「マジシャン めどう*自己紹介」
メンタルマジシャンです。
あなたの心に語りかけます。
「めどう」っていう名は、いわゆる芸名なんだけど、
マジシャンとして活動するとき以外でも、
通名として使ってるよ。
リアル空間で自己紹介するときは、こんなふうに言ってる。
「めどうです。戸籍には別な名前が記載されてるんですけど、
そっちは偽名で、
『めどう』が本名です。
戸籍名は、今では病院と役所でしか使ってません。
玄関先に『めどう』の表札を掲げ、
郵便局にも『めどう』宛てで届くように申請してあります。
マジック関係者、町内会の皆様、薬局の窓口、
そしてスナックのママさん・・・
みんなが『めどうさん』って呼んでくれてます。
よろしくお願いします。」
名前の由来なんかを話すのは、またの機会にしておこうかな・・・。
自己紹介っていうと、普通は履歴書的なことを書くのかな?
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生まれも育ちも鹿児島県鹿児島市。
昭和31年3月。
アメリカとの戦争に敗れてからおよそ10年が経過し、
経済企画庁より「もはや戦後ではない」という宣言がなされたその年に、
僕は生まれた。
もう、かなり昔の話だ。
高校時代に友人と話していて気付いたんだけど、
幼時記憶が人に比べてはっきりと残ってるほうらしい。
みんなそんなもんだと思ってたんだけど、どうもそうじゃないみたいね。
子供の頃のことを話すと、けっこう驚かれるのが意外だった。
2歳前後から6歳頃までの記憶をもとに綴ったエッセイ集がこれ
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子どもの頃の僕は「夢見がちなところがあった」そうな・・・、
でも、
自分自身では、自分こそが標準だと思ってた。
よくひとりでコマ割りの漫画なんか描きまくってたから、
そんなところが「夢見がち」だと思われてたのかな?
小学生時代、昭和40年前後・・・
当時、男の子たちの遊びと言えば、メンコやビー玉遊びが主流だったけど、そういう遊びの中に加わることには何となく違和感があった。
机に向かい、一心に漫画を描いている時のほうが、
自分らしい自分になれた。
今、こうして文字を連ねているのも、この頃の自分が、
そのまんま心のどこかに居続けているから・・・、かもね。
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中学1年ぐらいまでは、学業成績も悪くなかったけど、
ギターを弾く友だちに感化されてロックに目覚めてからは、
学校の授業に無関心となり、熱血キーボード少年と化す。
幼い頃から、嫌々ながら続けていたピアノのレッスンが、
意外な形で効力を発揮したのさ!
仲間とバンドを組んで、コンテストにチャレンジしたり、
ラジオやテレビのローカル番組に出演などしているうちに、
自分たちは、選ばれし者であるという意識を持つようになっていた。
このシリーズには、その後の人生のこともざっと書いてあるよ。
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高校時代の一コマを描いた短編体験小説がこちら
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ロックに熱中した中高生時代、
プログレキーボード少年と化した僕は、
その熱が冷めやらぬままに、
くにたち音大作曲科に進学。
その頃から、心理学、催眠法、精神分析などにも興味を持ち、
27歳。心機一転。
東京ではないどこか・・・
そして、生まれ育った鹿児島とは真逆の世界を求めて
嗅覚に誘われるかのように、
旅行鞄一つで旅立った。
「やりたいことをやる」から「まず出来ることをやる」に、考え方を改めた。その向こう側に何かが見えてくるかもしれない・・・。
29歳の春。
長野県内の上田市に移住し、ピアノ教師としての生活を始める。
長野、上田、佐久と広範囲を車で移動し、子どもから大人まで、音大受験生やピアノの先生なんかも教えたよ。
多くの生徒を教えたけど、そんな中から一例だけご紹介。
レッスン収入が安定してきた頃、電子楽器やコンピューターなどの機材を揃え、音楽制作に活路を見出す。
主に、地元のテレビ番組やCMその他の実用音楽を作り始めた。
その頃作った懐かしいローカルCMが、何本かYoutubeにアップされていたので、その中からの一本だけご紹介。
上田には、およそ20年住んだ。
その間に体験した様々な出来事を綴ったエッセイ集がこちら。
上田市の隣のそのまた隣に上山田っていう温泉で知られる町があって、
その町を拠点に活動してた劇団から頼まれて
劇伴音楽を作ったりもしてた。
稽古に立ち会うのも、けっこう楽しかったよ。
長野県時代、僕にとって最大のイベントは、
『松の木の物語』っていう12曲からなる組曲を作曲したこと。
題材となったのは、上田市の塩田っていう地域に立っていた大きな松。
僕にとってまさに運命的な出会いだった。
その後、長野冬季オリンピック、フラワーセレモニーの音楽の作曲を担当。
男子スキージャンプ団体で日本が金メダルと取った時、雪が降りしきる中で、観客の歓声で沸き返る中でのフラワー・セレモニーで、自分の曲が聞こえてきた時は、感動したよ。
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その後、47歳の時、高齢化した両親の住む故郷鹿児島市にUターン。
親の介護も視野に入れて、ヘルパー2級を取得し、介護士となる。
その後、母が脳梗塞で倒れてからは、介護職を辞し、両親二人の終末期の介護を行い、特別養護老人ホームの空きを待ちながら介護に明け暮れる生活を約半年間続けた。
鹿児島にUターンしてから後、普段の生活で起こった様々なことを綴ったエッセイ集がこちら。
さてと・・・、
いっとう最初に「メンタルマジシャンです」と言っておきながら、
以後、ここまで全く「マジック」の「マ」の字も出てこない。
が・・・
それは、突然やってきた。
きっかけは、ごくシンプルな出来事だった。
鹿児島のテレビ局MBCの番組で、山形屋デパートの「手品コーナー」を取材していたのが心に留まった。
軽い気持ちでちょっと覗いてみたんだけど、そのときは、マジシャンになるつもりなど毛頭ない。
売り場にいたのが、“鹿児島のマジック界のパイオニア的存在”と言われる天地博之氏。
この天地氏に「才能がある」と言われて、その気になった。
以後、売り場を訪ねるたびに、彼は僕を屋上に連れ出して、缶コーヒーを飲みながら、シガレットやコインを使ったマジックを無料で教えてくれた。
そして、事あるごとに、「この人は、プロになる人だ」と周囲に紹介するようになった。
そして、当時、繁華街天文館にあったマジックを売りにしたカラオケバーのマスターとねんごろになり、マジシャンとしてアルバイトをさせてもらうようになった。
その後、介護職での夜勤が良くなかったのか、直腸がんを発症。
62歳。10月。患部摘出手術を受け、以後オストメイトとなる。
手術直後、早期職場復帰を目指して全力でリハビリに取り組んだ。
その甲斐あって、一旦は職場復帰を遂げたものの、
そのまま続けることに限界を感じ、退職。
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以後も、マジック関係者との交流は続け、
鹿児島マジック界の重鎮・瀬紀代巧氏からもこんな言葉を頂けた。
― 喋りを多く取り入れて、観客とのコミュニケーションを図りながら
のマジックショー。こんな形でやれるマジシャンは、鹿児島にはいな
い。―
地域の中で何度となくマジックを行う機会にも恵まれた。
そういった体験を通じて、
自分独自のスタイルが次第に形作られ、
メンタルマジックにたどり着いた。
心を癒すような効果音楽を流しながら、
語りによるコミュニケーションを中心に据え、
人の心に触れる不思議な驚きにみちたメンタルマジックを展開させ、
そこに一体感のある不思議な空間を創出する。
成立した瞬間のお客さんの驚きの表情と、それに続く笑顔、
そして自身の胸の内に広がる幸福感。
なかなかの好感触だ。
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ここまでが、自分自身の自己紹介。
ここらで、亡き父のことを語ってみたい。
退屈とは程遠い、面白い人生を歩んだ人だった。
若くして亡くなった妹についても、
少し触れておきたい。
自慢の妹だった。
この妹、“霊感”の持ち主でもあった。亡くなった人の霊が見えたり交信できたりっていうやつね。
その能力は、妹の娘(つまり僕の姪っ子)にも遺伝した。
今から20年ほど前、鹿児島にUターンする直前のことだった。まだ小学y四年生だった姪っ子が、若くして亡くなった友人を呼び出して、霊界との通訳をしてくれた。
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ここまで紹介してきたことでけでなく、
これから発表する予定の作品全部が「自己紹介」って言えると思う。
そんなわけで、末永くよろしくお願いします!

