【小説】ガトーショコラに地獄 明里編①
※母親からの身体的、心理的虐待描写があります。
※SNSでの誹謗中傷の描写があります。
※男性が無理やり女性の体を触る描写があります。
「____あぁぁあぁぁ」
遠くから叫び声が微かに聞こえ、すぐに雨音に掻き消された。修二の声だとすぐにわかった。
明里は旅館の廊下で座り込む。もう、足に力が入らない。
「あぁ、ごめんなさっ、ごめんなさい、しゅうくん、しゅうっ、しゅうくん……!」
顔を手で覆い、涙を流す。神様、どうしてこんなことをするのでしょうか。どうしてこんなにひどいことを、平気でできるのですか。答えのわかりきった問いが自分に返ってくる。わかっている。全て、自分が招いた。自分の所為だと。
修二の整った横顔が脳裏に浮かぶ。さらさらの髪、雪景色のように白い肌、高い鼻、優しい声、優しく笑いかけてくれた、己を救ってくれた、遠い青い春の、あの日。思い出しても手は届かない。修二は、彼は。
_____彼はあたしの、王子様だったのに!
2章 三毛門明里
三毛門明里は正しい人間だった。常に向上心を持ち、最善の行動を取り、己に自信を持つ。誰もが羨み、たまに妬む。そんな輝かしい人間だった。
外資系コンサルタントとして、界隈では有名な母、専業主夫の父、兄。4人家族の中で明里はお姫様。女王である母の、可愛い可愛いお気に入り。ぴかぴかの白くて四角い大きな家で、家族で暮らしていた。
母の口癖は「海外では」。海外では常識、海外では当たり前、海外では人気。母の言うことは全て正しく、その言葉通りに生きる明里も正しかった。
もうひとつの口癖は「お兄ちゃんと違って」。例えば幼稚園生のとき。オレンジジュースを零しても泣かずに「布巾とってきます」とキッチンに走った明里を見て、母は大層上機嫌になった。「お兄ちゃんはこのぐらいの頃、泣くだけだったのに、お兄ちゃんと違って強い子ね」。小学生の頃は「お兄ちゃんと違って成績も毎回1番ね」。それからいつもの、「お兄ちゃんと違って綺麗な顔立ちで嬉しいわ」。
明里は正しい人間だった。でも、母のこういう兄とすぐに比較するところは嫌いだった。幼い頃は誇らしかったけれど、年齢を重ねるに連れ、少なくともそれは兄の前で言うべきではないだろう、と思うようになっていく。
食卓ではいつも、母による父や兄への説教や嫌味ばかり。どんなに高い料理も、どんなに体に良い食材も、心無い言葉で腐っていくような気がした。兄が顔色ひとつ変えないことが、余計に明里を申し訳ない気持ちでいっぱいにさせた。
母への不信感を抱いたのはいつからだろう。記憶の中を探ると一番最初に出てくるのは、ぬいぐるみや絵本、少女漫画を捨てられたとき。
「海外ではね、こういうのは子供のものなの。ようち、って言葉知ってる? 幼稚園の、ようち。明里ちゃんはもう小学4年生で、10歳よね? 子供っぽいのって、恥ずかしいよね?」
そのとき、なんと答えたか覚えていない。もしかしたらあまりに思い出したくなくて、記憶からグチャグチャにかき消したのかもしれない。
明里は次第に、この家は苦しい、と思うようになる。母の言うことは正しい。正しいときが多い。母の言う通りに生きれば、友達もたくさんできたし、学校でいつも表彰状をもらえた。でもたまに、大きく間違っている。身体が引き裂かれるくらいに人を辛くさせる、間違いの意見を高々と吹聴しているのだ。
この家は息苦しかった。女王様にこき使われる白雪姫って、こんな気分なのかな、なんて思うほど。
けれど白雪姫をサポートしてくれる、狩人がいた。兄だ。
大好きなぬいぐるみのチョコくんも、絵本たちも少女漫画たちも捨てられた、あのとき。呆然とソファに座っていた明里の手を、当時中学3年生だった兄が優しく引いて、兄の部屋に案内してくれた。息を呑んだ。そこには、捨てられたはずのチョコくんが、ベッドに座っていた。
「なんで?」
「あーちゃん、この子大事なんだろ? 昔よく、この子とお兄ちゃんと、お店屋さんごっこ一緒にやったもんね。お兄ちゃんが隠しとくから、会いたくなったらこの部屋においで」
「……うん」
「本はごめん、助けられなかった。お兄ちゃん来年から高校生だし、バイトして新しいの買うから、それで我慢してね」
その日、明里は生まれて初めて、兄に抱きついて泣いた。話すことさえ久々だったのに、こうやって助けてくれたことが、嬉しくて嬉しくて。いつも比較され、馬鹿にされてきた兄には嫌われていると思っていたから、嫌われてないんだと安堵したことさえも嬉しかった。
その後も、兄への言葉の暴力は続いた。でもあのチョコくん事件から、明里と兄の関係はとても良好なものになった。兄が食卓で嫌味を言われた日は、食事の時間が終わったらすぐに、兄の部屋で一緒にゲームをしたり、漫画を読んだり、おしゃべりをした。家にいる中で一番好きな時間だった。
「俺のことは絶対に庇わなくていいからね」
それが兄の口癖。言う度に、悲しそうな目をしていた。
兄がもうすぐ大学1年生、明里がもうすぐ中学2年生のとき、兄は勘当された。大喧嘩の末の勘当で、あっという間のことだった。明里がバスケ部の合宿から帰ってきたとき、兄はもういなかった。代わりに、明里の部屋に手紙が残されていた。恐らくドアと床の隙間から入れたであろう、明里の好きなキャラクターの便箋が。
【あーちゃんへ
いままでお兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとう。
お兄ちゃんはお母さんに逆らったので、もうここには戻ってこられません。お別れを言えなくてごめんね。
あーちゃんは、強い子です。どうかお兄ちゃんみたいには、おれみたいにはならないでね。人の獲物になるような、弱くて情けない、おれみたいな人間には、どうか、ならないでね。
あーちゃんの明るくて堂々として、いつもなんでも一番なところ、お兄ちゃんも大好きでした。でもそうじゃないところも、お兄ちゃんは大好きだからね。無理しないでね。
ありがとう
ばいばい】
急いで書きなぐったような文字だった。ところどころ、震えたり小さくなったり、不安定な文字が、明里の心を突き動かす。
部屋を飛び出して、サンダルで家をも飛び出した。合宿のことを話したかった。今度出るゲームは絶対発売日に買って、一緒にやろうと約束したはずだった。兄が買い直してくれた少女漫画の続編が出ることを話したかった。
どんなに暗闇を進んでも兄はいないとわかっている。なのに明里は足を止められなかった。赤信号の交差点で、立ち尽くすまで。
家に帰ると母が、兄の部屋で物を処分していた。黄緑色のごみ袋に詰められていく中に、チョコくんもいた。取り戻そうと足を踏み出したとき、母が振り向く。
「あぁ見て、明里ちゃん。あの男はね、明里ちゃんのために捨てたもの全部この部屋に取っといてたの。ほんっと気味悪い。漫画やゲームだらけ、ほんっと、気色悪い部屋。こっちに来ちゃだめよ、病気になっちゃうから」
母の怒りで血走った目。言わなきゃ、言わなきゃ、チョコくんを返せと。このクソアマに、気色悪いのはお前の方だと、言わなきゃ。
母が明里を抱きしめて、耳元で囁く。
「明里ちゃんは失敗しないで。お兄ちゃんみたいに、人間を失敗しないで。ね?」
なのに、恐怖で固まって、口が動かなかった。母に歯向かいたい癖に、いざとなったらその勇気が出ない。今の自分は、母の言う通りにするだけの、ただの弱い弱いおもちゃ。臆病で弱虫な自分に反吐が出た。守られてばかりで、結局、大切な人を守れなかったくせに。
____あたしはお姫様なんかじゃない、お姫様なんかで終わってやらない。強くて気高い女王様になって、この馬鹿げた母の国を乗っ取ってやる。
明里はその日から、自分はもっと強くなると覚悟した。正しくなくとも、母の言葉通りの人間じゃなくとも、地位、名誉、財力を持つ、強者になってやる。でも今は、何も力がない。母の扶養の下でしか生きていけない無力な人間だから、今だけは母をおだてて、利用する。そして自分が成人したら、己の全てをもって、あの女から何もかも奪い取ってやる。そう決めた。
兄が大好きだと言ってくれた、明るくて堂々としてなんでも一番の、三毛門明里。三毛門明里はそんな強い人間でなければならない。兄が最後にくれた、この狂った家で生きていくための、希望。
明里は大学生になって、家を出た。大学生活も完璧にして、良い企業に就職して、死ぬほど金を稼いで。あらゆる力であの女の心臓を、原型がなくなるほどに刺してやる。
そう決めていたのだが、大きな誤算があった。高校卒業後の春休みの間に、インスタグラムのアカウントが炎上したのだ。炎上のきっかけ自体は、明里に関係のないこと。明里が好きなファッションブランドの広告で、女性軽視とも取れる表現があったのだ。といっても、世論は真っ二つで、不適切だ、と声を荒げる人もいれば、どう見ても不適切じゃないだろ、と反論する人もいた。明里は後者だった。だから、高校生の頃バイト代を貯めて買ったネックレスを付けて、自撮りの写真をアップした。「これからも大好きだよ」と、応援の言葉を添えて。
【援交? 高校卒業したての子がつけるもんじゃないでしょ】
【股開いて買ったネックレス自慢すんな】
【自称かわいい(笑)の金持ちアピきっついです】
喉の奥が痛くなった。インスタグラムのコメント欄とは思えないほど、品がない言葉で埋め尽くされている。どうやらツイッターやまとめサイトにまで、写真が流れていったようだった。コメント欄は明里と同じ、女性からの中傷が多かったことが、不快な気分を助長させる。女性軽視なのはどっちだよ、自分と違う意見のヤツは、同じ女だろうと半殺しにしていいのかよ。心のなかで悪態をついても、誰も助けてはくれなかった。
【この子、高校でも威張り散らしててマジで嫌いだった】
【やっぱブスが調子乗るとこうなるよね。誰とは言わないけど笑】
友達、正確には「元」友達どもはこぞって、明里を売った。もう、どうでもよくなった。このとき明里は悟る。友達なんて概念、この世には存在しないんだ。友達とは、自分を気持ちよくさせてくれる都合のいい存在の言い換えだ。都合が悪くなればもう、いらないもの。
己に有用かどうか、己を崇め讃えてくれるか、己を裏切らないか。この3点を基準に、大学では最小限に人と付き合おう。この件以降、固くそう誓った。
その基準に達した記念すべき一人目が、小山べるだった。
「あの、ペン、余ってたりします……? 貸してください! すみません!」
入学式にペンケースを持ってこない馬鹿がいるか、と呆れた。もちろん顔に出すヘマはしない明里は、にっこりと笑って、予備のボールペンたちを貸す。彼女は「ありがとう!」と子供のように笑った。メイクもしてないし髪も染めてない、地味な女。けれど、カヤネズミみたいに素朴な可愛さがあるように見えた。
高校時代とは正反対に、明里はその後2週間、孤独だった。インスタグラムで炎上した子、のレッテルはなかなか剥がせない。適当なサークルに体験で入っても、噂がすぐに広まり、わざと孤立させられる。飲み会に呼ばれたものの、3時間酒をちびちび飲むだけで、誰とも会話せず終わったのはさすがにしんどかった。
「三毛門さん、よかったら、これ」
4月下旬、食堂の一番隅の席。久々に同じ大学の女子、小山べると、まともに会話をした。彼女はコンビニで150円くらいで売っている、袋菓子を差し出した。
「なにこれ、チョコ?」
「ペンのお礼まだしてなかったでしょ? このコンビニのやつ、美味しいんだよ」
「小山さん、ほんと見た目通りの真面目っ子だね」
地味なだけある、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。余計な発言をしないようにしなくちゃ、と自制心が働いた。昔からの、思ったことをすぐ口に出す悪癖。控えなくては。この大学内で自分の地位は底辺だ。隙を見せてはいけない。
「ありがとね。そういえば小山さんって、下の名前はなんていうの?」
「べるだよ。ひらがなで、べる」
「うっそ可愛い! ね、ベルって呼んでいい? てかLINE交換しよーよ」
予想通りベルは押しに弱かった。明里は内心、ほくそ笑んだ。今はなんでもいいから、女友達という手札が自分に必要だ。ベルは利用価値がある。己に逆らわない、害のない手札は有用だし、容姿も磨けば最低レベルくらいには光る、歪な原石だ。いいものを拾った。
ベルと行動を共にするようになった明里に、周囲もほんの僅かに警戒心を解いたのだろう。2人と同じ、フランス語の講義を受講している人たちに、食事会に誘われた。明里もベルも成績が優秀だったから、今のうちに仲良くなっておこうという魂胆が透けて見えたし、明里が果たして噂通りの人間なのか、値踏みをする食事会なのだろう、とも察した。
飲み会当日、予想外のゴミがいた。2浪で大学に入った年上の男に、明里は大層気に入られてしまった。 食事会という名目だが、この男は成人済みでもう酒が飲める歳だった。それだけでも厄介なのに、男は泥酔して、実家が有名な土建会社であることや、周りの奴らが以下に自分より劣っているかを煌々と語りだす。他の人達は見ないふり、聞こえないふりをして、誰も会話に割り込もうとはしない。
ベルの周りには女子が2人。ベルと目が合う。でも彼女はすぐに話しかけられて、視線が逸れる。
____結局こうなるよね、あたし。
誰も助けてくれない。こうなることが始めから決まっていたと、この面倒な男に捧げる生贄要員でこの会に呼ばれたんだと、今更悟る。
適当に相槌を頷くと、指の先からどんどん感覚がなくなっていった。生命力が爪の間から抜け落ちて、ただ声に頷くだけのおもちゃになっていく。でも耐えなくてはならない。どんなに性格が塵芥でも、実家が太いだけでも価値はある。
「ね、あーちゃん」
刹那、心の糸が張り詰めた。男の声に、思わず眉間に皺が寄る。その呼び方だけは心底嫌だった。中学、高校と「あーちゃん」とだけは誰にも呼ばせなかった。だってその呼び名は、お兄ちゃんの、お兄ちゃんだけのもの。「その呼び方だけはちょっと」と苦笑いしても、男は馬鹿の一つ覚えのように「あーちゃん」と舌足らずな声で呼ぶ。脳味噌の出来が畜生以下なのか、と鈍い怒りが煮えたぎる。
男が明里の髪を撫で、肩を抱き寄せる。身体を自然に逸らそうとしても、動けない。酔っ払っている所為か、この男の頭の問題か、常識的にはありえない馴れ馴れしさ、力強さで、距離が近づく。
____クソ虫が。
自分をいくら宥めてもだめだった。この世で兄にしか許さない呼び名を使われたこと、触れられたこと。どちらもが逆鱗を撫で回した。もうどうでもいい。大学での己の地位とか知るか。もう全部捨ててやる。この気持ち悪い存在を黙らせてから、テーブルをひっくり返して出てってやる。
明里は男の喉仏めがけ、勢いよく手を伸ばす。がしり、と固い首の感触が伝わる。
だがもうひとつ、そっと小さな手が男の反対方向から伸びた。小さいが力強い手が、明里を男から引き剥がす。
「明里ちゃんもしかして、お酒の香りで酔った? 私はこっちだよ?」
不自然な声、不自然な笑顔。ベルは明里を抱き寄せる。 明里は呆気にとられ、口を開けたまま固まった。香りで酔うほど明里は酒に弱くなかったし、今もシラフだ。
「すみません、明里ちゃんってお酒の匂いだけで酔っちゃうことがあって。しかも酔うと、スキンシップが激しくなっちゃうんです。可愛いでしょ?」
「え? 何おまえ?」
「先輩のお話、勉強になりました」
「は? 別に俺、お前の意見とか聞いてないけど」
「そうですか」
ベルが明里の肩を抱いて立ち上がる。彼女はつかつかと、全てを薙ぎ払う真っ直ぐな背筋で歩く。
「おい! 逃げてんじゃねえよブス!」
「お誘いありがとうございました。失礼いたします」
荷物を受け取り、ベルは明里の手を引いて店を出ていった。背中に男の、ゴミを投げ続けるような罵声を浴びながら、振り返ることなく。
明里の冷たかった心に、熱が戻っていく。手が熱い。頬も熱い。ベルの小さな手の温度に、目頭も熱くなる。ほんとはずっと、連れ出してほしかった。この下らない空間から、助けてほしかった。
手を繋いだまま、夜の街を歩いていく。
「……馬鹿でしよ、あんた」
「ごめん」
「今の先輩、結構やばい知り合い多いみたいよ? あんなんでも一応」
「こんな地味子、相手にする方が恥ずかしいよ。それにいざとなったら警察呼ぶから。何度か通報したことあるんだよ? これでも」
今のベルの声は1本の芯がある。いつもの大人しいおどおどした面影はない。
「怒るんだ。ベルって」
「頭にくると、つい勢いで行動しちゃうんだ。悪い癖なんだよね」
ベルは自虐的に笑う。
「私のお母さんの彼氏もね、私に無理やりお酒飲ませて、身体触ってきたことがあったの。だからさっきの人のも、つい。頭にきちゃった」
「ベルの母親は何してたの。その、触られたとき」
「家に帰ってくるなり、たくさん私のこと殴ったよ。お前が色仕掛けしたんだろ、淫乱女って」
「……そう」
明里の住むアパートまで送る、とベルは隣を歩く。お互い打ち合わせしたわけでもなく、2人はずっと、手を繋いでいた。
部屋のドア前で、明里はベルの手を無理やり引いて、部屋に案内した。
「泊まってって」
「でも、ほんと悪いよ」
「こんな夜遅いのに? あんたに何かあったらあたしが嫌なの。シャワー浴びてくる。髪乾かし係としてソファにいて。絶対」
「えぇ……」
正直髪を洗うのも心底面倒だった。けれど、あの男に汚い手で触られたのを洗い流したかったし、誰でもいいから側にいてほしくて、ベルを引き止める理由が欲しかった。こんな強引な理由でも、ここにいてくれるベルはやっぱり、真面目だなとも思った。
シャワーを浴び終わった明里の髪を、ドライヤーとベルの手が撫でる。本当は髪を乾かして、という言葉も冗談だったのに、ベルは律儀に乾かしてくれた。
髪が乾かし終わり、かちり、とドライヤーのスイッチを切る音がしたとき、明里は小さく笑みを零した。
「雑ね、意外と」
「そ、そうかな? 誰かの髪の毛乾かすの、初めてなんだもん」
「……あたしも、乾かしてもらうの初めてだった」
髪に残る温かさが心地良い。明里は何故か、兄の顔を思い出した。
明里はベルに向き直り、深々と頭を下げる。
「ありがとう。その、ごめんね、いろいろと。ベルがいなかったらあたし、終わってた」
謝ったのは、これまでの全て。彼女の真面目さに付け込んで、利用したこと、全部。
明里はじっと床を見つめる。ベルの真っ直ぐで芯の強い瞳が眩しくて、見ることが出来ない。自分にはないものだから、全てを見透かされそうで。
「自分が情けないの。昔から、いつも守られてばっかで、いざというときに役に立たなくて。あの日、守られるだけのお姫様にならないって、誓ったはずなのにな」
意味もなく手首を掴み、背中を丸めた。誰にもさらけ出したことのない、心の一番脆いところ。打ち明けたことがなかった弱さをはじめて口にした。丸まった背骨に緊張が伝う。明里は心のなかで祈った。どうか、失望しないで、と。
おずおずと視線を上げる。ベルは柔く微笑んでいた。
「じゃあ今度、メイク教えてもらえないかな。お姫様みたいなメイクしたいの、明里ちゃんみたいに」
「お姫様って。今あたし、お姫様にはならないって話ししたばっかよね?」
「い、嫌だったらごめんね?」
「てか、あたしこんな性格だし、結構メイク派手だけど。どっちかっていうと意地悪な女王様じゃない?」
「まぁ、それは否定しないけど……」
「おい。そこは嘘でも否定しなさいよ」
思わず笑いが溢れる。「ごめんごめん」とベルは困ったように笑った後、優しい瞳で明里を見つめた。その眼に、明里は息を吸った。
_____あぁ、似てる。笑い方も、目の形も、お兄ちゃんに。
「明里ちゃんは優しくて可愛くて、私の中では、子供の頃憧れたお姫様なの。強くて明るいお姫様。お姫様は負けないし、弱くないんだよ? 意地悪な女王様には負けないから、絶対」
明里はゆっくりと息を吸った。お姫様。あれだけならないと決めた存在が、今は、どうしてこんなにも。
ぼろぼろだった心が、丁寧に洗い流される。苦しい。胸がいっぱいで、苦しい。
「見ず知らずの私にペンを貸してくれたときから、ずっと、最高で最強のお姫様だよ」
嬉しくて、苦しい。この空間を構築する全てが、彼女という存在が、手放し難い。心地よい息苦しさに包まれて、明里は俯き、両目を手で覆った。
「わ、えぇ!?」
ベルが恐らく慌てているであろうこともわかっている。少し申し訳ないけれど、明里は口をぎゅっと結んで、下を向き続けた。
兄の手紙が、何度も読み返したあの手紙の字が脳裏に浮かんだ。
【あーちゃんは、強い子です。どうかお兄ちゃんみたいには、おれみたいにはならないでね。人の獲物になるような、弱くて情けない、おれみたいな人間には、どうか、ならないでね】
兄はそう言った。でも兄は決して、決して弱くない。本当に弱いのは自分だと、明里はわかっていた。あのとき誰よりも兄が辛かったのに、本当は心の奥底で、どうしてこれからも、ずっと側にいてくれなかったんだと、兄の背を追い求めていた。
【あーちゃんの明るくて堂々として、いつもなんでも一番なところ、お兄ちゃんも大好きでした】
生きる希望だったあの言葉。でもその下にあった、もっと大事な言葉を見落としていた。
【でもそうじゃないところも、お兄ちゃんは大好きだからね。無理しないでね】
身を裂かれるほど苦しかったあのときは読み落としていた、大事な言葉。
_____ねぇお兄ちゃん。あたしは強くなんかないよ、お兄ちゃんがずっと守ってくれたから、そう見えただけだよ。
優しい手が背中に回され、明里はぎゅっと抱きしめられる。ベルがぽん、ぽんと、背中を心地よい強さで叩く。
「姫様、召使いのベルがいますからね」
召使いじゃなくて友達でしょ、と言いたかったけれど、やめた。今はこの言葉が正解で、己を召使いと呼ぶベルの優しさが、涙が出るほど嬉しい。
「よしよし。怖かったね、頑張ったね」
ずっと孤独に走り続けていた、明里の身体を光が包む。心無い言葉たちで傷だらけの明里を癒やしていく。
____お兄ちゃん。あたしほんとは、ずっとずっと、お姫様になりたかったの。
孤独なお姫様の呪いが解けて、その日ふたりは、本当の友達になった。
続
7話
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