【小説】ガトーショコラに地獄 明里編②
9月。まだまだ暑い日は続き、未だに夏は終わらない。クーラーの効いたイタリアンレストランで、ベルがスマートフォンの画面を見せる。
「修二くんが、三毛門さんも一緒にどうですかって」
「なるほど。付きあって1ヶ月記念の泊まりデートに、彼女の女友達を連れてこうとするクソ野郎は松長っていうのね。ちょっと刺してくるわ」
「落ち着いて! 今にも人を殺しそうな顔にならないで!」
「離して。そんなことしてベルがどう思うかわかんないの? どういう思考回路なの?」
今にも走り出しそうな明里をベルが必死に抱きついて止める。店中の視線がこの席に集まっているといっても過言ではなかった。ベルの髪はミルクティベージュ色に染まって、薄くだがメイクもしている。明里がプロデュースし、自他ともに地味と呼ばれていた小山べるはもういない。
目立つ容姿の2人はぎゃあぎゃあ言いながら「可愛い彼女がいるからって調子乗ってんじゃないの」や「私と修二くんを一番応援してたのは明里ちゃんだよ」と、猫のじゃれ合いのようなやり取りを交わし続ける。
「記念日とかじゃなく、普通の小旅行だよ? 行き先も茨城県内だし」
「そういう問題じゃない。だって泊まりよ?」
「私が明里ちゃんもいたら楽しいだろうなって言ったの」
「何言ってんの!? あたし完全に邪魔じゃない!」
「邪魔じゃないの! それに1ヶ月記念のお祝いは別にする予定だから、これはほんとに、思い出づくりの単なるおでかけだよ」
明里ちゃんが修二くんと気まずいなら、他の人も呼ぶから。ベルはそう言うが、泊まりの旅行に連れていけるほど明里と仲が良い人は、ベルしかいない。しかもベルは人見知りだから、あまり親しくない人、特に男性とはまともな会話すらできない。最近話しかけてくるワンチャン狙いの男どもを連れて行くわけにもいかないし、そんなことはしたくない。
ベルが期待に満ちた、きらきらと輝く瞳をずっと向けてくる。明里は、はぁ、と息を吐いて肩を落とした。短くも深い付き合いで知っている。ベルがこういうとき、意外と頑固なこと。
「しょうがないな。その代わり2人きりになりたいときは、事前に言いなさいよ。空気読んで席外すから」
「明里ちゃん……! 大好き!」
「はいはい知ってる」
ベルが「やった、やった」と体を揺らし、子供のようにはしゃぐ。明里はつい吹き出して笑ってしまった。生まれて初めてできた本当の友達は、何をしてても、どうにも愛らしいのだ。
*
出かける当日の朝になって、家なのに帰りたくなる。そういうことが昔からよくある。明里はアパートから出て駅までの道中、悶々と頭を抱えた。
やっぱりどう考えても、友達とその恋人の小旅行に同行するのは気が引ける。松長修二はどうして許可したのか、と何度も考えてきた。もしかして、女2人と自分だけで旅行したことを周囲に自慢したいのか、と失礼な予想もしてしまう。
明里は正直、松長修二のことが苦手だった。見目は綺麗だが、中身がわからない。何回か話してみた印象も、クールでぼーっとした人だな、という無味なものしかなかった。
ベルは少し空気が読めなかったり、人の心の些細な動きに鈍感な部分がある。今回のように、彼氏との旅行に女友達を誘うとかそういう、ちょっとズレたところが。その鈍感さが原因で、周囲となにかトラブルに発展しそうなこともある。それをすかさず正す役は明里だ。明里自身、己の役目を深く自覚していたし、苦じゃなかった。
ベルは、明里に対しての悪意には人一倍敏感だった。悪口などの悪意が明里に向けられれば、人一倍怒ってくれる。他人を守れる強さがある。あの食事会のとき、助けてくれたように。
快晴の下、水戸駅の広場で、ベルと松長修二が手を振っている。
「おはよ、ベル、松長くん」
「明里ちゃん荷物少ないね? 私なんか修二くんに持ってもらってるほどなのに」
「あんたが多すぎんのよ。松長くんが持ってる馬鹿でかいボストンバッグ、もしかしてベルの?」
「泊まりの旅行はじめてだから、つい……」
修二と視線が合う。彼は「暑いね」と持っていたハンディファンを明里に向ける。
「ありがと。重くない?」明里はすかさず整った笑顔を作った。
今回の旅行は人一倍、松長修二に気をつけること決めていた。大事なベルにふさわしいか見定めてやろう、いざとなったら今度は自分が、ベルを守るのだ。
なのに。
「ベル、三毛門さん、これ食べる?」
「ここは俺が奢るよ。この前、バイトで臨時ボーナスでだし」
「ここからの景色、すごくよく見える。ベルと三毛門さんの2人で写真撮る?」
彼は常にベルと明里を優先した。ベルと明里を同等に扱い、2人をエスコートする。さながら2人の執事のようだ。
海の見える温泉施設、オーシャンビューの露天風呂で、明里はベルに問う。
「怖いよ。あの人、なんであたしにまでこんな良くするわけ?」
「うーん。明里ちゃんが明里ちゃんで、修二くんが修二くんだから?」
「哲学か? 答えになってないんですけど」
ベルは己の肩に手ですくった湯をかけた。
「修二くんはね、出会ったときからずっとずっと優しいの。心配になるくらい」
「それは予想つく。なんとなく」
「ふふ。だからね、気にしてたみたい。明里ちゃんが非常階段で電話してたこと」
ひゅっ、と息を吸った。急激に背中が冷える。それはベルにも、誰にも言っていないことだった。
2週間前、母から電話があった。簡潔に言うと、お見合いをしろ、という命令だった。相手は母の取引先の社員さんで、歳は25歳で。それくらいしか記憶がない。もう母の声で鼓膜を震わすことが、苦痛で仕方がなくて。
『私には息子が居ないし、明里ちゃんもインスタグラムであんなことになったでしょ? だから早いうちに、賢く行動しておきなさい。女の期限は短いの』
準備しておきなさいね、の言葉を最後に通話が終わった。膝の力が一気に抜けてへたり込んだ。うるせぇこの時代に19の娘に見合いを進めるな私の意思を聞けよ娘のインスタ見るなキモいんだよお兄ちゃんの存在をなかったことにするなお前の子供だろ消えろ消えろ憎い憎い殺す殺す殺す殺す殺す! 言いたいことが呪文みたいにぐるぐる頭をまわって、こめかみが痛かった。
その光景を松長修二に見られていたようだった。明里は舌打ちを堪える。よりにもよって誰にも見られたくない瞬間を、親しくもなんともない人に見られるなんて。
「それを旅行の話になったとき、修二くんから聞いたの。だから2人で決めたんだ。今回の旅行に、明里ちゃんも誘おうって。ちょっとでも元気出るかなって、おせっかい」
「……ごめん、気を使わせちゃって」
「私が、私たちがそうしたかっただけだよ」
明里は湯の中でベルの手に己の手を伸ばす。湯の中で二人の手が重なる。互いに視線を合わせることなく、言葉を交わすこともなく、海を見ていた。
ベルは本当に心が綺麗だ。だからこそ、眩しくて仕方ない。母親に恵まれなかったのは一緒なのに、どうしてこうも違うのだろう。どうして自分は、ベルみたいに素直ないい子になれないのだろう。
どこまでも澄んだ空が湯に反射する。この旅行が終わったら、母にちゃんと断ろう、断らなくてはならない。明里は真っ直ぐに、青い海を見つめつづけた。
夜は3人で、地元の港でとれた海鮮料理たちを食べた。ベルがお手洗いで席を外し、明里と修二、2人きりになる。共通の話題がベルのことしかないので、明里は自然と口にしていた。
「ね、松長くんはベルのどんなところに惚れたわけ?」
「え」
「えじゃない。松長くんがちゃんと答えられない場合はごめんなさい、私が不機嫌になるかも?」
「何その占い最下位みたいな情報」
修二は視線を斜めに逸らす。
「ベルは、恩人なんだ」
「恩人?」
「くだらない価値観のしがらみから、俺を助けてくれた。なんていうか、憧れっていうか、なんだろ、とにかくずっと隣にいたいっていうか」
修二の声はいつもの平坦さがどんどん薄れていた。鮮やかに色づき、温かくなっていく。
「一緒にいると自分を好きになれるっていうか、その……これ以上言わなきゃだめ?」
頬を赤く染めている。明里をちらりと見上げる表情に、明里の心臓がどきん、と脈打った。
「ふふ、あはははは! なんだ、松長くん可愛いところあるじゃん!」
「は? 可愛くないだろ」
「あ、拗ねてる」
「拗ねてない」
「可愛い。修二くんはベルとお似合いだね。可愛いカップルだ」
「褒めてんのそれ?」
____あぁ、なんだ。この人はあたしと同じで、ベルに救われたんだ。
心からの微笑みが溢れる。この人になら最愛の友達を任せられる、と朗らかな心地よさに包まれていた。それに名をつけるのならきっと安心だとか、そういう温かな言葉だろう。明里はこのとき、修二に対する軽やかな心の弾みを、信頼と名付けた。
この感情がやがて、ベルとの友情にヒビを入れるとも知らずに。
*
昔のことを思い出しても何も得るものはないのに、どうして思い出ばかりが脳裏に蘇るのだろう。
夜が明けた小親村の旅館は、朝日に照らされ清廉に輝く。艷やかな瓦屋根は昨日よりも美しく見える。なのに、この旅館ではしゃいでいた観光客はもう明里以外、息をしていなかった。
旅館の客室。灰色の着流しを纏った水之助が、スマートフォンの通話終了ボタンを押した。彼はすっかり肩を落とす。机を挟んだ明里の正面に正座し、深々と頭を下げた。
「冬也くんからです。井戸の、三毛門さんの中に居た化け物が襲った人々はもう、全員息を引き取ったそうです。松長さんについては、まだ何もわからないと……」
「……そんな気はしていました」
ぽとり、と明里の眼から、今朝から数えて何度目か分からない涙が落ちる。
「しゅうくんには手応えがなかったって言ったけど、言ったけど……。多分、なんかよくわからないけど、あたしの力が強くなっていた所為でそう感じただけ。本当はわかってたんです。ありえないくらいに身体が軽かった。ありえないくらいに、人の骨を簡単に折った。血しぶきの量からして、生きているはずがないって。でも信じたくなかったの。あたし、本当に、人殺しを、しゅうくんもきっと何かヤバいものに襲われて、あたっ、あたしの所為で」
「貴女の所為ではないですよ」
「でも」
「貴女が皆さんを葬ったなど、考えるものはこの村にひとりもいません。どうか気をしっかり持って。大丈夫。これはこの村全体の問題です、貴女ひとりで抱えさせやしない」
涙と後悔の言葉が止まらない。泣き続ける明里の背を、水之助はずっと、子供をあやすように撫でていた。
明里がようやく息を整えた頃、ふすまがガラリと開いた。芦田が不機嫌さを隠さずに、どすどすと部屋に入ってくる。
「くそ、応援が来ねえな」
水之助がすっと立ち上がる。
「応援って、昨日はセレモニーホールに来てくれたじゃないですか?」
「あぁ。そいつらに昨日の夜中から連絡してんのに、雪で動けねえとよ」
雪。昨日は確かに一晩中、雨のはずだった。瓦屋根を打つ雨音を確かに聞いた。明里は訝しげに、眉間に皺を寄せる。
「ただの雪じゃねぇから動けねえんよ」
声が一つ、部屋に増える。ふすまを開けて入ってきたのは、昨日の朝、冬也がおばちゃんと呼んでいた女性だった。
「道親(みちちか)さん、水之助さん。おばちゃんが話すよ」
「おい!」
「おばさん!? 危険です!」
「おばちゃんはもう年寄り。若い芽は摘ませないよ」
道親、とは恐らく芦田の下の名前なのだろう。芦田と水之助が、苦虫を噛みつぶしたような顔で視線を下げる。明里の鼓動がどくどくと逸って、心臓が痛い。何かこれから、恐ろしいものが始まる気がして。
ふすまを閉め、4人がテーブルを囲む。水之助が用意してくれたお茶だけが熱を持ち、あとは冷えた緊張感だけが辺りを凍らせていた。
「三毛門さん、あんたの中にはな『ラサ様』がお住まいになってたんだわ」
「ラサ、様。知っています。大学生の頃、その神様の祠が大学の近くの細い道にあって。あたしはあんまり、噂程度で聞いただけですけど」
明里は唇を折り、意を決したように口を開く。
「あたしの中にその神様がいたのって、この村に来るずっと前から、ですよね」
「あるんじゃねぇけ? 心当たり」
こくり、と頷き、話し始める。限られた人にしか話したことがない、明里の内に潜む、爆弾を。
「大学を卒業して、会社を立ち上げてからです。急に意識が飛んで、気がついたら数時間が経過していることが頻繁にありました。病院に行ってもなにもなかったんです。寧ろ、会社は好調になっていくばかりで、面倒事も気がついたら解決していて、本当にわからなかったんです」
初老の女性はただただ明里の目を見て、話を聞いている。彼女の春みたいなお香の匂いが、明里をなんとかこの場に繋ぎとめていた。
「最初は、私が無意識のうちに仕事ができるほど成長したのかも、なんて馬鹿みたいに考えてました。けど気がついたら、意識が飛ぶ時間がどんどん増えていったんです。何日、何週間って。知らないうちに私の手柄になっていく全てが恐ろしくなった。気がついたら何かの賞をとっていたり、多額の寄付をどこかにしていたり、知らない間に昔の知り合いと連絡を取っていたり……」
水之助が口元に手を当てる。
「芦田さん。何年か前のあれも、ラサ様の行い、ですよね」
「あぁ。三毛門さん、俺は前に、村役場の帳簿を調べさせてもらったことがあってな。上場企業の寄付なんてそう無ぇからよ、詐欺会社じゃねぇかって相談があったんだ。この村あての多額の寄付が、確かにあんたの会社からあったよ」
明里は口を一文字に結んだ。
ベルの葬式の連絡が来て、小親村、という文字に全身の肉が固まった。毎月多額の寄付をいつの間にかしている、謎の村。どんなに部下に「あたしが寄付なんてしようって言ったら全力で止めて」と言っても、気がついたら意識が数日間飛んで、いつの間にか寄付してしまっていた。村役場に連絡しても「返金は受け付けていない」ということで、突っぱねられるばかり。今思うと、あの役場職員の態度はあまりに冷徹で、なんだか異様なものがあった。
女性が「いいかい」と、改まった口調で息を吸う。
「ラサ様はな、平安の時代の生まれでね。日昇(ひのぼり)一族って呼ばれるとこの娘だった。有力貴族の娘さんで、綺麗な顔と優しい性格で。だけどねぇ、美人で賢すぎるがあまり、嫉妬されて、井戸に突き落とされて死んじゃったんだわ」
女性が「よっこいしょ」とテーブルに手をついて立ち上がる。しゃらっ、と窓を塞ぐカーテンを開けた。快晴の朝空の下に、滝が見えた。そういえばこの宿は、滝が見える旅館として一部の間で人気なんだったと、明里は思い出す。
「あそこに見える滝は『知の滝』って呼ばれてんの。知識とか知恵の『知』。飲むと頭が良くなったり、不思議な力を授かるって伝説があってな? 中でも有名なのは、水蜘蛛伝説」
「水蜘蛛、ですか?」
「うん。心が綺麗な1匹の蜘蛛が、知の池で修行したら、神様にまでなったって話なんだ」
女性がまた座りなおす。水蜘蛛。初めて聞く単語だが、逸話自体はよくある地元の昔話、といったところだろうか。
「ラサ様のことを哀れんだその蜘蛛の神様が、ラサ様の死体を拾ってな、己を継ぐもの、新しい神様にしようとしたんだよ。ラサ様は神様の力を受け取って、福の神として生まれ変わったんだ」
福。現状とあまりに乖離した単語だ。
「だけど、人間は愚かだからね、次第に罰当たりなことをし始めた。木を切って、川を埋めて、数少ない水辺には汚水を捨てて。水がどんどん汚くなっちまったんだ。でも知の滝は枯れなかった。ある日を境にな、真っ赤に染まっちまったんだよ。水の代わりに、人の血で。……知の滝はな、不思議な力があるんよ。知恵を与えるだけじゃなく、何かを溶かすと、その知恵とか生命力とか、いろんな力を吸収して、しかも倍増させっちまう。溶かせば溶かすほど強い力を持つ水になる」
夢物語のような逸話だ。なのに確実に、じりじりと首を締めつけられている気がする。窓の奥に見える滝の流れに、背骨が冷たくなる。先ほどまでは、ただの美しい滝だったのに。
「知の池は人の汚い部分がたくさん溶けた。ラサ様はその影響で、禍ツ神、災いを呼ぶ神様になっちまった。ラサ様が殺した人間の血が溶けて、さらに知の池の力が強くなって、池は真っ赤に染まり続ける。ラサ様は本当に恐ろしい神様になっちまってなぁ」
「……じゃあ、もう福の神じゃないってことですか」
女性はゆっくり頷いた。
「あたしたちはそんなラサ様にお仕えして、呪いを最小限に食い止めるよう、この地に居なくちゃならない。そういう運命で生まれてきた。あんたのよく知る、ベルちゃんもね」
ひゅ、と息を吸う。
「そんな、ベル、そんなこと一言も」
「言えませんよ。僕たちはこのことを一生抱えて生きていくしかない。大学進学で、ベルは逃げるようにこの村から飛び出しました。けれど、結局この地に骨を埋めた。そういう運命なんです、僕たちは」
水之助の声は淡々として、それがかえって哀しさを引き出していた。
明里の脳裏にベルの笑顔が浮かぶ。同時に、戸惑いと不安に満ちた顔。己と彼女の仲が悪くなって、彼女がどんどん挙動不審になって、またその顔にイライラして。メリーゴーランドのように、繰り返し。
____なんであんな態度とっちゃったんだろう。あの子がこんな呪いを抱えていたなら、生まれながらの運命に抗おうとしていたのなら、あんなことしなかった。
同時に、言ってくれればよかったのに、と彼女を責める己もいる。なんて身勝手なんだろう、と自覚はあるのに、ふつふつと泡のように湧いてくる思考を止められない。自分は悪くない、あの子が言わなかったのが悪い、と、罪から逃げる思考も。 一番の怪物は、自分かもしれない。ベルのように心の綺麗な女の子には程遠い、ただの醜い醜い人殺し。だからラサ様も、自分を宿り木に選んだのではないか。
「うっ」
「おばさん!」
巡る思考を、女性の声が断ち切る。女性は顔の右半分を手で覆い、倒れ込んだ。
「おばさま!?」
「だめだ触るな! 糸が出てる!」
芦田の視線の先は、覆った手の向こう。糸が、大量の柔い糸が出ている。蜘蛛の糸のようなそれは蠢いて、どんどん女性の顔を、首を、身体を、生き物のように侵食していく。まるで人の体が飲み込まれていくようだ。
「ラサ、様の、秘密を口にしたものは、みんな、こ、なる」
「そんな」
「みけ、かどさ」
「はい、はい……!」
「おい! 近寄るな!」
制止を振り払い、涙目で駆け寄る。接したのは数刻だけでも、親切にしてくれた人が、こんな無惨な最期を迎えるなんて。明里は息苦しさを必死に堪えて、女性の顔、顔があったであろう糸の塊におずおずと顔を近づける。
「…………よ」
「____え?」
「離れろ!」
「三毛門さん!」
呆然とする明里を、水之助が思い切り引き剥がす。
「あおおあおあおあおあおあおあおおあおおおおおあああおあおあおあお」
壊れたテレビのような、地を這いずるような声が耳をつんざく。どろどろどろどろと人の体が真っ白な糸になって、溶けていく、ほどけていく。
ぱさり、と女性の身につけていた服だけが、力なく床に落ちる。服の中には1匹の、タランチュラのような大きさの蜘蛛が1匹だけ、残っている。蜘蛛はカササと音を立てて、空いていたふすまの隙間から、部屋を出ていった。
「……また、ですね」
「そんな、これ、なんなの、なんなのよ!?」
わしり、と髪を両手で握りしめ、明里は唇を震わせる。その両肩を水之助の手がそっと包む。
「落ち着け」
「あんたたちもどうしてそんな落ち着いていられるの!? 次は自分かもしれないのに、人が死んだのに!」
「覚悟してるからだよ! ここに生まれたときからな!」
「芦田さん、落ち着いて!」
「大体お前だって殺してんだろ!? 井戸で死んだ連中も、ベルのことも!」
明里の呼吸が止まる。芦田は声色も覇気もそのままに、つかつかとふすまの方へ歩いていく。
____お願い明里ちゃん、どうやったら昔みたいにお話してくれる?
涙目のベルが脳裏で訴える。あの日、ベルが退学する1週間前。
____あの日にあんなことを言わなければ、ベルは死ななかった?
明里はその場にへたり込む。
「俺たちはこうやって糸になっていく人間をたくさん見てきた。人が死ぬのは日常茶飯事だ」
「ちが、あたしじゃない、あたしの所為じゃない」
「そうやって泣いてればいい。ただひとつ言えるのは、あんた、罪を償うと誓え。じゃないと次に糸になるのはあんただ」
ふすまがパタン、と閉まる。もうとっくに冷めた茶の匂いと、明里がすすり泣く声だけが部屋に漂う。
「部屋を変えましょう。ここは空気が濁っている」
水之助が紫色のハンカチを差し出した。震える手でそれを受け取り、明里は頭が痛くなるほど、脳味噌を回し続ける。
糸になった女性の最期の言葉が、鼓膜にへばりついて離れない。
____あんた、しぬよ。
やけにはっきりと聞き取れた最期の言葉が、首に刃を突き立て続けている。
朝日は煌々と昇っていた。窓の外の滝が日の光に照らされている。皮肉なほど美しい。その光を吸い込んだ水の粒さえ、まるで凶器のように。
続
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