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デイヴィッド・リンチ監督 『インランド・エンパイア』 : こちら側の世界

映画評:デイヴィッド・リンチ監督『インランド・エンパイア』2006年/アメリカ・ポーランド合作)

今年(2025年)1月に亡くなったデイヴィッド・リンチの、最後の劇場用長編作品。3時間に及ぶ大作だ。

リンチが亡くなった際に、追悼というほどのことでもないのだが、買ったまま見ていなかった、リンチについてのドキュメンタリー映画『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』(2016年、ジョン・グエンほか監督)のDVDを見た。

だが、やはりそれは、あくまでも「ついで」みたいなもので申し訳なかったから、リンチのことをふり返る意味で、劇場用作品を見たいと思った。それで選んだのが本作『インランド・エンパイア』である。

リンチの劇場用長編映画は、次の10作である。

1976年『イレイザーヘッド』
1980年『エレファント・マン』
1984年『デューン/砂の惑星』
1986年『ブルーベルベット』
1990年『ワイルド・アット・ハート』
1992年『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』
1997年『ロスト・ハイウェイ』
1999年『ストレイト・ストーリー』
2001年『マルホランド・ドライブ』
2006年『インランド・エンパイア』

私はテレビドラマの『ツイン・ピークス』でデイヴィッド・リンチのファンになったので、1992年『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』以降は、すべて公開時に劇場で見ている。
じつはそれ以前に、『デューン/砂の惑星』も劇場で見ているのだが、この時はリンチ作品としてではなく、有名な原作の映画化作品として見たのだ。

だが、『ツイン・ピークス』に熱狂し、「あの面白さをもう一度」と思って見に行った『ローラ・パーマー最期の7日間』以降の作品で、私を完全に満足させてくれる作品は、結局、ひとつも無かった。それぞれに、物足りない部分や、不満な部分があって、「これじゃない」という気持ちが残ったのである。
しかし、それでもその中では、『ロスト・ハイウェイ』が比較的面白かったので、これはのちにDVDを買って再鑑賞したのだが、二度目ということであろうか、劇場で見た時ほど面白いとは思わなかった。

そんなわけで、今回あらためて見るとしたら、その内容をほとんど覚えていない後の2作『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』ということになった。
世評的には『マルホランド・ドライブ』の方が上なのだが、しかし私が『インランド・エンパイア』を選んだ理由は、次の2点に尽きる。

・特に印象に残るシーンが1箇所あって、少なくともそこだけは、もう一度見たいと思った。
・仕事帰りに見たせいで、劇場ではけっこう寝てしまったので、ちゃんと見てみたいと思った。

『インランド・エンパイア』とは違い、『マルホランド・ドライブ』の方は、ひととおり見た上で「今ひとつ物足りなかった」のである。

○ ○ ○

本作『インランド・エンパイア』「あらすじ」は、次のとおり。

『ハリウッドに住む女優ニッキー・グレイスローラ・ダーン)は、『暗い明日の空の上で』という映画の主役に抜擢される。監督(ジェレミー・アイアンズ)、そしてもう一人の主役デヴォン・バークジャスティン・セロウ)と共に製作に意気込むグレイス。

しかしこの映画はいわくつきのポーランド民話を元にした映画『47』のリメイクで、呪われているらしいことが明らかになる。『47』は映画化の際に、主役の2人が謎の死を遂げ製作が中止に追い込まれていたのだ。それでも映画の撮影は進められたが、やがてグレイスの周りで不可解な事が起き出し、現実と映画の世界が交錯しはじめる。』

(Wikipedia『インランド・エンパイア』

(台本の読み合わせをするニッキーとデヴォン)
(誰もいないはずのセットの方に人影が)
(映画の中の二人)
(撮影後の二人)

「いわくつきのシナリオ」だとも知らされずに撮影に入った主役のニッキーとデヴォンは、撮影が始まってから、この事実を監督から聞かされ当惑する。だが、もう引き返すわけにもいかないので、撮影は続けられる。

この『47』の「リメイク」作品である『暗い明日の空の上で』は、簡単にいうと「不倫サスペンス映画」で、ニッキーが演ずる人妻スーザンが、デヴォン演ずるところの妻子持ちの男性ビリーと不倫関係になり、それを夫に知られてしまい一一というような内容の作品だ。

その後、この不吉なシナリオをなぞるように、ニッキーとデヴォンが肉体関係を持つようになるのだが、映画の中の二人の描写と、俳優である現実の二人の描写が交錯して描かれるため、虚構が現実を侵食していくような展開となる。

一一しかし、ここまでなら「メタフィクション形式のホラー映画」では、わりとよくあるパターンでもあろう。
しかしながら、そこはデイヴィッド・リンチ。そんなにわかりやすい作品に、おとなしく収まってはいないのだ。

そもそも、この映画は、女優のニッキーが「主役」指名を受けるという本筋の始まり以前に、いくつかの暗示的なシーンが描かれる。

(1)ホテルの防犯(監視)カメラに写っているかのようなアングルのモノクロ映像で、顔に「ぼかし」の入った男女が密会をしているシーン。

(2)ニッキーとは別の女性が、暗い部屋の中で独り、涙を流しながらテレビを見ているシーン。テレビの中身は、リンチ的に意味不明。

(3)まだ「主役抜擢」が決まる以前、その結果連絡待ちをしているニッキーの屋敷に、近所に引っ越してきたという老女が挨拶に訪れる。居間のソファーに座らせ、召使にコーヒーを出させて話をしていると、その老女は、なぜかニッキーが出ることになるかもしれない映画の話をし始め、「その映画では殺人が描かれますよね」と言う。だが、ニッキーが読んだシナリオにはそんな内容は無かったのでそれを否定しても、老女はかまわず不吉な話を続けようとする。それで気味が悪くなり、帰ってもらおうと促すと、老女は、数日後のニッキーが座っているであろう別のソファーを指差す。そして数日後、ニッキーは友人たちとそのソファーに座ってオーディションの結果待ちをしていたところ、主役決定の電話が入って彼女たちは大喜びするのだが、その様子を2階の階段踊り場から見ていたニッキーの夫と思しき男性の表情は、決してそのことを喜んでいるふうではなかった。

(1)(2)は、ニッキーの話と直接つながるものではなさそうで、リンチ的な「並行世界」の描写と見られるし、(3)についても、リンチ的な「時間の交錯と混乱」のように見える。
つまり、このような要素が、物語の「本筋としての現実」である女優ニッキーの物語に絡んできて、本作は単純な「メタフィクション形式のホラー映画」といった、わかりやすいものではなく、もっと複雑で不可解なものとなってゆくのである。

実際、物語が「不吉なシナリオをなぞるようにして進む」のは、最初の1時間ほどで、中盤の1時間は、上記の(1)や(2)のような世界が、複雑に絡まり合い始めて、もはや意味不明な展開になってしまう。
私はこのあたりで、劇場では寝てしまったようなのだが、ともかく、まともに筋のある作品を期待した観客には、この中盤は、かなりきついものであろうことは間違いない。本作がその評判において『マルホランド・ドライブ』に及ばないのは、この中盤を「冗漫」だと感じる人が少なくなかったからなのではいだろうか。

だが、終盤に入ると、中盤でほとんど意味不明なシーンの連続だったものが、多少なりとも繋がりを持ってくる。
無論それは、「合理的」なものではないけれども、少なくとも「無関係な断片的イメージの羅列」ではなかったということがわかってきて、その意味では、どのあたりへ着地するだろうかという興味も湧いてくる。

だがまた、いずれにしろ本作は、「論理的な1本の筋」に収斂するような作品ではなかった。
最後まで、結局は「どこまでが現実か」はわからないままなのだが、しかしそれは、デイヴィッド・リンチ作品においてはいつものことで、ことさら欠点になるわけではないだろう。

ならば、私はこの作品をどのように評価したのか。

それはやはり、「リンチの世界観」を表現した作品だということになり、それはどのようなものなのかと言えば、「この世界は、幾層にも層をなしており、その各層はメビウスの輪のように捩れながら相互に繋がっている。しかも、各層の間には穴が開いており、そこを抜ければ即座に裏側の世界へ移動することができる」という、そんな複雑怪奇にトポロジカルな世界だ。

しかしまた、リンチのこの世界観とは「世界とは、そうしたものだ」というような単純な認識に立つものではなく、それは「そのようなものに世界は感じられる」という「リンチの個人的な感覚」に基づく「世界認識(描写)」であって、リンチにとっての「現実の世界」は、他の場所に超然と実在し、「この世界」は、その世界の「影」のようなものである、というような(デイヴィッド・リンチの)認識だ。

こう書いても、リンチのリンチらしい作品を見ていない人にはよくわからないだろうが、それも致し方ない。文章でわかりやすく表現できるほど、単純なものではないのである。

ただ、「この世界とは別に、他の場所に超然として実在する現実の世界」とは、世間の常識とは真逆に、例えば『ツイン・ピークス』「小人が踊る赤い部屋」だとか、本作では「うさぎ頭人間のいる緑の部屋」といったもののことを指している。
私たちは通常、それらをこそ「異界」であり「非現実のどこか」と考えがちなのだが、しかし、デイヴィッド・リンチの感覚からすれば、むしろそちらの方が「超然と実在している世界(現実)」であり、私たちが「現実」だと思っている「この世界」の方が、むしろ「その影」だと、そう感じられているのではないかと、私にはそう感じられるのだ。
だからこそ、リンチの描く「現実世界」は、複雑に捻くれて多層的なものであり、事実その(この)世界は「人によって見え方が違う曖昧なもの」でしかあり得ないのではないだろうか。

つまり、リンチが「この世界」を、そのように捻くれたものとして描くのは、リンチの「霊感」的なものが、彼方の「超然として実在する現実の世界」となぜか繋がっている(と感じられている)ので、そんなリンチには、むしろ私たちの世界の方が、奇妙に捻くれた「不安定なもの」に見えてしまう。一一と、おおよそそのようなことなのではないかと思えるのである。

本作『インランド・エンパイア』つまり「内なる帝国」と題されているのだが、私の考えによれば、その意味するところは、この映画が描くような世界こそが、すべての人にとっての世界の「実相」であり、その意味で「帝国」だ、という意味なのではないか。
言い換えれば、私たち個々の持っている「世界観」とは、その巨大な「帝国」の中に存在する「個々の王国にすぎない」と、そんな意味である。

無論、デイヴィッド・リンチの作品を、理屈で割り切るような「考察」はお門違いなのだろうが、リンチが「この世界」をどのように感じていたのかを探るのは、決して間違いではないだろう。

リンチはしばしば、「あちらの世界」の声を伝える「霊媒」的な存在だと評されるけれども、リンチにしてみれば、そうした認識は、自己中心的に倒錯したものであり、「本当は」あちらの世界が「主」であり、こちらの世界こそが「従」なのだということを、リンチは伝え続けていたのではないだろうか。

つまり、リンチ的には、「現実を描く」物語は、最終的に「こちらの世界」に着地するのではなく、「あちらの世界」に着地することこそが正しい、ということになるのである。

なお、私が再鑑賞作品として、『マルホランド・ドライブ』ではなく、『インランド・エンパイア』を選んだ理由のひとつとして、

・特に印象に残るシーンが1箇所あって、少なくともそこだけは、もう一度見たいと思った。

ということを最初に書いたけれど、そのシーンは、結局のところ本作『インランド・エンパイア』には無かった。

時間的にもうそろそろ終わろうかという頃になっても、いっかなそのシーンは登場せず、ついにエンドクレジットが流れ始める。
私は「まさか」と、それこそ悪い夢でも見せられているような気分になって、「エンドクレジットの後だったのかも」と、そんな一縷の望みを託したのだが、やはりそのシーンは無かった。

一一つまり、私の記憶していたシーンは『インランド・エンパイア』のものではなかったのである、たぶん。
まさか、本当に世界が変わってしまったなどとは思わないが、しかし、なんとも居心地の悪い気分にさせられたのである。

現実的に考えれば、そのシーンは『マルホランド・ドライブ』にあったものを、私が勘違いして『インランド・エンパイア』のワンシーンだと思い込んでいたのであろう。
だから、もともとその気は無かったのだが、やはり『マルホランド・ドライブ』の方も、見ないわけにはいかなくなってしまった。

だが、そちらにも、そのシーンが無かったらと考えると…。

人の記憶とは、かくもいい加減なものであり、そんなものに基づいて、私たちはそれぞれに、その世界観を構築していると、そういうことになるのであろう。
確たる世界など「ここには無い」と、デイヴィッド・リンチは、そう感じていたのではないだろうか?


(2025年3月10日)


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