこれ以上は紹介できませんが、この本では他にも「お見事!」としか言いようのない名エッセイが数多く収録されています。くすっと笑えるユーモアもあれば、思わず唸らざるをえない切れ味抜群の逆説も炸裂します。
重厚な小説とは一味違うユーモア溢れる三島の言葉を堪能できるおすすめの作品です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
『宴のあと』(1960年)

本作は批評家に酷評された長編『鏡子の家』の翌年に発表した三島の意欲作になります。
『宴のあと』は実在の政治家有田八郎の都知事選を題材に執筆されたのですが、なんとこの小説の発表後有田氏に三島は訴えられてしまいます。これが日本初のプライバシー裁判として世間を賑わすことになり、三島は『鏡子の家』の家に続き精神的なショックを受けることになりました。
たしかに世間を騒がせた問題作であったかもしれませんが徳岡孝夫、ドナルド・キーン共著『三島由紀夫を巡る旅』ではこの作品自体は非常に優れた作品であると絶賛されています。また、この作品は海外でも高く評価されているようです。
私も『鏡子の家』の直後にこの作品を読んだのですが、圧倒的に面白い!三島由紀夫には申し訳ないのですが、『鏡子の家』と比べるとその小説としての面白さが桁違いです。
何よりも女主人公かづのエネルギー!かづの圧倒的なエネルギーには読んでいるこちらもぐいぐい引っ張られてしまいます。猪突猛進で無茶苦茶なことをしているのですがなぜか応援せずにはいられません。夫の野口がぶっきらぼうで堅物で鈍重であるが故にかづの溢れんばかりの活力、野心、熱量がさらに引き立ちます。
物語の展開もスピーディーで、さらにそこに政治的な陰謀や駆け引き、人間ドラマが織り込まれるので目が離せません。やはり三島小説は面白い!
ぜひぜひおすすめしたい作品です。
『アポロの杯』

三島由紀夫は朝日新聞の特別通信員という形で1951年末から世界一周の旅に出かけました。この旅の旅行記が『アポロの杯』になります。
この旅については中央公論新社刊『太陽と鉄 私の遍歴時代』でも三島自身が語っているのですが、まさにこの旅において三島は太陽を発見し、ギリシアへの強い愛着を抱いたのでありました。このことについては以前紹介した『潮騒』の記事でもお話ししましたのでそちらの記事を参照して頂ければ幸いですが、若き三島にとってこの世界一周旅行が彼に与えた影響は非常に大きなものがありました。その中でも私が特に印象に残ったのが下の記事でお話ししたバチカンでの三島です。三島由紀夫がバチカンで夢中になったのは「ある意外な彫刻」でした。
また、本書『三島由紀夫紀行文集』には『アポロの杯』だけでなく、その後の三島の旅行記も収録されています。
ですので海外だけでなく日本国内の紀行文も読むことができます。私個人としては昭和35年の三島のカリフォルニア・ディズニーランド訪問について言及された「美にさからうもの」という紀行文がとても印象に残っています。三島はここでディズニーランドを高く評価しています。
こうした様々な三島の紀行文を読めるのが本書『三島由紀夫紀行文集』の魅力です。旅行記が好きな方にぜひおすすめしたい作品集です。
おわりに
以上、三島由紀夫作品の7作品をご紹介しました。
今回ご紹介した7作品は初心者にもおすすめの作品で、なおかつこの順番で読めばスムーズであろうという流れで紹介しました。
もちろん、この順番通りでなくとも全く問題ありませんが、ぜひ最初に読むのは『金閣寺』か『憂国』をおすすめしたいです。
そして当ブログで紹介してきた通り、三島由紀夫にはまだまだたくさんの名作があります。また、ここでは紹介できませんでしたが三島由紀夫をもっと味わうのに必読の参考書もいくつもあります。それらについては以下のまとめ記事「三島由紀夫おすすめ作品15選と解説書一覧」でお話ししていますので、興味のある方はぜひこちらもご参照頂けましたら幸いでございます。
そして私個人としてはぜひ今回の記事で紹介した作品を経て、そのラスボスとして三島由紀夫最晩年の大作『豊饒の海』へと進んでいかれることを強くおすすめしたいです。
三島はこの四部作を通して「生命とは」「人生とは」を追求していきます。私達の生きる「生」とは何なのか。私達にとって「死」とは何なのか。「善く生きる」とは何なのか。どう生きるべきなのか。こうしたことを壮大なスケールで描き出していくのが『豊饒の海』です。はっきり言いましょう。この作品の巨大さは想像を絶します。私はこの作品に文字通り圧倒されてしまいました。
私は以前当ブログで「名刺代わりの小説10選」の記事を書きましたがこの『豊饒の海』もここに新たに加わることでしょう。間違いなく私の人生に大きな衝撃を与えた作品です。
私のインド仏跡旅行にもこの三島のエキスは実に強い影響を与えています。三島が見たインドは一体何だったのかと考えながらの旅になりました。
『豊饒の海』は日本を超えて世界文学史上の大事件だと私は考えています。それほど巨大な作品でした。簡単には「おすすめです」とは言えませんが、恐るべき作品であることは間違いありません。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「初心者にもおすすめの三島由紀夫作品は?読む順番についても」でした。
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