【小説】ガトーショコラに地獄 プロローグ&修二編①
あらすじ
平成後期のある冬、ひとりの女子大学生が退学した。それ以降、彼女と連絡が取れる者は誰もいなかった。
時は流れ2021年、女子大学生だった件の彼女の葬式をきっかけに、3人の男女が再会。彼女の元恋人で今も青春時代にとらわれる修二。彼女の女友達で敏腕社長の明里。彼女の幼馴染で後輩の、ホストの冬也。葬式が行われる「小親村」に渦巻く怨念が、彼らに降りかかっていく。
なぜ、彼女は消えたのか。彼女は何に祈ったのか。彼女の正体は一体何なのか。
彼女を巡る薄暗い恋愛模様と、どうしても彼女を手に入れたかった、怨念の話。
プロローグ
雪がたくさん降っていた。雪がしんしん、無情にも。
その日、茨城県水戸市は記録的な大雪で、安物のミニスカナース服ひとつじゃ寒さなんてとてもしのげなかった。
黒目が安定せず、視界さえもが震えている。静まり返った真夜中の街を走る。たまに出会う酔っ払いが、ピンク色のナース服一枚に裸足で走る彼女に訝し気な視線を向ける。
もう気にしてなどいられない。酒臭い、タバコ臭い、薬臭い、冷たい、死にたい。それでも彼女は走り続ける。振り返って、追っ手がいないことを何度も確認する。
早くしないと、来るな来るな来るな、振り返るな振り返るな振り返るな。追いつかれたら終わりだ。焦りと不快感と緊張と絶望、全部奥歯で噛みしめて、また走り出す。
走って、走って、走って。ようやくたどり着いた目的地は、それはそれは真っ暗な路地だった。傘をさした浮世絵タッチの女性が微笑む、大きなストリートアート。誰のかもわからないプリクラやステッカーがおびただしく張られたポール。たくさんの個性が詰まった路地だった。
ざらざらしたコンクリートの壁に手をつきながら、手探りで「それ」を探し、見つける。
不気味なほどお札まみれの古びた祠には、今日もたくさん参拝者が来たようだ。
はぁ、はぁ、と白い息を吐き、どさりと膝を折る。
____ラサ様、ラサ様。私もう、無理です、限界です。痛いよ。怖いよ。寒いよ。
この祠に祀られる神の名を呼んだとき、じわりと涙が滲んだ。深々と頭を地に擦り付ける。
____ねぇ、どうしたら私、幸せになれますか。
「お願いします、ラサ様、助けてください、助けて」
もう神様に縋るしかない。あの頃と何も変わらない。そんな自分に吐き気がして、苦しくて、涙が止まらない。涙が冷たくて口が上手く動かない。
「わたっ、私の人生どうにかして! おお、お願いします、助けてください! もう無理です助けて、どうか、どっ、うう……どうかっ、助けてください! 助けてくださっ、たたたた助けて、助けてください! 助けてください! おおお、お願いします、お願いしますお願いします……!」
掠れていく声が情けない。喉が痛くてもう、声が声にならない。
「あぁ、う、あぁああああぁぁああぁああ」
どうしてこうも生きるのが下手なんだろう。昔からそうだった。人と上手に話せない、人の言っていることが分からない、勉強ができない、運動ができない、アルバイトができない、容姿が恵まれていない、お金がない、味方がいない、勇気がない、何もない。
人間になりたかった。殴ってこない優しい両親がいて、簡単な仕事と称してナース服で性行為をさせようとする人じゃない友達がいて、嫌味や悪口を言ってこない先輩や同僚や後輩とアルバイトをして、帰り道に紅茶とケーキを買う金銭的、心理的余裕がある。そんな普通の人間に。
人間に、なりたかった。
足の裏がじんじんと痛む。血が滲んで気持ち悪い。嗚咽が響く路地裏に、光はない。
____きぃ。
古い木が軋む音がした。ひどく懐かしい匂いがする。お香のような、くらりとするくらい華やかで、穏やかな香り。
顔を上げた先を見て、喉の肉が縮んだ。祠が、開いている。
『いまいくよ』
「あ、え、え?」
『だいじなだいじな、うんめいのつがい』
声がする。だれ、と言いかけた口が固まる。この声、知ってる。それも遠い昔から。
刹那、勢いよく風が吹いた。生温かい、けれど花の香り深い、春の塊のような突風。目をつぶって、なんとか耐える。
おずおずと目を開けて、息が止まった。手。祠の中から、黒くて大きな手が八本。影のようにどんどん伸びてきている。長い触手のような大きい掌が、雪でぐしょぐしょの彼女の身体をそっと包み、引き寄せる。
『おいで、おいで、よいこ』
「ひ、あ」
『こわくないよ、だいじょうぶだよ、まもってあげるよ。おいで、おいでおいでおいで』
怖い、恐ろしい。誰か。
____ねぇ、なのに、どうしてだろう?
手で押さえた口の端が上がりそうだ。
何の根拠もないけれど、心が言っている。ずっと、遠い昔から、心のどこかで待っていた。この得体の知れない瞬間を。
きっと「あの人たち」なら、なんだこれ、とか、気持ち悪っ、とか吐き捨てるだろう。
____あぁ、でも、もうそういうのいい。もういいよ。
____もうどうでもいいから。何もかも全部。
彼女は自分でも、心臓が歓喜に震えていることを分かっていた。頬を染めている自覚があった。
怖いのに、楽しい。恐ろしいのに、嬉しい。心臓が、どきどき、わくわく、震えてる。気が遠くなるほど久しぶりに、心の底から微笑んでいた。
__あぁ、やっとだ。この手は救いの手。私には分かるの。私、やっと助けてもらえる。
引き寄せられていく。祠がどんどんと近づいていく。闇より真っ黒で、骨の髄が凍るほど不気味な救いの手。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
身体が祠に吸い込まれていく。自分の身体がバラバラに飛び散っていくような感覚の中、彼女は歓喜の涙を一滴こぼした。
『このひがくるのをまってたよ』
____うん、私も。
『おいで、よいこ』
____もう二度と、ずっとずうっと、離さないでね。
ガトーショコラに地獄
1章 松長修二
土曜の午前8時。改札内のコーヒーショップから香りが漂う。
すごい。この時間の駅なのに、こんなに人が少ないなんて。なんて最高なんだろう。マスクを外しても文句は言われまい。この緊急事態宣言下のご時世だし、やらないけれど。
駅の改札近くにある電光掲示板前で、松長修二(まつながしゅうじ)は、ぐっと背伸びをした。
紺色のコートについた埃を軽く払い、辺りを見渡す。大学生だった頃より店が減ったな、あそこガチャガチャコーナーになったんだな、なんて、妙なノスタルジックを噛みしめる。大学が茨城だっただけのくせに、どこから目線なんだろうか。
スーツケースをガラガラと引きながら、改札を出る。まず行くのは、北口の広場。職場の人たちに「茨城って、駅に水戸黄門いるんでしょ?」と言われたので、黄門様の像の写真を撮りにいく。北口で忙しそうにしているのは、出勤する大人たちだけだった。もう3月の後半だから、学生はみんな春休みなのだろう。
黄門様たちの像をスマホに収めた。階段を降りていく。ガス臭いロータリーを通り、県北方面へ向かうバス停前に着く。
ベンチに座った途端、急に北風が吹いた。寒さに指が悴む。
『修二くん、待ってるからね』
声が脳内に蘇る。「あの日」見た、夢の声。人の記憶は声から消えていくと聞いたことがある。なのに、この柔らかな声だけはずっと脳に根を張っている。
指を擦り合わせて、寒さを凌ぐ。今住んでる鹿児島よりは当然寒いこの地に、欠片も歓迎されていない。そんな気がしてやまない。わかってる。でも、絶対にここに来る必要がある。歓迎なんかされなくていい。
あの子が死んだことを聞かされた日のことだ。あの子に夢で、待っていると言われた。きっと葬式に来て欲しいと言っているのだと、目覚めてすぐに喪服をクローゼットの奥から引っ張りだした。
そして今、ここに戻ってきた。他でもない彼女に待っていると言われたのだから、迎えに行くべき、いや、行くしかない。
それほどに、大事な人だったから。
20分ほど、ぼんやりと濁った海を見るかのように、インスタを眺めてはスクロールを繰り返していた。みんな、何度目かもわからないコロナウイルス感染症の緊急事態宣言の下、旅行したり、起業したり、結婚したり。
『もう。修二くんったら、いつも結婚した後の話するんだから』
はにかむあの子が未だに記憶の引き出しにいて、ふとした瞬間にすぐ出てくる。付き合っていたあの頃はずっと、あの子とこれからもずっと歳を重ねていくと、何の疑いもなく信じていたのだ。
戻りたい、あの頃に。大学生だったあの頃に、2人で手を繋いでいた頃に、彼女を含めた仲間たちと徹夜でカラオケしていた頃に、どうしようもなく戻りたい。戻れない。
あぁ、また。また、頭に目眩しのような霧がかかる。今現在と、この先の未来を覆い隠すような、追憶の深い霧。修二の後悔に似たこの願望が出た時は、いつもこうだった。
気軽にどこかへ出かけられない、閉鎖的なご時世だからというものもある。この霧は最近は頻繁に、修二の思考に影を落としていた。
戻りたいと何度も何度も願うくらいの、青春だった。修二の25年の人生の中で大学生活は、今日弔う彼女といた日々は、どんな青空よりも眩しく、美しかった。そんな青い春だった。
春の成り損ないみたいな風が吹き抜けて、またひとつ指が冷めていく。やがてバスが来た。修二以外乗客がいないバスは、都会よりずっと快適だった。
奥の席でゆったりと、心の糸を緩めて窓の外を眺められる。古くからある、よくお世話になった文房具屋を通り過ぎて、ライブハウスがある十字路を通り過ぎて。やがてもうすぐ、百貨店が見える頃だった。
バスが停留所にとまる。けれど、乗車する者は誰もいない。運転手が間違えたのだろうか、そういえばこのバス会社の運転手に「お釣りあるなら先に言えよ!」って降りるときに怒鳴られたことあったっけな。ぼんやりと取るに足らないことを考えていた。
まばたきを2回したときだ。その1点を修二はふと、見つめた。絶対に普段なら目に入らない、その路地裏がやけに気になったのだ。
路地裏の壁には絵があった。和風の傘をさした、浮世絵みたいな画風の女が笑う、大きな大きなストリートアート。いつ見てもセンスがある絵で、大学時代からあの路地は好きだった。
けれど、視線の先はそこだけじゃない。
女が立っていた。黒い長髪を高い位置で二つ結びにした、190センチはあるであろう長身で、派手な振袖を着た女。顔は良く見えないが、惹きつけられる何かがある。派手な格好をしているから、だけじゃない。魅力とでも呼ぶべき、まばゆさがあった。
何かの撮影だろうか、と胸が逸る。大学の先輩が社長を務める、小規模アパレルブランドのプロモーション担当をしている修二の勘が働く。こういった小さな出会いもまた、仕事に役立つに違いないと、勘が言っていた。
だが同時に、胸の辺りに違和感が漂う。喉の辺りに魚の骨が引っかかっているかのような、妙な痛み。
薄暗い路地裏とはいえ、あんなにも派手な格好をしているの女がいるのに、何故、歩いている人たちは気にも留めないのだろう? このバスからでも見えるのだから、歩いていればなおさら視界に入るはず。
バスは動かない。女は直立不動でそこにいた。
す、と女が袖を揺らし、腕を肩の高さまで上げる。
指をさしていた。修二のことを、しっかりと、真っ直ぐに。
刹那、ぐっ、と息を短く吐いた。寒い、重い。身体が、動かない。
なんだ、なんだよ、と頭が戸惑いで埋め尽くされる。身体が動かない、息が苦しい。まるで何か紐状のものでギチギチと縛られているかのように、腕周りが締め付けられているような気さえする。自分の身体を見たくても首が動かない。目も動かない。
あの女から、視線が離せない。
得体のしれない感覚に鼓動をバクバク速くさせていると、ガタン、と音がした。バスは、何事もなかったかのように走り出す。するり、と締め付けられる感覚が解ける。なんだったんだ、今の。修二は窓ガラスに手を当て、慌てて女の方を振り返った。
女は変わらずこちらを指さしていた。バスが動いても、ずっと。
ずっと。
*
皮肉なくらいの快晴だった。
バスに揺られて2時間、午前10時。ようやく目的地である、「小親村(しょうしんむら)」に辿り着いた。片道2時間もかかるんだったら、せめて送迎バスくらい用意してくれよ、と、彼女の葬式を行う連絡がきたとき思った。でも今はそう思うことさえ罰当たりだと感じるし、到底不可能なことなので、控えている。彼女の家にきっと、そんな余裕も、そんな風にお金をかけてまで彼女を弔おうとする気持ちはないだろうから。
未だ、バスの中の金縛りに似た妙な出来事のことを考えている。あれは夢だったのだろうか。あの金縛りの後、すぐに眠ってしまった。修二は夢だと思うことにしよう、という自分の楽観的意見を採用した。未だ不思議な感覚は残るが、夢だと思わないと、これから始まる葬式に集中できない。今はあの子のことを真剣に考えたかった。
背中が痛い。腰に手を当て身体を反り、バキバキの背骨を「くうっ」と声を出して伸ばした。
「おっさん臭くなったねぇ、しゅうくん」
背後から、よく通る女性の声がした。
「明里じゃん。髪、すごい伸びてる」
「あはは、当たり前じゃん! 最後に会ったのコロナ前でしょ? 髪くらい伸びるっての」
「だって大学時代の印象強すぎて」
「何それ。ま、あたしみたいな綺麗な女、印象薄い方が無理か」
「はいはい。そういうことにしとく」
「冗談よ、半分ね」
「半分?」
三毛門明里(みけかどあかり)は鮮やかなベージュの髪をさらりと手で靡かせる。毛先は巻いてあり、品よくカールしていた。どことなく髪色と髪型が、今日葬式を行う彼女の大学生時代に似ていた。大学生時代、といっても、修二はその頃の彼女しか知らないのだが。
現役若手女社長。その肩書がよく似合う明里は、学生時代より化粧が薄くなったような気がする。社会人のメイク、という感じ。なんだか違う人と話しているみたいで、修二は意味もなく手首を掻いた。
「ねぇ、もうさ、来るだけで疲れたんだけど。なにこのクソ田舎」
「あー、確かに田舎すぎるよな」
「ね。しかもあたしたち以外まだ誰も来てないみたいよ? みんな遅ーい」
「え、俺たちが一番乗り?」
「まぁね。ま、当然か。だって他の人もきっと、早く来たがらないっしょ? あの子とご飯食べるほど仲良かったの、あたしたち3人だけじゃん。だからさぁ、ね?」
3人、というのは、まだ来ていない後輩の山破冬也(やまはとうや)を含む、修二、明里たち3人のことだった。
「あたしたち以外の友達いなかったからね。地元の友達とか来んのかな? ま、来るわけないか。大学の人はあたしたち3人しか来ないみたいだし」
「そうなんだ」
「そう。あの子の親はもう死んでるしさ。まったく、誰が葬式なんかやろうって言いだしたんだか」
桃色のマスクを外し、明里はペットボトルの水を飲む。
「あのさ、また言い方きついんじゃね? ましてや亡くなった人のことを悪く言うの、やめた方がいい」
「えー? 何ムキになってんの?」
「明里、この前もインスタで炎上しかけてたじゃん。すごく心配なんだけど。友達として」
「ふーん。そっか。嬉しいねぇ」
明里は髪をなびかせ、首をこつんと傾げて子供のように笑う。
「気分悪くさせちゃってごめんね。でも、あの子のこと悪く言ったわけじゃないよ、本当のことすぐ口に出しちゃう癖がまだ治らなくてさ」
「バカ。毎度毎度ひやひやする俺の身にもなれって」
「ごめんって。最近、うちの会社にコミュニケーションアドバイザーとか呼んで部下に研修してんだけどさ、あ、もちろんあたしも受けてるんだけど」
「えらいね。社長も直々に受けるんだ」
「まぁね。やっぱ気を付けないと、この令和のご時世。叩いてくる奴らの動機はさ、ただのバカみたいな嫉妬からだけど、たまに殺害予告とか来るし。ほんと怖い世の中」
彼女は「敏腕若手女社長は辛いのよ?」と笑う。
「マジかよ。大丈夫?」
「大丈夫じゃないって。この前なんか、うちの会社のポストにね、生きてる蜘蛛を大量に、ほんっと引くほど入れられたの! マジで信じらんない! あーあ、早く虫のいない世界に行きたいわ」
明里はそう言いつつも、相変わらずの口の悪さで、楽しそうに愚痴を修二にぶつけていた。大学時代から変わらない、強かな人だ。
5分ほど経過した頃、村に繋がる林道の奥から、喪服姿の一人の男がこちらに向かって走ってきた。明里の止まらない愚痴にうんざりしてきた修二の顔が、明るくなる。
「すんません! お待たせしました!」
「冬也。お前、相変わらずのピンク髪だな」
「へへっ。オレと言ったらこの髪っしょ? シュージさんは大人っぽくなりましたね。ますますクールさに磨きがかかりました? 今もモテるっしょ?」
「彼女はずっといない。あとオブラートに丁寧に包むな。老けたって言っていいよ」
「やっべ、言いたいことバレてた。あの、なんかすんません。苦労してんすね」
「コラ謝るな、お前は素直だと逆に気持ち悪い」
修二はつい笑みを溢していた。絶望的に喪服が似合わないピンク色の髪の冬也は、こういう軽いやりとりが、男女問わずいろんな人から好まれていた。大学のときは、ほぼ全ての学生のLINEを知っていたくらいだ。今もホストとして、池袋で働いている。
「ここからはオレが案内しますね。一応、この村に住んでた時期あるんで。ちなみにここ、滝が見える温泉もあるんですよ」
「あたしも聞いた聞いた。しかも今日、旅館に泊めてくれるんでしょ? 旅行じゃん」
「そうっすよねぇ。2名様ご案内しまーす」
「もっとホストっぽく言いなさいよ。現役でしょ?」
「急に言われるとできないなぁ。今は自粛で出勤できてねぇんですよ。もうコールとか忘れそう」
あっけらかんとした声が、小親村の晴れ渡る空の下に響く。
村を3人で進んでいく。辺りは樹木に侵食された、空き家ばかりだ。生い茂る木々に、家が食べられているようにさえ見えた。
「ねぇ冬也、この村って人住んでるの? どうしよう、あたしたち妖怪かなんかに化かされてたら」
「相変わらず失礼の極みっすね。ベルさんのご親族に頼まれて、おふたりの案内役してるんですよ、オレ」
小山(こやま)べる。それが彼女の名前だった。
LINEとインスタの名前は、カタカナでベル。アイコンは赤い花のイラスト。ホーム画面は4人で行ったディズニーランドのシンデレラ城。今もすぐに思い出せる。
「冬也」
「はいはい。疲れたとしても、あと少し我慢してくださいね。まったく、都会人は足腰弱いんだから」
「ベルって、本当にこの村で育ったのか?」
冬也の顔は見えない。けれど一瞬、確かな間があった。
「そりゃそうっすよ。言ったでしょ? オレたち子供の頃、よく遊んでたって」
「ふーん。ね、でも冬也は小学4年で引っ越したんでしょ?」
「そうなんすよー。あのとき引っ越さなかったら、もっと違ってたんでしょうけどね」
何が違うんだ、と言いかけて、やめた。もうそんな話に意味はないと、修二は、そして明里も冬也も、察していた。
ベルと修二が最後に話したのは、大学3年の冬。彼女は突然、大学をやめた。修二には何も、一言も告げず、ベルは修二たちの前から忽然と姿を消した。誰も何も連絡を受けていなくて、大学の事務局に聞いたところ、母親が倒れて介護することになった、とのことだった。
修二はベルが退学した理由を聞いた瞬間、その後の記憶がない。その後大学でなにをしていたか、どうやって家に帰ったか、覚えていない。家に帰り、しばらく玄関でうずくまっていたことしか覚えていなかった。
いわゆる毒親、親としての義務を果たさない親。それがベルの母だった。
『私、今が一番楽しいの。人生が色づくってよく言うけどさ、こういうことを言うんだね』
ショッピングモールの喫茶店で、クリームソーダのアイスをすくいながら彼女は頬を染めていた。ベルの人生は、大学で修二たちと一緒にいた、あの3年間しか色づいていなかった。一体、どんな気持ちだっただろう。自分を虐げていた母親の介護のために、大学をやめることになって。
____ベル。俺の人生も、ベルがいた3年間がピークだったよ。今はもう、どんなに高価で洒落た服を触っても、何も感じない。あの頃着ていた1500円の古着には敵わないんだ。
こんな言葉に意味はない。でも意味がないのなら、心の中で吐き捨てたっていいいだろう。
「お、見えてきた見えてきた! おーい! おばちゃーん!」
冬也の声が晴れ晴れとした空に響く。彼が大きく手を振る先には、エプロン姿の白髪の女性が立っていた。
「遅いんでねえけ、冬也くーん! おばちゃん腰悪ぃんだから手加減しなー!」
「ごめんごめーん! お二人共、ちょっと小走りでお願いしゃす」
「だるっ!」
「明里、わがまま言わない。走るぞ」
ただでさえ引くことがしんどかったスーツケースを、さらに大きな音を立てて引きずり、駆ける。修二の鼻腔に夏の夕焼けと、硫黄の匂いがする。大学時代、まだ冬也と知り合う前の旅行。ベルと明里と修二の3人で「温泉だー!」と各々の鞄を振り回して、旅館前でバスを降りたあの夕暮れ。
修二は小さく口角を上げる。なんだか学生の頃に戻ったみたいで、センチメンタルの海に沈んでいた修二の心が少し、上を向いた。
走ったおかげで、冬也が「おばちゃん」と呼んだその人のところまで、1分も経たずに到着した。
「いんや、若者は元気だね。おばちゃんね、元気な子は気に入ったわ。今日のご飯は豪勢にしてあげっから、楽しみにしててな」
小声で冬也が「ね、走ってよかったでしょ」と囁いた。相変わらず人に取り入るのが上手い男だ。
数分歩くとようやく、居住区域にたどり着く。
「わっ、え!? すご!」
一番先に声を出したのは、明里だった。
見ているこちらのノスタルジックを引き出す、和風の家々。盆栽に囲まれた旅館がちらほらと大きく構えている。さらに梅の花が満開で、あちらこちらで桃色の春の息吹をちらつかせる。空で舞うカラスさえも上機嫌に見えた。先程までの冬の終わりよりも冷たい、無機質で色のない村と同じ場所とは思えなかった。
「んだ、気に入った? 昔はなんもない村、過疎地域っつーやつだったけどな、今は観光で儲けてんだわ」
「おばさま、あの一番大きな旅館はなんですか!? すごい、古き良きって感じで好きだなぁ」
「あそこが、あんたらが泊まるとこだよ。おばちゃん、あそこで飯炊きの仕事してんだ」
「ほんとですか!?」
明里がますます目を輝かせる。早速、彼女はスマートフォンで写真を撮りはじめた。修二も、職場の人に見せようとスマートフォンを手に取る。
本当に旅行みたいだ、と鮮やかな景色を目に、春の香りを楽しむ。たまにはいいか。こんな風に、のんびりした時間も。
スマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動したときだった。
え、と声が短く途切れた。
カメラ越しに広がる景色に、色がない。快晴の空だけが青くて、あとは瓦礫と、枯れ木と、黒いどろどろとした謎の塊が転々としている。焼け野原のような、命のない光景がスマートフォンに閉じ込められていた。
何より、画面の左端。
女がいる。背の高い、着物を着た、バスで見たあの女が。顔はよく見えない。なのに、こちらを睨みつけていることだけがひしひしとわかる。まるで煮えたぎる怨みでも持っているような、おどろおどろしい真っ赤な瞳。
どくどくと、血液の流れが早まる。スマホを下げ、辺りを首を振って見渡す。
「しゅうくん?」
周囲には観光雑誌の中に飛び込んだかのような、美しい郷が広がっている。慌ててスマートフォンに視線を戻すと、画面にも同じく、綺麗な風景があった。先ほどまでの死の光景など、悪い夢だったかのように。
「なんなんだよ……」
「顔真っ青よ? 貧血?」
「ごめん、ちょっとバスで疲れたかもしれない。大丈夫」
____大丈夫。きっと疲れたんだ、そうだ、きっと。
傷薬を塗り込むように、修二は自分に何度も言い聞かせる。
空は晴れ渡り、3人を歓迎するかのように空気は清々しく凪いでいた。ただひたすらに、美しく。
続
2話
3話
4話
5話
6話(2章 スタート)
7話
8話
9話(3章スタート)
10話
11話(最終話)
いいなと思ったら応援しよう!
生活費の足しにさせてつかあさい!!!切実に!!!