「介護日記」
2011年 6月7日 火曜日
午後7時過ぎ。仕事を終えて帰宅してみると、母が布団に俯せになっていた。声をかけると、顔を振り向かせるのだが、目は閉じたままで小さく呻きながら、手足をわずかにばたつかせている。
慌てて主治医の先生に電話をすると、救急車を呼んで市立病院に搬送してもらうようにとのこと。市立病院にはその後すぐに連絡を取ってくださった。
119番通話の後、間もなくサイレンが聞こえてきた。
診察の結果、大きな脳梗塞であることがわかった。左片麻痺。元のような状態への回復は望めない。
向こう2週間は、脳梗塞の進行を抑えることと、命を落とさないため、状態を安定させる目的での治療が行われる。過去の例では、1割から2割が、命に関わる結果となっているとのこと。
病院から帰宅したのは23時20分だった。
めどう! 覚悟のほどはよろしいか?
6月8日 水曜日
仕事を午前中で上がり、半日有休を取って市立病院へ行った。
生活必需品を届け、入院手続きを済ませた。
家を出る前、手続きに必要な保険証を探し出すのにえらく時間がかかってしまった。母は自分自身のことは全て自己管理しており、何をどこにしまってあるのか、本人以外には誰もわからない。
棚の中や、クローゼットの中など、部屋の随所に置かれた複数のバッグの中や、箪笥の引き出しの中などに、小さな袋やケースがごちゃごちゃと入っていて、それぞれの中に、ポイントカード、商品券、クレジットカード、薬、その他色んなものが、小分けして入れてある。
まるで、込み入った迷路に突然放り込まれたかのようなストレスを感じながらの作業となった。
そんなわけで、朝早くから準備を始めたにも関わらず、病室に着いたのは午後3時過ぎ。妹とも顔を合わせて話せるかと思っていたが、置き手紙を残して去ったあとだった。
母は、昏睡状態だったが、ごくたまに目をき、こちらからの呼びかけに小さな声で応えてくれた。
「今日は安いから帰りに寄って、食べるものを買ってね」
小声を振り絞り言葉を発するのだが、いかんせん聞き取りづらい。母が発っしているはずの言葉そのものにたどり着くには、何ども聞き返さなければならない。
「ハンドバッグを持ってきて」
「タイヨー(地元のスーパー)の、ポイントカードが入ってる」
これだけのことを聞き取るのに、えらく時間がかかったが、自分が大変な状態にあるというのに、体の心配より先に、家庭生活のことを考えているのには頭が下がった。
母の入院によって、ある問題が生じている。
要介護Ⅱの父の存在だ。
これまで、その介護を行ってきたのが母だった。
たとえば、毎食後の服薬。認知症のため、誰かが薬を手渡さない限り、自分から飲むということはない。
今週に3度通っているデイサービスのショートステイの状況を、ケアマネジャーさんが確認してくれたのだが、13日まで空きがないのだそうだ。
かと言って、自宅で24時間介護というわけにもいかない。
どうしたものかと、頭を抱えている間に、父の主治医の先生があちこち当たってくださって、明日から、ある病院に「入院」という形で、預かってもらえることになった。
最終的な決着をみるのは、もう少し先のことになるが、これで当面はどうにかなった。
6月9日 木曜日
今日は、丸一日有休を取って、二つの病院と我が家を行き来した。
朝8時半に父を西千石の病院に入院させ、入院手続きと入院中の決まり事や必需品の説明を受けた。
そこで一旦我が家へ帰り、県内に住む妹に連絡を取った。
着替えやタオル、洗面道具その他、入院に際して無駄に買う物を減らすため、互いに準備できる品を確認。さらに、昨日ケアマネさんとの約束で、午後1時半に父の入院先で、今後についての話し合いを持つことになっていることを伝えた。
午後、ケアマネさん、妹、そして僕という 初めての顔合わせで、話し合いの場が持たれた。
僕が1人で考えた近未来設計図には、どうしても空白部分が残ってしまう。働きながらの介護になるので、無理が生じるのだ。その空白部分の埋め方を、ケアマネさんに相談したかった。
妹の嫁ぎ先は、遠く隔たった県境付近。そこに要介護の姑が同居しており、それ以上の負担をかけることは不可能。
と思っていたのだが・・・
妹の義母は、車椅子が必要になった段階で老人ホームに入居しており、夫の転勤で、市内に戻ってきている。
言われてみると、そのことはすでに知ってはいたはずだ。
どうやら、「他家の嫁を頼ってはいけない」「長男の自分がなんとかしたい」という思いが、そのことを無意識に遠ざけていたようだ。
妹が助けてくれそうだ。
なんとか 乗り切れるかもしれない。
6月12日 日曜日
今朝父が退院した。車で迎えに行った後、父の掛かりつけの病院2箇所と薬局、そして母の入院先である市立病院を巡った。
途中、自宅に戻って父に昼食と夕食を出し、食前食後の薬を飲んでもらう。
このスケジュールの中で、料理までは無理だったので、スーパーに寄ってお惣菜を買い込み、炊いてあったご飯に添えて出した。
母の病状は、飛躍的に良くなるということは望めないのだが、わずかに回復傾向にあることが感じられる。さかんに口を動かそうとする。なかなか言葉にはならないが、発語しようとする意欲が感じられ、そして目に輝きが戻っている。
簡単なリハビリも始められていた。
上体を起こし、機能訓練師さんの呼び掛けへの反応を見る、といった程度なのだが、一昨日の首の座らないみたいな感じとは、明らかに違った。
「こんな感じで、車椅子に座れるようになるんですかねぇ?」
看護師さんにそう問いかけると、あっさりと言われた。
「なりますよ」
7月5日 火曜日
緊急入院先の市立病院から、よりリハビリに重きを置く病院へと転院。
勤務先公休日につき、一日母と父に付き合えた。
本日の特筆事項は、母の夕食時の食事介助とその後の口腔ケアを行えたこと。
左側が見えない状態で、スプーンを持って動くたびに次第に右に傾く首を元に戻す。
母の手が疲れると、代わってこちらがスプーンを使う。
食事後は、自力である程度歯磨きとうがいをしてもらう。
その後は、口を開けてもらい、こちらで歯磨きを行い、さらにポリ手袋を装着し、口の中に手を入れて口腔内をクリーンアップする。
介護職の経験が、こんなところで役立っている。だが、ちっとも嬉しくなんかない。
右脳の機能を失ってからというもの、母の顔つきから表情が消え、いつも証明写真みたいな顔をしている。
もう、二度と笑ったりなどしないのかと思うと、寂しさを禁じ得なかった。
口の中に指を突っ込まれるのだから、嫌がるかと思っていたら、すんなりと口を開けて協力してくれた。
その後、母が声を発した。
「ありがとう」
小さな声で、3度も「ありがとう」と言ってくれた。
エプロンを外すと、
「おいしかった。ごちそうさま」
それまで固かった母の顔が、一瞬、やすらいだように見えた。
ベッドに横たわると、母がつぶやいた。
「頭が重い」
「大変だね。まだ首の力が戻ってないからね。頑張らなきゃいけないね」
そう言いながら、笑みを浮かべたのは、介護職の経験を通じて身に付いたことで、今ではほとんど習慣化しているのだが、それにつられるように、母が、小さな声で笑った。
初めての笑顔だった。
右脳が麻痺してしまった母に、そんな瞬間は、もう訪れないのかとも思っていた。
少しずつ自分らしさを取り戻しつつある感じ…、だね。
8月8日 月曜日
昨夜、夕方6時半頃、父の様子がなんだかおかしかった。食欲がなく、顔付きがさえない。
救急車を呼んで近くの病院に緊急搬送。
救急車内でのバイタルチェックによると、熱が40度超え、血圧も上が160と高かった。
病院での診察結果は、脱水と腎機能低下。
点滴を行い、熱は下がったものの、38度を少し切ったところで横ばい。
今日もその状態は変わらず、1~2週間入院することとなった。
本日仕事は急遽休みにしてもらったが、明日はもともと公休日。2連休となった。
両親揃って入院し、一時的に父の介護から開放されることになったが、何もやる気が起こらない。
取り敢えずは、思いっ切り怠けてみることにしようか…。
今は真夏なのに、今年はあまり「夏」を感じない。
人から「暑いねぇ」と声をかけられても、
お芝居して答えている自分がいる。
ちょっと不思議な感覚。
暑さを感じている余裕がないのだと思う。
9月17日 土曜日
8月7日に入院した父が本日ようやく退院してきた。約40日振りの我が家ということになる。脱水症状で入院した当初は、2週間ほど入院して様子を見ようと言われのが大幅に延びた。
腎臓、肺、心臓に機能低下が見られ、とくに腎臓が悪化していたための延期だった。退院後も食事制限と通院の必要がある。大変ではあるが、やはり我が家に居てくれるのが何より嬉しい。
午後2時に退院した後、3時より介護関連の皆さんと打ち合わせを行なった。今後、父のデイサービス利用日以外で僕が仕事で不在の場合、昼食準備と服薬の面倒をヘルパーさんに頼むことにした。
その部分は今までは妹が担っていたのだが、トラブルが発生したため、続行を断念。ケアマネさんを通じて、妹にその意志を伝えた。
僕の目から見ると、妹が担っていたのは介護のごく一部だった。それでも妹にすれば、
「私にばっかり…」
ということになるらしい。
激怒し、大声で噛みついてきた。
受け止めきれないと思った。
そう考えての決断だった。
担当者会議終了後、父を助手席に乗せて、思い出の町をあちこちと巡ったあと夕食を済ませた。今、父のいる居間からテレビの声が漏れ聞こえてくる。家に家族が一人でも居るというのはいいものである。
これから、父を伴って母の入院先を見舞う予定。
10月3日 金曜日
父のデイサービス利用日と僕の休日が重なった。
久し振りに一人で過ごしている。
だから、こうしてゆっくりと日記を書いたりもできる。
このところ、なかなかそんな時間がなかった。
2~3週間前、久々に明晰夢を見た。
**
僕は車を運転している。
ワゴン車だ。
だだっ広い工事現場に、なにかの機材を搬入しようとしている。
現場に到着して、ハンドルを切りながらバックして駐車。
車から降りた後、証書にサインをもらうために仮設本部に向かう。
その後、駐車してある車に戻ろうとするのだが、来た道をたどっても、もとの場所に戻れない。
ぐるぐる ぐるぐる
どの角を まがっても 見知らぬ風景が待ち受けているばかり
どこに車を停めたのか・・・
なんだか カフカの『城』みたいな 暖簾に腕押しみたいな、スカスカとした奇妙な迷宮感覚。
いつまでたっても抜け出せない この感じ・・・
これって、たぶん夢だ。
じゃあ、試しに空を飛んでみようか。
飛べる。
やっぱ夢なんだこれは
よかった!
油断した途端に、竹やぶに激突。
ガサガサとした感触が生々しい。
現実世界は、たぶんもう朝だ。
じゃあ 目覚めなきゃ。
ん?
その方法がわからない。
起きたいよ!
でも、どっぷりと夢の中にいる自分。
現実世界への出口が見つからない。
眠ってるんだったら、横たわってるはずだ。
じゃあ、とりあえず 仰向けになってみよう。
体の状態が一致することから、現実世界に繋がるかもしれない。
あれ?
床から2本の手が伸びてきた。
その腕が僕の胸を抱きかかえて・・・、身動きとれない。
目を覚まさなきゃ・・・
でも
床から抱きしめられて
どうやったら 目覚められるの???
助けて~!
**
10月23日 木曜日
要介護Ⅱに認定されている父、現在週に3日デイサービスを利用している。
預け先を来月から変えることにした。
8月に脱水症状で緊急入院。今後もそのようなことが無いとは限らない。そんなとき、自分がそばに居たほうが素早い対応が可能なので、現在僕が勤務しているデイサービス・センターに通ってもらうことに決めた。
今月20日、我が家にて引継ぎのための担当者会議が行われた。
ケア・マネジャー以下、新旧デイサービス担当者一人づつ、ヘルパー・ステーションの責任者と担当ヘルパー、そして家族を代表して僕と、計6人が、狭い8帖間に顔を揃えた。
人工肛門のパウチ交換、腎臓病食、食前・食後・食間の飲み薬に、肺のための貼り薬と、けっこう対応も込み入っている。
職場では僕の上司にあたる30代の生活相談員も、この日は利用者側である僕の前では、神妙な顔つきの一人の若者となり、
「よろしくお願いします」
などと、腰も低くしおらしかった。
ヘルパーステーションの主任さんから、こんな言葉も戴いた。
「正直言って、毎日の食事の準備、急にできるのかしら、と思ってました。だけど、よくやってらっしゃいますよね。
先日腎臓病食の講習を受けてきましたけど、タンパク質は少量、野菜は生を避け、全体に薄味でと、理に適ってますよ。」
褒められれば悪い気はしない。
しかし、父の病状を考えれば、スーパーのお惣菜で済ませると言うわけにもいかず、自分で調理するのは避けられないことなのだ。
母も、来月下旬には退院してくる。
今年は、我が家にとって大きな転機となる。
11月3日 木曜日
勤務先のデイサービス・センターに、父が利用者として初めてやってきた。
仕事と私生活に接点が生じたという、僕にとってちょっと不思議な記念日。
朝のお迎え業務を終えて施設に戻ってみると、少し戸惑いがちの父の姿。その様子がちょっと気になったが、周囲の利用者の方に親子であることを告げると、なにかと話しかけてくださって、そのうちに父の表情も穏やかになった。
「顔が似ている」
複数からそう言われた。
これは生まれて初めてのこと。
どちらかと言うと、顔立ちは母似で、父とは似ていないと言われていた。
今でも似ているとは思わないが、ひょっとして、双方歳を重ねるうちに、同じようなシワが増えてきたのかな?
父は囲碁が好きだ。
先月まで通っていたデイサービスでは、ボランティアさんと対戦するのを楽しみにしていた。
利用者さんの中に囲碁の強い人がいて、本日利用予定だったのだが、体調不良のため御休み。それが残念だった。
ショートステイ利用者で、囲碁が出来る人がいたので、急遽移動してもらい、相手をしていただいたのだが、力に差があり、父の連戦連勝。
囲碁のボランティアに関する情報が欲しい。
12月18日 水曜日
休日。
午前中、少しまとまった時間があったので、
助手席に父を乗せて少し遠出してみた。
ドライブ中の何気ない会話などから
若い頃は知り得なかった彼の人としての魅力を
ぼちぼちと再認識しつつある。
12月25日 日曜日
天文館アーケードにちょっと変わったクリスマスツリーが立っていた。
まるで七夕飾りみたいに短冊がいくつも下げられている。
中でも、こんな1枚が目を引いた。
― 家族が元気でいられますように たかこ ―
このところ父の食欲が旺盛である。
故郷鹿児島に帰ってきて8年になるが、こんな父を見たことがない。
以前は、
「どうも食欲がない。ご飯は半分無いくらいでいい」
これが口癖のようになっていた。
9月の退院から、徐々に摂取量が増え始め、今では普通に盛っても完食するようになった。
そればかりか、1週間ほど前、空の茶碗を差し出して、
「おかわり!」
その姿を見た時は、一瞬我が目を疑った。
塩分と動物タンパクを控えた腎臓病食を徹底してきた。夏に脱水で入院し、退院時に栄養士さんから指導を受け、それを忠実に守ってきた。
それが良かったのかも知れない。
19日の病院受診で、今まで続けていた食欲増進のための漢方薬が中止になった。
主治医の先生は、僕と年が近い。丁寧な口調で説明してくださるので、母が気に入って選んだ先生だ。
僕もこの先生が好きだ。
2012年 1月1日 日曜日
明日、明後日が勤務日なので、元旦ではあるが、ほとんど何もせず過ごす。
昼食後、うとうととしている間に、短い夢を見た。
**
母が入所施設から帰宅し、親戚を迎えるために、何故か和服姿で、麻痺している左足を少し引きずりながら、甲斐甲斐しく動き回っている。
「こんなにも回復したのか!」
感動の面持ちでその姿を見ているうちに、夢から覚めた。
砂を食むような空虚感…。
3月14日 金曜日
入院していた父が、10日に退院してきた。担当医師によると、腎機能の低下が進行しているので、人工透析が必要かも知れない。腎臓専門医ではないので、判断は掛かり付けの腎臓医に任せるとのこと。
父の様子は、入院前と明らかに違っていた。
声は力なくかすれ、上半身が常に震えている。歩行もよたよたとバランスを崩しそうになり、5メートルも歩くと息があがって立ち止まる。単なる廃用症候群としては片付けられないように思えた。
回復するのだろうか・・・。
回復するにしても時間がかかるかも知れない。
退院手続きを済ませた後、掛かり付けの腎臓専門医のところへ直行。血液検査を受けた。
一晩眠ると震えも止まり、入院前と変わらぬ歩行状態に戻っていた。
これには驚いた。
高齢による衰えはあるが、生来体の強い人なのだ。
**
本日、血液検査の結果が出た。
腎機能は、数値的には人工透析が考えられるところまで来ている。ただ、食欲の低下も呼吸困難による不眠もないため、まだ大丈夫だということだった。
ひとまずほっとした。
天気が良かったので、犬迫町の物産館「泉石藏」に寄り、父の好きな鹿児島の郷土菓子「かからん団子」と「いこ餅」を買った。
4月8日 日曜日
「どこかドライブに行こう」
父がそう言うので、城山展望台に行くことにした。
駐車場から展望台までの間に上り坂があるのがちょっと気になったが、大した距離ではない。
ヨチヨチと歩く父。
途中、売店が並ぶ辺りで、休みたいと言い出した。
売店列の一番奥にベンチが置いてあるので、そこまでは頑張ってもらうことにした。
ベンチに父を残し、近くの自販機まで戻ってお茶を買い、2人並んで飲みながら約20分。
「さて行こうか!」
歩き出してはみたものの、坂道を上るだけの体力が無い。3メートルほどで引き返してきた。
残念がっていると、売店のおばちゃんが、声をかけてくれた。
貸出用の車椅子が準備してあるという。
ラッキー!
置き場から車椅子を出し、エッチラオッチラ押しながら、展望台に到着。
観光案内のボランティアさんが何人かいたので、そのうち2人の方と30分ほどお喋りを楽しんだ。
「いい散歩になったよ」
そう言って父も喜んでくれた。
87才の春、人生初の車椅子体験であった。
5月16日 水曜日
年度末をもって、仕事を辞めた。
老健でリハビリ中の母を、在宅生活へと迎え入れるためだ。
昨年6月、脳梗塞で倒れた母。市立病院に緊急入院後、生死の狭間から持ち直し、リハビリ転院を経て老人保健施設に入所中。
その母が、いよいよ帰ってくる。
左片麻痺の母が、車椅子を使っての在宅生活を送るには、純和風の我が家を改修する必要がある。
畳を除去して、フローリングに張替え、段差はスロープへ。行動範囲に手摺りを付け、トイレの狭い出入口は、壁を除去して拡張。ドアをアコーディオン・カーテンへと交換する。
それらの工事は、介護保険を使って行う。
家屋調査を経て、3日ほど前、役所から改修許可が降りた。
今週末、工事に入る。
5月31日 土曜日
昨日、母が老人保健施設を退所した。
午後2時に迎えに行くと、知り合いとなった利用者さんたちと涙のお別れの真っ最中だった。
老健は、リハビリのための施設であるため、滞在の目安は3ヶ月から6カ月だが、 入所先がなかなか見つからず、それが1年にも及んだ。
異例の長さだった。
母の在宅生活は、昨年6月に市立病院に緊急入院して以来、約1年ぶりのこととなる。
住宅改修を済ませ、介護用ベッド、車椅子、段差用スロープ・ボードのレンタル契約を終えて、準備万端の受け入れ。
そこに加えてヘルパーの資格を取り介護士としての経験も積んでいる。
車椅子からベッド、ベッドから車椅子への移乗介助、トイレ介助など、勤務として毎日のように行なってきた。
母の脳梗塞は、まったくの「想定外」だったのだが、今になって思えば、まるでそのような事態に備えるための準備だったかのような流れになっている。
しかし、インスリン注射は初めてのこと。事前に病院で説明を受けてきたが、これは倒れる前に、母が自分一人で行なっていたので、初回だった昨夜の注射も、問題なく実施できた。
それはそれで良かったのだが、予想していなかった問題も起こった。
母の要求のあまりの多さに、面食らってしまった。
夕食準備をしている間も、何度もベッドサイドに呼ばれ、なかなか調理が進まない。痛みの訴えやトイレ介助の訴えが繰り返され、仕舞いには父が声を荒らげ始めた。
「こんなに何度も呼ばれるんじゃ、うちでの生活は無理だよ」
母の耳元で、ついそうつぶやいてしまった。
母は母で、
「こんなにあんたばっかりに負担をかけるんじゃ、ここには居られないね。何にも知らないもんだから、あんた以外にヘルパーを頼めるのかとばっかり思ってたから。でも一日でも家に居れてよかった」
などと言い出す始末。
3人3様に混乱し、疲労困憊し、部屋中にストレスが充満していた。
ところが、一夜明けると、少し状況も変化した。痛みの訴えもトイレ介助の要求頻度も、昨日ほど頻回ではなかった。
家族三人とも、気持ちの昂ぶりが落ち着いてきて、お互い少し慣れたのかも知れない。
まあ、こうして日記を書く余裕も出てきたわけだし…。
明日は、利用予定になっているデイ・サービスの職員さん、ケアマネジャーさんとの担当者会議が我が家で行われる。
6月16日 土曜日
母80歳の誕生日を我が家で迎えることができた。インスリンを打っている身なので、バースデイケーキではなく小さな和菓子で、父と共にささやかに祝った。
「ありがとうねぇ。あんたのおかげだよ、何から何まで」
昨年の誕生日は、市立病院の緊急病棟で、意識朦朧としていた。それを思うと、こうして穏やかな時が流れている今は、本当に幸せだと思う。
6月18日 月曜日
今月6日、近所を車で走行中、桜島の噴煙が見えた。
グレイの噴煙の中に、部分的に純白の箇所あり。
珍しさから、車を路肩に停めてシャッターを切った。
白い2つの目を持つドラゴンの頭みたいに見えた。
