【小説】ガトーショコラに地獄 修二編⑤(1章 完)
大学3年の冬、2月のこと。その頃はコロナウイルスが流行ってなかったから、手作りのチョコレートなんかもバレンタインで渡し合うのは普通のことだった。
バイト先の古着屋の帰り、修二は駅のバレンタイン特設コーナーを横目に、かじかむ指を擦って人を待っていた。
修二は、バレンタインにいい思い出がない。物心ついたばかりの頃、母と一緒に手作りのチョコレートを、父に渡したことがある。その頃はまだ、父と母の中は険悪とまではいかなかった。今思えば、バレンタインに何もしないと父が大層不機嫌になると、母は分かっていたのだろう。けれど当然のごとく、父は酔っ払った勢いで、チョコレートドーナツを床にぶち撒けた。「普通こんなやわっこいやつ渡すかよ」と不機嫌そうに。
ベルは毎年、チョコレートをくれる。彼女は料理が全くできないから、既製品のパッケージがおしゃれなものだ。特別甘いものが好きなわけではない。でもバレンタインのチョコレートは包装が凝っているから、それを見るのは好きだった。ベルと一緒に、ここの色合いがいいとか、リボンが可愛いだとか、そういうささやかな話をすることは好きだった。いつかこんな色合いのデザインの服欲しいな、とか、じゃあ俺が店を出したら、一番最初にこういうの取り寄せて、ベルにモデルになってもらうよとか、そんなじゃれ合いみたいな言葉のやり取りも。
「おー、修二。早いな」
「お疲れ様です」
緑色のダウンジャケットを着た新城がやってくる。彼は大学の先輩で、バイト先が同じだった。彼は今、自分のアパレルブランドを創るという夢を叶えるべく、業界で働きながら、個人の洋服販売サイトを運営していた。インディーズのデザイナーやイラストレーターと積極的にコラボしていることもあり、そこそこ人気がある。修二もファンのひとりだった。
新城が大学を卒業し、古着屋のバイトを辞めてから、飲みに行くのは初めてだった。どうやら明里のインスタグラムを見て、修二の名前を見つけて誘ってくれたようだった。
明里、修二、ベルの3人でインスタグラムアカウントを運営して、もう2年になる。元はただの、3人で旅行したとき用のアカウントだったのだが、明里の「インフルエンサーになる」という夢を叶えるために、明るいながらもビジネス的要素の強いアカウントに変わっていった。
案内されたのは、個人営業のイタリアン居酒屋だった。イタリアンなのにアメリカンダイナーな雰囲気で、それなのに調和性があって面白い店だ。壁に飾られたたくさんの、ヴィンテージの車の看板。店を作るどの要素も、修二の興味をそそらせた。
新城と生ビールのジョッキを乾杯する。お通しのフライドポテトを食べながら、新城は笑う。
「しっかしほんと、好調だな。お前のインスタ。投稿のたびにお前の名前つい探しちゃうもん」
「ありがとうございます、って言っても、ほとんど明里の手腕ですよ。俺は服を選んでるだけですから」
「謙遜イケメンやめろよぉ。今日は飲むぞ! と、その前にさ」
新城がわざとらしい咳払いをした。なんだか、良い予感がした。
「修二、一緒に会社やらないか?」
「……俺、ですか?」
「お前以外にいねぇよ」
修二の顔がぱぁ、と明るくなり、鼓動が逸る。願ってもない光栄だ。
新城はその後、具体的な今後の展望を語り、修二は酒も飲まず、何度も頷きながら聞いていた。子供が秘密基地の設計図を作るときのような、目いっぱいの希望がそこにはあった。
1時間が経った頃、新城が酔っ払ってきたので、詳しい話は後日メールなどでやり取りすることになった。話は日常の話題に戻っていく。
「しかし、三毛門さんフリーってほんとか? ほんとにお前ら付き合ってないの?」
「だから俺は彼女いますって」
「いや、わかってるよ? わかってるけどさ。正直お前なら、三毛門さんと釣り合うっていうか」
明里との関係を問われたことは幾度も幾度もあった。修二は慣れた言葉ぶりで否定する。
すると、意味もなく机を小突いていた新城の人差し指が、す、と降りたまま止まった。
「あと、こんなこと聞くのあれだけど、最近あの子出てこないな」
喉が固まる。誰のことかすぐにわかった。
「俺の、彼女のことですか」
「そう。アシスタントの。よく三毛門さんと、仲良さげな写真あげてたじゃん。あの子、最初よりもどんどん可愛くなって、結構人気あったのに」
「あーその、今は彼女、バイトとかで忙しくて」
「嘘下手だな、お前。まぁそういうことにしとく。ちゃんと『あの子は就活でインスタお休み中です』とか言っとけよ? 妙なアンチとかが詮索するかもしれないから」
新城はあっけらかんと言った。はい、と頷いたとき、自分がどんな表情をしているか分からなかった。
閉店時間になって、新城と店の前で別れた。心臓が変な浮遊感と、反対に、締め付けられる感覚でふわふわしていた。新城のアパレルに誘われた嬉しさと、彼女の、ベルについての言いようもない不安で。
ベルの様子がおかしくなったのは、去年の秋ごろだった。
元々、彼女は気が弱いほうだと、付き合い始めたときから分かっていた。けれどそれが顕著に、態度や行動に現れるようになったのだ。
例えば、インスタ投稿用の写真撮影の場所の手配を、何度も何度も修二に「これ大丈夫かな」と確認するようになった。些細なことで大袈裟なほどに頭を下げるようになった。いつも何かに怯えて、いつも何かに謝っていた。
『フォロワー数も増えてきたし、きっと緊張してるのよ。まぁあんだけオドオドしてると、心配にもなるわよね。というかたまにイライラするし。しゅうくんも無理しないでね』
明里はそう言っていた。いつもならそういうものか、と思えたし、そう思えれば少しは楽だった。だが、喉に小石が留まるような、飲み込めない感覚があった。きっと、明里とベルの間に徐々に距離ができていったこともある。とにかく、些細なことで笑い合う仲だったあの頃と、目に見えない何かが、少しずつ変わっていった。
気が付かないうちに何か、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、恐ろしかった。
*
「あのね、ベルさんの松長くん宛の手作りチョコのことなんだけど」
2月14日、大学の写真サークルが管理する、機材倉庫でのことだった。写真サークルの先輩が明里のことを気に入っていて、よく機材を貸し出してくれていた。
撮影用の照明スタンドを手に取ったとき、明里の友達、というか明里のファンの女子2人に、声をかけられた。あまり話したことはない人たちだった。
彼女たちは神妙な顔で、おずおずと口を開く。
「ほんと、松長くんが心配だから言うね? 実は私達もベルさんからチョコレートもらったんだけど、その、あまりにも不味くて」
「不味い?」
「うん。チョコのカップケーキなんだけどさ。変に焦げ臭くて苦いし、しょっぱいんだよね。あとなんだか髪の毛みたいなものが入ってて、その、ちょっと」
髪の毛。単語に強張る口を、なんとか開く。
「ごめん。俺がそれとなく本人に言っとくよ」
「ううん。そうじゃないの。それでベルさん、松長くんにも渡すんだって張り切っててるから、ちょっと気をつけてね?」
女子たちは「大変だね」と、トタトタと逃げるように去っていった。
彼女たちに手を振り終える。ゆっくりと下げた腕に、力が入っていた。腕だけじゃなく、体の芯まで、強張るかのように。
修二はポケットからスマートフォンを取り出す。新城とのトーク画面を開く。
『会社に小山べるちゃんと同じとこ出身の人がいて、ちょっと話聞いたんだけど』
『あの子、結構やばいかも。ていうのも、その同じ出身の人もやばい子で、小山べるは我々のご主人様だって、なんか変なこと言ってんだよ』
『小山さんになんか変なものもらうなよ。生霊とかさ』
それは不幸にも、1週間前に来たメッセージだった。こういう嫌な偶然ばかり起こるから、人生は恐ろしい。
ベルが複雑な家庭環境にいたことは知っている。幼馴染で後輩の冬也以外、友達がひとりもいなかったことは知っている。でも、他にも普通とは違うことが、きっと彼女にはあるのだろう。それを「やばい」なんて稚拙な言葉で片付けることは、修二はしたくなかった。やばくもない、おかしくもない、ベルはベルだと。愛しい愛しい、透明な宝石のような、運命の人。
でも、ベルはどんどんひとりになっていく。黒い荒波の孤島にひとり、取り残されていくように。新城も、明里も、明里のファンの子たちも。みんな口には出さないけれど、ベルを避けはじめている。修二でもわかるくらいに、あからさまに。
せめて自分は側にいてあげなくちゃ、と思うのに、たまにぐったりと身体がくたびれてしまう。彼女の変におどおどした態度や、何度も些細なことを確認してくるところに、なんだか恋人というより、幼い妹を相手している気分になってくるのだ。
修二とベルの間にある赤い糸が、くるり、ゆらりと、緩んだり張り詰めたりして、絡まっていく。この後、ベルからチョコレートをもらったとき、どんな顔をするのが正解なのだろう。こんなくだらないことで悩む己が嫌で、同時に、思っちゃいけないと分かっているのに、本当に分かっているのに、ベルに対して苛立ちを覚えた。
事態が急変したのは、午後3時。曇り空の下、いつものように、大学の正門近くの大きな木の下で、ベルと明里を待っていた。いつもなら冬也も来ていたけど、今日はバイトで先に帰っていた。
走ってきたのは、ただでさえ白い顔を、さらに真っ白にしたベルだった。
「あのね修二くんにあげるカップケーキがなくなってて、せっかく作ったのに、どこかに落としちゃったか、誰かに間違って渡しちゃったみたいで、それか、盗まれたのかも。ど、どうしよう、みんな帰っちゃったのに」
「落ち着けって。大丈夫」
「大丈夫じゃないよ! ほんとごめん、ほんとごめんね……。私、最近、もうだめだ」
もうだめだ。ベルの最近の口癖。修二はベルの両肩に優しく、手を置いた。
「大丈夫。その代わりさ、今度俺の家でチョコレートパーティでもしようよ。俺、チョコフォンデュセットとか欲しいんだ。久々に2人きりで、ゆっくりしよう」
「でも」
「ちゃんと気持ち、もらってる。毎年ありがとう、ベル」
修二はベルの頬に唇を落とす。肩をぽん、ぽんと、子供をあやすように叩く。ベルの浅い息が、少しずつ落ち着いていった。
「俺宛てのチョコは、他のと何か違う?」
「うん。修二くんのは包装が青色の大きい袋のやつなんだ」
「じゃあ、大学の中、いろいろ探してみるよ。考えたくはないけど、誰かが嫌がらせで捨てた、とかあるかもだし」
「……うん」
「ほら、俺たち明里の手伝いしてるから、妬まれることあるだろ?」
「うん、ごめんね、ほんとに」
「謝らない。じゃあ俺、大学戻る。一緒に帰れなくてごめんな」
「そんな、悪いって。私も探す」
「大丈夫。ベル、これからバイトじゃん。今度、チョコパーティの日程決めような」
じゃ、と大きく手を振って、小走りで大学の白い建物に戻っていく。拳を握った。自分を戒めるように。無理やり会話を終わらせて、ベルを遠ざけた、自分に。
_____安心するな。安心するな馬鹿が。チョコがなくてよかったなんて、思うな。
思うな、と否定すれば否定するほど思ってしまう。怪しい菓子を食べずに済んだと安堵している事実が、刃になって胸を刺す。
チョコレートカップケーキは、食堂のゴミ箱の中にあった。ターコイズブルーの包装紙に黄色のリボンは恐らく修二宛のものだろう。去年、この色合いの箱のチョコレートを2人で食べて、一番これが可愛いと言った色合いだから。
色は違うけれど、似たような包装の小さなカップケーキが10個ほど捨ててあった。胸が苦しくなる。まるでこれがこの世の答えだと、皆がベルをどう思っているかの答えだと、ありありと見せつけられたような気がした。
透明なマネキンがやっと手に入れた、運命の赤い糸が、ぎりぎりと引っ張られる。もう千切れそうで千切れない、そのもどかしさが苦しくて仕方ないのだ。
修二はゴミ箱に背を向けて、大学の廊下を進む。その手には何もない。己の運命の人が作った、チョコレートさえも。
その晩は眠れなかった。あのチョコレートカップケーキが灰になる妄想をしていた。他人が思いを込めて作ったものを食べず、灰にするなんて、父みたいだ。自分を嘲ると同時に、でも、自分は父とは違う、今回は向こうに非があって、自分は悪くないと、心のなかで声を張り上げる自分もいた。
週明け、機材倉庫で声をかけてきた女の子たちに声をかけられた。その時より人数が多く、全員で5人ほどいた。
「松長くん、例のチョコ食べずに済んだ?」
どこか楽しげなその子たちに、きっと普通の恋人なら、怒らなければならないのだろう。けどもう、なんだか、本当に申し訳ないが、疲れて何も考えられなかった。
「うん。まぁね」
女の子たちの、ベルの悪口が始まる。前の自分ならその場で怒りをあらわにできたのに、もう言葉のひとつひとつを否定する気力もなかった。しとどに流れる滝を眺めるように、ただひたすら、恋人の悪口が飛び交う空間の中で立ち尽くしていた。
その後からだ。ベルの態度がよそよそしくなったのは。何度連絡しても、バイトがあるから、予定があるから、と断られてしまう。インスタの手伝いもしてくれなくなった。何より気になったのは、冬也とはよく一緒にいること。2人は幼馴染だと頭では分かっているのに、心がどうにも落ち着かない。
修二は大学の廊下、ベルを問いただした。なぜ、自分を避けるのかと。でも帰ってきた答えは、欲しいものでは到底なかった。
「修二くんのためだよ」
「なんで?」
「今のダメな私なら、修二くんの側にいない方がいいと思って。私なりに自分を磨くために、いろいろ考えてやってるの。ほんとごめん、今は1人にしてほしい。いろいろ頑張って、もっとマシな人間になったら、また会いに行くから」
「そんなの、どうでもいいよ。それに1人って、冬也とは一緒にいるじゃん」
「冬也くんは、協力してくれてるだけ。それに、どうでもよくないの。私のせいで修二くんが悪口言われるのは嫌なの」
「気にしないってそんな」
「もうだめなの」
「なにが」
問いに返答はない。ベルは修二に背を向けた。
「しばらくしたら、また会ってほしい。じゃあ」
口角に力を入れる、追いかける気はなかった。寧ろ修二は怒っていた。自分になら抱えているものを打ち明けてくれると、信じていたのに。2人の間に流れる空気は、一般的には喧嘩中というのだろう。修二は怒りやら不機嫌やらを誤魔化すように、明里の手伝いや新城との打ち合わせに勤しんだ。
ベルが退学したのは、その1週間後のことだった。
*
深夜、小親村一番の旅館に音が溢れる。雨音がうるさく響いて、眠れない。たまに草木がかさかさと揺れて、何かいるような気がして仕方がない。
寝る前に冬也に言われたことが、今もぐるぐると頭の中で渦を巻く。
『それが引き金だったとも知らずにさ。この裏切り者が』
何も言えなかった。本当に、その通りだったから。
今ならベルの悪口に対して、本気で憤ることができるだろう。でも、当時の修二は若くて、疲れていて、愚かだった。ベルが退学した理由も、大学の事務の人の言葉を鵜呑みにし、伝言で「大学時代の楽しいことを思い出すから、探したり連絡したりしないでほしい」と彼女に言われて、その通りにすることが義務だと己に言い聞かせた。己の罪から逃げていたのだ。
ベルの面影や青春の思い出を追いかけるようになったのも、新城のアパレルが軌道に乗ってきてからだ。仕事にも少しずつ慣れてきた頃、ようやく懐かしむように思い出した。今ならああするのにな、なんて記憶を美化して、あの頃、ベルがどんな思いで生きていたかなんて、知らないまま。
雨はまだやまない。ざあざあと降りしきる雨がうるさくて、耳を塞いだ。
「_____くーん」
耳を塞いでいる。はずだ。誰かが呼ぶ声が聞こえる。
「しゅうくーん」
ぼう、と海の中にいるような塞いだ音の中、声が聞こえる。はっきりとした、よく通る声。この世で修二のことをこう呼ぶのは、明里しかいない。
「しゅうくーん、しゅうくーん、しゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーんしゅうくーん」
冷たい息を吸った。耳を塞いでいるのに声がしっかりと聞こえる。耳元で声を張り上げられているかのようだ。耳を塞ぎ続ける手がガタガタと震えている。返事をしちゃだめだ、と本能が言っている。
やがて声は止んだ。なのに、手が耳から離せない。ここで手を離したら、また声が聞こえるような気がする。それかもしくは、目の前に怪物がいるかもしれない。修二はそのまま10分近く、布団の上で体育座りで耳を塞いだ。こんな風に背を丸めて何かに怯えるのは、子供の頃以来だった。
「_____れか」
また声が聞こえた。でも、今度は違う。今の修二と同じように、怯える声。中庭に繋がる、カーテンが引かれたガラス戸の向こうから。先程の得体のしれない感覚がない。修二は恐る恐る耳から手を離す。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、誰か、誰か助けて」
修二は唾を飲む。先程までと、明らかに声のトーンが違う。ゆっくり立ち上がり、カーテンを開ける。
「_____明里?」
明里が地面に座り、涙目でこちらを見上げていた。口には真っ赤な赤い血が滴っている。よく見ると地面は赤黒く、血が水たまりに混ざっているようだった。
「どうしよう、しゅうくん、私、人を殺しちゃったの、あ、あぁぁぁあああああああ」
「明里、本物の明里か?」
「そうだよっ、もう、わかんない、意識はあるのに勝手に身体が動いたのっ! 部屋抜け出して、人がたくさん死んで、古い井戸に人の死体を運んでてっ! もうわかんない、助けて、助けてしゅうくん、助けて……」
子供のように明里は声を上げて、雨の夜空を向いて泣いている。修二は駆け出して、彼女の前にしゃがんだ。この明里は、本物の明里だと、何故か分かった。
「明里、落ち着こう。とりあえず冬也と水之助さんに相談しよう」
「無理よ! あたし、殺人犯になっちゃったんだよ!? もう終わりだ、もうだめだ」
もうだめだ。その言葉を聞いて、身体が勝手に動いた。修二は明里の両肩に優しく手を置いた。
「だめじゃない。俺がなんとかする。俺が側にいるから」
こんな血生臭い状況で思うことじゃない。けれどもう、逃げたくなかった。
修二は明里の背をそっと撫で続ける。明里の充血した瞳から、次第に涙が消えていく。明里は息を整え、今は真っ黒に見える旅館近くの林を指さした。
「……あそこの林の中の古井戸に、なんかいたの。そこに死体を持っていけって、誰かに指示されたような気がして。あ、あと、もしかしたら、まだ生きている人がいるかもしれない。その、人を襲おうとしたとき、あんまり手応えがなかったっていうか」
「そうか。俺は井戸にその人たちの様子見に行くから、明里は冬也たちに話をしにいってくれ。あと救急車呼ぶのと、警察、芦田さんにもこのこと伝えて」
「うん。わ、わかった。ありがとう、しゅうくん、本当に、ありがとう」
明里は修二の手を両手で握り、額に当てる。祈るかのように。
ようやく明里が立ち上がり、正気を取り戻したことを確認した修二は、林へと駆け出した。前のめりな心に比例するかのように、足が不思議と軽かった。暗いを通り越して真っ暗な林を進む。枝で肌を引っ掻かれても気にしない。ただ前に、前に進む。
何故か脳裏に、ベルの顔が浮かんだ。
____ベル、ベルがどうしてここに俺を呼んだのかわからない。けどもう、俺はもう、透明な人間じゃない。もう、ベルを見捨てたりしない。ベルが大事にしていた、青春の思い出も。何もかも変わってみせるから、俺に力をくれないか。俺の背を押してよ、ベル。
ここに呼ばれた理由はきっと、ベルに償いをするため。もう己の罪から逃げることを、同じことを繰り返さない、ため。だから、これ以上罪は重ねない。これ以上、これ以上。必死に心の糸を手繰り寄せた。
はぁ、はぁ、と息を切らす。目の前にある、蔦の生えた古井戸。だが、井戸の後ろに目が行く。
女が立っている。黒い髪の、振り袖の女。
「……お前が、明里を操ったのか?」
女は何も言わない。
「お前が『ラサ様』か?」
何も言わない。修二の胸にもどかしさが迫り上がる。理由は分からないが、瞳に涙がたまる。
「お前がベルを殺したのか!?」
その言葉が引き金、いや、逆鱗だった。
ぶわっ、と生温かく、けれどお香のような匂いの突風が吹き渡る。修二は思わず目を瞑った。
「ラサじゃない。殺したのはお前らだろ」
目を開くと、女が目の前にいた。 190センチメートルはあるであろう高い背が修二を見下す。怖い、と心臓がばくばくばくと、逃げろ逃げろ逃げろと、うるさい。
でも。
「なら教えてくれ。どうしてこんなことを」
「口を開くな。ラサは許可していない」
しゅるり、と女の髪が伸び、うごめいて大きな手の形になる。髪でできた2本の手に体を締め付けられる。
「ぐっ、うあああああぁぁあぁぁ!」
「お前たちがここに来る前から、ラサは下僕を使ってお前たちを見てきた。ラサは甚だ疑問なのだが、どうしてお前は償えば許されると思っている? どうして少しでもいいことをすれば、全ての罪が贖えると思っている?」
髪の手がどんどん力を強めていく。締め付けられ、痛みが骨まで響く。
「ベルちゃんはお前のものじゃない。ベルちゃんはラサのもので、ラサはベルちゃんのものだ。もうお前の顔は見たくない。己の罪を悔いながら死んで行け」
床に身体を叩きつけられる。今度は首を髪の手で絞められた。
「くっきー、あめだま、かすてらさん、もふもふしふぉんに、ちょこれーと」
女の子供のような歌声が、囁くように響く。嫌だ、やめろ、歌うな、誰か、誰か。透明なマネキンにヒビが入る。声のない叫びに耳を傾ける者は、誰もいない。
意識が遠のいていく。意識がとおのいていく。意識が、いしきが。
「きってならべてたべましょか とろとろじゅーすものみましょか」
いしきが、とおのいていく。
1章 完
続
6話
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