デイヴィッド・リンチ監督 『マルホランド・ドライブ』 : 虚栄の都ハリウッド
映画評:デイヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』(2001年/アメリカ映画)
第54回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した作品。他にも全米映画批評家協会賞作品賞なども受賞し、受賞には至らなかったが、アカデミー賞の候補にもなっている。つまり、リンチの作品の中でも評判の良い部類の作品なのだが、私はこの作品を公開時に見て、あまり面白いとは思わなかった。半分くらいは寝てたのではないかとも思うのだが、ともあれあまり良い印象はなかったのである。
しかし、今年(2025年)1月にデイヴィッド・リンチがなくなったので、その際には、すでにDVDを買ってあったリンチについてのドキュメンタリー映画『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』(2016年、ジョン・グエンほか監督)を見、それだけでは、いかにも「ついで」みたいで申し訳ないなと、リンチ自身の作品を何か見ようと考えた。
そこで思い浮かんだのが、本作『マルホランド・ドライブ』と『インランド・エンパイア』(2006年)の2作であった。
なぜ、この2作が思い浮かんだのかというと、どっちも劇場では途中で寝てしまったせいか、いまいち「ちゃんと見ていない」という印象があったからだ。だから、この際にDVDで、ちゃんと見てみようと。
そこで、この2作のうちのどちらかならと、印象的には悪くなかった『インランド・エンパイア』を選び、先日見てみた。
ところがそこには、私が「あのシーンをもう一度見たい」と思っていたシーンが無かった。てっきり『インランド・エンパイア』のワンシーンだと思い込んでいたのだが、もしかすると『マルホランド・ドライブ』のワンシーンだったのか? まさか、そんなシーンなんて、最初からどこにも存在していなかったのか? 一一と、そんなわけで、なんともスッキリしない事態となってしまったので、もともとは再鑑賞する気のなかった『マルホランド・ドライブ』を、もう一度見てみることにしたのである。

で、結論的にはどうなのかというと、
(1)やはり、私の「好み」ではなかった。
(2)筋はおおよそ理解できた。
(3)問題のシーンは、本作『マルホランド・ドライブ』に存在していた。つまり、私の記憶違いだった。
本作は基本的に、全体の「あらすじ」を紹介できるような作品ではない。「Wikipedia」にも次のようにあるとおりだ。
『本作品には、直線的に進行するストーリーが存在しない。現実のシーン、回想のシーン、空想のシーン、夢のシーン、ストーリーに関わりのなさそうな第三者のシーンなどが説明のないまま鏤められているような印象を与えがちである。それが誰の「回想・空想・夢」なのか、果たして「現実のシーン」などあるのかという疑問を通常観客は抱きがちである。』
(Wikipedia「マルホランド・ドライブ」)
しかしながら、『インランド・エンパイア』に比べれば、かなり「まとも」に筋を追える部分もあり、少なくとも途中までは「記憶喪失もののサスペンススリラー」だと言える作りになっている。
問題は、完全に「別の世界」が交錯してくる後半なのだ。
上に書いた(1)の『私の「好み」ではなかった。』というのは、主にこの「まともな前半」のことなのだ。このあたりが「普通」すぎて少々退屈。
筋運びは普通なのに、例によって登場人物たちの会話は、微妙にすれ違っていてテンポが悪い。あのおかしなテンポは、「狂った世界」にこそ合っていて、「まともな世界」には合わない。
そんなわけで、(2)の『筋はおおよそ理解できた。』というのは、この意外に「まともな前半」に対して、いつもどおりに「狂った後半」を、どのように位置づけて理解するのか、位置づけられるのかに関わるわけだが、私は一応のところその位置づけが出来たと思ったので、『筋はおおよそ理解できた。』と書いたのである。
したがって、本稿で語るのは、そんな「私の理解による作品解釈」となる。
ちなみに(3)の『問題のシーンは、本作『マルホランド・ドライブ』に存在していた。つまり、私の記憶違いだった。』という点についても、ついでに書いておくと、そのシーンとは「魔術師の男が青い光に照らされた舞台で、吹き手のいないトランペットを鳴らす」というようなシーンで、これは『マルホランド・ドライブ』の中の、夢ともうつつともしれない「深夜のクラブ(?)」のシーンとして登場する。一一ただし、魔術師の男のアップなどは、私の記憶していたアングルとは少し違っていて、やはり記憶というのは当てにならないなと、改めて痛感させられた。



さて、本作「前半」の「ストーリー」は、次のようなものである。
『夜のマルホランド・ドライブ道路で自動車事故が起こる。事故現場から一人生き延びた黒髪の女性は、助けを求めにハリウッドまでたどり着く。女性が偶然潜り込んだ家は、有名な女優ルースの家だった。ルースの姪である女優志望のベティに見つかった黒髪の女性は、部屋に貼られていた女優リタ・ヘイワースのポスターを見て、反射的に「リタ」と名乗った。彼女はベティに自分が事故で記憶喪失になっていると打ち明ける。リタのバッグには大金と青い鍵。ベティはリタの失った記憶を取り戻すことに協力する。』
(Wikipedia「マルホランド・ドライブ」)
まず、冒頭の事故が、当たり前の交通事故ではない。深夜のマルホランド・ドライブを走る高級車(?)の運転席と助手席には男たちが乗っており、後部座席には、のちに「リタ」と名乗ることになる黒髪ロングの女性(ローラ・エレナ・ハリング)が一人で乗っている。
その車が、真っ暗なマルホランド・ドライブの途中で止まったので「リタ」は「どうして、こんなところで止めるの?」と戸惑って訊くと、男の片方が後部座席にリタに拳銃を突きつける。明らかに、何らかの害意があって、人目のないところで車を止めたとしか思えない。
ところがそこへ、前方から猛スピードで走ってきた若者たちの乗る車が突っ込んできて、両車両とも大破する。だが、幸いにも後部座席にいたリタは軽傷で済んだのか、よろよろと車から降りてくると、山手のマルホランド・ドライブの眼下に見えるハリウッドの街の方へ薮のなかを歩いて下りていく。そしてベティの叔母ルースが長期外出のため家を空けるのとすれ違いにその家に逃げ込み、気を失うように眠りこんでしまう。
その翌日、ベティ(ナオミ・ワッツ)が叔母の家を使わせてもらう約束で、田舎から出てきた。彼女は女優になる夢を抱いてハリウッドにやってきた、素直で明るい性格の女性である。


そんな彼女が、叔母の素敵な屋敷の中を見て回ると、シャワーを浴びている黒髪に女性をガラス越しに見つける。ベティはすっかり、その女性を叔母の知り合いだと思い込んだ。なぜなら、その家は施錠されており、ベティ自身、管理人の高齢女性(アン・ミラー)から鍵を渡されて家に入ったからである。


シャワーを浴びていたのは、「リタ」を名乗ることになる女性である。シャワールームの外からジュディに声をかけられ、名前を尋ねられた彼女は、自分の名前が思い出せない。それで、壁に掛けられていた映画ポスターに「リタ・ヘイワース」の名前があったので、思わず「リタよ」と名乗った。

その後、親切なジュディは、頭に軽傷を負っていた「リタ」の面倒を見てやるのだが、叔母からかかってきた電話で「リタなんて人は知らない。そんな人を泊めた覚えはない。警察に通報しなさい」と言われて、ジュディは初めて自分の勘違いに気づき、「リタ」の処遇を考えなければならなくなる。つまり、警察を呼んで家から追い出すべきなのか否かと悩んだのだ。
だが、ジュディはすでに、リタに好感を持っており、決して彼女が悪い人だとも思えない。また記憶を失い行き場のない彼女を、身体ひとつで放り出すことなどできないと考えて、結局は彼女をそのまま叔母の家に置いてやると同時に、彼女の記憶回復に協力してやろうと考える。そしてそうこうしている間に、二人は惹かれ合うようになって、体を重ねるようにさえなるのである。


さて、そんなジュディとリタとはまったく無関係なエピソードとして、ハリウッドの映画監督であるアダム(ジャスティン・セロー)をめぐる、ある「トラブル」が描かれる。

彼が撮ろうとしていた新作に関しての制作会議の席で、映画会社に影響力を持つイタリアンマフィアの男が、アダムが考えていた主演女優とは別の女優を「使え。これは提案ではなく、決定事項だ」と強制してきたのだ。

だが、プライドの高いアダムは、それを完全拒絶しただけではなく、そのマフィアの兄弟が映画会社に乗ってきた車を、ゴルフクラブでめった打ちにして、自家用車で逃げてしまった。
運転中のアダムに事務所から「話がしたいと言ってきている人がいるので、事務所に戻ってほしい」という電話が入る。だがアダムは、それも無視して自宅に帰ってしまう。
今度は、その思わぬ帰宅によって、妻が間男をベットに連れ込んでいた現場に鉢合わせしまい、切れたアダムは、妻と間男に手を出すが、逆にマッチョな間男からの反撃に遭って、あえなく車で自宅から退散することになる。
その後、アダムの家に、マフィアの手先と思われる大男がやってきて、アダムに会わせろと要求する。アダムの妻と間男は、その男を追い返そうとするが、逆に殺されてしまう。
一方、アダムの方は、知り合いの経営する安宿に泊めてもらっていたが、その友人から「知らない男から連絡があって、君に会わせろと言ってきた」と告げる。それだけではなく「君の銀行口座は使えなくなっている」とも教えられる。だが、いずれにしろ、居場所がバレたからにはここにはいられないと、アダムは現金で支払いを済ませてその安宿を後にし、事務所に電話を入れたところ、安宿の経営者の言ったとおり、彼の銀行口座は凍結されており、彼は破産したことになっていると知らされる。
そして、事務所には「カウボーイ」を名乗る男からの「会いに来い」との伝言が残されており、万策尽きたアダムは、やむなく「カウボーイ」に会いに行く。
アダムはそこで、そのカウボーイハットの男から「イキがっているのも結構だが、私はそういう奴が嫌いだ。君に残されているのは、その態度を改め、主演女優の変更を呑んで、これまでどおりに監督業を続けるか、このまま行き場所を失うかだ」と脅され、結局は、主演女優の交代を呑むことになるのである。


こうした「映画監督アダムをめぐるエピソード」のほかに、いくつかの別々の短いエピソードが描かれた後、話は「主筋」である「ジュディとリタの物語」に戻ってくる。
ジュディとリタの二人は、リタの記憶と過去を取り戻すべく探偵めいた行動に出るのだが、そこから徐々に世界が「奇妙(ストレンジ)」なものに捻くれてゆき、明らかに、前半のジュディとは違う、しかし顔貌はまったく同じ女性ダイアンと、同じく「リタ」と顔貌は同じでも性格は違っているようなカミーラたちの「世界」が、交錯するようになっていく。
そして、その「ダイアンとカミーラ」の世界では、映画監督のアダムや「カウボーイ」と名乗った男、あるいは「管理人のおばさん」などが、「ジュディとリタの世界」とは、違った「役まわり」で登場してくる。
そこでのジュディ、いやダイアンは「売れない女優」であり、「リタ」ではないカミーラは、人気映画監督のアダムの恋人となっていて、ダイアンはカミーラをアダムに奪われて強く嫉妬しているものの、売れない女優である自分にはどうにもできない。寂しい「独寝」が我慢ならず、自分の身体を自分で慰めながら、惨めな自分に涙を流す。

そんなところへカミーラから電話が入り「パーティがあるので、今から出てきて欲しい。あなたがいなければパーティなんて意味がない」というような誘いを受け、ダイアンはカミーラから回されてきた高級車に乗って、家を出る。
そしてその車が、マルホランド・ドライブのひと気のない暗がりでいきなり停車する。それを訝しんだダイアンが「どうして、こんなところで止めるの?」と戸惑って訊くが、その時、後部座席の外にカミーラがやってきて、彼女を誘うように森の中の「近道」を案内し、たどり着いたのは、アダム監督の豪邸で、そこではすでにパーティが始まっていた。


カミーラは、アダムにダイアンを紹介し、いちおうの挨拶を交わした二人だが、アダムは「カミーラのおかげで端役をもらっているだけの売れない女優」であるダイアンには興味がなく、すぐに彼女を無視して、カミーラとイチャイチャし始める。
そして、そのパーティーの席でも、ダイアンの向かい側に座ったアダムとカミーラは、まるでダイアンに見せつけるかの如くイチャイチャした挙句、アダムは「ここで皆さんに報告することがあります」と言って、カミーラとの婚約発表をする。
ダイアンは、それに異論を挟むこともできず、ただ嫉妬の涙を流すしかないのであった。



というわけで、ここで面白いのは、このパーティに「アダムの母」として登場する高齢女性が、「ジュディとリタの世界」では、ジュディの叔母の家の「管理人のおばさん」であったり、このパーティー参加者の中には「カウボーイ」と思しき人物などが、「ジュディとリタの世界」のそれとは別人、別の役柄として登場している点なのだ。
つまり、ベタに言うなら、この「ダイアンとカミーラの世界」は、「ジュディとリタの世界」の「パラレルワールド(並行世界)」のようなのだ。その二つの世界がトポロジカルに「捻くれて」繋がったおり、まるで「メビウスの輪」のような表裏をなしながら、しかし、それだけではなく、両者の間には表裏を貫くいくつもの「穴」が開いているので、両世界の関係は、単純かつ滑らかなものではないのである。
つまり、「Wikipedia」で言うところの、
『本作品には、直線的に進行するストーリーが存在しない。現実のシーン、回想のシーン、空想のシーン、夢のシーン、ストーリーに関わりのなさそうな第三者のシーンなどが説明のないまま鏤められているような印象を与えがちである。それが誰の「回想・空想・夢」なのか、果たして「現実のシーン」などあるのかという疑問を通常観客は抱きがちである。』
(Wikipedia「マルホランド・ドライブ」)
というのを、私は以上のように「論理的」に解釈した。だからこそ、(2)のとおり『筋はおおよそ理解できた。』としてのである。
この「理解」は、単に「前半」の筋という意味ではなく、「後半」も含めて「筋を理解できた」としたのだ。

しかしながら、デイヴィッド・リンチファンならご承知のとおり、リンチ作品を「完全に論理的に解釈する」というのは、たいがいは「間違い」である。そうした「図式的理解」は、リンチ作品には、いかにも不似合いなものなのだ。
たとえば、「Wikipedia」では、上に引用した部分に続けて、次のように書いている。
『観客は映画・および入手した情報全体から、それぞれ自分なりのストーリーを作り出し、その世界観を解釈することもできるし、或いは幻惑的とも言えるシーン展開に身を任せることも可能である。
こうした手法は、『イレイザーヘッド』 『ブルーベルベット』 『ツイン・ピークス』 『ロスト・ハイウェイ』などの、リンチ自身が脚本を書いている作品から連綿と受け継がれている。その脈絡の無さ、意味不明さを突きつけられた観客が無理矢理にストーリーと世界観を組み立てる事が、「人が無秩序な現実世界を前にして、無理矢理に“世界観”を組み立て、人生を“ストーリー”化する」さまを、映画というメディアに投影しているという解釈も出来る。しかしそれも数ある解釈の一例に過ぎない。』(前同)
つまり、私の「トポロジカルにつながる並行世界」という解釈も、所詮は「私個人の解釈」にすぎないということなのだが、しかし、私は、だからそれが「勝手な解釈」であり、それゆえに「つまらない」ものだ、とは思わない。むしろ、その「論理的な説得力」によって、優れた「解釈の一つ」だと考えている。そもそも「作品解釈」というものは、「唯一の正解しかない」というようなものではないのだ。
そして、この点については、私が見たDVDに付録していた「デイヴィッド・リンチへのインタビュー」で、リンチ自身も強調しているところである。
このインタビューでなされたのは「この作品のテーマは何ですか?」とか「難解な作品だと言われますが、どう理解すればよいのでしょうか?」といった、批評的に見て「とても野暮な質問」ばかりであり、これに対してリンチは、ハッキリと次のように語っている。
「私は、作品のテーマを説明したりすることには反対の人間です。作品鑑賞というのは、鑑賞者それぞれが個々に作品と向き合い、そこで感じたことが全てであって、誰かに正解を与えてもらうようなものではありません。自分が感じたことが全てであり、そこからその人なりの解釈をすれば、それはそれでひとつの正しい解釈なのです。私の作品は、しばしば難解だと言われますが、それは変に理屈をつけようとするからで、まずは素直にあるがままに作品を感じ取るべきなのです。音楽作品を『これはどういう意味なのだろう』などと考えて鑑賞したりはしないように、私の作品も、そのあるがままを、まずは受け止めてほしいし、それが正しい鑑賞の仕方だと思います」
と、大要このように語って、あのデイヴィッド・リンチらしくない、しかしいつもどおりの、あまりにも真っ当な「作品鑑賞論」を口にしていたのである。
そして私は、この「作品鑑賞論」に完全に同意する。私自身、これまでもそうしたスタンスで作品を鑑賞してきたし、本作『マルホランド・ドライブ』についても、そのようにして鑑賞した結果が、前述の、私なりの『マルホランド・ドライブ』解釈だったのだから、あれはあれで「正解だ」と確信しているのだ。
例えば、上の「インタビュー」の言葉に反するように、本作公開時には、リンチは次のような、本作を「理解するためのヒント」とやらを出していたというのが、「Wikipedia」で紹介されているる。
『デイヴィッド・リンチによる10個のヒント
以下は、リンチにより提示された、ストーリーを理解するためのヒントである。映画公開時は、オフィシャルサイトにも掲載されていた。
・映画の冒頭に、特に注意を払うように。少なくとも2つの手がかりが、クレジットの前に現れている。
・赤いランプに注目せよ。
・アダム・ケシャーがオーディションを行っている映画のタイトルは? そのタイトルは再度誰かが言及するか?
・事故はひどいものだった。その事故が起きた場所に注目せよ。
・誰が鍵をくれたのか? なぜ?
・バスローブ、灰皿、コーヒーカップに注目せよ。
・クラブ・シレンシオで、彼女たちが感じたこと、気づいたこと、下した結論は?
・カミーラは才能のみで成功を勝ち取ったのか?
・Winkiesの裏にいる男の周囲で起きていることに注目せよ。
・ルース叔母さんはどこにいる?』
私の「読解」は、この「10個のヒント」を、すべて「無視」したところに成立しているものである。
だから、「作者」であるデイヴィッド・リンチの「意図」からすれば、私の「解釈」は「間違っている」蓋然性が、極めて高いということになるだろう。
だが、そんなものは「糞食らえ」なのだ。
なぜなら、作品解釈においては「作者の意図」など「無価値」だからだ。
そして、そうした態度を「インタビューでのリンチ」も支持しており、批評的に言えば「ヒントを出したリンチ」は「愚かなリンチ」であり、「インタビューのリンチ」は「賢明なリンチ」だということになるのである。
一一しかしながら、私が本作『マルホランド・ドライブ』を、前述のとおり「トポロジカルな平行世界」として理解するにあたっては、じつは別の理由(情報)の存在もあった。それは、
・オープニングロールに、『ツイン・ピークス』の共同脚本家である、マーク・フロストの名前があったこと。
・インタビューでリンチが「この作品は、もともとはテレビシリーズとして撮っていたものの企画がポシャって、追加撮影をした上で映画にまとめたものだ。そのため、どうまとめるかでずいぶん悩んだが、あるとき素晴らしいアイデアが浮かんで、それですべて解決したんだ」というようなことを語っていた。
という2点があったからだ。
後者については「Wikipedia」にも、次のような記述がある。
『本来は、アメリカのテレビ局・ABCのテレビシリーズを想定し、リンチが脚本を書き、パイロット版も作成されたが、最終的にABC側に却下されお蔵入りの危機に瀕した。その後、フランスの配給会社Canal Plusが出資し、映画化が決定された。』
(Wikipedia「マルホランド・ドライブ」)
つまり、この「Wikipedia」の説明では、テレビドラマ用のパイロット版『マルホランド・ドライブ』の脚本は、まるでリンチが一人で書いたようになっているが、しかし、実際には、『ツイン・ピークス』と同様に、その段階では、マーク・フロストが関わっていて「アイデア出し」などをしていたのではないだろうか。
だからこそ、本作映画版『マルホランド・ドライブ』の「前半」は、割合まともな「記憶喪失ものサスペンススリラー」になっていたのではないか。つまり、そのあたりは、マーク・フロストのアイデアが色濃く残った部分だったのではないだろうか。『ツイン・ピークス』の(ファーストシーズンの)前半のように。

ところが、このテレビドラマ版の企画がポシャったために、テレビ版として撮影した前半部分を活かしつつ、映画版にすることになり、その段階でマーク・フロストは降りて、リンチが一人で映画にまとめることになった。
本来ならば、それなりに話数をかけて決着させるはずだった物語を、残りの1時間で決着をつけなければならなくなり、リンチが悩んだ末に思いついたのが、前半の「ジュディとリタの世界」こそが「虚構」であり、「ダイアンとカミーラの世界」こそが「現実(リアル)」だったという、どんでん返しである。
では、どうして「ジュディとリタの世界」こそが「虚構」であり、「ダイアンとカミーラの世界」こそが「現実(リアル)」だったと言えるのか?
ミステリータッチの「ジュディとリタの世界」におけるアダムの災難(横槍による、否応なしの主演女優交代劇)からもわかるとおり、たぶんリンチは「ハリウッドの現実」に、うんざりしていたのである。「作家性」を無視して、金儲けばかりを考え、出資者の顔色ばかり窺わなければならないハリウッドの現実を、やや誇張した形だとはいえ、批判的に描こうとしたのではないか。
つまり、アダムが、いったんは反逆し、しかし屈服させられたというその悔しさは、リンチ自身の経験したものであり、その「怒り」を、ひさしぶりの「テレビシリーズ」でぶつけようとしたのではないだろうか。
つまり、本作映画版前半の「ジュディとリタの世界」におけるハリウッドは「夢見られながら、現実はそんなものじゃないハリウッド」であり、「ダイアンとカミーラの世界」の世界におけるハリウッドは「うまく立ち回った者が勝者になる(リアルな)ハリウッド」であり、そこでは「ハリウッドへの夢」は、踏み躙られてしまうのだと、そんなことを描いたのが『マルホランド・ドライブ』という作品だったのではないだろうか。
したがって、「ジュディとリタの世界」と「ダイアンとカミーラの世界」は、「ハリウッドというものの虚像と実像」という線にそって、捩れながら繋がっていた「ひとつの世界」だということであり、だからこそ、リンチはこうしたアイデアを「天啓」のように感じて、喜んだのではないだろうか。
前記の「インタビュー」において、「この作品は、アカデミー賞の有力候補になるだろうと言われていますが、どうお考えですか?」と問われ、リンチは「いや、この作品が選ばれることはないでしょう。私の作品は、アカデミー賞が選ぶようなタイプの作品ではなく、最近はかなり褒めてもらえるようにもなりましたが、やはり本作はアカデミー賞向きの作品ではないと思います」と、そんな趣旨の返事をしていた。
しかし、ここでのリンチの本音は「この作品が、ハリウッドの虚栄を批判したものだということくらいは、さすがに見れば明らかなんだから、アカデミー賞に選ばれることはないよ」ということだったのではないだろうか。そして、事実、そうなったのである。
本作も、半分はフランス資本が入った作品であり、次の『インランド・エンパイア』にしても、すでに「ハリウッド映画」とは言い難いものになっている。
つまり、リンチは、本作『マルホランド・ドライブ』で実質的にハリウッドと決別したのであり、本作が『ハリウッドを舞台にした1950年の映画『サンセット大通り』へのオマージュである。』(Wiki)というのも、本作が「ハリウッド批判」の作品だということの裏付けになろう。

なぜなら、『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)という作品は、「ハリウッドの陰の部分を描いた作品」だったからである。

(2025年4月18日)
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