ヴィクター・フレミング監督 『オズの魔法使』 : 何かと引っかかるところの多い「名作」
映画評:ヴィクター・フレミング監督『オズの魔法使』(1939年/アメリカ映画)
正直なところ、あまり興味のない作品だったのだが、「ミュージカル映画の名作」と呼ばれる作品なので、一応見ておこうかということで見た作品である。

一一で、結果としては、やはり、「いまひとつ」であり「まずまず」といった感じであった。
先に、あらすじを「Wikipedia」から紹介しておこう。
『エムおばさん、ヘンリーおじさん、そして下働きのハンク・ヒッコリー・ジークとともにカンザスの農場に住む少女ドロシー・ゲイルは「虹の彼方のどこかに(Somewhere Over The Rainbow)」よりよい場所があると夢見ている。彼女はトルネードに襲われて気を失った後、愛犬のトトや自分の家と魔法の国オズへ運ばれてしまう。
そこで出会った北の良い魔女は「黄色い煉瓦の道をたどってエメラルド・シティに行き、オズの(※ エメラルド・シティにいる)魔法使いに会えば、カンザスへ戻してくれるだろう」とドロシーに助言してくれた。旅の途中で彼女は(知恵が欲しい)知恵がない案山子、(心が欲しい)心を持たないブリキ男、(勇気が欲しい)臆病なライオンと出会い、ドロシーや彼らの思いを胸に、彼らと絆を深めながら旅をする。家へ帰る方法は「家が一番良い」と願う事であった。』
(Wikipedia「オズの魔法使い」)
ちょっと誤解しやすいところなので、上の「ストーリー」紹介文にも補足しておいたのだが、「魔法の国オズ」にいる「魔法使い」は、1人だけではない。現に、「東・西・北」の魔女3人が登場している。
したがって「エメラルド・シティに住む男性らしき魔法使い」だけが、「オズの魔法使い」というわけではないのだ。
けれども、本作のタイトルである「オズの魔法使い」というのは、どうやら「エメラルド・シティに住む、男性魔法使い」のことを指しているようであり、もしかすると本作では、女性の魔法使いを「魔女」と呼び、男性の魔法使いを単に「魔法使い」と呼んでいるのかも知れない。本作に登場する男性の魔法使いは「エメラルド・シティの魔法使い」だけなのだ。
そして、そうした意味で、本作での「魔法使いと魔女」の使い分けは「マンとウーマン」的な、いささか不均衡な表現なのかも知れない。したがって今なら、「フェミニズム」的に問題のある言葉遣いだと言えよう。

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本作は、児童文学作品の映画化である。
私は原作小説を読んでいないが、Wikipediaで原作の方のストーリーを確認してみると、映画としての尺の問題はもとより、ミュージカルであるが故に通常の劇映画よりもセリフ数が限定されるためもあろう、物語がかなり刈り込まれている。
また、昔の児童文学には、ままあった「悪の手下を殺す」シーンの表現がゆるめられているのもわかる。
本作は、主人公の少女ドロシーが愛犬のトトともに「虹の彼方の魔法の国オズ」へ行く以前と、「オズ」から帰っていた後の「現実世界」は、赤みがかったモノクロで表現され、見せ場となる「魔法の国オズ」のパートは、当時はまだ目新しかったカラーで撮影されている。
つまり、本作は「カラー作品」であることが、ひとつの「売り」であった時代の作品なのだ。
だから、ドロシーが巨大竜巻きによって家ごと吹き飛ばされ、そのあとどこかに着地した家から表に出てみると、そこは「虹の彼方の不思議な国」であった、というシーンでは、モノクロの室内から玄関ドアを開くと、そこは色鮮やかなカラーの「不思議な国」が、ドアの向こうにひらけていた、という演出がなされている。
つまり、モノクロとカラーがひとつと画面の中で組み合わされており、モノクロに慣れた観客の目を、色鮮やかな不思議の国に誘いこむ、なかなかうまい演出になっているのだ。



だが、このワンシーン以外は、少なくとも私個人としては、なにかと不満や疑問の多い作品であったのだ。
まず「魔法の国オズ」の色彩設計があまり感心しない。
赤・水色・黄色・緑色といったカラフルな色使いは、いかにも本作がカラー作品であることを売りにしているというのはわかるのだが、どのシーンをとっても、今ひとつ色彩のバランスが悪いのだ。補色や明度などまで計算されたものにはなっておらず、ただに「絵本」的に、色彩的に「にぎやか」なだけなのである。
次に不満なのは、ヒロインのドロシーを演じているジュディ・ガーランドで、役柄的に、やはり歳をとり過ぎていて無理がある。
私はもともと、ジュディ・ガーランドの「濃い顔」が好みではないということもあるのだが、当時まだ16歳だったとは言え、ドロシーはその言動からすれば、どう考えても10歳未満の「子供」だ。

だから、すでに思春期を迎えて「女性」になりかけていたジュディ・ガーランドでは、いくら「幼づくり」をしても無理があり、その「わざとらしい幼女ぶり」に、見ていてときどき醒めてしまうことがあった。

作品鑑賞後、本稿を書くために「Wikipedia」を確認してみると、はたせるかな、当初ドロシー役を予定されていたのはは、当時8歳のシャーリー・テンプルであったそうだ。
だが、その調整がうまくいかず、すでに若手のミュージカル女優としてスターとなっていたジュディ・ガーランドに、ドロシー役におさまったようである。
本作で最も有名なのは、まだ現実世界の農場にいる段階で、ドロシーが「虹の彼方のより良き土地」に憧れて歌う「虹の彼方に」で、たしかにジュディ・ガーランドがそれは悪くはない。
さすがはミュージカルスターという感じではあるのだが、しかしながら、歌唱がメインで、ダンスシーンが見せ場とはならない本作としては、「虹の彼方に」以外に印象に残る曲が無いというのも、ミュージカル作品として弱いのではないだろうか。


本作は基本的に「子供の見た夢」のお話なので、つじつまの合わないところがあっても、それは「夢だから」ということにもなるのかもしれない。
例えば、物語の終盤、悪の親玉である「西の魔女」は、ドロシーたちを脅かそうと、魔法でカカシ(案山子)に火を付けるのだが、それを消そうとしてドロシーがカカシにかけた水が、またまた魔女にもかかってしまい、そのせいで魔女は、あえなく溶けて死んでしまう。
魔女の弱点は水だったのだ、ということなのだが、それにしてもこのあたり、完全な偶然だよりで物足りない。皆からあれだけ恐れられていた魔女が「それかよ」という感じなのだ。

一一だが、この唐突さも、「夢」だと思えば呑み込めないではないのだが、ここだけではなく、やはり全体に細部の詰めが甘いという印象が否めない。
そもそも、現実世界において、ドロシーが「虹の彼方のより良き土地」に憧れるのは、「今ここ」の故郷たる現実世界(生活)に不満があるからで、それはたぶん、カンザスの農場で一緒に暮らす、エムおばさん、ヘンリーおじさん、そして下働きのハンク・ヒッコリー・ジーク(この3人が、夢の中では、カカシ、ブリキ男、ライオンとして登場する)といった「大人」たちが、ドロシーを子供扱いにして、まともにかまってくれなかったからだ、ということになるのであろう。

だからこそ、「魔法の国オズ」へ行った後のドロシーは、家族のありがたさを痛感して「お家へ帰りたい」と願い続け、最後は『家へ帰る方法は「家が一番良い」と願う事であった。』(wiki)ということにもなるのだが、一一問題は、ドロシーが「オズ」へ逃避する直接のきっかけとは、トトが大地主のミス・ガルチに噛みついたために、ミス・ガルチがトトを殺処分にするための保安官発行の許可状を持って、ドロシーたちの家まで押しかけたので、トトを引き渡さざるを得なくなったからであった。
つまり、ドロシーが「魔法の国オズ」の夢から覚めて、「みんなと一緒にいられることが、いちばん幸せなんだわ」と思って、めでたしめでたしと物語が閉じても、トトの殺処分の問題は、まったく解決されておらず、すっかり忘れてられたままなのである。

たしかに、ミス・ガルチと「西の魔女」は二役で演じられており、「魔法の国オズ=夢」では「西の魔女」は退治されていなくなるのだが、ドロシーが戻ってきた「現実の世界(カンザス)」には、意地悪なミス・ガルチがそのまま存在しており、トトを引き渡さなければ、農場を追い出されるかも知れないのである。
だが、前述のとおりで、この「現実世界での大問題」は、完全に忘れられてしまっているのだ。
たしかに、ミュージカル映画というの一般に、「理屈=つじつま」よりも、その場の「楽しさ」を優先するところがあるし、そうしたいささか「大味な物語」は、所詮は、歌と踊りを盛りつけるための「大皿」にすぎないといったところもあるのだが、それにしても「えっ、何これ。これでいいの?」と引っかかってしまう部分が少なくない。
例えば、ドロシーたち一行は、それぞれの望みを叶えてもらうべく、オズの魔法使いが住むというエメラルド・シティへと向かうのだが、その邪魔をすべく「西の魔女」は、通る者を眠らせてしまう「赤い芥子の原」を作り、まんまとドロシーとライオンを眠らせて、旅を続行不能にしてしまう。
しかし、生き物ではないが故に眠らなかったカカシとブリキ男が天の助けを祈ったところ、善なる「北の魔女」が、時ならぬ雪を降らせて、ドロシーとライオンの目を覚まされる。一一と、そういう展開になるのだが、これも「寒さで目を覚まさせるということなのかな?」とは思っても、やはりその前「凍死しちゃうよ」と思えてしまうのだ。

つまり、ドロシーたちの目を覚まさせるのに、なぜ「雪を降らせる」などという胡乱な手段を選んだのか、これもよくわからず、説得力がないのである。
魔法を使うのだから、他にいくらでも良い手があったはずなのだ。

たしかに、本作が「子供向け」作品であるというのは明らかなのだが、それにしても、こうした詰めの甘さは、ちょっとひどいと思えてならない。
例えば、ドロシーの「やっぱりお家が一番」というのと並んで、本作の「教訓的なテーマ」だと考えられるのは、カカシ、ブリキ男、ライオンの3人に割り当てられた、それぞれに「知恵」「心」「勇気」が欲しいという望みに対して、最後に与えられる、
「君たちは、最初からそれを持っていたんだよ。君たちに必要だったのは、自分を信じる自信だったんだ」
という解答であろう。
これは、いかにも「子供向け」作品らしいメッセージである。
しかし、このメッセージを語り、3人に自信を与える役回りとなるのが、じつは、機械仕掛けのインチキでしかなかった「オズの魔法使い」を演じていた、普通の人間のおじさん(老人)なのだ。
彼は、気球に乗って、気ままな世界旅行を続けていたところ、事故で、この「魔法の国オズ」に飛ばされてしまい、以降「オズの魔法使い」を演じさせられていたと、そう説明する。



だが、この説明も中途半端なもので、誰が何のために、彼をそんな役回りをさせていたのかという説明もないまま、いきなり、
「私もそろそろこの世界には飽きてきたから、気球に乗って、君と同じ故郷であるカンザスに戻ろうと思っているんだ」
という話になり、ドロシーを喜ばせることにはなるのだが、結局は最後まで「オズの魔法使い」を演じさせられていた経緯というのが、よくわからないままなのだ。
そして、そんな彼が、カカシ、ブリキ男、ライオンの3人に「君たちに必要だったのは、自分を信じる自信だったんだ」という、もっともらしい高説を垂れ、3人それぞれに「知恵」「心」「勇気」の証しとなる勲章などのグッズを与えるのだが、「もともと君たちの中にある」と言っておきながら、物を与えてその証明とし、自信をもたせるというのも、どこか誤魔化しめいて、パッとしない。

で、これも本稿を書くために、原作小説の方の「Wikipedia」を確認していたところ、このおじさんは『彼は平凡な老人の詐欺師』であったとなっていた。
なるほど「口八丁で説得力」があったわけなのだが、一一では、カカシ、ブリキ男、ライオンの3人が、彼から保証された「自信」って、本当に信じていいの? それは本物の自信なの? ということにもなろう。
たしかに、この詐欺師のおじさんは、カカシ、ブリキ男、ライオン3人に「嘘」をついたわけではないだろう。
たしかに3人は、もとからそれなりに「知恵」や「心」や「勇気」を持っていたというのは確かなことであり、詐欺師のおじさんは、そんな3人に対して、「うまいことを言って」自信を持たせたのだから、それ自体は、悪いことではないのである。
だが、それでもグッズを与えて、それを「証し」にするというのは、あまり説得的ではないし、なにより「教育的ではない」のではないか。

なぜなら、人が自信を持つためには「目に見える成果」、つまり「勲章」だの「財産」だのが必要だと、そう言っているに等しいからである。
そうではなく、もう少し「目には見えない宝物」的なものとして、説得力を持たせることが、どうしても出来なかったのであろう?
原作の方は、元の現実の世界に戻る(夢から覚める)前に、まだしばらく冒険の旅が続くようなので、そのあたりで、なんらかの説得的な展開があるのかも知れない。
だが、本作「映画版」を見るかぎりにおいては、私は、どうにもスッキリしないという印象が否めないのだ。
本作を「ミュージカル映画の名作」だという人たちは、ジュディ・ガーランドの歌う「虹の彼方に」以外、どのあたりをして、本作を「名作」と呼ぶのだろうか?
私としては、そのあたりを、むしろ教えて欲しいほどなのである。

(2025年8月9日)
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