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タイムトラベル新京極(5)

第4章 「新京極の七不思議」を辿る新京極散歩

全国あるいは全世界に様々な「七不思議」とされるものが存在する、京都でも多くの神社仏閣などに「七不思議」なるものが昔から伝わっている。
 新京極にも明治以降、生まれた経緯は不明であるが「七不思議」の言い伝えがあり、井上頼寿が昭和19年に著した「京の七不思議」、田中緑紅が昭和34年に刊行した緑紅叢書「京都の七不思議(上)」にそれらを見ることが出来る。
 おそらく名所案内的な意味合いで明治・大正期に作られた「新京極の七不思議」であるが、その後寺社地も減少して新京極の景観も大きく変化するなか、僅か百年余り前に語られた七不思議でさえ次第に忘れられようとしている。
 そこで失われつつある人々の記憶を辿りながら、明治以降に変遷を遂げてきた新京極通り界隈の移り行く姿に想いを馳せつつ、北から南へと「新京極の七不思議」を巡りながら、新京極の散歩を試みようと思う。


(1)タラタラ坂

 新京極通の北の始点である三条から南に向かう高低差1mほどの緩やかな下り坂はタラタラ坂、あるいは「たらたらおり」と呼ばれてきた。
 新京極三条の少し東側、十字屋楽器の店舗脇をドトールコーヒーのテラス席から新京極に抜ける通路は、途中10段の階段を降りていくようになっており、これもタラタラ坂と同じものだと気づかされるが、すぐ西側の寺町通りではそのような下り坂を感じないため、七不思議と呼ばれるようになったのであろう。
 秀吉時代に三条通が鴨川の三条大橋につながるよう堤のように高い位置に通されたが、寺町通りも当時から同じ高さになっていた。一方で元々鴨川の河川敷として現在の新京極通り付近から東側の一段低い(約1mほど低い)土地であった寺社跡地に開通させた新京極通りがそのまま低い位置であったため、周囲との間に落差が生じたものがタラタラ坂の正体なのである。
 新京極のすぐ東側に1mほどの崖のような高低差が存在することが分かる微地形地図を「タイムトラベル(2)」第1章の(1)にも掲載しているが、参考までにここでも再掲しておくことにする。

左が北、上が東すなわち鴨川方面。三条の南、新京極の東に1mの崖地形が認められる。

 なお新京極の三条には、明治30年まで誓願寺の黒門(北門)が残っていたらしいが、残念ながらその写真や画像を見たことが無いので、どなたか知っている方がおられればぜひ教えて欲しいものである。
 ちなみに誓願寺墓地は元々今の新京極通あたりまで拡がっており、墓地の空き地にあった小池に墓番一家が内職で錦魚を飼っていたが、元治の大火後に町中に放置されていた無名の兵士の遺骸をここへ運び込んでは、目ぼしいものを取り上げて遺体を池に埋めていたという強烈なエピソードが「緑紅双書 今昔物語その二」(田中緑紅、昭和37年刊)に載っている。この錦魚屋が金魚亭がしるこ善哉や氷金時の店も営み、後に錦魚亭食堂という立派な建物になったが、昭和初期に森永キャンデーストアーへと店が変わった。その後1階が森永ハンバーガーラブ、2階がシャトレーヌという喫茶店となり、現在では1階がドトールコーヒー店となっており、2階はポムの樹というオムライス店を経て今では猫カフェになっている。

明治初期の錦魚亭(石田有年「都の魁」明治16年刊)
明治中ごろの新京極三条と金魚亭(田中泰彦「京都慕情」昭和49年刊)
昭和47年の新京極三条「たらたら坂」(田中泰彦「京の町並み」昭和47年刊)
2019年に撮影した「タラタラ坂」

(2)誓願寺の迷子道しるべ

 誓願寺の門前北側(門に向かって左側)には有名な「迷子(まいご)みちし留遍(るべ)」と彫られた石柱が立っている。
 江戸時代の図絵にこの石柱は描かれておらず、明治時代に作られた石柱である。背面には明治15年に地元の有志が建てた旨が彫られ、現在壁に隣接している左面に「さがす方」、右側には「をしゆる方」と彫られており、それぞれに迷子や遺失物の掲示紙を貼り付けて伝言板の役目を果たしていた。
 こうした石柱は月下氷人石と呼ばれ、東京や長崎などいくつも現存しているというが、京都においては誓願寺の他に、八坂神社(南楼門の向かって左側の「神燈」)と北野天満宮(茶室松向軒の庭の「奇縁冰人石」)に残っているが、それらは江戸時代の遺物である。

誓願寺入口門の左側に立つ石柱が「迷子道しるべ」
「迷子道しるべ」昭和初期の写真と現在の写真を比べる

(3)誓願寺の阿弥陀如来像

 誓願寺の檀家でもあり江戸時代を代表する医者であった山脇東洋が寄進した阿弥陀如来像は、胎内に五臓六腑の内臓を持つ誓願寺の本尊であったが、元治の大火で本堂と共に消失し、現存していない。山脇東洋は宝暦4年(1754年)に六角獄舎で死刑囚の遺体解剖(腑分け)に立ち合い、その記録として5年後に「臓志」を刊行しているが、その霊を鎮めるために寄進したと伝わっている。
 ちなみに「臓志」の刊行は、杉田玄白らが「解体新書」を翻訳出版する15年も前の業績である。
 新京極を三条から下って最初の小道の東の突き当り(裏寺の北端)に「山脇東洋解剖碑所在墓地」の石碑があり、その奥には誓願寺の墓地が広がっている。
 この墓地には山脇東洋および山脇家一族の他にも、落語の祖として有名な安楽庵策伝、お半・長右衛門など多くの有名人の墓が眠っている。
 ちなみに長仙院に至るこの曲がり道は、誓願寺の方丈と、それを取り囲むように建ち並んでいた塔頭とを隔てていた通路の跡である。
 なお消失した本堂跡には、維新後に廃仏毀釈で売りに出された大通寺(南区)の本堂が移築され、本尊も同様にして八幡八幡宮から迎えたが、その本堂も昭和7年に焼失し、現在の本堂は昭和39年に鉄筋コンクリート製で再建されたものである。

誓願寺の本尊「阿弥陀如来像」
誓願寺墓地に眠る山脇東洋の墓

(4)長仙院の未開紅の梅

 誓願寺のちょうど裏側、裏寺と呼ばれる道に面した長仙院は、誓願寺の塔頭である。
 元々誓願寺の中にあった春日社(明神さん)の前に梅があって、蕾の時は紅色で、開花すると白い花を付けることから「未開紅の梅」とよばれていた。現在長仙院の門の外からも見えている小ぶりの梅の木も同系統の梅らしく、毎年春になると白く可憐な花を付ける。
 長仙院は非公開寺であるが、予約すれば拝観は可能とのこと。

長仙院の境内に咲く未開紅の梅

(5)和泉式部塔

 長仙院から更に南下して、右に折れる細く曲がりくねった小径を抜けると再び誓願寺の前に出るが、ここは六角広場と呼ばれている。ここから新京極通りを南に向かうとすぐに誠心院がある。
 真言宗泉涌寺派で華獄山東北寺誠心院と号するが、俗に和泉式部寺とも呼ばれていた。本来の読み方は〝じょうしんいん〟であるが、戦後になって浄心寺と区別するため〝せいしんいん〟と発音するようにしたとのこと。江戸時代の地図にはこの寺が「和泉式部」とだけ表記されている場合もある。
 「和泉式部塔」とは、かつて本堂脇に「軒端(のきば)の梅」と並んで建っていた宝篋印塔(ほうきょういんとう)という供養塔のことであるが、平成12年に裏手のお好み焼き屋「小春」などが消失する火事があり、それでできた隣接地の借家跡地に「和泉式部塔」が移設された。現在は裏寺側から駐車場越しに望むことが出来る。
 また、本堂脇に今もある和泉式部の歌碑の横には、いったい何代目になるのか分からないが、小さな「軒端の梅」が植えられている。
 誠心院の開祖でもある和泉式部は、誓願寺で仏門に帰依したとの説話もあり、誠心院が一条小川の地で隣接していた誓願寺と共に天正年間にこの地へと移されてきた経緯もあり、誓願寺と誠心院は和泉式部を通して深い関係にある。

誠心院境内に建つ和泉式部塔と慶大案内図(看板)
誠心院の軒端の梅と和泉式部歌碑

(6)逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀如来像

 誠心院から南下して蛸薬師の門前を過ぎると、広い蛸薬師通りに出るが、その東南角に建つビル形式の寺が、「女人往生さかれんげ阿弥陀如来」と刻された石柱の立つ「逆(倒)蓮華」こと安養寺である。
 浄土宗西山禅林寺派で山号は八葉山。本尊である「逆蓮華の阿弥陀如来像」は、門を入ってすぐ右側の階段を二階に上がったところにある本堂内に祀られているが、そもそも極楽往生できない女性を救済するために蓮華台を逆さまにしたと伝わり、このことは即ち女性がどれほど虐げられていたかを物語るエピソードでもある。
 寺はビルの中にあるが、一階には新京極へ通り抜けられる暗くて細い通路があり、奥には北向地蔵が祀られている。
 二階の本堂に上がると、外からガラス戸越しからでもご本尊を拝むことは出来るが、逆蓮華台を見ることは出来ない。

安養寺の入口
安養寺一階の通り抜けできる通路と、二階の本堂に上がる階段
ビル二階の本堂にある逆蓮華の阿弥陀如来像

(7)染殿(そめどの)の地蔵尊

 この散歩の最後に訪れるのは、安産祈願で知られる染殿院(そめどのいん)である。元は十住心院(じゅうじゅうしんいん)という金蓮寺(こんれんじ)の塔頭の一つで、入り口に立つ「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」と刻まれた石標は、ここが金蓮寺だったころの名残を示すものである。
 「染殿の地蔵尊」は2m余りの立像の裸地蔵で、秘仏として50年に一度公開されると説明板に記されているが、時期は未定とのこと。
 江戸時代この四条通北側の一帯は四条道場とも呼ばれた金蓮寺の広い境内地であったが、昭和3年に北区の鷹峯(たかがみね)に移転した。しかし染殿院だけはその後も新京極に残り続け、住職は金蓮寺の住職が兼務されているとのこと。
 仄暗い染殿院を甘栗の林万昌堂の店頭へと抜ける石畳の小道の先は四条通の喧騒である。三条から下ってきた散歩道のフィナーレとなるこの短いアプローチは、あたかも百五十年を飛び越えるタイムマシンの出口のようにも思える場所である。
 ちなみに四条通リに出ると、隣の交番との境界に「安産 守護 染殿地蔵尊」並びに「左 京極近道」と刻まれた石柱がひっそりと建っている。

染殿(染殿院)の新京極通り側の入口(出口?)
染殿(染殿院)の四条通り側の出口(入口?)

  → タイムトラベル新京極(1)
  → タイムトラベル新京極(2)
  → タイムトラベル新京極(3)
  → タイムトラベル新京極(4)
  → タイムトラベル新京極(6)
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  → タイムトラベル新京極(8)
  → タイムトラベル新京極(9)
  → タイムトラベル新京極(10)最終回


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