ソーントン・フリーランド監督 『空中レヴュー時代』 : フレッド・アステアの魅力
映画評:ソーントン・フリーランド監督『空中レヴュー時代』(1933年/アメリカ映画)
フレッド・アステアの映画出演第2作目である。まだ主演ではないが、脇役でもない。オープニングロールに映像付きで紹介される主な俳優5人の中で4番目に紹介されているので、その意味では「主演」の一人だと言っても間違いではない。
本作は、ラブコメ・ミュージカルを得意としたソーントン・フリーランド監督の作品で、オープニングロールで先に紹介された3人が「ラブコメ(物語)」部分を担当する主役であり、4人目のアステアと5人目のジンジャー・ロジャースが、「ミュージカル」パートの主役というわけだ。

端的に言って、私は、この映画の内容自体にはほとんど興味がなく、もっぱらアステアの出演作品として見た。
初めて見たアステアの主演作品は『スイング・タイム(有頂天時代)』(1936年)でアステアのファンになり、ミュージカル映画のアンソロジームービー『ザッツ・エンターテインメント』三部作(1974・1975・1994年)で、すっかりアステア信者になってしまった私は、「アステアの出演映画を、可能なかぎり古い順に全部見よう」と、そう決心するに至った。
そう思い立って、最初に見たのが、本作『空中レヴュー時代』なのである。
ではなぜ、映画初出演作である『ダンシング・レディ』を先に見なかったのかというと、ひとつは次のような事情からだ。
『ジョーン・クロフォードの相手役として、主演のクラーク・ゲーブルに代り、ダンスシーンのみにゲスト出演。』
(Wikipedia「フレッド・アステア」)
この『クラーク・ゲーブルに代り』にという表現が、今ひとつわかりにくいのだが、もしかすると、クラーク・ゲーブルの「吹き替え」ということだったのではないか。だが、アステアとゲーブルでは顔貌が違いすぎるので、もしかすると顔は映らず、退きのダンスカットとゲーブルのアップカットをモンタージュして、いかにもゲーブルが踊っているように見せかけたのではないか。つまり、アステアの顔は上手に隠されて映らないのではないかと、そう疑ったのである。しかしそれでは、アステアのファンとしては、いかにも物足りない。

それに、二つ目の理由として、『ダンシング・レディ』の中古DVDが安くはなかったため、「ひとまずこれは、後回しだ」ということになったのである。
一一まあ、後になって、アステアは顔も出しているとわかったので、ダンスシーン1箇所のみの出番だとしても、そのうち見ることになるだろう。
そんなわけで、本作『空中レヴュー時代』は、映画出演としては2作目となるものの、本格的に俳優としての演技を見せるのはこれが第1作目だとも言えるだろう。
しかも、この演技第1作で、前記のとおり「主役」の一人として登場し、ミュージカルシーンのメインを張るのは当然としても、お芝居の方でも、新人離れした貫禄と余裕を見せている。映画は初めてでも、ブロードウェイの舞台の方では、年季の入った人だったからであろう。
さて、ここからは、普通なら『空中レヴュー時代』についてのひと通りの紹介ということになるのだが、本稿では、それは辞めにする。
なぜなら、本作には「日本語版Wikipedia」が存在しないので、そこから本作の概要や興味ぶかい事実を引用的に紹介して、そこを論じるということさえ出来ない、というのが一点。
その一方、本作『空中レヴュー時代』については、「娯楽映画研究家」の佐藤利明氏が、すでに充実した内容のレビューをお書きになっており、そこには、ストーリーの詳細だけではなくスタッフやキャストの紹介までもが、かゆいところに手の届くかたちで書かれているのだ。
ならば、もともと「紹介記事」を書くのが苦手な私が、わざわざ「劣化版の紹介記事」を書いても仕方がないので、ここでは佐藤利明氏の記事を紹介することにした。
だから、ストーリーやスタッフ、キャストなどのことを知りたい人は、ぜひ佐藤氏による下の記事を読んでいただきたい。そしてその上で、必ず「スキ」を押していただきたい。
「日本語版Wikipedia」が存在しない現在、佐藤氏のこの記事が、日本語で読める、最も懇切な『空中レヴュー時代』の紹介記事であると言っても過言ではない、そんな労作だからである。
さて、そのうえでこれ以降、私が何を書くのかといえば、そのメインとなるのは、私にとっての「フレッド・アステアの魅力」である。私がアステアの、どこに惚れたのか、それを語りたいのだ。
だが、それだけでは、仮にも「映画評」としている以上、あまりにも不親切にマイペース的すぎるので、先に本作『空中レヴュー時代』の、私なりの大まかな紹介と評価だけは、書いておくことにしよう。
まず、本作『空中レヴュー時代』は、次のような映画である(佐藤利明氏も、同様の紹介をされている)。
(1)ストーリー的には、男2人女1人のラブコメ。女がどちらの男と結ばれるのか、というお話である。
(2)ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを舞台とした「南国情緒」が売りの作品。
(3)アルゼンチン・タンゴやカリオカなどのラテン系ダンスを中心に、各種の群舞と歌が楽しめる。
(4)アステア・ロジャースコンビのダンスが、ミュージカルシーンを引き締める。
(5)当時の特撮による「空中レヴュー」シーンが、「当時の見せ場のひとつ」であった。
と、こんなところだろうか。
だから、全体としては「娯楽作品」として楽しめるものなっている。
少々演出の古臭さは否めないものの、古い作品なのだからそれは仕方がないし、(1)の物語も、型通りの展開で、型通りのハッピーエンドではあれ、安心して見ることのできる、まずまず「感じの良い作品」に仕上がっている。
ただし、当時のものとしては、それで十分だったのであろう(5)の特撮は、今となっては、むしろ無い方が良かった、という印象は否めない。
どうやって撮っているのかが、今となっては全部わかってしまうというのは仕方ないとしても、当時の飛行機に翼の上に、踊り子の女性が十数人も乗るというのは、どう見たって不可能だろう、などと思ったりしたからだ。当時の人たちだって、さすがにそれくらいは‥‥‥いや、わからなかったのかな?

踊り子の女性たちが、命綱で固定された状態で、飛行中の飛行機の翼の上で踊るというのが「空中レヴュー」である。
翼から落ちないようにしっかり固定されているから大したダンスはできない、という部分は妙にリアルなのだが、それではレヴューとしては面白くない。
したがって、このシーンの売りは、あくまでも「観客をハラハラドキドキさせる」特撮なのだが、今となっては、そういうわけにもいかず、普通に地上で、自由にやっていただいた方が、もっと楽しめるものになったただろうにと、そんなふうに思えたのだ。
本作において、(1)は「そこそこ無難にまとまっている」という感じで、(2)はテレビ普及後の今となってはさほどの価値は持たない。(3)はそれなりに楽しめるけれど、やはりこれだけでは映画として物足りない。そこで(4)での、際立った「個人技」によって、映画全体が引き締められている。

たしかに「物語(ラブコメ)パート」の3人は美男美女であるけれど、そもそも今に語られるほどの大スターというわけではなく、ましてや「ラブコメ」に興味のない私としては「なるほどね」「昔の映画らしいな」とは思っても、「面白い」とまでは思えなかった。


つまり本作は、あくまでも「ミュージカル」パートがあって、初めて一人前の作品なのである。そして、その「ミュージカルパート」のかなめが、フレッド・アステアその人だったのだ。
ちなみに、書き遅れたが、本作は「アステア・ロジャースコンビ」と、のちに称されることになる2人が、初めてコンビで踊った、記念すべき第1作である。
なお、私がすでに見ている『スイング・タイム(有頂天時代)』は、ロジャースとの共演第6作だ。

一一だが、正直なところ、私は自身は、ジンジャー・ロジャースにはあまり興味がない。私としては、アステアあってのロジャースだと思っている。
実際、『スイング・タイム(有頂天時代)』を見る以前からアステアの名前は知っていたが、ロジャースの方は、同作のレビューを書く段で、Wikipediaを確認して初めて知ったくらいなのだ。
ロジャースは、アステアとのコンビ解消後も、それなりに活躍はしたようだが、やはりそれは「主役級」というわけではなかったようである。
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さて、ここからは「私にとってのフレッド・アステアの魅力」である。
まず、アステアは、決して美男(イケメン)ではない。
そうした評価は当時からのものだったようだが、なにしろダンスがずば抜けていたので、ハリウッドに招かれたようである。つまり、当初は「主演俳優」を期待されてはいなかったようなのだ。

ところが、本作『空中レヴュー時代』などでお芝居をさせてみると、「イケメン」的な魅力ではないけれど、独特の存在感と「人としての魅力」を感じさせるという事実を見出されて、ダンスだけではない「主演俳優」になっていくのだ。
で、フレッド・アステアの、ダンス以外の「俳優としての魅力」というのは、本作にしてそうであるように「人の良さ」「誠実さ」「優しさ」「包容力」「ユーモア」「品位」といったところにある。
つまり、見た目だけで、異性をポーッとさせるような、男性としての魅力は無いけれども、しばらく見ていると「ああ、この人はいい人なんだな」というのが感じられて、人として好きになってしまうようなタイプなのである。
だから、アステアは主演俳優として美人女優の相手役を務めるようになるけれども、その役柄はどこか「自身を強く訴えないで、女性を柔らかく支え抱擁する」タイプという感じなのだ。
そしてその典型とも言えるのが、私はまだ未見だが、ジーン・ウェブスターの原作小説を映画化した『足ながおじさん』(1955年)なのではないかと考える。まさに、ヒロインを陰ながら支える、頼りになる男性である。

もちろん、『足ながおじさん』の頃には、アステアもすでに主演女優の「おじさん」に当たる年齢となっていたのだが、アステアの場合は、最初から「女性を魅了する男性」ではなく「ユーモアと包容力を併せ持つ男性」という「年上」的なキャラクターだったのではないだろうか。
「俺が主役だ」と前に出るのではなく、主演女優の横で、彼女をサポートする立場に立ちながら、それでいて、その非凡な存在感を輝かせた俳優だと、そう言えるのではないか。
もともと、典型的な「二枚目(イケメン)主演男優」には興味のない、「個性派」が好きな私なのだが、「個性派」というと、どうしても「クセの強い」役者が多くなるのだが、アステアの「個性」とは、それとは真逆に一歩退いたところで、しかし存在感がある、というふうなものだと、今の私はそう評価しているのである。
ちなみに「ダンスの神様」と言われるほどの人なのだから、そのダンスが素晴らしいというのは、誰もが認めるところだ。

では、その「ダンス」が「どのように素晴らしいのか」と言えば、それはダンスに詳しくない私には、なかなか説明しがたいところではあるだが、それでも「印象」として言えることは、アステアのダンスには「洗練」があり「上品さ(品格)」があるということだろう。
しかし、これもまた、誰もが認め指摘するところなのである。
そうした「洗練」であり「上品さ」というのは、もちろん、彼の「天凛」なのではあろう。だが、その一方でしばしば指摘されるのが、彼の努力家ぶりである。
しかしまた、そんな努力家である彼の非凡さとは、大変な努力と工夫を重ねながら、それをこれ見よがしに見せない、彼の「ストイックさ」でもあったのだろう。
つまり、彼のダンスは、「こんなことができるんだぞ」と見せびらかすようなものではなく、どんなに新しいことをやって見せても、「ダンスとは、なんと楽しいものなのか。踊っている時の私は、こんなにも幸福だ」とそう思っているようにしか見えない、見せないところが、彼の天才の、天才たる所以なのである。
けっこう尺の長いワンカットで見せるダンスシーンなどは、普通に考えれば、相当ハードなもののはずなのに、アステアは決して「全力を振り絞ってやっている」という印象を与えない。それが、彼のダンスに「洗練」や「上品さ」といった印象を与えているのではないか。
あと、これもダンスの素人の「印象論」にすぎないのだが、アステアのダンスの魅力のひとつは、彼の腕や脚の「しなり」と、それに由来する「浮遊感」にあるのではないかと、私にはそう見ている。
つまり、普通のダンサーは、腕や脚を「大きく振り、突き伸ばす」、そして「高く跳ぶ」のだ。
それは、「棒を振る」ように勢いよく、「空手の突き」のように激しく、筋力のかぎり高く跳躍する、というものなのだが、アステアの腕や脚は、そんな「硬質な棒」ではなく、手先や足先に「重心」があって、腕や脚はそれに引かれるようにして、しなりながら振られたり、突き伸ばされたりするのだ。だから「跳ぶ」のではなく「浮く」。
だからこそ、凡百のそれとは違って、アステアの所作はとても「優雅」に見えるのである。

無論、こうした滅多にはない美質は、アステアの天凛と訓練の賜物ではあるのだが、しかしそれはまた、彼の「人格」のは反映でもあるのだろうと、私は考える。
「文は人なり」という言葉があるように、「ダンスは人なり」ということも、きっと斯界では言われているはずだ。
「文章」であれ「ダンス」てあれ、極められたそれには、その人の「個性」というものが、抜きがたく刻印されてしまうものなのだと、私はそう考える。
フレッド・アステアの場合は、どんなに超人的なダンスを踊って見せても、決して「これみよがし」なのではなく、自らは一歩退いて「見ている人を楽しませる」ところに、真骨頂があり、そこが無二の魅力なのではないだろうか。
一一こうした理解が、当たっているかどうかはわからない。
だが、このように感じるからこそ、私はフレッド・アステアの映画を「全部見よう」と思ったのだし、なにより、彼のファンになったのである。

(2025年5月30日)
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