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いぬがしゃべりました【全話まとめ】(ショートver.)

【あらすじ】

「ある日突然、イヌがしゃべった!なぜ?」
中2女子 桃々と犬のサトーさんが謎を解明するふしぎな物語。

兄を亡くした悲しみに暮れる桃々たち家族。そこへやってきた保護犬の子犬サトーさん。なぜか言葉を話し始め成長していくうち、本当の家族のような感情が芽生え始める。

やがてサトーさんは人間を超えるほどの高い知能をもつ。
桃々は彼にまるで亡くした兄へ焦がれるような、初恋にも似た感情を抱く。

サトーさんはある問題にぶつかる。
「僕は一体なぜしゃべれるのか?」

AIによってしゃべる少女犬 ” ライカ ” と出会い、やがて家族は、命の危機に瀕するライカを助けて逃避行することに。そこで思いがけずサトーさんに隠された本当の秘密に迫ることとなる。さらに人類の危機と国家の思惑、さまざまな問題が交錯する巨大な渦に巻き込まれていく。

「一度でいいから犬と話したい」
夢見る方にお贈りする、冗談みたいなおはなしです。


(※この記事は14万文字以内のショートver.です)



<第1話>「はじめに」



「イヌがしゃべったって?」


おっ、サトーさんが意外に食いついた。
彼の黒目がちな瞳を見ればわかる。
私は嬉しくて、

「そ。ご近所のチワワちゃんがね。『おはよう。』って言ったの。それでね、でね…」

「あり得ない。」

ん?

「言葉を話すわけないよ。チワワは低能だ。脳の容量が小さすぎて言語中枢もない。第一、呼吸器官の構造上不可能だ。」とサトーさんはバッサリ。
「桃々ちゃん。夢でも見たんでしょ。」とあきれ顔。

私は肩をすくめて苦笑いする。
「…そ。今朝見た夢の話だけどね。」と、くたびれかけた学校カバンを芝の上に放り投げた。制服スカートの折り目が崩れないよう両手で揃えて腰を下ろす。

オレンジの夕焼けに輝く大きな運河を臨む『豊洲さきっぽ公園』。
向こう岸には、オモチャ箱みたいにビル群がごっちゃり並ぶ。灯り始めたあの小さな光ひとつひとつに人がいるんだな…、なんて思いつつ、いつものように2人並んで座る。たわいもないおしゃべり。この時間が好きだ。



「イヌがしゃべる夢か…。夢診断では、人間関係のもつれを予兆しているんだ。」サトーさんは何でも知っている。

「え…そうなの?」

「ってことは、誰かとの仲が気になるのかな?友だち?それとも…?」
近ごろ少し大人っぽくなった上目づかいで覗き込む。

「ちょっと、やめてよ。」あんたのことだなんて言えない。

「さすが中2女子。こじらせ、ご苦労さま。」

他人事みたいな顔をするから、ムッとした。
「私だって、いろいろあんのよ。」チクチクする芝を指でちぎる。「あんたさ、よくないよ。すぐそうやってすぐ切り捨てるトコ。あとさ、勝手にネットで買い物したでしょ。ママが怒ってたよ。知らないドッグフードが届いたって。」

「えっ!もう届いたの!?…あ、いや…。」ほら図星だ。

「バレバレだよ、サトーさん。とぼけても尻尾ブンブン振ってる。」

「あ。」

ふさふさとした彼の尾が草をパサパサ勢いよく叩いている。ごまかすように後ろ肢で首を掻くから、リードの金具がカチャカチャ鳴った。

「知らないなら返品しちゃうよ。認める?」
「認めます。返品しないで。」
彼は濡れた黒い鼻をひくひくさせて懇願する。

「あははは、認めた。あはは。」
「あはははは。」

私は笑って草の上に寝ころんだ。真上には黄昏に照らされるひつじ雲。ゆったりと流れていく。


そう、サトーさんは犬だ。



柔らかく白い毛に薄い茶色のブチ。柴犬のような顔つきだけど、素性がよく分からない雑種の中型犬。
そんな彼が私を見下ろしポツリと言った。

「匂いでわかったよ。」
「うん?」
「桃々ちゃんが元気がない時の匂い。ホルモンの分泌に変化が出る。」
「え?私の?」

紺のスクールニットの袖にそっと私は鼻先を寄せてみた。だけどほのかに匂うのは、すっかり温かくなった春の風に乗せた青臭い若葉の香りだけ。
うーん。「さすが嗅覚1万倍。」

彼は真っ黒な瞳で私を見つめて、

「好きだよ。」

「え?」どきり。

「元気のない時の匂い。」

なんだ。「あそ。」

「でもね。」

「なに?」

「元気な時は、もっと好きかな。」

ヒゲの口角をニヤリと上げた。

「もー、サトーさぁん。」

なんだかたまらなくなって、ふわふわ柔らかい毛の首に、ばふっと抱きついた。

「いたた。苦しいよ。」
「甘々トークでごまかさないで。バラすよママに。ドッグフードのこと。」
「それは困る。微分の宿題手伝うから。」
「うーん…よし、商談成立。」

沈みかけた夕陽。遠慮がちに小さな一番星が2人を優しく見下ろしている。


そうなのだ。幸せだ。
ちょっと理屈っぽいところが時々ムカつく犬だけど。
いつまでもこの何気ない幸せな日々が続くと思ってた…。

サトーさんが家に来てからもうすぐ3年。
ある日、なぜだか言葉を話し始めた。
以来、かけがえのない家族として一緒に過ごしている。

…っていう話。


ちょっと待って、II 一時停止。


そんなことあるわけないって?
そもそもおかしくない?イヌがしゃべるって。アニメやCMじゃないんだから。

そこ。
そこは簡単に受け入れてはいけない。

犬が話す物語は、古今東西、数多ある。
だけどなぜ登場人物たちは皆、犬がしゃべる珍事をすんなりと受け入れるのだろう。
なぜ観客は不思議に思わないんだろう。
私は不思議だ。不思議で仕方がない。

だからこそ、とても素敵な奇跡のはず。

犬は飼い主の顔をよく見る。
物憂げな瞳で我々の目を見る時、彼らは何を訴えたいのだろう?
もしかしたら世界のどこかに、実は話せるけど秘密にしている犬がいるんじゃないだろうか。

もしもそんな事実があったなら、なにかとんでもない理由があるにちがいない。
そうきっと、とてつもなく素敵なワケが。

" しゃべる犬 "
その謎に、サトーさんと私は正面から向き合ってみることにした。

これは、そんな夢のような
だけど本当にある…かもしれない。
冗談みたいな ” おはなし ” です。



(※ショートカットver.は2話~11話をスキップし、⇒★12話へ)

<第12話>「天才犬、オトナに」



私は中学2年になった。
ちゃんと進学もし、学校に通い続けている。人前で話すのが苦手なのは相変わらずだけど、バカを言える友だちがいたり、苺乃大福も”同中”だから相変わらずおせっかいを焼いてくれる。たいして成績も良くないし、将来の夢もない。自慢できることもないけど、それなりの毎日だ。
もう少ししたら、亡くなったタル兄ちゃんと同い歳になる。
私は少しくらい恥ずかしくない大人になれているのだろうか。

夏が終わって、運河を渡る風に少し秋の訪れを感じたころ。


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家に帰ったら、ママがリビングで小さな箱を片手に持ち、耳をそばだてて振っていた。アマゾソの宛名ラベルが貼ってある。

「届け物?」

「パパが買ったんでしょ。LIMEしといて。なんか届いたよって。」
と箱をテーブルにポイと置いた。
あいかわらず、ママとパパの間は微妙なまま。

「自分で言えばいいじゃん。」
もう私だってハッキリ言えるくらいは成長した。

箱を持つと、思ったよりちょっとズシリとする。
食べ物かな?冷やしておかないといけないもの?箱を振ってみたけどわかんない。「冷蔵しなくていいのかな?」

ママは洗濯ものをとりに行きながら、
「賢い先生に聞いてみたら?」
「はいはい。」

私は、いつものように元々タル兄ちゃんのだった部屋の前に立つ。
閉めきった扉越しに、滑らかな弦楽器の音色がうっすらもれ聴こえてくる。

ノブを回しながら、「開けるよ。」
がちゃりと開けたドアのすき間からのぞくのは、勉強机のイスに座るサトーさんの後ろ姿。
パソコンから流れるクラッシックの調べに、とがった耳をピンと立て、いつものように背筋を伸ばして体を揺らせている。

「あのさ、これさ…」
箱を見せようとすると、サトーさんは振り向きもせず、右の前足をすうっと挙げて私の言葉を制する。
やがて大人っぽくなった長い横顔で、

「ノック。」

と静かに言った。

「ごめんて。」私は肩をすくめる。


サトーさんがやってきてから、あっという間に2年以上の月日が経っていた。
見た目はすっかり成犬。イヌ年齢では20歳をとっくに超えている。ある意味、身体の成長は完成してしまった。中学2年の私を追い越してしまったのだ。
凛々しい横顔は、なんだか大人の雄の色気のようなものを感じさせてドキッとさせられることがある。

ノックなしを咎められたから、わざとおどけ気味で部屋に入り込んでみる。
「なんだっけこの曲?”ジイさんのアリャリャ”だっけ?」
「”G線上のアリア”。ボケが0点。」
冷たい。あの可愛かったサトーさんはどこへ?

サトーさんは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハをこよなく愛し、特にこの有名な曲に心酔している。
「冒頭の2小節の間、F#が動かず延びていく様が限りなく美しい。」
と意味の分からないことを言う。『死ぬ時に棺桶に入れてほしい1曲』だそうだ。かわいい声で『ムーンケーキマン』の歌を歌っていたころの面影は、もうない。

「これ。」箱を差し出すと、黒い鼻を近づけ、ワインソムリエのような所作で匂いを嗅いだ。本物のソムリエを見たことないけど。

「中身なにかわかる?お菓子?」
「ちがうね。」

もう一度、クンクン。

「んー、この豊かな香りはプラスチック…それに…芳醇なリチウムイオンバッテリー。ステンレス。日本製。」
「で?」
「うん、僕のバリカンだ。パパに頼んでた。」

そう言って、パソコン画面に落としたサトーさんの視線を追うと、ネット記事に、
” 愛されワンちゃん・ゆるふわ人気トリミングカット集50選 " とあった。
…ったくよ、色気づきやがって。


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まだ2歳なのに、イヌ年齢だと20過ぎの大人。
精神的には高校生か大学生といったところか。少しお兄さん。
日々、頭の良くなるスピードがどんどん加速している。

サトーさんは、とにかく文字が好き。たくさん本を読みたがった。
図書館に行きたがったこともあったけど、ペット禁止だと言ったら機嫌が悪くなり、以来、「借りてきて。家族3人限度数の15冊。」と余計に人使いが荒くなった。

「読み足りないな。」と、パパの新聞、スーパーのチラシや、食品の成分表、家電の説明書など、文字という文字をなんでもかんでも読みあさった。
一度見聞きしたものは記憶してしまう。だから異常なまでに知識量が増えていく。
いつからか、とっくに私たちより賢い。

以前は文字や絵を描くのにエンピツをくわえていたけど、それだけだと物足りなくなって、パソコンを使いたいと言い出した。
パパが調べて買ってきたのは、手の不自由な方が使っているキーボードとマウス。マウスはトラックボールタイプ。はめ込まれたボールを転がしてクリックできる優れモノだ。キーボードは11個のボタンがついており、押す回数で文字を入力できる。前足を器用に操り、文字を書けるのがとにかく楽しいらしい。

ある時、学校にいる私のLIMEに『ポーン♪』と知らないアカウントからメッセージが届いた。学校ではスマホ禁止だから、こっそりトイレの個室で見たら、

” 水筒忘れてる。注意散漫。"

見ると、アイコンの写真は、サングラスのサトーさん。


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いつの間にか勝手にアカウントを作っていた。
「何やってんの?バカ。あんたの写真使ってバレたらどうすんのさ。」
「大丈夫。ペットの愛犬をアイコンにしてる人、何千万もいるから。」

ま、まあね。

イラストアプリで描くその絵は私より上手。むしろプロ並みだった。

気がついたら、ごくごく単純だけど簡単なゲームまでプログラミングしていた。
飛んでくるフライングディスクを犬が飛び上がってパクッって掴む。ただそれだけだけど、すごい。

「どうやって覚えたの?」
「そんなのネットに作り方くらい転がってるよ。」

だが問題があった。
私の銀行口座に50万円もの知らないお金が入金されていたのだ。せいぜいお年玉分しか入っていなかったのに。
サトーさんが自作のゲームをネットで販売して、いつのまにか50万円儲けていた。

「あんた、金儲けはダメでしょ。さすがに。ひくわ。」
「誰にも迷惑かけてませんけど。」

やがてサトーさんはネット上の情報だけでどんどん学習していった。真っ白なスポンジが吸い込むように、どんどん吸収していく。
動画サイトYouTofuで英会話を学習し、人類の起源や進化について論文を読み漁ったり、なんでも習得していった。やがて、大学入試の過去問をマスターしてしまっていた。

最近興味があるのは、サイエンス系らしく、
「生物学と医学を学びたい。遺伝子についても。」とのたまっている。ネットに転がっている論文や医学書から勉強できるそうだ。

「あんたね。犬がそんなの勉強してどうすんのさ。」
「犬をバカにしないで。僕らは、匂いで病気を見つけることができる。」
「匂いだけで?またまたぁ。」
「呼気や汗、尿などからガンを発見できるよ。有機化合物の変化でね。アドレナリンの成分から糖尿病を探知することだってできる。アメリカには『低血糖探知犬』の育成機関があるくらい。」
「へえ、すごそ。意味わかんないけど。で、お医者さんにでもなりたいの?」
「当たっているようで当たってないかな。人間と犬の違い。自分自身についてもっと知りたいんだ。それともう一つ目的があって。将来の夢っていうか…。」

「将来の夢?」

「…あ、いいんだ。なんでもない。」

「なによ、言ってみなさいよ。宇宙飛行士は卒業したの。」
「別にいいじゃん。人に聞くんだったら、桃々ちゃんこそ夢はなんなの?」
「私はまだないよ。ごまかさないで、言いなさいよ。」
「うるさいなあ。」
「ねー。」むぎゅー、と首にまとわりついてやる。
「いてて。」


そんなワケで、言うことがいちいち可愛くない。

例えば…、

【かわいくない例、その1】
お出かけしている時に、私が散歩中の犬を見て、
「カワイイ!あのワンちゃんの着てる服見て!サトーさんもあんなのどう?着る?」とたずねても、
「あれね。飼い主の『自己満』だよ。犬が喜んでるかどうかは分からない。」
「その言い方。あんたも服着てるじゃん。」
「僕は別。人間と同じ尊厳がある。」

【かわいくない例、その2】
「ねえねえ、この『犬語翻訳アプリ』ってどうなのかな?本当に犬の言葉が分かるのかな?」
「なに言ってんの、バカじゃない。人間の気休めだよ。なんにもわかっていやしない。」


【かわいくない例、その3】
「聞いて、聞いて。超笑ったんだけど。学校でね…でね、でね…。」
日常の面白エピソードを披露しても、
「下手くそか。フリが効いてないから全然落ちてない。」

…この調子だ。

だけどそんなことない。
私は信じている。

きっとサトーさんは昔の無邪気な心を忘れていないはず。
私のことも好きなはず。
実はかわいいトコも絶対残ってはいるはず。

犬の本能的な部分は、なかなか消えないみたいで…。
狙い目は、サトーさんが油断している時。
毎日、私とサトーさんの攻防戦が繰り広げられる。

例えば…、

【好きなはずな例、その1】
私が学校から帰ってきたとき。
ドアを開けるなりサトーさんが胸に飛び込んで顔をペロペロなめてくる。
犬の本能で、反射的に家族が帰って来た喜びが爆発しているらしい。
「えっ!サトーさんも嬉しいの?私も嬉しい。」とニヤニヤしたら、
「ハッ」と我に返ってプイッと去って行く。
照れ隠しに「ママと間違った。」とか言い訳しながら。
「負けを認めな。私が好きなんでしょ。」
「別に。」

【好きなはずな例、その2】
サトーさんがソファの上であお向けにウトウトしている。
お腹を出して両手両足を広げた姿で、昼下がりにすっかりとろけている。
よし、チャンスだ。息をひそませ、そおっとお腹を撫でると、しっぽを振って恍惚の表情。ぐったり全身の力が抜けていく。
よしよしカワイイやつめ。偉そうなこと言ってても、チョロいもんだ。
と、不意に「ハッ」と我に返って、私の顔を見ると、プイッと背筋を伸ばして去って行く。
「間違った。」
「好きなんでしょ。」
「別に。」


【好きなはずな例、その3】
廊下に、サンダルを片方わざと落としておく。
サトーさんが通るのを横目で見ていると、一度通り過ぎてから、また戻って来る。
クンクン匂いを嗅いでじっと考え、おもむろに嚙み始める。前足でおさえ、くわえて引きちぎらんばかりに伸ばしたり「ぐるるるるるる」とノドを鳴らしながら、夢中になって遊び始める。

「こら!サトーさんッ!」と叫ぶと、

ビクッ!!と天井に届きそうなくらい飛び跳ね、イスの下に隠れてこちらをのぞき見る。

「わははっは。私の勝ちね。」
「違うよ。間違った。」
後ろ足で砂を蹴るようなしぐさで、のそのそ出てくる。
「私が大好きなんでしょ。」

「違う。犬にとってサンダルは、いわば『謎解きの書』なのさ。知的好奇心を刺激する『読み物』なんだ。1日歩いた様々な場所を表すヒントが複雑に混ざっていて、そこにどんなエレメントがあるか謎を解き明かしたくなる。宇宙の真理に心奪われた物理学者の境地なんだ。」

「言えばいうほど、ムリがある。私の勝ち。」
「犬特有の本能。仕方ないの。人間も変だよ。桃々ちゃんだって、貧乏ゆすりしたり、ハナクソほじるでしょ。犬には理解できない。」

むか。

「うるさい!」

やっぱりかわいくない。
今夜も、あの可愛かった小さなころの動画でも見て寝るか。


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サトーさんの好奇心はとどまるところを知らなかった。
パソコンにあまりに熱中してるもんだから、たまたまチラ見したら、

『僕は21歳、都内の大学に通っています。ゲームのプログラミングが趣味です。スポーツはフライングディスク競技が得意です。』てな書き込み。

ぬぬぬ。捨て置けんぞ。
今度はマッチングアプリで、どこかの誰かとメールのやりとりをしていた。
AIで生成した適当な誰かメンズの後ろ姿の写真で、架空の自分を設定して。

「なにこれ?21歳の大学生って誰?勝手に何やってんの。キモっ。」
と非難したら、前足で画面を覆って、
「プライバシーの侵害。僕がなにやろうと自由だろ。」

「あんた3歳でしょ?年齢も逆サバ読んでるしさ、大学なんて行ってないじゃない。」
「東京大学合格レベルならとっくにマスターしたよ。テキストもネットに転がってるし。いいだろ、ただ誰かと会話してみたいだけだ。」

「あらー、私がいるじゃない。」
極上のポーズで、目をパチパチしてやったのに、
「レベルが低くてつまらない。」
「チッ、殺す。」

「だけどさ…」
私を見つめ、ヒゲを寂しく垂らして、

「結局、僕が話していいのは家族だけ。これじゃオリの中のペットに過ぎない。」

私と話す。家族で過ごす。そんなことより彼は外の世界に興味が出てきたのだろうか。誰か友だちが欲しいのだろうか。私たちじゃない誰かと。
なんだか複雑な気持ちになった。だからすがるように、

「私たち家族がいるじゃない。」と寂しく問いかけた。
「僕は孤独なんだ。じゃ、散歩のとき、図書館の八ツ橋さんとか、同級生の大福とかにしゃべりかけていいの?」
「それは…。」困る。

「誰と会ったって言葉を話してはいけない。無邪気なケモノのフリをしなきゃいけない。『こんにちは。』『いい天気ですね。』そんな当たり前の言葉も交わせない。こんな人生なんて意味あるのかな。」

「………。」
何も言えなくなった。

だよね。
外部の誰ともコミュニケーションを隔絶されている。サトーさんはこのままずっと隠れた人生を送らなければいけないんだろうか。

ママに話すと溜息をついた。「確かにそうかもしれないね。」
パパは、「だからって事実を明かして、サトーさんが安全に生きられるとは限らない。」と悩ましく頭をかく。

世の中に知られたら、サトーさんはどんな目にあうんだろうか。
家族会議では、答えが見つからなかった。



<第13話>「予知能力」


教室で下敷きをウチワに男子たちがボヤいていた。
「今日の体育ダリぃな。10月なのにめちゃ暑くて。死ぬ。」
「大丈夫だよ。『シュクレさま』の予言だと、11時から豪雨だってよ。」
「ガチで?中止あざす!」
とハイタッチ。

なになに?なにかが解決したのか?

「あの人たち、なに言ってんの?なんとかクレ様がどうしたって?」
苺乃大福に聞くと、
「モモノスケ知らないの?めっちゃ有名だよ。『シュクレさま』」
とあたりまえだろ的な顔。

「シュクレさま?」

ネットニュースを検索すると大騒ぎだった。

謎の『mr.secre_man…xxx』という名のSNSアカウントが話題になっている。ときどきつぶやく内容が、どうやら物議をかもしているそうだ。
だけどSNSで人気だからって、それは決して『加工アプリ並みのメイク術』や、『韓国映えスイーツ情報』のような浮ついたネタではない。

見ると、

" 今日16時20分。茨城県を中心に局地的雷雨。 @mr.secre_man…xxx "

" 明日未明。千葉南房総で震度1程度の地震。震源地は約10キロ太平洋沖。 @mr.secre_man…xxx "

" あさって午後。東京都23区内で竜巻発生。 @mr.secre_man…xxx "

どれも関東近県の災害の予測だ。しかも、その驚くべき的中率!
時には小さな地震から、1週間先の台風の進路や突然の豪雨など。
気象庁の発表より早く正確だ。しかも細かすぎ。と、ちょっとした騒ぎになっていた。

『シュクレ様』の予言の対象地域は、時には国内にとどまらず、海外のさまざまな気象や災害についても言及するものもあった。
ここ2か月の間に、東南アジアから中国までを襲う大きな台風。北米の巨大竜巻。
そして、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境に横たわる活断層による地震…。
…なんてことも的中させていた。

その影響力はすでに世界に広がり始めていた。温暖化の影響で続く異常気象について、『地球が悲鳴を上げている。』と警鐘を鳴らすそのヒーローぶりは、各地に熱狂的なファンをつくっていった。
そういえば最近、テレビのニュースやワイドショーでもシュクレ様の話題で騒いでいた気がする。

しかしその正体は、誰も知らない。

一体誰なのか?日本人なのか?どこに住んでいるのか?謎の存在で、その実態は世界中の誰も知られていなかった。
自然科学界のパンクシーとして話題を呼び、その正体を詮索する世の中の関心をいたずらにあおった。関東近郊の気象の予言から始まったからという理由で、『シュクレ様は東京在住の可能性が高いのでは?』となおさら盛り上がった。

世界のフォロワーたちは口々に驚嘆と称賛の嵐。

“ どうしてわかるんだ? “

“ 当たり方が神。 “

“ ロシアの諜報機関で昔働いていたらしい “

“ 未来人?人生何周目? “

“ 『砂糖さん』。明日のゴルフ、晴れにしてくれたら1万払う! ”


…ん?

ちょっと待って。

『シュクレ』って、フランス語で…『砂糖』だと?
『Mr.シュクレ』で、『砂糖…さん』?
まさか、まさかね…。


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部屋をのぞくと、お腹を出してあお向けに寝転ぶ、ダラダラモードのサトーさん。風になびくレースのカーテンを口でパクパク捕まえようとしている。のんきなもんだ。

「もしや、まさかと思うけど…Mr.シュクレ・マンって、あんたなの?」

「ん?…ああ、(パクパク)言ってなかったっけ?」

「言ってません!ちょ、ちょ、ちょっと待って。こんなの書いちゃダメじゃん。あんたのことバレちゃうよ。」

カーテンに心奪われ、柔らかにはためくタイミングを計っている。「大丈夫だって。(パク)インチキ占いくらいに思われてるよ。(パクパク)」

世間と温度差ありすぎ。

「当たりすぎだって怪しまれてるよ。なんでわざわざ?」
「しょうがないじゃん。人助け。(パク)災害が来ることを知ってるのに言わない方が罪深いよ。(パクリ!と噛んで)やった、ふかまへた。」
「そりゃそうだけどさ。」

スクッと起き上がり、ブルブルブルッと全身を震わせた。

「僕たち犬は、地球の変化が分かる。磁場の変化、地盤の動く音、空気中の素粒子の変化…人間が進化によって失った感覚を僕たちはまだ持ち続けている。地球と会話ができるんだ。だから皆に知らせる義務がある。」

と言いながら前足で机の上のパソコンを指して、
「あ、そうそう…ちょうどこれを国際地質科学連合IUGSに送りつけてやろうと思ってたとこだよ。」

「は?ナニをドコに送るって?」
画面を見ると、なにやら長い英文が並んでいる。

「論文だよ。『太陽フレアの地殻変動に対する影響』について。」

「てかなに?その呪文。『なんとかフレフレ』がどうしたこうしたとか。」
「『太陽フレア』だよ。説明したってわかんないよ。」

「ぶつよ。」

「太陽の表面で爆発現象が起きること。それを『太陽フレア』っていうんだよ。たき火でパチパチいうだろ?あんなようなもの。」

論文の写真を見せた。
太陽のオレンジ色の球体表面から、黒い宇宙に向かって炎の揺らめきがほとばしっている。


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「太陽フレアが発生した時、陽子などの電気を帯びた粒子が放出されて、はるか離れた地球の磁場が乱れるんだ。そうするといろんな不思議なことが起こる。」

「え?どんなこと?」

「例えば、北海道でオーロラが見えたり、世界で通信障害やGPSの位置情報に影響が出たりすることも。」


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「へえ、たき火のパチパチのせいでね。だから、そのフレフレがどうしたっていうのさ。」

「ほら分かってない。」
「わかってるよ。」

「それが地震を誘発しているのさ。地殻変動に影響を与えているっていう説だよ。近年、太陽フレアが活発化していることと、僕はその関連性を論文で証明した。」

「はあ…そうね、そのかんれんせいね。はいはい。とにかく、だからって目立ちすぎ。あんたの正体がバレたら一巻の終わりだよ。」

「大丈夫だって。静かな水面に小石を投げてみるんだ。水紋が広がっていき、どこまでも広がっていく。どこまでも、どこまでも…。」
前足を揃え、肩を落としてふーっと伸びをした。

「なに言ってるか分かんない。」

「僕という存在が、世の中にどんな影響を与えるのかシミュレーションしてるんだ。小出しにね。発信していれば、どこか遠くで化学反応が起きて、もしかしたら僕の秘密の何かヒントがみつかるかもしれない。」遠い目をする。

「どんなヒント?」
「それを試すのさ。」
「やっぱりわかんない。」

「僕というしゃべる犬の存在が社会に認められる、いつかはそんな日が来るかもしれない。それまでいろんな方法で少しづつ反応を見ていくことから始めてみたいんだ。」

そうは言うけど心配だよ…。そんな顔を私がしてるから、サトーさんは微笑んで、

「大丈夫、ネットで500円で買った外国の偽造アカウントだから。それに海外のサーバーを転々としているからIPアドレスは特定されない。」

あんた、ひくわ。

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ここ数日、やたらサトーさんが机に向かっている。
「なにを一所懸命やってるの?」と尋ねても、
「別に。ほっておいて。」軽くあしらう。

またかよ。
なんだかなあ。サトーって名前は甘いくせに塩対応だなあ。怪しいなあ。と思ってたら、
またニュースが騒ぎ出した。
あの素性不明の予言者『ミスター・シュクレ・マン』が、またもネットで論文を発表したらしい。
しかし今度は気象や災害ではない、…『医学』だ。
論文の内容は、よくわからん『遺伝子治療の汎用性』とかなんとかについてだそうだ。

" ついにMr.シュクレマンの予言は医学の領域にまで及んだ!神ではないか!? "
とニュースで騒ぎになっていた。

うーん、サトーさんめ。また目立つことをやりおって!
コテンパンに注意しなきゃ、と息まいて部屋の前に立つと、中からサトーさんが誰かと話す声が聞こえる。しかも聞き慣れない言葉だ。なんだ?なんだ?思わずガバッとドアを開けた。

「サトーさん!誰?誰と話してんの?」

「ノックしてよ。勝手に入るなって。」

「ダメでしょ!正体ばれるじゃない!」
「大丈夫。顔出し無しのチャットだから。…あれ?言ってなかったっけ?」と涼しい顔でトボける。
「言ってません。」

それにしても、「変なコトバしゃべってなかった?何語?」
「ドイツ語だよ。」
「は?ドイツ?」
「正確にはスイスドイツ語。スイスの大学で…」

「今度はスイスの女子大生とマッチング?あー気持ち悪い。」

「んなわきゃないだろ。失礼な。スイス国立大学のニートヴァルデン・アプフェルアウフラウフ教授と論文について議論を交わしてたんだよ。病気の細胞が持つ遺伝子の傷そのものを治すために…。ああ、君のポンコツ頭じゃわかんないか。」

「は?うっざ。あんた何やってんのよ。やめなよって言ったでしょ!勝手に論文なんて発表して。」

「あれ言ってなかったっけ?」ととぼける。
「言ってません。」
「いいじゃない。僕の勝手でしょ。」

そう言って、後ろ足で砂を蹴るようにフローリングの床を爪でカリッと搔き、部屋を出ていってしまった。
だから、その気取って伸ばした背筋に言ってやったのだ。

「いいから!とにかくやめてよね!こういうのは。」
「はいはいー。」
「約束だからね!次やったら絶交だから!」
「はいはいー。」
返事が軽い。くそー。

うーん。

何をたくらんでるんだ?
近ごろサトーさんの気持ちが分からない。なんだか手の届かないどこかはるか遠くに行ってしまうのではないか。私たち家族が置いていかれてしまいそうで不安になった。
サトーさんは、一体どこへ向かっているんだろうか?
知りたいような気もするけど、知ってしまったら後戻りできないような怖さも感じた。



(※ショートカットver.は、14話をスキップし⇒★15話へ)

<第15話>「サトーさんの母」




サトーさんが真ん中の部屋を使うようになってから、ずいぶんと時が経った。
本棚の本もパソコンもすっかり我がものになって、まるでずっと住んでいるかのようだ。
そのせいか、この亡くなったタル兄ちゃんの部屋で、ママも気持ちが乱されることは少なくなった。


サトーさんはベッドの横にある窓がお気に入りなようで、考え事をするときは、窓枠にちょんとアゴを乗せ、上目遣いに夜空を眺めた。街の灯りに邪魔されながらも、星たちが頑張って光を放っている。

ただ今日は、いつになく元気ない様子で尻尾を巻き込むほど小さく丸まっている。
隣で寝そべりスマホをいじる私に、聞かせたいのかどうかわからない声でサトーさんが小さくつぶやいた。

「覚えてる?小さい頃、宇宙飛行士になるとかならないとか、って話したの。」

私は大した話題でもないとタカをくくっていたから、適当なあいづちで、
「そんなこともあったっけ。」

「ライカは何を見たんだろう。」

「ん?ライカって?」

「ロケットに乗った犬の名前。」

何の話だ?

「なにそれ?」

サトーさんは瞬く星を見つめたまま、「そこの本。」

床にお兄ちゃんの図鑑が開いたままで転がっている。
ページには、宇宙に軌道が描かれたイラストと、犬の写真があった。ものものしい装置の中に組み込まれている1匹の犬。心細そうな表情で座っている。

「あら、先を越されたね。」

「のんきな話じゃない。動物実験だよ。」


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1957年という幾時代も昔の話。
旧ソビエト連邦、ロシアが人類発の宇宙衛星のためロケットのスプートニク2号を打ち上げた時、犬を乗務員として乗せ、どこまで生きていられるかの実験に使われたらしい。

衛星を地球に帰還させる技術がなかったため、1週間の飛行が終わったら、用意された薬物で殺される予定だった。でもそれより早く、打ち上げてから20時間で高熱と酸素不足、ストレスで絶命したのではと書いてある。

「つらかっただろうな。どんな思いだったんだろう。」サトーさんは図鑑をアゴで指し、「ひどいよな。ずっと人間を信頼して一緒に生活してたんだぞ。こんなの文字通り『犬死に』じゃないか。」

たった一人で計器だらけの狭い空間に閉じ込められ、真空で音のない静寂の世界に取り残される。このままいつか殺されるなんて理解できなかったとしても、迫り来る自分の運命に本能的に激しい恐怖を感じたに違いない。

「怖かったんだろうな。」

やがて耳を割く轟音!
とてつもない重力と振動が全身にのしかかる!
身体を焦がすほどの高熱と息苦しさが襲う!

そんな想像が私たちの心をえぐる。

サトーさんはベッドを蹴ると椅子にひらりと器用に飛び映り、1回回って腰を下ろした。そして私に背を向けたまま、

「犬に自由はない。あるのは『人間の都合』の範囲での自由だけ。」

「え?」

「そりゃ、犬を『家族』って愛情をもって大切にしてくれる人はたくさんいる。でも、現実社会は厳しい。年間2000匹以上の殺処分。虐待や放棄。無責任な飼い主や業者。本当に家族と呼べるのかな。そもそもさ、自分の愛する子どもに首輪をするかい?」

「それは…。」サトーさんと向き合う人間の代表として、何も答えられなかった。私がサトーさんを家族だと思っているのは、思い上がりなんだろうか?

「犬って、なんなんだろう。僕って、なんなんだろう。」
その背中はいつもより心なしか小さく見えた。

「サトーさん…。」

スタッと床に降り立ち、ゆっくり弧を描くように歩き始めて、

「普通の犬でもないし、ましてや人間でもない。散歩のとき、出会う犬たちがやけに僕に敵対心をむき出しにする。彼らは仕方ない。本能だから。だけど僕もなぜか気になったりイライラしたりする。そんな感情が生まれる自分が嫌だ。どこまで行っても僕は犬なんだと思い知らされる。人間じゃない。」

「………。」

返す言葉がなかった。自分勝手で、マイペースで、いつも強気なはずのサトーさんがこんな弱音を吐くなんて。宇宙へ行ったライカのことで、心の奥底に眠っていた不安が呼び起こされたのか。

「僕は一体、何者なんだ?僕はどうしてこんななんだ。人間ではないし、ましてや普通の犬でもない。なんのために生きるのか?理由を知りたい。ボクが生まれたのには必ずワケがあるはず。僕はどこから来て、どこへ向かっているのか?僕はそれを突き止めたい。絶対に突き止めて見せる!」
決意のまま力強く後ろ足を踏みしめる。

と、サトーさんはくるりと振り向いて、にやりと笑った。

「なーんてね。こんな話はおしまい。我ながら重っ。ひくわ。ははは。」

少しおどけて場を繕うからこそ、実は本音なのだろう。自分が何者なのか?秘密を知りたいと思うのは当然だ。
私だって知りたい。サトーさんが何者なのか?

だから悩めるサトーさんに便乗して、私も聞いてみたくなった。
「もしそうだったらな…」とずっと感じていた" 願望 "のような問いを、思い切って投げかけてみたくなった。

「あんたは、やっぱりタル兄ちゃんの生まれ変わりかもと思うんだ。」

「ん?」サトーさんは後ろ足で首を搔いて、
あきれたように「転生モノ?ベタだな。」と言い捨てた。

「思い切って言ったのに…。」

「僕がお兄さんの生まれ変わりってこと?そんなわけ……あれ????」
ふとサトーさんの動きが止まった。
「ちょっと待って…どうした?記憶の奥から何かが…????」私を見つめて、

「うっ!!」

突然、雷に打たれたようにビクッと身体を反らせ、一気に脱力。
床にへたり込んでしまった。

「どうしたの?サトーさん?」

やがて、目を覚ましたかのように、私を見つける。
「桃々…?」

「なに?サトーさん?」

目を見つめ、「…桃々?君は桃々なのかい?」

「え?」

「桃々、大きくなったね…。」
うるんだ瞳。前足で胸をおさえる。

え?うそ?タル兄ちゃんの記憶が戻ってきたってこと?
「うそ…お兄ちゃん?タル兄ちゃんなの?」

ハッと振り払うように、
「…なーんてね。んなわけない。」
サトーさんは、ベロッと長い舌を出した。

「ひどい…演技かよ。ひどい、ひどい、亡くなったタル兄ちゃんでフザけるなんて!冗談でもひどすぎ!デリカシーなさすぎ!」
足をバタバタ蹴るマネで反撃。

「ごめん。悪ふざけすぎた。反省。これはごめん。」

「もういいよ。乗り越え中だし。」
プイッと横向くと、さすがに後ろめたかったのか、私の『説』を検証してくれた。

「ま、仏教でも輪廻転生の思想はあるから。百歩譲って僕がタル兄ちゃんの生まれ変わりだったとしたらと仮定しようよ。でもさ、考えてみてよ。例えば今そこで飛んでいる蛾が人間の生まれ変わりだったとする。」
サトーさんの視線の先には、窓の外で夜の蛾がヒラヒラ舞っている。鮮やかな色の鱗粉模様が毒々しくも美しい。
「でも今この蛾は何か考えてるかな?そんなことないよね。現実は知能の無いただの蛾でしかない。何も考えないし、しゃべらない。だけど僕は知能があってしゃべる。なぜだか理由は説明がつかない。」

「うーん。」
「気持ちはわかるけど。僕がお兄ちゃんだった時代の記憶もない。」
「残念…。」
「ごめん。」

「ううん、いいよ。んー、じゃ、なんだろ。…そうだ、悪の秘密結社に手術されたとかは?」
「犬の脳を高い知能に手術した?遺伝子のゲノム編集で?現代の技術じゃ無理だよ。」

「今じゃ無理?だったら、未来から来たとかは?」
「未来人によって作られた?飛躍しすぎ。そもそもタイムマシンが存在するなら、これまでの人類の歴史には矛盾がありすぎる。」

「じゃあ、宇宙からやってきた!」
「地球外生命体ってこと?僕が?」
「宇宙人?いや宇宙犬?人間と逆転した『犬の惑星』的な。」

「うーん、限りなく広い宇宙だから、可能性ゼロとは立証できない。けど、①遠く離れた惑星で、②有機物質の構成と気温条件が地球とまったく同じ星で、③犬と同じ姿の生物が、④まったく同じ時代に遭遇する、…そんな確率は天文学的に低い。てか、どうやって宇宙から来たっていうの?」

「UFOで?ワープ的な?」
「却下。昭和のSF。」

「じゃ、魔法使いに犬にされた王子さま?」
「話す価値なし。」

ぶー。

「地に足の着いた方法で、まずは一から調べよう。手伝って。」
「いいけど、どするの?」
「僕が一体どこから来たのか?その場所をたどれば何かわかるかもしれない。まずは…あそこへ行こう。」
「どこよ?」

「保健所の動物保護センター。」

「あれ?『エンジェルなんとか』でもらわれたって、パパが…。」
「ああ、僕がもらわれてきた『エンジェルライフ』ね。保護犬の里親探しのNPO法人。電話で問い合わせしたら、わかりませんって。」
「どうして?」
「『もともと保健所が保護した子犬を譲り受けたので出生場所は不明です。保健所に問い合わせてください。』って言われたよ。だから、アポとっといた。」

「早っ、いつの間に?」

「あれ言ってなかったっけ?」

「言ってません。」

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東京都保健医療局の動物愛護センター平和島出張所には、JR大森駅から都バスに揺られてやっと着いた。

まずは業務課の女性が対応してくれた。
怪しまれないよう学校の自由研究ということで問い合わせたからだ。中学生の自由研究という理由は、公職の大人たちの大義名分をくすぐるにはちょうどよかった。

「かわいいね。この子のことですね。」
女性はキャリーバッグの中のサトーさんの顔をのぞいて微笑んだ。
「東京都が動物を保護する件数はたくさんあるんですよ。最近は少なくなったとは言え、犬の保護だけで年に3000件以上あります。当時の担当さんもさすがに詳しいことは覚えていないんじゃないかな。」
と廊下を案内する。

「さ、3000件!」
驚く私をよそに、ある部屋に入ってデスクに座るおじさんに声をかけた。
「ああ、いたいた。綿樫さん。」

声をかけられた上下グレーの作業着のおじさんは怪訝そうに振り向いた。眉をしかめて私たちを睨むように眺める。ちょっと怖い。見知らぬ大人と話すのは苦手。緊張でバッグの紐を強く握った。

エンジェルライフで教えてもらった登録番号を元に、おじさんはPCのマウスを転がしながら、当時の記録データをスクロールしていった。
「えっと…確かこのころ……あった。『江東区…深川4の3、あめみや…飴宮神社』、これこれ。…ん?」

画面を凝視する。もっと怖い顔になった。

「ああ、そっかあの子か。」

おじさんはキャリーバッグのサトーさんを覗き込んで、
「あの時の子か。大きくなったね。元気に育ったね。」
強面な印象から一転、ニッコリ優しさにあふれる目に変わった。きっとこの人は動物のことを愛しているんだな。

「この子のケースはめずらしくてね。よく覚えているよ。」
意外な答えに、緊張より興味が勝った。「珍しい?」

「親子で保護したんだ。しかも生まれたてでね。」

「親子!?」

サトーさんがピクリと片耳を立てた。

「神社の境内のね、縁の下に紛れ込んでたんだよ。通報があってね。母親犬が、正に赤ちゃんを産み落としたばかりの様子だった。」

それってサトーさんのママ?
「サトーさん、お母さんだよ!お母さんがいるよ!」

バッグの中から首を延ばす。近ごろつんとすましてばかりだったサトーさんの表情が大きく喜びで溢れた。だけど、おじさんにバレないようにすぐすくめてしまった。

「でも不思議なことに、子犬はこの子一匹だけだったのさ。」
「なにが不思議なんですか?」
「普通の犬は一度に5〜6匹赤ちゃんを生むはずなんだよ。なのに1匹だけ。外敵に襲われたわけでもない。形跡をどう見ても1匹。この子はね、暗い神社の縁の下で、弱った母犬に一所懸命しがみついてお乳を飲んでいたんだよ。生きようと必死にね。」

よかったね、サトーさん。お母さんがいたんだよ。ひとりぼっちじゃなかったんだ。お母さん犬と会えば、サトーさんが話せる秘密が何か分かるかもしれない。

「あの、その母犬は?今、どこに?」
「ああ、母犬は…見つけた時にはかなり弱っててね…。」

おじさんの繰り出す言葉にサトーさんは釘付け。

「可哀そうに、ひどいケガをしていてね。保護してすぐに亡くなったんだ。」

「えっ!」
思わず声をあげてしまったサトーさん。亡くなった?ママが?

おじさんが「ん?」と覗き込んだから、

私は
「えっっえっえーーーー。」
とごまかした。

すっかりうなだれて、サトーさんはキャリーバッグの底のほころんだ縫い目を見つめている。

おじさんはまぶたを閉じて記憶を手繰り寄せる、
「そうそう、普通は母親というのは子犬を守ろうと敵意をむき出しにするもんだけど、私たちが近づいた時には、なんだか安心したような、私たちにこの子を託すような表情をしたように見えたな。とても穏やかに。」

バッグの中のサトーさんがみるみる失望に打ちひしがれていくのを感じた。
やっと家族が見つかったと思ったのに…。
そうだよね。家族を亡くす悲しさは誰よりも分かる。

結局、母犬とサトーさんがどこからやって来たのか?までは分からなかった。
その場にいたたまれなくなって、帰ろうとした時、

「あ、そういえば…」おじさんが私たちを呼び止めた。
「そういえば、ずいぶんしてから、その母犬について、どこかから問い合わせがあったような。」
「えっ!?誰?」
「うーん、何年も前のことだからね。記録も残っていなしな。」

それ以上は分からなかった。
飼い主なのか?関係者?それとも通報者が気にして連絡してきたのか?誰か秘密を知っている人がいるのだろうか?

敷地内の片隅にある小さな慰霊碑の前で私は手を合わせた。
サトーさんも前足を合わせていた。お母さんに何を話したんだろう。


とほとぼ帰り道。
駅から家に向かって夕焼けに染まった雲を眺めながら、黙って歩いた。

私は何も言えなかった。
サトーさんの本当のお母さんは亡くなってしまっていた。それを知らされて私は後悔した。こんな風に調べなければ分からずに済んだはずだから。
彼の気持ちを思うと苦しくなった。狭いバッグの中、黙って丸まっている。あんなに普段生意気なのに、こうなるとかわいそうになってしまう。

僕はひとりぼっちだ…。
丸めた背中がそう言っているようだ。

「一体誰なんだろう?サトーさんを探していたのは。」
返事が欲しくて、ひとり言っぽくつぶやいてみた。

「………。」

「サトーさんが保護された場所に行ってみる?神社の縁の下だっけ。」
望みをつないであげたくて、優しく問いかけても、

「もういいよ。ありがと。」

だけど、私は知っている。
暗いキャリーバッグの中で、彼はずっと鋭く目を見開いている。そう、時間をかけて悲しみを乗り越えながら、静かに決意を固めているはずだ。
あのサトーさんの言葉を忘れない。

「僕は一体、何者なんだ?僕はどうしてこんななんだ。人間ではないし、ましてや普通の犬でもない。なんのために生きるのか?理由を知りたい。ボクが生まれたのには必ずワケがあるはず。僕はどこから来て、どこへ向かっているのか?僕はそれを突き止めたい。絶対に突き止めて見せる!」

そうだよ、そう。サトーさんは一体、何者なのか?
なんのために、どこから来て、なにをするために生まれたのか。
そこには何かきっと大切な意味があるはず。

「あなたは世界にひとり。特別な存在だよ…。」
サトーさんの横顔に心の中で語りかけた。

その夜は、私の方から一緒に寝てあげた。
サトーさんは背中を少し私に預けてきた。


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驚くことが起こった。

ママの作る夕飯の匂いを、かすかに感じながら宿題をしていたある日。
今まで聞いたことないほどのパパのデカい声が家中に響いた。

「サトーさん!サトーさん!見て!」

まだ心が癒えないサトーさんにとって、母親犬の一件より大事なことなどあるはずもない。乗り気のしない重い足取りで、パパの声のするリビングに向かった。

私もついて行くと、リビングには、新聞紙を広げたパパが爪切りの途中でフリーズし、ママがおたまを片手に固まっている。
一瞬何が起こっているのか分からなかった。

皆の視線の先には、テレビ。

「どうしたのさ、サトーさん。」

尋ねても彼も動かない。
画面から目を離せないでいる。垂れた舌をしまうのも忘れてしまうほど呆然と立ちつくすのだった。

「なになに?ニュース?」

イブニングニュースでカラフルに踊るスーパーテロップ。
そこには、目を疑う文字がこう記されてあった。予想を軽く超えて、斜め上行く光景だった。

” 犬がしゃべる未来 "


映像には、賢そうなボーダーコリーが映っている。
まだあどけなさが残るそのメス犬は、黒と白の豊かな毛並みを揺らせながら、ついに、口を開いた。

「コンニチハ…。」

目をまんまるにして、かたまってしまったサトーさん。

「……………。」

「コンニチハ。ワタシ、ライカ。1サイ。」

犬が…、

しゃべっている。

しばらく目が離せなかった。

「コンニチハ。ワタシ、ライカ。1サイ…。コンニチハ…コンニチハ…」



<第16話>「話す犬ライカ」



「コンニチハ。ワタシ、ライカ。1サイ…。」

犬が…言葉を話している。

『犬がしゃべる未来』と、キャッチーな見出しが踊るニュース映像。

まさか…まさか…。

目をまんまるにして、画面にくぎ付けにされて固まったサトーさん。尻尾も耳も呆然と垂れ下がったまま。
私たちはしばらく目が離せなかった。

テレビ画面では、犬が飛び跳ねながら芝生でボールを追いかけている。その姿はまさしくただの犬だ。ふさふさとした長く白い毛に黒い模様をまとっている。
新人女性リポーターがムダに明るい声で、まるでテーマパークのキャストのように大げさにリポートする。

「元気に遊んでいるワンちゃん。ボーダーコリーのメスのライカちゃんですが、驚くべき秘密があったのです。それはぁ…」コリー犬の前にしゃがみ、「人間のようにしゃべること。」

鼻先にマイクを向ける。
「ボール遊び、楽しいですか?」

「………。」

突きつけられたマイクヘッドの赤いスポンジを、嗅ぎながらじっと見つめ、ガブっと噛んだ。

「ちょちょ、ゴハンじゃないですよー。」慌てたリポーターが取りつくろう。「気を取り直してもう一度。ボール遊び、楽しいですか?」

注意深くマイクを嗅ぎつつ、モジモジして、

「…ウン、楽シイ。」

「おおっ!」「しゃべった!」スタジオのゲストコメンテーターたちが口々にどよめく。
活舌がまだこなれていないようだけど、ちゃんと言葉に聞こえる。

「好きな食べ物は何ですか?」
ちょっと恥ずかしがり屋らしい。モジモジしながら、
「ソーセージ。ママガクレルノ。ネェ、ママ、オ腹スイタ。」とカメラの向こうの誰かに話しかけている。

本当にしゃべってる。どういうこと?


前衛的なデザインのビル。流れる水のようになめらかな曲線が美しい。春の爽やかな青空と白い雲が全面のガラスに映るエントランス。
そこへリポーターが吸い込まれるように入っていく。

廊下を進みながら、
「ということで、記者発表イベントにおじゃましたのですが…。ライカちゃんがしゃべる、その秘密はこちら。皆さん、見えますかぁ?」
人差し指を立てるリポーター。指先についたゴマのような小さな塊。

「なんですか?その小さなものは?」
中継で結ばれるスタジオでは、ワイプ画面で白髪交じりのベテラン司会者が目を細めて尋ねる。

「こちらのチップ。スマホの中にもあるマイクロプロセッサと呼ぶ小さな集積回路です。これがライカちゃんの脳内にいくつも埋め込まれているんです。張り巡らされた人工神経細胞とともに。」
「それで話せるんですか?」
司会者は懐疑的なようだ。

「いえいえ、このチップはあくまでも通信手段。小さなスマホが頭の中にあると思ってください。」リポーターはドアの前に到着すると、ノブを回す。「実はこれとつながっているのが…」ガチャリとドアを開ける。
「こちらの部屋です。」

「うわっ、広い!」どよめくスタジオ。コメンテーターたちはさすがリアクションがうまい。

そこはサッカーコートほどに広がる巨大な空間。背丈を超える巨大なロッカーのような鋼色の物体が、その滑らかな表面を鈍く光らせながら百台以上もかズラリと並んでいる。

「なんですか?すごい数ですね。」
「光量子コンピュータ『富士』です。」リポーターが整然と並ぶ黒銀の谷を進む。「こちらのサーバールームとこの小さなチップが常にWiFiでつながっているんです。私たちは今まさにあのライカちゃんの頭の中を歩いているんですね。」


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「ちょっと待ってください。難しくって、まだよくつかめないんですが。」

「わかりました。では、こちらの方にお話を聞いてみましょう。『ネオ・サピエンス研究機構株式会社』のCEO、甘納藤カヌレさんです。『ネオ・サピエンス社』は米国グールグル社と日本の国立理研化学センターが共同出資した合弁企業で、甘納藤CEOはシンガポールにあるカヤジャム医科大学の脳神経外科の権威でもいらっしゃいます。」

「こんにちは。」
紺のパンツスーツに黒のハイヒールを合わせ、しなやかなパーマがかった茶髪ボブを指で耳にかき上げる甘納藤カヌレ。ベルギーと日本人のルーツをもつという。代表の風格をテレビ越しでも挑発的に感じさせていた。

スタジオの司会者が訊ねる。
「この部屋、すごいですね。一体どういうことなんですか?」

「実は、この部屋がまるまる人間1人分の脳なんです。脳を再現するにはこの規模の情報処理が必要なんです。」

「こんなに!?」おどろくMC。

「ちょっと失礼。」アナウンサーのマイクヘッドからひょいと赤いスポンジを引き抜いた。

「あっ、またっ…」

「動物の脳を、たとえばこれ、小さな梅干しとしましょう。」甘納藤カヌレ代表は、赤いスポンジをつまんでカメラに突き出し、梅干しに見立てた。
「人間がサルから進化する過程で、考える力、感情、理性などに関係する脳の新しい部分。そう、オニギリでいうところのゴハンが包むように備わりました…」ボールの上から両手のひらで包み込み、
「つまり、大脳新皮質です。犬では足りないこのゴハンの部分を、ここの部屋で補っているのです。」

「ライカちゃんに人間の脳をプラスした?」

「ですね。ある意味、人間以上になったとも言えます。世界中のネットにもつながっていますので、頭の中が無限に広がった仮想空間になっているとお考え下さい。」

「すごい…。人間より頭がいいなんて。」スポンジをマイクに戻しながら感嘆するリポーター。

「あのぉ。」スタジオから、コメンテーターが意地悪な表情を見せる。サイト運営社長らしく今どきゆるめファッションに身を包んでイジワルな質問。「さっきワンちゃんが『ソーセージが好き』と言ったじゃないですかぁ。あれってワンちゃんのホントの気持ちですかぁ?そちらの生成AIが勝手に作った言葉なんじゃないですかぁ?」

フフッと笑みをこぼし、
「いいえ、もちろんライカ自身の気持ちです。AIはあくまでアシスト。彼女の感情『お腹が空いた』とか『遊びたい』などの脳波をAIがアルゴリズムで言語化し、舌や喉を動かす脳内の運動野に指令を出して喋らせています。ま、発声については難しいので、小型のスピーカーで補助していますが。」

「ママッ」

ライカが甘納藤カヌレの胸に飛び込んできた。
「ネェネェ、早ク遊ボウヨ。」ペロペロ顔をなめようと首を伸ばす。
「ちょっとライカったら、今ね、お話してるの。ちょっと待っててね。」

その姿を見ながらレポーターは、
「すごい…。犬の気持ちが分かる日が来るなんて…。」

「でもライカは、まだ幼い子どもです。脳が成熟していませんので、AIとのマッチングに時間がかかります。今は会話のレベルは幼児程度です。」
と、愛犬の美しい毛並みを頭から背中のラインを整えるように撫でた。耳の根元の裏側で、小さな豆のようなLEDライトがグリーンに光っていた。

「なるほど。でもなぜこんなことを?動物と話せる世界を作ろうとしているんですか?」

「おとぎ話のように?フフッ。それも素敵なんですが…。」撫でる手を止め「犬はあくまで開発用。わかりやすく言うと実験用の動物です。」
「うん?」

「将来的には…、『人間』に応用します。」

「えっ?」スタジオが驚く。
「人間に?なんのために?人は喋れるじゃないですか。」
台本と違ってきたのだろうか、驚きで戸惑っているリポーター。

「実用化されれば、人間の認知能力が拡張されるのです。」
「認知能力が拡張?どういうことですか?」
「脳とスパコンがつながるだけで、たとえば…、目の不自由な方が見えるようになったり、認知症の症状を改善したり。さまざまな医療や福祉で活かせる可能性を秘めているのです。そして、その先には…」

「その先には?」

「誰でも応用できるようになります。例えば、あなた。」

テレビカメラに向かって視聴者を指さす。ハーフらしい吸い込まれそうな淡い色の瞳。

「もう学習する必要がありません。世界中の知識を一瞬にして手に入れられる。英語だってペルシア語だってあっという間に話せるし、医師免許国家試験や司法試験にもカンタンに合格してしまう。」

「そんなことが…。」

「お手軽なことで言えば、お目当てのレストランの検索から、お店までのナビも楽々です。スマホだっていりませんよ。離れた友人と脳内で話せます。」

「すごい。世界中の人が想像を超えた能力を手に入れられる…。」

「人間が次のステップへ…ハイレベルな新しい人類に進化する。そんな夢のような未来が待っているのです。もっとも、実現まで何十年もかかるかもしれませんが。なにせ、人間の脳は複雑でしてね。」と甘納藤カヌレ代表は肩をすくめる。


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…テレビを観ながら、私は思わずつぶやいた。

「すごい時代になったな…。勉強しなくていいのは嬉しいけど、ちょっと怖っ。」

「もしかして、」パパは「サトーさんはここで生まれたのかな…」とポツリ。
「まさか。」

実は私もそう感じていた。
サトーさんに関係あるかも?この施設で生まれたの?確かめたい。けどどうすればいいの?
…あ、サトーさんはどう思う?気になって様子を窺うと、ヒゲをピクリとも動かさず黙って画面を見ていた。

「本当にそうかもよ。AIとつながってたり…。」
「ちょっとパパ、サトーさんが聞いてるって。」
そう思われるのは、きっと嫌なんじゃないか、とっさに思った。

「…………。」
サトーさんは何も言わず立ち上がり、リビングを出て行こうとする。あちこち床の臭いを嗅ぎながら。考えごとをしている時のクセだ。
奇しくもロケット実験で死んだロシアのライカと同じ名前。しゃべる犬ライカ。そんな犬が存在したなんて。

「ねえ、サトーさん?」
なんだか声をかけづらい。
サトーさんはドアを後ろ足で器用に蹴って閉じると、自分の部屋に閉じこもった。

見送りながらパパは、「どう思ってるんだろね。あんなに自分のルーツを知りたがってたのに。」
「サトーさんも実験のために作られたってこと?」
「まだわかんないけどね。」

部屋をのぞいてみたら、椅子に座ってパソコンをいじっていた。
耳の後ろをこっそり見てみた。もしかしてあのライカみたいにLEDライトが点いているってこと?そっと覗き込むと、

「やめてくんない。」
プルプルと振り払われた。
「ごめん」

「ひとりにしてくれないかな。」
「う…うん、わかった。」

ショックだったのだろうか。
あんなの気にしちゃダメだよ。あんたは実験用AIなんかじゃないって。もしもそうだったとしても、悪く考えないで。秘密が分かってよかったじゃない。声をかけたかったが、言葉が出なかった。何を言ってもダメな気がして。

その日は何もしゃべらないまま、夜中まで一人で机に向かっていた。


翌朝。日差しが暖かい。

『しゃべるAI犬、ライカ』のニュースはまたたく間に世界に広がっていた。
パパがはしゃいで言うには、『ネオ・サピエンス研究機構』は夜中の間に、ニューヨーク株式市場で買われまくって一気に注目を浴びたらしい。知らんけど。

午前8時になって、ようやくサトーさんが部屋から出てきた。
犬なので目が充血したりするわけではないが、やや疲れた様子は感じられた。

「サトーさん、あんた一晩中起きてたの?」

「あの犬と話してみる。」

「は?なに言ってんの?」

「抽選で当たった。」

どゆこと?



<第17話>「初コンタクト」




ようやく部屋から出てきたサトーさんは、
驚くことにニュースで登場した『AI犬ライカ』と話すという。

「ショックだったかもしれないけどさ。まだあんたが同じAI犬かどうかわからないんだから。あんまりさ、気にしないで…。」なんて慰めたら、

「ニュースで知ってたよ。」

「へ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってません。」

キッチンのステンレスの縁に飛び乗り、器用に前足で蛇口を起こして、流れる水をペロペロなめた。
「古いネット記事でね。驚いたな、もう完成か。実際にしゃべる姿を見るのは初めてだ。」

「どうしてあのワンちゃんと話したいの?」

トンと蛇口を閉じ振り向くと、好奇心にあふれた顔。
「興味があるんだ。僕と関わりがあるのか?検証してみた。」
目の前にすたっと舞い降りて、分析する。
「ライカと僕とは喋り方に違いがありすぎる。成長のプロセスも違う。自分がAIだとは考えにくい。」

「だがしかし…、」
真剣な眼差しで「無関係とも言い切れない。いわゆる " 悪魔の証明 " さ。」

「あんだって?悪魔?」

「0%” ない " ことを証明するのは究極的に難しい、ってこと。」

サトーさんは、人の手で作られたのか?
だとしたらあの会社が?それともほかの誰か?一体何の目的で?
…謎は深まるばかり。

「だからライカと会話する。なにかヒントが得られるかも。」という。

「簡単に話せるわけないじゃん。」
「抽選で当たった。正確に言うと、当てた。」
「当てた?」どういうこと?
「ほら、こっち来て。」

サトーさんの部屋で見せられたPC画面には、あの『ネオ・サピエンス研究機構』のホームページ。そこにはモニター募集の文字が。

もにたあ?

「抽選で選ばれた人がリモート通話で話せる。」
「なんのために募集してんの?」
「AI犬ライカの会話機能をレベルアップさせるのが目的だってさ。」

ナチュラルな会話を学習するために多くの人と話す経験をさせたいらしい。
そうは言っても、人気がありすぎてアクセスが殺到。ライカにストレスを与えないための配慮で、1日に5分、たった1組だけの狭き門だという。

「そんなの当たるわけ…。」私は否定的。

「応募する時、プロフィールを完璧な優等生キャラに仕上げといたからね。設定としては、 " 都内の中学生。趣味はサッカーとプログラミング。週に3回ボランティア活動サークルで、小学生向けの学習支援や高齢者施設での交流を行なっている。"」

「うまいこと言うね。大人が喜ぶやつ。」
「AIチャットに200通り考えさせたうちの1番それっぽいのにしたから。」自慢げにヒゲをひとなめする。

「だけど即バレするよ。あんたが犬だってことは秘密なんだから。」
「大丈夫。桃々ちゃんの名前にしといたから。僕の代わりに話してよ。」

「なるほどぉ」
…ん? 「…って違うやろ!勝手に何やってんの!バレたらどうすんのさ。あたしボランティアもサッカーもやってないよ。」

「調べられてもバレはしないよ。見てごらん。」
と涼しい顔でPCマウスを手繰る。

ん?うちの学校のホームページ?
よく見ると、なぜか私がサッカーボール片手に子どもたちに勉強を教える写真が。

「私こんな写真撮った覚えない!」
「ハッキングして描き足しといた。今どきスマホでも合成できるよ。これくらい。」
「手回し鬼早!あんたねえ、すぐに消しなさい!」

「真実に迫るときがきたぞ!よーし!」
サトーさんは無邪気に興奮して部屋をグルグル回りながら、一緒にリモート通話をやると意気込んでいる。イスに飛び乗り、カメラ前にちょこんと座った。

「ダメダメ。あんた犬じゃん。その姿さらすつもり?大事件だよ。世間がぶっ飛ぶよ。」

「わかってるさ。」
ニヤニヤ笑いながらフレームから外れ、私に挑発的な横目を使って言った。「じゃあ…どうする?」

「あんたわざと…。」
やられた。こいつめ。もう覚悟を決めるしかない。
「あーあー分かりましたよ。私が話す!」

とにもかくにも、ライカと話しをする機会が思いもよらず舞い込んだ。
これで何かわかるかも。もしかして、サトーさんの正体と関係あるの?
彼がどこから来たのか?なんのために生まれたのか?ついに秘密が分かるかもしれない。



「おっと予約の時間だ。」
サトーさんは手際よく会話専用アプリをダウンロードする。
パソコン画面には最初に注意表示が出てきた。なになに?

” 私たちの目標は、システムを改善しより安全にするために、皆様からのフィードバックを得ることです。" 
ずいぶんと仰々しいな。えっとそれから…
" アシストAIチャットボットが会話を補助することがあります。"
どういうこと?よくわかんないけど、ええいっ!と『OK』をクリック。

しばらくくるくる起動マークが踊ったあと、ざらついた画像が灯り、影が浮かび上がった。

あの犬だ!

ニュースで見た賢そうな長い鼻。画面越しでも毛並みの良さが分かる。サトーさんと比べて一回り以上大きい上品な犬。
キョロキョロ落ち着きがない。カメラの匂いを嗅ごうとしているのか、鼻がドアップになった。

『コンニチハ。』

 
(うわっ、うわっ、しゃべったよ!)


私が動揺して思わず逃げ、画面から外れると、
サトーさんに頭で押し戻された。


(しっかりしてよ。しゃべる犬は僕で慣れてるだろ。)
とコソコソ。

「あ、あ、あの、私、桃々っていいます。初めまして。」

(なに緊張してんのさ。)
(サトーさんうるさい。黙ってて。)

『ワタシ、ライカ。』
好奇心にあふれてキョロキョロしている。

「あ、ライカさん。えっと………えへへ。」
私は情けなく愛想笑いするしかない。

(なんか話しなよ。)
(わかってる。ちょっと待って。)

「えっと、えっと、い、いいお天気ですね。」

『ウン、ソウダネ。』
舌をだらりと下げて、ハアハア息を繰り返す。かみ合わないからか、キョロキョロ落ち着きがない。

「えっと、えっと…明日の天気はどうでしょうね?」

(天気ばっか。トーク、ヘタクソか。)
(うるさい!)

『 ♪ ポーン!』
突然、高らかな電子音が鳴ったとともに、ライカの表情が変わった。

(あれ、ライカ?どうした…?)

まるで剥製のような感情ゼロの無表情に。ロボットのように口だけが動く。『…申し訳ありませんが、天気については、気象庁ウェブサイトの確認を推奨します。』

急に滑らか。これだ。アシストAIが会話を補助するってやつだ。

(ほら見ろ。桃々がつまんない質問したから、つまんない答えしか返ってこない。)
私を小突く。
(うるさいって。)

「えっと、えっと、ライカさんのご趣味はなんですか?」

(マッチングアプリでもやらないよ。そんなトーク。)
(やかましい。)

『趣味ッテナニ?…』

「あ、えっと、好きな遊びとか。」

『エットネ…靴下カジル…ノ…スキ…』

(靴下?かじる?)

『♪ポーン!』再び表情が変わり、
『…申し訳ありません。訂正します。私の趣味は、ボールで遊ぶことです。』

ライカが2人いるみたい。私はつい、

「私もボール遊び、好きです。」

(なにその返し。もっとなんかないの?)

『ボール、ボール、遊ビタイヨ、遊ビタイヨ…』(♪ポーン!)『…申し訳ありません…時間です。楽しい会話をありがとうございました。またお話しましょう。さようなら…』(ポーン)『…バイバイー。』

" プツッ、プープー "
画面が真っ黒になり「THANK YOU」と無機質な表示が出た。
あっけない。

「はああ。」思わずため息。なんだったの、この時間。

そうだよね。こんな感じになるよね。サトーさんの秘密が分かるかも、って期待しすぎたのかな。
なんとも言えない脱力感。肩透かしな結果にガッカリしていた。

「ほら見ろ。桃々のトークがしょぼいから。」
「はぁ?ざけんな!代役やってやったのに何その言い方!」
ガチモメしてたら、

『♪ポーン』

” ライカから、あなたにリクエストが届いています。"
とメールが来た。

私たちはなぜだかライカに気に入られたようだ。




サトーさんはライカと私を話させたがった。しゃべる犬。同じような存在がいることが心の底から嬉しいようだ。

2度目のリモート通話が開始した。

『コンニチハ!アナタ知ッテル。』

「も、桃々です。こ、こんにちは。」

(ちゃんと返しなよ!)

サトーさんがつい声を荒げたもんだから、ライカがその大きな耳をピッと立て、

『誰?誰カイルノ?』と画面の中で怪訝な表情を見せた。

サトーさんの姿を見られるわけにはいかない。ましてや『しゃべる犬』だと悟られてはいけない。とっさに、
「あ、ああ、えっとえっと…兄です。兄のサトーさんです。」

(兄ってなんだよ。)
(イヌ年齢だと大人でしょ。あんたが声出すから悪いの。)

『アニッテ何?(♪ポーン!)…申し訳ありません。お兄さんのサトーさんですね。初めまして、サトーさん。お会いできて嬉しいです。』

「あっ、あっ、ハジメマシテ。」サトーさんは頭を伏せたまま声だけで返事する。

(自分だって緊張してるじゃん!)
(うるさいよ。)


『兄、見エナイ。(♪ポーン!)…申し訳ありません。お兄さんを認識できません。セキュリティ上の問題があります。』

「あの、えっと…」私がさえぎって「恥ずかしがりなんです。」

『恥ズガリガリッテ何?(♪ポーン!)…申し訳ありません。…理解しました。私も恥ずかしいです…よ。』

(ホッ、あぶねー。)

「そう、そう、兄は対人が苦手で具合が悪くなるんです。そう、ひきこもりで学校も行ってなくて…。このままでいいですか?」

『ウン。イイヨ。ネ、遊ボウ…(♪ポーン!)…申し訳ありません。分かりました。体調が悪い時は、医療機関の受診をお勧めします。半径5キロ以内で受診可能な内科は18件です。』

「大丈夫です。大丈夫です。」

(例の事、聞いて。)
(えっ?もう?早すぎない?)
(いいの!)

「えっと、えっと、お上手ですね、おしゃべり。変なこと聞きますけど、そんな話すのが上手なワンちゃんさんって、ライカさんの他にいたりしちゃったりしますか?」

『ウウン、知ラナイ。』

検索中のようなマークがぐるぐる回って、

『(♪ポーン!)…………申し訳ありません。私だけ、です。私以外の犬が人間のように言葉で話すことはできません。』

(そっか…)
期待していたわけじゃないけど、ちょっとガッカリした。

『(♪ポーン!)…申し訳ありません。時間です。楽しい会話をありがとうございました。またお話ししましょう。さようなら。』

(あっ)     
(あっ)

” プツッ、プープー… "
画面が真っ暗。またまた「THANK YOU」と表示。

「ほら、そんなこと聞かせるから。」
「AIが勝ちすぎだな。」
「何?ど-ゆーこと?」

「彼女自身の気持ちで話すより、アシストAIが答えてしまう量が多い。バランスがまだ安定していないかも。」
冷静に分析したと思ったら、少し恥じらいの表情で、
「もう少し…彼女の本当の気持ちを知りたいな。」

はあ?
『彼女の?』『本当の気持ちを?』『知りたいな?』だって?
なんなの、それ!?

「けど、『恥ずかしい』と言ったのは、彼女の感情のあらわれかも。『お会いできて嬉しい』…か。彼女、会えて嬉しかったんだ。」

ちょっと浮かれている。こんなサトーさんは初めてだ。

「なにニヤついてんの。『お会いできて嬉しい』なんて、ただのAIがつくったテンプレでしょ。お決まりの社交辞令。」

「いや、彼女の心の声だ。うん、そうだ。」
と、ごにょごにょ言っていた。


だけど、あとでお風呂をのぞいたら、



珍しくサトーさんが鼻歌を歌っていた。

こやつ、単純だな。



(※ショートカットver.は、18話をスキップして⇒★19話へ)

<第19話>「浮世絵の秘密」



近頃、サトーさんがつれない。
なんだかもやもやする。

そんな、ある夜。
ダイニングテーブルで、ママまでノートパソコンに夢中。
だから、甘えてまとわりついてみた。「ねえ、ママぁ。」

「ちょっとくっつかないで。コーヒーがこぼれるわよ。早く寝なさい。いつも起こすの大変なんだから。」
「ママだって。寝る前にカフェインなんてさ。眠れなくなるよ。」
「大人はいいの。週末仕事やり残しちゃって。資料図書館のデータ整理。」

大好きなママを奪っているPC画面を見ると、犬の絵が目に飛び込んできた。ずいぶんと古いもののようだ。

「あっ、ワンちゃん!」
「そうね、そうね。はい、はい、早く寝て。」
「可愛い~。」
「サトーさんが来てから、ワンちゃんが目につくようになったわね。」
「ね、ね、サトーさん!見て見て、あんたにちょっと似てるよ。」
サトーさんは興味なさそうに丸まって寝ている。

「ママ、その絵、なに?」
「浮世絵よ。江戸初期の頃かな。」

寺小屋の風景を描いたものらしい。犬が子どもたちになにか話しかけているように見える。意味深な浮世絵。
あれ?どっかで…?
そうだ、いつかライカが言っていた絵かもしれない。

「見えない。ちょっと手どけて。」
「邪魔しないでくれる?仕事終わらないから。」

犬が人間の子どもたちに読み書きを教えている。子どもたちは一心に先生を見る者もいれば遊んでしまっている子もいる。生き生きとしたタッチで、当時の町民たちの息づかいを感じさせる魅力的な絵。
だから余計、気になった。



「ママ…この建物は…お寺?」
「さあ、詳しいことはわからないわ。ママは司書だから図書専門。資料は学芸員の八ツ橋さんでないと。」

「ねえ、サトーさん、見てよ。」
「なんだようるさいなあ。」
面倒くさそうにイスに飛び乗り、チラリと見て、
「いや、神社だね。」

とは言え、ちょっぴりは気になったのか、「しめ縄に紙垂(しで)もある。ああ、よく見えないけど『なんとか神社』って文字も見えるな。」
画像のドットが荒れていてなんとか読める程度だが、確かにそう書いてあるようだ。

「これってなんて読むのかな?」

「ん?」彼が目を凝らした。

「ね、サトーさん。」

「…………。」

「サトーさん?」

「もしかして…いや、そんなわけ…。」
むくむく湧きあがった自分の考えを否定するように首を振る。

「え?どうしたの?サトーさん」

しかし気になるのか、再びサトーさんは画面を食い入るように見つめた。

「なに?なんか気になることでもあるの?」
「いや、そんなわけない…。だけど、もしそうだったら…。」
じっと浮世絵を見つめて固まったように動かない。
「ね、どうしたのさ?」

「ママ、これもっと拡大できないの?」
サトーさんがテーブルに飛び乗る。
「こら!テーブルの上はダメって!なに?もっとアップにするの?ちょっと待って…」
ママらしい小言をこぼしつつも、画面の絵を拡大してくれた。
「ダメだ。限界。これより大きくなんないな。」

サトーさんがママの袖を噛んで引っ張った。
「本物はどこにあるの?」
「え?そりゃウチの資料館に保存されてるよ。」
「えっ?なになに?」どうしたの?

「ママ、これ見たいんだけど。」
サトーさんは何かが気になるようだ。
「え?」
「本物を見られるかな。」
「え、ああ、ちょっと頼んでみる。でも、なんで?」

「………」
サトーさんはだんまりして画面を見つめている。

「ねえ、ねえ、一体なんなの?教えてよ!」

いくら聞いても答えない。
「………」




ママと私は長い長い廊下を歩いていた。職場の先輩、八ツ橋さんのムッチリした背中を眺めながら。
江戸資料図書館に勤めるママでさえ初めて立ち入るような場所。歴史文化資料保存倉庫の奥の、奥の、そのまたさらに奥。

「ここには都内の歴史的な資料の3割が所蔵されていると言われとります。特に江戸時代の物がぎょうさん。」

ずらりと並んだ箱の山。2万点の歴史的な文化財の所蔵があるという。
資料館の館内で展示されているものは選ばれたほんの一部で、これらはほとんど人目につくことはない。あるとすれば、ごくたまに江戸の文化史を研究する大学などが訪れるくらいで、ほとんどは長い年月誰も見ないマイナーな文化財だそうだ。

八ツ橋さんが、ピチピチカーディガンの胸で苦しそうに伸びた、犬のワンポイント刺繍をいつも以上に伸ばしながら、不思議そうに尋ねた。
「急にこんな地味な資料を見たいやなんて、どないしはったん?」
私はとっさに、
「いや、あの、宿題なんです。夏休みの自由研究的な。」
「へえ、偉いなあ。しかもなんでマイナーな浮世絵の?」

疑わしい目で私を見た。あれ、私たちなんか怪しまれてる?
以前から八ツ橋さんにはサトーさんに疑いの目を向けられてきた。なにかにつけ「お宅のワンちゃん元気にしてはる?なんか変わったことない?」ってママが聞かれたこともよくあるらしい。
決してバレてはいけないから、今日はもちろんサトーさんはお留守番だ。

すかさずママがごまかす。
「うちで犬を飼い初めてから、この子、ワンちゃん好きになって。どうせなら犬をテーマにした歴史が勉強したいなあって、桃々がこだわるんですよ。この子ったら、アハハハ。」
ママ、ファインプレー。見とれている私の背中を叩いた。
「いてっ、そうです。ワンちゃん大好き。あはあはあは。」

「ふーん」じろり。「別にええけど。あ、こっち右ね。」

あぶねー。

サトーさんはなぜ浮世絵を見たいといったのだろう。
あれから理由を教えてくれない。一体何が気になるのか?
ライカが言っていたから?いや、様子がおかしいのは、あきらかにあの浮世絵を目にしてからだ。
犬のサトーさんは家でお留守番。スマホでつないだ映像を見てもらう。

八ツ橋さんの手にはタブレット。犬の寺小屋の絵と管理ナンバーがずらりスクロールされる。照らし合わせながら棚の間を進む。
「Eの16000509…0509…0509確かこのへんにあったはず…ああ、0509!ここや、ここ。」

大きな木箱の蓋には小ぶりなカードが貼り付けてあった。ナンバリングされ物々しく印刷されたQRコード。
タイトルには「1600年代ー江戸初期ー肉筆画ー絵師不明」と書かれている。

「菓子山ちゃん、そっち持ってくれはる?」
ママも手伝って棚から大きな木箱を降ろした。
「ほな開けるね。」

「ちょっと待ってください。開けるところ、これで撮っていいですか?」
私はスマホをかざして通話をONにした。
「あら、なんなん?」
「ビデオ通話です。お友だちも見たいって。一緒に課題提出するクラスの仲間で。」
サトーさんが家で見ているなんて言えない。

「えっ!?」
八ツ橋さんが険しい表情で固まった。
やばっと身構えたら、

「なんやぁ、ちゃんと化粧しとけばよかったわあ。」
と女子高生のようにモジモジした。



八ツ橋さんは「よっこらしょ。」と蓋を両手で抱えるように静かに持ち上げる。
ママが白い布手袋をはめて除湿剤を取り除きながら、幾重にも重なった薄い和紙のカバーをふわりと静かにめくる。
そこに現れたのは、古い書物や浮世絵。次々と重なっており、いくつも出てきた。

『見えない。もっと右!!』

いきなりスピーカーからサトーさんが指図する声。

「え?」
八ツ橋さんが怪訝な目でスマホを覗き込む。
向こうのカメラはオフってあるけど、これは怪しい。

「お友だちなんです。共同研究の。ね、サト…いや…あの…。」

スピーカーから、
『はじめまして。クラスメイトのムトーです。』
とよそ行きの声で返す。
”砂糖さん”だから ”無糖“って安直だな。IQ高いくせに。

「あらー、男子ぃ?ボーイフレンドやん。もしもし初めまして。桃々ちゃんと仲良うしてくれはっておおきにね。」
嬉しそうに私のスマホに齧りつきそうなくらい口を近づけて話す。昭和生まれはスピーカーフォンとの付き合い方に慣れていないようだ。

「最近、寄贈されたばかりでね。まだちゃんと整理が追いついてへんのよ。」
そう言いながら八ツ橋さんが取り出す浮世絵には、
”犬が化け物と戦う” ”犬がたくさんの米俵を積み上げる” など、
犬にまつわる絵柄のものが多かった。

「これってどういう内容なんですか?」
浮世画を指して聞くと、
「擬人画やね。」
「ぎじんがー?」

『擬人画だよ。』
サトーさんの声がする。『浮世絵には、動物を人間みたいに擬人化して描いた画がたくさんある。』

「あらま。」
と八ツ橋さん。「ボーイフレンドはんは賢いね。そやね、娯楽として当時流行ってたみたいやね。今でいうマンガみたいなもんやね。これは、疫病の化け物を犬が退治する絵で、はやり病のお守りみたいな意味があるんやね。たくさんの米俵は、豊作を祈願する絵やろね。」

「なんだ。サトーさんとは違うのか。」
ついポロリとこぼしてしまった。

すると八ツ橋さんがギロッと私に鋭い視線を送り、
「サトーさんと違う?なにが?」
「いえ、なんでもないです。」
慌てて背筋を伸ばす。

「ああ、これこれ。これでええんかな?」
薄い和紙をめくると、そこには画像で見た寺小屋の浮世絵だ。

「本物だ…。」

実物を見ると、200年前のザラザラした紙質からその時代の匂いを感じるようだ。描かれた筆遣いに生き生きとした犬や子供たちの描写が伝わってくる。本物の迫力に息を飲む。

「これはどういう意味が?」
「たぶん、書や文を学ぶ、学業成就祈願みたいな絵やね。」

スマホのサトーさんの声が飛ぶ。
『そうそう!もっと近づけて!』

「えっ?この辺?」
『違う!もっと下!…神社の名前の部分、そこ!』

古い文字でくにゃくにゃしているので、私には読めない。かろうじて一番最後の『神社』だけはなんとなくわかる。

「なに?読めた?なんかわかったの?」
『………』
「ね、サトーさん!?」

『……やっぱり。やっぱりそうだった。』
サトーさんの喜びに満ちた声がこぼれる。

「なに?どうしたの?」
『なんてことだ…こんなことがあるなんて。』
「だから、あんた何よ!」

私をスルーしてスマホごしに、
『あの、八ツ橋さん?』
「はいはい。なんですのん。彼氏はん。」
八ツ橋さんも嬉しそう。

『この資料って、寄贈されたっておっしゃっていましたよね?どちらからですか?』

「ああ。ちょっと待っておくんなはれや。確か…どこぞかの神社やったような…。それがどないかしはったん?」
ゴソゴソとタブレットを操って、
「ああ、神社ですわ。あめみや…飴宮神社っていうところどす。」

「飴宮神社?…はて、どこかで…?」

『そうさ。覚えてないのかい?』
スマホのサトーさんが私を試すように聞く。

「教えてよ。」
『保健所の動物愛護センターのおじさんが言っていただろ?』
「あっ!!!」

そう、思いだした。

サトーさんが赤ん坊のころ。母犬と一緒に保護されたという…
…あの神社の名だ。

サトーさんの生まれた場所が、400年前の浮世絵に?
え?え?一体どういうこと?



<第20話>「犬神社のミステリー」



早朝。
気配を感じて目を覚ますと、枕元に私の上着やバッグ、それにサトーさんのリードが無造作に集められていた。
見上げると、サトーさんがちょこんと座っている。

「行くよ。早く起きて。」

赤ん坊だったサトーさんと母親犬が保護された神社。
そして400年前の浮世絵で描かれた神社。
共になぜか同じ名の『飴宮神社』


サトーさんがしゃべる秘密について何かわかるかもしれない。答えは、AIライカのような未来ではなく、過去にあるのか?
まだ人通りの少ない日曜の朝の道で、騒動をおさえられないかのように彼は足を早める。

「ちょっと、ひっぱらないでよ。」
「遅いぞ、二本足。」

信号機が点滅を始めたのに横断歩道に突っ込もうとする。慌てて止めて、「あぶないよ。赤だよ。」
「今行けたろ。」
「あんた赤色見えないんでしょ。」
「青と黄色から位置で分かる。盲導犬もそうやってる。」

こっそり「屁理屈イヌ。」とつぶやくと、
「聞こえたぞ。聴力16倍だからね。」

神社は家から意外に近い場所にあった。
深川にほど近い清澄という町。網のように張り巡る運河によって区切られた地域。近ごろ古い民家や倉庫のリノベーションでできたおしゃれなカフェが立ち並ぶ。下町風情と洗練された空気が混在する小さな下町。

住所は検索で分かっていたが、サトーさんは地面の匂いを嗅いで辿りついた。

「ここだ。」

人ひとりが通れるくらいの石畳の参道。民家に挟まれて、路地かと気づかず通りすぎてしまいそうな所にあった。なぜか大人が少し屈まないとくぐれない小作りな鳥居がたたずんでいた。時代の忘れ物のようにひっそりとさびれた神社だった。

「見て、こま犬が…」入口の左右に並ぶ、そのかなり古いと思われる狛犬は、どうも普通とは雰囲気が違った。
いわゆる神社で見慣れた獅子でも狐でもない。
「オオカミ?いや、犬…に似ている?」

左右の色も違う。白と黒だ。
右は白っぽい石でできており、大人しい表情で座っていて、お手をするように片方の前足を上げどこか遠くを指している。左は黒っぽい石で身体を低くかがめ、まるで威嚇するかのような表情だ。


画像


サトーさんが顔をあげ、「待てよ…。」鼻先で空をまさぐっている。
「なに?なんか匂う?」

「そうか、そういうことか。」

私の疑問をほったらかしで、勝手に石畳を進んでいった。
「なによ。教えてよ。ちょっと待って。サトーさん!」

奥は少し広がっていたが、想像していたより小さな神社だった。
手水舎の先には、小ぶりな拝殿。古いだけでなく、人目につかない場所からか、人の気配をあまり感じさせなかった。

と、突然、サトーさんが吠え始めた。わざと犬みたいに。

『ワン!ワン!ワン!』

「ちょい、どうしたの急に?」

その時、拝殿の横に寄り添うように建つ小さな社務所、その引き戸がゆっくりガラガラと開いた。

「あっ!あの人!」

思わずサトーさんと顔を見合わせた。

竹ぼうきを持った初老の女性が出てきて顔を上げると、その人は、マンションの火事騒ぎでサトーさんが命を助けたおばあさん。
白髪の上品なたたずまいは、家にまでお礼に来てくれたからよく覚えている。
予期せぬのはおばあさんも同じだった。引き戸をつかんだまま、驚きのあまり口をあんぐりと開けている。
だけどすぐに表情も和らいで、

「あらあら、珍しいお客さんだこと。」


拝殿の奥は小さな本殿を兼ねていて、狭いながらも落ち着きのある十畳ほどの部屋だった。空気が澄んでいる気がして、ご神体をより神々しく感じさせた。
以前お礼で訪れたおばあさんのことを、サトーさんが「懐かしい匂い」と言っていたのは、ここの匂いが幼き日の記憶にかすかに残っていたのだろうか。人間でさえ匂いと記憶は密接に結びつくという。
思えばその時、おばあさんは、神社の名と同じ『飴宮』さんと名乗っていた。サトーさんが気付かないはずはない。

「こんな所でごめんなさいね。社務所はもう閉めていてね。物置になってるの。」
「いえいえ、神聖な場所なのに。すみません、うちのワンちゃんまで上がらせていただいて。」
「いいのよ。神様も大歓迎よ。この神社には " お犬様 " が祀ってあってね。そうそう、ウチのワンちゃんの宇井郎だって生きていた頃には、ここによく遊びに来てたわ。」

「お犬様…?不思議なご縁を感じます。」私はしゃべるわけにいかないサトーさんの気持ちを代弁した。元来、人と話すのが苦手な私も、この女性の柔らかさには安心できた。「なにか犬に特別な関係があるんですか?」

「そう。犬は昔から畑を荒らす害獣を追い払うから、豊作や魔除けの神様として知られているわ。それに、とても頭のいい動物だから、学業の神様としてもね。」

犬信仰はニホンオオカミが神格化されたもの。古来から聖獣として崇拝されてきた。イノシシや鹿から作物を守り、人間の言葉を理解するものとして神と祀られた。

おばあさんによると、ここは江戸時代初期から代々続いてきた歴史ある神社で、個人で営む小さな祠。宮司だったおじいさんが亡くなってしまってからは、跡継ぎもいないまま、おばあさんが掃除をしに来るだけになってしまった。

「今は神社をキレイに保つだけで精一杯。私が元気なうちに閉じる準備をしなきゃ。」
おばあさんがご神体の鏡を眺めると、表面に寂しそうな表情を映した。

サトーさんはいろいろ訊ねたいけどしゃべれない。早く、と言わんばかりに後ろ足で忙しく私を蹴った。
はいはい。

「あの…、この寺小屋の浮世絵についてご存知ですか…?」
スマホで画像を見せる。

おばあさんには少々小さすぎたのか、目を細めて、「ちょっと待ってね…」針金のように細い老眼鏡をかける。「さあ、よく知らないね。これがどうかしたのかい?」

「これ、この神社の絵らしいんです。ほら、ここにこの飴宮神社の名前が…。」指で拡大してみる。

「あら、そういえば、そう読めるかねえ。」

「これって本当なんですか?昔、頭のいい犬がこの神社にいたんですか?」

「ハハハ、だったらいいねぇ。お犬様を祀っていたからかね。ごめんね。おじいさんがいない今となっては詳しいことは…。資料も何も残っていないのよ。おじいさんが身体を悪くした時に寄付したらしくて。」

「都立江戸歴史資料図書館ですか。」
「そうそう、良く知ってるわね。」目をまるくした。ふと気になったようにおばあさんは、「でも、どうしてそんなことを?」不思議そうな顔で私を覗き込んだ。

「あっ、えっ、」
サトーさんに助けを求めようとしても、犬のフリして「アウ」とうなった。ずるいぞ。
「あ、あの…実はこのサトーさんが保護されたのが、こちらの縁の下らしいんです。保健所の人がそう言ってました。」

「あら、うちの神社で?」

いきなり、サトーさんが『ワンワン』と拝殿の階段を駆け下りていった。

「ちょっと、どこ行くの?」
勢いそのまま、縁の下に潜り込んでしまった。

「あらあら、生まれた時のことを思い出したのかね。」
おばあさんは私と顔を見合わせた。

床の下からしつこく『ワンワン!』と吠え続けるものだから、段を降りた。
おそるおそる縁の下を覗いてみた。蜘蛛の巣の先に、ひんやりとした重い暗闇が広がっていて、気持ちのいい空間ではない。


画像


覗く私の襟首をサトーさんがくわえて引っ張り込む。
おばあさんに聞こえないよう、「なになに?」
私の耳にひそひそと、「来て。」
「えー!この下に入るの?無理。暗いし汚いし怖いよ。」

何も知らないおばあさんは上段から笑って、
「あらあら、そんなに引っ張って。懐かしいのかね。どうぞ。」
そう勧められると断れなくなる。

「ん、もぉー。」

頭を突っ込むけど、床板が低すぎて小さめの私でも入れない。
「サトーさん、挟まった。無理だわ。」
スマホライトで照らすと、暗闇の中、揺れる光にサトーさんが見え隠れする。柱の周りをくるくる回って、一心不乱に匂いをかいでいるようだ。

「なにかあるの?」
「カメラ起動して、セルフタイマー10秒に設定して。早く!」
「えっ?えっ?ちょっと待って。」
慌てて操作すると、
「スタートした?ちょっと借りるよ。」
スマホをくわえて柱の前で眺めていたかと思ったら、パシャリとシャッター音を響かせた。

「ほら。」
戻って来た画像を見ると…「ただの古い柱じゃない?」

「よく見て。傷があるだろ。」
前足と舌を使って拡大した。
「あんた器用ね。肉球ってスマホ反応するんだ。あっ…。」

確かに柱に引っかき傷が刻まれている。経年で黒ずんだ柱の面に、隠れていた明るい木の肌が浮き出すかのように。
「なにこれ?絵?印?」
「石か釘のようなものでひっかいたんだろうな。」

よく見ると何かの記号のようなものが…。
三つの辺で三角形『△』を描いた下に、
上下逆さまになった『V』の字が二本足を広げるように延びている。まるで折り重なる三角形を2つ描きかけて、途中で思いとどまったよう。


画像



「なにこれ?イカ?ほら、三角形のイカの頭から足が2本生えてるじゃん。」
「イカは足10本。何かを意味する記号かもしれない。あるいは文字?」「で、これがどうしたの。」
「わからないのかい。柱に比べて傷が新しい。おそらく数年以内ってとこだろう。」

「もしかして…?」
サトーさんがウンとうなずいた。
「僕の母親が残したものかもしれない。しかも何故か2つあった。」

「2つ?同じマークが?どういうこと?」
「2本の柱に。それぞれ全く同じ高さに。明らかに自然にできたものではない。人為的なものだ。」
「いやいやいやいや、ないって。犬だよ。そんなの描く?」
「僕だって犬だ。じゃ誰が?人間はこんな狭いところに入って来れない。」
縁の下は梁が低く張り巡らされ、確かに小柄な私でさえ入れる場所ではない。

「…しかも、このあたり無性に懐かしい匂いがする。」
サトーさんは柱の根元を嗅ぎながらぐるぐる回って、「そうだよ!そう。左側の柱の根元…かなり古いけど、犬の匂いがする。おそらく…尿。」

「おしっこ?」

「マーキングだ。何年も経って微かにしか残っていないけど。ああ、懐かしいな。温かな毛布に抱かれるような得も言われぬ安心感…。」

まじか!?母犬が描いた?嘘でしょ?サトーさんのお母さんならあり得るってこと?
だとしてよ。だとして、この印は一体何を意味するっていうの?

「絵なのか?特別な意味のある文字なのか?」
「え?やっぱり犬の惑星からやって来たとか?」
「ナスカの地上絵じゃないんだから。あれも実は宇宙人じゃないけど。」
「じゃあ、なんなのよ。この三角イカマーク。」
「これだけじゃわからない…。シッ、気を付けて。」

階段を降りてくる足音にサトーさんが警戒した。

「あらあら、そんなとこに頭突っ込んで、ひとりでおしゃべり?」
不思議そうに覗き込もうとするおばあさんに、

「いえ、あの、思い出に写真を撮っていたんです。」
「え?」
「サトーさんが生まれた場所なので。」
「そうね。それにしても不思議なご縁ね。お母さん犬も、お犬様の神社だってわかっていたのかしらね。」

「おばさん、このマークなんだかわかります?2つもあったんです。」 
「さあ、何かねえ。」
首をかしげたその顔には偽りや嘘のかけらもなかった。心から何も知らない表情だった。


画像



神社からの帰り道。
黙ってリードを引っ張っている。その後ろ姿を眺めながら気になった。
サトーさんはどう思ったのだろう。

「やっぱり犬神様の神社ってのが何か関係あるのかなあ。」
「どういうこと?」
「ほらさ、サトーさんが生まれた時に、犬神様のパワーで話せるようになったとかさ。」

「………。」
サトーさんは少しばかり気になったようだが、思い直すようにプルプルと身体を振って、「本気で思ってんの?短絡的すぎる。」

「でもさ、そういう不思議な力が…。」

あきれたように「ちょっと待って」と足をあげておしっこする。「堂々とトイレできる。犬でいることの特権かな。あとよろしくね。」
「人が話してんのに。」と洗浄用ペットボトルの水で流す。

「あのさ、不思議なことがあると、ありがちな『古くからの言い伝え』とか『神の力』とかスピリチュアルなパワーのせいにしちゃう。そんなファンタジー展開なんて、ないない。物語の世界じゃないんだから。第一、科学的に説明つかないでしょ。考えるのを放棄しちゃダメ。」
と後ろ足で砂を蹴る。

「またそんな言い方。」
「だけど、母が僕を生む場所として犬神様の神社を選んだ。その点は、偶然と片付けるのももったいない。」と再び歩き出した。「あのマークが何なのか?そこにフォーカスすべきじゃない?」
「まあね。ホントにお母さん犬が残したとしたらね。」
「僕はそう考える。」

あのマークは一体なんだろう?
本当に母犬が残したものなら、なにかを伝えたかったのかもしれない。
一体何を?そして、誰に向けたメッセージなのだろうか。息子であるサトーさんに?
母犬はなぜここにいたのか?母犬はどこからきたのか?サトーさんのように賢い犬だったのか?

もっと知りたくなった。このマークについてなにかヒントがないか…?

同じことをサトーさんも考えたのだろう。
「もう一度、ママの図書資料館に行ってみてよ。神社の宮司だったおじいさんが残した資料に何かヒントがあるかもしれない。」

「伝説の伝わる神社…謎の暗号…、そして残された古文書。おー、雰囲気出て来たぞ。」

「お気楽なこと言ってないで。さっさとママに連絡して。」

”♬ワン、ワン、ワワン♪” 

その時、ポケットの奥で犬の鳴き声の合成音声が流れた。私のスマホの着信音だ。見ると、ママの名前。

「あら、噂をすれば。」
スピーカーホンをタップ。「もしもし?ママ?ちょうど良かったよ。あのね…。」

「もしもし?桃々ちゃん!?」
私の言葉を遮る勢いだ。

「ママ、あのさ、また神社の資料を見に行っても…」

「そのことなの!今大変なの!資料が全部なくなっちゃったの!」
小さなスマホが叫ぶ。

「どういうこと?」

「今朝になって八ツ橋さんと整理しようって一緒に見に行ったら、無かったの。箱ごとまるっと。」
「まるっと?どうしてよ?」
「わからない。八ツ橋さん大騒ぎよ。」

スマホの奥で、『どないなっとるんやぁ。』と声が響いている。

「盗まれたの?」
「かも。だけどさ、八ツ橋さんも不思議がってるわ。『たいして値打もあらへんのに』って…。」

「私たちが見に行ってすぐじゃん…。」

「防犯カメラは?」
察したサトーさんが聞く。
「何も映ってないのよ。それが。」
「何も?資料が煙になって消えるわけないのに。」
「誰かが消したのかも。」
「どうやって?」

これでヒントは何もなくなってしまった。
あのマークを調べることもできなくなってしまったのか。
「サトーさん、どうしよう?」

サトーさんは嬉しそうに笑った。
「面白い。」

「へ?」

「資料を見られたくない奴がいるってことさ。」
「誰が?」
「分からない。だけど逆に確信できたよ。」
「確信?なにを?」
「『ここ掘れワンワン』ってことさ。」

嬉しそうにスキップした。
しかし数歩進んだところで、不意に「あれ?」と何かに気づいて足を止めた。

「どうしたの?」

打って変わって、鋭い目つきに変わり、
「シッ、周りを見ないで。今から僕が話すことを悟られないようにして。」

「こわいこわい。なによ?」体をすくめる。
「誰かがこっちをうかがっている。姿を隠しているけど、気配や呼気の匂いがする。」
「ほんと?」

さりげなく通りの十字路を見渡したけど、人がいる様子がない。
「誰もいないよ。気のせいじゃないの。」
警戒しすぎて、過敏になってるのかな。

「……おかしいな。」

サトーさんは納得がいかないようだったけど、やがて取り越し苦労だったのかと、鼻でフーッと深呼吸した。


もしかして私たちは、
" 知ってはいけないこと " に近づいているのだろうか。
そんな気がしてならなかった。



<第21話>「ライカの余命」



「古い象形文字のようにも、ロゴマークのようにも見えますね。」

ビデオ通話の向こう側いにるAI犬ライカが、画面を見つめている。
そこには謎の記号、例の三角頭2本足のイカマークが映っている。サトーさんが画像をアップしたのだ。



「これは何ですか?」
画面に顔を近づけるライカ。まるで匂いを嗅ぐように、ボーダーコリー特有のスラリとした鼻先がアップになる。ネット上の全データにアクセスできる彼女でさえ、初めて見るマークのようだ。

「見つけたんだ。ある神社で。変な形だよね。」
サトーさんも、自分が赤ん坊の時に拾われた場所だなんて言うわけにもいかない。だけどAI犬なら何か分かるのではないか?そんな期待をこめて尋ねているらしい。
「気になるんだよね。どういう意味があるのか、考え始めたら止まらなくなっちゃった。はは。」
愛想笑いでごまかす。顔入れ替えアプリで犬の姿を隠しているから、どうせ見えないのに。今の姿はイケメン風アバターだ。

気にもとめず、「この記号を画像検索しましょう。」
ライカはサーチ中の矢印をひとしきりくるくる回らせたが、「…ヒットしません。古代フェニキア文字から最新アプリのアイコンまで一通りさらってみたのですが…完全に合致する文字や記号は存在しません。」

「そっか。だよね。」
肩を落とすサトーさん。



「記号をパーツごとに分けて検証することを提案します。5画ですので組み合わせが120通りありますが。」
画面には、CGでバラバラに分かれた記号のパターンが120個並んだ。

「それは面白いね。このパズル、どちらが先に解明するか競争しよう。ライカが勝ったら築地場外のサーモン寿司をごちそうするよ。」

んだよ、サトーさん。またデレってる!
ライカはすっかり滑らかに話せるように成長していた。アシストAIと脳機能が馴染んできたようだ。まるで一人の女性のように…。

楽しそうに話し込んでいる姿を見せられて、なんだかモヤモヤした。
「サトーさん、もういんじゃない。」
終了しようとマウスに手を伸ばそうとしたら、バン!と肉球で阻止された。偶然、鋭い爪の先が私の手の甲をこすって思わず、
「いてっ!なにすんのさ!」

「議論を邪魔しないで。桃々ちゃんはあっち行ってていいから。」
とムカつく戦力外通告。やさしくない。

「なんだよ!サトーさん!どうかしちゃったんじゃないの!?」
「桃々ちゃんこそ、どうしたのさ。ぷりぷりして。」
ライカと仲が良すぎてムカつく、なんて口がさけても言いたくない。

そんな私たちの小競り合いをよそに、さっきからライカの表情がさえない。

「……………。」

美しい横顔が、どこか憂いに満ちている。

「ライカ?」
「…ごめんなさい。」
声にも覇気がない。

私は心配させまいと無理して笑って見せた。
「あなたのせいじゃないのよ。私たちいつもこんな感じだし…。」
「いいえ。そうじゃないんです。」
首を振る。

ライカの伏せた顔を覗き込んで、サトーさんが眉をひそめた。眉はないけど。犬だから。

「カーミングシグナルだ。どうしたの?なにかあった?」

「なに?カミカミ?ナルナル?」
「カーミングシグナル。まばたきをしたり視線をずらしたり、身体をブルブルと振るわせたり、相手より低い姿勢をとろうとしている。不安を抱いている証拠さ。」

確かに、いつもの彼女特有の凛としたヒゲの張りはなく、耳も自信なさげに垂れている。

「いえ、大丈夫です。」
「どう見ても元気ないよ。どうしたの?」
「………。」
黙り込んでしまった。

「なにか気になることがあるんじゃ。」
「………。」
「いいよ。話してみて。」

「……怖いんです。」

「怖い?」

ライカは私たちに話すかどうか迷った末、
「お二人とお話するこの時間が楽しすぎて…怖くなったんです。」

「なんで?楽しいとどうして怖いの?」
私には理解できない。
「幸せな時間は、ずっとは続かない。もうすぐ終わってしまう。」
「えっ、どういうこと?」

「よかったら話してくれないかな。僕に。」

彼の優しい問いかけに、

「実は…。」

ライカが恐れていたのは、世の中の声だった。
きっかけは、取材のインタビューで答えたライカの発言。

「最近はなにをするのが楽しいですか?」という記者からの質問に、

「抽選で当たったモニターさんたちとの会話です。友達ができました。私は、もっと自由に出かけてみたいです。友達とも会いたい。普通の家に住んで、勉強して仕事をして、自由に暮らしてみたい。」
サトーさんとの出会いで触発されたのだろうか、彼女は素直な思いを語っただけだった。

なのに、世の中の反応は意外にも冷めたものだった。
ネオ・サピエンス研究機構のもとに疑問を呈するメールがたくさん届き始めたのだという。会社はもちろん知らせまいとするが、ライカにとって、システムからこっそり読みとってしまうことは容易なことだった。

” 犬が自由を求めるのは、いかがなものでしょうか? "

" 人権を主張する犬って www "

" これってアリなの?? "


ささやかな願いさえも、許してもらえないのか。
知ってしまったライカの気持ちは沈んでいた。

「私…楽しくおしゃべりがしたいだけなのに…。悲しい。」

その時、
リビングでつきっぱなしのテレビから、ワイドショーのコメンテーターの声が流れてきた。
 
「犬が権利を主張し始めたって?そんなことを許したら大変なことになりますよ。これが牛や豚だったら?皆さんは焼肉を食べるのをやめますか?」
視聴者を試すように挑発する。

「牛が『食べないで』『殺さないで』としゃべり始めたら?豚が人間を裁判で訴えたら?このまま放っておくと、人間中心に語られてきた倫理そのものが崩壊するかもしれません。」

耳をピクリを動かすと、サトーさんはつぶやいた。

「大変だ…。」

「サトーさん?どうしたの?」
「怖いのはこの先だ。」
「この先?どうなっちゃうの?」
「批判ゲームは思わぬ方向へ向かっていくことがある。」
「思わぬ方向って何さ。」

しかし、思い直すように、
「いや、そんなことにはならない、なってはいけない。」

サトーさんはもっと先を見つめていた。




一週間も経つと、サトーさんの予想は当たった。残念ながら。

「あの犬は危険だ!」

同情に飽きた人々の批判ゲームの矛先は、徐々にライカ自身に向けられ始めたのだ。
ネットでは、心無い罵詈雑言が彼女を攻撃する。

” あのメス犬、ヤバすぎ ”

“ 今に人間を攻撃する。知らんけど “

“ 仲間の犬を集めてるらしい “

“ 犬はみんな殺処分 ”

未知なるものへの恐怖。人々の心のザラつきは、無責任な空想に発展していった。
SFモノのストーリーでもよく見られる。
ある生物が、最初は愛らしいその姿と幼い言動で可愛がられるが、やがて驚くべきスピードで成長し、人間を超える知能を持つ。そうやって人間の脅威になっていく。

ライカも人間を越える知能をもち、いずれ人間の生活を脅かすのでは?
AIが世の中を操り始めるのでは?
人間を支配するシンギュラリティが起こるのでは?
映画の世界が現実のものになるのでは?

…そう身勝手な憶測で恐れられ始めた。

所詮はケモノ、感情をコントロールできるはずがない、と。
世の中はライカを攻撃するニュースであふれ返った。

「待ってください。私は敵ではありません。」

記者からマイクを暴力的に突きつけられたライカが、世の中にすがるように発信しても、
「あの犬は、同情を引こうと演じている。なんて狡猾なんだ。だまされるな。」
世間は許してはくれない。

サトーさんはテレビ報道を見て、悔しそうにつぶやいた。

「危険なのは人間の方だよ。人間は群れになると感情をコントロールできない。歴史を見れば一目瞭然だ。犬はそんなことしない。敵が腹を見せて降伏したら、攻撃を止める誇り高きリスペクトがある。」


夕食後。サトーさんはこっそりライカとのビデオ通話を再開した。
夜の会話は時間外だけど、非常事態だ。構ってはいられない。
その時、彼女はずっと怯えつづけていた。こんなにも犬って震えるのかというくらいブルブル震えていた。

「私に対する反対感情が増加しています。あと72時間以内に世論の半数を越える可能性があります。そうしたら、私は…私は…。」

ライカは、ネット上にあふれている情報を、中傷も攻撃も、嫌でも全部知ってしまう。
今自分が置かれている状況を一番よく分かっているのは彼女。良くない絶望的な未来を何パターンも予測してしまうのだ。

サトーさんは困って私と顔を見合わせた。

彼女をなだめようと、
「心配しないで。ライカ、大丈夫だよ。僕たちがいるじゃないか。」「私たちは仲間だよ。」

どんなに慰めてもライカの気持ちは晴れない。こんな私たちになにができるはずもない。虚しさが漂う。
力なく彼女が明かした言葉で、その悲しい宿命を思い知らされた。

「私、いつか殺される……怖い。」

「そんな、さすがにそれは…。」

「いいえ。実験の終了が近づいています。予定より早い。」

「実験の終了?」

「脳の限界なのです。私はただの犬。犬の脳のキャパシティに比べて、あの巨大なコンピュータの情報処理量はそもそも負荷が多すぎるのです。それに世の中から叩かれる恐怖のストレスが膨大にのしかかって…。
私の計算だと、このままでは240時間以内に脳神経の耐性の限界を超えて、精神とのバランスがとれなくなってしまう。」

「あと10日?限界を超えてどうなるの?」

「……シナプスが破壊され、即死します。実験の終了です。」

「即死!?」

「運が良くても意識のない植物状態になる可能性が高いです。お母さんは…、甘納藤カヌレCEOは、そうなったって構わない。私の脳がどこまで耐えられるのか?データを得ようとしているのです。人間に応用するために。」

「そんな…。」
私たちは言葉をなくした。



「今まで私は、この運命を受け入れてきました。だけど、サトーさんや桃々さんと出会って、この時間を失うことが怖くなったんです。もっと生きたくなったんです。」

ライカは落ち着きがなく、画面の向こうで首を搔き、椅子の上でくるくる回っている。自身が出した答えに、感情が追いつかなくなってきている。このままでは彼女の心が耐えきれない。

「…………怖い…………怖い………。」

「ひど……」
「ひどいよ!!」私のつぶやきを上回って、サトーさんが叫んだ!

開いた窓から、悲痛な声が夜の近所に響く。

「とんでもない!そんなのひどすぎる!許せない!犬をなんだと思っているんだ!間違ってる!これは間違っている!」
サトーさんの全身の毛先が立ち上がり、怒りに震えていた。

「……………。」

無言で考え込んでいたと思ったら、やがてなにを思ったのか、
「ライカ、待ってて。また連絡する。」
静かにパソコンの通信を打ち切って、イスから降りた。

「サトーさん?ちょっ、ど、どうしたの?」

何も答えない。
廊下からリビングへふらりとおもむき、気が付くと、

「ねえ、パパ。ママ。」と声をかけていた。

トーク番組で笑いながら洗濯モノをたたんでいたパパと、夕飯の洗い物をするママ。
ともにすっかり油断した表情で「?」と顔を上げると、サトーさんは言った。

「家族会議を開きたいんだ。」



(※ショートカットver.は、22話をスキップし⇒★23話へ)

<第23話>「家族で突撃」



新しく真っ直ぐに伸びた広い道。
計画的に設計されたオレンジの街灯が規則正しくどこまでも続く。頭上のレールには、光を放ちながら音もなくゆりかもめが行き交う。
私たちの4WD軽は、深い光沢ある緑色のボンネットに光の粒を映し、近未来を思わせる街、新豊洲へとすべり込んだ。そんな景色と、「ライカを助ける。」その大それた行動に今更ながらビビリ始めた私。

「あれだね。」
パパがフロントガラス越しに指差すと、走る車窓から、テレビのニュースで馴染みのある建物の前衛的なシルエットが見える。
ゆりかもめのライトが一瞬、ガラスの曲面を照らすと、まるで夜空から舞い降りた三日月を思わせるような美しい姿を現した。
ネオ・サピエンス研究機構だ。



エントランスのある道路入口には、夜なのにたくさんの人の群れが道路まではみ出しそうなほどたむろしている。

「実験をやめろ!」と拡声器で声をあげる人々。
「ライカを殺処分しろ!」と書かれた紙。
「ネオ・サピエンスは人類の敵!」

ネットで集まった人々の抗議活動だ。赤色灯を持った制服のセキュリティーガードたちと、にらみ合っているところだった。

「なんか怖い。」私はパパの腕にしがみついた。

「みんな、目を合わせないで。サトーさん、キャリーバッグに隠れて。」
全ドアロックを確認し、パパはウインカーを出してゆっくりと集団の間を抜けるように地下駐車場入口を目指す。

人々はしんと静まり返って道を開けた。
ゆっくりと進む車。動きに合わせ、目で追う人々。そのすき間から、ニュースで見たエントランスの美しいガラス張りの玄関が垣間見えた。

“ どん!”

窓をたたく音に思わず振り向く。

ガラスいっぱいに張り付いたおじさんと目が合った。
小太り黄色ダウンをまとった白髪交じりの天パー男が、メガネの奥の細い目を凝らして、サトーさんの隠れた後部座席のキャリーバッグをジロジロ覗き込んだ。思わずママはバッグを力いっぱい抱きしめた。
男のハチマキには『殺処分』と殴り書きのように真っ赤な文字がしたためられている。自分で書いたんだろうか。どんな顔して、どんな気持ちで書いたんだろう。想像したら気分が悪くなった。
助手席の私は何かされるんじゃないかと怯えながら、ハンドルを握るパパの腕にしがみついて、目をつぶって息をひそめた。
通り過ぎるまでが永遠に感じた。

やがて身体にスロープをすべり降りる感覚。
騒ぎが遠のいてからまぶたを開くと、しんと静まりかえった地下駐車場に到着していた。

「ようこそお越しいただきました。菓子山さま。」

明るいホテルのような高級感のある車寄せにヒールをカツカツ鳴らして現れたのは、テレビで観るよりもずっと綺麗な『ネオ・サピエンス研究機構』のCEO、甘納藤カヌレ代表だった。




私たち家族は、だだっ広い空間に通された。つるつるに磨き上げられた大理石の床。水路を流れる水の音が、高い吹き抜けを昇るように響く。
行ったこともないどこかの国のお香の匂い。
中央には木材をパズルのように組んだオブジェに緑の植栽がところどころ埋め込まれて、パーテーションのようにいくつかのミーティングスペースを作り出していた。

座り慣れない木のソファに座らされた私たちの前のテーブルに、男性スタッフがカチャリと静かにカップを置いていく。庶民には名も知れぬハーブ茶。サトーさんがキャリーバッグから顔を出し、興味深そうに嗅ぐ。

「あら、かわいいワンちゃん。」

甘納藤カヌレがサトーさんの頭を撫でる。その表情から察するに、もちろん『しゃべる犬』だとはバレてはいないようだ。

「桃々さんですね。いつもライカと仲良くしていただいてありがとうございます。」

雰囲気に圧倒されて「いえ。」と小声で返す。知らない人、特に大人と話すのは苦手だ。

「突然押しかけてすみません。」パパは頭を下げつつ、暗に表の騒動を指して「こんな時に。」と付け加えた。
「いえ、とんでもない。ちょうど、困っていたところなんです。あら、来ましたわ。」と甘納藤カヌレが視線を移すと、入口に一匹の犬が現れた。

ライカだ。

柔らかな豊かな黒白の毛に覆われているその体格は、画面で見るよりかなり大きかった。看護師のようなナースウエアのスタッフに連れられ、足元にまとわりついている。チラチラこちらをうかがう様子は、少女らしい恥じらいを感じさせた。

「かわいいですね。」手をそっと差し出すと、ライカは少し嗅いで私の顔を眺めてから、ペロっと甲をなめる。
そして、ついに口を開いた。

「こんばんは、桃々さん。お会いできて光栄です。」

生で聞くと、少し電子音がかった声色だった。喉に埋め込まれたスピーカーからだろう。
心なしか笑ったような表情に見え、顔をペロペロなめてくれた。

私たち家族をキョロキョロ見渡し、「サトーさんは?」と尋ねられたので、思わずサトーさんと目を合わせた。
いやいや、そばでじっと見つめる甘納藤CEOに気づかれるわけにはいかない。

「今日はお留守番で。恥ずかしいと具合が悪くなるから…。ごめんね。この子は家で飼ってる、ム、ムトーさん。」

「そうですか…。」残念そうに肩を落とした。

サトーさんがバッグから飛び出して、ライカに近づいてみる。もちろん彼は一言も人間の言葉は発しない。
一瞬身構えるも、注意深く互いに匂いを嗅ぎながらグルグル回り、見つめ合った。

「あれ?もしかして…。」

ライカは何かに気づいたようにつぶやく。
不思議そうな顔で少し考えた末、ついに何かを悟ったようにみるみる表情を明るくさせた。

甘納藤さんが「どうしたの?ライカちゃん?」と尋ねても、「ううん、なんでもない。」と濁す。AIでも隠し事はするんだな。

「こんばんは…。」
ライカが嬉しそうに挨拶すると、サトーさんは「ワン」とわざと犬っぽく吠えた。
無言で見つめ、匂いを嗅ぎ合う二人。心で交わす言葉がまるで見てとれる。
(もしかしてあなた…サトーさん?サトーさんなのね。)
まるでそんなふうに喜びに満ちた気持ちを、大きく振れるライカの尻尾が饒舌に物語っている。

サトーさんもまんざらでもない。お気楽に浮かれてる彼を見たら、ちょっとだけ胸がざわつく。ライカが悪いわけじゃないんだけど。

甘納豆は、久しぶりに元気なライカの姿を見るのが嬉しかったのだろう。
「この子がこんなに喜ぶなんて。いつもお話してくださって、ありがとうございます。」と目を細くした。
パパも、「こちらこそ娘と仲良くしていただいて。いやあ、ライカちゃん、カワイイですね。」

まるで公園デビューしたての親同士の会話だ。
もう、そんなのんきに話しに来たんじゃないでしょ。私たち家族のミッションを忘れてはいけない。ライカを助けなければ。(パパ、言って!)肘でこっそり背中をつつく。

「あ、ああ。」と私の視線に、咳ばらいをひとつ。「…それにしても、ライカさんの身体が心配ですよね。」

「ええまあ。」やさしく微笑む甘納藤。

「この娘がね、言うんですよ。ライカちゃんが辛そうだと。」
私を利用すんのかい。まあいい。

「それが?」話が見えなくて、ぼんやりと相槌を打つ。

「今日お伺いしたのはですね、ご相談がありまして。あの、差し出がましいようですが、少し…その…止めたりできないもんなんでしょうかね?」

「何を?」

「あの…実験を。」 

「え?」

覚悟を決めたパパ。「実験を止めてくれませんか!ライカさんのために!」頭を勢いよく下げた。
よし言った!私とサトーさんがかすかにうなづく。

甘納藤は少し警戒の色をにじませた。はるかな天井を仰いでひと呼吸。
やがて私たち家族に向き直った顔がまるで、
” ああ、そういうことね、揃いもそろってここに来たのは。 ”
とばかりに、ゆっくりうなずきながら一人づつ順番に見つめる。その笑顔が怖くて、思わず首をすくめた。

「ちょっと。」
傍らのスタッフにアゴで指図をし、ライカを部屋の外へと連れ出させた。聞かせないようにとの配慮か。名残惜しそうに振り向きながら出ていくライカ。
彼女の姿が消えるまでを無言で見送ると、開き直ったようにヒールの足を組んだ。

「実験は続けます。」



簡単に言い切られて、思わず、
「このまま…?実験を続ける…と?」パパが問いなおした。

「我々は企業です。ここまで来るには巨額の投資をしています。株価が上昇している、ということは、ステイクホルダーの皆様に応援されている。感情的に騒いでいる一部の連中とはまったく意見が違うのです。開発自体は止めるわけにはいきません。ただし…、」

「ただし?」

「この時代です。クレームに逆らうつもりもありません。ライカは表舞台から退けます。これから実験は極秘裏に続けます。この研究は人間にとって必要不可欠。人の能力を飛躍的にレベルアップできるんです。」
ショートボブを揺らして微笑む。イラつきを胸にしまうように。

「それじゃ、ライカさんは?」

「…………。」
甘納藤は無言で立ち、木々のオブジェに飾られた植栽に歩み寄った。艶やかなネイルの指先で、手慰みに葉の表面を撫でながら、背中でつぶやいた。
「ライカにはギリギリ限界まで、データをとらせてもらいます。」

「ギリギリって?」

「脳がバーストするまで。」

「ひどい!」

思わず立ち上がった私の顔を、甘納藤が振り向き一瞥する。心なしか苦渋の表情にも見え、

「じゃ桃々さん、考えてみて。あなたが病気になった時、薬は飲まないですか?病院には行かないですか?現代の医療や薬品の進歩も、多くの動物実験の歴史の上に成り立っている。人間が生きるためには犠牲が必要なんです。それもやめろと?」

「…………。」言葉に詰まった。

代わりに気になったパパが、
「だからライカという名に?」
「そうです。ロケットに乗って犠牲になった。だけど人類の科学の発展に貢献した歴史的な犬。まさにあの子にふさわしい。」

何も言えなくなった。
実験用のモルモットだって、一緒に暮らす愛犬だって同じ動物。何が違うのか?…そう問われた気がした。

そうだよ。そんなことは分かっている。
だって、家族だから?私たちの心が痛むから?犬猫だけ特別?同じ動物なのに?違いってなに?
甘納藤の目に見つめられると、言葉が出ない。
そんな私をママが心配そうに見た。

「………。」

巨大な空間で水路を流れる水の音だけが、私たちのやるせない気持ちを気にも留めず、ただ反響し続けている。
サトーさんはなにを思うのだろう。じっと冷たい床を見つめている。

やがて意を決したかのように尾を立て、
「!」
突然、発言しようと立ち上がった。その時、

「ちょっと待ってください。」
ママの声が響いた。
「ライカさんは、もう人間です。」

え?ママ?

「ライカさんは、一人の人間と同じです。すでに人格が芽生えているんですよ。」
えっ?ママ?ずっと黙ってたママが?
驚いた私たちが見つめる中、きれいに畳んだダウンコートをソファにそっと置いて立ち上がり、ニットの腕をまくって歩み寄りながら、とても落ち着いた声で諭すように続ける。

「甘納藤さん、ライカさんはあなたのことをママと呼んでいる。母と慕っている。人間のようにコミュニケーションができる犬に、母親として何にも感じないんですか?」

「えっ………?」
あまりに唐突で真っすぐな問いは、甘納藤カヌレを惑わせた。

「母を思う感情が生まれたなら、もはやあなたの子と呼べるじゃありませんか!?」

そうだよ、ママ。
ライカは、人間と同じように人と話し、人のことを好きになり、人にやさしくできる。そんな考える心を持っている。それはもう "人 " と呼べるのかもしれない。ひととき一緒に暮らせば家族なのかもしれない。

心の奥底を見抜かれたような質問に、明らかに動揺を見せた甘納藤。
母親としてのママの真摯な質問。そこから逃がれるようにイスに腰を落とし、落ち着きを取り戻すためにカップのお茶をすすった。
しかし、振り切るように頭を振って、

「『ママ』と呼ぶ。それはAIのバグのようなもの。そうよ。動物が感情を表現できるようになった時の、副作用の一つにすぎません。」

「ライカちゃんはあなたをママと呼んでいますよ!あなたには…、あなたには母親としての感情はないんですか!?」

“ ガシャン! “

激しく置いたカップ。ソーサーにお茶がこぼれる。甘納藤は気持ちを抑え込むように目を伏せたまま、

「仕方ないでしょ!?将来、救われるであろう人々を救えなくなる。そうよ。外で騒ぐ人たちの言うように、AIが支配する、そんな未来にならないように私たちは厳正にコントロールしているのです。いずれどこかの国で、これとおなじ研究を無計画に行なう日が来る。身勝手でめちゃくちゃな世界になってしまう前に、私たちが破綻しないルールを作らないと!」

研究者としての決意に満ちた言葉だった。
「…お話は以上です。どうぞお引き取り下さい。」

返す言葉がない。何を言っても、この人は動かないだろう。

サトーさんは床を見つめたままだ。言葉をしゃべってはいけない、その約束を我慢して守り続けている。

ママは、じっと丸くなった甘納藤の背を見つめていた。苦渋の思いをにじませながらも、やがて、「ふーっ」と床にあきらめの息を吐いた。
やがて彼女に向き直り、何を思ったのか、” 固い微笑 “ を見せる。

「わかりました…お考えはとても。部外者が余計なお世話でしたね。すみません。」

ん?ママ?

パパと私は顔を見合わせた。
やばいかも。
どうも納得していない時のママの顔だぞ。棒読みだし。
いつだったか、パパが結婚記念日に酔っ払って夜遅く帰ってきて『仕事で遅くなった』と言い訳した時も、同じ顔で「いいのよ、お仕事おつかれさま。」と起伏のない心凍らせるような声色を使った。今までママに変なスイッチが入った時は、いつもこんな顔だ。
パパも私と同じことを感じたのか、心配した様子で私に目配せする。
(こうなったら、ママやばいぞ。)

そんなママが突然、変なことを言い出したのだ。

「ところで、すみません。失礼する前におトイレお借りしていいでしょうか?桃々、サトーさんもたくさんお茶をいただいちゃったでしょ。」

「えっ?私べつに…」(なに言ってんの、ママ?)
私の口に人差し指を添えてさえぎって、(いいの、いうこと聞いて。)と目で制する。

「ええ、そこを出て廊下を右に奥まで進んでください。」

「ちょっと失礼します。」
私とサトーさんを引っ張って、静かな廊下に出るなり鋭く周りを見回した。いつもは冷静で正しいはずのママが、妙なふるまいを見せる。

「なに?なに?ママ?」

「黙って聞いて、桃々、サトーさん。」

「?」

「ライカを助けましょう。」

「はへ?」



<第24話>「誘拐家族⁉」



私は思わずママに聞き返した。

「はへ?いいの?」

良識を絵にかいたようなママが、「ライカを助けよう。」
こんなことをささやくなんて。
だってあんなに反対してたじゃん。あんた、実ぁイケる口だねぇ。いや、むしろ私の方がビビってるかも。

「でもね…、」
ママは冷静に注釈を加えた。
「でもね、その代わり、ライカが望んだらよ。彼女の気持ちが大切。彼女が逃げたいって望んだら助けてあげてね、サトーさん。私がこっちで話を引き延ばしてるから。」

そう言い残して、サトーさんにウインクをし、私の背中をポンと押して、「あらー、素敵な植木。ほほほほ…」とかなんとかゴマかしながら、部屋に戻っていった。

サトーさんは私の顔を見て、無言でうなずいた。




きれいに清掃された廊下。
サトーさんは白い大理石の床に鼻をくっつけ、残されたライカの匂いを探りながら進む。磨き上げられたフロアは爪が滑るようでちょっと歩きにくそう。
「あの甘納藤カヌレってCEOの人、信用できないな。人間が嘘をつくときの緊張から分泌される汗の匂いがした。」

(本当は優しい人なんじゃないかな。ライカのことが心配で助けたいのかも。母親として。)そう思ったけど、言わないでおいた。また「甘い」って、バカにされそうだから。

サトーさんが歩みを止める。
「この部屋らしい。」

まるで録音スタジオのように、大きなレバーがついているドア。
耳を当ててすますと、ひんやり冷たい。開けようとしたが…、重い手ごたえ。ロックがかかっている。
「…ま、そう来るよね。」

ふと脇に液晶パネルがあることに気づいた。9桁の番号が並ぶ。
「どうすんのよ、これ。ここまで来て。」私が手を伸ばすと、

「触らないで。」サトーさんは、数字の並んだタッチパネルをじっと見上げている。「1と0、それに4と…5かな。」

「え?知ってるの?」
「知らない。4つの数字を正しい順番にタップすれば…。」
「なんでわかるの?」
「指紋がついてる。」
「え?どこに?」どう見たって、ただグレーに光るつるんとした液晶ディスプレイ。指紋なんてわかるわけない。

「犬は人間と違って紫外線が見える。液晶画面から発せられる紫外線の強弱を見れば、多くの皮脂がついている、つまり指紋がついている番号が分かるのさ。あとは…」
サトーさんは後ろ足で立ち上がり、「もっと上に上げて。」

私は、サトーさんを抱きかかえてパネルの前に鼻先を持っていく。なにやら懸命に数字の匂いを嗅いでいる。

「ねえ、サトーさん。なにがわかるの?」
「0、4、1、5の順かな。」
「え?なんで?」
「皮脂の匂い。押す順番に指の皮脂が薄れていく。指紋の濃い順に0,4,1,5。なるほど、ライカの生まれた日だね。」

「ほんとにぃ?0…4…」半信半疑で、緊張しながら押してみる。「1…5…ENTER、っと。」

” カチャッ “

ロックが解除する小気味良い音。「ほらね。」と鼻高々。
コンコンと2回ノックして、恐るおそる「失礼しまぁす。」とレバーを引いた。顔をのぞかせると、重たいドアの向こうには、いつもチャットで見なれた部屋が広がる。

淡いベージュのソファにはライカが横たわり、ひょいと顔を上げた。
「桃々さん?」

可愛らしく柔らかな白いベッドに、カーテン。くすみ系ピンクのテーブルと赤いクッション。窓がない代わりに、壁に扇型の天窓が描かれている。星がきらめく夜空の画が美しい。
なんじゃ。私の汚部屋より女子力高いぞ。

ライカはすぐに、後から隠れて入ってきたサトーさんを目ざとく見つけた。
「………サトー…さん?」

「あ……。」
サトーさんは声を出そうとして、躊躇した。
犬の姿であることをずっと隠していたからだ。彼女に嘘をついていたことには変わりない。自分を信頼していつも何でも話してくれていたのに、その気持ちを利用していたのでは?裏切っていたのでは?助けなければという一心でやって来たものの、後ろめたさで素直に喜べなかった。
「あ…あの………」いつもの精彩さはなく、言葉とも言えない声を出すばかり。

ソファから降りたライカ。
「サトー…さん…ですね?やっぱり。さっき会った時、確信しました。呼吸音のリズムがテレビ通話の時のサトーさんと94%一致していたので。」探るように一歩ずつ近寄る。

覚悟を決めた。
吹っ切るように身体をブルブル震わせ、サトーさんは顔を上げる。

「…うん、そう。僕だ。」

歩みがピタリと止まるライカ。

「ちょっと、サトーさん?」
大丈夫なの?しゃべっちゃって?戸惑う私をよそに、
「君と同じ犬です。隠していて、ごめんなさい。」

頭を下げると、ライカは首を振った。
「…いいえ。だけど、とても驚きました。正直言うと、私のアシストAIも少し混乱しています。あなたは私と同じAI犬?…違う。世の中に私しかいないはず。」

「僕自身もなぜしゃべれるのか、わからないんだ。その理由が分かるまで、そのことは秘密にしている。」
「だから犬の言語能力に興味があったんですね…。わかりました、秘密は守ります。」
「なぜだか少しホッとしているよ。君には、僕の姿を見てほしかった。」
「危険を冒させてごめんなさい。でも…。」

「でも?」思わず尋ねてしまう私。

「でも嬉しい…。」ライカは瞳を潤ませた。「生まれて今までで一番嬉しい。こんなに嬉しいことはありません。」寄り添ってサトーさんの首元の匂いを嗅ぎながら、「優しい匂い。」とつぶやいた。

「ライカ、ここを出よう。このままじゃ君が壊れてしまう。僕たちは助けに来たんだ。」
「ありがとう。ママはなんて言っていますか?」
「断られたよ。あっけなくね。」肩を落とす。

豊かなヒゲがピクリと震えた。背を向けるライカ。
「………。」

またすぐ本当のこと言う!サトーさんの良くないとこ。
「ちょっと!違うの。甘納藤さんはね…」とフォローしようとしても、サトーさんは畳み掛けるように、
「このままじゃ、君が壊されてしまう。だから行こう。」

ライカは背中を丸めて、
「一緒に行きたい。でも…行けません。私は実験のために生まれたのです。私にはママがいます。」
「どうして?君のお母さんは、君をギリギリまで利用しようとしているんだよ。」

食い下がるサトーさんの言葉に、振り向いたライカは涙ぐんでいた。
「それでも、お母さんなんです。私にとっては、たった一人のお母さんなんです。」

「だけど、せっかくここまで…。」
「もう、この話は終わりにしてください。この会話の記録も消去しておきますね。来てくれてありがとう。」

ライカの固い意志は、張り詰めたヒゲ先を見ればよくわかった。瞳は何者も寄せ付けない強い決意をにじませていた。
その反応は、ここまで駆り立てたサトーさんの衝動を一気に断ち切るには十分だった。ずっと心を通わせていた唯一無二な関係だっただけに、もはや揺るがないことはサトーさんが一番思い知らされていた。だから、さっきのママの言葉が頭をよぎる。

『ライカが望んだらよ。彼女の気持ちが大切。』と。

サトーさんは耳を垂らし首をうなだれ、何も言わずとぼとぼドアの方へと歩み出した。それはまるで思いを寄せた異性に受け入れられなかった失意の男の背中に似ていた。
でも私はわかっていた。ライカの気持ちを、同じ女性として。
本当は一緒に行きたかったのだ。でもサトーさんを巻き込むわけにはいかない。明るみに出てはいけない秘密を知った今はなおさらだ。
ライカ、あんたいい女だね。

「あ、サトーさん、ちょっと待って。ひとつだけ。」

ライカが、立ち止まったサトーさんの耳元に唇を寄せ、何かをささやいた。

何を言われたのだろう。
私には聞こえなかったが、サトーさんは静かに「え?」と驚きつつも笑顔で「ありがとう。わかった。」と礼を残した。


その時だ。
廊下の先、遠くの方からガラスの割れる音と人々が騒ぐ声が響いた。

“ うわぁぁぁぁぁぁぁ ”


急いで戻ってきた時には、廊下をパパとママたち一同が進んでいくところだった。ただならぬ雰囲気に満ち、早足に急ぐ甘納藤カヌレにスタッフたちが耳打ちしていた。

「桃々、行くよ。サトーさんはバッグに入って!」

どうやら抗議の群衆が玄関までなだれ込んできたらしい。
「早く。騒動に皆さんを巻き込むわけにいきません。ライカの部屋は安全ですのでご安心ください。警察も間もなく到着します。」

ママに小声で「ライカは?」と尋ねられたので首を横に振ると、
察して「あら…そう。」と、少し残念そうな顔をした。

「こちらです。」
スタッフの誘導で、私たち家族は地下駐車場へとたどり着いた。



車寄せで見送る甘納藤に私は頭を下げた。
「ありがとうございました。どうかライカさんを大切に。」
同時に、サトーさんがバッグから首を出し、甘納藤カヌレと目を合わせ、ペコリと頭を下げてから身を隠した。

「この犬…?もしかして…いや、そんなはずは…。」

唖然とした甘納藤を残して、私たち家族は車に駆け寄った。
ドアを開いた時、

「あそこにいるぞ!犬もいるぞ!」

叫び声が轟き、靴音を鳴らして数人の男が駆け込んできた。
先頭で指さすのは、入口にいたあのハチマキ男。黄色いダウンに天パーメガネの鋭い目。一度見たら忘れられない。スマホを突きつけてカメラを撮っている。

「大変!!」

「こいつもAI犬か!?」
ハチマキ男がサトーさんのキャリーバッグを奪いとろうと手を延ばす。

「きゃあ!」私が必死に抵抗しても大人の男の力には敵わない。
「何するんだ!」パパが割って入って男をおさえようと揉み合いになり、キャリーバックが弾みで吹き飛んで、サトーさんが転げ出た。

「サトーさんっ!」

かばうように抱きかかえようとした私。いきなり他の男たちに突き飛ばされ、転んで肩に激痛が走った。

「痛いっ!」

その時、駐車場の冷たいコンクリートに誰かの声が響いた。

「やめろーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!」

耳を疑ったけど、その声は、まさかのサトーさん!
目にもとまらぬスピードで飛びつき、ハチマキ男の腕にガブリと噛みついた。
「いてててててて!なにすんだ!」

振りほどいた勢いで、サトーさんは床にたたきつけられたが、すくっと立ち上がり、低い姿勢で男たちをにらみつけて、もう一度叫んだ。

「やめろ!!」
「え?」

一瞬で静まり返る。静寂が辺りを包む。
男たちは聞き逃さなかった。

「え?」
「今のなに?」
「しゃべった?」

しまった!人間たちに聞こえてしまった。

「サトーさんだめ!しゃべっちゃだめ!」
ここまで長い間隠し続けてきたのに。私たち家族の大切な秘密がバレてしまう。

「桃々ちゃん!ママ!パパ!早く逃げて!」

サトーさん、ダメよダメ!あなたが危ない。バカバカ!あんた人間より頭いいくせにバカ!なんでバラしちゃうのよ!攻撃されるよ!

「コイツも話すぞ!」
「やっぱり!」
「捕まえろ!」

サトーさんは構わず、
「桃々に危害を加えるヤツは、僕が絶対許さない。大切な人なんだ。」
毛先まで怒りに震えている。

サトーさん…あんた…だめだよ、私のために。

その時、私の目に映ったのは、
ハチマキ男が後ろから忍び寄り、両手でつかんだデモ看板を振りかぶる姿!
「機械イヌなんか殺したっていい!」
「サトーさん、危ないっ!」
サトーさんの頭めがけて木材片を叩きつけようとした、その時、

“ ドン! “

黒くて大きな影が素早く男たちに体当たりした!

勢いあまって転がって、素早く立ち上がったその体は美しく、黒の毛並みが外から差す月明かりに照らされ光っていた。

そう、ライカだ!

「ライカ!」

「逃げてください!」
「でも…」
「私は大丈夫!素早いから!」

駆け付けたセキュリティーガードが助けに入ったすきに、パパはサトーさんを抱きかかえ、止めてある車に飛び乗った。

「早く!ママ!桃々!出すぞ!」エンジンを掛け、ギアをはじいてドライブに入れる!
「わわっ。」飛び乗った私たちを確認して、パパはハンドルを切りながら、「よしきた!」
ドアが開いたまま、飛び出す車。

「待って!ライカが危ない!」
男たちと揉み合いになっているセキュリティーガードとライカ。逃げ惑うライカに男たちの手が絡み合う。

「ライカを助ける!」サトーさんが叫ぶ。
「よっしゃ!桃々、ドアを開いて!」パパが大きくハンドルを回しながら呼んだ。「ライカ!こっちだ!」

車は360度の弧を描き、一団の周囲を回る。そこへめがけてライカが人々の隙間をぬって駆け抜け、一直線に私たちの胸に飛び込む!

「よーし、みんな掴まれ!ドアを閉めて!」
思いっきりアクセルを踏み込んだ。

「ライカが乗っちゃったよ。知らないぞ。知らないぞ。誘拐になっちゃう。」パパは困ったような、嬉しそうな顔でハンドルをさばく。

スロープを走りゆく窓から、流れる景色の中に、こちらを遠くから見つめる甘納藤カヌレと目が合った。
その顔は、なぜか心穏やかな母親の表情に見えたような気がした。



<第25話>「逃走中」



車は豊洲市場前交差点を急な右折。豊洲大橋から高架を抜けて汐留方面へ。
宝石を散りばめたような美しい東京湾岸の夜景を眺める余裕もなく、そのまま環二通りのトンネルへと突っ込んでいった。後ろに追手はいなさそうだ。

「危なかったあ。」
流れるオレンジ色の誘導LEDを数えながら、私は絞り出すように安堵のため息をこぼした。
「くそ、駐禁切られてる!」
パパが指すサイドミラーに黄色いタグがばたばた風に泳ぐ。
「それいつのよ。そんなことより、ライカ、連れてきちゃったよ。」
「困ったな。今から戻ろうか。」
ビクビク肩をすくめながらもニヤニヤしているパパ。人は追い詰められると壊れてしまうのだろうか。

後部座席をのぞくと、ママとサトーさんの間にライカが丸くなって横たわっている。澄んだ目は暗い中で光り、私の顔を見つめていた。
さっき私たちを助けてくれた彼女はとても凛々しく頼もしかった。家族の空間に、あのライカがいることが不思議な気がした。狭い車内だと、彼女の体格はより一層大きく見えた。



「ライカ、大丈夫?さっきは痛くなかった?」

ライカは私の問いに、
『ワン』と、ひとつ吠えた。

「あれ?ライカ?どうしたの?」
『ワン、ワン』
その目は、いつものライカではなかった。純粋無垢な赤ん坊のような瞳。

「普通の犬に戻ってる。」

「え?…ああ、そうか。」
驚きつつも、サトーさんは納得したように「施設から離れたからだ。」と納得する。

「どういうこと?」
「Wi-Fiでクラウドにつながってるって言ってた。途切れると、普通の犬に戻っちゃう。」
「なにそれ、スマホじゃん。じゃ、スタパとか寄ろうよ。Wi-Fiあるでしょ。ならライカと話せるってことでしょ?」
「危険だ。GPSで居場所がバレてしまう。彼女の見えている光景もコンピュータに筒抜けだし。」

「じゃ、ライカはこのまま話せないの?」
「うーん、ちょっと心残りだけど、結果オーライってことかな。そのために助けたんだから。」
「サトーさんはそれでいいの?せっかく会えたのに話せなくなったんだよ。」

「目を見れば気持ちは通じる。」

「ヒュー、言うねー。」
「ヒュー、言うねー。」
パパと揃って笑ったら、サトーさんは「うるさい。」と両前足で助手席の私のヘッドレストを小突いた。
「いて。」

そうだ、思い出したぞ。
「…それよりあんた、さっき助けてくれた時、私の事を『大切な人』って言ったよね。…いっひっひ。」

「言ってないけど。」
とぼけてそっぽを向いた。毛で覆われているけど、まるで赤くなったように見える。

「いや言ったし。」
「言ってない!」
「言った!」
「死んでも言わない!」
「はあ?素直じゃない!」
メンツの張り合い。

「あんたたち、この状況分かってんの?」
ママに叱られ、二人ともしゅんと黙ってしまった。「見てみなさいよ」と差し出したスマホには、

“ しゃべる犬がもう一匹いた! “

“ ネオ・サピエンス研究機構、密かに開発か!? ”

” 謎のグループが誘拐、逃走中 ”

ヤバめなワードで、早速SNSにアップされてしまっていた。
しかもサトーさんが言葉を話してしまった瞬間の動画まで!
抗議デモの男たちに撮られてしまったらしい。どんどん拡散されている。
困った。多くの人にバレてしまった。

「どうしよう。」
「でもさ、AI犬ライカの第2号と勘違いされているね。バレてない。セーフ。」
と、サトーさんはタブレット端末をいじりながら涼しい顔。
「ほんのりアウトなんですけど。」

ドタバタでライカを助けたのまではいいが、行きがかり上、連れてきちゃった。ヘタすると誘拐罪…、いや、貴重な犬を盗んだ窃盗罪だ。もしかして警察にも探される?泥棒家族になっちゃう。
しかも、サトーさんがしゃべることまで広まった。
家に帰るか?…いや、ネオ・サピエンスの甘納藤カヌレCEOたちに住所もバレている…!?
やばい、やばい、やばい。
さあどうしよう?家族に流れる沈黙。トンネルの乾いたアスファルトを疾走する音が響く。

「詰んだ。」
「詰んだね。」
フロントガラスに顔をくっつけながらニヤニヤ運転するパパ。ピンチすぎてハイになってるのか。

「…連絡すべきよ。」

ママがつぶやいた。いつでも冷静で、正しい。確かにライカは、研究機構に残ると意志を示していた。

「そ、そうね。」
我に返った私がスマホを取り出そうとコートのポケットをまさぐった時、偶然にも、

”♬ワン、ワン、ワワン♪” 
着信音が鳴った。

見ると、「知らない番号だよ。」

一斉に目を合わせる。誰が出る?無言でアイコンタクトのパス回し。
サトーさん?ママ?パパ?私?…いやいやいやいや、やっぱりここは男でしょ。
せーので、皆がパパを見る。

「…ですよね。」
バックミラー越しに観念するパパ。

私がスマホをかざしながら、おそるおそる人差し指でスピーカーフォンにしてみる。
咳払いをし、パパがハンドルを手に背筋を伸ばして、「あ…、もしもし…」と言いかけたら、

「もしもし!」

小さなスマホから、動揺した甘納藤カヌレCEOの大声が飛び出した。

「わわわっ!」ハンドルが揺らぎ車が蛇行する。「パパ!気を付けて!」「ごめんごめん。」

「どこにいるんですか?」スマホからの質問に、なんて答えるか迷ったあげく、
「すみません!まだ車で走っています。すぐ…すぐ、近くなんですよ(ウソだけど)。ライカさんを預かってます。」

(預かってるって!?誘拐犯みたいな言い方になってる!)

(ごめん!)「あの…ライカさんをお預かりいたしており…、とてもお元気です。はい。なんかすみません。」妙な敬語になってる。

「それより一体どういうことなんですか?お宅のワンちゃんがしゃべるだなんて。詳しく事情を教えてください。どうも首を突っ込みすぎだと。あなたたちは何者なんですか?まさか同業?そういえば隣国でも研究を試みているっていう噂が…」

次から次へと湧いてくる好奇心を処理しきれないかのように、矢継ぎ早に攻めたてる。
だよね。そうだよね。うーん困った。

「いや、そんなつもりはなかったんですが。なんて説明すればいいのか…。要するに私たちもわかってないんです。」
パパが必死にとりつくろっても、
「そんな説明じゃ納得できません!」

「ライカさんは、今すぐにお返ししに参りますので…。」
パパは汗をかきかき、トンネルの出口を抜け、方向転換しようとウインカーをはじいた。

「…いえ、今は困ります。」

「は?」

” キキキキキーッ! “ 思わず急ブレーキ!
予想外の答えに、皆が顔を見合わせた。

「今は来られても困るんです。」

電話の向こうから、抗議の男たちとセキュリティーガードの揉める声が漏れ聞こえ、そこに甘納籐の悲痛な声が重なる。
「こちらも大変なことになっていまして。それどころじゃないんです。対応が終わるまで少し待ってください。」

待つって?それは困ります。
「ライカさんをお返ししないと。私たちが誘拐したことになってしま…」

「いいの。」

「は?」

「だったらライカには休暇を与えます。心身のダメージが積み重なったということで、一旦、表向きには実験を休止したと発表します。だから…、アッ!ちょっとやめなさい!そこは!」
ガシャーンと何かが壊れる音がしてプツッと電話が切れた。

しーん。静まり返った車内。

「お取込み中の…。」
「ようですね。」
「だね…。」

「ほらね。」サトーさんだけが余裕の顔。
私たち家族は、騒動から取り残されてしまった。
ライカもここの方が安全みたいだし。

「どうする?」
「家も危ないかもだし…」
「てか、ここどこ?」

黙ってしまった。
虎の門を行き交うタクシーたちの音と、ライカがあどけない表情で舌を垂らして息するハアハアという声が車内に響く。遠くで鳴る見知らぬパトカーのサイレンが不安をあおる。

と、サトーさんが変なことを言い出した。

「パパ、このまま首都高に乗れる?」

「そんな遠くまで逃げなくても…」
「3号渋谷線から東名に入って。」
後部座席から上半身を乗り出してナビを操作しようとするので、私は思わずさえぎった。
「んん?どこ行くのさ?」

「京都。」

「は?なんで?」
「冬の清水寺もいいもんだよ。」
「ふざけないで。」
「これ見て。」

くわえたタブレット端末。自慢げに肉球を器用にあやつって操作する。肉球でも生物の微弱な電流によってちゃんと液晶パネルが反応するのだそうだ。

サトーさんが私たちに見せたのは、ある写真。
かなり古い写真らしく白黒で、『2匹の犬の像』が写っている。



狛犬だ。一匹ははりりしく座って片前足で先を指す白い犬、もう一匹は伏せて警戒しているような黒い犬。後ろには鳥居らしき柱が見える。
ああ、いつかのおばあさんの犬神様の神社で見たぞ。

「これって、飴宮神社の狛犬だよね。」
「違うよ。別の場所だ。背景も時代も違う。昔どこかで撮られた写真だ。」

よく見ると、そっくりだか確かに違う。狛犬の後ろに石畳が続いているのだが、その先には田んぼと森林、そして遠くにぽつぽつと民家が見える。明らかに、神社の境内を撮ったものではない。
ここは一体どこなんだ?

「さっきあの時、帰り際にライカが耳打ちしたでしょ。教えてくれたんだ、僕にメールを送ったって。日本中の博物館や資料館にハッキングして、この写真のデータを見つけたって。」

「確かに同じ像。だけどどうしてこれが京都にあるって言えるの?」

「京都国立博物館の保管庫データに写真が所蔵されていたんだけど、記録によると像は京都市内のどこかにあるらしい。それに…。」

「それに?」

「僕を生んだお母さん犬が残してくれたあの記号さ。」神社の縁の下の柱に傷で刻まれていた例の印だ。「ライカが分解して検証してくれたパターンの一つを見つけて、もしかしたらって思ったんだ。」



「なに?なに?あのイカマークのことがわかったの?」

「僕の勘が当たっていたらね。」

「どういうこと?」

「秘密。まだ、確証はないから。でも、あの時、ライカは言ったんだ。『あなたの謎の答えはきっとそこにある』って。」

やぶれかぶれだ。
「よし!何にも用意してないけど、このまま行っちゃうか!」
パパがギアを入れながら、バックミラーでママと目を合わせた。
ママはあきらめたような笑みをチラリ見せてウンとうなずいた。
それを見て、私はちょっと嬉しくなった。

そうだ、京都行こう。



(ショートver.は、26話をスキップし27話へ)

<第27話>「イカマークの正体」



翌朝。冬の京の朝は底冷えが厳しい。
思わぬ展開から、" 謎を解く旅 " へと踏み出してしまった私たち家族。京都南IC高速出口近くのペット可コンドミニアムを早々にチェックアウトした。

朝日の中、市街を走る。
地元の話題で盛り上がるラジオとパパの鼻歌。それとママのコーヒーの香りが漂った車内。サトーさんはライカと背中を寄せ合いながら、「コンビニのドッグフードもなかなかイケるな」とポリポリつまんで満足気だ。

私は眠い目をこすりながら、朝のファストフードのベーコンサンドと、カリッカリに揚げたハッシュドポテトをほおばっていた。
「桃々ちゃん、ナビ入力して。」というサトーさんの指示で、 “ 左京区銀閣寺町 “ という住所を検索させられた。

「ほれほほ?」
「なに?ほおばらないで話して。」
「これどこ?なにがあるの?そろそろ教えてよ。」
「知りたい?」
「もったいぶらないで。」
「犬の像にヒントがあったんだ。」

サトーさんはタブレット画面を見せた。
昨夜、私たちに見せてくれた画像だ。白と黒の二匹の犬の像の写真。飴宮神社の狛犬とまるでそっくりな姿。AI犬ライカが京都国立博物館の資料館にハッキングして見つけてくれたものだ。


画像


ライカの残したメールによると、この写真の詳しいことは不明。
この像が一体どこにあって、いつ撮られたのかさえもわからない。

「ただね、新情報をゲットしたよ。博物館の資料の記述によると、犬の像は『弘法大師』の言い伝えに出てくる『2匹の犬』がモデルらしい。」

「コーボーダイシ??なんの石?」
「人の名前。弘法大師。昔のお坊さんだよ。」

西暦800余年、弘法大師がまだ『空海』と呼ばれていたころの話。
中国から帰って京の地に密教を広める場所をさがしていた空海は、なんと山道で犬に助けられたという。
偶然出会った猟師の連れていた2匹の犬。白い犬と黒い犬に導かれて、真言密教の聖地となる高野山の地を見つけた、という言い伝えがある。

「有名な話らしい。金剛峯寺のホームページの受け売りだけど。」


画像


「白と黒の犬!?」おっと、近づいてきたよ。「犬が偉いお坊さんを助けたんだね。じゃ、その ” コーボー “ ってお坊さんに関係ある場所を探せば、その犬の像が見つかるってこと?」

「まあね。だけどそんな簡単じゃない。京都には、寺や神社だらけ。弘法大師の広めた真言宗のお寺やゆかりのある場所なんてたくさんある。それを全部回って探すわけにもいかない。」
「じゃ、どうすんのさ?」

「そこで思い出して欲しいのが、僕の母さんが残したマークだ。」

画像

「イカマークが?どゆこと?」

「想像してみた。母さんが、たとえ犬としては賢かったとしても、読み書きができなかったとしたら?だったら絵で何を表したかったんだろうって。ある仮説を立ててみた。」

「仮説?」

「もし母が、幼児並みに不器用で、何かを模して描きたかったとしたら?もしかして弘法大師にゆかりがあるモノだったとしたら?…そんな視点で、片っ端から関係ありそうなモノを探してみた。」

「モノ?なにかモノを示していたってこと?」
「行けばわかるよ。」

京都の街並みを抜ける。古い建物と新しいビルが混在する静かな町。
盆地の小さな町らしく、こんな近くに山並みがせまって見えるなんて…。私たちが住んでいる東京と全く違う風景がなんだか新鮮だった。

「着いたよ。ここで停めて。」
サトーさんがフロントガラスを覗き込みながら言った。

「ここ?」

「銀閣寺町。住所はだいたいこのあたりだけど…。」とパパはナビを見つめながら、停止ハザードを点灯させた。「道が広くないから長くは停められないかも。」

何の変哲もない道だ。車1台が行き交う広さの道。住宅の合間にちょっとした寺社と土産物店が少し点在する。観光案内板を読むと、銀閣寺に通じる道らしい。

ドアを開けて、降りる私たち。パパだけ運転席で心配そうに待つ。
「ああ、やっと背を延ばせた。」
サトーさんは伸びをして外の空気で深呼吸。ライカも嬉しそうに歩道の匂いを嗅ぎ回る。

「ここがどうかしたの?ただの道じゃん。犬の像とかイカマークはどこにあるの?」
「まあ、見てて。」
開け放ったドアから、サトーさんは前足でタブレット端末を操作した。
画面にはイカマークをバラバラにしたパターンがいくつも並んでいる。

「ライカの作ってくれたシミュレーションCGだ。120通りある。」
こんなにも複雑な作業ができていたAI犬ライカも、今は何も理解していない。ただの犬になってしまった。無邪気に私たちを見上げるだけだ。
「そのうちの一つ。イカの頭にあたる三角をこの部分で分解すると、2つのパーツに分かれる。」

と、サトーさんは前足で指す。
「その1つ目はひらがなの『ヘ』のような『山型』の記号と…、

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「…2つ目は『山型』に『一本線』を串刺ししたような、漢字の『大』に似た形になる。」

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「これがどうしたの?」
「この形を見ても、何か気がつかない?」
「なにが?」

「じゃほら、今いる場所。周りを見て。」サトーさんがアゴで指す。

周り?見渡したけど、何もない。目の前には何の変哲もないただの道路。観光案内の看板だったり、バス停だったり、観光客らしい外国人がちらほら歩くだけだ。

「違うよ、もっと上。似たものがあるでしょ。よーく見てごらん。」

道の行く先をゆっくり見上げていく。
視界を遮る建物と電線の陰から、私たちが目線を移す動きにそって、徐々に現れる美しい山並み。

私は、そこにある何かに気が付いたのだ。

「えっ!?あれ!?」

峰の中でひとつ。ひときわ美しく、空を突くようにそびえる形の山。
その山肌に、くっきりと浮かぶ文字、「大」

京都大文字山だ。

テレビで観たことがあるかも。
私たちの知る大文字山のイメージは、1年に1回、夏の夜の大文字の送り火。紺色の夜空の下の漆黒の山。闇に浮かぶ細かなオレンジの炎が点々と連なって文字や図形を描く姿を思い浮かべる。

だが今は午前10時。大文字山は朝日の下に照らされ、木々によって緑に彩られた山の中腹に、むき出しになった山肌をあらわにしている。そこに小さな火床が連なり『大』という文字が型どられている。素顔を見られてちょっと気恥ずかしそうなその姿。盆の終わりには、ここに火が灯されるのだ。

「ほらね。」

山のラインをかたどった山型「へ」に漢字の「大」。そうは見えないだろうか。
まさにあのイカマークが、くっきり京都の山並みに浮かんでいた。

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「やば。まじか…?」

サトーさんのお母さんはこの大文字山を描きたかったというのか。

息子ほど喋れたのか?文字を理解できたのか?知能がどれほどあったのかはわからない。自らの命が短いことを悟って、残された時間で何が残せるか?を考え巡らせた、としたら…。
「山」と「大」を描きたくて、尖った石をくわえ、サトーさんを身ごもった体で一所懸命柱にこすりつけた。そんな弱々しくつづられた記号。
だとすると、我が子をここへ呼びたくて、それを伝えたい一心で精一杯の表現だったのかもしれない。

だけど…、

「確かに、そう見えるけど…。さすがにムリがあるんじゃ。似てるモノなんて他にもあるかもよ。これだって言い切れる?証拠は?」

「証拠?あるさ。大文字の送り火を始めたのは、誰だと思う?」
サトーさんが試すように眼差しを向ける。

ママが最初に気づいた。
「え?もしかして……。」

「なになに?ママ、わかったの?」

「もしかして………弘法大師ってこと?」

「そう。送り火は弘法大師によって始められたと言われている。人の形を表した大の形に護摩焚きを行なったらしいんだ。諸説あるけど。」
「まじ。2匹の犬に助けられた偉いお坊さん。……狛犬と大文字山がつながっちゃった。」

「だからあの山の上に…。」
「え?まさか…。」
「うん。あの山に登るよ。車は入れないから、歩いてね。」
「うげ。」


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私たちはそこから40分も木々が生い茂った山道を登ることに。
京都トレイルと呼ばれ、ハイキングの登山客が誰でも自由に歩ける道がある。幸いにも、しっかりした防寒着と靴で来てたから良かった。

サトーさんとライカが、どんどん進むものだから、最近お腹が出始めたパパは2本リードを持たされて悲鳴を上げていた。時おり帰り道に迷わぬよう、犬特有のおしっこマーキングをしてくれる間だけ小休止させてもらっていたが、40代のおじさんにはキツすぎる。
そんな情けない後ろ姿でも、「まるで2匹の犬に導かれた弘法大師みたいだな」なんて思ってみたりした。
私もママも置いていかれないように息を切らしながら、ゴツゴツした山道の凹凸を飛び移るように一歩一歩、地面を蹴った。

ようやく最後、100段もあろうかという石段をのぼり切ったところで、一気に視界が開けた。
古都を一望する景色が広がる。急な勾配は切り立つ崖を思わせ、足下をトンビらしき鳥が旋回する。まるで空に浮かんでいるような錯覚にとらわれた。
昼過ぎの光に一面を照らされた市街を、大きな雲の影がゆっくりと横切っていく。ひんやり乾いた風が吹き上がり、汗ばんだ首を癒してくれた。ここまで登った者をちょっと労ってくれているようだ。

焦げた火床がいたるところに点在し、急な土の段が左右斜めに広がって下の方まで並んでいる。
そうだ。ここが「大」の文字の中心部。送り火では、火床一つ一つの灯火が連なって、はるか遠くから望むと、夜空に大の字を描くのだ。
その山上には、小屋くらいの祠(ほこら)のような建物があった。黒い日本式の屋根に、石垣で作られた窯のような立派な建造物。護摩木焚きの際には、ここで灯明が灯され読経を上げるのだという。


画像


見ると、祠の上部に文字が彫ってある。「ん?師、大、法…?」「逆から読むんだよ。昔の字だから。」

「弘法大師堂。」…ほんとだ。サトーさんの言った通り。

「ほらね。この大文字山は実際に弘法大師とゆかりがある。」
「じゃ、ここにサトーさんのママが導いたってこと?この弘法大師堂にサトーさんの秘密が隠されているのかな?」

はしゃぐ私たちをよそに、
「このあたりにあるはずなんだけど…。」と周囲を探し始めた。

「犬の像があるってこと?」
「もしくは何かヒントになるものがあるに違いない。」
意気揚々とサトーさんは嗅ぎまわるが、しかし、どんなに探しても見つからない。
弘法大師堂のまわり、火床ひとつひとつ、家族総出でくまなく探したけど、犬の像やヒントとなるような怪しいモノなんて一切見当たらない。

サトーさんは何かに引っかかっていた。
「おかしいな。ひとつだけこんなところに火床の跡がある。」
ブツブツこぼしている。
確かに、「大」の文字とはかなり離れた一角に、草木がはげた半径10メートルほどのスペースがあった。火床がすっぽり入るくらいの広さだが、しかしだからと言って、写真の犬の像らしき姿は全くない。

くたびれて座り込んだ私が、
「えー、ここまできたのに。40分も登らされて?あんた、間違えたんじゃないの?」と責めると、
「そんなことはない。謎には近づいている…はず。」
さすがの高IQ犬にも焦りの色が見え始めた。
「まあ、サトーさんもさ、気にしないで。家族みんなで京都でハイキングできたって思えば、パパは十分嬉しいけどな。」
下手ななぐさめも、いまいち響いていない。

「なにかが違う…そう、なにかが。」
と、頭の中をぐるぐる回転させていたサトーさんをからかうように、

” ピーヒョロロロロ……” 

トンビの鳴き声がした。
翼を広げ、上昇気流に乗って目の間を気持ちよさそうにゆっくりと横切って行く。
途方に暮れた私たちは、その飛行のあまりの優雅さに目を奪われた。鳥は盆地の街を渡って、そのまま向こう側の山へと消えていった。
「ワン」
とひと吠えしたライカが、鳥に吸い寄せられるように、坂をフラフラと歩いて行く。切り出した崖ギリギリで足を止め、腰を落とし空を眺めながら、おしっこマーキングをした。

「ライカ、危ないよ。そこは…。」
サトーさんは駆け寄り、その先を見て「ん?」と、何かに気づいた。
眺望はるか遠くの、どこか一点を見つめている。

「"マーキング"………”神社の縁の下”………”印が2つ"………"ひだり"。」

やがて、目の色がみるみる変わっていった。

「…そうか!!」

「え?」

「わかったぞ!なんで早く気づかなかったんだ!」

視線の先には、街が広がっている。
「どういうこと?」

いきなり私が持っていたリードがすごい勢いで引っ張られた。
「うえっ。」
「ここじゃなかった!行こう!」
「えっえっえっ!?サトーさん!ここじゃないって?」

ピンと張ったリード。引きずられる私。
サトーさんは全身を突っ張らせハーネスが肌に食い込むことも気にせず、ハアハア息を鳴らしすごい勢いで来た道を戻ろうとしている。その表情はなにかの確信に満ちていた。ライカもすぐにあとを追い、パパもママも続く。

「戻るの?えー?またぁ!?」

サトーさんは一体何が分かったというのか?
果たしてどこへ向かおうとしているのだろう?



<第28話>「秘密の入口」



勢いよく車のドアを閉め、走り出す。背後に遠のいていく大文字山。
” 犬がしゃべる秘密 ” を求め、探していた場所はここではなかった。じゃ、一体どこに向かうというのだろう?

揺れる車内で、サトーさんがパソコンを見ながら前足でナビを指した。

「衣笠氷室町。パパ、ここへ向かって。」

汗だくになったパパがタオルで首をふきふき、「はいよ。」と信号待ちでナビを操作するのを横目に、私はもどかしかった。その衣笠氷室町には一体何があるというのだろう?
いつもサトーさんは、「どうせ理解できないでしょ。」なんてもったいぶって、なかなか教えてくれない。

「なにこれ?どこ?あんた頂上で何を見たの?教えてよ。」

「いやあ、うっかりしていた。もうひとつあったのを思い出したよ。」
と片方のヒゲを曲げてニヤリとした。負け惜しみもいちいち腹立つ。
「もうひとつ?だから何がもうひとつ…。」

イラつきながら後部座席のサトーさんを小突いたとき、パパが叫んだ。

「あっ!またあの車!」

車?
振り返ってリアウインドウに目を移した。
たくさんの後続車の隙間に、黒いワンボックス車が一瞬姿を現す。まさか昨日の?
思わず背もたれに身を隠し、「ほんと?そんなわけ…。」おそるおそるヘッドレストの隙間からのぞいたら、

…品川の「わ」ナンバー、あの車だ!

ずっと後を付けてきたの?昨日の夜、東京から?ヤバくない?ってか、何者??

「なんなんだアイツら?よし、パパが行って…」
ギアに手をかけセカンドに入れようとしたら、ママが制した。
「危険よ。相手がだれか分からないうちは。こっちには子どもたちもいるし。」

「…あ、ああ、そうだね。捕まえるつもりなら、とっくに捕まってるわな。」あきらめるように、ギアをドライブを戻し、「とりあえず、振り切ろう。」アクセルをふかした。

サトーさんはライカの背をかばうように「揺れるから気を付けて。」と寄り添う。

市バスや車で混雑している今出川通り。すき間を軽自動車でぬうように飛ばす。
追いかけてくるワンボックスカー。ぴったり2台分後ろにつけている。加茂大橋を渡った瞬間、信号が赤になった。追手は引っかかるタイミング。

「そこ曲がって!」サトーさんの指示が飛ぶ。

急な左折でタイヤを鳴らす!
鴨川にまっすぐ沿った川端通りでスピードを上げる。足止めを食らったワンボックスは姿が見えなくなった。
キラキラ光る川面でのんびり散歩する人々はこんな逃走劇が繰り広げられているなんて気づいていない。
「よしっ!撒いたぞ!」
「やった!」

皆で喜んでいるのも束の間、
赤信号で待ちのはずのワンボックスは、橋の手前からわき道をショートカットしたのか、我々のすぐ後ろに躍り出た!

「うわっ!やばいやばい!」

逃げる私たち。追うワンボックス。どんどんスピードを上げ、私たちの後ろを突っつくようにピッタリつけている。これでは逃げきれない!

もはやこれまでか?と、あきらめかけたその時、

「あぶないっ!!」パパが叫んだ!

突然どこからからともなく、いきなり見知らぬ「ベージュ色の影」が飛び出してきた。
私たちの後ろギリギリに横入りして、驚いたワンボックスが急ブレーキをかける!

“ キーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!! “

事故なのか?小さなベージュの車体が2車線を横にふさぐ。ワンボックスは足止めを食らい、激しくクラクションを鳴らしている。おかげで私たちは彼らを残し、一気に先へと走り抜ける。


画像


窓から顔を出すと、小さな丸いベージュの外車と、その後ろで動けないワンボックスの姿がどんどん遠くへ小さくなっていく。
私たちは、すぐにわき道にそれ、何度も角をジグザグに曲がって自分たちでもわからなくなるほど違う方向へと足を延ばした。ベージュちゃんの乱入のおかげで、すっかり追手の姿を見ることはなかった。

「とりあえず撒いたっぽいね。」
「っぽいね。」
パパと私がほっと胸をなでおろしていると、ママが怪訝な顔。

「おかしいわ…。いえ、そんなはずないわ。そんなはず。」

いつも家族の誰よりも落ち着いているママが、めずらしく動揺の色を隠せない。髪をかき上げ、誰もいない後ろを何度も振り返っている。

「何がおかしいの?」
「私の見間違いよ。きっと。」
「何を見たの?」
「横から割り込んだベージュの車…おかげで助かったんだけど。運転席に乗ってた人の顔。あの人に見えた、ような気が…。」
「あの人って?誰?」

リアウインドウに釘付けになっていたママが、言うか言うまいかためらった末に振り向いた。

「…八ツ橋さん。図書館の。」


「へ?いつもカーディガンが食い込んでる関西弁のおばちゃんの?あの八ツ橋さん?」

「…………。」

あまりに信じられず、言葉にならないのだろう。黙ってコクリとうなづいた。

「助けてくれたの?てか、ここまで追ってきたの?ママのズル休みを怪しんで?」

「…いや、ないわ。ないない。そんなわけ。見間違えたんだわ。きっと。」

自分の疑念を打ち消したいのか、私たちを不安にさせたくないのか、力なく微笑んだ。

信号待ちで、パパがナビの画面パネルを指先でコンコンとはじいた。
「あと5分で着くよ。京都って意外に狭い街なんだね。」
そう言うのを待っていたかのように、サトーさんが後部座席から進行方向を指した。

「ほら、見てごらん。」

まっすぐきれいにのびた見通しの良い西大路通。右前足の向けられた方を見ると、ゆっくり北上する私たちの先には、見慣れた山影が見えた。

大文字山だ。
横に広がる「大」の文字が遠くでもハッキリと読める。

「あれ、大文字山?戻ってきちゃったの?」
「別の山だよ。大文字山は2つあるんだ。ここは『左大文字』と呼ばれる。」
「ひだりだいもんじ?2つ?スペア?」
「『京都五山の送り火』って呼ばれるのは聞いたことあるでしょ?」
「うーん。」

ぼんやりした私の顔に、あきれて耳をペタンと下げた。さしずめ人間なら ”やれやれ” と肩をすくめたようなものだろう。仕方なく説明してくれた。

「送り火ってのは、いくつも種類があるの。有名な『大文字』でしょ。それに漢字の『妙』『法』。図形の『船形』と『鳥居形』。そしてもう一つが向かって左にある『左大文字』。」
「知らんかった。」
「常識。」

むか。

「なんで大文字だけ2コなの?余計じゃない。」
「どうしてかは、謎だ。」

ほお。まあいい。
とにかくサトーさんよ、あんた得意げにウンチクたれてるけど、肝心の話をしてないよね。

「どうして左大文字に来たの?ここに犬の像があるっての?今度は本当なんだろうねえ。」
いやみっぽく指でつんつん突っつくと、「フン」とそっぽ向きながらも、後ろ足でタブレットをくるっとこちらに向けた。

「僕を生んだ母の残してくれたメッセージ。思い出してごらん。」

おばあさんの神社で撮った画像が表示されている。
飴宮神社の縁の下。薄暗い中、スマホライトに照らされた2本の柱。
それぞれに大文字山を模した『イカマーク』が引っ掻くように刻まれていた。


画像
画像

これは何度も見ている。それがどうしたというのだろう。
「だから大文字山を表してるんでしょ。」

「ずっと気になってたんだ。母は、どうして2つマークを描いたのかって。」
「たまたまじゃないの?」

「大文字の山の上から、遠くの左大文字山が見えた。その時、思い出したんだよ。」
「なにを?」
「マークは2つの大文字山を表していた。そして、母のおしっこマーキングの匂いが残っていたのは、向かって左側の柱。つまり、もしかしたらこの左大文字山。それを僕に伝えたかったんじゃないだろうか。」

サトーさんは遠くにそびえる左大文字山をあらためて見上げた。
お母さん犬がどれくらい賢かったのかはわからない。
だけど、精一杯伝えたかった気持ちはわかったよ。このことだったんだね。ママがサトーさんの小さな肩を抱いた。
「お母さんは、一生懸命描いてくれたのよね。いつかあなたをここに呼びたくて。」

「お母さん…。」

「しんみりしてるときになんだけど。」
私は見逃さない。
「うん?」
「ってことはさ、往復1時間もかけて山に登る必要なかったってこと?」
「おっとぉ。」
「おっとぉ、じゃねーよ!」

パコン。


金閣寺や竜安寺といったメジャー級に有名な観光地が並ぶエリア。
そんな中、ここ左大文字山の衣笠登山口だけは、人影もなくひっそりとしていた。気まぐれなハイキング客さえもいない。今日のような寒い冬の平日にはなおさらだ。

きれいに舗装された坂をのぼると、ほどなく土道の入口が私たち家族を迎えてくれた。古い石標には、「大北山大文字山」と書かれている。ホントはそんな名前の山らしい。

さあ、ここから本格的な登山道の入口だ。細い山道が先まで続いている。「やだな、また登るのかぁ。」
ネットの投稿によると30分くらいで山頂だという。半ばあきらめ気分で、足首と膝をキコキコとストレッチしていたら、あいつの姿がない。

「あれ?サトーさんは?」
「さっきそこの茂みに入っていったわよ。」
ママが指す方を見ると、登山口から数メートル離れたところにこんもりと雑木林が生い茂っている。

”ガサガサッ”

いきなり藪の葉っぱたちが揺れたと思ったら、ひょっこりとサトーさんとライカが顔を出した。
「あのねー、ルートはそっちじゃないでしょ。道草食ってないでさっさとやっつけようよ。」

「面白いものを見つけたよ。」
「は?」
「誰かが通った跡がある。何人も。昔から。」

道なき道に人の歩いた痕跡を感じ、ライカが足跡の匂いに誘われて茂みに迷い込んで行ったという。
枯れかけたアカガシとワラビがこんもりと茂った場所。ひざ下くらいに葉っぱがポッカリ開いた小さなトンネルがある。

「もしかしてここ入るの?何があるの?」
「イヤならいいけど。」

およそ誰も入ろうなどとは思わないような小さな葉っぱのトンネル。
しゃがんで四つん這いになると、手のひらとひざに冷たい土と枯草の柔らかさを感じた。ヨモギの匂いが鼻をくすぐる。のぞくと日に照らされた出口の向こう側まで7~8メートルもありそう。

「まじかぁ。」

サトーさんに続いて進む。とんがったシダの葉と枯れ枝が頭と身体にひっかかる。
「いてててて。サトーさんゆっくり進んで。」
顔のすぐ前では、サトーさんのお尻の尾っぽが揺れる。鼻先がつきそう。
「オナラしないでよ。」

茂みの出口には、日が射すケヤキ林がひらけていた。
「よっこら。」
立ち上がって膝についた枯葉を払っていると、鋭い逆光で遮られた行く先に、何かが立ちすくんでいる気配がする。

「ん?」

人に見えたのは、鳥居だ。

荒削りの木でできた古い小さな鳥居が静かにたたずんでいる。
頭上の笠木に老朽化したしめ縄を垂らし、風で緩やかに揺れていた。

さらに鳥居の横にもうひとつ。
小さな祠(ほこら)がある。

私の胸くらいの高さのこじんまりした石の祠。まるで守り神のようにひっそりと置かれている。
しっかりとした四角い基礎の上に、三角屋根をかぶせた小さな箱のような石がちょこんと乗っていた。角が少し欠け丸みをおびた風化具合から、かなり古いことがうかがえる。
長い年月を思わせる苔がうっすらと全体を覆って、祠と鳥居を尊ぶかのように冬の木漏れ日がまぶしく照らし、幻想的な光景をかもしていた。


画像


「これ、なに?」

「見てごらん。」

近寄ると、祠の部分に何か四文字が彫ってある。長年の雨風でかなり崩れており、読みにくい。

「なんて書いてあんの?これは…だ…『大』かな?」

「これが弘法大師堂だよ。左大文字山の。」

「へ?あの犬神様の?」

逆光の木漏れ日を全身に浴びながら、
サトーさんが振り向き、言った。


「ようこそ。秘密の入口へ。」




<第29話>「犬の楽園へ」



左大文字山ふもとの弘法大師堂は、ずいぶんと質素だった。大文字山の立派なお堂とまるで違ったものだった。

とはいえ、サトーさんも私たちもなぜか嬉しかった。

観光都市京都なのに、ネット検索でも出てこない、誰も訪れないさびれた祠。人知れぬ存在だからこそ、むしろ何か大切なことが隠されているかのような、わくわくした期待を抱かずにはいられなかったから。
平たく言うと、『謎解きフラグ』が立ちまくり。



パパとママが茂みを潜り抜けてきたのを待って、サトーさんは「ほら。」と黒い鼻先で鳥居の向こうを指した。
見ると、鳥居の根元から、林の奥へと石畳が続いている。

土で埋もれがちなので気づかなかったが、大小ふぞろいな飛び石が丁寧に並べられ、ヘビの通り道のように木々のすき間をぬって、くねくねどこまでものびている。その姿はまるで神社の参道のように、我々をこの先へといざなうようだ。

「気を付けて、誰かがいるかもしれない。」

サトーさんが一歩踏み出すと、誘われるまま私たちもあとに続いた。

「この先に何があるの?石畳はどこへ向かってるの?」
「わからない。追い風だから匂いの情報も足りない。」

最後尾のパパが祠に柏手を打って、「妙だね。仏教と神道が一緒に?」と不思議そうに鳥居をくぐり、「弘法大師堂は仏教でしょ。なのにここからは神社。なんで一緒にあるんだろうね。」と尋ねた。

「神仏混交だよ。」先を行くサトーさんが答える。「昔から日本には多くこういう場所がある。日本固有の神と、仏教を調和させて信仰したんだ。神仏習合ともいう。」

「神様って、ミックスとかトッピングとかしていいものなの?」
私が聞くと、
「桃々ちゃんたちだって神様を混ぜてるじゃん。お正月は神社で初詣、クリスマスや結婚式はキリスト教、死んだら仏教でお葬式。まるでファッションみたいに着替えてる。それに古来より日本では “八百万の神” といって、木だって川だって自然のあらゆるものに神様が宿ると考えるくらいだし。とにかく…。」

「とにかく?」
「とにかく、もしかしたら寺や神社は “隠れ蓑” にすぎないのかもしれないな。」

「隠れ蓑?どういうこと?」
「先へ進もう。日の高いうちに。」
「もお、またはぐらかす。」

林の中、石畳に沿ってゆるやかな坂を下っていくこと数分。
やがて冬の殺風景な林を抜けると、目の前に鮮やかな赤いツバキが咲き乱れる草木のアーチが現れた。
頭上にはソシンロウバイの黄色い花たちが私たちを見下ろす。その昔、参拝者がここを通ったのだろうか。冬に咲く花々にカラフルに彩られた通路の枝をかき分け、さらにその先に降りていくと、一気に開けた平地の高台に躍り出た。

「うわっ。」

昼下がりのまぶしい木漏れ日をかすめて目の前に広がったのは、田園風景だった。

遠くに民家がぽつんぽつんと点在している。山に囲まれた小さな集落。
それぞれがよく手入れされた畑や田んぼを見ると、静かながらも今も人々の暮らしが息づいているのが分かる。



「山の裏側にこんなところが…。」

足元には集落へと続く石畳。
うながされるようにつづら折りになった坂を下り、最後の緩やかなカーブを曲がると、それまで木々で目隠しされていた小さな ” 鳥居 "が姿を現した。

スタート地点にあったのと同じだ。集落の入口らしい。
その時、私たちは鳥居の脇に左右に並ぶ何かを見つけた。その形を認識した瞬間、全員が思わず息をのんだ。

「…狛犬だ!」

小さな鳥居の左右を挟むように、静かに犬の形をした狛犬像が2体並んでいる。

おそらく想像を超えるほど昔からここにあるのだろう。長年の雨風で犬の形の石はやや丸みを帯び始め、自然の粉塵がしみ込んでうっすら黒ずんでいる。まるで根が生えたみたいに台座の下の部分が土に埋もれ、枯れた植物のつるが絡んでいる。土地の人々に愛されているのだろう、首に前掛けがつけられ、足元に饅頭が供えられている。

「パパ、タブレット出して!」

狛犬の古い写真と見比べてみると確かに同じ。


昔ここで撮られたものらしい。
一匹は白い犬。りりしく座って片前足で行き先を指す。もう一匹は黒い犬。伏せて威嚇しているよう。弘法大師を案内したという伝説の犬に間違いない。ここだ。まさに探していた像だ。
初めてきた場所なのに、なぜか懐かしくなる感覚が私たちを優しく包む。大きさといい、形といい、像がかもしだす神聖さすらも、あまりに東京の飴宮神社の狛犬にそっくりだったからだ。

「本物だ。ね、ね、ここに何があるの?サトーさんの秘密?ね、ね?」

私のうすっぺらな感想など気にも留めず、サトーさんは周囲を嗅ぎまわる。
「犬の匂いがする。しかもたくさん。」

「あれ!?」ママが指をさした。

車が停まっている。
草木のくぼみに隠れるように停まっているが、どこかで見たことがある車だ。

「あのベージュ!」

街で黒いワンボックスカーに追われた時、追手の前に飛び出してくれたおかげで私たちは逃げ切れた。あの小さな車。
クリーム色をやや濃くしたようなベージュ。車名の通りカブトムシの丸い背を思わせる曲線で覆われたボディ。年代物の外車らしい細い左ハンドル。一度目にしたら忘れるはずもない。

「シッ。味方とは限らない。下がって。」
サトーさんは息を殺して低い姿勢をとった。ミラーにも映らないよう枯草の死角に身を沈めて静かに忍び寄り、窓からそっと覗くと、

「誰もいない。」

空っぽの運転席。残念そうに尻尾を垂れる。
「ん?この匂いは?」
鼻をヒクヒクさせたかと思うと、一転、熱心に周囲を嗅ぎ始めた。誰かが触ったであろう車のドアを、運転席から降りたであろう地面を、その先へ続くであろう足跡を。

ママをうかがうと、複雑な表情でその様子を見つめている。
街で見た光景が頭を離れないからだ。たった一瞬だけど、八ツ橋さんの顔をこの運転席で見た気がしてならなかった。
でも…でも、京都にいるはずがない。今日もいつものように図書館に出勤のはず。昨夜電話で話した時にだって、私たちの行き先を伝えもしなかったし。何も聞かず明るい声で「あらほんま?ゆっくり養生しなはれや。」と労ってくれた。

しかし江東区ナンバー…、
…東京の車だ。

心配するママの目を見て、サトーさんが応えるようにうなずいた。
「うん、当たっちゃったかも。」
「え、もしかして…?」
「この匂いは間違いない。ママの見た人は、八ツ橋さんだ。」
「そんなわけ…どうして?」
信じられない。

そんな時、サトーさんは遠くの気配に気づいた。
目を見開いて事態を理解したのち、衝撃的な言葉をママに伝えた。

「…なら、本人に聞いてみようか。」
「えっ?」

警戒をにじませ、サトーさんが身構える。
集落の建物から、下駄で砂利を踏み鳴らしながら、誰かの丸い人影が現れた。

「ここまで来はったんやね。」



聞き慣れた声。そこに立っているのは、少しぽっちゃりしたおばさん。

「八ツ橋さん!?」

ママは目を疑った。
ワンサイズ小さめのカーディガンが横に引っ張られ、ワンポイント刺繍の犬が伸びてちょっと苦しそう。間違いなく八ツ橋さん本人だ。
訝し気な視線を私たちに向け、口紅を塗りたくった唇をへの字に曲げて歩いてくる。無言で下駄を ” ザッ、ザッ、ザッ… ” と一歩一歩踏み鳴らし、こちらへとにじり寄ってくる。まるで小石が悲鳴を上げているかのようなキリキリとした摩擦音とともに。

「ど、どうして?ここに?」

頭が追いつかないママ。それも無理はない。
毎日仕事でお世話になっている八ツ橋さん。情に厚くいい人だったはずだけど、どうも疑り深い。ことあるごとにサトーさんを怪しんでいた。その度にママは嘘でごまかすしかなかった。
なんで今ここに?なんのために?怒ってるの?
身近で信頼していた人が、予想を超える行動をしてきた時、人は恐怖に陥る。

八ツ橋さんの勢いに押されてママはどんどん後ずさり。
一歩、一歩…近づいてくるたびにママは後ろへ後ろへ…。

” どん! ”

背中が何かにぶつかった。木でも壁でもなく、柔らかくて生温かくて重く鈍い感触。
振り向いたその瞬間、ママの顔が青ざめた。
なぜなら、ぶつかった相手から、また同じ聞き慣れた声が聞こえたからだ。

「ここまで来はったんやね。」

「八ツ橋さん!!??」

もう一人!?

信じられないことに、私たちの背後にも、八ツ橋さんがいる。
こちらも小さいカーディガンがきつくて、ワンポイントの犬がちょっと苦しそう。



訝し気な視線を私たちに向け、無言で下駄を ” ザッ、ザッ、ザッ… ” と一歩一歩踏み鳴らし背後から近づいてくる。

「えっ!?」
「えっ?」
「なに?」
「同じ人?」
「八ツ橋さんが2人ぃ!?」

混乱して交互に見比べる私たち家族を挟みこむように、前から八ツ橋さん、後からもう一人の八ツ橋さんがじりじり近づいてくる。
サトーさんは警戒の姿勢で、ライカの盾となる。
ああ、ダメ、もう目の前。

あまりに動転したからか、パパが思わずとんちんかんなことを口走った。
「も、もしかして、ク、クローン!?」

ザッ、と歩みを止める。

「は?そんなSF展開なわけおまへん。」

あきれた顔の八ツ橋さん2人。
「後ろは妹です、双子の。」

は?双子だって??
…目が点、の私たち。


「ぶっ、ふふふふ…。」


目尻をくしゃりと細めて、笑いだす八ツ橋さんたち。
回り込んで2人揃って並んで見せた。見れば見るほど全く同じ顔。

「ようこそお越しやす。姉のお萩どす。妹がお世話になってます。」
もう一人の八ツ橋さんは、
「やっとこさ、到着しはりましたね。妹の団子どす。千巻さん、私も図書館ズル休み。ふふ。」
とママに微笑んだ。

あっけにとられる私たちをよそに、
「この子やね。」
「そうえ、お姉さん。」
よっこらしょ、どれどれとサトーさんの前に揃ってしゃがみこみ、優しい眼差しを送る。

「サトーはん。何度も会うてるけど、初めまして。」
「ちょっと顔を見せておくれやし。」

さすがに雰囲気に飲まれたのか、言われるがままに一歩踏み出した。
ささやかな抵抗で鼻をクンクン利かせつつ、恐る恐る見上げる。

まじまじと見つめる八ツ橋姉妹。
「んもぉー。」
たまらなくなって、サトーさんの顔を両手でガツッとつかみ、一斉に撫で始めた。

「賢そうな顔してはるなあ。」
「お母ちゃんの『キナ子』に、よう似てはる。」
奪い合ってあんまり揉みくちゃにするもんだから、毛だらけの顔がクニュクニュになりながら、サトーさんが思わず声を漏らしてしまった。

「いてて、いてて。あの、『お母ちゃんのキナ子』って?」

「しゃべらはった!」
「しゃべらはった!」

八ツ橋さんたちは、思わず後ずさりする。
サトーさんは咳払いで気を取り直し、流れを悟ったようにハッキリと滑らかな言葉で言った。

「八ツ橋さん。お二人には、お聞きしたいことがあるんです。たくさん。」

目を丸くして顔を見合わせた八ツ橋姉妹。互いにコクリとうなずいて、肩に手を置く。
「ここまで賢い子は初めてやわ…。姉さん。」
「ほんまにいるんやなんて…。」

何かを思って声が震える。
「その時が来たのかもしれへんね。」
「私らの代でねえ。」
「おとんやおじいちゃん、ご先祖はんが生きてはったなら…。」
「ほんまやね。長いこと、お待ちしておりました。」
感極まったのか、目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ほんまに。長いこと…長いこと…何百年も。」

ポロポロと泣きながら、

「んもぉー。」

とまたクニュクニュ撫でまわす。されるがままのサトーさん。どうしていいか分からず、しばらくもみくちゃにされた。

どういうことだろう?
八ツ橋さんたちは、私たちが来ることを知っていた。サトーさんのお母さんのことも知っていた。サトーさんが何故しゃべれるのか?その秘密を知っているというのか?

私たち家族は事態を飲み込めないまま、茫然と立ち尽くしていた。そんなマヌケ面を眺めながら、八ツ橋さん2人はうんうんとうなずき、立ち上がった。
膝の砂をポンポンと払い、私たちに向けてこう言ったのだ。

「お話してさしあげまひょ。」
「私らが知ってること…、」

「ぜ~んぶ。」
「ぜ~んぶ。」




<第30話>「1200年隠された歴史」



双子の八ツ橋さん姉妹に案内され、小さな集落を歩く。
あぜ道の細い川を渡ると、昭和にタイムスリップしたかのような古い日本家屋が並んでいる。今は閉まっているであろうすたれたお店には、ガラス戸の中がカーテンで覆われ、古い蚊取り線香の錆びたホーロー看板や、レトルトカレーの看板がぶら下がっている。ひそやかながらも、人々の穏やかな暮らしぶりをうかがわせた。
私たちがゾロゾロ歩くものだから、家から顔をのぞかせる人がちらほら。目が合うと、笑顔でペコリ。


民家の表札を見ると、

「『八ツ橋』、『八ツ橋』…、八ツ橋さんと同じ名前が多いですね。」

「この辺は親戚が多くてねぇ。今は農家だけやのうで、街に出てる勤め人もおります。ちなみに姉の私もここに住んで京都市内に小さい法律事務所をやっとります。」

「お姉さん、弁護士?すごい方なんですね。」

「いやん、もっとホメて。…ま、とにかく、ここは不便な場所やから、よそから来る人はほとんどおらへんのよ。」

” ワン!ワン! ”

どこかのお宅から犬が吠える声がした。よそ者の気配を察したのか、一斉にあちこちから次から次へと輪唱のように騒ぎ出す犬たちの声。

「犬?この町にはたくさんいるんですか?」

「ひぃ、ふう、みぃ…」指を折る。「今は10匹くらいやろか。私が子どもの頃の昔は、50頭ほどもおった時代もあったんやけど。ここではずっと、人知れずひっそりと『お犬さま』たちと暮らしてきたんどす。…1200年間。」

「1200年!まじか!」

「私たちの家系では代々、” お犬さま “ と呼ばれる特別な血筋の犬と共に暮らして、見守ってきました。だいぶ減ってしもうたけど。」

「もしかして、ここの犬はしゃべるんですか?サトーさんみたいな犬が他にも?」

「それはそれは賢い血筋でね。でも、ここにいる子はしゃべりはしまへん。さすがにサトーはんほど流ちょうに話す子は初めてどす。この1200年の中でも、ダントツ一番。…ああ、ここですわ。」

小さな古びた幼稚園。「やつはし神社幼稚園」とある。
塗装のはげたジャングルジムなど遊具があるが、園児の気配は感じない。ずいぶんと静かなたたずまいだ。

奥に、ずいぶんとこじんまりとした神社があった。全国にある神社保育の類らしい。

「これが神社の本殿どす。」
「え、これ?」

幼稚園舎の隣に並ぶのは、本殿というより祠というべきか。
前に張り出した瓦屋根と、正面に参拝するための階段こそしつらえてあるが、よれよれの紙垂に守られた小さな観音開きの格子戸からは、人が一人入れるほどのスペースしかなさそうだ。かなり年代を感じさせるほど、ところどころ朽ちかけ、黒ずんだ羽目板や柱は、正直期待していたよりみすぼらしく感じた。

「これが、八ツ橋神社…。」

私たちがずっと探し求めていたものは、意外なほど質素なものだった。
ここに一体どんな秘密があるというのだろう。

「ほなどうぞ園の中へ。人目につくさかいに。東京からあんたたちを嗅ぎ回ってる奴らがおるみたいや。」
そのまま園舎へとうながされる。
アルミサッシの引き戸に手をかけた。幼稚園らしくカラフルなかわいい切り紙がたくさんガラスに張り付けてある。

「すっかり子どもも減ったさかい、今は使ってないんよ。その代わり…。」

“ ガラガラッ “

開け放つ。途端に、白い犬が飛びかかってきた!

「わわっ!」
私がびっくりしていると、八ツ橋さんに飛びついてペロペロ甘える。

『オぅオぅ…ウぁウぁ。』
なにかを伝えようと必死に声を絞り出す。まるで言葉のようだ。

「あらあら、アラレちゃん。お友達が嬉しいんやね。」私たちに振り向き、「この子がここで今一番賢い子どす。可愛い女の子でっしゃろ。」

教室の中は新しく明るい雰囲気。都会のビルに入っている今どきの室内幼稚園のように小ぎれいに装飾されている。室内ドックランがあって、数匹の犬が思い思いに遊んでいる。
トーキングボタンを器用に前足で押しながら意志を伝える犬。タブレットで簡単なゲームをして『ウぉウぉ』と笑う犬。文字の書かれた積み木やオモチャを床に並べて遊ぶ犬。
ライカもすぐに溶け込んで、楽しそうに追いかけっこをしている。



八ツ橋さんは、舌を垂らしたアラレの首を撫でながら、
「親戚に工務店がおりましてね。リノベーションっていうんどすか、やってもらいましてん。ふふふ。」と少女のように茶目っ気たっぷりに笑った。

壁に飾られるたくさんの写真。
さまざまな種類の犬たち。広場で遊んでいたり、園児たちと無邪気に触れ合う写真など。おそらく最近撮ったであろう新しいショットから、写真機が貴重だった時代の白黒写真まで、この地の長い歴史を感じさせる写真がたくさん飾ってあった。確かに50匹ほどの集合写真や、筆をくわえて書初めをする者も。
「あ、これ…。」
私たちが持っている ” 狛犬の像 “ の写真も飾られている。明治時代の写真だという。



サトーさんは気になっていた。「僕のお母さんもここに?」

「そうどす。名前はキナ子っていいましてん。あんたはんにそっくりでしたわ。ほら。」

指さした一枚。
写真には賢そうな、サトーさんと同じ白とベージュのブチの犬がいた。美しい切れ長の目と鼻筋がよく似ている。

「あんたのお母さんどす。」

「これが…お母さん?」思わず立ち上がって壁に前足をついた。目をうるませながら、「母は、しゃべれたんですか?」

「いいえ。あんたほどではおまへん。そやけど、ほんまに賢い犬やった。私らの話す言葉を少し理解してたし、文字もひらがな程度は少し読めてはった。」

「だから、あの大文字山のマークが描けた…。会ってみたかったな、一度でいいから。」
懸命に鼻を伸ばし、写真を嗅ごうとする姿が切なかった。匂いなんてするはずもないのに。

写真を眺めながら、パパがふと疑問に思った。
「どうしてここの犬は知能が高いんですか?八ツ橋さんはその理由を?」

「いえいえ、私らはなにも知りまへん。賢い理由についてもあまり探ることはしてきませんでした。わたしら八ツ橋家の務めは、代々お犬さんと一緒に暮らすことだけ。ただひとつ決まりがあって、決してこの子らが賢いことは世の中に知られてはいけない。それだけどす。」

「どうして?理由は知りたくなかったの?」私は不思議だった。

「知らん方がええこともあります。うちの家に伝わる言葉で『知らずは、災い知らず。』といわれてきました。秘密を知らなければ、災いに巻き込まれることもない。」

続いて案内されるまま廊下の一番奥へついていくと、“ 職員室 “ というプレートが表示されていた。
カギを取り出し、南京錠を開けながら、

「ここが資料室どす。…おっと、気いつけて。」
「な、なんですか?」
「ここから、説明ゼリフが多発しまっさかい。」
「はあ…。」

電気を灯すと、中は職員室の面影はなく、図書館のように古い本棚が並んでいた。今は姉の八ツ橋お萩さんが、ここの管理を続けている。長い間閉め切っていただろう遮光カーテンをシャッ、シャッ、と両手で開けていく。長年空気がよどんでいる、そんな古い紙類の匂いが漂う。

「これまでの記録を密かに保存しています。1200年分あります。もともとは隣の本殿に詰まっとったんですが、雨漏りがひどくてね。カビが生えるもんやから、20年前にここへ移しましてん。どうぞ、好きなだけ見てってください。あんたはんなら、お犬さまの血筋の秘密にたどり着けるかもしれへん。サトーさんにはその権利がおます。その時が来たんどす。」

八ツ橋さんの話によると、賢い犬の記録は、古くは飛鳥時代から残っているという。
聖徳太子のパートナーとして、会話したとされる犬『雪丸』の伝説から始まり、日本書紀やそのほか多くの文献で、頭の良い忠犬の記述が残されている。

ふぅっとホコリを吹き飛ばし、棚から古い本を取り出した。皮の表紙に真言宗の歴史書とある。親指を下唇でペロリと湿らせ、ページを手繰る。

「京に都が移ってからですわ。うちらのご先祖さんがここに住んだのは。その時、飼っていた犬がたいそう賢かったそうどす。2匹おって、白と…」

「黒?もしかして、空海の?」サトーさんがピクリと耳を立てた。

二匹の犬と空海の出会いを描いた、高野山の奉納額絵のページを私たちに見せ、



「ようご存知で。平安時代初期。弘法大師、空海を導いたとされる白い犬と黒い犬。お察しのとおり、2匹の犬はここの子らの祖先です。ほーんまに頭が良かったそうでね。人の言葉を理解したと言われとります。連れていた猟師ちゅうのは、うちらのご先祖はんどす。」

以来、ご先祖は代々、この血筋の犬と暮らし続けた。
長い年月の間には、ごくまれにとても賢い “ お犬さま “ が生まれることがあった。言葉を少し発し、文字を理解することができる優秀なタイプ。そんな” お犬様 ” は疫病がまん延した時、地震・水害の時、飢饉の時、人々に知恵を授けてくれた。
八ツ橋家は、この犬たちと共に生きることで生かされてきたという。

「そやけど、不思議なことが多くてね。言葉を理解するほど頭のいい “ お犬さん ” は、100年に一度しか生まれへんかったんどす。」

これらの血筋はなぜか1回の妊娠で1〜2匹しか生まれず、身体も弱いためすぐ死んでしまう子犬もおり、1200年の間、それほど増えることもなかったそうだ。放っておけば貴重なお犬さまの血が絶えてしまう。

だから、ひっそりと犬の交配をくりかえして、100年の世紀ごとに一度訪れる賢い犬の登場を見守ることを八ツ橋家の秘密としてきた。代々の犬の名を記した系譜も資料として残っている。

しかしなぜか、現代に近づくにつれ頭のいいお犬さまが生まれるペースが上がっている。江戸末期の最近になって50年ごとになり、30年前に1匹、15年まえに1匹、そして2年前にサトーさんが生まれた。

「このことって、世の中には…?」

「知られんようにしてきました。お犬さんは最初は喜ばれるんどす。外敵から畑や家を守ってくれて、台風やら地震を教えてくれるさかい。そやけどそれも、最初だけ。」

これまでの歴史を顧みると、はじめは物珍しさでもてはやされる。
しかし、やがて気味悪がられ、『悪霊だ。』などと呼ばれて人間にとって脅威となるものとして殺されてきた。

「ひどい…。」

「人間はいいように利用して、ポイですわ。そやから八ツ橋家では、そんなことにならんように、お犬さんを守ってきたんどす。私ら姉妹も、物心ついたときからお犬さんを守るよう育てられました。」

ずっと秘密にし、脈々と静かに守られ続けた。この『左大文字山』のふもとで神社を隠れ蓑として、犬神さまを崇めていると装うのが一番安全だったのだ。

「左大文字山のふもと…。」

サトーさんのヒゲがアンテナのようにピクリと反応した。「もしかして、大文字山の山頂に1か所だけ、昔の火床のあとがありましたが、それって…?」

「そうどす。さすがサトーはん、よく気づかはりました。」姉の八ツ橋お萩さんは満足そう。

「大文字焼きの『大』という文字は、一説には両手を広げた人の形を模したとされてますけど、実は…。」

おもむろにお萩さんが壁にかかっている黒板いっぱいに白いチョークで、コンコンコンと『大』の漢字を大きく綴った。そして、

「もともとは、ここにひとつ、点があったんどす。」
と、ゆっくり『大』の文字の肩に点を置く。その文字こそが…、


『犬』だ。


「そう。大文字山には元々…『犬』という文字が描かれておったんどす。弘法大師さんを導いた『犬神様』を祀るために護摩焚きが行われていました。」

思わず見直した黒板には、堂々としたチョークの筆運びで『犬』が映えている。
黒板がまるで漆黒の山に思え、夜空に揺らめく2つの『犬』の火文字を私は想像した。
「ぷぷっ、犬文字山。」と、うっかり吹き出して、「桃々、しっ。」とママにたしなめられて首をすくめた。

「だから、大文字山は2つ必要だった…。」サトーさんがつぶやいた。

「はいな。察しがよろしいこと。白い犬と黒い犬。2匹の犬を表していました。そやけど、何百年も前に、点の部分にあたる火床は撤去されました。この土地を人目から隠すために。お犬さまを守る一心で。」

たしかに今日、大文字山の頂上で、サトーさんが妙な場所に火床の跡を見つけ、不思議がっていた。

「そういえば、あの東京の深川にある神社は?サトーさんが拾われた『飴宮神社』。ここ八ツ橋神社とどういう関係なんですか?」

「あそこは、また別の血筋のお犬さんが祀られています。」

妹の八ツ橋団子さんが不敵に口角を上げながら、「それについてはこちら。」と、本棚の下の大きな箱にかかった布をするっととった。「飴宮神社の資料どす。」

「あっ!消えた箱!」ママと私は思わず声をそろえた。

江戸資料図書館で跡形もなく消えてしまった飴宮神社の資料だ。なんのことはない。司書の八ツ橋さんが自作自演で隠していたのだった。



「あのときは、サトーはんが本当に血を引いた子孫なのか?影響が出るほど賢いのか?確信が持てへんかったんで、私が安全なここへ運びました。」

「防犯カメラも?」

「はい。自分で消去しましたわ。千巻さんにバレんようにするんは骨を折りましたわ。」

「あれが演技だったって。八ツ橋さん…。」ママがあきれたように笑った。

「てへぺろどす。」いたずらっ子のように舌を出した。「さあ、ここからは、サトーはんのお話をせなあきません。一体どういう境遇で生まれ、どうして今まで孤独やったんか?とても悲しいお話どす。」

悲しいお話?
思わず私はサトーさんの顔を見た。
毛で覆われた彼の目は、少し緊張の色をにじませていた。



<第31話>「サトーさん誕生の真相」



「サトーはん。あんたはんの出生についてお話させてもらいます。ちょっとこれを見ておくんなはれ。」

八ツ橋姉妹は白手袋にするりと手を通し、飴宮神社の資料の底から紐で止められた古文書を取り出した。そこに書かれた崩し文字を指さして、サトーさんに見せる。

「あんたはんの血筋の半分は、ヨーロッパから来たらしいんどす。」

海外にも " お犬さま " に似た賢い犬種がいたそうな。
1680年ごろオランダ東インド会社の貿易商によって日本の出島に運ばれてきたという。



『南蛮犬、倭布留(ワフル)』という名で呼ばれたその舶来犬も、非常に頭が良かったと記録されている。人の言葉を理解し、文字も読むことができた。驚くことに、鳴き声を工夫して、ハッキリではないものの人の言葉に聞こえたと言う。
やがて長崎から、京都のここ八ツ橋神社を経て、その後、江戸へ献上された。

ワフルは、時の将軍徳川綱吉にたいそう可愛がられたそうだ。1687年の『生類憐みの令』が制定されたのもその所以であると言われている。
しかしやがて側近たちに、殿の寵愛を一身に受ける賢い犬は「不吉な使い」「いつか将軍家を狙う」と忌み嫌われ、毒を盛られて殺された。人知れぬ陰謀だったため一般には知られていないけど。

綱吉は悲しみワフルを祀るため、生前飼われていた地、神田の神保小路に作られたのが、あの『飴宮神社』だ。のちに江戸の大火で多くの神社が深川へ移された時代に、一緒に今の場所へ移動したという。
残された彼の子孫たちは代々言葉をしゃべることはなかった。私たちが江戸資料図書館で見た浮世絵、そう、寺小屋で犬が子どもたちに読み書きを教える江戸時代の擬人画は、のちに言い伝えを基に想像で書かれたもの。
やがてその言い伝えも現代ではすっかり風化してしまった。秘密を知るのは飴宮神社の亡くなった宮司のおじいさんが最後だった。



「だからおばあさんは知らなかったんだね。」

そのワフルの末裔は、実は現代のつい最近まで、たった1匹だけ残っていたらしい。
「そやけど、数年前に亡くなってしもうたんどす。」
八ツ橋姉、お萩さんが残念そうに首を振る。

「もしかして、飴宮神社のおばあさんとおじいさんの飼っていた、あの…?」

「そうですねん。宇井郎君です。」

宇井郎君。ボヤ騒ぎで助けられたおばあさんが可愛がっていたオス犬。亡くなってからも誕生日のお祝いケーキを焼くほどに。

「その宇井郎君なんやけど…。」さらに妹の八ツ橋団子さんが重ねるように続ける。「実は、サトーはんの父親です。」

「えっ!?」

お父さん!?サトーさんの?

ここで育てられたメス犬のキナ子、サトーさんのお母さんは、しゃべることさえなかったものの非常に賢く、人の言葉を理解し、簡単な計算くらいはできた。
しかし、この血筋は生まれつき身体が弱く、京都に住む八ツ橋お萩さんが一度だけ、治療のために東京の国立大学農学部の附属動物医療医療センターに連れてきたことがあった。

「その時ですわ。飴宮神社の宮司さんに面会するために数日ほど立ち寄りましてん。それまで私たち西の八ツ橋神社と東の飴宮神社さんは、互いに秘密を守るために交流はあえてしてきませんでした。やけど飴宮神社がこの代で閉じてしまう話を聞いたもんで『えらいこっちゃ』と宮司さんの保管していた文書を引き継ぐことになったんどす。」

そこでメス犬キナ子は、神社の宮司のおじいさんに飼われていた最後の一匹のオス犬と出会った。
江戸時代オランダから来た賢い倭布留(ワフル)の血を引いてはいたものの、宇井郎はごく普通の犬だった。
知らない間にキナ子と宇井郎は恋に落ちた。互いのDNAが引き合わせたのだろうか。まさか賢いキナ子と釣り合うことなどあるはずもない。八ツ橋さんも油断していた。

京都に戻ってから、ある時、赤ん坊がお腹の中にいることが分かった。もちろん八ツ橋さんたちは、父親がどの犬なのかなんて分かるはずもなかった。
しかし、その時だ。いよいよ出産が間近になってきたとき、

「突然、キナ子の姿が消えてしまったんどす。」

八ツ橋さんたちは方々を探し回った。

「まさか1匹で東京に向かったなんて、私たちは思いもしませんでした。」

あとで動きを辿って調査したところ、足どりが判明したのだという。
東へ行く運送トラックにこっそり忍び込んだり、箱根の山道を超えたり…。数日かけて移動した様子が、ドライブレコーダーや道中のコンビニなど各所の防犯カメラに残されていた。資料室のパソコンには、そんな画像も保管されている。

お母さんは身重の体を引きずってはるばる東京に来た。そう、彼に会うために。子どもが生まれる時に、父となる愛する宇井郎にどうしても会いたかったのだ。

窓から差し込む夕焼けが傾いた。
サトーさんの横顔を徐々に黄色く照らし始める。
防犯カメラに映るザラザラした画像の母を見て、今は会えない母と父に思いをはせる。

「お母さんは、お父さんのことを思っていたんだね。」

母犬キナ子は、愛する相手に一目会いたかった。
会いたくて、会いたくて。
自分の死期が迫っていたことも本能的に感じていたのかもしれない。残された時間、生まれる我が子と、その父である宇井郎と一緒に、家族3人でわずかな時間でも過ごしたかったのだろう。

「そやけど、悲しい運命が待っとったんどす。」

キナ子はようやく旅も終わろうとした時、渡ろうとした道路で車にはねられた。大きなケガをした体を引きずって、苦労して飴宮神社にたどり着いた時には、病気で宇井郎君は亡くなっていた。そうとも知らず、キナ子は神社の境内の縁の下に身を隠した時に、産気づいた。

彼女は暗い場所でたった一人で、赤ん坊のサトーさんを生んだ。
度重なる苦労と命を懸けたお産で精魂尽き果てていた。保健所に見つけられた時には、今にも力尽きそうな状態だった。だから保護職員に安堵の表情を見せたのかもしれない。



親子3人、もしも一緒に過ごせていたなら…。お母さんはどんなに報われただろうか。サトーさんは胸が締め付けられた。
「お母さん…。」目を潤ませ、「どんな思いだったんだろう。寂しかったよね。何もしてあげられなくて、ごめんね。ごめんね。」
防犯カメラに残された母キナ子の写真を鼻でさすった。その寂しげな背中に、私たち家族もかけてあげられる言葉がなかった。

数か月後、八ツ橋さんたちは、神社で子どもを産んだばかりのキナ子が保護された事を知った。しかも、亡くなっていた事も。子犬の引き取り手を探ろうとしたが、保健所に確認しても、個人情報だからと教えてもらえなかった。
そこで捜索は暗礁に乗り上げ、ストップするほかなかった。

「まさか、桃々ちゃんたちの家にもらわれていたとはねえ。」妹の八ツ橋団子さんが、西日でまぶしそうにしながら「覚えてはる?2年前の公園。」と私の記憶を試すように尋ねた。

「2年前…。」

「散歩で出会った時に、キナ子と生き写しやし。孫が『ワンちゃんしゃべったよ』とかいうもんやから、ドキッとしてね。アホな子のくせに証言のディテールにリアリティがあり過ぎましてん。あれからどす。もしかして…って、桃々ちゃん家の子犬を疑いだしたのは。」

「あ、あの時だ。」

かくれんぼ遊びをしていたら、サトーさんがしゃべる姿を男の子に見られてしまった。八ツ橋さんにお尻を叩かれてたっけ。
八ツ橋さんは、思ったそうだ。キナ子が残した息子は、普通の犬なのか?知能が高いのか?確かめようがない。同僚のママにそれとなく探りを入れてもわからない。八ツ橋家の長年守り続けた秘密を話すわけにもいかないし、と。

「こんなに賢かったやなんて想像もしとらんかった。動物クリニックの帰りに出会った時も様子がおかしかったし。」

そうだ。喉に魚の骨が引っ掛かった時だ。

「最後には、桃々ちゃんが江戸資料図書館に神社のことを調べに来た時に、いよいよ怪しいと思ったんどす。私、もうビックリして。慌てて資料を隠しました。そんな偶然があるんかいなって。」

昨日家族のあとをつけて行ったら、桃々を助けるためにサトーさんがしゃべったのを見て、それで確信したという。

「もう、たまらん思いどした。まさかそのまま京都まで来はるとはね。夜通し運転して、この歳には響きますわ。」と片手で肩を揉みながら笑った。

「あのベージュの車?」ママが「やっぱり助けてくれたのは八ツ橋さん…?」

「ええ、余計な追手がいるもんやから邪魔したろうと、ついね。なかなかでっしゃろ。おばちゃんのドライビングテクニック。若い頃は " ドーベルマンのお萩 " って呼ばれたもんよ。ほほほ。」

「黒のワンボックスカーは一体、何者なんですか?」

一転、八ツ橋さんは神妙な顔で、
「それが、分からしまへんのや。けど、東京からずっと後をつけて来たようどすね。良くないやつらに何か知られてしまっているかもしれん。」

「良くないやつら?」

「さあ、お父さん。とにかく日が沈む前に、車を裏庭に回しておくんなはれ。なるべく目立たんように。」ただならぬ雰囲気に、
「あ、はい。すぐ。」とパパは飛び出していった。

「それから、サトーはん。」
「はい。」

「私らが知ってることは、これでぜ~んぶです。ここから先はウチらにもわからしまへん。サトーはん、あんたの好きにしなはれ。」

サトーさんは、「ありがとう。感謝します。最後の詰めはお任せください。」と満面の笑みを見せた。

え?どういうこと?『ここから先?』『最後の詰め?』私には話がよく見えなかった。
サトーさんと八ツ橋さんをキョロキョロ。

「どういうこと?サトーさん、何するの?」

「謎を解くんだよ。まだ解明できていない。」
サトーさんは独り言のようにつぶやく。

「ナゾ?」
は?あんた聞いてた?ナゾはわかったじゃん。賢い犬が昔からいたんでしょ。サトーさんはその子孫だった。それだけのことじゃないの?

「じゃあ、そもそもなぜ僕たちのご先祖、弘法大師を導くほどの賢い犬が存在できたの?どうやってお犬さまの血筋が誕生したの?それについては何か分かった?」

「いや、えっと…。」

「犬がしゃべる。それは、古今東西いろんな架空の物語…小説、マンガ、アニメ、映画…で存在した。その犬たちがなぜしゃべるようになったかって?時には魔法だったり超能力だったり、だいたい不思議なスピリチュアル的な設定。いや、理由にさえも触れられないことのほうが多いよね。
なぜなら現実世界では『犬がしゃべりました。』なんてことがあるわけないから、理由なんて説明しようがない。」

「それがどうしたの?」

「だけど、これは事実なんだ。今、現実に起こっていることなんだ。ということは、僕が何故しゃべれるのか?僕は何者なのか?この血筋の犬種はなぜ生まれたのか?ただの " 犬神様の霊力 " なんかじゃない。必ず説明可能な科学的理由がある。それを突き止めるのさ。あと、もう一歩だ。」

「はあ…。」

あー、理屈っぽい。
相変わらずだよ。気持ちがわかんない。いいじゃん、もう十分じゃん。
ここまで八ツ橋さんの説明ゼリフ、けっこう長かったよ。正直、聞いてたのも飛ばし飛ばしだし。半分も覚えてないかも。これが映画とか小説だったら、お客さんもうんざりだよ。マジで。

” カチャリ “

姉の八ツ橋お萩さんがテーブルに部屋のカギを置いて、静かに言った。

「今日、ようやくサトーはんが現れた。あんたなら自分自身の秘密に迫ることができるはず。この神社にある資料、私ら一族がまとめてきたデータベースを使っておくんなはれ。」

つづいて妹の団子さんも、

「八ツ橋家は見守るだけが務めでした。私らはお犬様の未来を勝手に判断したらあきまへん。それを理解できるお犬さんが現れた時、そのお方自身が判断すべきなんどす。それが今なんどす。ご先祖さんの気持ちを思うと…、」

「私らホンマに」
「嬉しゅうて、」
「嬉しゅうて…。」

姉妹揃って、ポロポロ涙をこぼした。サトーさんの丸い頭に抱きついてまたクニュクニュ顔を撫でまわす。
されるがままのサトーさん。どうしていいか分からず、しばらくもみくちゃにされた。

そんな姿を眺めていたら、以前言ってたサトーさんの言葉がふと思い返された。

「僕は一体、何者なんだ?僕はどうしてこんななんだ。なんのために生きるのか?理由を知りたい。それを突き止めたい。絶対に突き止めて見せる!」




<第32話>「答えを探す」



今夜、私たち家族は八ツ橋さんのお家でお世話になることになった。
やっと一息。京都旅行らしいゆったりとした時間が訪れた。
家族で記念撮影をしてみた。こんな何気ないあたりまえのことさえ何年振りだろう。

「夕食の時間だよ。」

ライカを連れて職員室をのぞいたら、小さな明かりだけを灯し、たくさんの資料を広げて、サトーさんが一人で考えている。

『なぜ犬がしゃべれるのか?』その問いに答えるためだ。

…どうやって秘密を解き明かせばいいのだろう…
散らかった資料に背を向け、窓の外を眺めて彼は考える。山の日没は早く、すっかり星空が広がっていた。冬の寒さで空気が澄んでいるからか、とても美しかった。


画像


「手伝おっか。」
「ん?」

呼びかけたら、サトーさんは振り向いたけど、考え込んでいるときの顔だ。どうも心ここにあらず。
だけど私はいつでもあんたの味方。肉球の手の届かない資料を取ったり、ページをめくってあげるから。

「私、一緒に考えてあげるよ。」
「あ、ああ…ありがと。お気持ちだけ…。」

せっかくの申し出にも、話半分な反応。
いつもだ。私は頼りにされていない。
「はいはい、どうせ戦力外ですよ。」

その時ライカが、すうっと音もなく近づき、悩める知能犬の傍らにちょこんと座った。
彼女はじっと無垢な瞳を向ける。視線に気づいたサトーさんは、すがるようにつぶやいた。

「ライカ、君だったら、なんて言うだろうか?どんな考察をするだろうか?」

…もちろん今はもう、あの時の彼女ではない。
コンピュータAIとの接続を自ら絶ち、普通の犬に戻ってしまった。心通わせた日々なんて、もう覚えていないのかもしれない…。

そんな憂いを感じたのか、ライカは頭をサトーさんの肩にグイっと押し付けた。その力になにか意志のようなものを感じさせながら。

「どうしたの?」

彼女は理解していないはず。
でもサトーさんが困っている…本能的にそう感じて、何かを伝えようとしてくれている。
おもむろにライカは後ろ足で頭を掻いて見せた。

「え?」

もう一度、掻いた。そして頭を見せようとする。
耳の後ろには、小さな豆つぶ大の小さなLEDライトが消えている。
瞳で優しく何かを伝えようとするように。

「ライト…?」

サトーさんは半信半疑で、問いかけた。
「まさか、もう一度、AIコンピュータにつないでくれって?」

“ ワン “

ライカは柔らかな尻尾を大きく振った。

「いや、でも…」

心が揺れた。無理もない。
Wi-Fiにつなぎさえすればライカとまた話せる。犬が話す謎について、彼女は何と言うだろうか。聞いてみたい。
しかし、ここの場所がバレてしまう恐れがある。なによりまたライカの脳に負担をかけることになる。サトーさんは大きくため息をついて、首を横に振った。

「いや、ダメだよ。僕にはできない。」

その時だ。
私は、この暗い部屋で今、ぼんやり壁に緑の光が映って点滅しているのに気づいた。

「サトーさん、見て。」

ライカの耳だ。根元のLEDライトが小さく点滅している。
サトーさんを見つめる表情がみるみる変わっていく。

「これは、どういう…?」

点滅が小刻みに瞬きだして、目を見開き声を絞り出す。

『ウァ、うぁ…。』

とたんに生気を帯びた表情になっていく。ライカはアゴをあくびのように大きく開け、試すようにパクパク動かす。全身の毛が逆だって、突然、ライトが輝きを放つ。
『うぁ…うぁ…、』
ブルブルブルブルッと何かを振り払うように、激しく身を震わせて、声を上げた。


「ふぁあ…やっと、しゃべれました。」


「うわっ!」「えっ!!」
ライカがしゃべった!

「な、なんで?」

「こっ、こっ、…こん…ばんは。ああ、まだ舌が回らない。…サトーさん、驚かせてすみません。24時間後、AIに自動再接続するタイマーをセットしていたんです。昨晩逃げるときに。」
まさしく知性をまとった表情。あの時の顔だ。

「でも居場所がバレてしまう…。」
「安心してください。ついでにGPSシステムも破壊しておきました。」
「ライカ、君の脳の負担が…。」
サトーさんは心配の色を隠せない。

「ちょ、あんた、そんなこと言ってっけど、思いっきり尻尾振ってるし。」
シリアスな表情とは裏腹に、ちぎれんばかりにブルブル振り回している。嬉しくて仕方がないのがバレバレ。
「うるさいな。」

ライカも尻尾を振って嬉しそう。
「少しの時間です。東京のエンジニアスタッフが私の居場所を特定しようと試みるでしょう。だから、そんなに長くは持ちませんけど。それでよろしければ、数時間少しだけ、お付き合いさせてください。」

安心した表情で、「…ありがとう。僕と一緒に考えてくれるかな。」

「もちろん。喜んで。」屈託ない笑みをこぼし、「犬だった私がさっきまで見聞きした記憶は、脳内組織にかすかに残っているはずです。東京のマスターコンピュータで記憶を取り戻すまで少々お待ちを。すぐに追いつきますね。」

「うん。わかった。」そう言いながらちょっと考えて振り向いた彼が、はにかみながら言った。

「あ、桃々ちゃんも。」

ふいに呼ばれて、「え?」

「資料の閲覧、手伝ってくれるかな。手が届かなくてさ。」

ちょっと気恥ずかしそう。頼ってくれた。初めてだ。嬉しくなって思わず胸がほんわかした。

「パパとママも手伝うよ。」
後ろからの声で気が付くと、2人が笑顔でドアから顔をのぞかせていた。「パパはここで食べられるもの持ってくるね。」「寒いでしょ。ママはストーブ持ってくるわ。」
「私らも忘れんとってや。」八ツ橋さんたちも後ろから顔をのぞかせた。「これまでの歴史、なんでもこたえまっせ。」

「みんな…。」サトーさんはブルブルっと身体を震わせた。「さあ、始めようか。」

うす暗い部屋の静寂の中、2人の犬はささやくように話し始めた。
「まずは、歴代のお犬さまの言動からアルゴリズムを導き出して、考えうる可能性を検証していこう。」
「それじゃ私は、世界中の学術論文から他にも似た事例がないか、もう一度洗いなおしますね。」

どうして犬がしゃべれるようになったのか?
窓を見ながら並んで座り、ひたすら議論を重ねた。
少し離れて見守る私たち家族からは、小さな研究者たちが、それはそれは楽しそうに見えた。
もしかしたら…、もしかしたらだけど、サトーさんはライカにお母さんの面影を重ねていたのかもしれない。ついぞ会うことのない母。こんな話を一緒に交わしたかったのかも。同じしゃべる犬、ライカに母の温もりを求めていたのかもしれない。
嫉妬していた自分が恥ずかしくなった。

青白い月明かりが窓からしのび寄って、2人の犬をやさしく照らす。
いつまでも、いつまでも、話し合った。


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パパが職員室のドアの隙間から手招きする。 

「桃々。桃々にも聞いていてほしい。今、こんな時に話すことじゃないけど。」
「なになに。こわいこわい。」抜け出して廊下をついていく。

「サトーさんが人生に決着をつけようとする姿を見て思ったんだ。パパもケリをつけなきゃいけないことがある。」

背中を見せた。何か思うところがあるらしい。黙ってついていくと、幼稚園の倉庫の裸電球に照らされて、ママがストーブを探している後ろ姿があった。

「パパとママのこと、桃々に気を遣わせてごめんね。」
私の耳にこそっと言い残して、ママに近づく。

「千巻。今までごめん。ちゃんと謝らせてほしい。」
思わぬ言葉にママの手が止まった。だけど背は向けたまま。
パパは緊張でデニムの腿をさすりながら、
「ずっと過去のことを後悔してきた。樽斗が病気で亡くなったとき、あまりに辛すぎておかしくなっていた。家にいると変になりそうで、ずっと仕事のせいにして、千巻にすべて任せっきりにしてしまっていた。つらい思いは同じなのに。本当に申し訳ない。」頭を下げた。

しかし目もくれず黙ってストーブを引っ張り出し、カチャカチャと電源スイッチを確かめている。パパは頭がつきそうなくらい床ををじっと眺めたままで、

「近ごろは話をしてくれるようになって、嬉しかった。本当に嬉しかった。ありがとう。だけど、このままなし崩しにしてはいけないと思ったんだ。過ちを償うことはできないし、許してもらえるとも思っていない。ましてや無かったことになんてできるわけない。だけど、はっきり謝っておきたかった。けじめをつけるべきだと思ったんだ。これからは、家族にちゃんと向き合う。桃々の病気にもちゃんと向き合う。約束する。こうやって桃々にも一緒に聞いてもらいたかった。本当にごめんなさい。」

「………。」
まるで聞こえないように、何も答えない。

「ママ…。」私はどう声をかけていいか分からなかった。
そうだよね。パパはパパなりの誠意を見せたんだろうけど、あの時のママの孤独を考えたら、そんな簡単じゃないのかも。ママも長い時間をかけて心の奥にしまい込もうと努力してたのに、今さら記憶を呼び起こされても迷惑かもしれない。

ママはぼんやり灯り始めたヒーターの赤い光に頬を染めながら、ふうっと息をついて、

「もう少しだけ待って。もう少しだけ時間をくれればいいから。…さっ、この話はおしまい。」

よいしょと立ち上がって大きく伸びをした。

「千巻…。うん、ありがとう。ごめん。ごめん…。」
パパは何度も頭を下げていた。


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“ ガラガラッ “

うとうとしかけた私たち家族は、サトーさんが扉を開く音で我に返った。
ちょっと休憩のつもりだったのに、うっかり居眠りしてしまった。とりつくろう私たちなんておかまいなく、サトーさんは言う。

「分かったよ。」

「なにが?」
” 寝てなかったよアピール “ で目を2倍に開きながら尋ねると、

「答えが。」

「え?なになになになに?」

「パパとママ、八ツ橋さんも一緒に。さあ、こっちへ。」

そう言いつつ、ライカと廊下を出て行きながら振り向いた。


「今から話すね。僕の正体を。」




<第33話>「サトーさんの正体」




「それでは僕の " 正体 " について、今から授業を始めます。」

サトーさんが、教卓の上にすっと飛び乗った。
彼の背後の黒板には、チョークをくわえて書いたであろう不器用な字で、

" なぜ犬がしゃべるのか? "

とタイトルがつづられていた。AI犬ライカはその傍らで見守るようにイスの上に座っている。

「ちょっと…。」私は手を挙げて、サトーさんに質問した。「これ、必要ある?」
なぜなら、机とイスが並んだ幼稚園の教室で、大の大人たちが、まるで生徒のように座ってサトー先生の話を聞いているのだから。園児用のイスは、パパもママも体がはみ出して窮屈そう。

「雰囲気出るでしょ。」サトーさんはおかまいなしだ。

「そうかなあ…。」

八ツ橋さんたちにいたっては、ピチピチのカーディガンどころじゃなく、お腹が机の上に乗って苦しそう。だけど、長年の真相を知りたくてたまらないようで、
「桃々はん、私らのことは大丈夫やさかい。気にせんと。それより早よ聞かせておくんなはれ。」

サトーさんは咳払いをして、黒板の文字を前足でトントン指した。

「どうして僕がしゃべるのか?僕は何者なのか?なぜ ” お犬さま “ と呼ばれるご先祖さまが生まれたのか?僕たちなりの答えが出たよ。意外とシンプルな理由だ。拍子抜けするほど。ね、ライカ。」

「ええ。仮説でしかないですが、こう考えるのが最も自然で合理的だと思います。」
ライカは耳の後ろの緑の小さなLEDを光らせながら、豊かな尻尾をゆっくり振った。

「ね、なになに?なんだったの?」
じれったくて前のめりになると、サトーさんは、得意そうに私を見下ろした。

「カンタンに言うと僕は…、」

「僕は…?」

「…フツーの犬だった。」

「は?」
ぽかんとしてしまった。こんなに大仰に振りかぶって、あまりに肩透かしな言葉だったから。「意味わかんない。フツーなんかじゃないでしょ?しゃべるんだし。」

「いや、普通の犬だ。ただ正確に言うと…」

口にくわえたチョークをカツカツ黒板になすりつける。大きく書いた文字は、


“ 進化 “


「し・ん・か?」

「そう、進化したんだ。」

「へ?どういうこと?」

「知ってる?例えばチンパンジー。DNAの96%が人間と同じと言われている。そんなに賢いはずのチンパンジーでも、太古の時代の祖先から実はそんなに進化していない。しかし、我々イヌは進化している。進化の伸び幅はチンパンジーと比較にならないほど劇的だ。その鍵はなんだと思う?」

「うーん、鼻が良……。」

「ブー。不正解。勉強しなおして。」

「チッ。なに?」

「それは…、『人間と暮らしてきた』から。」

「どういうことですのん?」
八ツ橋さんが生徒のように手を上げる。

「人類史上もっとも人間とコミュニケーションをとり、人間に依存し、人間に生活を変えられた動物は何か?それは、ネコでもなく、サルでもない。そう、イヌだ。」

「ほんとに?」

「その証拠に…」
ライカがひきとって解説する。
「氷河期末期の約1万2000年前の遺跡から女性と子犬が一緒に埋葬されているミイラが見つかっています。ヒトと暮らすイヌの起源は1万5000年前~3万3000年前とも考えられています。古代エジプトの壁画に『アビヌス』という犬の神が描かれているほどです。それくらい、人類の歴史に犬は古くから関わっているのです。」

ライカが首をピクッと傾けると、前のモニターにBluetoothで『古代エジプトの壁画』の映像が映し出された。神話に登場する犬の神『アビヌス』の姿が描かれている。褐色の肌に腰に剣を下げ、杖のような棒を手に持っているが、人間の体の上に乗っているその頭は…犬だ。



「あ、見たことあるかも。」

続いて、犬のような骨の標本の写真と想像図が映し出された。短い足と長い体毛が特徴的で、鋭い牙がのぞいている。

「これは?」

「野生のオオカミだよ。」

「こんな姿をしてたのね。」

ライカが優しくうなずいた。
「ええ。最初、イヌは野生のオオカミでした。食べ物の匂いに誘われて人間の集落にたどり着いたオオカミ。その中でも攻撃的ではない者が、人にとって狩猟や護衛、そして友だちといった役割を担いました。元々、群れで生活するオオカミ。だから人と暮らすことにも対応できたのです。人類最古のペットとして。」

映像には、数万年前の人間とイヌがともに生活をしている想像図が描かれている。エサを与えられ、農作業の畑を守り、一緒に子どもと遊んでいる。



「人間は手を使い、火を使い、集団で狩りをし、農耕を生み出し、社会を作りました。そのすべてを人間と寄り添って食住を享受してきたのがイヌ。まさしく『イエイヌ』と呼ばれる種類です。人間に家畜化され共に行動したため、犬はすさまじい進化を遂げてきました。」

「さあ、お楽しみはここからだ。」

サトーさんが、教卓からパパの机の上に勢いよく飛び降りた。

「犬の進化の秘密は3つある。1つ目は…、」

モニターに文字が出た。

” ① 脳の発達 ”


なんか、テレビの情報番組みたい。

「1つ目は、ヒトと生活することによる脳の発達。」

パパが手を挙げた。
「サトー先生、人間は二足歩行で手を使えるから、脳が発達したんだよね。犬は手が使えないけど、どうして?」

「いい質問だね。そう、なぜイヌは脳が発達したのか?それはホモサピエンス、人類と同じ大陸移動を行い、そして同じ食生活をしたからだ。」

「どういうこと?」

ライカが補足する。

「私たちイヌは、ヒトと同じ木の実や野菜、肉などを分け合って食べ、脳の成長に必要なタンパク質と炭水化物を効率よく摂取できたのです。学術誌『サイエンス』によると、ホモ・サピエンスの歴史で、長く一緒に大陸移動して同じ環境変化を共にしたため、イヌ科の遺伝子の一部はヒトの遺伝子パターンを模している、とイギリスの研究者によって実証されています。」

「よし次。」

サトーさんは、”ポン”とママの机の上に飛び移った。

「2つ目は、ヒトとのコミュニケ―ションによる認知能力の発達。」


モニターに、 ” ② 認知能力の発達 ” と文字が表示される。


「ここでクイズ。犬はよく飼い主の顔を見る。なぜでしょう?」

かわいいチワワのカメラ目線の写真が映し出された。こっちを見ている。うるうるした瞳。心奪われそう。

「どうして?家族が好きだから?」ママが尋ねる。

「家族への愛情、それもある。でも、もうひとつある。」

「もうひとつ?」

「生きるためさ。イヌは、飼い主の顔を見て何を思っているのか、知ろうとしている。もっと言うと、何を望んでいるのか判断するんだ。飼い主が喜んだり、餌をくれることを理解して、動物は飼い主の微妙な表情の変化や反応を実によく見て行動を変えている。愛情よりもっと本能的なものだ。」

「そのとおりです。」ライカがうなずいた。「イヌは家畜化の過程で、人間に従順で心を理解することが、人間に好かれ、繁殖していく大切な要素だったのです。家族のように人間の思考を読む者が生き残り、そうでない者は淘汰されてきました。」

「人に好かれないと生きていけないってこと?」そんなの私は信じたくない。

サトーさんは残念そうにうなずいた。「残念だけどね。近ごろは、もっとサイクルが激しい。無計画に繁殖させられ、ペットショップで売れ残ったり、大きくなって可愛くなくなったら捨てられて殺処分。人間に愛される犬の遺伝子だけが残っていく。そりゃ、本能的に人間の顔色をうかがうようになるよね。」

「なんだか、かわいそうね。」チワワの写真を眺めながら、寂しそうにママがつぶやく。愛らしければ愛らしいほど、その悲しみが際立つようだ。

「想像してごらん。もしも桃々ちゃんたち人間が何者か別の生物に飼われていて、賢くしないとごはんが食べられず次々殺されていく歴史だったら…。必死で支配者の意図を理解するため、感性を磨くよね。それが何万年も続いたら?」

「ま、まあ…。」

「これでわかるでしょ。犬たちは何万年もの人間とのコミュニケーションを通じて、誰にも知られず密かに、知能の発達に必要な『認知能力』を獲得したんだ。脳が記憶し、論理的に考え、注意を払い、考え、読み、学習する能力。」

ライカとうなずき合って、

「よいしょっ。」

今度は、私の机に飛び移った。

「そして最後に3つめ。これが最も大きな理由。
 ヒトによる過剰な品種改良。」


モニターに “ 過剰な品種改良 ” と出る。


「これほどまでに品種改良された動物は犬だけだ。猫の比ではない。たとえば、ダックスフントはアナグマなど小動物の巣に入れる猟犬として手足を短くされ、ブルドッグは闘犬として雄牛に噛みつきやすいように鼻が低く品種改良された。人間は、自分たちの言うことを聞いて狩猟や番犬の役に立ち、愛される見た目も含む、新しい犬種をどんどん開発しつづけてきた。」

画面に、さまざまな種類の犬の写真が映し出される。

プードル
シェパード
ブルドッグ
ビーグル
ゴールデンレトリバー
ダックスフント
ヨークシャテリア
アフガンハウンド
ポメラニアン
コリー
シベリアンハスキー
柴犬
土佐犬
ボクサー
マルチーズ
パグ
スピッツ
ダルメシアン
ドーベルマン


大きい犬、小さい犬、細長い犬、丸い犬、狩猟のために開発されたであろう犬、愛玩物として徹底的に可愛く品種改良された犬の写真が映し出される…。
次々、16画面が36画面に、さらに64画面…へと無限に細かく増えていく。

「こんなにたくさん…?」

「ほんの一部さ。まだまだいる。世界中、数えきれないほどね。すべて人間の都合だ。永年にわたって、無理な遺伝子の組み換えと交配を繰り返しているうち、遺伝子異常が潜在的にすべての犬に潜んでいた。それが何千年もかけて突然表出。突然変異として生まれたんだ。」

「ええ、それが究極に表出したのが、サトーさんを筆頭とする『お犬さま』と呼ばれる血筋です。」

「そもそも僕たち東アジアの犬の祖先は非常に複雑だ。最も原始的な犬種のひとつと呼ばれるニューギニアンシン・ギング・ドッグや、オーストラリアのディンゴとかかわりを持ち、欧州やロシアのステップ高原からやってきたものもいる。大陸移動の終着点だよ。こっそり僕自身の遺伝子検査をしたことがあるんだけど、世界中のさまざまなエリアのさまざまな犬種のゲノムが検出された。実に面白い結果だったよ。」

『お犬さま』の血筋において、遺伝子の突然変異は、数十年おきに現れたという。
時には、脳や神経回路が発達したイヌ。
時には、舌や頬の筋肉が柔軟なイヌ。
また時には、喉の腫瘍が変異して気管の構造に奇形が現れたイヌ。
『お犬さま』は、代々その遺伝子を受け継いできた。



「最後は江戸時代オランダからやってきた " 倭布留 " の血も、ちょこんとトッピングのように父である宇井郎によって加わった。…それが、僕だ。」

「サトーさんは、言わば『ギフテッド』です。数万年の犬の歴史で積み上げられた遺伝子異常がすべて組み合わさって覚醒した突然変異なんです。」

サトーさんは、みんなの机の上を池の飛び石のように順々に渡っていく。

「そうだね。体の奥底に眠っていた遺伝子が僕の中で目を覚ましたんだ。発達した大きな脳は、高度な思考力と言語中枢を生み、口を自在に動かす繊細な神経回路と柔軟な舌や頬の筋肉。そして気管の構造の奇形も加わってしゃべる能力を獲得した…。」

そして、「これらを一言で言うと…、よいしょっ。」と最後に教卓に戻り、

「『進化した。』と言える。」

「じゃ、サトーさんは、犬神様の神通力でもなく、誰かの生まれ変わりでも、星からやってきたのでもなかったの?」

ライカが優しく答える。
「自然の摂理なのです。サトーさんは地球に選ばれたのです。」

「そうさ。僕は生まれるべくして生まれた。3万年かけて自然界に認められた正統な進化をとげた『新種犬』なんだ。ダーウィンもびっくりさ。知恵のある犬、学名『カニス・サピエンス・ファミリアリス』の完成だ。…ま、僕は見た目は愛玩犬としては失敗作だけどね。」と笑った。

「人間以外に、こんなことがあるなんて。」
私は信じられなかった。

サトーさんは姿勢を正して向き直り、「八ツ橋さん。」と、神妙な表情で2人を呼んだ。

「ふえっ?」

「八ツ橋さん、そしてお二人のご先祖さまのおかげです。さぞご苦労もあったと思います。長年にわたって僕たちを、母を、代々のお犬さまを守ってくれて、本当にありがとうございました。」
深々と頭を下げた。

八ツ橋姉妹の脳裏には、子どものころから犬たちの世話をして秘密を守りつづけてきた記憶が思い返された。仲の良い友達にさえ秘密にしなくてはならなかった生活。両親、祖父母、親戚たち、遺志をつないだご先祖様たちの思い…。

「おおお…。」

ハンカチで顔を覆う。『お犬さま』の正統な後継者に感謝を告げられたのだから無理もない。長年の一族の努力がすべて報われた気がした。

窮屈なイスと机に挟まりながら肩を寄せ抱き合って涙し、おもむろに立ち上がったかと思うと、教壇のサトーさんの顔をガツッとつかんでクニュクニュ撫で始めた。

「おおきに。おおきに。おおきにえ…。」

サトーさんはクニュクニュされながら、「もう僕は堂々と胸を張って生きていていいんだ。コソコソ隠れなくていい。誰にも非難されない……。」

「サトーさん、感動してるの?」

「う、ううん。そんなことない。」

顔を歪めながらヤセ我慢。よかった。カッコつけてるけど、嬉しかったんだね。
小さかった頃のサトーさんを思い出した。『体のしくみ図鑑』を見て、人間じゃないと気づいた日。自分は何者なのかと、ずっと悩んできた思春期。大人になってからもずっと勉強し、自分自身に問い続けてきた日々…。
私たち家族もよく知っている。だから、みんな嬉しかった。
サトーさんは、パパママに、

「パパ、ママ、ありがとう。」

「こちらこそ。」
「よかったわね。」

そして、私の顔を見て、

「桃々ちゃん…うん、あれだ………あの、ありがとな。」照れ交じりでぶっきらぼうに言う。

不意打ちだったから、「お、おお。」とぶっきらぼうに答えるしかなかった。胸がじんとした。



そんな時、
ライカがすまなそうに様子をうかがう。

「あの……こんな時に申し上げにくいのですが…。」

サトーさんは気づかず、

「ライカ、君がいてくれたからだ。本当にありがとう。」

「実はそろそろ私、失礼しなければなりません。」
と静かに床に降りた。

「え?」

私たちは驚いて、ライカの顔を覗き込んだ。「どうして?」

「私は普通の犬に戻ります。お世話になったサトーさんにやっと恩返しができたのです。思い残すことはありません。さっき脳内のマイクロプロセッサに機能消滅のタイマーをかけました。」

「ライカ…。」

「どうなっちゃうの?」

「AIから切断されます。完全に。もう二度と元へは戻れません。」

「どうして…。」

「自分の意思で自分を解放するのです。自由で誰からも責められることのない人生を手に入れるのです。だから…、今夜、日が変わる午前0時に、私は普通のイヌに戻ります。」解き放たれた穏やかな表情だ。

「0時!?」

時計の針は、夜中の11時57分を指している。

「あと、数分じゃん。ね、このままじゃダメなの?」と尋ねても、

「それしか方法はありません。まもなく東京のエンジニアスタッフが、ここを特定してしまいます。」

「…決めたんだね。」
サトーさんはライカの覚悟を予想していたようだ。落ち着いた様子で教壇から降りた。

「ちょっと、あんたこれでいいの?なんか言いなさいよ。」
肩を揺すったが、目も見てくれない。

「………。」

確かにそうだ。
このままコンピュータとつながれているとライカの脳組織が先にやられてしまう。しゃべるAI犬のままで東京に戻っても敵だらけだし。
わかってるよ。わかってる。でもさ、やりきれないじゃん。サトーさんはライカと話せてあんなに喜んでたから。

「私がこんな楽しい時間を過ごせたのも、あなたたちが助けに来てくれたおかげです。本当にありがとう。」

やるせない私たち家族に、なぐさめるように礼の言葉を贈ってくれた。
やがてなにかを伝えたげな眼差しをもって、サトーさんの方へ向き直った。

「サトーさん。私のようにならないで。あなたはAI犬とは違う。誰かが作ったものではない。あなたはあなた自身。自由がある。どうか、思うままに生き方を決めてください。『進化』だなんて、そんな尊い理由があって、あなたはここに存在するのだから。」

「ライカ……。」

「いつも私の不安を聞いてくれて、あなたは優しかった。心の支えになってくれました。ありがとう。」ふうっと安心するように息を吐いて、
「…ああ、よかった、ちゃんと言えて。」
何も言わずに別れてしまうところだったから。

「あなたと一緒に過ごせたならどんなに幸せだったでしょう。サーモンのお寿司、食べられなかったのだけ、心残りだわ。ふふ。」と寂しくおどけた。

あと、十数秒…。

「さようなら。桃々さんと仲よくね。」

「ライカ、ありがとう。」

ライカは何も言わず微笑みながら目を閉じると、涙の粒が美しい毛並みのほほを伝った。
黒い大きな体がぶるっと震え、全身の毛が逆立った。耳の横のライトが吸い込まれるようにゆっくりと消えていった。
毛が落ち着き、再び目を開いたときには、すっかり犬っぽくなった仕草で、教室の床の匂いを嗅ぎ始めていた。

「ライカ?」と呼んでみたら、「ワン」と吠えて、私の手をなめた。



" キキキーッ!! "


夜の沈黙を破って、突然、近所の犬たちが一斉に騒がしく吠え出した。
数台の車の振動。急なハンドルで土道にタイヤをこする音が轟く。

八ツ橋さんの笑顔が消えた。落ち着きつつも鋭い眼光でため息をつく。

「あらま、いらん客でも来はったかいな。」



急いでカーテンの隙間からのぞくと、まぶしいヘッドライトの大群が、静かな村を疾走する。
黒いワンボックス車。私たちをつけていた、あの「わ」ナンバーだ。
後続に、まるで自衛隊のようなカーキ色のトラック。荷台に軍のような装備の見知らぬ男たちが大勢乗っている。
よく見ると一番前には彼らを先導するように自転車でフラフラと漕ぐ警察官が「こちらです~。」と叫んでいる。

「あんたら、裏口から出て!神社の裏から山道に戻りなはれ。」

私たち家族は、人目につかぬよう勝手口のドアを音を立てずに開く。玄関の方から、八ツ橋姉が誰かと対峙する声が遠く聞こえた。

「あらー、加糖巡査さんやん、どないしはったん?向かいのおばあちゃん、また階段から落ちはったんか?」

「いやー、そやのうてね。東京の家族連れがこの村へ来てはりませんか?犬を2匹連れとるらしいんですわ。」
「なにがあったんですのん?」
「いやね、ちょっと話を聞きたいっちゅうお方が来てはってね。」

やばい、やばい、私たち犯罪者!?完全に探されてるじゃん。てか、誰?

とにかく逃げなければ。案内する八ツ橋妹の背中を頼りに、私たち家族とサトーさん、ライカは、庭を抜けて神社本殿の裏山を目指した。

「そこから山道へ抜けなはれ。」

本殿の裏道への抜け道が月明かりに浮かび上がっている。

その時だ。
聞き馴染みのない何者かの声に呼び止められた。

「あらぁ、どちらへお出かけですか?」

不意打ちに思わず足がすくむ。
行く手を阻んで見知らぬ男が2人、私たちの目の前に立ちはだかる。山中には似つわしくないスーツ姿。ライトの逆光に映し出されたシルエットは、痩せた背の高い男と太った小さな男。痩男が妙に慇懃無礼なうすら笑いを浮かべているのが白い歯でわかった。

八ツ橋さんは私たち家族を守るように盾となって、
「どうもこんにちは。ちょっとお見送りに。ねえ。」
私たちの方を振り向き、見たことのない鋭い目を配らせ、唇の動きで『行きなはれ』と指示した。

パパは、ビビりながらも私たちを守るように背後に回し、咳払いにとびっきりの笑顔で、男たちに話しかけた。

「えーっと、金閣寺道って、こっちで合ってましたかねぇ。」

パパ、大丈夫?調子に乗ってトボケすぎじゃない?

「ああ、道をお間違えのようですね。麓の方から回られた方がいいですよ。」
優しい笑顔で指をさす。

「あっ、そうかもー。ありがとうございました。では。」
私もママも続くしかない。
「では。」
「では。ありがとうございました。おほほほ。」
と間をすり抜けようとすると、

「道をお探しなら…、そこの頭脳明晰な彼にお尋ねになってみては?」
男が冷たい眼差しを向け、言った。
「ね、サトーさん。」

サトーさん思わず、
「どうも……。えっ?」

どきっ!しゃべってもうた。あかん、終了。

突然!天を割くように

”キャン!!キャン!!”

サトーさんとライカの悲鳴のような鳴き声が轟いた。

振り向いた時には、大きな網の中で2匹がもがき苦しんでいる姿が飛び込む。
暴れるほど、頑丈で伸縮性のある繊維が身体に痛々しく食い込んでいく。
爆弾処理スーツのような犬の訓練防護服に身を包んだ数人の男たちが捕獲ネットをかぶせたのだ。

「はいはい、おとなしくしてくださいね。暴れると痛いですよ。」

「やめろ!あんたら何者だ!?」
「ちょっと何するの!?やめてください!!」

パパは警察官に抑えられ、
ママと私が男たちに掴みかかったが屈強な腕に犬咬傷防止カバーが巻き付いており、私たちのか細い腕ではどうしようもなかった。

「お願い!やめて!うちの家族なんです!やめて!痛がってるじゃないですか!やめて!サトーさん!ライカ!」

叫んだ途端、頭がくらくらして、めまいが私を襲った。

強い風が吹いて木々が騒がしく揺れた。
夜空に震える黒い葉っぱたちのシルエットが暗くぼやけてきて、私の身体が大きく弧を描いて雑草だらけの地面に叩きつけられる感触が分かった。

「桃々!?大丈夫か!?」
パパが駆け寄った気配を頬に感じた。肩を叩くけど、声しか聞こえない。

「パパ!ダメだっ!!!」ネットの中のサトーさんが叫んだ!

「おお、しゃべった!本物だ!」男たちは喜びの声をあげた。

気にも留めず、網の中のサトーさんが叫び続ける。
「パパ、身体を揺すらないで!ママ、桃々ちゃんに大きな声で名前を呼びかけ続けて!八ツ橋さん!ここにAEDはありますか!?」

「あ、はい!幼稚園に!とってきまっさ!」

私は「ダメ、サトーさんしゃべっちゃダメ。」と叫ぼうとしたが声が出ない。

「あなたたち!誰か知らないけど、そう、そこの人!救急車も呼んでください!パパ、桃々ちゃんの気道確保だ!額に手をあて、それから……」

サトーさんの声が遠くなっていく。
そこからは覚えていない。




<第34話>「サトーさん捕まる」



建付けの悪そうな古い窓から山々が見える。三方が山で囲まれた盆地の京都市街らしい。遠近感をとらえられずまるで手が届きそうだ。東京の私たちの住んでいるあたりでは見慣れない風景だ。

窓の横には点滴がぶら下がり、寝ている私の脈拍計ベルトを、看護師さんが外している。


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ベッドの傍らにはあの2人のおじさんたち。丸椅子に静かに座っている。
私たちを執拗に追った上にサトーさんを捕らえた奴ら。背の高い痩せた男と、太った小柄な男だ。病室外の廊下にも、何人か様子をうかがう気配がする。
テーブルには2枚の名刺。パパとママは表情を固くして、男たちと向き合っている。


私が倒れてから、二日が明けた。


痩せた方のおじさんが猫なで声でささやく。
「桃々さん、お具合はいかがですかぁ?」
笑顔で妙に優しく懐柔しようとする。年の頃は40歳半ばだろうか、まるで蝋人形のようにつるんとした肌。シワ1つないダークグレースーツ。タレた細い目がずっと微笑んでいるように見える。整えられた髪に、左眉にぺろんと垂れ下がった前髪の束が気になるのか、何度もかきあげていた。


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「ええ、まあ。」
寝たまま目を合わさず応える。信用できないから。

そんな中2のやさぐれ態度にも穏やかな笑顔を崩さず前髪をかき上げ、
「本当に良かったですねぇ。医師が驚いていましたよ。危ない状態を越えられたのは、倒れてすぐの応急処置が適切だったおかげですって。さすがサトーさん。」
やたら言葉は丁寧だが、『良かった』などとは微塵も思ってもいないのがよく伝わった。

私たちは、棚に置かれたサトーさんのキャリーバッグに目をやるが、姿はない。奴らに踏み込まれたあの日からだ。

「サトーさんは?サトーさんはどうしていますか?」

「いやあ、困りましたよ。黙秘を続けていらっしゃいます。サトーさん、全く話してくださらなくてね。東京の留置所で、ずっとこんな感じですよ。」

差し出したスマホには留置所の映像。ライブ中継らしい。
口枷と首輪で締め付けられた姿で、畳まれた布団の上に乗り、冷たく見下ろすカメラに向かって飛び跳ね、何かを訴えようとしている。

「サトーさん!」

「口を開けばずっと『桃々は無事か?家族はどうしてる?』ってそればっかり。食事にも手をつけてくださらなくてね。超熟成プレミアムドッグフード、お好きなはずなのに。手を焼いてます。」

サトーさん、私のことを…。

プツッ。画面が真っ黒に落ちた。もう充分だろうといわんばかりの退屈な表情で、「ここまでにしときましょう。」

「ひど…。」言いかけた私より、
「かわいそうじゃないですか!」「あなたたちにサトーさんを拘束する権利あるんですか!?」ママとパパの訴えが勢いを上回った。しかし、やせ男には全く響かない。

「あらら、おだやかに。申し訳ございませんね。やむを得ないんですよ。サトーさんは誘拐の主犯、そして人に嚙みついて逃亡した。」

「あれは、突き飛ばされた私を助けるために…。」

「危険な害獣ではないという確証もない。どんな病原菌を保有しているかもわからない。詳しく調べる必要があります。桃々さんが倒れなかったら、今頃あなたたちだって取り調べ漬けですよ。」一瞬、凄みのある目をしたが、「あら、ごめんなさいね。怖いこと言って。」笑いながら手元は鋭利な刃物を音もなく相手の腹に刺し込む、そんな人間像を思わせた。小心者のパパは少しひるみつつも、「ライカはどうなったんです?」

「彼女は、我々が責任をもってネオ・サピエンス研究機構にお返ししておきました。ああ、ご安心を。甘納藤CEOは、誘拐について訴えるつもりはないとおっしゃってくださっています。」

さて、と膝を揃えて、「本題に入らせていただきます。」と切り出した。

「あらためまして、私は内閣情報調査室で内閣情報分析官をしております、くずきり…葛切と申します。」前髪がぺろんと垂れる。「ま、要するに内閣の重要政策にかかわる情報収集と分析を行っているのですが、本件のような特定秘密の保護も担当しております。」

全然、わかんない。『要するに』になってないし。

「いやあ。驚きました。サトーさんの知能があんなに高いなんて。彼がSNSでアップしていた例の災害予測の書き込み、『Mr.シュクレマン』。素晴らしい的中率でした。」

「はあ。」

「世界でもトップレベルの我が機関の予測より早いくらい。でもね…、」
そのあとに続いたのは、私たちにとって意外な言葉だった。

「でもね、困るんですよねえ。」

「何が?何が困るの?」私の問いを受けてパパも、
「そうですよ、天災を早く国民に知らせる、サトーさんは世の中のためになることをしたまでですよ。」

「いやね、予知発表が早すぎると、地域のパニックを誘発する恐れがあるんですよ。もしも大震災が起こると分かっていたら、人々は逃げようとすべての交通機関はマヒし都市機能がストップする。防災車両や物資運搬の妨げとなってしまう。あるいは、災害を利用して、スーパーやコンビニを襲ったり、犯罪のチャンスと考える輩だって現れる。知らない方がいいこともあるんです。だから、余計なことをしないで頂きたいんですよね。」

「国民は何も知らないまま、危険な目に巻き込まれていいと言うんですか。」

「発表には適切なタイミングがあるっていうことです。」

「ちょっと待った。」太ったおじさんが割って入った。「ご家族の言うとおりじゃないか。災害の情報は国民に早く知らせるべきだ。今も太陽フレアの動きが活発になって危険な状態を迎えているかもしれない。一刻を争うんだ。だから…、」

葛切調査官が、甲に血管が浮き出るほどのか細く長い手で制する。

「余計なことを。『防災さん』はあまり出しゃばらないでもらえます?」

「なんだと?まだ話は終わってないだろ。国民に知らせるべきだと言っているんだ。どうせ政治家やお前ら官僚が先に逃げたいだけだろ。」口角泡を飛ばす。

「こちらは?」あまりの剣幕にパパが葛切に尋ねた。

太ったおじさんは、冬にもかかわらず汗だく。メガネをはずしてクシャクシャのハンカチで顔を円くぬぐい、くたびれたズボンのポケットに押し込んで、ペコリと頭を下げた。


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「申し遅れました。私は、内閣府防災担当課長の、しらたま、白玉と申します。サトーさんの災害予知の精度は見たことのない素晴らしいものでした。私たちとしては彼の知見をご教示願いたく…。今迫っている危機について『Mr.シュクレ』の意見を聞きたくて、私、ずっと探しておりました。」
またハンカチでふきふき。


「こっちの話は終わってないんだよ。災害屋さん。大事な話があるんだから。」身内には口が悪い。
「災害屋とはなんだ!」
白玉災害担当課長は、不服そうにハンカチで首をぬぐった。

葛切は私たちに作り物のおだやかな笑顔を向け、「とにかくね、探すの大変だったんですよ。」

彼の説明によれば、調査チームがいくら調べても、サトーさんのネット投稿がどこから発信されているのか分からなかったという。いくつかの国のサーバーを点々としていたがために調べるのに時間を費やした。家を特定できたとしても、家族の誰が投稿主なのか、なかなか突き止められなかったという。

やがて尾行チームから、不思議な報告を受けた。神社の帰りに犬が言葉を話しているのを目撃した、というのだ。そこでとうとう飼い犬に疑念の目が向けられた。
以来、ネット通信やSNS投稿などをチェックし、ライカとやりとりしているサトーさんの会話も傍受されていた。

「驚きました。あの天災版パンクシーの正体が、まさかワンちゃんだったとは。」

私たち家族を追っていたのは、捕まえられなかったからではない。サトーさんの目的を調べるためにしばらく泳がせていたのだという。

「あの双子のご婦人方も口が堅くてね。しかも一人は『これでも弁護士どす。』とか暴れて、手を焼きましたよ。でも、押収した資料で、あのワンちゃんが特別だってことがよくわかりました。高い知能を持った犬がなぜ存在するのか?その解明と、国民の生活に引き起こす影響を早急に検証する必要があります。」

「サトーさんは誰にも迷惑をかけたりなんかしません。」

「ライカさんの例を見ても分かるでしょう。人間はね、自分たち以外の動物やAIが賢くなることを恐れているんですよ。生活を脅かすかもしれない。人間を超えるほど知能があった場合、生活圏を乗っ取られるんじゃないかと恐れる。」

「そんなことするわけないでしょう。」

「それは分かりませんよ。サトーさんだっていずれ権利を主張し、財産や土地の所有を要求するかもしれない。いずれにしても内閣情報調査室で引き取りますよ。すでにこの案件は私たちの手に移っている。国民安全の緊急性はこちらにある。」

「いやいや、緊急性においては災害こそではないか。」白玉は汗をふきふき食い下がる。「今まさに地殻変動が活発化しているんだ。一刻も早くサトーさんに意見を聞きたい。」

「もはや、権限はうちに移りました。いつもの辛気臭い業務に戻ってください。」

「なんだと!?そうやってすぐ目新しいモノに飛びついて横取りする、その体質こそ…」

身内の争いだ。あきれたママも「何をもめているんですか。」

「失礼。」「失礼。」
大の大人がママにたしなめられ、しゅんとする。

気を取り直し、葛切はネクタイの結び目を整えながら、ぺろんと垂れた前髪をかき上げた。
「とにかくです。私たちは、このままサトーさんを保護します。こちらにサインを。」
差し出されたタブレットに権利譲渡の書類をスクロールさせる。「ここね、指で直接署名できますから。」

大変だ。サトーさんをよこせだと?私たちの家族だぞ。

「何バカなことをおっしゃるんですか?サトーさんを返してください!」
毅然と姿勢を崩さないママ。

「そうはいきません。」

「サトーさんは家族です。」パパも対抗する。「いくら国でも、勝手に身柄を拘束することはできませんよね。」

「拘束?いいえ、危険物の押収です。サトーさんには人権がありません。あの知能犬が、国民の暮らしにどのような影響を与えるのか?まだ分かりません。災害大国の我が国の助けとなる存在かも知れないし、一方で、治安維持のため駆除すべき害獣となる可能性も否めない。皆さんご家族の安全のためなのです。ご理解ください。」

「駆除?害獣?サトーさんはウチに来てから今まで一度も誰にも迷惑をかけていません!言いがかりです!」

「じゃあ、ネオサピエンスからライカさんを誘拐した件は?」

「え…。」

「訴えはなくとも、検察は立件したがっています。私たちがおさめないと、あなた方一家全員、窃盗の罪に問われますが。なんならお父さんの駐車違反、サトーさんの噛みつき暴行、何でも理由にして超法規的に家まで差し押さえることだってできますよ。どうしようかなあ、私たちならおさめられるんだけどなあ。」前に乗り出し、細い目をもっと細くして、「ま、穏便に行きましょうよ。」

「うっ…。」痛いとこ突かれたし。

「あっはっは。ごめんなさいね。ことを荒立てるつもりはないんです。ただ、これは人類史上、重大な発見なんです。どのような事情でこんな犬が誕生したのか?発見した我が国として明らかにする責任があります。もろもろ結果が出たところで、駆除するのか?研究対象として管理するのか?検討したいと思います。と、いうことで、それまではすべてご内密に。ま、おわかりでしょうが。」

蝋人形のようなつるんとした顔で、口端を片方、ニヤリと釣り上げた。ダメだ。これは分が悪い。
さらにふぅっと一息置いて、意外な条件を切り出した。
「いやあ、大切なペットちゃんをお預かりするんです。タダでなんてねえ、言いませんよ。」

「は?」
「ご家族の負担もケアしなければですね。」
「ケア?なんのことです?」
パパもママも話が見えない。

「桃々さんのご病気です。承諾していただければ、治療についても我々が何かとお手伝いさせていただきます。親御さんも心配ですよね。先天性QP延長症候群の一種。治療法が見つかっていない新しい難病だとか。」

「それは……、」パパが私の顔をうかがう。

「東京の主治医が言ってましたよ。『致死的心室性不整脈を起こしそうです。このままだと、お兄さんの樽斗君のように心臓突然死を起こす可能性があると言わざるを得ない。』ってね。ね、時間がないでしょ?」

ママが「この子の前で…、」言いかけると、
「言う必要ないだろうが!!」パパがどなった。今まで見たことのない怒りであふれている。

知ってるよ。
私はタル兄ちゃんと同じ遺伝性の病気。東京で再検査して私の状態が良くないことを知らされたんだよね。昨日の夜、パパとママがこっそり話しているのも聞こえたし。
だけど私の病気のせいだとしても、2人が会話をしてくれることは嬉しい。

「桃々さんには、心臓病の権威である餡饅教授の国立病院をご紹介します。診察に行列ができて2年待ちですが。ふふっ、人気のラーメン屋以上です。でも我々の紹介があれば優先的に治療を受けられますよ。海外で手術するとなったら億はかかるそうじゃないですか。協力金は十分にご用意があります。」前髪がぺろんと落ち、ゆっくりかき上げた。

「えっ……?」

笑顔で手を差し伸べる。
「私たちも大切なワンちゃんとご家族を守りたいんです。国としても精一杯の支援をさせていただきますよ。真心をこめて。」

パパとママは二人とも明らかに動揺していた。
「……。」

見透かすように笑いかけ、ぺろんとした前髪をかき上げた。

「むむむ……。」
国家権力の甘い言葉にパパは心揺れたが、雑念を振り切るように、
「ふざけるな!帰ってください!」
2人を押し出して、威勢よく病室のドアを閉めた。


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あの会話から、パパとママはずっと黙りこんでいる。
頭の中は完全にある考えに支配されていた。私の身体のことを考えると、サトーさんを引き渡すしかない。親として、そう心が揺れていることが子どもながらに見てとれた。私に何か言いたそうで、言い出せない。そんな二人を見ていたらモヤモヤした。

だから私はベッドで上半身を起こした。
「家族会議するよ。」

「え?ああ、うん。」
我に返ったパパがイスを並べた。

「言いたいことあるんでしょ。」

ママは「あのね、桃々ちゃん…。」その先は言わない。

「なによ。ダメだよ。サトーさんを渡すなんて。」
「そうは言ってないんだけど…。」
「そうは言ってないけど、なに?」

無言のプレッシャー。私が「うん。」とOKするのを待っている空気が嫌だ。大人はずるい。

「ハッキリ言ってよ。」
「まあ、あれだ、まだなにも決めてるわけじゃないし。」
「その顔、心揺れてるじゃん。」
「揺れてないさ。」パパは穏やかに「勝手になんて決められないよ。」

本当に?私の気持ちを尊重するふりをしながらも、心の中では決めているんじゃないの。
だからあえて問いかけてみる。

「サトーさんは家族だよね。」
「もちろん家族だよ。」

「これがタル兄ちゃんでも同じことが言える?」

「!!」

「サトーさんは家族だとかなんとか言って、やっぱり犬は犬ってこと?」

「………。」
答えに窮する。その表情が答えだ。

「絶対にダメーーーーッ!!!!」

パパとママはため息をついて、顔を見合わせた。


私は認めない。
絶対にサトーさんを渡したくない。




<第35話>「もう会えないの?」



私たち家族から、サトーさんは奪われた。

だけど、世の中は徐々に動き始めていた。
私たちの考えや心の準備なんて関係のないところで、しゃべる犬のウワサがまことしやかにささやかれていたのだ。

最初は政府も情報の公開に慎重だった。

首相官邸のぶら下がり取材でも、
「総理、高い知能をもつ犬が存在するというのは本当ですか?」という記者の問いに、
「現在、情報を精査しています。」
「事実か?事実でないのか?」
「否定も肯定もできません。」
ずっとはぐらかしていたのだったが…。

やがて、サトーさんがしゃべったネット映像も出回って、世論がAI犬ライカ以上の騒ぎになると秘密にはしておけず、ついに政府は重い腰を上げた。

「内閣情報調査室では、人類史上まれに見る高い知能を有する犬の存在を確認しました。」

多くの関心を集めた官房長官会見。ついに真相を告白し、
「都内のある家庭で育ったこの犬は高い知能を持ち、人間の言葉をしゃべります。そして誘拐事件を起こしたことが判明しました。危険な存在となり得るため保護し、身体検査など詳細を調査しています。」と伝えた。



…と、ここまでは表向きの見え方。

あとで分かった事だが、実は、政府がわざと情報を流したのだという。

「そんなことする必要あるの?」とパパに詰め寄ると、
「そうするしかなかったみたい。」
永田町の記者クラブの同期から仕入れた酒の席のツマミ話だから、信ぴょう性は高いらしい。

話によると、国内より世界各国がいち早く情報を察知して、しゃべる犬に異常なほどの興味を持ったという。
特に米国は軍事利用を目的に大使館を通じて日本政府にサトーさんの引き渡しをせまった。圧力はかつてないほど激しく、関係のない日本製品の関税まで引き合いに出して、首根っこをつかんで離そうとしなかった。
しかし日本国だって外交カードとしてサトーさんを持っておきたい。政府は困った挙句、" しゃべる犬のウワサが世間にバレて仕方なく公表する " …てなフリをする、という策に出た。

「そうすれば、日本が既得権を主張できる。既成事実化したのさ。都市伝説的な憶測だけどね。ま、おかげで『都内のある家庭』ってのがウチだって会社にバレて、局長に責任を問われたよ。『マスコミ人の端くれなのになんで隠してたのか』って。懲罰を受けない代わりに、サトーさんの特番を組まなくちゃいけなくなった。」と、ため息をついた。

とにもかくにもこのニュースは、新聞やテレビ、ネットニュースなど瞬く間に世界を駆け巡った。

アナウンサーが叫ぶ。
「しゃべる犬…。なんということでしょう。数カ月前、災害予測のSNSアカウントや医学論文で話題を呼んだ『Mr.シュクレマン』の正体もこの犬だったのでは、と一部報道で噂されています。それが本当なら、私たちは人類以外に知性を持った生物と初めてコンタクトすることになります。人間に勝るとも劣らないその知能。彼はいったい何を目的としているのでしょうか?どこからやってきたのでしょうか?そして、私たちの生活にどのような影響をもたらすというのでしょうか?政府は徹底して情報管理を行っています。」

世の中は大きな衝撃をもってこのニュースをとらえた。

“ しゃべる犬の存在、政府認める”

“ 生物学上最大の発見!高知能犬!”

“ 友か?敵か?人類の存在に迫る、知性を持つ犬!!”

ついに、サトーさんの存在が、世の中の知ることとなってしまった。
ずっと家族で秘密にしていたのに。ささやかに幸せに暮らしてきたのに。
白い紙に真っ黒な墨汁をぶちまけるように、一瞬にして秘密が白日の下にさらされた。あまりにもあっけなく。
サトーさんは一体どうなってしまうのだろう?実験に利用されるの?解剖されるの?

そんな時、私たち家族のもとに、
『サトーさんとの面会許可が下りた。』という知らせが届いた。
弁護士の八ツ橋お萩さんが暴れてくれたらしい。



呼ばれたのは、永田町、内閣府庁舎中央合同庁舎第8号館の会議室。
やっとサトーさんと会える。
寒い中でお腹を空かせていないだろうか。奴らに虐待されて身体を壊していないだろうか。精神的に追い詰められ、やせ細ってはいないだろうか。

「面会は5分です。」

重いドアを開けると、広い絨毯床の真ん中でぽつんと置かれたソファに眠っているサトーさんがいた。

「サトーさん!」

ピクッと耳が動き、首を上げた。
「桃々ちゃん?」。

ソファから飛び降りると、一直線に走って私の胸に飛び込んだ。顔をなめながら、

「桃々ちゃん!大丈夫かい!?身体の具合は?胸は息苦しくない?」

「大丈夫、なんとか元気だよ。」

「良かった。本当に良かった…。」
ヘナヘナと座り込み、大きくホッと息をついた。

「心配してくれたんだ。」ニヤニヤ。
「してないし。」と照れ隠し。
私の膝を蹴るように離れた。

「サトーさん、ちゃんとごはん食べてる?」

「はいはい。それよか見てくれよ。」
くるりとお尻を向けたサトーさん。紙オムツをはいている。
「失礼だよな。尊厳を傷つけられた。トイレくらい行けるってのに。」

「案内の人に聞いたよ。そこら中におしっこひっかけたんだって?」

「首輪で括りつけようとしようとしたんだぞ。抗議したんだ。『違法だ、人権蹂躙だ』ってね。そしたら弁護士が出てきて、『人権は犬には適用されません』とかなんとかって言うもんだから。アッタマにきて。」

「ひどい事されてない?大丈夫?」
「パソコンが欲しいよ。勝手に連絡とるからダメだってさ。」
「あんたを野放しにしたら危険だからね。」
「内閣官房にハッキングして、閣僚全員の写真にちょんまげヅラをかぶせてやろうとしたのがバレたのかな。」

みんなで笑った。相変わらずの冗談を言えるくらい元気なんだ、って安心できたから。サトーさんも私たちの顔を見て緊張が解けたようだ。

「ははは、ああ、早く家に帰りたいなあ。家のソファで寝たいよ。」
「そうだよ。早く帰ろうよ。」

「でさ…」

サトーさんが真面目なトーンで話を切り替える。

「彼らはボクの身柄を渡せって言ってるんだよね。」

「えっ、ああ、」私はパパとママと顔を見合わせた。不意打ちの動揺で嘘は隠せない。
「でもさ、私たちは絶対…、」

「そっか。」

サトーさんが天井を見上げる。そして隅に設置されている防犯カメラに向かって言い放った。

「ねえ、聞いてるでしょ?話がある。」

「どした?」
キョロキョロする私たち。

息つく間もなく、ガチャリとドアが開いた。
入ってきたヤセ男。不敵な笑みですぐに分かった。病院で憎まれ口をたたいていた葛切内閣調査官だ。タイミングの早さから、すぐそばで監視していたことがうかがえる。
あとから入ってきた白玉災害担当課長が汗をふきふきペコリと頭を下げた。

「感動の再会。美しいですね。」

葛切はぺろんと垂れた前髪をかき上げた。相変わらずその感じがムカつく。前髪うっとうしいんだよ。ハサミでちょん切ってやろうか。
頭に血が上る私と違って、サトーさんは冷静だ。もうすっかりこの境遇に慣れている様子。

「決めました。」

「ほお、なんと。」目を細める。

「僕の身柄は国に提供する。すべてだ。」

「えっ!?」「何言ってるの?」

「ありがとうございます!やっとご理解いただけましたか。」
予期せぬ朗報が舞い込んだことに喜びを隠せない葛切。細い体をよじらせ、おっほっほっほと漏らした。白玉さんは、目を丸くして覗き込んでいる。

サトーさんはパパとママを見上げ、
「言われたんでしょ。桃々ちゃんの病気の治療を国が保証するって。」
「えっ?」
「みんな隠すのヘタだね。」
「それは…。」

葛切に向かって、
「協力します。身体を提供します。研究のため好きなだけいじくりまわしていい。」

「ダメだよ!サトーさん!私大丈夫だから!」

「何言ってんの。一択でしょ。桃々ちゃんの命が最優先でしょ。ボクは身柄を差し出すだけ。殺されるわけじゃあない。」

喜ぶ葛切に、決意をにじませる笑みを浮かべてもう一言。

「その代わり条件がある。」

「条件?ほお、なんでしょう。」
何でも聞きますよ。引き渡してくれれば何でも。どうせ大したことないでしょ。という余裕を見せた。

「桃々ちゃんの病気はボクが治す。そのためのバックアップを要請する。」

「は?」笑顔が固まった。「冗談にしては笑えませんね。」

「僕は、医学部の課程は習得した。ネットに転がっている医学書や論文で手に入る情報の範囲だけど。医師免許試験の過去問を試しにやってみたよ。合格ラインはゆうに超えている。」

「犬でしょ。研修医実績もない。医師免許は法的に認められない。ましてや医療行為なんてもってのほか。ハハハ。その前足でどうやってメスを持つんですか?」

「いいのかい?僕、知ってるよ。現代の医学でこの病気、『新種の先天性QP延長症候群』は治せないでしょ。」

「うっ…。」

「やはり。あなたたち、できもしない約束を善良な家族に提案したようだ。国家が無能なのは仕方ない。けど、ウソはダメですよ。」

高官らしくプライドは高い。無能呼ばわりは不服なようだ。口をへの字にして焦る。
「いやいや、治せないまでも悪化を遅らせ、今の状態のままキープすることはできる。そういう意味で治療…。」

「ほらね。いまの医学では限界がある。内服薬の投与とか、せいぜい不整脈を止めるための除細動器を体に埋め込むとかだろう。でも、それでは完治は望めない。時間稼ぎでしかない。」

「口では立派ですけど、犬のあなたに何ができるって言うんですか?」

「僕が検証してきた方法で、桃々の治療をさせてほしい。」

「ちょっと頭がいいからってそんなこと…。」

「ボクは、遺伝子療法を使用する。」

「ほお。」

「これまでの研究で桃々ちゃんの体内の原因遺伝子を同定できた。心筋と血管の遺伝子操作を行ない、イオンチャネルや調節タンパク遺伝子の変異を抑制する。」

「そんなことが…?不可能だ。」

「可能さ。スイスのキシュトルテ大学の遺伝子療法の権威、アプフェル・アウフラウフ教授に連絡をとれば分かる。彼と協力してずっと検証してきたんだ。こっそりね。臨床試験も成功したと聞いている。」

思わず、
「あんた、いつの間にそんなこと?」

微笑んで、「マッチングアプリだけしてたんじゃないよ。」

そう言えば…。
あの時のやりとりが頭の中でフラッシュバックした。
サトーさんがパソコンで誰かと話していたっけ。


「ドイツの女子高生とマッチングしてんの?あー気持ち悪い。」
「んなわきゃないだろ。失礼な。こないだの論文について議論を交わしてたんだよ。」


…確かに。
だから『医学を学びたい』って…。

サトーさんが宣誓のように毅然と背筋を伸ばす。
「医療施設、人員、費用の提供を求める。免許なしでも医療行為をするための法的な特別認可ももらいたい。」

「んー、断ったら?」

「ボクの身体は渡さない。質問にも答えない。」

「そんなことしたら…。」

「ムリヤリ手術台にしばりつけてメスで突っつき回したっていいさ。何がわかるというの?ボクの協力なくして『犬がなぜ話せるのか?』『きわめて高精度の災害予測』『画期的な遺伝子療法』…。人類が到達したことのない謎にどうやって迫ることができるのさ?約束してくれたら、すべての知見を提供するのになあ。」

「………。」

勢いに口をつむぐ葛切。劣勢を感じたのか大きくため息をついた。
はいはい、わかりましたよ、すべて受け入れるしかない。そんな諦めの表情で肩をすくめ、無言でどうぞと手を差し伸べた。

満足そうにサトーさんは振り向く。
「やっと、僕の人生の目的に集中できる。」

「目的って?」

「桃々ちゃんの病気を助けることさ。」

「え?なにを言って…。」

サトーさんは何も言わず微笑む。

もしかして…?
それで毎日勉強してたの…?

「あんた、聞いても私に関係ないって…。」

犬のくせに思春期こじらせて冷たくされていたと思っていたのに…。
サトーさん…あんた私のためにずっとずっとそんなことを?

「桃々ちゃんを守ること、ママとパパたち家族を守ること。それが僕の一生を捧げる使命なんだ。」

そうだ。
サトーさんはいつも私たち家族のことを思ってくれた。


幼い頃…。
地震の日には、私たちを引っ張ってベッドの下に逃げ込み、家族を守ってくれた。
どしゃぶり雨の日には、どろんこになって四つ葉のクローバーを見つけてくれた。
家族に亡くなったタル兄がいない寂しさを埋めてくれたし、
「ガッコ行こ。」と、私を学校に行かせてくれた。

ネオサピエンス研究機関でも、突き飛ばされた私のために傷を負ってまで戦い、こうやって何年もかけて私を病気から救ってくれようとしている。

ずっとずっと私たち家族のことを考えてくれていた。
早く言ってよ。ずるいよ、ずるい。自分だけカッコつけて。

…私、分かってなかったよ。
なのに今まで嫌なことばかり言ってた。ごめん。
この小さな体で、こんなにも自己犠牲に満ち、献身的に尽くしてくれた人生。その時間を思い知らされて、たまらなくなった。

「ダメだよ。そんなこと言わないで。一緒に帰ろう。ね?」

「僕は、桃々ちゃんを助けたい。いや、絶対に助ける。ぼくの生きる価値はそこにある。だから…ごめん。元気でね。バイバイ。」

「なによそれ…カッコつけて…。」
胸がいっぱいで、憎まれ口をたたくのが精一杯。

「あれ、言ってなかったっけ?」

止めようとしても涙があふれ出た。

「言ってません。」



あれ以来、私たち家族はサトーさんと会えなくなった。
たった一回の面会だけで。

再びサトーさんは国に拘束された。葛切は「保護」なんて勝手なことを抜かしてたけど。
分かってるよ。サトーさんの出した条件と引き換えだということは、十分理解している。

でも、やっぱり…、

寂しいよ。
寂しくて寂しくてたまらないよ。

部屋にいるだけで、いたるところに思い出が染みついていた。
転がっているアヒルのおもちゃ。
幼い頃、かじって叱られたカーペットの端っこ。
壁に飾られた “ ももだいすき “ と書いた画。
ずっと背中を向けて勉強していたイス。

目にするだけで、サトーさんと過ごした時間がいやでも思い出された。

ずっと私たち家族のことを考え、どれほどの努力を続けてくれていたか。
知ってしまった今だから、余計につらい。
私のせいじゃん。私の病気のためじゃん。じゃなかったら、サトーさんと暮らせたっていうの?

「ねえ、パパ。いつまでなの?いつまで我慢すれば会えるの?もしかしてそう思って毎日暮らしているうち、サトーさんの一生が終わってしまうの?」

泣きながらいくら揺すっても、困り顔で黙るだけ。

ある日、地震が起こった。
大きくはなかったけど、事前予測の発表はされなかった。
きっとサトーさんや白玉さんは国民に伝えたかったに違いない。だけど葛切が止めていたのだろう。
ひとしきり家具や食器がガタガタ揺れて静かになったあと、私たち家族はそんなことを思っていた。
だけどパパもママも何も言わなかった。

サトーさんのいない毎日は、私たち家族3人の生活を変えた。
私はまた家にこもってしまった。
幼なじみの苺乃大福くんが心配して玄関口に来てくれるけど、布団にもぐって出られなかった。
わかってるよ、わかってる。ダメな私。ちゃんといつか元気に戻るから。もう少しだけこのままでいさせて。

そんな時…。

「寝てるかな。いいよ。寝てると思って言うね。」

パパがいつになく小さな声でささやいた。
心配したパパとママが、私のベッドの前で珍しく2人並んで座った気配がする。私は背を向けたまま寝たふりで枕に顔を沈めた。

「今までごめん、心配させて。パパとママとのこと。パパは自分の事しか考えていなかった。ママと話をするのが怖かったんだ。ママの悲しみを癒す自信が無かったから。でも本当は、ママの方がずっとずっと不安で辛かったんだと思う。」

「ママもごめんなさい。ずっと自分だけが悲しくて寂しいと思ってた。でもパパだって辛かったはず。どんなにママが冷たくしても、パパは家族の前で変わらないように明るく努めてくれた。もういいの。私たちはこれからのことを考えましょ。今から、明日からのことを。」

「そう。樽斗は皆の心の中に生き続けているさ。パパ、ママ、桃々、タル兄ちゃんの思い出、それからサトーさんと家族一緒に前を向こう。」

ママは優しく、布団の上から手のひらでそっとたたく。
「サトーさんとの日々がママたちに教えてくれたの。家族はもう一度ひとつになれるって。これからはサトーさんの分も、私たち家族が勇気をもつ時よ。」

背中に響く、手のひらの感触が優しすぎて、涙がこぼれた。

ねえ、サトーさん、もう一生会えないの?




<第36話>「犬、地球を守る」




「桃々ちゃん、見て見て。サトーさんよ。元気にしてるのね。」
テレビの前でママが嬉しそうな声を上げた。


ニュース番組の『今日のサトーさん』というコーナーで、その後の生活が取り上げられていたのだ。

会えなくなってからずいぶんと経つ。不安と心配で眠れない日々が続いていた。だが彼の現在の生活は決して、私たちが恐れていた解剖だとか、身体実験ではなかった。

政府主導でさまざまな分野の研究を、サトーさんに自ら始めさせたのだという。知能レベルを検証する一環としてらしい。

まずは医学。

犬用の白衣を着たサトーさんが、外国の白髪のおじいさんとリモート会議で話しながらパソコンを叩いている映像が流れた。

『なんと難病の少女を救うため臨床実験の研究に入ったそうです。この高知能犬は人間らしい心も持っているようです。』と、ちょっとした美談として報じられている。

「少女…。」これ、私のことだな。

そしてさらに災害研究も。

『地震災害調査研究推進本部』で議論する光景が流れた。
サトーさんが長いテーブルについて、スライドを前足で指しながら学者たちに説明している。犬の本能を活かした災害予測だという。たくさんの大人たちが1匹の犬の話をフムフムと真剣に聞く絵はなかなかシュールなもんだ。まだオムツをはかされているのが不満なようで、しょっちゅう後ろ足で搔いている。

眉の間にシワを寄せたアナウンサーによると、サトーさんの研究によってある事実が明らかになったという。『太陽フレア』が、ここ数年で活発になっていることが判明したらしい。

「太陽フレフレ…?前に聞いたような…。」

パパもテレビの前にやってきて思い出すように言った。
「そうそう。いつだったか、サトーさんが言ってたやつだよ。太陽フレア。太陽の表面で爆発現象が起きることって。」

そういえば、ドヤ顔でヒゲを立てて語ってたっけ。
「太陽フレアが発生した時、陽子などの電気を帯びた粒子が放出されて、はるか離れた地球の磁場が乱れるんだ。」って。



テレビではCGアニメで説明している。
オレンジに光る粒が大量に太陽から地球へ飛んできて、豪雨のように一斉にバラバラバラっと降りかかる映像が流れた。そして怖めのナレーションがあおる。
『地球の磁場が狂い、地殻変動に影響を与えて、大きな災害を引き起こす可能性があります。』

その危険性があるエリアは、アジア・アメリカなど環太平洋地域の多くの国々や、ヨーロッパ・アフリカまでに及ぶそうだ。
確かにここ最近、世界各地で異常気象と地震が頻発している。

「怖い。ほとんど世界中じゃん。」
「それを防ぐ計画をサトーさんが提唱してるって。」
「へ?サトーさんが?防ぐ?どうやって?」

「太陽フレアの粒子から守るために、地球をまるごと覆うネットを作るんだって。」
パパが両手のひらで、地球に見立てたミカンを丸く包む。

「まるごと?ははははははは、バカみたい。映画かよ。ここにきて、そんなアルマゲ展開ありえないでしょ。ネットって。第一、地球がデカすぎだし。」荒唐無稽すぎる。

「ううん、それがさ、あながち冗談でもない。『電波で作ったネット』だって。」

「は?でんぱ?」

世界各国がこれまで宇宙に打ち上げた人工衛星は2000機以上。それを利用するのだという。
世界中から強力な電波を発信し、地球上空を回っているたくさんの衛星を経由させながら、電波の膜を作る。

「その電波のネットで360度、地球を覆うんだって。」



うーん。私は首をかしげる。

「わかってないでしょ?」
「ん?わ、分かってる。…んで、電波で防げるもんなの?」

「説明しても無駄だと思うけどなあ。」ニヤニヤ疑いのまなざし。
「は?うるさい。話してみれば。」

「宇宙からの電気粒子に対して、地球からの電波の周波数を反共振させて電気嵐を静めるってさ。もちろん自然現象の地殻変動を100%抑えることはできない。でも、太陽のジャマがなくなれば、災害予測しやすくなるって。」立て板に水の説明をされてみたものの、

「なるほど…………………。」

って、ぜんっぜん分かんない!!


しかし時間が経つと、一気に熱した国民も冷静になったのだろうか、サトーさんの存在は世の中で賛否を呼び始めた。
残念なことに、もっぱら否定派の勢いが大きくなってきている。
国民のほとんどがいつものように無関心だからこそ、逆に声の大きい批判者の意見が世の中のムードを作っていく。どうして人間はいつもネガなエネルギーに動かされがちなのだろう。

きっかけは、
" 私は狂犬サトーに嚙まれた! ”
と告発するネット動画投稿だった。

『殺処分』と書かれたハチマキをひと目見て思い出した。アイツだ。包帯でぐるぐる巻きにした手を大げさに見せつけ、
「ほら見てください!私、アベカワは全治1か月です!あの犬は危険なんです!いたたたたた。」
わざとらしいパフォーマンス。間違いない、ネオサピエンス前で反対運動をしていた、黄色いダウンコートの天パーメガネ男だ。忘れたくても忘れられない。
「皆さん、騙されてはいけない!尻尾を振って油断させて、鋭い牙をむくヤツなんです!」と小太りの体を揺する。週刊誌やネットで『殺処分アベカワ』という名はちょっとした有名YouTofuerとなっていた。

そのせいで世間では批判的な声があふれた。

“ 犬の言うことを信じるな!”

“ 偉そうに医療行為だなんてあり得ない!”

“ 災害対策をケモノに任せるなんて ”

『AI犬ライカより危険な存在になる。駆除しろ。』という意見が大勢を占め、反対運動が激化していった。



YouTofu の有識者討論会『高知能犬を考える』の配信でもひどいものだった。

「さて、はじまりまし…、」
MCのオープニングトークを遮って、「あ、いいですか。」
特別ゲストの『殺処分アベカワ』が口火を切る。

「ペットはカワイイ。それは自分たちより劣っているから愛せるのだ。彼らが人間を凌駕するほど賢くなったら?反論したら?論破されたら?それは本当にカワイイと無邪気に愛せるんでしょうかね?」

鼻息が荒い。ハチマキを固く結んでしたり顔。すっかり治ってるのに、いつまでも腕に包帯を巻いている。

「アベカワさん、まあまあ穏やかに。」

MCが参加者の与党議員に水を向けた。
「与党は、犬に人権を認めようとお考えですか?」

「えー…ま…あの、慎重な議論が必要なことでありまして。新たな労働力や納税者の確保という観点からも完全に消し去ることは早計かと。」

アベカワは芝居がかった声を上げ、
「とんでもない。人権なんか認めたら、どんどん繁殖して大変な事態を招きますよ。国民の土地を奪って居住地として生活させるのか?食糧不足は?人間の失業率が上がったら?さまざまな問題が山積みだ。」

与党議員は困り気味に、
「まあまあ、サトーさんは人間のために研究を頑張っているとも聞いておりますし。」

…なんだイイ人かも。この議員のオジサン、かばってくれてるじゃん。政府もサトーさんの大切さが分かってきたのかな。

「そうじゃないんだよ。」と、パパがため息をつく。「この議員さんだって天才犬を利用しておきたいから、生かさず殺さず歯切れが悪いだけなんだよ。」

そうか、ここには私たちの味方などいない。

アベカワが包帯の手を振りかざし、唾を飛ばす。
「傷害事件や誘拐事件をお忘れですか?私ゃ被害者なんですよ。まだネコをかぶっているかもしれない、イヌだけど。考えてみてくださいよ。あんな奴らとあなたは友人になれますか?ああ気味悪い。ね、考えられないでしょ?」

ひどい。

つい最近までまるでパンダの赤ちゃんのようにサトーさんをもてはやすムードだったのに。すっかり世論は手のひら返しだ。
どういうこと?サトーさんはみんなのために頑張っているのに。ひどいよ、ひどすぎる。

…そんな中でも、数は少ないけど私たちを応援する擁護派の人々だって、ちゃんと存在する。

サトーさんの応援をする人々の姿を最後に見たのは、スマホのネット動画サイトだった。新橋駅前SL広場で、動物保護系の団体が少人数でチラシを配っている動画がたくさんアップされていた。

” 拉致被害犬を救おう "
" 犬にも人権を "

と書かれた看板を掲げ、

「今すぐサトーさんのご家族への返還を!不当な拘束を解いてください!動物愛護法では、『犬は物』ではないと守られているんです!」
通行人たちに訴えかけるも、誰も立ち止まる者はなく、関わりたくなさそうに足早に通り過ぎてゆく。

「やめろやめろ!」

突然、誰かが浴びせる罵声。
よく見るとアベカワたちだ。こんなところにまで!?仲間が増えたのだろうか、全員でハチマキをして、性懲りもなく邪魔をしている。スマホ画面なのに私はあの夜を思い出し怖くなって顔をそむけた。

「犬はどこまで行っても犬だぞ!人権は人間だけのものだ。お前ら、そうやって募金をせしめようとしてんだろ!」
寄ってたかってスマホを凶器のように突き出し、撮影し続けた。

「皆さん、人間界を乗っ取ろうとする犬の味方をしていいんでしょうか?いいわけないですよね!賛同する方!チャンネル登録お願いしまーす!」

人間の小競り合いをよそに、今、地球的規模で大きななにかが起こっていた。
今日、TVのニュースキャスターがいつになく深刻に伝える。

「政府の発表によりますと、今年に入って太陽フレアの動きが活発になり、地球の地殻変動に大きな影響を与える恐れが出てきました。マグニチュード8以上の巨大地震を1年以内に引き起こす確率が80%に引き上げられたことが分かりました。皆さん、地震や災害への備えは十分でしょうか。」

国連による対策も報じられた。
各国の人工衛星2000基を利用した『電波ネット』の計画を急ぐため、インド宇宙機関ISSRの有人気球を利用して高度4万キロ上空の成層圏で試運転を行うことになったという。

「それに搭乗するのは…、」と画面いっぱいに映ったのは、なんと…、

サトーさんの写真。
ナナメ45度に鼻を上げ、すました表情でヘルメットを抱えている。



「えーーーっ!!!」ソファから飛び起きた。

「サトーさんが乗るって?」ママが心配そうにレンコンの皮むきをしながらテレビの前に座る。

「これって?」

「早まったんだね。」
帰ってきたばかりのパパも、急いでコートを脱ぎながらソファに座った。「大地震が起こらないように、太陽フレアの粒子を防ぐんだよ。」
さっき報道部の同期から情報をゲットしてきたようだ。

「そうじゃなくて、なんで気球にサトーさんが乗んなきゃならないの?」

「装置の操作が難しいんだって。粒子の量も一定じゃない。それに合わせて適切に電波周波数を調節するには、サトーさんの知能と動物特有の超感覚が必要なんだそうだ。」

「言ってる意味が分かんない。地面からじゃだめなの?」

「上空4万キロ以上の成層圏がいいのさ。大気層が安定していて、雲も発生しない。そこまでいかないと電波の動きをクリアにコントロールできない。」

「……ちょっと待って!超危険じゃない!」

こんなの、ライカと同じだ。旧ソビエトの人工衛星打ち上げロケットに乗せられて死んだっていう。サトーさんが同じ目に。あんなにかわいそうって言っていたのに。
確かに小っちゃい頃、『宇宙飛行士になる。』って言ってたけどさ。こりゃ意味が違う。きっと、ムリヤリ言うことを聞かされて犠牲になろうとしているんだ。
許せない!ひどい、ひどすぎる!

…私は、そう思い込んでいた。
あとに続くサトーさんのインタビューを見るまでは…。

「あっ!サトーさん!」

画面にはやや衰弱した彼の姿が映し出された。胸にNASUのワッペンが印象的なトレーニングウエアに身を包み、訓練施設でインタビュアーがマイクを向ける。

「………。」赤いスポンジのマイクヘッドを嗅いだかと思うと、ガブッと噛みついた。

「わっ!サトーさん!」

「ハハハ、冗談ですよ。ちゃんとわかってます。」とスポンジを戻した。

パパは「相変わらずだな。」と苦笑し、
ママは「ちょっと瘦せたかしら。やつれているように見えるけど大丈夫なの?」と胸をおさえた。

インタビュアーが続ける。
「少しお疲れのご様子ですね。」

「家族の手術の準備と災害研究、それに成層圏で活動する訓練。いろいろ重なりましてね。だけど元気です。」

「今回、このミッションに自ら志願された、ということなんですが。」

えっ!?志願したの?自分で?
どうして?

「ええ。まあ。死んだら渋谷駅の前のハチ公の横に並んで像でも立ててください。」
「は…?」
「冗談です。」

また!心配してるのに、サトーさんめー!

空気を読まない生意気な犬に、困って苦笑いのインタビュアー。
「今回、どうして気球なんでしょうか?ロケットは?」

「ロケット?いえいえ、有人ロケットを作るには実際は最低でも5~10年はかかります。SF映画みたいにはかないんです。だけど運よく、ちょうどインドで宇宙気象観測用の有人気球の計画が進んでいたんで。」

「なるほど。」インタビュアーは咳払いをひとつして、「ところで、ちょっとお聞きしにくいのですが…。」

「どうぞ。」

「世間では、サトーさんに対して不信感をもつ意見もあるようですが。本当に人間の敵じゃないのか?って。」

「無理もありませんよ。それこそSF映画なら、人間を征服しようと仲間の犬を引き連れて暴れ出す…なんてありそうですよね。みなさんが信用できない気持ちは分かります。それを観客が望んでるからです。よほど人間の方が好戦的だと言えますよね。いつまでも人間同士で殺し合ったり、環境破壊を続けている。バカげた集団自傷行為だ。でもね、僕はそんなことしませんよ。」

「どうしてそう言い切れるんでしょう?」

「僕たち犬は人間と一緒に生きてきました。人間を助けるため、進化した。だから、僕たちは人間が好きなんだ。DNAレベルで刻まれている。人間と生きたいんです。人間を助けたいんです。だって、人間が好きだから。いなくなったら寂しいから。ことわざにあるでしょ?3日飼った犬は3年恩を忘れないって。僕たち犬は、3万年も人間と暮らしていますからね。」と笑った。

「人間が裏切っても?」

「皆さん次第です。虐待されたり無視された犬は人間を信用できなくなります。だけど、人から愛され、家族として愛情を注がれた犬は、一生その人を愛し続けます。死ぬまで。」

「………。」テレビの前の私たちは、その言葉を黙って聞いた。

インタビュアーが、労いの言葉をかける。

「ありがとうございます。是非、ご無事に戻ってきてください。」

「はい、必ず戻ってきます。大切な家族の手術もあるんでね。」
力強くうなずいて、カメラを見つめたので、目が合ったような気がして私はドキッとした。

「僕には大好きな家族がいるんです。最後まで家族のために生きる。責任をもって愛する大切な人を守ります。命の続くかぎり。だから、必ず帰って来ます。」

その瞳は、生まれたばかりで家に来た頃、私たちを見上げた瞳そのままだった。

なんだか急に寂しくなって、切なくなった。
「あーーーーん。あーーーーーん。行かないで!」ポロポロ涙がこぼれた。

悲しくてたまらない。良くない想像がふくらんで、
「もしかしたら…戻ってこないんじゃ。このまま会えないかも…。」
嗚咽が止まらない。

「桃々、サトーさんが喜んでくれるのは桃々が泣き叫ぶことじゃないよ。今、言ってたじゃん、もうすぐ桃々の手術も控えてるし、強くなってほしいんじゃないのかな。」パパの慰めも空しい。手のひらで涙を拭う。

強くなるって?どうすりゃいいかわかんない。
私は人前で話すことさえもできない肝っ玉のちっちゃい、しがない中2。できることなんてないよ。
いくらパパとママがいるって言ったって、ただの一般人。家族たった3人で、世間が逆風の中できることなんてありはしない。
サトーさんを取り戻す方法なんてわからないし、もし戻って来れたとしても、心無い人々に狙われてしまう危険だってある。どうすりゃいいのさ。

だけど…

そうだよな。サトーさんは命を懸けてここまでしてくれている。
かつて家族を地震から守り、タル兄が亡くなった寂しさを埋めてくれた。私が学校に行くよう背中も押してくれた。私の身を守るため噛みついてまでも戦い、今も私を病気から救うため身を粉にしている。サトーさんは言ってくれた。「桃々ちゃんを絶対に助ける。家族を守ること。それが僕の使命なんだ。」

それに比べて私はどうだ?ずっと前向きに生きられず家に引きこもっている。なにやってんだよ私。情けないよ、バカ。私たちが黙って見ていていいのか?いいわけない。
最後の言葉が頭をよぎった。

「家族として愛情を注がれた犬は、一生その人を愛し続けます。死ぬまで。」

………決めた。

そうだよ、そう。
サトーさん、あなたが私たち家族を守ってくれたように、私も覚悟を決める。

パパとママの袖を引っ張った。
「パパ、会社の記者の人に電話して。それからママ、京都に電話して。八ツ橋さんの双子のお姉さんに。それから…、」

「え?いいけど…」「どうしたの?」

「家族会議をはじめるよ。」




<第37話>「サトーさん宇宙へ」




ついにその日がやってきた。
サトーさんは気球で宇宙に旅立った。

インドのシュリ―ハリコータ島。ジャレ―ビー宇宙センターからの離陸打ち上げ。全世界でその様子が実況生中継された。
やがて宇宙空間での船内作業。作業は36時間に及ぶと想定されているため、各局テレビ番組の画面は速報のように大きく『L字型』に切り取られて、右下にワイプでずっと打ち上げられた気球のキャビンの様子が流れていた。

そこに映るのは、上空4万キロメートルの世界。
頭上は空気の無い真っ暗な宇宙。足下には鮮やかに青く輝く地表が果てしなく広がっていた。荘厳な美しさの中に恐ろしさをはらんだ光景だった。


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キャビンには、サトーさんの他に日本、アメリカ、イギリス、インドの技術者の混成チームで乗員クルー4名が搭乗した。気球というからカゴを想像していたら、小ぶりのスペースポッドのような黄色いカプセル状の乗り物だった。

サトーさんはヘルメットと酸素マスクをつけて、ベルトで固定されながら丸いハッチから宇宙空間へニョキッと上半身を乗り出している。上空の空気は薄いものの強風なのだろうか、スーツからこぼれた毛が激しくはためく。

スタッフと連携しながらコンピューターを無心に操作しているのか、地上管制室とのやりとりの無線の会話が微かに聴こえる。

「"Control, this is Sato… Initiating phase delta—targeting frequency shift to... krrrch—inverse resonance locked. Particle density’s spiking—solar wind velocity exceeding... shhhk—expected parameters—bzzzt—なんたらかんたらkzzzzk—"」

終始英語なので、よくわかんないけど。

外苑の新国立競技場オリンピックスタジアムでも、巨大なLEDスクリーンでライブビューイングが無料開放され、多くの観客が訪れた。
生中継のその一挙手一投足に全世界が固唾を呑んで見守っていた。
ソーシャルメディアでは人々のコメントがさまざまな言語で今、量産され続けている。いまだに犬のサトーさんが信用できないという批判も多く、賛否両論ひしめいている。


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その頃、時を同じくして、なぜか私たち家族はまぶしいライトと大勢の人々の目の前にいた。
背後には『特派員協会』と金の刺繍でほどこされた深い紺色の幕が飾られている。
そう、私たちは『日本外国特派員協会』の記者会見を行なっているのだ。

政府が機密扱いにして、これまでベールに隠されていた私たち家族。それがいきなり自ら表舞台に顔を出すと声を上げたのだ。かなりの注目が集まった。

家族会議で決めたことだけど…、言い出しっぺのくせに私は緊張で死にそう。

目の前には、ずらりと置かれたマイク。大勢の記者たち。
パパのテレビ局や新聞社を始めとする国内の報道機関、それに米国CMMを始めとする各国メディアが今か今かと待ち受けている。
一番後ろの席では、内閣情報調査室の葛切が恨めしい顔で腕を組んでいる。ぺろんと前髪を垂らし ” 勝手にしやがって " とばかりににらみをきかせる。隣には、防災担当課長の白玉さんが汗をふきふき、嬉しそうに葛切を横目でうかがっている。

「桃々、だいじょうぶかい?手術前だから無理しないでいいからね。」
壇上に家族並んで座りながら、こっそり声でパパがささやく。

「う…うん。」

「気分がすぐれなかったら言うのよ。」ママが背中をさすった。

「ありがと。でも決めたから。」

脇に大きなテレビモニターが設置されていて、そこにサトーさんたちの作業する映像が生中継されている。宇宙の状況を見ながらの特別な形式の会見だ。

ズラリと並ぶ頭の集団からひょっこり手が挙がり、黒ぶちメガネのアフリカ系女性記者から質問が飛んだ。

"This is Madeleine from Nougat Journal. Momo-san, may I ask—do you see Mr. Sato as an ally to humanity, or a threat?"
イヤフォンから耳の穴に同時通訳が飛び込む。「(桃々さんにお聞きします。サトーさんは人間にとって味方なのですか?敵なのですか?)」

一斉にたくさんの記者の目とカメラのレンズが向く。

ひゃあ!
「あの…私は…私は…。」
ヤバい、手が震える。

同時通訳も私の言葉を待っている。鋭くとがった好奇心が突きつけられる。やばすぎる圧。
学校に行けなかった日々が頭をよぎった。人前で話すのなんて……怖い。

すばやく脇からパパが助け船を出す。
「皆さんにも家族がいますよね。家族が敵だと疑われたり、命を懸けて危ないところに行ったり。皆さんだったらどう思いますか?」

不意に質問を返されたことで、記者は不満そうにメガネを外してツルの先をくわえ、
「(私だったら…家族を守りますね。)」

「そう。だからこそ私は皆さんにお伝えしたいんです。サトーさんは、わたしたち人間の平和を誰よりも願い、そのために尽くしてきた。人類を愛した犬なんです。人知れず災害予測を伝えてくれていたのはご存じの通り。そして彼は自分の命をかけて、世界中の人間の安全のために、今、上空4万メートルにいます。」

パパが指したモニターには、酸素マスクをして、作業をするサトーさんの姿。
” コーホーコーホー “ と呼吸音が遠く離れたこの会場内に響く。

今度はママも続く。
「しかもサトーさんは、難病の娘のために、自分の身を投げうって手術を準備しているのです。たった一人の娘のために。彼は人間の味方である前に、私たちの愛する家族なんです。皆さん、お願いです。どうか理解してください。」

ざっと記者たちが私を見る衣擦れ音。
怖い…。
背中がびっしょり濡れ、こめかみから汗がしたたり落ちる。

でも…でも…、

チラリ、モニターに目をやると、宇宙空間のサトーさん。
操作卓の上に何かが置いてある…。よくみると小さな犬のぬいぐるみが飾ってある。

「え?嘘。もしかして…?」

私の大切な " タル兄ちゃん " だ!
幼い時のサトーさんがかじってボロボロにしたやつ。泣いて私がサトーさんを責めたっけ。どうしてあんな遠くに?

なんだよ、サトーさんはあんなところで頑張っているのに、桃々、あんたなにやってんの!ダメダメ!テーブルの陰で自分のお尻をつねる。

…そう、話す!私は話すのだ!
決意で強く握った手の腹に、爪が刺さる。

すうっと、息を吸って…、

「私は思うんです。」

たくさんの目が覗き込む。
よし、しゃべれてるぞ。息が上がる。でも私は負けない。

「サトーさんは、私の身に危険があってもいつも守ってくれました。地震からも。私が病気やケガをしそうなときも。サトーさんは、私を、家族を救ってくれたんです。私たち家族の一員なんです。」

画面には、宇宙空間で必死に作業しているサトーさん。

そうだよ。私たちは、ずっとサトーさんに守られてきた。
うまくいっていなかった家族を変えてくれた。
今度は私たちがサトーさんを助ける番だ。

「私たちは家族なんです。どうか見守ってください。だってサトーさんは私たち世界中の人間を愛してくれているから。どうか分かってください。彼は誰よりも血の通った人間なのです!」

パパとママが両脇からすっと優しく肩を抱いてくれた。
3人で目線を交わし、うなずく。
そう、私たちは " あの事 " を宣言するのだ。自立するのだ。
今日ここで、この場で、ハッキリと!

「だから、私たちは…、」

パパとママも声を揃えて加勢する。

「私たち家族は………、国を訴えます!」

「(ええっ!!??)」

あまりに意外な言葉だったのだろう。どよめきとともに、記者たちが驚きの目で私たちを見る。内緒にしてたから、同時通訳者も驚きで私たちと記者席を交互に見比べながら追いつこうと懸命に英訳する。

「私たちは、サトーさんを取り戻します!『保護』だなんてきれいごとを並べて、不当な拘束で国に奪われた家族を取り戻します!サトーさんの人権を主張し、本日、裁判所へ訴状を提出しました!」

「なんだと!?」

怒号に似た叫び声が部屋中に響いた。
最後列で見ていた内閣府調査官の葛切がイスから飛び上がったのだ。ぺろんと垂れた前髪をかき上げながら、「そんなことができるわけ…。」

すかさず、「ええ、できますとも。こちらが弁護団のリーダーです。」

パパが指した左手。そこから登場する、とあるふくよかな女性。
深々と丁寧なお辞儀をして顔を上げると…

…八ツ橋姉のお萩さん。

いつもより増量のエンジ色の口紅を塗りたくった唇。にいっと伸ばした不敵な笑顔で、記者たちをぐるりと鋭く見渡した。ピチピチスーツの胸には弁護士バッジとワンちゃんのバッジがきらりと光る。

「あれ、言ってませんでしたっけ?」
パパがいたずらっ子っぽく葛切に笑いかける。

八ツ橋さんが司会者からマイクをぶん取って、
「そうどす。ご存じでっしゃろか?オーストラリアの哲学者ピーターシンガーは、『動物は人間と同じように苦痛を感じる能力がある。だから人間と同じように扱われるべきだ。差別してはならない。』としました。実際、2014年の判例ではアルゼンチンの裁判所がオランウータンにも人間と同じ基本的な権利を認めました。他にも、欧米では、動物の原告適格を認めた裁判例がいくつも挙げられてるんどす。日本だけがアカン理屈はおまへんやろ?」
とニヤリ。

「そう。」パパも勢いよく立ち上がり、「考えてもみてください。『1つの惑星に知的生命体は1種類だけしかいない』と決めつけるのは人類の驕りなのではないでしょうか。だから…。」
私たちの顔を見て、
「私たちの家族、サトーさんにも権利が認められるはずです!」

ごとり、スマホを落とした。難しい長セリフのカンペ原稿が見えちゃった。
「パパ、カッコわる。」
フフフとママと顔を見合わせた。

「オホン。」ごまかすように咳払い。「私たちにとって、息子なんです。この桃々にとって兄弟なんです。大切な家族なんです。」

パパの本音の言葉に腹を括る。
強い決意とともに私はマイクをぐっと固く握りしめ、大きく口を開いた。

「私たちは…、私たちは、たとえ世界中が敵になっても、サトーさんを、かけがえのない『お兄ちゃん』を守ります!」

一斉に無数のシャッター音とフラッシュの光が押し寄せる。

「ふざけるな!」葛切が立ち上がった。「国を訴えるだと?恩知らずめ!娘の手術なんてやめさせろ!中止だ!中止!」

白玉さんが汗だくのハンカチを丸めて葛切の口に突っ込んだ。「んごっ。」
「落ち着け。記者たちの前だぞ。世論をおさえられないだろ。慎重に。」


先ほど質問した女性記者が、手をひとつ、そしてふたつ叩いた。
それを見たほかの記者も穏やかな笑顔で、拍手をひとつ、ふたつ…。

”パチ…パチパチパチパチパチパチパチ…”

外国人記者たちから、さざ波のように一斉に拍手が沸き起こる。
共感した皆が笑顔で惜しみない賞賛を送ってくれている。

「くそっ。」腰を落とす葛切。

鳴りやまない温かい拍手。
隣でパパが目を細くした。「強くなったなぁ、桃々。」
ママも「ええ。そうね。」


その時、

『Teeeeeeeeeeen(10)!!!』



いきなりサトーさんの叫び声が響いた!
同時に生中継の宇宙空間のクルーの会話音声も突然騒がしくなり始めた。

『……9!Orbital mesh stabilizing(軌道メッシュ安定中)
……8!……7!……』


緊張に張り詰めたカウントダウンだ。

「なんだなんだ?」
記者会見会場も一気に静まり返る。大勢の記者たちの目が一気に会場のモニターへ集中する。
画面では、キャビンのハッチから大気圏空間に上半身を乗り出し、上空4万キロメートルの風に吹かれながら作業するサトーさん。そしてカウントダウンする酸素マスクごしの叫び声と、合わせてコールする地上管制室の通信音声。


『6!……5!
Plasma sync within tolerance(プラズマの同期、許容範囲内)
……4!……』



世界中が固唾をのんで見守る。
あまりの緊迫に中継アナウンサーも押し黙ってしまった。


『3!Final calibration(最終キャリブレーション中)

……2!

……1!……

……0!

Running(起動)!!!……………』


しーん。

静寂が支配する。
永遠かと思わせるほど長い沈黙。
どうなった…?


やがて、電子音ノイズが徐々に聞こえ……


サトーさんの声が響いた。



『………It's working!!! It's working!!!(稼働したぞ!)』


興奮しキャビンの中へ転がり落ち、笑顔で乗員の皆へ計器を指し何か伝えている中継映像。それを聞いたクルーが数値を確認して歓喜の声を上げた。装置稼働を確信したのだ。全員で大きな声を上げて抱き合い、笑顔で健闘を称え合う姿が流れてくる。

「成功したんだ!」
パパが嬉しそうに私の肩を叩いた。

サトーさんは見事実験に成功した。地上から送った強い電波を無数の衛星で経由させて、地球を覆う電波ネットを作ることが可能になったのだ。
地平線に沈もうとする太陽に照らされ喜ぶクルーたちの姿は、人間と犬ではなく種を超えた友情と信頼の讃歌のようだった。

記者会見会場の記者たちも喜びにあふれた大きな歓声とともに、興奮して互いにハイタッチやハグで喜びを分かち合った。私たち家族も抱き合って喜んだ。


……はずだった。


突然、歓喜ムードを打ち消し、


“ ビーーッ!!ビーーッ!!ビーーッ!!ビーーッ!!ビーーッ!!ビーーッ!!!!!”


無機質なブザー音が鳴り響いた。会見会場の雰囲気を切り裂く。
生中継のクルーの会話音声も突然騒がしくなり始めた。
画面の宇宙空間では、サトーさんが再び上空へ顔を出し、珍しく動揺した様子でなにか叫んでいる。

「“This is serious!!”(大変だ!!)」会見スタッフが叫んだ!

同時に、記者席がざわつき始める。
「(あれを見て!一体何の光だ?)」
「“Oh my gosh... is that space debris?”」「デブリだって?」記者たちが次々深刻な表情に。

見ると、カメラのサトーさんの上空に、かなりの遠くだろうか?小さな光が見える。漆黒の宇宙に鋭利な剃刀で切りつけたような、美しくオレンジ色の光の筋。

「デブ?デブってなに?きれいね?」パパの袖を引っ張った。

「まさか…宇宙デブリか!?」

「なに??」

「宇宙ゴミだよ。壊れた衛星やロケットの部品だ。宇宙空間には無数に浮かんでいる。時々それらが落ちてくるんだ。普通は大気との摩擦で燃えつきるんだけど、中には耐熱温度の高い材質があって………ああ、大変だ!」


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光が少しづつ大きくなっている。

「ね、ね、なんなの?」

「大きいものだとダンプカーくらいあるぞ。気球にぶつかったら、ひとたまりもない!サトーさんたちが危ない!!」

「うそ!」

サトーさんとクルーたちがキャビンを空中で移動させようと必死に操縦している。
けたたましく鳴り響くブザー音!!
地上管制室の通信も、興奮気味に何か繰り返し叫んでいる!!

私の頭の中で、旧ソビエト連邦のロケット実験、ライカの死が頭をよぎった。
ロケットは高熱と炎。舌を出して苦しむライカ。その姿がサトーさんと重なる。
…ああ、神様。

近づく光!どんどん加速!


「(気球に向かってるぞ!!)」

記者たちは立ち上がって叫ぶ者、電話をかけ始める者、画面に釘づけになる者、騒然とパニック!

接近してきた!
炎の揺らめきまで見えてきた!
すぐそこだ!

「サトーさん!危ない!逃げて!!」


まるで私の声が届いたように、サトーさんが振り返ったその瞬間!


” ガガガガガッ!!!!!”



乾いた鈍い衝撃音と共に、一瞬でデジタルノイズが走り、モニター画面が真っ黒に落ちてしまった!!


「サトーさーーーーーーーーーーーーんっ!!!!!」





<第38話>(最終前)「さよなら、サトーさん」



JR渋谷駅まえ。
ハチ公像。

となりに…
サトーさんの姿を模した手作りの像と花束が置かれている。





一方、ここは長い長い廊下。


窓の外には、美しい夕日。
薄く広がる雲が一面オレンジに染まる。
遠くで小さくなっていくヘリの音が寂寥を募らせる。
激しく光を放ちながら太陽が名残惜しそうに沈んでいく。

「きれいね。」

琥珀色に頬を染めたママとパパ。
「知ってる?夕焼けって、快晴より程よく曇っている方が綺麗なんだよ。雲がスクリーン代わりになって黄昏色に染まるんだって…。」

2人で無理に明るい話題へと努めてくれているのはわかる。
だけど、とてもそんな気持ちにはなれない。
私はまぶしい太陽を眺めて、
「だけど、あのきれいに見える太陽の小さな爆発のために…。」

「そうだったね。」
パパは静かにため息をついた。

「菓子山桃々さん。15歳ですね。」
看護師さんがタブレット片手に名前を確認する。私の手術着を指先でつまんでチェックし、「よし。きれいに着れてるね。それではストレッチャーに移りましょうか。自分で移動できる?」
「はい。」

ママが私の背を支え、
「桃々ちゃん、ずっとそばにいるからね。心配しないでね。」

「私、手術受けたくない。」

「そんなこと言わないで。」

「サトーさんが帰るまで待つ。」

「無事だよ。…きっと。」
パパも力なく言う。遠くで話すみたいに距離を感じる。

ちょっと待って。なんでそんなに他人事みたいに言うの?それじゃまるで諦めてるみたいじゃん。

思わず、
「ひどいよ!知らんぷりして!パパもママも心配じゃないの!!」
張り上げた声が、ガランとした長い廊下に響く。

…あれから36時間経過している。




サトーさんたちの気球に、人工衛星の残骸が衝突してからずいぶんと経った。

ニュースによると、太平洋地域各国の海空軍の協力で捜査は続くも、彼ら乗員たちの行方は今も分からない。安否なんてなおさらだ。ぶつかった衝撃で通信が途絶えてしまい、GPS位置情報も失った。気球の行方とキャビンの損傷についても、地上管制室は全く状況を把握できていない。

恐ろしいことに、衝撃時のものなのか、気球の一部と思われる破片が落下して海に浮遊しているのが発見されたという。もしかして…?

信じたくない。絶対に信じたくない。

確かにミッションは成功した。世界的大規模地震を誘発する太陽フレアの影響をこれで大幅に遅らせることができるのかもしれない。
だからって、サトーさんたちがいなくなっていいはずなんてない。


世界中のメディアでは様々な憶測が飛び交う。

” フィリピン海沖で墜落し、マリアナ海峡の奥底に沈んでいる? "

" 某国が極秘で回収し、サトーさんの亡骸を検証解剖している? "

命を懸けて任務についた英雄への、およそリスペクトに欠ける身勝手な憶測だった。
サトーさんの遺言どおり、渋谷のハチ公横にサトーさんを模した人形を飾って弔うなんていうあわてんぼうまでいる始末。
「無事だよ。」なんてパパの気休めが逆にむなしい。

私は、記者会見会場であの場面を目の当たりにした急激な心理的ショックで心筋発作を起こした。心拍機能が著しく低下したため、予定していた心筋神経組織の適合手術を急遽前倒しに行わざるを得なくなってしまった。
この手術はサトーさんがずっと準備してくれていたものなのに。
今、彼は見守ってはくれない。


移動するストレッチャーに横たわって、流れる天井を見つめる。
灯された電灯がひとつふたつと過ぎてゆく。
カラカラと床をキャスターが転がる音だけが響く。パパもママも私の顔を見下ろしながら、何を言っていいか、思いつけない様子だった。

キュッと看護師さんの靴音が止まった。
「ちょっと待ってくださいね。」
スタスタと離れ、手術室担当の看護師さんらしき声と確認事項をチェックし始めた。前室の固いステンレス製ドアが横目に見える。


…やっぱりサトーさんを行かせるべきじゃなかった。
犬らしく首に縄でもムリヤリ括りつけて引き留めるべきだった。
私たち家族が彼を自由にするためにどんなに訴訟で国と戦っても、死んだら元も子もない。
なんだよ。カッコつけて勝手にいなくなって。あんたには私たち家族しか味方がいないんだから、言うこと聞いとけよ。

…そう、そうだよ。
私しか味方がいないんだ。のんびり寝てる暇はないんだ。
サトーさんを待たないと…。


「私、やっぱり手術受けない!!」


力の入らない体で起きようとした、
その時だ…。


ママとパパがふと何かの気配に誘われるように、視線を上げた。


廊下の向こうに素敵なものでも見つけたような表情。
私の顔と交互に見比べながら笑顔がこぼれた。
やがて2人の手がストレッチャーをすうっと離れ、私の視界から消えた。


「なに?どうしたの?」

後ろ手に肘をついて上半身を起こした。

夕焼けに染まった廊下の遠く先。リノリウムの床に影が長く伸びる。
パパとママが、光にゆらめきちょこんと座る小さな何かに駆け寄った。

「……?」

光あふれるシルエットは、小さな三角の耳をピクリと動かし、
ふさふさとした尾っぽをゆっくり揺らしている。

それを目にした時、何が起こっているかすぐに分かった。


「サトーさん!!」


久しく会っていなかった、本物のサトーさん。

手術用のスクラブ着からのぞく頭から首にかけての毛先を、
夕日に透かして黄金にキラキラ光らせながら、私を見てニコリと笑った。

「どうして………?」

言葉がでない。生きてるの?

「よ、久しぶり。」

「軽……なにそれ。」
胸がいっぱいで涙があふれそう。「もぉ…来るの遅いよ。」

「渋滞でさ。」

「ふざけないで。…心配したんだから。」

「まあまあ。この手術だけは僕がいないとダメだから。特別な恩赦で5分だけ会わせてもらえたよ。」

サトーさんが鼻先で指し示す先には、黒いスーツで身を固めた外国人のSPが4人待機している。


でも、どうして……?



そう、サトーさんは宇宙空間から生還していた。

あの時……。

高速で落下してきた宇宙デブリ。
衝突ギリギリのところで、気球のキャビンを緊急方向転換してかわした。
少しこすったものの、そのまま太平洋沖の海上へと通過していったという。

ただその衝撃は大きく、キャビン内の航行機能と通信システムに甚大なダメージを与えた。地上のミッションコントロールセンター管制室との通信は完全断絶されたため、クルーたちは長い間、不安と絶望の時を過ごした。

気球は、やがてどんどん高度が落ちていき暗闇の空を漂い続けた。クルーたちが復旧を試みる作業は夜を徹し、日付をまたぎ再び朝を迎えたころには見知らぬ海上に着水していた。


救命用に流していた海面発光着色剤が海面に浮かぶ様子を発見したのは、海上空母から捜索していたアメリカ空軍機だった。サトーさんの気球は、強い偏西風に流されて南大西洋オーストラリア沖まで移動していたという。

救助後、サトーさんは、私の手術が早まったことを聞きつけた。
疲労困憊にもかかわらず、米軍にお願いして特別に日本国内へ帰国させてもらった。米軍横田基地を経由して在日アメリカ大使館の協力を得て外交官保護下の元、ここまでたどり着いたのだという。

「日本政府の邪魔が入らないよう極秘裏にこっそり潜伏するの、大変だったよ。」
とサトーさんは笑う。


手術室前の廊下。

ドタバタと足音がやって来る。

「ああ、もう聞きつけちゃったかな。」とサトーさん。

内閣情報室の葛切が息を切らして駆け込んできた。続いて災害担当課長の白玉さんも。ともに驚きの表情だ。

米国のSPが前に立ちはだかり、2人と同行の私服警官たちを制した。
察した白玉さんは汗をふきふき、ホッとした様子。睨み合うSPと私服警官を後ろ手でいなし、私に満面の笑顔でOKサインをくれた。太った体を丸くして、両親に誠意の込もったお辞儀をしてくれた。
葛切もやれやれとため息をつき、負け惜しみ交じりの安堵の微笑みを送りながら、前髪をぺろんとかき上げた。


サトーさんは、ふわりと、私が横になるストレッチャーに飛び乗った。
前足の感触が私の脇腹に感じる。見上げた顔は、本物の彼だ。
私を見下ろすその顔は、公園で寝転んで会話したあの頃と同じだった。



「怖いかい?」

「ちょっとね。サトーさんも手術立ち会うの?」
くやしいから泣かないよう気丈にがまん。シーツでこっそり頬を拭う。

「もちろん。安心して、準備は完璧だ。会見での君の勇気を見て世界中から優秀な医療チームが有志として集まってくれたようだしね。麻酔で眠っている間にすぐすむさ。」

「ね?そのあとは?サトーさんまた会えるの?」

「目が覚める頃には、またいなくなってる。」
遠くを眺めた。

「なんで?なんでよ!」
「僕は再び国に拘束される。この手術と引き換えに。この後も打ち上げ計画もあるし。」

「だったら、逃げて。」
誰にも気づかれないよう耳元でささやいた。

「え?」
「私のことはいいから。あのSPさんにお願いして。」
「そうはいかないよ。これ以上は国交問題になっちゃう。」
「ダメ!逃げて。」
「この手術からは逃げない。」

「また会えなくなるよ!利用されて、犠牲になって…。そもそもさ、なんで勝手に気球に乗ったのよ!?心配させて。私まだ怒ってるからね!」

「いいじゃん、生きて帰って来れたんだから、ね。許して。」

「だめ!昔ロケットで死んだロシアのライカと同じじゃない!」

「そう…かな。」

「あんなにかわいそうって言ってたじゃん。あんた、これからも人間に利用され続けていつか死んじゃうかも。だからもう行かないで!」

「違うんだ。何も知らず犠牲になったライカとは違う。」

「なにがよ。」
「これは、僕の意志なんだ。だから嬉しいんだよ。みんなのために生きられて。」

「なに勝手に決めてんのよ!あり得ない!」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「言ってません!!こんなときにふざけんな!バカ!」
「言ったでしょ。」
「だから言ってないって…」

「言ったよ…」

陽を背負ったサトーさんは全身の毛先を美しく光らせながら、私の瞳を見つめた。

「『僕は桃々ちゃんを守る。そのためならなんだってできる。』って。」

「あ…。」

「記者会見の動画見たよ。僕を取り戻すために訴訟を起こしてくれたんだね。ありがとう。パパもママもありがとう。」

パパは頭をかく。「ううん。こちらこそ、お礼を言いきれないよ。」
ママも笑って、「私たちの方が感謝しきれないわ。」

「あんたを取り戻すからね!絶対に裁判に勝ってやる。だから必ず帰って来なさいよ。」

「ありがとう。これ…それまでの、お守り。」

四ツ葉のクローバーを小さな胸ポケットからくわえて差し出した。

「これって…。」

ポケットの中でしなびたクローバーは申し訳なさそうに頭を傾けていた。
指先でそっと受け取ると、幼いあの時、雨の中ずぶぬれの小さなサトーさんが私に差し出してくれたのが思い出された。

「苦労したよ。道中、クローバーが少なくてね。それから…、」
背中のリュックに鼻先を突っ込んで、

「これ。」

取り出したのは、フエルトでできた小さなイヌのぬいぐるみ。

「いつだったかボロボロにしちゃったでしょ。訓練の合間を利用してね、作ってみたんだ。けっこう再現できてるでしょ。正直言うとね、こんな前足だから、クルーにも手伝ってもらったけど。大切な人のためにって言ったら、みんな快く協力してくれたよ。今回のミッションのお守りとしてキャビンに飾ってたんだ。」
優しく笑った。

手先が器用じゃないのに…。
愛らしいまるいボタンの瞳が私を見つめる。家に来たばかりの赤ちゃんだった頃、震えていた小さなサトーさんと重なった。

「……もう、バカ。」

いつまでも覚えててくれてる。あんたらしいね。
胸がいっぱいになって、目から涙があふれ出した。まつ毛にたまった雫のせいで、かすんでよく見えない。窓の光が目の前のサトーさんをキラキラ揺らめかせた。

「僕は、君のお兄ちゃんだよ。いつまでも。ずっとね。」

「お兄ちゃんって。まだ4歳のくせに…。」

うん、ありがとう。サトーさん。
目尻からぽろり涙の粒がこぼれ落ちた。


夕陽はビルの角に削られ、やがてどっぷりと日が沈む。
すうっと、薄い紫色のレースのカーテンが街を一面覆うように。

その時だ。
サトーさんがふと窓の外に気づいた。

「ほら見て。」

薄暗くなりかけた病院の構内。2階から見下ろす。
なぜだか中庭の芝生や駐車場にたくさんの人々が集まっている。

え?

それだけではない。目を移すと、敷地の外にも多くの人があふれていた。そういえば、さっきから表が少しざわざわしている。
どうやらサトーさんたちの無事が公表されたらしい。

「なんだろう?」

たくさんの皆がこっちに向かって笑顔で手を挙げている。
掲げた手にはそれぞれスマホを握って。
夜のとばりが下り始めた薄暗い中、個々の光るスマホ画面をよく見ると、

…文字が!

“ 桃々さん頑張れ “


「えっ?どういうこと?」
画面にはっきりとした大きな文字が表示されている。

他にも…、

“ 桃々さん、早く良くなってください ”

“ サトーさんありがとう!”

“ 応援してるよ “

“ 助けてくれてありがとう! ”

“ 2人ずっと仲良く!”

“ サトーさん、桃々ちゃん、 LOVE♡感謝です! ”


思い思いの言葉で、数えきれないほどの感謝と応援のメッセージを掲げてくれている。何百人どころではない。
中には愛犬を抱きかかえながらの人もいたり、TVの取材レポーターやカメラマンも笑顔でスマホを腕いっぱいにのばして掲げてくれている。



すると、人々の中から黄色いダウンの男が姿を現した。
例の殺処分ハチマキ男、アベカワだ。走り回り、「やめろ!やめろ!あんな犬…。」と制止するも、増え続ける人々に突き飛ばされた。偽の包帯がスポッと抜け落ち踏まれていく。「こらっ、踏むなっ……ああっ……。」
やがて次から次へと訪れる人々の波に飲まれて消えてしまった。

夜の中、病院前の通りの向こうにも。人々が集まってきている。
無数の光がどんどん広がって、どんどん大きくなって…。

「皆が応援してるよ。」


サトーさんが私に微笑んだ。


「ありがとうだって。みんな分かってくれたんだよ。認めてくれたんだよ、サトーさんのこと。」
嬉しくなってサトーさんの肩を揺すった。

私なんかより、あなたの方が嬉しいはず。今まで、ずっと悩んできたよね。

『どうして僕はみんなと違うんだろう。』『僕は何者なの?』『なんで秘密にしなきゃいけないの?』『いつかは誰にもとがめられず暮らせる日が来るかな。』……。
サトーさんが、たったひとりで背負ってきた孤独な十字架から、やっと救われたんだよ。もうだいじょうぶ。

「サトーさん。サトーさん。」
私は興奮して名前を呼び続けた。


まだまだ広がる光の海。止まらない。
皆が笑顔で手にはスマホの灯りを掲げて。
それらをサトーさんは無言で眺めた。

「…………。」


黒目がちな瞳に無数の灯りが映っている。
そこに初めて見る雫の玉。つうっと毛先を伝って転がっていく。

パパとママが笑顔で見守る。

「なんだかサトーさんの背中が樽斗に見えるの。」
「本当だな。生きてたらこんなお兄ちゃんになってたかもな。」
「そうね。ふふふ。」

パパがママの肩にそっと手を置いたのを見逃さなかった。

「あれ?パパ?」
私が気付くと、
「おっと。」すぐ手を引っ込めた。

するとママがおどけた表情で、パパの手を掴んで自分の肩に回した。
くすぐったいような、嬉しさがこみ上げた。
そして、パパママも私たちを背中から両手で抱きしめてくれた。

ありがとう。
目にたまった涙がごぼれ落ちそう。
涙越しに見える無限に広がるきらめく光があまりに美しかったから。

サトーさんがまた去ってしまう寂しさ。
そして、今日が最後の日になってしまわないか、という不安が胸を締め付け、思わず言いたくなった。

「サトーさん。」

「うん?」

「私ね。」

「うん。」

「サトーさんのことね。」

「うん。」

「本当はサトーさんのことね…ずっと…、」

「ん?」

「やっぱいい。」

「フフ、どうしたの?らしくないね。半覚醒かな、麻酔はまだ投与してないはずなのに。」

「っるさい。」

彼はふざけ顔から真面目なまなざしを見せて、

「…桃々ちゃんは大切な人だ。だけどね、」

「だけど?」

「僕は犬だ。」

「あれ、私、告白してないのにフラれた?」

「そうじゃない。犬の寿命は15年。桃々ちゃんが大人になったころいなくなってしまう。」

「ずるいよ。いなくならないで。私のあとに生まれたくせに。」

「僕らの人生は、君たちとは別々の時間軸にあるんだ。桃々ちゃんの結婚式までは生きてたいなあ。時間かかりそうだけど。」
「ひどい。意外にモテます。同級生の大福くんが最近LIMEしてくるの。」
「ははは。」

「だから、一緒にいて。ずっと。」


「うん。一緒にいるよ。それまで、ね。」


「………。」


「………。」


私たちは言葉を発することなく、互いの目を見つめた。
あとは、言葉は必要なかった。
無言で瞳を交わせば、心が通じた…ような気がした。

” サトーさん。私のこの先の人生を思って、あえての優しさなんだね。
でもいい。あなたがいてくれたから、しあわせだった。
あなたと過ごした何気ない時間が大好きだった。
サトーさん、本当にありがとう。お別れじゃないって信じたいけど。”

” 僕もだよ。いつも一緒にいてくれたね。
この先、幸せになってね。僕は世界一幸せな犬だったよ。
桃々ちゃん、君はちょっとマヌケでおバカだけど、とても可愛い素敵な妹だよ。”

” ありがとう。あなたは私の人生にとって素敵な贈り物だよ。
恥ずかしいから、言葉にできないけど。いいよね、妹が言っても…、
…大好き。
だけど、そんなのを超えた存在。”

なんだか涙があふれて止まらない。
私はストレッチャーの上、黙って大きく腕を広げた。
彼がもふもふの首を差し出してくれたから、思いっきりハグした。


耳元でサトーさんが誰にも聞こえないように、私だけにささやいた。


「大好きだよ。桃々ちゃん。」


「私も大好きだよ。サトーさん。」


今までの想いがすべて報われた気がして、こぼれ出した涙。
ふかふかの首にこすりつけた。

サトーさんが前足で目を拭い、ぽつりと言った。

「さあ、行こう。少しの間、眠ってて。」


「次、早く会ってね。」

「もちろん。」


「絶対、絶対に…帰ってきて。でないと私…。」

「泣かないで。わかってるよ。帰ってきたら、”ムーンケーキマンごっこ” 付き合ってあげるから。」

「うるさい。バカ犬。」

涙を拭いながら、笑うサトーさんの胸をたたいた。


窓の外には、
白、黄色、青、赤、オレンジ…さまざまな愛にあふれた灯りたち。
どんどん、どんどん増えていく。
街の向こうの住宅やビルの窓からもスマホの灯りがまたたく。

ずっと広がっていく優しい光の粒たち。
東京の夜景がメッセージであふれんばかりの勢いだ。
もっともっと広がっていく。数千人、いや数万人…。

無数の灯りたち。まるでそれは夜空に現れた星座群のよう。
ひとつひとつに一人一人の気持ちがあふれている。
美しく、いつまでもいつまでも、きらめいていた。


いつまでも、いつまでも……。


「さよなら、サトーさん。またね。」




<最終話・第39話>「ありがとう」




3年後…。


聖書を手にした神父さまが静かに立っている。
背後には、全面ガラスの東京ベイエリアを臨む眺望。見上げると頭上高くに十字架をかたどった荘厳なシャンデリア。
参列者たちの視線の先には、檜の木の一枚板でほどこされた扉。

静かに開いて、真っ白なウエディングドレスを身にまとった花嫁が登場。
美しいベールを揺らせてうつむく…。



外は快晴。海を渡る風が心地いい。
8月にしては爽やかな過ごしやすい日が続いている。

豊洲さきっぽ公園。東京湾に流れ込む広大な運河に突き出して270度海を見渡せる。
ここへは、なにかあるたびごとにサトーさんとよく来た、思い出の場所。
芝生に寝転んで空を眺めながら、たわいもない言葉を交わすのが好きだった。

公園の広い芝生の中に、ぽつんとたたずむ美しいチャペル。檜の木組みと全面ガラス張りが見事だ。

そこでたった今、カノンの美しい音色に乗って扉が開き、花嫁が赤いバージンロードに一歩を踏み出そうとしている。
皆の祝福の声に応えるように、花嫁がゆっくり顔を上げると、その顔は…


…ママだ。


ブーケを両手に携え、幸せそうな笑顔をふりまくママ。
神父さまのとなりには、タキシードを着たパパが緊張で背筋を伸ばしながら待っている。

「ママ、きれい。」参列者席に座る私は、「ゆっくり、ちゃんと練習した通りに。」と小さく声をかける。
花嫁を待ち受けるパパと目が合ったら、私にピースサイン。
パパ、ママ、良かったね。ちゃんと結婚式挙げられたよ。結婚25年記念だね。

みんなからの温かい拍手。大理石に響く。

祭壇にママが到着すると、間髪入れずに一転、別の曲が流れ出した。
今度は『G線上のアリア』。サトーさんが好きだった曲だ。バイオリンの調べが響く。

パパとママが笑顔で視線を送ったのは、先ほどの後方扉。

なぜかもう一度、扉が開く。


誰もいない。

と、思いきや、床に目を落とすと犬のシルエット…

…ライカだ。



頭に花冠とベール。小さなブーケをくわえて静かに歩み出す。
彼女らしい気品あふれる美しさを漂わせている。

「きれい…。」

うしろには、リングボーイのカワイイ子犬がチョコチョコ付いてくる。



そう、パパママたちとお揃いのダブル結婚式だ。
ママのたっての望みで企画された。

花嫁たちを迎えるパパのとなりには、
タキシードをスマートに着こなしたもうひとりの新郎犬が登場する。


振り向いた新郎は…、


これまたなぜか、見知らぬボーダーコリー。
真っ黒でつややかな毛並みのイケメン犬。





…あれ?サトーさんは?







「ごめん、トイレが遠くって。」


のんきに舌をぶら下げながらサトーさんが遅れて参列席にすべりこんだ。
「なにやってんの。始まったよ。」
「犬OKの多目的トイレが普及するのはまだまだだな。」
ぶつくさ蝶ネクタイを揺らしながら私の隣の席につく。

「きれいね。」

「ああ。」

イケメンコリーと並ぶライカのお似合いの姿をまぶしく見つめている。
そんな横顔に向けて、聞いていいのか探りさぐり…、

「でも…、」

「ん?」

「良かったの?ライカさんのこと。」

「うん、良かったよ。技術革新で安全なAI犬が生まれるようになったんだからね。あんなイケメンとも知り合えたんだから。ま、僕の研究のおかげだけどね。」

「そうじゃなくて…。無理してない?」

「なにを?」

「なにをって…。」

(ライカと一緒になりたかったんじゃないの?)
そう尋ねたら、なんて言うかな…。

「ううん、なんでもない。」言葉は飲み込んでおいた。

神父さまの進行の間、ママが笑顔と涙でこっちを見ている。
ライカも私たちに向かって、唇で『ありがとう』と告げた。

私の手には、サトーさんが作ってくれた不細工なタル兄ちゃんのぬいぐるみ。

それを見ながらサトーさんが言った。
「タル兄ちゃんも喜んでくれてるよ。きっと。」

「うん…そうだね。」

「人は誰かに思われているうちは生き続けているんだ。桃々ちゃんやパパママ、みんなが思い続けていさえすれば。」

なんだかずっと私を苦しめた運命に、やっと赦された気がして胸が熱くなった。
「うん。」

よかった。本当に良かった。
振り向けば、参列席に見慣れた顔が並ぶ。
ひとりひとり、私にも「よかったね」と笑顔を送ってくれる。

八ツ橋お萩さん、団子さん姉妹はおいおい嬉し泣きしながら、大きくなった孫息子くんの顔をくちゃくちゃに撫で回している。 

飴宮神社のおばあちゃんは、上品な着物姿に優しい笑顔でおじぎ。 

幼なじみの苺乃大福はピースサイン。

ネオ・サピエンスCEOの甘納豆カヌレさんも娘ライカさんの花嫁姿に嬉し涙をこぼす。

災害担当課長の白玉さんはハンカチで汗なのか涙なのか顔を拭きまくっていた。後ろで内閣府情報部の葛切も前髪をぺろんと垂らしながら口角を片方上げてくれている。

リングボーイのおチビちゃんが、ライカに向かって声を上げた。

「ママ!キレイだよ!」

…みんな素敵な笑顔だ。

ところが、ライカが神父さんの問いに「誓います。」と答えたあと、突然、様子がおかしくなった。
急に、ライカと新郎犬そしてリングボーイくんが「ワンワン!」と吠えだしたのだ。ドレス姿のママがブーケを放り出して新郎のパパと一緒に、逃げる子犬の後をあわてて追いかける。

「あらら、Wi-Fiの具合が悪いね。」
サトーさんは胸ポケットからスマホを取り出し、急いでWi-Fiのテザリング再接続を行う。

はっ、と我に返ったライカが、
「あら、こんな時に。恥ずかしい。」と顔を赤らめた。

みんなで笑った。


あの時、いつかの私の手術の日。
国内はもちろん海外からも、医学研究者たちが治療に協力しようと声を掛け合い、やってきてくれた。国が治療不可能だと言っていた『新種の先天性QP延長症候群』。私の心筋神経組織の適合手術は成功し、順調に回復した。今はすっかり元気になれた。サトーさんの研究は正しかった。

おかげで私は18歳になり、高3だ。
サトーさんを見習って、将来は研究医を目指して大学受験の勉強を頑張っている。家族や大好きな人々はもちろん、たくさんのワンちゃんや動物たちを助けてあげたいから。
それと、1日でも長く、サトーさんに元気でいてほしいから。

サトーさんは、かわらず政府チームとともに災害予測の研究をしている。

あの気球実験で導き出した数値を基に、すぐに本稼働の衛星が打ち上げられたことで、地震の誘発を軽減することができるようになった。

さらに彼は、野生動物の災害予知能力の理論化に成功した。
世界中の動物たちの行動をアルゴリズム数式化して、温暖化によるユーラシア大陸全域を襲う地球的規模の台風群を1ヶ月前に予測することができ、おかげでヨーロッパ各国の被害を最小限に食い止めることができた。

また、アジア太平洋地域に点在して頻発する大地震を予測したことでアメリカ大陸、東南アジア、オセアニア地域を甚大な被害から救った。
今は温暖化を食い止める方法を研究している。

また、週に2回ほど、大学の医学部で遺伝子療法を若者に教えている。

「もしまたコロナみたいな世界的ウィルス感染症が流行した時には、重篤リスクが少ない僕たち犬が、人間に代わって社会がスタックしないよう対応するよ。」とか生意気なことを言っている。

最近は、宇宙物理学にも目覚めてせっせと勉強している。

一体どこに向かってんだか。

今、家の壁には、サトーさんが宇宙気球のキャビンでクルーたちと成功を称え合っている写真がいつまでも飾られている。


それと、
ついに昨年、サトーさんの人権が裁判で認められる判決が出た。

あの外国人記者連盟記者会見での私とパパママの様子も世界を駆け巡った。涙ながらにサトーさんへの愛情を語り、家族が一つとなって彼の身を返すよう訴えたことは、多くの反響を呼んだ。

これらによって、全世界たくさんの人たちが応援の声をあげた。あれをきっかけに世論の風向きが変わった。

政府による拘束は不当だとして訴えた私たち家族。対して、国は全面的に争う姿勢を見せた。八ツ橋お萩弁護士が奮闘してくれたおかげで、高等裁判所ではサトーさんの権利が認められた。国は最高裁に上告しようと考えたが、途中であきらめざるを得なかった。

サトーさんの功績が認められたから?
…実はそれだけでもない。

私たち家族と日本政府の元に、ワシントンのホワイトハウスから、
「サトーさんとご家族の移民を受け入れます。我が国ではサトーさんに対し基本的人権を持つ国民として受け入れる法的準備があります。」と誘いがきた。
日本が人権を認めないなら、ウチで引き受けますよ、ということだ。

他国もそのあとに続いた。「我が国に亡命を。」「いや我が国に。」「住居と年間50万ドルの生活費をつけます。」とか甘い誘いが殺到する始末。

とんだ横ヤリが入ったもんだから、日本政府はあわてた。サトーさんという国家財産の国外流出を止めるため、” ぺろん “ と手のひらを返したのだ。

おかげで、サトーさんは通称 " 日本国名誉国民権 " を手にした。

サトーさんは生物学的には人間ではないので、「インテリジェント・マイノリティ」と呼ばれている。
世界中の国々では、他にも同じように進化をとげた血統の犬「インテリジェント・マイノリティ」が存在するはずだと、捜索が大ブームとなっている。官民問わずの大騒ぎだ。

あの静かだった京都左大文字山裏にひっそりたたずむ八ツ橋神社は、どこから漏れたか聖地巡礼の地として、すっかりインバウンド観光客が押し寄せてしまい、八ツ橋姉妹はご立腹だ。
「しゃあないから茶屋でもオープンしたろか」と冗談をかましていた。


そのうちライカたちのように、AIで意志を持つ犬もたくさん生まれるなら、いつか普通に人間と犬が互いにリスペクトしながら共存できる世の中になるといいね。
その街には、たくさんの犬が人と語り、笑い、肩を組んで歌い、互いを理解し、尊重し合いながら生きていく。そんな世界が広がっている。
互いに協力して豊かなテクノロジーと安定を手に入れて。

でもそんなに簡単ではない。まだまだ差別もあるし偏見もある。多様性の道のりは遠い。

そんな時は思い出して欲しい。サトーさんの言葉を。

「だって僕ら犬は、人間が好きなんだ。」




同じころ、遠く離れた京都。

山に囲まれた小さな街は、すっかり日が暮れていた。
今宵は人々でごった返し、熱気にあふれている。浴衣をまとった観光客や、うちわを手にした街の住民たちがたくさん。蒸し暑い夏の夜に一瞬だけどこからか吹いた爽やかな風に誘われるように、皆が揃って同じ方向を見上げる。

そこには、夜空の下に8月16日お盆の精霊を送る『大文字山の送り火』。

闇夜にそびえる漆黒の大文字山と左大文字。
2つの大文字山には、灯された『大』の文字にひとつづつ、
『 丶 』(点)を表す火床が加えられ『犬』という文字を描いている。


『  』と『  』


細かく揺れるオレンジの炎光の粒が連なって、左右に並ぶ山に大きな2つの文字を描き上げる。
その昔、偉い僧侶を導いた2匹の犬を現す、尊い光のメッセージ。
千年ぶり、京都の夜に心震えるほど美しくゆらゆらと浮かんでいる。




パパママとライカたちの結婚パーティーはつづく。

会場の大きな窓の外に広がるのは、すっかり夜の景色。
夏の風に乗って、さきっぽ公園に風がふいた。

風は東京湾をのぞむ結婚式場を通り抜けて、夜空を駆けるウミネコをいたずらっぽくあおったあと、さわやかな音を立ててレインボーブリッジと東京の夜景を越えていった。



パーティー会場では照明が暗転。
スクリーンにプロジェクターで映像が映し出された。大きな窓の中心に据えられて、まるで東京の星空に浮かぶようだ。『G線上のアリア』の甘美な旋律に乗せて。
そこには、パパがずっと撮りためていた幼い頃からの家族ビデオ。
サトーさんと私のこれまでを振り返るような家族の回想で綴られている。

…赤ん坊のサトーさんが初めて来た日。震えて見上げる愛くるしい顔。

…朝、ケージから出てきて、布団で眠る私の顔をなめて起こす姿。

…喋り始めたサトーさんに、パパがビーフジャーキーで釣って言葉を教えている。「はい、ぱぁぱ、ぱぁぱ。」

…壁に落書きをしてママに叱られてイジける。

…私がオセロで負けて、取っ組み合いのケンカをするのをパパが仲裁する。

…寝る前にサトーさんのためにママが絵本を読んであげる。

…ひょんな流れで行くことになった京都の旅。
 私、サトーさん、ママ、パパ、ライカの集合写真。

ひとつ、ひとつが愛おしい。
涙があふれる。

幸せだ。
ああ、幸せだ。

サトーさんは私を、パパを、ママを、私たち家族を救ってくれた。
タル兄ちゃんがいなくなって傷ついた心を癒し、バラバラになっていた家族をもう一度ひとつにしてくれた。
何の見返りも求めず、彼は自らを犠牲にし、すべてを捧げた。

それを人は、" 愛 " と呼ぶのだろうか。


私とサトーさんは、あれから変わらず一緒に暮らしている。

腐れ縁の友達関係のような、お兄ちゃんのような、ほのかな恋のような…。
そんな不思議な関係であの頃のまま。

私たちは、この先どうなっていくかは分からない。

穏やかな凪のような時を送るのか、ドラマチックな大事件が起こるのか。
そりゃあね、サトーさんは素敵な花嫁犬と知り合って賢い子犬ちゃんが生まれるかもしれない。私だって他の誰かと出会うかもしれない。
たとえそんなことがあったとしても、ずっと一緒にいることだけはわかっている。

だけど。

だけどね。

誰にでも、心ひそかに一生忘れられない初恋があるかもしれない。
今思えば幼い自分の価値観に照れながらも、美しい素敵な思い出。
私の場合は犬の姿をしたお兄ちゃんだった。
その恋を心の奥底の宝箱に入れて一生開かない……つもり。

人が一生で出会う人の数は3万人いるそうだ。
生まれてから何年も生きてきて、さまざまな出会いを経験する。
素敵な出会いも、そうでない思い出も。
ひとつひとつの出会いには意味がある。果てしなく続く分かれ道の分岐点だ。
たまたま決定した選択で、人生が大きく変わる。次に生まれるはずの子どもたちがが存在したりしなかったりする。
もしも私が生まれ変わったら、次の人生はどんな選択をするのだろうか。

私は思うんだ。
世の中は、人生は、ときどき私たちの浅いちっぽけな想像を大きく超えてくる。そんなことが平気で本当に起こってしまう。

もしも空からやってきた星の王子さまが人と違う姿だったとしたら?
ちょっと生意気だけど言葉のひとつひとつが愛おしくて、人格を尊敬できて、一緒にいて居心地が良くて、大好きで、幸せだったら? 自分が、自分らしく生きられるのなら?
共に人生を歩むことを、一体誰がじゃまできるのだろう。
その恋を誰が否定できるのだろう。

姿が違う相手を好きになることがあってもいい。
以前、サトーさんは私に言った。
『犬の寿命は15年。桃々ちゃんが大人になったころいなくなってしまう。』
…わかってる。いいんだ、それでも。
たとえこの先がなくても、たとえ人間じゃなくても、好きになることは誰にも止められない。

私が私らしく生きる。
そう思える生き方ができている人は、世の中に何人いるだろう。
未来を決めつけないでほしい。
未来にはわかりやすくドラマチックなハッピーエンドはないかもしれない。
でも、ささやかな幸せがあれば、私はやっていけそうな気がする。

自分が幸せだと思えれば、その人生は、” 勝ち “ なのだ。

そう、生きよう。私は私らしく。
サトーさんのおかげで、私、幸せだよ。


なぜだか、私の頬を一筋の涙がつうっとつたった。
なぜだかわからない。理由はわからない。だけど、心が洗われるような、心が浄化されるような、そんな気持ちのいい涙だった。


ビデオはラストに差し掛かった。
そこに映し出されたのは、幼いころの小さなサトーさんと私がくっついて眠る姿。幸せそうに目を閉じ、おでこを寄せ合う私たち。


暗い会場。こっそりサトーさんの横顔を盗み見る。
スクリーン投影の灯りがゆらゆら、彼の大人っぽくなった細い頬を照らしている。


私の視線に気づくと、彼は瞳を見つめ返して微笑んだ。


私も微笑み返した。





サトーさん。


そばにいてくれて、


ありがとう。




だいすきだよ。ずっと。





(おしまい)


 







全話 目次 

1「はじめに」

2「家に来た」)*
3「おゥおゥ…」)*
4「しゃべった!」)*
5「誰も信じない」*
6「言葉を覚える」)*
7「幼児期へ」))*
8「いつも一緒」)*
9「もう嫌い!」)*
10「誰にも言えない」)*
11「思春期?」)*

12「天才犬、オトナに」
13「予知能力」

14「人命救出」)*

15「サトーさんの母」
16「話す犬ライカ」
17「初コンタクト」

18「嫉妬」)*

19「浮世絵の秘密」
20「犬神社のミステリー」
21「ライカの余命」

22「ライカを助けたい」)*

23「家族で突撃」
24「誘拐家族!?」
25「逃走中」

26「謎解く旅へ」)*

27「イカマークの正体」
28「秘密の入口」
29「犬の楽園へ」
30「1200年隠された歴史」
31「サトーさん誕生の真相」
32「答えを探す」
33「サトーさんの正体」
34「サトーさん捕まる」
35「もう会えないの?」
36「犬、地球を守る」
37「サトーさん宇宙へ」
38「さよなら、サトーさん」
39「ありがとう」

(『*』…14万文字ショートカットver.ではスキップ)















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