チャールズ・ヴィダー監督 『カバーガール』 : 深夜の街での 自分自身とのシンクロダンス
映画評:チャールズ・ヴィダー監督『カバーガール』(1944年/アメリカ映画)
リタ・ヘイワース、ジーン・ケリーの主演によるラブロマンス・ミュージカル映画である。
私の場合は、ジーン・ケリーのファンとして本作を見た。

リタ・ヘイワースについては名前しか知らなかったし、その名を知ったのも、アルゼンチンの小説家マヌエル・プイグの長編小説『リタ・ヘイワースの背信』のタイトルで、間接的に知ったのだった。
一方、この小説を知ったのは、翻訳書の新装版によってで、その刊行は1990年だから、およそその頃ということになる。
その頃といえばたぶん、日本における「ラテンアメリカ文学」ブームだったのではないかと思う。
「ラテンアメリカ文学」の世界的なブームというのは1960年代から70年代だそうだが、それから少し遅れて翻訳が少しづつなされ、1980年代になって、当時人気作家だった筒井康隆などが、ガブリエル・ガルシア=マルケス、マリオ・バルガス・リョサ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アレホ・カルペンティエール、フリオ・コルタサルなどによる「ラテンアメリカ文学」を、そしてそのなかでもマルケスに代表されるような「マジックリアリズム」の文学を称揚することで、翻訳書がまとめて書店に並び出したのではなかったか。
私もこの頃、筒井康隆のファンだったので、筒井に煽られて何冊かは「ラテンアメリカ文学」を読んでみた。だが、結果としては、あまり合わなかったはずだ。
ただ、マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』は、1989年に集英社文庫で読んでおり、当時の読書ノート見てみると、この作品に関してはかなり高く評価しているのがわかる。
同作を文庫本で読めたのは、もっぱら「ラテンアメリカ文学」ブームだったからだろうし、翌年の映画化も関係していたのかもしれない。
ともあれ、この『蜘蛛女のキス』が面白かったので、プイグの翻訳小説を何冊か買い込んだその中に『リタ・ヘイワースの背信』の新装版があったのだ。
したがって、私のとってのリタ・ヘイワースは、少なくともその当初は、実在の人物かどうかさえ定かではなかったはずである。
ともあれ、結局のところ『リタ・ヘイワースの背信』は積読の山に埋もれさせてしまい、読まないまま興味を失ってしまった。
そしてその後は、たまにリタ・ヘイワースの名を耳にすることもあったろうが、そもそも当人には興味がなかったし、なにしろ「昔の女優」なので、ずっと詳しくは知らないままであった。「昔の女優」であっても、グレース・ケリーやイングリッド・バーグマンのような「好みの顔」なら、ひと目見ただけで印象に残ったのかもしれないが、今回リタ・ヘイワースの顔をしげしげと見て思ったのは「美人ではあるが、特に好みというわけではない」という、我ながらつれないものであったのだ。

ちょっと皮肉なことなのかもしれないが、本作『カバーガール』では、ヘイワース演じるところの踊り子ラスティが、彼女がダンサーとして出演しているクラブの経営者で、舞台監督兼ダンサーでもある恋人のダニー(ジーン・ケリー)から、「君は、顔ではなく、その脚でスターになるんだ」と言われていたことに、なんだか妙に納得してしまった。
このダニーの言葉は、顔のアップが売り物の雑誌の表紙を飾る「カバーガール」として、にわか人気を取るのではなく、あくまでも歌って踊れるミュージカルダンサーとして、その実力でスターになってほしい、という意味であった。だから、こう言われたからといって、ラスティが気を悪くするようなことはなかったのだ。
一一だが、ヘイワースの顔があまり好みではなかった私としては、妙に納得させられるセリフではあったのである。
「リタ・ヘイワースって、1960年代のセックスシンボルとして人気があったそうだけど、当時のことだから、その美脚が評判だったんじゃないか?」などと思ってしまったのである。
ちなみに、私には脚フェチは無い。胸でもお尻でもなく、まず顔である。

最近、リタ・ヘイワースの名前を耳にしたのは、デイヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』(2001年)を今年になって、DVDで再鑑賞した際であった。
記憶喪失になった美女が、名前を問われ、とっさに壁に貼られていたリタ・ヘイワースのポスターを見て「リタよ」と名乗るシーンがあったのである。
で、私としては、この時に「そういえば、リタ・ヘイワースの出演作って見たことがないな。1作ぐらいは見ておかないといけないな」と、そう思っていたところに、私の好きなジーン・ケリーの出演作に、リタ・ヘイワースとの共演作があることを知ったので、本作『カバーガール』を見ることにしたのだ。

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で、どうであったかというと、本作自体は「85点」くらいで、意外に楽しめる作品であった。
内容的には、ロマンティックな王道の「ラブロマンス・ミュージカル」で、「ラブロマンス」の方はさほど興味はなかったのだが、「ラブコメディ」ではなかった点が、意外に私の好みに合っていたのかもしれない。
なにしろ私は、初めて「ミュージカル映画も悪くない」と思ったきっかけが、かの『ラ・ラ・ランド』(2016年)だったような男なので、意外にロマンチストなのかもしれない。一一いや、ホント。
本作の「あらすじ」については、私があちこち見てみた中では、映画評論家でライターの「なかざわひでゆき」のものが、一番よくまとまっていてわかりやすいので、例によっての手抜きで、なかざわによる「あらすじ」紹介の前半部分を、そのまま引用させていただた上で、後半を簡単に補足したい。
『ニューヨークの下町ブルックリン。才能ある踊り子のラスティ(リタ・ヘイワース)は、恋人ダニー(ジーン・ケリー)の経営する小さなナイトクラブのステージに立っている。ルックスよりも才能が大事、コツコツと努力を積み重ねれば成功できるというダニーの言葉を信じ、彼と芸人ジーニアス(フィル・シルバース)との3人で毎週末の金曜日に近くのオイスターバーへ行くことが唯一の楽しみ。そんなささやかで堅実な毎日を送っているラスティも、心の中では1日も早く成功して大舞台に立ちたいと願っていた。
そんなある日、踊り子仲間モーリーン(レスリー・ブルックス)が雑誌のカバーガール・コンテストに応募すると知ったラスティは、ダニーに内緒で自分もオーディションを受けることにする。モデルとして注目されれば、成功への近道になるからだ。担当の副編集長コーネリア(イヴ・アーデン)は、先に面接したモーリーンをあまり気に入らず、一緒にいたラスティに目をつけていた。それを知ったモーリーンは、わざとラスティに嘘のアドバイスをしてオーディションに落ちるよう仕向ける。結局、少なくとも容姿だけは美しいモーリーンが最有力候補となり、雑誌編集長クデー氏(オットー・クルーガー)は自らの目で確かめるべくブルックリン(※ のダニー)のナイトクラブへ足を運ぶ。
ところが、そこでクデー氏が目を奪われたのはモーリーンではなくラスティだった。というのも、若き日のクデー氏が熱愛したものの振られてしまった踊り子マリベル(リタ・ヘイワース2役)に彼女が生き写しだったからだ。連絡を受けてクデー氏のオフィスを訪れたラスティは、マリベルが自分の亡くなった祖母であると打ち明ける。これでますます彼女を気に入ったクデー氏は、ラスティをカバーガールとして大々的に売り出すことに決めるのだった。
いよいよラスティの写真が表紙を飾る雑誌「ヴァニティ」の最新号が発売される。彼女が自分のもとを離れてしまうのではないかと心配するダニー。彼のことを心の底から愛し、ブルックリンに愛着のあるラスティはナイトクラブを離れるつもりなど毛頭なかったが、しかしカバーガールとして念願だった名声を手に入れ、ブロードウェイの大物製作者ウィートン(リー・ボウマン)から引き抜きのオファーを受けた彼女は心揺れる。また、愛しているなら彼女の成功の邪魔をするなとクデー氏に忠告されたダニーも思い悩む。そこで彼は、あえて冷たい言葉で彼女を突き放して送り出そうとするのだが…?』
(ブログ「なかざわひでゆき の毎日が映画&音楽三昧」より)

以上は、物語の前半で、なかざわのブログではこの後も紹介されているので、詳しくはそちらを参照してほしい。
ともあれ、その後を簡単に説明すると一一。
ラスティはウィートンの大劇場でスターとなるのだが、やはりダニーやジーニアスとの日々が忘れられない。それでひさしぶりにダニーのクラブへ訪ねたところ、ダニーは彼女が去った後まもなく店を畳んで、ジーニアスとともに軍隊の慰問の旅に出たというのを知る。
(ちなみに、本作は、第二次世界大戦の終戦前年の作品だ)
立派な劇場で思う存分踊り、それが多くの観客を喜ばせることには満足してはいたものの、ダニーやかつての仲間との「小さいながらも楽しい我が家」のような場所を失い、喪失感に囚われていたラスティに、ウィートンが結婚を申し込む。ウィートンは悪い人ではなく、結婚相手としては申し分がない。迷った末にラスティは、この求婚を受けることにする。


一方、ひさしぶりにブルックリンの街に戻ってきたダニーとジーニアスは、ラスティとの3人での行きつけの店であったオイスターバーへ行き、いつも占い半分に食べていた牡蠣料理を食べる。牡蠣の中から真珠が出てきたら幸運が訪れる、そんな願掛けを3人で、ずっと続けてきたのだ。
しかし、その店の主人から、ラスティが今夜結婚すると聞かされる。その言葉にショックを受けるダニーの牡蠣料理の中から真珠が現れ、ダニーは運命の皮肉に悄然とするが、ジーニアスはダニーに黙ってその真珠を、ラスティに届ける。「どうするにしろ、この真珠は君が持っているべきだ」と。
真珠を渡されたラスティは、それを見て、やはり自分はダニーが好きであり、彼のことを忘れることなどできないと悟り、かつてクデーとの結婚式から、元の恋人の下へ帰って行った祖母と同じ選択をし、彼女もダニーの下へと帰っていくのである。

すこし省略をしているのでわかりにくいところもあろうが、ラスティの祖母とクデーの過去エピソードを描くことで、花嫁が結婚式から本当に好きな人の下へと帰っていくという型通りのハッピーエンドは、それほど気にならないものに仕上がっている。
つまり、ラブストーリーとしては手堅く「悪くない」ものに仕上がっているというのが、私の評価だ。
しかしながらやはり、私がこの映画を見たお目当てはジーン・ケリーであり、彼のダンスである。
もちろん「悩める二枚目」役の演技も悪くはない。ケリーは、ダンスを抜きにしても「二枚目役者」として通用する人だが、しかし、ひとたび踊れば、その輝きは特別なものとなる。


本作でも、ケリーが絡むダンスシーンは、5、6カ所あったと思うが、やはり印象に残ったのは、自分の幻影と踊る、二重露出による合成のダンスシーンだ。
設定としては、次のような状況だ。
ラスティの将来を思い、その決断を促すべくあえて冷たい言葉でラスティを送り出したダニーであったが、もちろん彼自身もつらい思いを抱いて、夜道を一人で帰っていた。すると、すでに閉店した商店の大きなショーウィンドーに映った自分の影が、彼に話しかけてきた。「それで良かったんだ。それが彼女のためだったんだから」。
ダニーは、その影から逃れようと足を早めて立ち去ろうとすると、影は隣の店のショーウィンドにまで追いかけてきて、最後はショーウィンドーから飛び出し、そしてダニーとシンクロダンスを踊る。一一と、そういう趣向である。

で、当然のことながら、シンクロダンスとは言っても、二人(?)のダンスは、完全に同じだというわけではない。掛け合い的になったり、目線を交わしたりする動きがあって、二人はあたかも、そこに相手が存在するかのように踊るためだ。
しかしまた、それ以外の部分は、ほぼ完璧にシンクロしているのだが、こちらも当然のことながら、別撮りしたものの合成なわけだから、そのシンクロぶりには、まったく驚かされる。
動作やタイミングはもとより、指の先まで行き届いて「再現」されたダンスは、並べて映し出されるものだけに並大抵のものではなかったはずだが、ジーン・ケリーは、それを見事にやり仰せていたのである。
ケリーはこの後の出演作で、ありとあらゆる「新機軸のダンス」を披露してみせる。
例えば、アニメ『トムとジェリー』のネズミのジェリーを踊ったり、ローラースケートでのダンスをだったりだ。
今となっては、後続に真似されているものも多いが、ケリーは、こうした工夫を絶やさなかった人だったのだ。
ともあれ、本作『カバーガール』における「深夜の街での、自分自身とのシンクロダンス」は、その「不思議感」もあって、とても素晴らしいものであった。
このダンスシーンを見られただけでも、本作を見た甲斐は十二分にあったと、そう満足しているのである。

(2025年6月21日)
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