老松との出会い
平成四年。僕が三十九歳だった年の十二月。知り合いの堀内さんから電話があった。十歳年上で、朝日エージェンシーという広告会社に勤める男性だ。
彼から電話がある時は、大抵の場合CM用の音楽制作の依頼だったので、その時もそうだろうと思いながら受話器を取った。
だが、そうではなかった。
「エッセイ読んだよ。面白かった」
言われて思い出した。
自作のエッセイが掲載された同人誌を、彼にも一冊渡してあったのだ。
その頃、僕は上田市を拠点とした文芸同人『顔』に入会しており、エッセイを何編か投稿したことがあった。彼に渡したのは、『微笑みの木』というタイトルの一編が掲載された一冊。作品の内容は、一本の梅の木をテーマに、自分の幼少期の想い出を綴ったものだった。
「いやぁ、なかなかいい感性してるねぇ」
ここで、声のトーンが少し変わった。
「それでねぇ…、実は君に会ってほしい人物がいるんだ」
その人は彼の幼馴染みで、ある一本の木に強くこだわっているという。
「実は、その木が、今、枯れそうになっていてね。奴はそれを何とかしたいと思ってるんだけど、理解してくれる人がいなくて孤立してるんだよ。君だったら分かってくれるんじゃないかと思って、それで電話したんだよ。何とか協力してやってほしいんだ」
聞きながら僕は思った。
― 自分にとってのあの梅の木のように、その人の思い出が染みついている木なのだろう ―
そこで僕は、訊き返した。
「その木は、その人にとって何か特別な木なんですか?」
「簡単に説明できないんだよ。直接会って、話を聞いてやってほしいんだ」
「わかりました。ぜひ会って話を聞いてみたいです」
「近いうちに、僕が場をセッティングするから」
年が明けて、堀内さん宅で新年会が開かれた。その席で、電話での話で聞いていた彼の友人と、初めて顔を合わせることになる。
堀内さんから紹介されると、その人は、松の木のことを雄弁に語り始めた。
唐臼山と呼ばれる里山の頂上に聳える大松が、マツクイムシ被害に遭い、枯れそうになっていること。何とかしたいのだが、住民の多くが耳を傾けようとせず、孤立状態から抜け出せないでいることなどを、一気に話した。
その顔には、疲労の色が浮かんでいた。
彼の名は村山隆。その後「老松保存会」を立ち上げ、会の事務局長を務めることになる。
後日、松の木が立っている里山の頂上に案内された。
長野大学の男子寮の横に車を留め、松林の中を歩いた。
草と土の匂いに懐かしさを感じながら、木々を見上げると、吹き抜ける風が梢を揺らし、ざわざわと音を立てていた。
しばらく歩いていると、急傾斜の上り坂が待ち受けていた。頂上の向こう側から松の枝の広がりが見える。
足元を確かめながら、一歩一歩そこに近付いて行くと、大松の全容が次第に姿を現した。
その木は、大地にしっかりと根をおろし、大空を支えるかのように枝を広げて立っていた。
村山さんは、その松について語り始めた。
昔から、山には神々が、木には精霊が宿っていると信じられてきた。
― 大松の下に立つと、心が澄んで行く ―
村人たちは、そう言っていたという。
そして僕も同じ思いで松を見上げ、ごつごつとした樹皮に覆われた存在感に、圧倒されていた。
唐臼山と呼ばれるその里山に、彼は子供のころから親しんでいた。
リスが遊ぶ姿がごく普通に見られ、松茸や山菜が採れたものだと、懐かしそうに話してくれた。
そこは、いつの時代にも子どもの遊び場になっていた。そばに幼稚園が出来てからは、園児たちが散歩やかくれんぼをする場所になった。
『やまんばの木』という紙芝居に、この木と似たきが描かれていることから、園児たちから「やまんばの木」と呼ばれるようになっていた。
野外活動の集合場所になり、運動会のときは、父母と手をつないだ競技の折り返し地点になった。「やまんば劇場」と呼ばれる学芸会も開かれている。
「お山に行こうよ。やまんばの木がお話してくれるよ。宝物が見つかるかもしれないよ」
子どもたちのそんな声が、よく聞こえてきた。
「子どもたちは、ヤマンバの木が鼓動し、話しかけてくると思っています。だから、いつも幹に耳を当てて聞こうとしています。どういうわけか、確かに音が聞こえるんです。それで、手紙を挟んだり、絵を貼ったり。それほど子どもたちに親しまれているんです」(幼稚園教諭談)
ヤマンバの木の横にある雷神様の祠や古墳群の話、村の鬼門封じの位置にあることなど、唐臼山についての話を聞かせてくれた後、村山さんは、幹を注視するようにと促した。
彼が指差した方向を見ると、そこには多くのキノコが生えていた。
ヒトクチタケ。
松が枯れて間もなく生えるキノコだ。
松は、その時すでに、静かに命を終えたあとだった。
マツクイムシにやられたのだ。
遥かな時の流れを、村と共に生きてきた大松は、その小さな虫に蝕まれて、長い歴史に終止符を打たなければならなかったのだ。
彼が、最初に老松の異変を知ったのは、その前年の十月のことだった。唐臼山にキノコを採りに行き、松が枯れ始めていることに気付き衝撃を受けた。
彼が生まれた時から、老木はいつでもそこに当たり前のように立っていた。大松の経っていない唐臼山など、想像すらしていなかった。
そこで過ごした少年時代の様々な思い出が、脳裏を巡った。
竹で作ったスキーでの沢すべり、刺されながらの地蜂獲り、藪に造った秘密基地、探偵ごっこやチャンバラ遊び、松茸を競い合って採ったこと…。
なぜ、この大松が枯れなくてはならなかったのか…。
彼の心は、悲しみに包まれていた。
「お母さん、ヤマンバの木のところまで行ってきたよ。すごーく大きくて、お空に届きそうなくらいだったよ。ヤマンバの木のね、お腹のところに耳を当てて、よく聴くとね…、ヤマンバの木がお話してる声が聞こえてくるんだよ。根っこのところにはね、小人さんが住んでるんだって。でもヤマンバの木は病気なんだって。もう治らないんだって…切らないとほかの木にも移るから、切っちゃうんだって…。」(ある園児が母親に伝えた言葉)
「木が、痛い痛いって言ってるよ」
「ヤマンバの木が伐採されると聞いて、子どもたちと一緒に唐臼山に登り、実際に見た時、頭の中でイメージしていたより遥かにどっしりして立派な姿に、私は暫くそこに立ち尽くしてしまいました。冷たい風の吹く寒い日でしたが、ヤマンバの木の周辺だけ多と違った雰囲気。そう…、春の陽だまりのような温かさを感じたことが忘れられません」(園児の母親の言葉)
― このまま、ただ嘆いているだけで良いのだろうか…。大松が伐採される日は近づいている。何もしないまま、その日を迎えてよいのだろうか… ―
村山さんは、信濃毎日新聞に手記を投稿した。それは一ヶ月後に掲載され、反響を呼んだ。彼のもとには、同調する内容の手紙やハガキが舞い込んだ。記事を読んで、初めて松の枯死を知った住民も多かった。
彼は、村に育った年長の人々を訪ねて回った、松が村にとってどんな意味を持っていたのか、詳しく知りたかったのだ。
そんな中で、村の最長老の真剣な訴えが、彼の胸を打った。
「あの松は、昔から新田村の象徴松だった。村の宝だった。ただ灰にしてしまってはもったいない。何とか村中でお別れをして、永遠に残せないものか。若い衆に動いてほしい」
高度経済成長が始まる以前までは、山は人々の暮らしを支え、心の拠り所となっていた。
山仕事が共同で行われ、そこで村祭りが行われ、心の繋がりが生まれ、確かな共同体意識が形作られていた。
山は「唐臼様」と呼ばれ、聖なる地として存在し、その頂上に立つ老松は、村の象徴として、人々と共に生きてきたのだ。
宝暦四年(1754年)からの村の記録を見ると、旱魃、霜害、洪水など、天変地異の記録が異常に多い。単純に計算すると、三年弱に一度は凶作で苦しんでいたことになる。
雨量の少ないこの地で、雨乞いの儀式には痛切な思いが込められたに違いない。
唐臼山の頂上で、大松を見上げながら、人々は、天に祈りを伝えたのだ。
明治時代には、住民による「宝積社」という相互扶助組織が作られた。日頃から皆で縄を綯い蓄えておき、困ったものが出たときは、その縄を売った金で助けたという。
人々は、そうやって助け合いながら生きてきた。様々な困難や悲しみを、力を合わせて乗り切ってきた苦闘の歴史の上に、現在の生活が成り立っているのである。
村の在り方が変化した現在でも、元旦にはお参りに来る人がいるという。古き時代に培われた良心が、古き世代によって辛うじて引き継がれている。
ヤマンバの木の供養祭を執り行い、切り株を保存する。それだけは最低限必要なことだと、村山さんは考えた。
― さあ、これから地域住民に働きかけねばならない ―
現在、唐臼山は、付属幼稚園のある短大の敷地となっている。住民のこういった心を知らずに、ただ老松を伐採してしまうことは避けたい。
そこで、村の有力者に相談し、短大側に住民の心を伝えてもらい、伐採を待ってもらうように働きかけた。
元旦に開かれた新田村の班総会で、旧区長からの発議という形で、老松が枯れた原因調査と供養祭を提案した。
話を聞いている間、住民たちは、興味を持って耳を傾けていた。しかし、いざ動くとなると、皆しり込みしてしまう。
― あの松は、天然記念物でもない。有名な伝承も何もない。住民の中のわずかな一部が知るだけのただの松だ ―
多くの住民が、そんな捉え方をしていた。
昔と違い、農業に専従する者はいなくなり、共同体意識は曖昧になり、老松への関心も薄れていた。三十年前までは二十軒だった世帯数も八十軒以上に増え、老松の存在自体を知らない住民のほうが多くなっていた。
そこに加えて、唐臼山は、大学を誘致した際に売却し、現在では大学の私有地になっている。松とはすでに縁が切れており、自分たちに発言権はない、との見方もあった。
それぞれに多様な、そして多忙な暮らしの中にある人々には、彼の提案は、二十年振りに帰郷した一住民の感傷としか受け止められなかった。
彼は十四年前、京都のとある過疎地にある農業高校の教師をしていた。自然のサイクルと、その中における人間の営みについての知識は深かった。
ヤマンバの木を切り倒し、燻蒸処理をしただけでは、根本的な問題が消えて無くなるわけではない。
なぜ松が枯れるのか…。この問題には、住民の側から積極的に取り組んで行かなけらばならない。それと並行して、松の木が村の象徴として機能し、人心を一つに纏めていた時代があったことを、構成に伝えなけらばならない。
彼はそれを痛切に感じており、だからこその新年会での提案だった。
新年会が終わった夜、彼はひとりで唐臼山に登り、老松を見上げた。
― なぜ人々は動かないのか ―
樹皮からは、樹脂が噴き出していた。
木の涙のように見えた。
松枯れの原因をマツクイムシだけに見るのは早計だ。
この虫は、枯れた木や、衰弱した木に取りつく。
つまり、マツクイムシの被害は二次的なモノであり、松を弱らせた最初の原因は他にあるということになる。
大気汚染、酸性雨など、大規模な環境の悪化、そして里山の環境不備や、周囲の環境悪化などがそれではないかと考えられる。
村山さんは、一人で歩き、松枯れの原因調査を開始した。
そうして作成した松枯れ分布図を、僕に見せてくれた。
山の周辺は、昔とは大きく変わってしまった。
すぐ下の桑畑が潰され、大学が二つ誘致された。山を削り、大きな運動公園が作られた。山を横断する、アスファルト道路が新設された。川の流れは変えられ、コンクリートで固められた。その結果、カジカも石亀もタナゴも姿を消した。
荒廃農地も増えている。さらに、大々的なテクノポリスの造成が展開中だ。ごく僅かな自然林を残し、それで『自然との調和』を謳っている。
森は、森全体として、ひとつの大きな有機体として機能し、生きてきたのではないのか…。
一帯に残っていた大古墳群も、多くが消失することとなり、その一部だけが「いにしえ公園」として残されたのみだった。
造成途中の一帯の様子からは、性急過ぎではないかと思われる「開発への捕らわれ」が見えてくるようだった。
わずかに残された自然林の一部をよく見ると、かなりの本数が立ち枯れ状態にあった。実際には、調和など実現されてはいなかった。
開発が絶対にいけないとは言わない。自然との調和を謳うのは、大いに結構なことだ。しかし、本当にそう思うのであれば、自然のサイクルをよく研究し、そのバランスを保ちながら、開発を進めるべきではないか…。
ヤマンバの木は、こうした性急過ぎる環境変化のストレスを受け、生命力が低下し、マツクイムシに取りつかれたのではないのか…。
辺りを案内しながら、村山さんは、こうした地域の大変貌や、一人で松枯れの実態を調査しなけらばならなかった事情を話してくれた。
心労が溜まっていると言っていた。
行き詰ったとき、困ったとき、彼はいつも唐臼山に登り、ヤマンバの木と対話した。
唐臼山では、昔から、年一回のお祭りが行われていた。雷神様のお祭り。
落雷避けと雨乞いを祈願する八十八夜の村祭り。
村祭り…、人の心を動かすには、祭りが一番ではないか…。祭り…、歌…。
そうだ、歌だ。
以前から、知り合いだった歌手がいた。地元出身のフォークシンガー黒坂正文氏。
彼は、手紙を書いた。
地域の窮状を訴え、歌を書いてほしいと願い出た。
村山さんが、新田地区の中で探索しているうちに、短大主催の供養祭が行われることになった。幼稚園児や住民の代表が集まり、お祓いが行われた。
このイベントで、ヤマンバの木に関する活動が、初めてマスコミに取り上げられ、広く知られるきっかけとなった。
彼は、市の農林課に、伐採後の切り株保存を含む、いくつかの要望を出した。
その後、林業指導員から、切り株保存と植樹の先例として、伊勢山自治会による「信玄ゆかりの兜松」への取り組みを紹介される。
住民有志で見学会を企画し、地区住民に案内を配布、みどりの日に、五人で伊勢山地区を訪ねた。
「まず、会を作り、要望書を市当局に提出すること」との示唆を受け、その翌日に『唐臼山の老松保存会』が、設立されたのだった。
村山さんは、事務局長として、その後しばらくは、ほとんど一人で会を支えて行くことになる。
フォークシンガー黒坂氏は、創作のヒントを得るために、唐臼山を二度訪れた。
木に語りかけ、木の声を聞き、そして曲想を練った。
そうして、伐採の一週間前に楽譜が届いた。
「風になれヤマンバの木」
ヤマンバの松の木よ 風になれ
風になってトンボたちを 守っておくれ
ヤマンバの松の木よ 空になれ
空になってツクシたちを 育てておくれ
ヤマンバの松の木よ 雲になれ
雲になって僕たちを 見ていておくれ
ヤマンバの松の木よ 星になれ
星になってこの地球 守っておくれ
伐採の日には、お別れ会と安全祈願祭が行われ、二百人が参加し、そして黒坂正文氏も唐臼山にやってきた。
まず、全住民を代表して、最長老により玉串が奉奠された。何とか村中でお別れできないかと訴えた、あの長老である。
斧入れの儀式が行われた後、黒坂氏と園児たちが、声を合わせて『風になれヤマンバの木』を歌った。
歌声は空に響き、聞いている者の胸に染み入った。
さらに、出来あがったばかりの新曲『ヤマンバの切り株の歌』が、黒坂氏のギター弾き語りで初披露された後、チェンソーがうなりを上げた。
集まった全員が見守る中、ヤマンバの木は、メリメリと音を立て、土煙をあげて倒れた。
松独特の香りが辺りに漂った。
それまで賑やかだったセミの声が、ピタリとやんだ。
「悲しくて涙が出ます。この村の象徴でしたからね…」
老婆がつぶやいた。
やるべきことはやった。
大往生と言えるのではないか…。
この後、幼稚園の父母会で、絵本作りに取り掛かっている。
アンケートでアイディアを募集し、制作の過程で何回も意見を求め、そして半年かけて完成した。
― わたしの名前はヤマンバの木。
年老いた松だよ… ―
こんな書き出しで始まる絵本には、かくれんぼ、どんぐり拾い、泥んこ遊び、お弁当を食べたこと、野菜畑を耕したことなどの想い出が展開されている。
子どもたちの優しい心に、ヤマンバの木は応える。
― たのしい おもいでを いっぱい ありがとう きりかぶに なっても きみたちの ことは いつも みているよ ―
後半には、黒坂正文氏作詞作曲の『風になれヤマンバの木』も掲載されている。
保存会の活動は、その後急展開を見せる。
切り株の年輪から、ヤマンバ木の樹齢は、二百十五年から二百二十年と分かった。新田村開村の時期を調べてみると、ほぼ一致していることが分かった。
年輪には、ある時期まで偏りが見られた。幹は、枝や根が伸びる方向が太くなるように成長する。片方に根や枝の自然な伸びを妨げる何かがあったということだ。
村山さんは考えた。大木が、もう一本並んで生えていたのではないか…。そして何らかの原因で、一本が枯れてしまった。
この仮説をもとに調査したところ、地区長老の、こういう証言が得られた。
「子どもの頃、確かあそこを二木神社と呼んでいた」
このことは、他に誰も知るものがおらず、ただ一人の貴重な証人だった。
公民館の押し入れの中に、新田村の青年組織『青友会』の、明治からの事務日誌が保管されており、彼は半月ほどかけて内容をしらべた。
古い日誌は、ページとページがくっ付いて剝がれにくくなっており、破損しないように、一枚一枚、注意深く剝がすという、大変に根気のいる作業だった。
その中から、ついに「山頂に二木神社があった」という記録を見つけ出す。二木神社の祭典を行なったことが、縷々と記録されていたのだ。
この事実を、郷土史家・黒坂周平氏に報告すると、黒坂氏のほうが驚いた。
かつて古文書に記されながら、その所在が特定できず、郷土史研究家から「幻の社」と言われていた神社があった。戦国時代末期の天正六年(1568年)、上小地方を支配していた武田勝頼が、重臣跡部勝資の名で所領安堵したという記録が残されている。その幻の社が『二木大明神』だったのだ。
ここで、ひとつの疑問が生じる。
古文書の記載によると、二木大明神は、四百年前にはすでに存在していたことになる。ヤマンバの木の樹齢は、すでに二百年余りだったことが分かっている。
新田村開村時の記念樹だと考えられる老松。その遥か以前から存在していた二木大明神。この二つの間に、どのような繋がりがあるのか…。
村山さんは、このような仮説を立てた。
ヤマンバの木は、二代目の松だったのではないだろうか…。
初代の松は、何らかの原因で枯れ、新田村開村時に、神社が再建され、二本の松を植え直したのではないか…。
この疑問を元に調査したところ、興味深い地域伝承が浮かび上がってきた。
元校長先生という一住民の方が、有識者であった祖父からこのような話を聞いたという。
― 武田氏と村上氏による上田原の合戦で、武田勢は多くの死者を出した。亡骸を唐臼山の山頂に運び、荼毘に付して、遺骨を甲斐の国に持ち帰った。後始末を神畑の某氏に依頼した。そして、そこに松を植え、大きく成長したが、ある年の大旱魃で枯れてしまった。今の松は、その後植えた二代目松である ―
上田原の合戦は、天文十七年(1548年)であり、勝頼が所領安堵した年の三十年前である。古文書の記述とも、切り株の年輪をもとにした仮説とも矛盾は生じない。唐臼山が、武田勢の後方陣地だった可能性も出てくる。
さらに昭和十年の『青友会社務日誌』に次のような記述があるのが見つかった。
― 彼の大松、甲斐名将武田信玄公と上杉謙信公の川中島合戦時代の物と言われるが判然せず。而して史蹟たることは歴然たる事実であると思ふ ―
保存会の活動は、様々な人の共感を呼ぶこととなり、各種新聞雑誌等で、取り上げられる件数も増え、村山さんは、様々な場で発表を請われるようになって行く。また、郷土史研究、教育研究の専門家の目に触れることになり、唐臼山を視察訪問するというケースも出てきた。
その年の暮れには、保存会と下之郷新田地区第十班から上田市に、史跡保存など、いくつかのいくつかの項目からなる『唐臼山の老松と頂上に関する要望書』が提出された。
その翌年、ある高校の『社会科学部』というサークルが、この運動に興味を持ち、熱心に研究に取り組み、その成果を文化祭で発表した。指導に当たった教師が、地区の教育研究会で提出したところ、高い評価を受け、県の集会でも発表。さらに全国集会にも参加することとなった。
文化祭後も、高校生と保存会による地道な活動が続けられ、同校の放送同好会の協力を得て、ナレーション付きのスライドにまとめ、保存会の活動の一環として、公民館で一般公開した。
さらに、このスライドは、地元婦人会の例会でも上映されることになった。
また、1995年の夏には、主催者からの要請で、日中地域教育国際研究会で発表することになり、事務局長の村山さんが、代表として天津に渡った。
全体を十五分にまとめて発表、中国語に訳した『風になれヤマンバの木』で締めくくると、会場は万雷の拍手となった。
通訳の方は、「涙が出ました」と言い、参加者からは、「大変感動し、日本人の優しさが分かりました」と絶賛された。終了後には、天津人民放送局国際部から単独取材を受ける。
まだ保存会を結成する前、村山さんの松へのこだわりに対して、「視野が狭い」「限定された地域のみに関わることで広がりがない」という声もあった。自分たちの住む地域の歴史にこだわり、自分たちの里山にこだわることであっても、それが真に価値のあることであり、心に触れる普遍性があれば、国境を越えて認められることにもなるという証明にもなった。
始めは少人数だった保存会も、今では会員数九十名を越えた。
そして、平成八年六月。第一回目の役員会が開かれることになるのだが、その日を迎えるにあたって、村山さんからあることを頼まれた。
「曲を作ってくんねえか…」
皆の心を一つに纏めるために、そして会の存在を広く知らしめるために、音楽の力を借りたいのだと言われた。
保存会結成以前、地域の協力が得られず孤立していた頃から、彼の仕事部屋に何度も足を運び、興味を持って耳を傾け続けた唯一の存在が、僕であるとも言われた。
役員会のときに、松枯れへの怒りと悲しみをテーマにした六分余りの一曲『Big Tree Elegy』を発表。
うねるようなストリングスと和太鼓の重々しい響きに支えられ、尺八による主旋律が悲痛な叫びを鳴り響かせた。
以後、例会が開かれるたびに、一曲ずつ増えて行き、創作への取り組みが信濃毎日新聞の東信版や上田ケーブルビジョン、東信ジャーナルなどでも取り上げられ、会の存在と共に、作曲家としての僕の名前も知られるようになって行く。
特に上田ケーブルビジョンなどは、四十分越えの単独取材番組を放送してくれたうえに、文字テロップだけが流れるときに、BGMとして使用してくれるなど、積極的にバックアップしてくれた。その甲斐あって、町で「テレビ見ました」と挨拶されたこともあったし、イベントへの出演依頼も目に見えて増えて行った。
そして、会結成から二年後の平成十年、十二曲から成る組曲『松の木の物語』が完成するのである。
そこには、松の木の周囲に広がる様々な美しい自然、動物たち、人々の祈り、祭り、災害、武田と上杉の戦いなど様々な情景が描き出されている。
その後、僕は、家庭の事情で故郷鹿児島へと居を移すことになる。
ここまでの経過をこうして文章化するに当たって、上田市に住む村山隆さんに連絡を取ってみたところ。その後の活動を記した資料が送られてきた。
その中から一部抜粋し、ここに転記させていただくことにする。
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私たちヤマンバの会は、平成五年、上田市下之郷唐臼山にあった一本の赤松「ヤマンバの木」の伐採を契機に生まれました。会名は、その木に由来するもので、発足の当座は地元下之郷の自然保護を目的にする集まりでした。
その後、この松が、地域共同体に様々な問いかけをしていると訴えた村山隆事務局長の感性に惹かれて様々な人が寄り合い、活動も多岐にわたって今日に至っています。
私たちの活動の特徴は、自然保護を文化活動としてとらえようとしていることだと思います。ヤマンバの木について言えば、伐採木から地域の歴史を掘り起こし、伐採の意味や背景を音楽や出版に結び付けて幅広い展開を繰り広げたことがそれです。
これまで順調にこれたのは、自然保護が時流になる世相のもと、確固とした組織作りが出来たこと、活動の経過を会報やビデオなどでその都度記録に残して来たことによるものと思います。
加えて、会員一人一人がそれぞれの持ち味で、それぞれの場で活動できたこともその要因だったようです。
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その後、老松の切り株を永久保存することが決定し、唐臼山の頂に鎮座しています。
