ジーン・ケリー主演、ヴィンセント・ミネリ監督 『巴里のアメリカ人』 : ケリーの代表作としては…。
映画評:ジーン・ケリー主演、ヴィンセント・ミネリ監督『巴里のアメリカ人』(1951年/アメリカ映画)
ダンスの天才ジーン・ケリーの代表作のひとつで、『第24回アカデミー賞で8部門にノミネートされ、作品賞をはじめ最多6部門を受賞した。』(wiki)ミュージカル映画の傑作である。
だが、正直言って、ケリーの代表作中の代表作である『雨に唄えば』に比べると、だいぶ見劣りする感じで、期待が大きかっただけに、個人的には「期待はずれ」感の否めない作品であった。
そのあたりを説明するために、まずは本作の大筋のところを「映画.com」の「解説・あらすじ」からご紹介しておこう。
『ジーン・ケリーが主演を務め、1952年・第24回アカデミー賞で作品賞を含む6部門に輝いた傑作ミュージカル。
画家としての成功を夢見てアメリカからパリへやって来た青年ジェリーは、ピアニストのアダムや歌手のアンリら友人たちと楽しい日々を過ごしていた。
ある日、ジェリーの個展にやって来た富豪の女性ミロが彼を気に入り、公私にわたるパトロンとなる。ジェリーはミロと一緒に訪れたキャバレーで、愛らしいパリ娘リズに一目ぼれ。2人は恋に落ちるが、ジェリーはリズとアンリが婚約していることを知る。
ヒロイン役のレスリー・キャロンはバレリーナとして活動していたところをケリーに見いだされ、本作で映画デビュー。
「花嫁の父」のビンセント・ミネリがメガホンをとり、「マイ・フェア・レディ」のアラン・ジェイ・ラーナーが脚本、ジョージ・ガーシュウィンと兄アイラがそれぞれ作曲と作詞を担当、ケリーが自ら振付を手がけた。』
(「映画.com」より。改行とゴシック強調は、引用者による)

1942年に『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』で、ジュディ・ガーランドの相手役として映画デビューした、ミュージカルダンサー出身のジーン・ケリーは、以降、1955年頃までは破竹の勢いで活躍を見せて、その最盛期だったと言っても間違いではないだろう。
年齢的には、遅めの30歳でのデビューから、43歳までということになる。
つまり、油の乗り切った時期にデビューして、体力の衰えが問題になるにしたがって、もともとやっていたとは言え、ミュージカル以外の演技や監督業の方へ、徐々に重心を移していったのだと、そうまとめても良いのではないだろうか。
で、本作の撮られたのか1951年で、『雨に唄えば』がその翌年なので、本作の評判と勢いに乗って、『雨に唄えば』が撮られたと、そう言っても良いのではないかとも思う。
まさに、この1952年前後が、ジーン・ケリーの最盛期だったのではないだろうか。
しかし、前述のとおり、翌年の『雨に唄えば』に比べると、本作は(最後の長いダンスシーン以外は)いささか「小粒」感が否めない。
これはたぶん、本作で「アカデミー名誉賞」を受賞し、ケリーが名実共にミュージカル映画の大スターとなった結果として、『雨に唄えば』には、潤沢に予算が投入され、ケリーのやりたいことが全部やれた、といったこともあったからではないかと思われる。
『アカデミー名誉賞 (ジーン・ケリーに対して:「俳優、歌手、監督、ダンサーとしての多芸さ、特に振り付けの芸での輝かしい功績」のためにを受けている。これは、ジーン・ケリーの唯一のオスカーとなった)』
(Wikipedia「巴里のアメリカ人」)
先に「映画.com」から「あらすじ」を紹介したけれども、本作は、それまでの作品がそうであったように、前半は「劇映画」としての物語が中心となって展開し、そこに歌やダンスが挿入されるといったものだったのだが、この前半部分が、いささか物足りない。
もともとこの手のミュージカル映画は、ストーリー自体は、歌やダンスを盛りつけるための受け皿みたいなもので、それ自体が目的ではないから、よく言えばシンプル、悪く言えば型通りのものが多く、要は、ミュージカルシーンさえよく出来ており、それが適切に盛り込まれていれば、ストーリーは二の次であってもかまわなかった。

ところが、本作の前半では、けっこう歌(歌唱)のシーンが多く、それも悪くはないが、ケリーのダンスを期待していた私のようなケリーファンには、いささか物足りない感じであった。
もちろん、前半でもケリーのダンスは何度も披露されるのだが、それはタップダンスを中心とした小粒なもので、ケリーの運動能力の高さを遺憾なく発揮する、動きの大きなダンスを期待した向きには、いささか期待はずれだったのだ。


では、なぜこうなったのかと言えば、それはたぶん、本作で映画デビューし、ヒロインを演じたレスリー・キャロンの、バレエ出身のダンスの素晴らしさを、最初に印象づけることを意図して、ケリーのダンスとの「差異化」が図られたせいではなかったろうか。
なにしろ本作は、ケリー自身が振付を行ったのだから、自身のそれがいささか抑え気味のものであったとしたら、そこに何らかの意図があったはずだからだ。

つまり、自身が見出して映画デビューされたキャロンだからこそ、ケリーの単なる引き立て役で終わらせてはならない。
むしろ、ケリーの相手役にふさわしいダンサーであり女優だというのを観客に納得させるために、ケリーはあえて前半では、自分のダンスを抑え気味に演出していたのではないだろうか。
そして、そうしたことの全ては、最後の長い、二人によるダンスによって、帳尻を合わされて、さらにあまりあるものになるという計算が、ケリーにはあったのではないだろうか。
ただ、かなり面食いの私からすると、キャロンのダンスの(美しさというよりは)並外れた力強さは認めるものの、単純に「顔」は、いまいちだと評価せざるを得なかった。脇役なら十分だが、ヒロインとしてはちょっと弱い。
というのも、レスリー・キャロンは、その笑った際に明らかなのだが、上の前歯が目立ちすぎるのだ。つまり、平たく言うと「出っ歯」気味(ちなみに、私も出っ歯だ)。
今なら、幼いうちに歯列矯正を受けるのだろうが、たぶんこの頃は、まだそれが一般的なものではなかったのだろうし、ましてキャロンの場合は、本作で映画デビューするまではバレエダンサーであり、その舞台は遠目から見られるものだったので、少し出っ歯気味であることなど、ぜんぜん問題にはならなかったのだろう。
事実、本作でも、笑わなければ気にならない程度のそれなのだが、劇映画のヒロインが、まったく笑わないわけにはいかなかったのである。
また実際、本作の序盤で、主人公のジェリー(ジーン・ケリー)の友人である歌手のアンリが、その場にはいない婚約者の女性リズ(レスリー・キャロン)を友人二人に紹介する際、アンリはリズのことを、
「美人ではないか、とても可愛い子なんだ」
と形容する。
そしてその後、ジェリーは酒場でたまたま見かけたリズを、アンリの婚約者の女性だとは気づかないまま一目惚れしてしまい、複雑な四角関係になってしまう。
で、このジュリーとリズの恋人関係において、ジュリーはリズに対して「君は美しい」と連発するのだが、観客としては、リズをそこまで美しいとは思えない。
リズ役のレスリー・キャロンは、アンリの言うとおりで、「可愛い」タイプではあっても、「美女」タイプではなかったからだ。

もちろん、ジュリーの言う「君は美しい」というセリフは、恋する者の「欲目」もあるのだろうから、物語の中での整合性はとれている。
だが、映画の世界には「美女」が溢れており、そうした基準でレスリー・キャロンを見てしまうと、やはりその点では物足りないという印象は否めないのだ。
いくらダンスが素晴らしく、そこをジーン・ケリーがダンスの相手役として高く買ったのだとしても、やはり映画では、三枚目以外は、基本的には男女を問わず主演俳優は、美男美女でないと、悪目立ちしてしまうのである。
さて、ここで話を物語の側面について移すと、当然のことながら、ヒロインであるリズは、どうして婚約者がいながら、ケリーを好きになってしまったのか、という点が問題になる。
現実には、いくらでもあることだとしても、特に夢を売るミュージカル映画では、それは基本的に許されないことだからだ。
それで、その正当化の理屈として持ち出される説明とは、「大戦中、ナチス占領下にあったパリにおいて、ユダヤ系だったリズの一家(両親と幼いリズ)は、アンリの家に匿われ、リズはその家で育ち、やがて恩人アンリを愛するようになった。またアンリの方も、成長したリズを女性として見るようになって、ここに年の差のある婚約者カップルが誕生した」ということになっている。一一これなら、誰でも納得できるだろう。
だが、リズとアンリの関係には、最初から「恩義」の要素がからんでおり、恋愛至上主義的な観点からするならば、その恋愛関係は、「不純な要素」を孕んでいた、とも言えるのである。
ともあれ、そんなリズの前に若いジュリーが現れ、リズに猛烈にアタックしてくる。
当初はジュリーを拒絶していたリズも、やがてはジュリーの情熱にほだされるかたちで、彼を愛してしまう。

だが、当然リズにはやましさがあるから、アンリという婚約者がいることを隠してジュリーとつき合うのだが、アンリのアメリカ公演が決まって、リズをアメリカへ伴うにあたり、いよいよ結婚という話になる。
そこでリズは進退きわまって、ジュリーに真実を告げて別れを申し出る。
そして、ここで普通ならジュリーの方が「騙して酷いじゃないか」となるのが当然なのだが、しかし、ジュリーの方にも、画家としてのパトロンになってくれている金持ちの年上女性ミロとの微妙な関係があったから、リズのことを一方的に責めることはできず、仕方なくリズを諦めることになる。

そして、最後のパーティで、初めて4人は顔を合わせ、ジュリーとリズは、こっそりと最後の別れを告げることになるのだ。
画家としてパリに憧れて生活してきた、アメリカ人のジュリーは、リズを失なった傷心のために「君のいないパリで生きるのは、僕には辛すぎる」と、パリとの別れも決意する。
そして、そんなジュリーの「芸術の都パリへの惜別の情」を表現した、かなり長い、圧巻のダンスシーンがあった後、リズがジュリーのもとへ帰ってきて、あっけなくハッピーエンドとなる。
実は、パーティでのジュリーとリズの別れを、リズの婚約者であるアンリがたまたま覗いていたという描写がなされていたのである。
いったんは結婚のためにリズを連れ帰ったアンリであったが、結局は愛するリズと友人ジュリーのために、みずから身を退いたのである。
そんなわけで、「愛する人のために、あえて身を退く」というパターンは、この手のミュージカルでは、ハッピーエンドをつけるための「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」として、わりとありがちな手法なのであろう。
大してミュージカル映画を見ていない私でも、ほかに、マーヴィン・ルロイ監督、エスター・ウィリアムズ主演の 『百万弗の人魚』 などが思いつくくらいなのだ。
夢に売るミュージカル映画だからこそ、この「美しいご都合主義」が、多用されもしたのではないだろうか。
そんなわけで、本作は「物語」的には、スッキリしないところがある。
それは、主人公のジェリーとヒロインのリズが、共に後ろめたい「二股」的な関係をもっており、それが物語上では正当化させていたとしても、その二人がまた、ラストでは都合よく結ばれてハッピーエンドというのは、いかにもご都合主義に「すぎる」という印象を与えるからであろう。
つまり、最後のご都合主義的なハッピーエンドには目を瞑るとしても、本作に大きく2つの弱点がある。
(1)物語が弱い
(2)前半のダンスシーンが物足りない
しかしながら、本作の最終盤で描かれる長いダンスシーンは圧巻であり、たぶんこれがあるからこそアカデミー賞の作品賞を受賞するこど出来たのであろう。


だがまた、次作『雨に唄えば』を先に見てしまっている者には、アカデミー賞6部門の受賞作であり、ジーン・ケリー唯一のオスカー受賞作としては、いささか期待はずれということにもなってしまったのである。
(2026年1月7日)
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