ロバート・スティーヴンソン監督 『メリー・ポピンズ』 : テクノロジーを超えた、魅力的な世界の創造
映画評:ロバート・スティーヴンソン監督『メリー・ポピンズ』(1964年/アメリカ映画)
作品賞を含むアカデミー賞15部門の候補となり、ジュリー・アンドリュースの主演女優賞を含む、編集賞、作曲賞、視覚効果賞、作中曲「チム・チム・チュリー」の歌曲賞の5部門を受賞した、押しも押されもせぬ「ミュージカル映画の不朽の名作」である。

ただし、本作には他のミュージカル映画にはない特色がある。
それは、ウォルト・ディズニー・プロダクションの制作ということからもわかるとおり、作中に「(2次元の)アニメーション」が重要な位置を占めるパートがある、という点である(ちなみに、アニメパートの監督は、ハミルトン・S・ラスクという人で、ディズニーのアニメーター出身のアニメ監督であろう)。
とは言え、実写と動画の合成というのは、かなり古くから試みられていたことであり、技術的には、決して新しいものではない。
ミュージカル映画の中で、実写の俳優とアニメのキャラクターが一緒に踊るというのは、1945年のミュージカル映画『錨を上げて 』で、すでにジーン・ケリーとアニメ『トムとジェリー』のネズミのジェリーが、本格的に共演を果たしているのだ。

ちなみに、日本でも何度もテレビ放映されてお馴染みの『トムとジェリー』は、前述の実写ミュージカル映画『錨を上げて』など多くの作品を制作して、ミュージカル映画の黄金時代を築いたMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)社の作品で、同社で『トムとジュリー』を作った、アニメーション制作会社の「ハンナ・バーベラ・プロダクション」は、映画のディズニーとは違い、多くのテレビアニメを制作しており、日本にも数多く輸入されている。
『スーパースリー』『宇宙怪人ゴースト』『怪獣王ダーガン』『大魔王シャザーン』『チキチキマシン猛レース』『スカイキッドブラック魔王』『ドラドラ子猫とチャカチャカ娘』など、私の子供時代の、豊かなアニメ体験の一角を確実に担った、懐かしい作品群を作ったのが、「ハンナ・バーべラ」だったのである。
閑話休題。本作『メリー・ポピンズ』は、翌年の1965年に同じジュリー・アンドリュースの主演で公開された、こちらもミュージカル映画として傑作の誉も高い『サウンド・オブ・ミュージック』(ロバート・ワイズ監督/20世紀フォックス)と同様、ミュージカル映画が、最後の輝きを放った時期の作品だと言えるだろう。
アカデミー賞を受賞した作中曲「チム・チム・チェリー」は、私の世代には、懐かしくてならない作品だし、本作の楽曲の多くには聞き覚えがあって、決して「チム・チム・チェリー」だけが、世界的に有名だというわけではない。
私は1962年生まれなので、本作『メリー・ポピンズ』は2歳時の作品だけれども、私が小学校に通う頃には、「チム・チム・チェリー」は、日本でもすでにポピュラーミュージックとして浸透していたから、小学校の掃除時間などでも、よく使われていた。だから、体に染み込んでいるのだ。
また、当時は今ほど著作権にうるさくなかったから、流行曲のレコードを使い、それをそのままBGMとして学校や商店街などで流すといったことが、当たり前に行われていた。
それが、曲の宣伝にもなってレコードの売り上げにもつながると考えられていたのか、むしろ歓迎されてすらいたのかもしれない。
いずれにしろ、「チム・チム・チェリー」は、「おおらかな時代」の香りをまとった、少し感傷的な名曲だったのである。

さて、そんなわけで私は今回、たぶん初めて『メリー・ポピンズ』を鑑賞した。
「たぶん」というのは、子供の頃にテレビで見ている可能性は十分にあるけれども、その記憶はない、ということである。
だが、十代も半ば以降は、絶対に見ていないとは言えるだろう。その頃には、「ディズニーなど、子供向けだ」という意識があったはずだからで、そのため意識的に見なかったはずなのだ。
その頃は無論、今でも、アニメは「日本の方が上だ」という意識が、私にはある。
無論、作画的には、劇場用長編中心のディズニー作品と、テレビアニメを中心として発展してきた日本のリミテッド・アニメーションでは、簡単にどちらが上だとは言えないのだが、童話を原作として作られていたディズニーと、それに限定することなく、青少年向けの多様な作品を原作としてアニメ化していた日本のテレビアニメを比較すれば、少なくとも、その「物語性」においては、日本のテレビアニメーションの方が「上だ」と言っても、決して間違いではないのである。
近年は、ディズニーの圧倒的な宣伝力によって、すっかり洗脳されている日本人も少なくないが、いまだにディズニーが、「子供向けの良心的な作品」という「ブランド」に固執しているというのは、間違いない事実だ。それをそのまま、鵜呑みにさせられている人が少なくないのである。
そこで問題なのは、その「良心的」というのが、本当に「良心」から出たものではなく、あくまでも「ブランドイメージ」であり、要は「営業戦略」的なものでしかない、という点なのだ。
その現実を無視して、建前を妄信しているような人が少なくないのである。
事実、ディズニーの「本性」が、必ずしも「良心的」なものではないからこそ、明らかに手塚治虫の『ジャングル大帝』のパクリである『ライオン・キング』を、オリジナルだと強弁して恥じず、莫大な金をかけて弁護士を雇い、力づくで裁判に勝ったりもするのである。金の力で、人の頬を張るのが、ディズニーの「現実」なのだ。

一一だが、ディズニーランドをはじめとした、ディズニーの「プロパガンダ」によって、ああしたものが、単純に「夢の世界」だの「清らかな童心を体現した世界」だのと思い込まされている日本人が少なくないというのは、「情けない」では済まされない、日本人の知的な「幼稚化・劣化」でしかない。
現実を見ることのできない「純粋さ」など、所詮は「痴呆」と大差ないものなのである。
で、なんで私がこんなに怒っているのかというと、私が見た『メリー・ポピンズ』のDVDに付録していた映像特典の内容が、徹底して「ウォルト・ディズニーの神格化」のためのものだったからである。

『メリー・ポピンズ』は、プロデューサーとしてのウォルト・ディズニー晩年の作品なのだが、本作に関わる、キャストやスタッフの「証言」が、軒並み「ウォルトは素晴らしい」「ウォルトは才能を見抜く天才だった」「ウォルトが大好きだった」と、ウォルト・ディズニー個人への礼讃に枠づけられたものばかりだったのだ。
だから、そのせいもあってだろう、この映像特典では、ロバート・スティーヴンソン監督への言及など、ほとんど無かったのである。
私は以前、新海誠監督の『すずめの戸締まり』を論じた際にも、こうした「ゴマすり」による「神格化」について、次のように言及している。
『例えば、私が「気持ち悪い」と思ったのは、本作(※ 『すずめの戸締り』)のパンフレットに載っている出演者のコメントが、ほぼ例外なく、「作品」についてではなく、まずは「新海監督を褒める」ところから始まっている点だ。
パンフを買った人は、ぜひ確認して欲しいのだが、インタビュー形式の主演二人の「応答」は別にして、残りの出演者7人のうち、5人のコメントでは(文章にして)1行目に「新海監督」という言葉が来ている。
もちろん、これは半分は偶然であろうが、半分は意識的なものだ。つまり「まず監督について語る(褒める)」というのを、俳優たちは習慣化させているのだろう、ということだ。
また、これは新海監督に限らない話で、映画出演者がコメントを求められて際の「パターン」であることに、注意深い人なら気づくはずだ。それほど「監督」というのは「偉い」し、気に入られて損はない、ということなのである。
そして、こうしたこと(ゴマすり)は「社会人」なら、当たり前の話であって、特に責めるつもりはないけれど、こういう「王様」的な立場に立たされたら、「勘違いするか、人間不信になるか」だろうなと、私などは思ってしまう。周囲にいる誰も、「等身大の本音」を語ってはくれなくなるからである。』
もちろん、この場合には、新海誠自身が周囲に「追従」を強いたのではなく、あくまでも「周囲のゴマすり」なのだろうが、ウォルト・ディズニーの場合は、そんな自然発生的なものではなく、あくまでも意識的な「営業戦略」の一端だというのは、疑い得ないものなのだ。
だからこそ、今のディズニー社は、自社ブランドのアニメーション作品では「子供向けの良心的な作品」に固執しても、実写作品として外注性の高い作品には、「大人向けの表現」(エロは無理でも、暴力表現)を徐々に容認しているし、そこでは「ディズニー」の名前は、なるべく前には出ないようにしている。
つまり、ディズニーとは、「表の顔」が綺麗であればあるほど、実際には「偽善的」な製作会社であらざるを得ないのだ。
ただし、だからと言って、私は個々のクリエイターを非難したいわけではない。
日本のアニメ業界において、ある種の独占企業と化した「KADOKAWA」の専横が許せないというのと同じで、その下で、安く使われ、さらに余計な苦労までさせられている、現場のクリエイターたちには、深く同情しているのである。
例えば、『メリー・ポピンズ』のDVDの特典映像でウォルト・ディズニーを絶賛している、キャストやスタッフにだって、同情してはいるのだ。
彼らだって、ウォルト・ディズニーが、かつての「赤狩り」に積極的に加担し、力づくで労働組合を弾圧し、問答無用でクリエイターたちの首を切ったりした事実くらいは知っているのである。
だから、ウォルト・ディズニーを絶賛している人の中の少なからぬ人が、「映画業界で生きていくためには、ディズニーの意向には逆らえない」と、心ならずも「お世辞」を口にしているのだ。
無論、そのお世辞を「内面化」して、本気でディズニーを褒めている、日本のディズニー信者と大差のないような人もいるとは言え、そんな人ばかりではないのである。
だから私は、『メリー・ポピンズ』という作品に対する、絶賛の言葉を惜しむつもりはない。
本作は実に素晴らしい作品なのだが、ただしその成果を、「素晴らしいスタッフを集めた、ウォルトの眼力と情熱は素晴らしい」などという、ピンハネめいた「まやかしの言葉」で総括して欲しくない、ということなのである。
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さて、本作『メリー・ポピンズ』は、P・L・トラバースの児童文学の、映画化作品である。

だが、ディズニーからの映画化希望の打診に対して、トラバースが徹底的にこれを拒絶したというのは有名な話であり、後にディズニーが映画化もしている(内容は、推して知るべし)。
トラバースが「ディズニーにアニメ化などさせたら、別物に作り変えられて、ろくなことにはならない」と、じつに20年間も抵抗したというのだから、それも生半可ではない話だが、それでも諦めなかったディズニーの粘りも半端ではない。
だが、そうした経緯もあって、本作は失敗できない作品として、特別に力のこもった作品となった。
20年かけて口説き落とされたとは言え、原作者のトラバースも、制作を許可したから、あとはお任せにしたというわけではなく、脚本の最終チェックを制作許可の条件にしていたため、スタッフには最後まで気を抜けない作品だったようだ。
だが、その甲斐もあって本作は、素晴らしい作品に仕上がっている。
ディズニーの路線を守りながらも、それ以上の作品に仕上がったのだ。
本作は、全編が「実写とアニメの合成」だというわけではない。
一部にそうした誤解をうけているが、「実写とアニメの合成」は、本作の中のいちエピソードに用いられているだけである。
そのエピソードとは、メリー・ポピンズが、ナニー(乳母・教育係)として面倒をみることになったバンクス家の姉弟と、メリー・ポピンズとは旧知の仲らしい謎の青年バートの4人が、バートと描いた絵の中に入っていくパートだけである。
もちろん、このパートだけとは言え、このパートこそディズニーのお家芸が見せられるのだから、当然、力が入っているし、それなりの長さもあって、見応えのあるものに仕上がっている。それ以上のものになっていると言ってもいいだろう。



原作者のトラバースが本作の映画化に抵抗した理由は、当時の事情を語る証言から、ある程度は推測が可能だ。
例えば、原作小説は、いわゆる普通のストーリー作品ではなく、短いエピソードを連ねた、言うなれば「串団子」式の連作短編作品(オムニバス)である。
個々の物語は「不思議な放浪のナニー、メリー・ポピンズ」が、行く先々の家庭で子供たちに見せる不思議を紹介したものだ。

メリー・ポピンズは、子供たちに惜しまれながらも、ワンシーズンだけで次の場所へと去っていく、というパターンの繰り返しからなる物語なので、原作の各短編で描かれる各家庭で、いくつも不思議エピソードがあるというわけではなさそうだ。
だが、そうしたオムニバス形式だと、長くて3時間にまとめなければならない映画向きではない。やはり「ある家庭でのエピソード」を紹介する、まとまった作品にした方が、親しみやすいというのは間違いない。
一一だとすると、原作のオムニバス形式を、長編形式に書き換えなければならず、それによって原作の独特の味が損なわれ、意図した親しみやすさが、凡庸化に堕する怖れは十分に想定されたのだ。
だが、最終的には、映画版『メリー・ポピンズ』は、長編形式に書き換えられ、原作中でも特に面白いと思えるいくつかのエピソードが、ひとつの家庭でのエピソードとして、まとめられている。
そしてこれが、原作の味を大きく損ねることなくやれたのは、たぶんバートというキャラクターを、エピソードの「つなぎ」役として膨らませたからではないかと、私は見た。
というのも、メリー・ポピンズというキャラクターは、この手の物語によくある「子供に優しく物分かりのよい女性」というパターンではなく、たしかにそういう側面もあるけれど、「厳しく躾けるところは躾けますよ」と自ら言うようなキャラクターで、いつもニコニコしているお姉さんではない。どちらかというと、ツンと澄ましている女性なのだ。


で、原作者のトラバースは、メリー・ポピンズの、この特異なキャラクターを、絶対に変えてはいけないと主張していたのである。
言い換えれば、黙ってディズニーに任せてしまうと、きっと、ニコニコした優しいお姉さんに変えられてしまうと、そう警戒していたということなのではないだろうか。
では、なぜトラバースは、メリー・ポピンズを「一見、すました女性」にしたのかと言えば、それはたぶん、メリー・ポピンズという魔法の使える女性の、「謎めいた存在感」を強調したかったからではないだろうか。
メリー・ポピンズは、当たり前に「いい人」なのではなく、「正体不明の謎の人」なのである。
天使なのか魔女なのか、その正体がわからないまま、いつの間にか子供たちに、不思議な夢と幸福を振り撒いた後に、あっさりと去ってしまう「不思議な人」。
だけど、子供たちは決して、メリー・ポピンズのことを忘れることはないだろう。
一一そんな、子供時代の忘れがたい思い出となる「不思議な存在」として、トラバースは、メリー・ポピンズを造形したかったのではないか。
また、だからこそ、ディズニー式の「わかりやすいヒロイン」には、してほしくなかったのではないだろうか。
実際、同年に同じジュリー・アンドリュースが主演で作られた『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアは、このわかりやすいパターンのヒロインで、マリア自身が子供っぽく、子供たちに優しく理解のある人物として描かれており、その意味では、メリー・ポピンズとは好対照だともいえるだろう。
で、私自身はこの二人のどちらが好きかと言えば、それはもう断然、メリー・ポピンズだということになる。
メリー・ポピンズの、変に子供に媚びないところが、かえって良いのだ。彼女には、「デレないツン」の魅力があるし、わざわざ子供に媚びなくても、結果として彼女は、子供たちに不思議な体験と幸福を残して去っていく、思い出深いキャラクターなのである。

だが、こういうキャラクターだと、たしかに原作者のトラバースが考えたとおり、オムニバス形式の方が内容に合致しており、下手な長編化は、原作の味を台無しにしかねない。
一一そこで、工夫されたのが、バートというキャラクターを、エピソードの「つなぎ」役として膨らませる、というやり方だったのだ。
原作にも、バートは登場するのだが、どうやら映画版のような、準主役と言って良いほどの役割は担っていないようだ。
というのも、映画版のバートは、原作のいくつかのエピソードに登場する別々の人物を、一人に「まとめた」人物なのである。
つまり、原作にある「いくつかのエピソード」へと、バートがバンクス家の姉弟を連れだし、そこにメリー・ポピンズが同行するから、結果として、バンクス家のエピソードの中に、メリー・ポピンズによる「不思議エピソード」がいくつも盛り込まれることになったのである。
だからそのおかげだろう、メリー・ポピンズ自身は、けっこう終始「澄ましたまま」なのだけれども、バートの方は、積極的に子供たちにからむ、子供っぽい青年として描かれている。
つまり、メリー・ポピンズは、バートの遊び心に巻き込まれるかたちで、バート自身は持たない不思議な力を発揮して、子供たちを喜ばせることになるのである。
本作だけを見ていると、メリー・ポピンズとバートが旧知の仲であるとはわかっても、それがどんな過去なのかは、描かれないからわからない。
ただ、バートが原作の同名人物を膨らませた人物だとわかれば、そのあたりの謎もおのずと大筋では解明できよう。
つまり、「旅から旅へと、人間関係を断ち切りながら、永遠の旅を続ける不思議な人」であるメリー・ポピンズに、「(たぶん、ただの)人間」であるバートという友達がいるというのは、本来ならば「不自然」なのだ。
メリー・ポピンズというキャラクターの特性からすれば、同じ人物と行き先で再開するというのは、考えにくい。
なぜなら、魔法の使えるメリー・ポピンズが、一箇所に止まらない理由とは、たぶん彼女が歳を取らないからなのだ。
だからこそ、いつまでも一緒にはいられないと、心を鬼にして、愛着ある子供たちに別れを告げるのである。
彼女が、子供たちと一定の距離を保とうとするのも、避けられない別れを前提としていたからなのだ。

したがって、メリー・ポピンズと何度も遭遇して旧知の仲らしい、しかし不思議な力は持たない「不思議な青年」バートとは、じつのところ、本作を長編化するための、妥協点として作られたキャラクターだったということなのではないだろうか。
また、だからこそバートは、ある意味で「そっけない」メリー・ポピンズに対して、とても愉快な「お兄さん」キャラとして、積極的にその魅力を振りまいていることにも気づけるはずだ。
要は、それくらい存在感のあるキャラクターでなければ、本来別々のエピソードをつなぐ役、本来であれば、メリー・ポピンズが担うべき重責を、担うことなどできなかったからではないだろうか。

そんなわけで、本作・映画版の『メリー・ポピンズ』においては、主役のメリー・ポピンズは、原作の味を損なわないために、あえて動きの少ない「象徴的な存在」として描き、そこをバートという「狂言回し」で補ったという、二頭立て方式だったということなのではなかったろうか。
そして、それがうまくいったからこそ、本作映画版『メリー・ポピンズ』は、原作を改変しながらも、原作の味を大きく損なうことなく、映画の持ち味をも生かした作品になったのではないかと、一一これが、私の「推理」なのである。
なお、以上は、読んではいない「原作小説(児童文学作品)」との関係で、映画版の作りについて考察したものだが、単純に「映画の、どこが面白かったか?」と言えば、やはり私も、実写と2次元アニメの合成で描いた「絵の中の世界」のパートが、特に印象的だった。
前述のとおり、実写の人物とアニメのキャラクターとの合成というのは昔からあった技術だし、それには止まらず、実写の人物が2次元アニメの世界に入っていくという作品も、多くはないが先例はあった。
だが、本作の当該シーンが素晴らしいのは、異質なものを合成して描いた「面白み」や「珍奇さ」にとどまらす、それが独特の世界にまで高められており、独自の「詩情」をたたえるまでに至っていたからであろう。
単に「目新しい」のではなく、この手法でしか描きえない世界を、その内容も含めて、見事に描き切っていたところに、このパートの魅力がある。
そしてこれは、主演の二人の魅力とアニメーションを制作したスタッフの並外れた力量の、「総合力」の結果であると思う。
本作『メリー・ポピンズ』と同様、実在の人物が、アニメの世界の中に入って活躍する作品『ロジャー・ラビット』(1988年)のメインスタッフだったアニメーターが、特典映像のコメントで「技法としては『ロジャー・ラビット』の方が進歩していたけれども、しかし、アニメーター個人の力量としては及び難いものが、『メリー・ポピンズ』のあのシーンにはあった」という趣旨のコメントをしていたが、たしかにそうした側面があっただろう。
技術的な進歩ではカバーしきれない、個人芸の魅力というのは、アニメに限らず、俳優の演技やその独自の存在感だって、同じことなのだと思う。
本作『メリー・ポピンズ』に主演したジュリー・アンドリュースだけではなく、バート役のディック・ヴァン・ダイクが、ブロードウェイの舞台経験があったとは言え、映画初出演だったというのは驚きだ。
まして、その長い腕脚で見事に踊ったダイクのダンスが、プロダンサーのそれではなく、初心者のものだったとは、まったくの驚きであった。

ダイクが本作の後、これもミュージカル映画の名作の一本となる『チキ・チキ・バン・バン』(1968年)に主演したというのは、当然の結果だと私は評価するが、その後の活躍が見られなかったのは、ミュージカル映画自体が衰退したせいだったのではないかと、そう思えるのが残念でならない。
アンドリュースもダイクも、もう10年早く生まれていたら、ミュージカル俳優としての活躍の機会がもっと与えられていたのか、一一あるいは逆に、活躍の機会が与えられなかったのか、そこまではなんとも言えないのだけれど、二人の主演するミュージカル映画が、その後に見られなくなったのは、遅れてきたミュージカル映画ファンとしては、どうにも残念でならない。

(2025年9月1日)
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