【小説】ガトーショコラに地獄 修二編③
※父親からの暴力・暴言描写があります。
※虫(蜘蛛)が大量に出てくる描写があります。
人の性格は、環境で大きく決まる。例えば、出された食事の内容が気に入らないと、食卓の上の皿を全て床にたたき落とす父親がいたら、その子供はどうなるだろうか。その答えが、松長修二という男だった。
修二は幼少の頃から、自分の考えを口にすることが苦手だった。どんな考えを口にしても、木っ端微塵に否定されることが決まっていたから。
九州では有名な外食チェーンの本社で営業をする、出世頭の父。少し抜けてるところはあるけれど、料理上手でおしゃれが好きで、休みの日はおでかけに連れて行ってくれる母。
父がローンで買った、ベージュ色の外壁と赤い屋根の家が、修二の全てであり、修二が一生抱えていくであろう苦痛の温床だった。
修二の家は皿がよく減った。父が、母の作った食事が気に入らないと床に料理ごと皿を叩き落したからだ。
父はよく言っていた。母は「男ひとりしか産めなかったバカ腹女」だと。母はよく言っていた。父は「お父さんは古き良き人だから、どうか理不尽なことを言われても、落ち着いて深呼吸して」と。そして、「お母さんがどんなに踏み躙られていても庇わないで、耳を塞いで自分の部屋にいてね」と。
修二は言われた通り、父の機嫌が悪くなったらすぐに母と目配せをして、急いで部屋に篭った。真っ暗な部屋の中、焦げ茶色の勉強机の下で、耳を手で塞ぐ。耳を塞いでいると、ぼうん、と塞がった音だけがして、落ち着く。まるで深海に沈んでいくような気分になった。このまま沈んで、もうこんな家に戻ってこれなくてもいいのに、深海の砂を背にずっとずっと眠れたらいいのに。そう思いながら、母が取り繕った微笑みで、うるさくしてごめんね、と電気をつけに来るのを待った。
やがて修二が中学生になった頃、とうとう父と母は離婚した。母が体調を、正確に言うと、精神の調子を崩したからだ。母と修二は、茨城にある母方の祖父母の家に身を寄せた。祖父母は泣きながら「もう頑張らなくていい」と2人を迎え入れてくれた。
「はは、もういらねぇよこんなガキ。だんまり小僧が、俺のガキの癖にナヨナヨして、情けねえな」
最後に荷物をまとめて部屋を出ていくとき、父が笑いながら吐き捨てた。凍りついた足を必死に動かす。早歩きで家を出た。この家と父から逃げるように。苦しかったことまとめて包んで、捨てるように。あのとき父に何も言い返せなかったことを、修二は大人になっても夢に見るほど、悔やんでいる。
「修二くんってなんでも、自分の考えすら他人任せだよね。そこがイヤ。カッコ悪いと思わないの? 自分が無いっていうか、女に全部、おんぶにだっこでさ」
高校生の頃、初めて付き合った女の子にはそう言われて振られた。家に帰って少しだけ、ほんの少しだけ、ベッドの上で泣いた。
だって、分からない。自分の物事に対しての考え、都度訪れる何かの選択、自分の好きなもの、嫌いなもの。全部、他人の意見を聞いてからじゃないと分からない。人気の芸能人が問題を起こしても、他の人の意見を見聞きしてからじゃないと「あれはないよな」すら、言えない。学食のメニューも、友達が「これ美味いよ」とか「これ人気だよな」とか言ったものしか、食べられない。好きな歌、好きな本、好きなゲーム。全部世間一般的に人気のあるものしか手を出せない。
自分にはなにもない。自分以外の他人の意見が、すごく価値があって、尊いものに感じる。だから全部合わせた。空っぽな自分を隠すために。自分の色なんてない。他人の色の糸でカラフルに編まれた「松長修二」という思考の服を、透明なマネキンに着せていた。己の空っぽさがバレないかいつもマネキンを抱きしめて、震えていた。
ただ唯一、嫌いなものだけは確固たるものがあった。皿が割れる音だ。
高校の調理実習のときだ。隣の班の女子が皿を割ってしまった。それだけで身体が硬直した。友達の前ではなんとか取り繕ったけれど、足がだんだん重くなって動かなくなって、頭も痛くなって、胸が苦しくて。下校途中に駅のトイレの個室で頭を抱えて泣いた。
父が割った皿はもうないのに、床に落ちた料理はもうとっくにゴミに出されて、灰になっているのに。あの頃の首を絞められるような怯えが今も、いつまでも涙を流させる。もう自分が分からない。自分の意思で動くことができない。怖い。こんな馬鹿馬鹿しい苦しみ、誰にも言えない。
マリンの制汗剤の匂いと涙が混ざって、爽やかでしょっぱくて、海みたいだった。もう、ここが海ならば。ここで溺れて死ねたのなら、と、修二はあの頃と同じく耳を塞いで、制服のブレザーを濡らし続けた。
*
スーツにクリーニングのタグがついたままの彼女を見つけたのは、大学の入学式でのこと。
雨上がりのキャンパスは埃臭くて、木々についた雨粒が、陽の光に照らされてちらちらときらめいていた。生け垣に張り巡らされた蜘蛛の糸が、真っ白なベールのようで、修二の緊張する心を柔く包んでいた。
受付で前に並んでいた黒い長髪の女子を見て、気がつく。彼女は裾にオレンジのタグを付けていた。修二もいつも使っているクリーニング屋の、品物管理タグ。
「あの、すみません。タグ……」
新しい季節に少し、舞い上がっていたこともある。思わず声をかけていた。せっかくの入学式だ、見知らぬ人とはいえ彼女が恥をかくのは、なんだか可哀想だった。
彼女はくるりと振り向き、修二の指さすところを見て、あわあわとぎこちなく手を動かした。
「すすす、すみません! わーもう、早速やっちゃった。あの、ありがとうございます」
「俺、ペンケースにスティックのハサミあるんで、使います?」
「えっ、いいんですか!? あ、ペンケース。そういえば私、ペンケース持ってきてなかったや」
「まぁ、ペンなくとも大丈夫だと思いますよ。ちょっと待って、ここだと目立つし、少し列から離れますか。申し訳ないけど」
「いえいえ。あの、本当にありがとうございます」
2人でそろそろと、列から離脱する。少しおどおどしているけれど、照れくさそうに笑う顔が可愛い子だ。修二は意味もなく首の後ろを掻いた。それが、小山べるとの出会いだった。
2度目は入学して3ヶ月が経ったころ、7月の中旬のこと。学食ホールで、大学でできた友達4人と、どんなバイトがおすすめか話していたときだった。やっぱり服屋とか憧れるよな、居酒屋きつくてもうやめたい、なんて話していると、赤いタイトワンピースを着た、はっきりとした顔立ちの女子が歩いてきた。
「ねぇねぇ、ここにいる皆さんのインスタ見たよ。いきなりごめんね? あたし、三毛門っていいます」
茶色のポニーテールの彼女は、三毛門明里と名乗った。そういえば友達の中のひとりが、仲良くなった日に行ったステーキハウスの前でふざけて撮った写真を、インスタグラムにアップしていた。明里に話しかけられ、他の3人は大いに盛り上がる。
「三毛門さんってフォロワー数、1年生の中で一番多いよね」
「こんだけ美人なら絶対彼氏いるっしょ?」
「あはは! ないない! マジで紹介して?」
下心満載の会話を、明里はそつなく受け止め、流していた。いかにもこの手のことは言われ慣れてるといった印象だ。
彼女の高貴な花みたいな香水の匂いに慣れてきた頃だった。
「明里ちゃん、お待たせ」
早歩きでやってきたのは、入学式の例の、黒髪の彼女だった。修二の顔を見つけると、ぱっと小さく目を開いた。
「あっ、あのっ、あのときの方ですよね?」
「あ、はは」
修二は意味もなく笑みを浮かべて、小さく頭を下げる。
「お知り合いだったんですね、明里ちゃんと。えと、お久しぶり、です?」
「なんで疑問形? 久しぶり」
「なになに! ベル、知り合い? あたしにも言いなさいよ」
「うん。ほら、明里ちゃんにも話したでしょ? 私、入学式のときに……」
「クリーニングタグ事件ね」
「もう、事件じゃないってば」
「ごめんって。で、この人がタグの王子様?」
「おい、絶妙にダサいなその呼び方。そうだよ。タグの王子様は松長っていいます」
修二の冗談めいた言葉に「ふふ」と彼女は小さく笑う。
「小山べるです。えと、あのときはありがとうございました」
べるは深々と頭を下げた。こんな小さなことで頭を下げるなんて、礼儀正しい子だと、修二はわずかな感動を覚える。同時に思う。頑なに崩さない敬語、少し丸まった背、あまり合わない黒い瞳。多分、今まで付き合った女の子とは全然違うタイプの、教室の隅にいるタイプっぽいな、と。
明里に夢中だった友人たちが、べるにちらちらと、値踏みするような視線を向けた。
「べる? 本名?」
「あ、はい。一応……」
彼女の黒目がおぼつかなく揺れる。べるは半歩下がり、代わりに即座に、明里が前に出た。
「ちょっと。ベルを口説かないでよ? 可愛い可愛いあたしの大事な子なんだから。ねー、ベル」
「わ、明里ちゃんぎゅっとしすぎ……! 今日はもうぎゅーだめだよ」
「いいじゃんいいじゃん。あ、でさー」
ベルと手を繋いで、明里は話を前に前にと進めていく。結局、修二を含めた4人と明里はLINEを交換して、その場で別れた。べるは誰ともLINEを交換しなかったし、修二たちも交換しようとはしなかった。
花びらの嵐のように、華々しく現れ、去っていった明里の話題で、その後はもちきりだった。
「三毛門さん、女子に嫌われてるっていうけどやっぱ美人じゃん」
「確かインスタで炎上したんだよな」
「なー。でも可愛いし、炎上も女子特有の嫉妬とかじゃね? 仲良くした方が絶対いいよ」
「けどさー、なんであんな地味な子連れてんだろうな」
「入学してからあの子としかつるんでないらしいよ」
「あれじゃね? 引き立て役的な?」
「うーわ、女子こわ」
「そういえば三毛門さんってさ__」
三毛門さん、三毛門さん、と会話は続く。修二は心ここにあらずのまま、適当に笑みを浮かべて相槌を打った。小山、小山べる。上質なシルクみたいになめらかな響きの、彼女の名を心で呼ぶ。
なんでこんなにあの子のことが気になるんだろう、と思うと同時に、手が届かないほど身体の奥にある感情が、これ以上深入りはやめとけ、と言っている。
もし、本当にもし、彼女が気になっているとしても、付き合うなんてことはしない方がいい。恋人という存在は宝石だ。綺麗できらきらして、他の人から見ても美しいものは自慢になる。でも些細なことで傷がつくし、手に取ると確かな重量があって、その重さがうっとおしく感じることもある。
あの子は三毛門明里の添え物、指輪で言う台座のようなものだ。そういう、目に見えない小山べるのが、みんなに定着しつつある。みんなが言うならそうなんだ。みんなが言うなら、もう彼女を気にするのはやめた方がいいんだ。だからこの縁はもう、なかったということで。
そう思っていたのに。
うだるように暑い、8月のある日。修二は駅の南口、パン屋の前でべるを待っていた。大学の講義終了後、べると映画を見に行くことになっていたのだ。
『ベルがね、松長くんのこと気になるんだって!』
明里のほぼ一方的な話はとんとん拍子に進み、気がつけば、べるが気になるらしい洋画を見に行くことになった。修二は正直この時点で、三毛門明里の少々強引なところに苦手意識を抱いた。が、今後の学生生活のためにも断るのは難しかった。
やがて、髪をポニーテールにして軽く巻いたべるが、小走りでやって来た。その髪型可愛いな、明里ちゃんに教えてもらって練習したんです、なんて、他愛もない話をしながら、映画館の6番スクリーンに向かう。道中気まずくなるのではないかと、前の晩から憂鬱だったものの、その予想は覆された。べるは意外とおしゃべりで、相槌も明るくて、端的に言うと話しやすい。三毛門明里のような華々しさはないものの、真っ白な画用紙のような、カントリー調の慣れ親しんだ家具のような、不思議な安心感があった。
「この映画、すごく楽しみにしてたんです。私が生まれて初めて見た映画の、一番好きな役を演じた俳優さんが主演だから」
そうなんだ、と言いながらも、修二はぼんやりと思い出していた。この洋画の主演俳優が、ネットで今、問題発言で炎上していることを。
透明な水に、ノイズとも言うべき余計な情報の、赤い絵の具が落ちた。自分の色がない人間とは本当に染まりやすいもので、ひとつの情報で全てが決まってしまう。
やがて映画が始まる。でも、情報で汚染された思考は透明には戻らない。修二の頭の中では映画の最中、ずっと主演俳優の問題発言がぐるぐる巡っていた。ネットニュースの見出しで目にした程度だから、具体的にその人が何を言ったかさえ分かっていないくせに。
だんだんと飽きてきて、氷の溶けた烏龍茶を啜る。ふと、べるの横顔を見た。
ちょうど、主人公とヒロインが初めてのデートで、メリーゴーランドに乗っているシーン。べるは幸せいっぱいに微笑んでいた。まるで我が子を見つめる母親のような慈愛に満ちた笑み。きらめき回るメリーゴーランドそっちのけで、修二はその横顔を、ただただ、見つめていた。
やがて雨の街で別れ話をして、だけど夜の海でヒロインが自殺しそうになるのを止めて、また結ばれて。ただ美しく整えられただけで、あとは自由。そんな、解釈を観客に委ねるような話だった。エンドロールが流れ終わって、ほうっ、と劇場が明るくなる。劇場のあちこちから声が漏れ出す。
「なんかよくわかんなかった」「あの俳優演技下手じゃない?」「やっと終わったわ」なんて、小さな囁きも聞こえる。修二は唇の端を下げて隣を見る。
「松長くんどうしましょう」
「えっ、どした?」
「動きたくないです。この余韻を味わいたくて」
「……そんなに面白かった?」
べるは大きく頷く。ずい、と修二の方に身を乗り出した。
「はい! ネットで俳優さんも映画も、酷評されていたことは知っていました」
「……うん」
「でも、やっぱり私はあの俳優さんが、この映画が大好きです、大好きになりました! 特にあの遊園地のシーンは」
「ちょ、ちょっと、もう出よう。劇場の人困っちゃうし」
「あっ、ごめんなさい。今すぐに!」
相変わらずの慌ただしさだ。けれど、目が弾けるようにちかちか輝いて、早口で、彼女のきらきらしたイヤリングが揺れるくらい楽しげで、軽やかな声。
彼女は、小山べるは、強い。修二にはないものを、自分なりの色を持っている。それはそれは美しく、派手ではなくとも芯がある、綺麗な色。見ているこちらを魅了する、色。
映画館の外に出ると、空は夕焼けに染まっていた。修二は意を決して口を開いた。
「あのさ、本当、申し訳ないこというとさ」
「はい?」
____本当はあの映画よくわかんなかった。そもそも俺、自分の映画の好み自体わかんないんだ。俺、本当の話とか、自分なりの意見とかを発信するのが怖くて仕方がないんだ。映画もテレビも音楽も、食べ物さえも、自分が本当に好きと思えるものなんてないんだ。
脳内で巡る言葉たちが、たくさん溢れて口を固まらせる。額を汗が伝う。自分の考えを言うのって本当に怖い。自分のことがわからなくて仕方がない。わからないことって、怖い。
べるは柔らかく笑い、修二を見上げる。
「ゆっくりでいいですよ。私はずっと待ってます。なんならまた、話の続きは大学ででもいいですから」
さぁっ、と少しだけ涼しくなった夏風が吹く。夕暮れの中、すとん、と胸の中で、何かが心地よく降りた。
____俺は透明なマネキンなんだ。自分の本当の気持ちもわからない。
「あのさ、どこか店入って、映画の話聞かせてほしい。小山さんの感想聞いて、俺も今度はちゃんと、自分だけの感想を持てるようにもう一回、見に行きたいんだ、あの映画」
「はい。ふふ、はい!もちろんです!」
____でも、小山さんのことを心の底から気になってるってことは、本当だから。
*
焼香の匂いがする。修二の鼻の奥がまた、つんと痛む。
棺桶の中で眠るベルを見て、涙が滲んだ。幸い、号泣というほどではないから、隣の冬也にはバレていないはずだ。参列者は修二以外、まったくと言っていいほど涙を見せない。みんな大人だな、なんて、修二はのんきに、だけど少々寂しさの粒を噛んで、羨ましがる。
やがて全員の焼香が終わったと司会の案内が入る。そこそこの人数だし結構かかるかな、と思ったが、想像以上に早く終わった。辺りを見渡すと、旅館にはいた10名ほどの喪服の人々の姿が見えなくなっていた。確かベルの地元の学校の先生や、数少ない同級生や先輩だと言っていた。修二が気が付かない間に、帰ったのだろうか。
水之助がマイクの前に立ち、一礼した。
「本日はお忙しい中、従姉妹、べるの葬儀にご参列いただき、誠にありがとうございます。べるの母の弟の子でございます、慈郎田水之助と申します。親族を代表いたしまして、ご挨拶申し上げます」
喪主がこんなにも遠縁の人間になることもあるのだな、と、壇上の色とりどりの花を見る。白、黄色、薄紫、ピンク。葬式とは不思議だ。綺麗で新鮮な花たちで統一されているはずなのに、どうしてか、花たちからこの世の雰囲気がしない。
「べるは、3月3日、病のため永眠いたしました。享年24歳でございました。いつも優しく、穏やかな子だった従姉妹は、賢明に叔母の介護をし、どんなときも支えてくれました。叔母の容態が急変した後は、大学を中退し、わたくし共と一緒に賢明に看病に当たりました。叔母も、実の娘に手を握られながら、眠るように生涯を閉じ、悔いのない最期を迎えられたのではないかと思います。叔母の死後もわたくし共と生活を共にし、畑を耕し、作物を育て、穏やかに暮らしておりました」
修二は己の両手を固く結ぶ。己の知らないベルの話に、意識を集中させる。
「従姉妹は菓子作りが好きで、わたくし共によく菓子を振る舞ってくれました。村の皆に愛され、従姉妹の菓子は子どもたちの間で取り合いになるほどの人気でした。従姉妹の明るい人柄もあり、村が一体となって従姉妹の闘病を支え、最期まで懸命に、病と闘うことができました」
菓子作り。明るい人柄。それは修二の知らないベルだった。
修二の脳裏にベルの声が蘇る。いつも料理に失敗して、昼食はコンビニで、夜はバイトのまかない。そんなベルが、子供が取り合いになるほどのお菓子を。
きっとベルはお菓子作りが上達したんだろう。きっとこの美しい故郷で水之助たちとゆっくり生活して、明るい彼女のまま亡くなったのだろう。そんな予測だけでしか彼女を感じられない。
ベルは死んだ。もうあの頃には戻れない。出会ったあの日のように洋画を見ることはできない。連絡がひとつもないまま、彼女はこの世を去った。きっと彼女にとっては、自分はその程度の人間だったんだ。
「皆様方には、故人同様のおつきあい、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。簡単ではございますが、これをもちましてお礼にかえさせていただきます。本日は誠にありがとうございました」
深々と水之助がお辞儀をしたとき、修二はゆっくりと拳を握った。爪が食い込むほど握っても、この胸の息苦しさは消えなかった。
司会の閉式の言葉で、ざわざわと人の声が漂い始める。
「ふぅ。お疲れ様っした」
冬也の声は平坦だった。修二は「お疲れ」と小さく零して、足になんとか力を入れて立ち上がる。ふと、冬也の隣の明里の声がしないことに気がつく。いつもはこういう場で真っ先に「もー疲れたぁ」など声を上げるのに。
「あ、あ……」
小さく震える声がぽつりと響く。
「明里さん?」
「しゅ、しゅうくん、とうや、ああああ、あっ、あれ!」
明里が顔を真っ青に口を手で覆う。指をさす方向に目をやり、短く息を吸った。指の先は、ベルの棺桶だった。棺桶の蓋は誰が開けたのか、いつの間にか音もなく、床に転がっている。
ぴょん、ぴょん、と小刻みに、棺桶から、黒いゴミのような何かが出ていく。修二たち3人の他の参列者も、違和感に気がついていく。
黒いゴミだったそれがちまちまこちらに流れてきた。修二は屈み、そのゴミを拾って見つめた。そして気がつく。これは、ゴミではない。
黒い、蜘蛛。
真っ先に悲鳴が、明里の口から上がる。
「いやあああぁああぁあああ!」
「逃げろ!」
「何あれ!? 何あれ!?」
「キモい、キモいキモいキモい!」
修二が振り向いた先にあったのは、蜘蛛の波だった。蜘蛛が大勢、こちらに向かって波のように走ってくる、迫ってくる、追いかけてくる。
「しゅうくん! 早く!」
動けない。修二の目は戸惑いと黒い波の中、ひたすら立ち尽くす。蜘蛛たちの波に包まれ、修二の身体を数十匹の蜘蛛たちが登る。足、腹、首、頬。息を切らす。思考が淀む。まずいまずいまずい。わかってる、わかってるのに、身体が動かない。
蜘蛛のうちの1匹が、口の中に入ろうとした、その刹那だった。
『だーめ。もうそれくらいでいいよ』
りん、と耳の奥で、声がした。軽やかな声。まるで、きらきらのイヤリングが揺れるような、楽しげで、軽やかな____
「____ベル?」
蜘蛛たちの波の動きが、停止する。蜘蛛たちは操られたかのようにくるりと進行方向を逆にして、今度は棺桶の方へ素早く戻っていく。ざあざあと波がゆく。修二の思考が晴れていったとき、急激な焦りに突き動かされた。
「やめろ!!」
____その棺桶には、俺の大事なベルが眠ってるんだ!!
蜘蛛たちは棺桶を避け、壇上の袖へと消えていく。まるで舞台役者がセリフを終えて、はけていくように。
これは悪い夢なのか。はぁ、はぁ、と息を切らし、棺桶を覗き込む。
「……なんで」
棺桶の中には白と薄桃色の花だけが残り、ベルの亡骸はおろか、人の痕跡は何一つ残っていなかった。
続
4話
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