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「姪っ子との不思議な夜」その1「救われた命」

 大阪に住んでいた妹のマンションを訪ねたのは、確か妹がまだ大学四年だった時のことだったと思う。五歳の年齢差があり、それまで多くを語り合うようなこともなかったが、その時初めて、互いのそれまでの歩みを、夜遅くまで語り合った。
 妹に霊感があることを知ったのも、その時だった。
 中学時代からの霊的体験をあれこれと話してくれ、母にも霊感があって、二人だけでいるときには、よく霊的な話をしたとも言っていた。運転席と助手席に二人並んで、
 「あんた、あれが見える?」
 「見えるよ、青い服を着た女の人だよね」
 こういう遣り取りが普通にあったらしい。
 自分の妹が、目の前で真顔で話しているのだから、信じないわけにはいかなかったが、どう受けとめてよいのかわからず、自分自身では決して踏み込めない、異質な世界のことのように感じていた。
 ただ、それまでの「人が死んだら、その後には何も残らない」という考えに変化が生じたのは確かだ。その後、キューブラー・ロスの、死後生について書かれた著書を読んだりしたのも、妹の話を聞いたからこそのことだった。
 さらに、ある体験を通じて、死後霊の存在を確信するに至る。

 妹とその三人の子どもたちが、僕が住む長野県上田市に引っ越してきてからのことになる。
 妹の末娘に霊感があるという本人からの話で知った。その姪っ子を助手席に乗せてドライブしているとき、どこそこにどんな霊が見えると、ごく普通のことのように口にしていた。
 妹の話を聞いていたので、母から妹へと引き継がれた霊的能力が、その娘にも伝わっているのだと、何の抵抗もなく、自然にそう思えた。
 そこで、ふと思った。
 亡くなった友と言葉を交わしてみたい。
 姪っ子に問いかけてみた。
 「亡くなった人を呼び出すことはできる?」
 「できるよ」
 それを聞いて、胸が騒いだ。
 「でも、昼間より夜の方が、話しやすいよ。昼間だと色んなものがざわざわしててる」
 というわけで、夜を待つことにした。

 姪っ子に“濱村隆”というフルネームを伝えると、目を閉じて呼び掛けた。しばらくして目をあけると、中空を見つめて口にした第一声。

 「あ・・・、この人カッコいい」

 実際、彼は美しい顔立ちで、容姿だけでラブレターが舞い込むような男だった。間近で見てうらやましく思ったことさえあった。

 次に姪っ子はこう言った。
 「おじちゃん、火事にあったよね」

 そのことは、地方紙の信濃毎日新聞にも載ったし、テレビのローカルニュースでも取り上げられたので、姪っ子が知っていても不思議はない。

 「あのとき、おじちゃん死んでるよ」

 出し抜けに何を言うのかと思った。現にこうして自分は生きているではないか・・・。

 「隆さんが助けてくれたって言ってる」

 にわかには信じがたかった。すでに亡くなっている人間が、どうやって助けたというのか・・・。
 さらに姪っ子は続けた。

 「家は全焼だったでしょ?」

 これには驚いた。確かに全焼だったが、小学生の姪っ子にわざわざそんなことを話したことはない。

 姪っ子は、さらに続ける。

 「でも、大事なものは残ったでしょ?」

 たしかにそうだった。現金の入った財布、銀行口座の通帳、シンセサイザー音源、シーケンサー、千五百枚のCDコレクションなどが、焼け焦げた家の中にきれいな状態で残っていた。CDなどは、プラケースの一部が溶けていたので、ぎりぎりのところまで火の手が迫っていたことになる。

 「隆さんが守ってくれたって言ってる」

 あの夜のことを振り返ると、本当にそうだったとも思える。酒に酔っていて石油ファンヒーターの扱いを間違え、あふれ出た灯油に火が引火し、たちまち燃え広がった。それを消化しようとしてモタモタしたのがまずかった。 
 隣の部屋から一抱えの毛布を持って戻って来た時には、部屋中に火が燃え広がっていた。部屋の隅から隅までが真っ赤に燃え上がり、燃え盛る竈のような状態になっていた。
 現実とは思えない。まるでテレビドラマの一場面を見せられているようだった。
 逃げ出すとしたら、今自分がいる場所から最も遠い玄関しかない。そこにたどり着くには、火の海となった六畳二間を通過しなければならない。その中には楽器や音響機材、楽譜、音楽書、文学書などが並んだ本棚などが所狭しと並んでいて、燃え盛る中を無事に逃げ出すことなど不可能だと思えた。

 そのような状況を目の当たりにしていると、不思議なことにそれまでの焦りがスーッと消えていった。

 「このまま死ぬのかな・・・」

 ぼんやりとそんなことが頭に浮かんだまま、めらめらと燃え盛る炎を、間仕切りの隙間から、ただぼんやりと眺めていた。
 観念するとは、こういうことなのかと思った。

 ふと我に返った。

 ただ死を待つという手はない。逃げ出せるかどうかはわからないが、イチかバチかやるだけやってみよう。

 一旦襖を閉め、まだ煙が回っていない隣の部屋で胸いっぱいに息を吸い込んだ。
 再度襖を開け、意を決して火の中に飛び込み、息を止めたまま全力で玄関を目指した。
 燃え盛る部屋のどこそこに体がぶち当たった。

 運良く外まで逃げ出し我が身を見ると、髪や服の一部が焦げ、全身煤だらけになっていた。一瞬火だるまになったらしい。間一髪のところで助かったのだ。
 あと少し行動に移すのが遅れていたら、棚の上に天井まで山と積み上げた楽譜や本が崩れ落ち、逃げ場は完全に閉ざされて いただろう。

 隣の家にかけこみ、電話を借りて消防車と救急車を呼び、燃え盛る我が家を目にしながら、どうすることもできないもどかしさを持て余していた。
 やがて高鳴るサイレンの音が近づき、救急車が到着。僕は担架に乗せられ、そのまま国立病院に搬送された。

 翌朝、事情聴取のために警察官が病室にやってきた。
 家が全焼したことを知らされた。
 そのときの落胆を、どう表現して良いかわからない。
 一夜にして全財産を失ったのだ。

 足を火傷しており、その後しばらくは松葉杖に頼っての生活を余儀なくされた。まさに九死に一生であり、あのとき死んでいてもおかしくなかった。
姪っ子の言うとおり、友人の加護がなければそうなっていたのかもしれない。

 火傷も最悪の状態を回避し、退院できることにはなったが、それを単純に喜んでいる場合ではなかった。
 十歳年上の知人が駆け付け、退院を手伝ってくれたが、住む場所などどこにもない。長野県には単身で移住して来たので、近隣に頼れる親戚縁者など一切いない。
 僕は、途方に暮れていた。
 放心状態の僕を気遣ってくれた知人が、しばらくあてのないドライブに付き合ってくれたが、その間、僕はただ呆然としているだけで、何の考えも浮かばなかった。
 これまで、財力の大部分をつぎ込んで買い揃え、音楽の仕事、ひいては人生を支えてきた楽器、音響機材、楽譜など全財産を失ったうえに、身を横たえる場所さえない。頭の中は真っ白な無気力状態だった。

 ハンドルを繰りながら、知人が口を開いた。

 「大層なことを考えるなよ。大層な事っちゅうのが、どういうことだか分るよな?」
 「あぁ・・・、それは無いです。時が過ぎるのを、ただ待つだけです」

 取り敢えず翌朝までを凌げそうな場所だけは思い当たった。知人の一人が私費で建てた誰でも自由に使える小さな小屋。そこに転がり込み、車で駆け付けてくれた知人から毛布を一枚借りて、一夜を過ごした。

 そんなとき、懇意にしていた画家さんが声をかけてくれた。
 使っていない部屋がひと部屋あるということで、そこに仮住まいさせてもらえることになった。食事も、一人分ぐらいだったら家族全員分の量とさほど変わらないからと、無償で提供してくれた。

 燃えてしまった家は借家だった。上田でも大手として知られる会社の所有物件。
 当然賠償問題が生じる。
 不動産部門担当者は、火事を出した当事者が謝罪に来るのを待ちつつ、訴訟に踏み切る準備を進めていた。
 火災の原因は、自分の過失であり、楽器や機材などにも一切保険を掛けていなかった。訴訟になったら一巻の終わりだ。
 当の本人が、茫然自失状態でいる間にも、本人のあずかり知らないところで刻一刻と、新たなる危機が迫っていたのである。
 そんな時、普通では有りえないような幸運に救われることになる。その頃知り合ったばかりの知人が、その担当者の実の兄弟だったのだ。
 その人は、僕の音楽を気に入ってくれて、シンセサイザーを使ったライブを行う際、安価で音響を請け負ってくれた人だった。
 その人が、新聞で私の火事のことを知り、不動産担当の弟さんとの間を取り持ってくれた。
 火事に遭ったのがどういう人物であるかを、こんこんと話したという。心を打つ音楽を作る人なので、どうか訴訟を踏みとどまって助けてくれるようにと説得してくれたのである。
 弟さんは、それでもかなり迷ったらしい。本来一社員の一存ではどうなることでもないが、兄の説得に負け、一旦書き上げた書類を破棄してくれた。一日遅ければ、手続きに入っていたと、後で聞いて知った。

 この件までもが濱村の助けによるものかはわからないが、偶然の巡り合わせという運命の力によって、すんでのところで助けられた。それが無かったら、今頃どうなっていたか分からない。

 姪っ子の霊視はさらに続いた。

 「高校時代、キーボードを自由に弾けることがうらやましかったって言ってる。だから演奏するときはいつも一緒に付いていって、演奏中の写真を撮ってたんだって」

 そんなふうに思ってくれていたのか・・・、自分の美貌に自信を持っていて、プライドも高く、羨む素振りなど、微塵も感じさせなかった。単に、写真の素材として、友人という特権を利用して近接して撮れるチャンスだと思っているのだろう。そう思っていた。
 芸術写真家を目指し、バイトして貯めた金で家に現像用の暗室を設えていた。暇さえあればカメラを首からぶら下げて、被写体を探して町中を歩き回っていた。市役所の市民画廊を借りて個展を開いたこともあった。高校生の個展開催など前例がなく、職員も驚いたという。姪っ子は、そんなことなどもちろん知らないはずだ。
             
 友人濱村については、彼の死後、三十代半ば過ぎのあるときにも、交流が成立したことがあった。
 などと書くと、あなたは何のことやらと思われることだろう。だが、姪っ子はそのことにも言及した。次稿では、そのことについて書くことにしよう。
                   (つづく)


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