【小説】ガトーショコラに地獄 明里編③(2章 完)
次に移った部屋は、先ほど女性が糸になった部屋よりも随分、こじんまりとした部屋だった。棚に飾られた黒い招き猫や陶器の壺が、どこか祖父母の家のようで、安心する。
「すみません、狭い部屋で。ここ、一番滝から遠い部屋なんです。滝の音がしたり見えたりしたら、思い出してしまうでしょう?」
水之助は押入れから取り出した座布団を敷く。明里は濃い紫色の、上品な座布団に正座した。ふかふかの柔い感触が、強張った身体をほぐす。「今、お茶持ってきます」と部屋を出ていこうとする彼を、明里は思わず呼び止めた。
「あの、どうしてここまで、お優しくしてくださるんですか?」
目の前で人が死んだ。葬式では蜘蛛の波が襲った。何より、生まれながらにこの地で死ぬ運命である。こんなどうしようもない地獄みたいな境遇で、どうして彼は人に優しくできるのか。それも昨晩まで怪物に乗っ取られていた女に。きっと彼も、透き通るほど美しい心の持ち主なのだろう。そう予想はついてもつい、尋ねてしまう。
水之助は足を止めて、明里に向き直る。擦れた畳の香りがふわりと舞う。
「三毛門さん、嫌いですよね? ベルのこと」
心臓が鈍く、重く跳ねる。心に宿る黒い感情を、鈍器で思い切り殴られたような気がした。水之助は「責めているわけではありません」と、困ったように笑った。
「僕もね、ベルのことが大嫌いだったんです。昔からずっと」
え、と声を出す前に、水之助は明里の正面にそっと座る。
「僕とベルの共通の親戚で、すごく素敵な人がいましてね。僕はその人のことが大好きだった。でも、その人が一番好きなのは、ベルだった。簡単に言えば嫉妬です、嫉妬。僕のほうが優秀で、僕のほうが何でも出来て、僕のほうが年上で。なのに、いつもあの人が選ぶのはベルなんですよ」
明里の鼻の奥が痛んだ。あまりに聞き覚えのある話。自分じゃなく、ベルが選ばれる。いつもノロマでドジで、抜けているのに。明里がどんなに、美人だねと褒め称えられても、意外と話しやすいんだね、と友達がどんどん増えても、インスタグラムのフォロワー数が1万人を超えても、どんなに有名人から声をかけられても。
ベルは、修二に選ばれる。明里はどう足掻いても選ばれなかったのに。
「だけどベルがこの村に帰ってきて、一緒に生活するようになっていって、気がついたんです。彼女の魅力に。あぁ、だから、あの人はベルを選ぶんだなって。僕じゃだめだった。僕じゃ一番になれない。……死の淵にいる人間ほど、愛を求めてしまう。馬鹿みたいですよね、どう足掻いてもこの地で死ぬ運命で、いつ死ぬかも分からないのに。でもやっぱり思うんですよ。どうして僕はいつも、愛してほしい人に愛されないし、誰の一番にもなれないんだろう? って、強くね」
水之助はかりかりと頭を掻く。彼の大人しげで、けれど清廉さを感じさせる笑顔が揺らぐ。水晶のような澄んだ瞳に、陰りが宿った。
「夢を見るんですよ、たまに。呪いの業火で死んでいく、家族や友人の夢を」
放ってはおけない、と咄嗟に強く願った。明里は思わず、手を伸ばしていた。水之助の手を取り、己の両手で包む。彼の手は冷たく、こちらまで凍りついてしまいそうなほど、血色がない。
それでも、手を離す気にはなれない。これは恋愛とか、そういう楽しげな色恋的感情ではない。ただもう、目の前で人に死なれるのは、自分と同じように苦しみを抱えて生きていくのを見るのは、嫌だから。それだけ。
「同じですね、私達。愛してほしい人が離れていくのは、誰かの一番になれないのは。それを理解してしまった瞬間は、とてもとても、苦しい」
「……えぇ、本当に」
静かな部屋で、手の温度を共有している。明里はいつも、誰かに手を握られると安心した。それに気づかせてくれたのは、ベルだった。
_____ベル、あたしがあんたにしてきたことを、許さなくてもいい。許されるはずがないわ。その代わりあたし、2人目のあんたを生み出さないよう頑張るから。自分の所為で人が死ぬのも、ラサ様ってやつに誰かが殺されるのも、もう嫌なの。たとえもう死ぬことが決まっていても、やれることをやってから死んでやる。
泣きわめくだけだった、逃げ続けるだけだった明里の心に、ダイヤモンドのような眩しい強さが生まれる。それは覚悟によく似ていた。
少しして、ふっと、水之助が笑みを零した。
「ありがとう。お優しいのは貴女の方だ」
「いえ、あたしこそすみません。手なんかとっちゃって」
「……やはり、三毛門さんは強いですね。僕と違って、死に抗おうとしている。強くて、綺麗で、美し____」
言いかけた水之助としっかり目が合う。彼はみるみるうちに真っ赤に染まっていく。この反応、今までいろんな人のを、何回も見てきた。
「これは、そのっ、すみません」
ぱっ、と彼は手を離す。そのまま明里に背を向けて、挙動不審に意味もなく手首に手をおいたりしていた。明里は思わず、雪が舞うように軽やかな笑みをこぼす。こんな崖っぷちの笑える状況じゃなくとも、小さな好意は転がってくるものだ。もしこの死の淵から脱することが出来たら、この人と生きていくのも悪くない、なんて、突飛な提案も浮かぶほどに。
途端、がらりとふすまが開いた。
「うわあああ」
「あ?」
「いえっ、なんでも」
慌てふためく水之助に、芦田が訝しげな視線を向ける。彼はスマートフォンを手に持っていた。
「山破のぼっちゃんから連絡があった。すぐに戻るってよ」
山破。確か、冬也の名字だったはずだ。芦田が真剣な顔で明里を見つめる。
「生きてるよ。あんたの友だちの、あの松長って男」
*
旅館の廊下をバタバタと走っていく。水之助に「転びますよ」と窘められても、逸る心臓と体を抑えきれない。
旅館の玄関に、彼らは立っていた。
「しゅうくん!」
明里は咄嗟に履いたサンダルが脱げそうなほどに勢いよく、修二に駆け寄った。修二の顔は青白く、表情もいつも以上に凪いでいる。
遅れて水之助と芦田がやってくる。
「よぉ、ご苦労さん」
「冬也くん、お疲れ様。部屋で休んでください」
「了解です。あー疲れた、煙草吸お」
血塗れのスーツ姿の冬也が、よろよろ旅館の中へ歩いていく。冬也のことなど欠片も気に留めず、明里は修二にそっと抱きついた。
「無事で良かった。本当に、ほんとにごめんね、あたしが井戸なんて言ったから。よかった、よかった……」
安堵と高揚が入り混じり、心に花が咲く。あの血塗れの海から、自分を救ってくれた。怪物だった自分に手を差し伸べてくれた。やはり、修二は王子様だ。王子様がそう簡単に死ぬはずがない。
明里は潤んだ瞳で修二を見上げた。ふと、心臓に靄がかかる。修二は欠片も笑っていない。瞳に光はなく、鋭利な瞳が明里を見下ろしている。明らかな威圧がそこにあった。
明里はおずおずと、顔色を伺うように息を吸う。
「しゅうく____」
「お前がベルにやってきたこと、冬也から全部聞いたよ」
ぐしゃり、と身体を支える芯が潰れた。遮った言葉が、明里の心の花を無惨に踏み躙る。修二の声は今まで聞いたことがないほどに低かった。
修二は乱暴な手付きで、己の身体から明里を剥がす。
「聞いたんだ、全部。自分のファン使ってベルの嫌な噂流したのも、バレンタインのチョコに髪の毛が入ってるって嘘ついたのも」
黒い感情を押し殺した瞳が明里を刺す。追い詰められていく。断崖絶壁に、じりじりと。
「お前の差し金で、ベルが男に襲われそうになったのもな」
「違う!」
悲鳴のような否定の声を上げていた。明里は服の胸の辺りを握りしめる。
「違うよ! 全部あたしの所為じゃないの。あたしのファンが、あたしのためにって勝手にやったことだったの!」
明里は嘘は言っていなかった。
明里が少しベルの愚痴を言えば、明里のファンたちは大学中にいつの間にか誇張された噂をどんどん広めた。
バレンタインのチョコを「ライバルが多いしゅうくんの彼女なんだから、たまには手作りしてみれば」と言ったのは明里だった。少しだけ意地悪を込めた冗談のつもりだったのだ。料理下手がバレて、修二に愛想を尽かされればいいのに、とほんの少し思ったが故に、出てきた言葉。
まさか本当に、あんなにも不味いものを作ってくるとは思わなかった。「あれはちょっと」と言っただけで、ファンたちが「髪の毛が入っている」とか「もらったら捨てるようにしよ」と誇張された話を広め、実行するとは思わなかった。思わなかったんだ。
男に襲われそうになったのも、明里は直接手を下してはいない。バレンタインに自分のチョコが捨てられていたことや、その件で悪口を言われたベルは、明里に相談した。自分のどこがいけないのか、どうやったらみんなと仲良くなれるのか。
____あんたのそういう、そもそもそういう質問をしてくるところとか、絶望的に空気が読めないところとか、オドオドして誰かに助けられるの待ってるところとか! 全てがイラつくのよ! あたし含めて!
今まで溜め込んでいた爆弾が破裂した。案の定、ベルは泣いてしまった、泣かせてしまったのだ。その涙さえも、明里を苛立たせた。
____お願い明里ちゃん、どうやったら昔みたいにお話してくれる?
だから明里はひとつ、簡単な仕事を依頼した。近日に行われる大学の飲み会に誘われているが、その日はインフルエンサーの食事会があって行けない。代わりに出てくれないか。出てくれたら、今までの評価を改めるか検討する、と。
本当はこの大学の飲み会に、1年のとき、あのベルに助けられた飲み会で、明里に言い寄ってきた年上の同期が来ることを聞いていた。正直顔を合わせたくないし、逆恨みで何を言われるかわからない。だから、ベルを差し向けることにした。幸い女子はベルだけじゃないし、危ないことは起こらないだろう、と保険をかけた上で。
明里は全く予想できなかった。その飲み会で、ベルがホテルに連れ込まれることも。ドラッグを嗅がされて、性的暴行を受けそうになることも。
「お願い信じて、しゅうくん。しゅうくんなら、信じてくれるよね?」
媚びへつらうような笑顔を浮かべていた。そんな情けない自分が反吐が出るほど嫌なのに、そうせざるを得ない。自分は悪くない、本当に悪いのはベルに暴行を加えようとした人、悪口を流した人なんだから。
明里は縋った。どうか自分を見限らないで、側にいて、と。先ほど、ベルに許されなくてもいい、と誓ったはずなのに、心は自分の所為じゃないと叫び続けている。大切な、大好きな修二に見限られる恐ろしさには、いかなる感情も覚悟も敵わない。
修二はふ、と力なく笑みを浮かべた。
「人の言うこと鵜呑みにしすぎないでね、ってお前が言ったんだからな。だから俺は鵜呑みにしない。確実に真実に近い方、俺が信じたいと思う方を信じるよ」
明里の心臓が逸る。嫌だ、嫌だ。なんとなく、この後に彼が何を言うか察してしまった。彼が、冬也と自分、どちらを信じるかを。修二がこの状況で、自分を信じるわけがないことも。
修二は明里を通り過ぎ、旅館の中へ向かう。先ほどまで鳴いていた鳥たちの声は、一瞬ですべての命が死んだように聞こえない。
「お前とはここでさよならだ」
目の前が真っ暗になった。通り過ぎるときに鼓膜を撫でた修二の言葉が、明里をどん底に突き落とす。
修二は生きていた。明里の王子様としてはもう、死んでいた。
*
「冬也! あんたふざけんな!」
喫煙スペースに怒号が響き渡る。この世の全てを蹴り飛ばすほどにつかつかと勢いよく、明里は冬也に詰め寄った。冬也は煙草を燻らせながら眉をひそめる。
「なんすか。オレ疲れてるんすよ、成人男性支えながら歩いてきたんすからね」
飄々とした言葉が明里の心臓をからかうように撫でた。苛立ちが爆発する。明里は冬也の胸ぐらを掴んでいた。
「ベルの退学にあたしの信者が関わってるって、なんでしゅうくんに言ったのよ! あたしとあんただけの秘密のはずでしょ!?」
もはや取り繕う気も失せていた。自分を崇拝する身勝手なファン、信者どもの所為で、自分はこんな目に遭っている。それに加え、この世で一番知ってほしくない人に伝えやがった、目の前の男も憎くてたまらない。自責から逃げた、他責の思考が止まらない。明里の目は常人離れと言っていいほどに充血していた。
「ははっ。『信者』ねぇ。えぇ、そうっすよ? 口止め料ももらってますね? 100万くらい」
「なにヘラヘラしてんの!?」
「笑うしかないっすよ。だってオレ、そのこと口にした記憶ないんですもん」
「寝ぼけてんじゃないわよ!」
「理解力無ぇな。何人も殺したときのあんたと同じってことですよ。オレも」
冬也は明里の手首を掴み、振り払う。同じ。その単語に明里は「まさか」と小さく呟いた。
「オレの中にも、ラサ様がいます。ベルさんが男に襲われそうになって絶望した日から、オレたちはあの神様の操り人形になる運命だった。神様の供物を害そうとした罪人としてね。ただの便利なおもちゃですよ。ま、オレなんかはもっと前、小学生の時この村に引っ越してきた時点で、目ぇつけられてたんでしょうけどね」
とん、と己の心臓の辺りを冬也は叩く。
供物。罪人。おもちゃ。瞳孔が開いて目の奥が痛い。嫌だ、嫌だと頭を抱える。信じたくない。ベルに不敬な態度をとった時点でもう、こうなることは決まっていたのか。嫌だ。誰かの言いなりになりたくない。今この瞬間でさえも、自分の体に神の操り糸がついていることに吐き気がする。
「……しゅうくんも?」
「あ? あの人は違いますよ。知ってます? ラサ様みたいな災いを呼ぶものって、涙が出るほど心が清らかな人か、人に滝のような涙を流させるほどの悪人。そのどちらかを好むんですよ。シュージさんはどちらにもあてはまらないってことっすね。その代わりオレたちは、悪人として選ばれちまった。仲良くしましょうよ。腹ン中真っ黒な者同士さ?」
冬也が顔を覗き込む。彼は嘲笑っていた。己の運命も何もかも、諦めた笑み。水之助とどこか似た、哀しい笑み。
煙草の煙が快晴の空に昇る。咽そうなほど強い匂いも気にせず、明里は口を開く。
「なんで、あんたそんなに詳しいの」
「一応オレの家、山破一族ってオカルト界隈では有名なんすよ。最近まで生きてた人間の中では、ベルちゃんしか知らない秘密だったんすけどね。ま、これであんたとの秘密バラしたのは、チャラってことで」
「なんで言わなかったのよ! この村のことも、ベルやあんたのことも! 全部!」
「オレの人生って舞台において、あんたらは脇役だから。言う必要がないからですよ」
「は?」
「それに、ほんとのこと言ったって信じるような人間じゃないでしょ? シュージさんはともかく、明里さんってさ」
冬也をきっと睨みつける。彼は大きく手を広げ、舞台俳優のように大きく息を吸う。
「ここで良いお知らせがあります。あんたにひとつ贖罪のチャンスだ」
「……なに」
「シュージさんが自殺行為をしようとしてる」
「自殺?」
「知の滝に乗り込んでラサ様を殺す、ベルちゃんの亡骸を取り戻す、なんて言いやがるんすよ。本当、手に負えないほどの馬鹿だよなぁ。オレみたいに知識や対策があるわけでもないのにさ」
冬也は鼻で笑う。
心臓がずきん、と小さく痛む。死してもなお、修二はベルを選び続ける。たとえ神を殺してでも、亡骸を取り返そうとするほどに。
「あの死にたがりを止めるよう、協力しましょうよ。これ以上無駄死にを増やさないためにも、短くとも青い春を謳歌した同士として、あの人が死なないように」
「槍でも降るかもね。あんたがまさか、しゅうくんを助けようなんてね」
「まぁね。オレはあんたのこともシュージさんのことも嫌いですよ。今この瞬間も」
吐き捨てるような声だ。明里が眉間に皺を寄せると、冬也はぐじゅりと煙草を灰皿に潰した。
「でも、あんたらの全てが嫌いだったわけじゃない。結局オレも、あんたらと、何よりベルちゃんと馬鹿やってた日々が愛しい、思い出に取り憑かれた愚か者だったって話だ。オレは後から知り合ったから、あんたたちとの思い出は1年分少ないし、年下だからその分割合は減るけどさ」
彼の顔が日に照らされ、少し焼けた肌がほのかに輝く。
「あんたらには悪いと思ってますよ、こんなことに巻き込んで。でも元は、あんたらがベルちゃんに手を出した、この村の供物の一部に手を出したからだ。だからせめて己の罪を償って、ラサ様の許しを得て、生きて帰ってくださいな。オレとは違って、まだ未来があるんだから」
遠くを見つめる瞳が、悲しげに揺れた。彼も引っ越したとはいえ、この村の出身。ここに骨を埋める運命なのだ。
明里はぐっと拳を握る。何も言わずに、喫煙スペースをあとにした。たとえ彼にかける言葉がどんなに優しくとも、届かないと分かっていたから。それよりも今は、修二とともに生きる道を、可能性を掴みたかった。冬也が願ったように、同じ思い出を抱える者として。
*
明里は部屋で、スマートフォンをひたすら指で撫でていた。
『呪い 対策』
『神 供物 許し』
今までの人生で一度も調べたことのない文字列をひたすら打ち込む。大した手がかりもなく、別のワードで検索する。その繰り返し。
本当は今にでも修二の神殺し計画を止めて、ラサ様に菓子でもなんでも捧げて、反省の意を示して。許しを得たら、修二と一緒に荷物をまとめてこの村を出ていきたかった。だが修二は簡単な怪我の手当てを終え、仮眠をとっているとのことだった。部屋に行っても返事はない。
大人しく待っていることすらできなくて、ひたすらスマートフォンを操作し続ける。鼓動がどんどん速まる一方だ。本当は一刻も早く警察でも消防でもいいから呼んで、この村を後にしたかった。だが芦田に「それだけはやめとけ」と止められてしまったのだ。
『そういうやつは今までに何人もいた。けど全員、無関係の奴らまで巻き込んで死んだよ。落石、崖下への落下、車の発火。ラサ様への挨拶無しで、生きて帰れるやつは居なかった。お前も帰りたいんなら、滝に行ってラサ様に祈ってから行くんだな』
このラサという神は、どうしてもただでは返さないらしい。そもそもどうしてこの神は、こんなにもベルに執着するのだろう。明里はスマートフォンを弄る指を止める。
ベル。かつての友の名を、心の中で呼ぶ。
_____なんであの時、あんなにもベルのことが憎く思えたんだろう。
明里がベルを嫌うきっかけは、今思えば本当に些細なことだった。
大学2年の頃、明里はひどく焦っていた。インスタグラムから有名人になっていくインフルエンサーの増加や、停滞気味のフォロワー数。さらに、有名になるために様々な人との飲み会に参加し、媚を売り、たまに身体を触られたり、それ以上のこともあった。でも耐えるしかなかった。己が全てを手に入れるためには必要なことだったのだ。
そんな淀んだ日々の中、最悪なことに、母親から頻繁に連絡が来るようになった。インスタグラムでそこそこ名を馳せるようになった明里を、利用しようという魂胆だった。
ベルに相談したとき、彼女はすぐにこう返した。「縁、切ろうよ」と。
『もうこれ以上傷つく必要ないよ。一回切っちゃえば、あとは自由だけが待ってるんだよ? もう明里ちゃんが打ちのめされ続けるの、見たくない』
あれは紛れもなくベルの優しさだった。だけど、少し、ほんの少しだけ、失望した。インフルエンサーは全てが完璧でなくてはならない。少しの隙が命取り。親との不仲さえも。現に母は、明里との血縁関係をSNSで公表している。仲良し親子として、母の信者からも評判がいい。それを一方的に切ってしまえば、悪者になるのはどちらか。母は最悪の女王だ。でも愚かじゃない。みるみるうちに、明里は悪人に仕立て上げられるだろう。
ベルの強さは、何も失うものがない強さだ。故郷とも母親とも縁を切ったが故の強さ。これからもずっと抱えながら、強くあらなければならない。そんな明里とは、正反対。
それを理解してないベルに対し、修二は痛いほど、気持ちをわかってくれた。
『お母さんとのやり取りがきついなら俺やるし。大丈夫、明里が今まで堪えてきたことは無駄じゃない。お前は負けてないよ。うまく利用してやろう』
あの言葉があったから、どんな地獄の中でも戦えたのだ。安らぎだけが正義じゃない。共に戦ってくれる決意のお陰で、どんなに救われたか。修二は父親に恵まれていなかったと後から聞いてますます、あぁ、なんでこの人の隣はあたしじゃないんだろう、と思うことが増えた。
その赤い熟れた感情に比例するように、ベルに対する黒い感情も。
何度も何度も、何度も何度も自分に言い聞かせた。ベルは親友、ベルは親友。イライラしちゃいけない、羨ましいと思っちゃいけない。ベルとの思い出の写真をスマートフォンに表示させ、何度も呪文のように呟いた。
だけどある日、天から降ってきたように気がついてしまう。そんな呪文を唱える時点で、自分たちはもう、友達じゃないんだと。苛立ちを感じる相手と、羨望の対象となった相手とはもう、対等な関係は築けない。
お姫様がなんだ、あの日助けてくれたからなんだ。この世は童話じゃない。この世は少女漫画じゃない。この世は、地獄だ。強いものが勝つ。自分は弱者で終わってやらない。
____あの日、お兄ちゃんに誓ったじゃない。お姫様なんかで終わってやらないって。
しゃらり、とふすまが開いた。明里の肩が跳ねる。
「お疲れ様です。よかったら、甘いものでも食べませんか?」
水之助の手元にあるお盆には、つやつやときらめく深紫色の羊羹があった。こんな状況でも崩れない彼の綺麗な微笑みが、そっと明里の心に安らぎをくれる。
「ありがとうございます」
「いえ。僕にはこんなことしかできませんから。少しでも、三毛門さんのご不安を軽く出来たら嬉しいです」
これ、僕も大好きなんです、と水之助が子供のように笑う。つい明里はスマートフォンを置いていた。自分が一息つかないと、水之助に申し訳ない。
外は少し暖かいですよ、帰りにこの羊羹持っていってください、なんて、水之助はおだやかに話す。無事に帰ることができる前提の話ばかりだ。彼なりの気遣いなのかもしれない。正直、能天気な人だ、と呆れ半分だったが、彼が「貴女なら大丈夫ですよ」と微笑むたびに、本当に大丈夫な気がして、心が温まってきた。
確信に触れない、優しい雑談の中、明里はずっと抱えていた疑問を口にする。
「慈郎田さんは、この村を出ようとは思わなかったんですか?」
彼の羊羹をつつく手が止まる。水之助はわかりやすく固まった。
ベルや冬也のように、この村を出ることは不可能じゃない。たとえここに戻ってきて、骨を埋める運命だとしても。
水之助を困らせてしまうことは分かっていた。でも、聞きたくて仕方がなかった。もしかしたら、自分に彼を重ねていたのかもしれない。種類は違えど、強大な力を持つ者に支配されつづける運命を持つ者同士として。
水之助は明里を真っ直ぐに見つめた。
「滝、行きませんか。今から」
「え? でもしゅうくんが」
「松長さんを待たずとも、心から反省すれば、ここから貴女は出ていけるかもしれない。たとえその後の人生、怯え続けて生きていくとしても、きっと光はあるでしょう。だって三毛門さんは、強い人だから」
水之助が立ち上がり、明里の隣にそっと正座する。
「三毛門さん、先ほどの問いの答えはひとつだけ。僕は出ようと思う思わないじゃなくて、思えないんです、不可能なんです。生まれたときからずっとここに縛り付けられる運命。僕は弱虫だから、ベルのように飛び出していくことができなかった。そもそも、そういう発想すら出てこないし、気力も、勇気も、僕には何もない」
「そんなことない! 慈郎田さんには優しさが、こんな私まで助けてくれる優しさがあるじゃないですか」
「……弱さの証明だ、優しさなんて。それに貴女に優しいのは、下心があるから」
そ、と明里の手に何かが触れた。水之助の手が、明里の手に重ねられていた。
「僕は、貴女が好きだ。ひとりの女性として」
水之助は明里の手を取り、両手でぎゅっと握る。少し前に、明里が彼を励ますとき、そうしたように。
「だから生きていてほしい。僕も付き添います。滝に行ってはくださいませんか。心から反省の意を、示してはくれませんか。これからも生きていてくれませんか、僕の分まで」
彼の目が潤んでいる。懇願。彼の必死といっても過言ではない、寧ろ言葉の通り必ずこの地で死ぬことが決まっている彼の、願い。
「僕の人生最期の思い出に、松長さんではなく、僕の手を取ってくれませんか」
力強い瞳に目が離せない。明里はただ、彼の奥深い眼に囚われた。
生きていてほしい。それが彼の最期の願い。誰かにこんな風に、命をも賭けて願ってもらえることは、これから先の人生そうないだろう。 同時に見捨てられなかった。彼は、水之助の手は震えていた。助けたい、救いたい。彼も犠牲者だ。だから、彼の望みが、自分がこの地を脱して生きることだというのなら。
明里は微笑んで、水之助の手に己の手を添えた。彼の顔がみるみるうちに明るくなる。眩しい。目がくらくらするほどだ。
「ありがとう、ありがとう、三毛門さん……」
水之助の唇が美しい三日月型の弧を描く。それすらも、くらくらして。
くらくら、して。
刹那、ぐわり、と体が歪んだ。視界が回る。身体が重い。手足の正しい位置がわからなくなる。あまりの浮遊感に声が出ない。なんだこれ、なんだ、なんだ、と脳味噌は言っているのに、何も出来ないまま明里は重力に身を任せた。
水之助の手がするりと離れていくことだけを感じながら、明里は完全に意識を手放した。
「さぁ、いきましょう」
水之助の低い声が、倒れた明里に降る。
「地獄へ」
*
凝縮された血の匂いに、ゆっくりと重い瞼が開いた。同時に感じる身体のぎゅうぎゅうとした違和感。腕と胴体、足首がぎゅっと締め付けられているとに気がつく。苦しさの中で己の身体を見る。
「なにこれ、やだ、やだ!」
ぎちぎちと白い糸で締め付けられた身体は、宙吊りにされている。足元の地面には大きな漆塗りの桶があった。何よりも、足首に這いずり回る、大きな蜘蛛が3匹。蜘蛛はしゅるしゅると糸を吐きながら、明里の足首から上にかけてを徐々に、徐々に、糸で包んでいく。このままではいずれ、全身が糸で巻かれてしまうだろう。
ごとん、と低く鈍い音が鳴った。人影が何か桶のようなものを置いた音。人影の正体に気が付き、明里ははっと息を吸った。
「慈郎田さん! ここっ、どこですか!?」
ちっ、と軽い音がした。水之助の顔は心底面倒くさそうで、先ほどの音は彼の舌打ちだった。
「ゴチャゴチャうっせぇなぁ。俺がこの女とお芝居してる間に、ここは保育園になったのか? 3歳児を運んできた覚えは無ぇんだけど」
乱暴を絵に書いたような口調だった。明里は黒目を震わせる。動揺で頭が痛い。この人は、誰だ。
「あんた、誰」
「はは。慈郎田水之助だけど?」
「嘘言わないで! 慈郎田さんはもっと優しい人で」
「昨今の神の眷属は、上手に嘘をつくことも、情熱的な芝居もできないとやっていけなくてな。都合のいい陳腐なラブストーリーはどうだった? 三毛門明里」
「けんぞく、って」
「耳は正常だがオツムは重症だな。ラサ様の部下ってこと。ぶか、わかるか?」
嘲笑う彼は、す、と人差し指で明里の足元を指差す。
「お前の足首にいるそいつ、さっきまで老婆の姿してお前と話してたやつだよ」
老婆。たしかあの、あんたしぬよ、と言った人。足首にいた蜘蛛と明里の視線が合う。
「こんにちは。あんた、しぬよ、言うた。よね? わたしたち、人間の皮、かぶって『ぎたい』する」
「しぬよー、こんにちは」
「しぬよ、しぬよ、きゃははは」
子供のような明るさが、不気味な空気を更に濃くさせる。楽しんでいる、こいつらは。明里の身体を這いながらぴょんぴょん楽しげに跳ねる蜘蛛たちとは対称に、明里の歯がガチガチと震え始めた。
明らかにここは異常だ。薄暗さの中、明里はなんとか目を凝らす。よく見ると、辺りにも白い糸でぐるぐる巻にされた、人の大きさくらいの何かが吊られている。ぽつん、と液体が滴る音もする。
水之助が小さな瓶を手に明里の元へつかつかとやってくる。彼は思い切り瓶の中身を、明里の顔面へぶち撒けた。
「うぶ、なに、なに!?」
「下準備。お前はこれからどろどろに溶けて、我らの栄養になる。ラサ様はグルメでね。人間はそのままでは食わねえからよ」
水之助は大きく両腕を広げた。映画の主役がスポットライトを浴びるかのように。
「知の滝で溶かした! ラサ様が大好きな! とびきり甘い大罪人のジュース! 俺は褒めてもらえる! ラサ様と、ベルに! ふふっ! あははは!」
彼の鼻からつうっと鼻血が一筋垂れる。鮮血と幸悦の笑みのコントラストが狂気的で、明里は眉間に皺を寄せた。
同時に聞き捨てならない言葉が胸に引っかかる。ベル。もしベルがここにいるなら、まだなんとかなるかもしれない。
「ベルに会わせて。お願い、します」
「は?」
「さっき言ってましたよね。ラサ様だけじゃなく、ベルにも褒めてもらえるんでしょ? お願い、今までのこと全部、ぜんぶ、あの子に謝らせ____」
言い終える刹那だった。返ってきたのは言葉ではなく、拳だった。ぶちぶち! と胸ぐらをつかまれ、吊るされていた糸を引きちぎられる。獣のように強い力で床に叩きつけられた。
「うあっ!」
殴る手、蹴り続ける足。どちらも止まらない。
「お前、ごときがっ! ドロゲボ臭ぇ口で! あの尊い方々の! お名前を呼ぶんじゃねぇよクソガキ! 舐めんなボケカス! 一刻も早く死ね! 溶けるだけで死ねるのにっ! 感謝しろ! このまま撲殺してやろうか! あァ!?」
容赦のない暴力に声が出ない。骨が軋む。臓器が痛む。痛い、痛い。誰か。助けを呼びたいのに、口が動かない。
「すいちゃーん、声が井戸の外まで聞こえてんですけど」
「すいちゃんって呼ぶなっつってんだろ芦田!」
暴力が止んだのは、へらりとした場に似合わぬ軽やかな声だった。声の出処に目をやる。やってきたのは、芦田と冬也だった。けれど芦田は硬派な固い元警察官の雰囲気が消え、冬也と肩を組んで、何やら水之助をからかっている。冬也の顔は無表情そのもので、明里のことを一向に見ようとしない。
「あし、だ、さ、とう、や」
なんとか絞り出した声で彼らを呼ぶ。
でも。
「あはは! 有象無象の中では結構綺麗な顔が、また一段と綺麗になっちゃった感じ? ね、とうとう君?」
芦田の瞳孔が開いた、飲み込まれそうな瞳に見下される。水之助同様、彼はおそらく、眷属。
「おっしゃるとおりです。芦田様」
冬也は平坦な声で言った。
「と、冬也、あんた、あんた!」
「お、予想ついちゃった感じ? そうだよ。とうとう君はオレたちの仲間。ラサラサの下僕だもん」
「うそ、うそつき!」
「あはは! 最初からこの舞台に、君の味方なんていなかったよ。お疲れちゃん」
明里がじたじたと暴れても、ただそこには死にかけの魚のように横たわる己がいるだけ。次第に視界が黒く染まっていく。
味方なんていなかった。最初から、誰も____
冬也に何やら合図をして、水之助と芦田は奥の扉へと向かっていく。
「それよりさぁ、すいちゃん。手洗った? 芦田さんは嫌だよ、可愛い可愛いすいちゃんの手が、こんな餌女にベタベタ触られちゃって。ばっちい」
「5回は洗うよ。今からラサ様に謁見するからな」
きい、と扉が閉まる音がする。足首までだった糸の渦はもう、胸まで来ている。再び冬也と3匹の蜘蛛の補助により、明里は吊るされる。もはや抵抗する気力も、意識もない。
薄れる意識の中で、冬也の声が微かに聞こえた。
「_____羨ましいですよ。たかが液体になるだけで、苦しまずに死ねて」
絶望で、心がばきりと折れる音がした。明里はようやく思い知る。ここに救いは無いのだと。
*
指先からどろどろと溶けていく。どれほど時間が経っただろう。もう、身体が形を保てていない。何も見えない。ただそこに思考がある。それだけ。
走馬灯というものを見た。一番頻繁に思い出したのは、ベルとの思い出。まだ仲が良かった頃、一緒にケーキ屋巡りをしてびっくりするほど太ったこととか、修二や冬也も混ざって花火したこととか、夏祭りで浴衣の着付けをベルに教えたこととか。どうしてこうも、平和で手放し難かったことばかり。
____あぁベル、ベル。あたしはあんたが大嫌いよ。世界中の奴らがどんなにあんたを愛しても、大嫌いで仕方がない。あんたはあたしを殺した。あんたはあのときあたしを独りにした。あんたはあのときあたしを助けた。あんたはあのとき、あたしの側にいてくれた。あたしの人生2度目の始まりは、あんただった。あんたのおかげであたしはもう一度生まれた。なのに、なのに。
ぽつり。水滴が落ち続ける。
____ねぇ、どうしてずっと、あたしをお姫様のままにしてくれなかったの? どうしてあたしを一番に愛しつづけてくれなかったの? しゅうくんよりも、王子様に出会うよりも前に、あたしをお姫様にしたのは、してくれたのは。
命の終わりに向かう、最期の一滴が今、零れ落ちる。
_____ねぇベル、また髪を乾かして。あの日みたいに。
続
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