映画 『ザッツ・エンタテインメント PART3』 : 「古き良き夢」の歴史の終わり
映画評:バド・フリージェン&マイケル・J・シェリダン監督『ザッツ・エンタテインメント PART3』(1994年/アメリカ映画)
アメリカの「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)社」が得意とした「ミュージカル映画」の歴史を辿る、「ザッツ・エンタテインメント」シリーズの掉尾を飾る第3作『ザッツ・エンタテインメントPART3』(以下『PART3』と記す)。

私は上で『「ミュージカル映画」の歴史を辿る』と表現したが、別に3作を通じて、古いところから新しいところへと順に紹介していくというものではない。
この3作は、基本的にはそれぞれ独立したものとして作られているから、いずれの作品も、MGMの「ミュージカル映画の歴史」全体を紹介しており、後の作品は、前の作品の切り口を受けて、少し違った角度からの紹介を試みているのである。
例えば、第1作目の『ザッツ・エンタテインメント』は、MGMミュージカル映画の最も重要な部分を紹介したものとなっており、それに続く『PART2』は、前作では紹介しきれなかった部分に光を当てるとともに、「エンタテインメント」のタイトルに準じて「ミュージカル映画以外の映画の名場面」の紹介もした。そしてこの『PART2』のウリは何と言っても、往年のミュージカル映画の「神様」である、フレッド・アステアとジーン・ケリーの二人が、コンビで案内役を務め、さらに、ファンには感涙ものの、ダンスを披露して見せたことである。
第1作目の大ヒットを受けて、その翌年に作られた『PART2』とは違い、『PART2』の公開から実に19年の歳月を経て、満を持して公開された本作『PART3』は、そのぶん手間暇のかかった作品となっている。
例えば、映画本編からカットされた、他では決して見ることのできない貴重な映像や映画制作の裏話など、スクリーンでは見ることのできなかった「ミュージカル映画の舞台裏」を、そしてその「陰」の部分までも紹介しているのである。
したがってこの3作は、当初から「三部作」を意識して作られたものではないのだが、結果としては、相補い合う立派な「三部作」を構成しており、ミュージカル映画ファンの必須アイテムとなっている。
本作『PART3』の内容については、「映画.com」の紹介文が、とてもよくまとまっているので、まずはそれを紹介しておこう。
『MGM映画創立70周年を記念して、「ザッツ・エンタテインメント」(74)、「ザッツ・エンタテインメント PART2」(76)に続き、MGMのミュージカル映画の名場面を集めたシネ・アンソロジー。監督・製作・脚本・編集は、前2作で編集を担当したバド・フリージェンとマイケル・J・シェリダンのコンビ。「雨に唄えば」のジーン・ケリーがオープニングとエンディングに登場するほか、「姉妹と水兵」のジューン・アリソン、「バンド・ワゴン」のシド・チャリシー、「キス・ミー・ケイト」のアン・ミラー、「世紀の女王」のエスター・ウィリアムスら、ゆかりのスターたちがホストを務め、カリフォルニア州カルヴァー・シティにある旧MGMスタジオに集まり、曲や共演者にまつわる思い出、当時の体験談、撮影の裏話などを語る。史上初のミュージカル映画「ホリウッド・レビュー」(29)から、カラー時代、ワイドスクリーン時代・・・と時代の流れを追いながら、「雨に唄えば」「イースター・パレード」「バンド・ワゴン」をはじめ、62曲のミュージカル・ナンバーを収録。また、今回は「雨に唄えば」「ショウ・ボート(1951)」「バンド・ワゴン」「ギャビン・イン・ザ・スカイ」など、本編では未使用のアウトテイク6曲を、製作現場の映像と共に初公開。本作の製作に当たり、3原色のテクニカラーのネガ及びサウンドトラック(ドルビー・ステレオ化)を、デジタル技術を駆使して全面的に修復、MGMシネ・ミュージカルの黄金時代を鮮やかに蘇らせている。』
(映画.com『ザッツ・エンタテインメント PART3』)
そんなわけで、本作そのものの内容については、上に付け加えなければならないことは何もない。
だから以降は、個人的な「感想」なり感慨を書かせてもらうことにしよう。
(1)まず、『PART2』の公開から19年間の「時を重み」を否応なく感じさせたのは、『PART2』では、ジーン・ケリーの相方として仲良く案内役を務めて、ファンを喜ばせてくれたフレッド・アステアが、この間に世を去っており、今回は、過去のフィルムの中でしか、その姿を見せてくれなかったという、さびしい事実である。
致し方のないことだとは言え、フィルムの中での勇姿が華やかであればあるほど、その不在は、否応のない喪失感を感じさせないわけにはいかなかった。

また、残されたジーン・ケリーの方も、すっかりおじいさんになっており、その声に張りはなく、往年の伊達男ぶりを知る者には、いささかつらい現実、一一いや、今やそれさえも、過去のものとなった現実だ。

DVDに付録している「映画評論家ロバート・オズボーンによるオープニング解説」や「Wikipedia」でも紹介されているとおりで、この作品がジーン・ケリーの、最後の映画出演作となっており、オズボーンによると、本作出演時、ジーン・ケリーは病を得た身体での出演であったという。
これもまた仕方がないことだとは言え、いつも笑みを絶やさず、それでいて超人的な身体能力により、力強くも華麗なダンスを見せてくれていたあのジーン・ケリーが、老いた身体に鞭打つようにして、縁の深いこのシリーズの第3作に出演してくれたというのは、かつて、どんなに危険な撮影でも、自ら演ずることを決して譲らなかったという彼らしさにおいて、これまた感動を抑えられぬ姿であった。
(2)これまでの2作では、あまり注目しなかったが、本作で注目したのは、女優レナ・ホーンである。
なぜ、それまでの2作では注目しなかったのかというと、彼女の場合は「歌」がメインであり、ほとんどダンスシーンは無かったからだと思う。
ただ、彼女の場合は、「顔の造作」的には明らかに「白人」なのに、なぜかいつも肌の色が「塗ったような褐色」であり、しかもその「しっかりした大ぶりの白い歯」が、妙に印象的ではあった。

それで私は、かつての映画での彼女の登場シーンを見ながら「この人は、褐色系人種の役をやることが多かったのだろう」と、勝手に解釈していたのだが、この『PART3』では、彼女が、白人と黒人のハーフである父と黒人の母の間に生まれたの、「黒人」であることを知った。
そしてそのために彼女は、力量があっても主役が与えられなかったという、そんな「差別」の現実が、本作では紹介されていた。
彼女はもともと、歌手としてブロードウェイで活躍していたところをハリウッドにスカウトされた人なので、歌が中心になるのは当然だったのだが、それにしても、ハリウッドのミュージカル映画は、もともとダンサーだった俳優だけに躍らせるのではなく、すべての俳優に訓練をつけて躍らせたのだから、普通であれば、彼女ももっと芝居やダンスで活躍しても良かった。ところが、それが「黒人」故に、制限されていたのである。
本作では、ある映画の中で、彼女がアメリカ式の「泡だったバスタブ」に胸まで浸かりながら、セクシーに歌うシーンが紹介されているのだが、このシーンも「黒人のこんなシーンを使うのは不道徳だ」と本編ではカットされてしまったという、曰く付きのものであった。
彼女は、その「白人」的な美貌のゆえに、早くからハリウッドに招かれながら、しかし、その肌の色のゆえに「黒人」だと分類されて、与えられるべき活躍の場を与えられなかった「早すぎた黒人ミュージカル女優」だったのである。

しかし、幸いなことに、彼女はハリウッドでの「人種差別」に屈することなく、「歌手」の仕事にシフトしてその後も活躍を続け、「公民権運動」でも活躍して、差別に負けない立派な人生を全うしたそうである。
『ブルックリンで生まれた。父エドウィンは彼女が3歳の時蒸発、母エドナはアフリカン・アメリカン・シアターの女優で、レナは母方の祖父母によって育てられた。1933年にコットン・クラブの舞台に立つ。その後ジャズ楽団との地方演奏旅行などで名前と顔が売れ、1938年にミュージカル映画『The Duke is Tops』で、美人ジャズ歌手としてデビュー。
その後MGMへ移り、1943年には舞台『Panama Hattie』で歌った曲『Stormy Weather』がヒットした。MGMでは数々の映画に出演するが、アフリカ系アメリカ人女性が主役を演じることが許されなかった時代背景から、限られた役しか与えられなかった。彼女の実父は白人とのハーフであったため、レナ自身は『アフリカ系アメリカ人にしては色が白い』と見なされ、役のために顔を黒くドーランで塗られることもあったという。実際、彼女は映画の宣伝文句にSepia(褐色)という言葉が付けられていたのだった。白人に従属しなくてはならないアフリカ系市民としての現状に彼女は憤りを感じ、カメラに笑顔を向けることは『人種差別をする白人社会へ迎合するようだ』として嫌うようになった。そのためについたニックネームが、アイス・ビューティー(Ice Beauty、氷のような美女)であった。1951年の映画『ショウ・ボート』では、主役のアフリカ系女性の役に内定していながら、アフリカ系女性と白人男性の恋愛映画を是認する時代でなかったために、役をエヴァ・ガードナーへ替えられてしまった。
レナは第二次世界大戦中の慰問活動の際、白人兵士がステージ前、その後ろに捕虜となったドイツ人兵士、有色人種兵士が最も後方という配置になっていることに憤って公演を拒否したことがあった。後には公民権運動に参加するほど政治意識が高く、エレノア・ルーズベルトとともに反リンチ法案可決のため運動した。1950年代に入ってからハリウッドを去り、ナイトクラブでの歌手活動に力を入れるようになる。ポール・ロブソンと共演するなど、その政治的姿勢が問題視されてブラックリストに載り、アメリカ国内での活動が困難となると、1947年に結婚した2度目の夫でユダヤ系アメリカ人のジャズ・アーティスト、レニー・ヘイトンとともにフランスへ渡って歌手活動を続けた。異人種間結婚として2人は世間からの圧力を受け続けるが、ヘイトンの1971年の死まで連れ添った。
その後、ブロードウェイ・ミュージカルで舞台に立つなどして、アメリカでの活動に徐々に復帰。1969年の映画『ガンファイターの最後』でクレア・クィンタナ役を、1978年のテレビ映画『ウィズ』でグリンダ役を演じて若いファンを獲得し、1994年のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの回顧録映画『ザッツ・エンターテインメントIII』で司会者の1人となった。1958年にはトニー賞の最優秀ミュージカル女優賞にノミネートされた。1970年代後半には、ブロードウェイでワン・ウーマン・ショーを成功させた。1981年、グラミー賞最優秀ポップス・パフォーマンス賞を獲得(アルバム『ライヴ・オン・ブロードウェイ:レディ・アンド・ハー・ミュージック』)。1989年、グラミー賞の功労賞を獲得。1995年、アルバム『リナ・ホーンの夜』でグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞。』
(Wikipedia「レナ・ホーン」)
(3)1作目の『ザッツ・エンタテインメント』では、フレッド・アステア、ジーン・ケリー、エスター・ウィリアムズと並んで「黄金期のMGMミュージカル映画」を代表する女優として紹介されていた、ジュディ・ガーランド。
本作では、さほど突っ込んだ内容ではなかったものの、彼女が「若くして大スターになったが故の苦悩」を抱えていたという事実に触れられている。
当初は、彼女の主演作として撮影が進められていた『アニーよ銃をとれ』は、これもハッキリとは語られていないものの、当時の彼女が心を病んでいて、心身の不調のために降板することになったという、裏事情が語られている。
そして、『アニーよ銃をとれ』では使用されることのなかった、ジュディ・ガーランド版の「撮影済みシーン」が、本作では紹介されているのである。

私は、1作目の『ザッツ・エンタテインメント』のレビューに「ジュディ・ガーランドには、あまり興味がない」として、ほとんど言及しなかった。
その「興味がない」理由は、彼女が「歌」中心のミュージカル女優だったことと、彼女の「顔の造作」が、私の好みではない、ということでもあった。
(ちなみに、本作を見ていて気づいたのだが、一世を風靡したイラストレーター金子國義の描く女性の顔は、ジュディ・ガーランドの影響が大きいのではないだろうか?)

だが、本作『PART3』での、上のような紹介を聞いて思い出したのは、たしか以前に、NHKのドキュメンタリー番組『映像の世紀バタフライエフェクト』の「ハリウッド 夢と狂気の映画の都」の回で、ジュディ・ガーランドが、マリリン・モンローなどと並んで、「大スターであるがゆえに心を病んだ人」として紹介されていたということであった。そして、その「病み」の原因のひとつは、当時は当たり前のものであった「薬物」への依存だった、ということ思い出したのである。
皆が期待するスターであり続けるために、彼女たちは無理に無理を重ね、重ねさせられて、薬に頼らざるを得ないような生活を、華やかなスクリーンの裏側で送っていたのである。
そして、そうした暗い印象が、多少なりとも残っていたからこそ、私のジュディ・ガーランドへの「印象」は、あまり芳しいものはなかったのではないかと、本作『PART3』を見ることで、そう考え直さされたのである。
(4)本作の最後は、案内役がひとめぐりしてジーン・ケリーに戻り、彼の次のような言葉で幕を下ろすことになる。
いい時代でした。あのころは世の中にも映画界にも夢があり、MGMは豪華でロマンチックな夢の世界を、創造し続けたのです。
もう二度と訪れない時代。
しかし、思い出とフィルムは、永久に残ります。
アービング・バーリンの名言を、ご存知でしょうか?
“歌は終わっても、メロディーはいつまでも残るのです”


この「歌は終わっても、メロディは残り続ける」という言葉をネット検索してみると、目につくのは、「村上春樹が『羊をめぐる冒険』の中に書いていた言葉」だと紹介しているものばかりなのだが、正確には、そうではなかったということだ。
アービング・バーリン(アーヴィング・バーリン)とは、フレッド・アステア主演のミュージカル映画『トップ・ハット』や『スイング・ホテル』、あるいは前述の『アニーよ銃をとれ』など、ミュージカル映画の楽曲を多く手がけた、名作曲家である。
だから、本作『ザッツ・エンタテインメント PART3』を締めくくる言葉として、ジーン・ケリーがこの言葉を引用したのも、ごく自然なことだったのだ。
この言葉は、村上春樹のオリジナルではなく、黄金期のミュージカル映画を愛したのであろう村上春樹が、アービング・バーリンのそれを「引用」した言葉だった。
つまり、「歌が終わって歌手のことが忘れ去られても、メロディと同様に、言葉は残り続けた」のである。

(2025年5月13日)
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