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【小説】ガトーショコラに地獄 (ベル編&エピローグ)

 息絶えた「初恋の人に似てる人」から、ベルはゆらりと離れる。足元の血溜まりがぴちゃりと音を立てた。

 初めての殺人は案外呆気ないもので、こんなものか、と簡単な感想しかない。スナック菓子みたいな感触だ。気づいたら口の中で無くなったように、気づいたら向こうが死んでいた。

「ベルちゃんえらい、頑張った。今度はラサがよしよししてあげる」
「うふふ、ありがとう」

 いつの間にか音もなく側にいたラサに、頭を撫でられる。この神は相変わらず美しく、艷やかで、恐ろしい。以前はよく頭を撫でられる度に首を負傷したので、人形を使って頭を撫でる練習をした。今は力加減を覚えて、撫でられる度に心に花が咲く。

「ラサ様、ベル、ここでサプライズです」
「じゃじゃーん! ケーキ用意しました! 初めての殺人記念!」

 声の出処にラサとベルは視線を向ける。芦田の手には2段のチョコレートケーキが乗った大皿があった。ベルは瞳を目一杯に輝かせる。

「ラサラサとベルベルの大事な思い出、チョコレートのケーキです! この間ベルベルが食べたいって言ってたケーキ屋さんの、ガトーショコラのホールですよー!」
「ほんと!? 芦田さん覚えててくれたの!?」
「えへへ、芦田さんもえらいっしょ?」
「うん! 最高!」

 ベルは「いこ!」とラサと手を繋ぎ、芦田たちの元へと駆け寄る。

「ベル、俺が予約して取りに行ったんだぞ」
「ふふ、水之助お兄ちゃんもありがとう。大好き」
「まーね。俺、お兄ちゃんだし。また買ってきてやってもいいよ」

 水之助が頬を染めて、ふい、と視線を逸らした。初対面でベルは彼に酷く嫌われたが、今は可愛い兄貴分で仕方がない。

 ラサがそっと手を上げ、水之助の頭を撫でる。彼はますます頬を赤くし、鼻血をダラダラと流し始めた。

「よくやった。ラサは機嫌がいい。後で芦田にも水之助にも、褒美をたくさんくれてやる」
「わーい!」
「ありがたき幸せ……!」

 神とその眷属たちは子供のようにはしゃぐ。ベルは口角を上げ、ラサと繋ぐ手の力をきゅっと僅かに強めた。この幸せがずっと続くと、願うように。

 この世に絶望し、ラサに縋り、この屋敷へとやってきてもう何年が経っただろう。最初の頃は何もかもが恐ろしく、いつも泣いていた。水之助にはひどく嫌われ罵詈雑言を浴びせられ、芦田は相談には乗ってくれても、笑うばかりで助けてはくれず、ラサは「早く元の、あの頃のベルちゃんに戻って」と無理やり口の中に、よくわからないミイラやなにかの肉や血を押し込まれる。フリルの天蓋付きベッドに大量のぬいぐるみとお人形。ピンクの絨毯の部屋でいつも、ラサと2人きりでいた。

 でもある日、どくん、と脈打つように目覚めた。本来の自分が。

 何もすることがなくて暇なので、ベルは芦田に頼んで、掃除係をさせてもらうことになった。それがきっかけとなるとは、ベルも誰も、思ってもいなかった。餌たちが吊るされたジュース製造部屋に来たときに、ベルは人間をやめた。美味しそう、と思ったのも束の間、ベルは全ての餌を食い尽くしてしまう。獣も妖怪も人間も、臓物のひとつに至るまで全部食い尽くしてしまったのだ。

 人間をやめてからは、最高の日々だった。水之助には土下座して謝られ、良き兄貴分として、こちらの世界の常識などの様々なことを学んだ。芦田には下僕の蜘蛛たちの操り方を教わった。ラサには、たくさんの愛をもらった。

 なぜ、こんなにも自分に良くしてくれるのか。ある日尋ねたとき、ラサは子供のように笑った。

『もう少ししたら、ラサのことを忘れかけている、村の奴ら全員消そうと思った時だ。ベルちゃんがチョコレートをくれた。たくさんお話してくれた。本当は手紙とかを与えて、油断させて食おうと思っていたのだけれど、ベルちゃんがあまりに優しくて、綺麗な魂だったから。だから、側に置いてずっとラサとお話してほしくなったんだ。だからラサ、人間の姿になる練習も頑張ったんだ』

 ラサが力強く抱擁する。

『こちら側に呼ぶ準備に、たくさん時間がかかってごめんね。ようやく、ようやく一緒になれたね』

 ようやく一緒になれたね。その言葉にベルは、涙を必死に堪えた。だって今まで、誰も一緒にいてくれなかった。自分の存在を望んではくれなかった。ようやく見つけたと思った居場所も、全部ウソだった。

 初めて買ってもらったスマートフォンで、最初に電話したのは、児童相談所だった。高校生の頃、母親の彼氏に襲われそうになったのと、それを原因として母親に馬乗りになって殴られたとき。大雪の夜、田んぼ道の真ん中で、泣きながら電話した。

 そのとき決めたのだ。自分は普通の人間になるんだ、と。

 ____でも。

「ベルちゃん、踊ろう」

 ラサは水之助を撫で終えると、ベルの両手を引いて後ろ向きに歩き出す。ラサは最近、すぐに踊りたがる。見様見真似でワルツを2人で踊るのだ。この前4人で一緒に見た、舞踏会が出てくる海外の映画の影響だろう。

 くるくる、くるくるり。メリーゴーランドみたいに2人は回りだす。ちゃぷちゃぷと、足元に広がった冬也の血溜まりが鳴る。

「おめでとう、ベルちゃん、おめでとう」
「ふふ。もっと言って、ラサちゃん」
「あぁ。何回でも、何百回でも」

 2人は映画のワンシーンを再現するように、優雅にひらひらと踊りだす。水之助と芦田が瞳を見合わせ、微笑んで部屋を去る。2人きりにしてあげよう、と。

 優しい家族、甘いガトーショコラ、豪華絢爛なおうち、可愛いひらひらのお洋服。ベルが子供の頃欲しかったすべてがここにある。普通の人間にはなれなかった。でも、それ以上の存在になれた。この地中の底の、おどろおどろしい天国で。

 ____あぁ私、本当に幸せ!

 血溜まりがぱちゃん! と跳ね、赤い血の粒が空に舞う。

 ベルは浮かれていた。だから気が付かなかった、この場の誰も。その粒に走ってくる男の影が映ったことに。

「うあああああああああぁぁああああああぁああああああぁあぁああああ!!」

 修二が柱の陰から走ってくる。その手には札がおびただしく貼られた日本刀があり、彼自身の全身にも、たくさんの札が貼られていた。彼の剣幕にベルはわずかに怯える。とうに忘れたはずの、人間としての記憶が震えて、動けない。この人を、松長修二の名を思い出して、頭が痛い。

「ベルちゃん!! 離れて!!」

 ラサがベルを突き飛ばしたのも束の間、ラサは背中から刀で貫かれた。ラサが振り返り、拳を振り上げる。けれど修二は怯まない。修二の瞳も充血で真っ赤に染まっていた。冬也がベルに殺される瞬間を影で目にした彼には、もはや恐れすらない。ただ己の命を削り、ラサに立ち向かう。

 修二がラサに首を絞められる。初めて会ったときのように。だが修二は首の骨をビキビキ! と軋ませながら、何かの紙の塊を、ラサの口の中にねじ込ませた。そのまま口元を拳で突かれ、ラサは咳き込む。

「やめて!」

 ベルの悲鳴で、2人の動きが止まる。ラサはその場に崩れ落ちた。

「ベル! 会いたかった!」
「ラサちゃん!! いや!!」

 立ち上がりながら明るい声を上げる修二を素通りし、ベルはラサに駆け寄る。ラサは顔を真っ青にし、己の首を手で押さえていた。

「こ、こいつ、こいつ! 貴様! ラサ、に、何を、食わせっ」

 ラサの顔が絶望に染まり、身体が足からだらだらと、溶けて崩れ落ちていく。彼女の高い背がどんどんと縮んで、床に彼女だったものが広がり続けていく。

 ベルの悲鳴を聞いた芦田と水之助が走って戻ってきて、すぐに瞳の色を変えた。

「水之助! ヤツを殺すぞ!」
「わかってるよ! おいてめぇゴミカスゴラァ!」

 修二は2人に取り押さえられる。が、3人まとめて黒く重い泥に押し流された。黒い泥はラサの身体だったものがあったところから湧いている。流された芦田が顔の泥を腕で拭った。

「ちくしょう。久々に見たな、ラサラサのこの姿」

 やがて泥の中から、巨大な蜘蛛が現れた。1階建ての家くらいの高さがある、真っ黒な蜘蛛。ところどころに人の首がぶら下げられ、手や足が寄木細工のように身体を彩っている。

「ラサ、ちゃん?」
「あ、ぁあ、ぁあああぁ」

 ラサがか細い、戸惑いの声を上げる。こんな弱々しいかの神を見るのは、ベルは初めてだった。同時に、声の出処は、巨大な蜘蛛の足元に転がっていた、ラサの人間体の生首からだった。

 生首がぽろぽろと、涙を流す。

「あぁああああ、やだ、やだ! この姿ベルちゃんに見られないようにしてたのに!! うわああぁああん! うわあぁあぁあん!」

 静かな部屋に、ラサの泣き声が響く。異様なほどの怯え方だ。

「嫌いにならないで、嫌いにならないでっ」

 涙も鼻水も拭うことができず、ラサは子供のように泣きじゃくる。水之助も、芦田も、修二も、ただ静かに、生首の神が泣き続ける光景を見ることしか出来ない。泥が重すぎて、体が動けないのだ。重くのしかかる泥の中で、修二は静かに絶望した。先ほどは油断していたから、御札を食わせることが出来た。でも、でも。こんな巨大な化け物、首だけになっても流暢に喋り続ける化け物を、殺せるはずがないじゃないか、と。

 その中で、泥をかき分け、進む姿がひとつだけあった。

 ベルはじゃくじゃくと泥を進み、ラサの元へと辿り着く。ラサの生首を拾って、己の胸の中に抱きしめた。

「大丈夫、よしよし。怖かったね。大好きな人に嫌われるかもって、怖いよね」

 子供をあやす母親のような声色だった。ラサはますます涙を流し、ベルを見上げる。

「ベルちゃ、ラサ、完璧な存在だよね? ベルちゃんはラサを捨てないよね? ラサのお母様みたいに、ラサを井戸に突き落としたりしないよね?」
「捨てないよ。ラサちゃんが私を見捨てなかったように」

 ベルはラサの黒い髪をそっと、優しく撫でた。

「ラサちゃん、前に私に言ったでしょ? 『ベルちゃんのお父さんにもお母さんにもお兄ちゃんにもお姉ちゃんにも、夫にも妻にもなれるし、なりたい』って。すごく嬉しかった。だから、私も。ラサちゃんが何者でも、どんな姿だっていいの」

 ベルはラサの首を軽く持ち上げ、視線を合わせた。互いの視線がしっかりと合う。2人は見つめ合う。恋人のように。

「ラサちゃんとベルはずうっと離れない。未来永劫一緒だからね」

 微笑みとともに、ベルはラサの唇に口づけた。2人の唇が長く触れ合う。互いの存在を、温度を確かめるように。

 泥の波が部屋の中心に、2人の元へと収束する。ぐるぐると黒い渦が廻っていく。今度は巨大な蜘蛛の身体がどろりと溶けて、やがて泥は人の身体を作っていった。ラサの首がベルの手から離れ、泥でできた身体にするりとくっついて収まる。ラサは元通り、人の身体へと擬態した。

 ラサとベルは見つめ合い、額をくっつけ合う。もう2人を遮るものはなにもない。2人を隔てるものはなにもない。ラサとベルの関係はもう、誰にも邪魔できない。

「ふ、ふざけるなふざけるな! 認めない! ベルを離せ! 解放しろ!」

 完全に2人の世界になった空間を、怒号が裂いた。修二の声だった。

「ベル、こいつはベルが不幸になるよう仕向けてたんだ! 俺の先輩の会社や、大学やお前のバイト先に、下僕を仕向けて監視してた! 罪のない人を殺して人の皮を被って! 監視してたんだ!」

 つかつかと恐れなく、怒りのまま修二は2人の世界に歩みを進める。

「お前が襲われそうになったあの日も監視して、祠に縋るよう呼び寄せたんだ! なぁ! それでも、それでもこんな化け物の手を取るのかよ!?」

 ラサもベルも顔色ひとつ変えない。ベルも今度は怯えることなく、冷ややかな瞳で修二を見つめる。修二は息を詰まらせた。彼女のこんな瞳を見たくてここまで来たわけじゃない。ベルは、彼女は_____

「俺が一生幸せにするから、俺だけのベルでいてくれよ!!」

 修二は瞳に涙を浮かべ、叫んだ。

 だが帰ってきたのは、場に似合わぬ朗らかな声と、綺麗につくられた微笑みだった。

「全部知ってるよ? ラサちゃんがずっと私を見ててくれたこと」
「……へ?」
「おかしいと思わない? 私がラサちゃんに縋ったあの日、違法ドラッグを吸った状態のただの人間の女が、ホテルのドアを蹴破ることができるなんてさ。あれだってラサちゃんが力をくれたんだよ? 馬鹿でもわかるでしょ?」

 ベルはこつん、こつん、と修二に歩み寄る。

「ラサちゃんは私を守ってくれたの。私がこの哀しい人生に絶望して死なないように、側でずっと。それなのに」

 ベルは修二の胸ぐらを掴んだ。彼女の異様な覇気に、修二は呼吸の仕方を忘れる。追い詰められていく。助けたかったはずの、人間として幸せになってほしかったはずの、彼女に。

「側にいたくせに何もしてくれなかったお前が、ごちゃごちゃごちゃごちゃうるさいんだよ。今さら何をほざいている? 私のチョコレート、捨てたままにしたくせに」

 ベルは大きく拳を振りかぶった。彼女の表情にはもう、修二が救われたあの日の面影はなかった。


 夏の無人駅、ホームの奥には海がきらきらと輝いている。男が2人、改札近くの自販機前に立っていた。ひとりはスマートフォンで電話をかけ、もうひとりは燦々と照らす灼熱の太陽に、うめき声を上げている。

「もしもし、ベル? あぁ、暑い。……うん、そうか。……あぁ、大丈夫だよ。……うん。餌が足りなくなったら俺にすぐ言えよ? あぁ、うん。……ありがと」
「ベルベル、お土産に甘いのたくさん買って帰るからね!」
「おい叫ぶなアホ! ……え? あぁ、うん。……はは、しょっぱいのも買って帰るから大丈夫だよ。うん。じゃあな」

 スマートフォンの通話終了ボタンを押す。水之助は「耳が馬鹿になるわボケ」と芦田の頭を叩いた。

「で、なんだって?」
「甘いのだけじゃなくしょっぱいのも食べたいって」
「いやそっちじゃなくて。ラサラサは大丈夫そ?」
「あぁ。最近もよかったけど、今日は特に調子がいいそうだ。完全回復といってもいいかもだとよ」
「よっしゃ」

 ぐぐ、と芦田は大きく背伸びをする。 

 3月、松長修二に札を食わされたラサは、体調を崩してしまった。小親村にかけていた、ラサによる暗示も解けてしまい、小親村は一晩のうちに植物は枯れ、建物は風化した。完全なる死の地となってしまったのだ。今は観光地は観光地でも、呪いのスポットとして有名になった。もの好きが来てはラサたちの餌になり、失踪している。

「まったくさー、あの松長修二の野郎の所為で、俺たちは大忙しだからね。ラサラサも完全回復まで長かったし」
「ラサ様が回復なされば、俺たちも次の拠点地を開拓できる。下僕の蜘蛛たちも膨大な数になってきたし、早いとこ新しい、第二の小親村を作らないとな」

 水之助と芦田は駅を出て、真っ直ぐ進む。

「さてと、早いとこ餌を狩りにいきますか!」

 とある駅前のケーキ屋。茶色いフローリングにオレンジ色の壁紙が可愛らしい店内。女性の店員2人がこそこそと、噂話に花を咲かす。

「てか見ました? 三毛門明里のインスタ! 今度はあの村とお菓子事業やるって!」
「なんであの曰く付きの村ばっかり贔屓すんの? あの社長。うちのケーキも買えっての。まだ無名のときによく来てたんだから」
「それですよね。てか、なんか印象変わった気がします、三毛門明里。前までは鼻につく感じだったけど、今はミステリアスっていうかなんつーか、別人みたいじゃないですか? もしかして、誰かが成り代わってたりして」
「ちょっ! 怖い話やめてよ!」

 おばけの真似をする後輩店員の背を、先輩店員が軽く叩く。その馬鹿みたいな噂話が割と的を得ていることを、彼女たちは知る由もない。今の三毛門明里はラサの下僕である蜘蛛が皮を被っていることは、一部の者しか知らない事実だ。

 薄いレースのカーテンの向こう、外の駐車場から、女性が歩いてくる。駐車場近くの街の掲示板には、『行方不明 探しています 名前:山破冬也____』との張り紙が、初夏の風に揺れていた。

「あ、ねぇ来たよ。お姉さん」
「ほんとだ。相変わらず綺麗」

 カランカラン、と軽やかな音を立てて、女性が入店する。

「いらっしゃいませ!」
「お姉さんこんにちは。今日もガトーショコラとっておきましたよ」

 こつん、こつん、と彼女のヒールが鳴る。

「こんにちは。いつもありがとうございます。今日は暑いですね」

 白い帽子を脱ぎながら、ベルは柔らかく微笑んだ。

 真っ暗な夏の部屋、扇風機と蝉の音だけが響いている。母はパートに行っていて、祖父は去年亡くなり、祖母は今老人ホームにいる。だからこの家の昼間はいつも、修二ひとりしかいない。

 ピロン、と通知音が鳴った。修二はもぞもぞとベッドから出て、充電したままのスマートフォンの画面に触れる。

『新城:しゅーじ元気?』
『新城:今日、営業の佐藤さんに久々に会った。しゅーじが心配だって。体調良くなったら、飲みに行こうってさ!』
『新城:俺も早くしゅーじと飲みいきたい! 今度面談したいから、ビデオ電話する』
『新城:あと給与関係の書類、前に郵送したんだけど届いてる?』

 相変わらずいい人だと思うと同時に、申し訳なさが胸の奥から迫り上がる。体調不良で休職している修二には、唯一の話し相手だ。それでも彼には、この茨城の実家に戻ってまで、身体を休めている理由は言えない。どうしても。

 眠い身体を叩いてなんとか起き上がり、リビングに行く。給与関係の書類は来ているだろうか。

 リビングのテーブルには今日の新聞と、給与関係の書類が置いてあった。書類を手に取る。新聞との間になにか挟まっていたようで、ひらりとそれが床に落ちた。

 しゃがんで拾ったそれ、暑中見舞いの絵葉書を見て、修二は目の幅を大きくする。

『松長修二様

 暑中見舞い申し上げます

 集金日および今月の集血当番になりました

 お早めに村まで来てください

 小親村役場 保健福祉課』

 真っ白なハガキに記された明朝体の文字に、心に絵の具が落ちたかのように、躍動的に色づく。修二はハガキを持ったまま駆け出した。

 修二はあの3月の日、ラサに札を食わせたあの日、当然殺されるはずだった。が、ベルに殴られる寸前にラサの体調が不安定になり、屋敷の一部の神力が弱まって、餌の保管部屋が崩れてしまった。

『じゃあこいつ、さっき死んだあの男の子の代わりにしようか?』

 ベルの提案に水之助も芦田も反対したが、どんどん屋敷が崩れてきて、とりあえずその場は修二を生かすことになったのだ。

 修二は餌集め係兼、信者集め係になった。人を殺すだけでなく、小親村を宣伝し、新たな餌集め係や金集め係も務める。だが、新城の会社を体調不良で休んでいるのは、仮病ではない。本当に体調が悪いからだ。仕事が手につかない。仕事をしていると、禁断症状のようにベルやラサのことを、あの日の2人のキスを思い出してしまって、はらはら涙が出てくる。最初は辞めますと辞表を出したのだが、新城が温情で「休職にしよう。お前にはいつでも戻ってきてほしい」と言ってくれた。小親村については、趣味でオカルトのネットサークルを運営している、と新城には伝えている。

 修二は完全に、ベルとラサに心を壊され、同時に心酔してしまった。心が2人の魅力にどっぷり浸かって、普通の生活にはもう戻れなくなってしまった。ベルに殺されかけたときのあの快感が、脳を焦がし続けている。

 階段を駆け下り、家を飛び出す。

「は、ははは、ははははっ!」

 笑い声が漏れる。通行人の訝しげな視線も気にならない。スキップして道路を進む。上下する夏の晴天があまりに美しくて、修二は深く息を吸った。

「今日はなんて良い日だ! あの御方たちに会える、会える! ありがとうございます! ありがとうございます! あははははっ!」

 蜘蛛の糸で傀儡は踊る。嬉しく楽しく奇っ怪に、狂ったままに果てるまで。

 鼻歌とともに、ベルは屋敷の廊下を歩く。手にはケーキの入った箱と、フォークの乗った皿が2枚。

 ところどころ廊下の壁や床にひび割れがあるのは、ラサの力が不安定な所為だ。だが元の美しい屋敷の姿を取り戻しつつあり、ほとんどが再生済みだ。水之助と芦田が新たな小親村候補を探しに行ってくれている間、屋敷の管理はベルが担当していた。2人が帰ってきたら、広々とした新しい餌の管理部屋を見せてあげたい。ベルはふふ、と想像笑いをこぼした。

 ラサとベル、2人の共用の寝室のドアを開ける。

「ただいま! ご飯食べてる?」
「食べた」

 たくさんのぬいぐるみと人形が置かれた赤い戸棚。ピンク色の絨毯とドレッサーに、天井からぶら下がるシャンデリア。幼い女の子の夢みたいな部屋の床には、ぐちゃぐちゃになった死体が3つ転がっている。

「あ、また心臓残してる。だめだよ、好き嫌いせずに食べましょうね」
「ベルちゃんが心臓好きだからとっといた」

 確かにベルは心臓の食感が好きだった。ベルはくすり、と眉を下げて微笑む。こういう軽口を叩けるほどに回復したことが、ささやかに嬉しくて。

「あともう少しでドリンクバー兼ATMが来るから、その間にご褒美のガトーショコラ、食べちゃおっか」
「ラサはアイツ……松長修二のこと、嫌いだ」
「まぁね。でも、今は蜘蛛のみんなのご飯も集めなきゃいけないし、信者はいくつあってもいいから。それに似たようなのはいくつもいるもん、今回はたまたま、松長修二の番だっただけだよ」

 ラサは唇を折って一文字に結んだ。納得していないときの顔だった。ベルはベッドの端に腰掛ける。さらり、とラサの黒い髪を撫でた。

「そんな顔しないで。完全回復が近い記念に今日はなんと! ケーキがひとり2個です!」
「ベルちゃん大好き」

 ラサの瞳が息を吹き返したように、らんらんと輝き始める。ベルは「はいはい」と上機嫌に準備を始めた。

「ケーキ、ケーキ」
「ふふ、ちょっと待ってね」

 ラサが小声で歌い始める。

 くっきー、あめだま、かすてらさん、もふもふしふぉんに、ちょこれーと

 きってならべてたべましょか とろとろじゅーすものみましょか

 それはラサとベルが作った、わらべ歌だった。今年の2月くらい、ベルの葬式をする少し前に、2人でベッドで寝そべりながら作った歌。いつか2人の間に子供ができたら、聞かせてあげようね、なんて笑いながら。

 ラサとベルはひとつ、隠しごとをしている。今、ベルの身体の中にいる、もうひとつの生命のことを。ラサとベルの愛の結晶を。水之助と芦田の反応を楽しみに、2人は甘美な日々を享受する。

 血の香りが穏やかに漂う、死体の海の中。ベルはガトーショコラの刺さったフォークを差し出す。

「はい、ラサちゃん。あーん」
「あーん」

 地獄のような光景の中でもガトーショコラは甘く、互いさえいればどこだって天国になる。これを幸せと呼ばず、なんと呼ぼう。

 ____あぁ、生まれてきてよかった。



ガトーショコラに地獄

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くいん 生活費の足しにさせてつかあさい!!!切実に!!!