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タイムトラベル新京極(6)

第5章 七不思議以外の新京極の寺々


(1)西光寺(さいこうじ) 通称「寅薬師」(とらやくし)

 創建は鎌倉時代に遡る、浄土宗西山深草派で山号は北亀山。明治44年に焼失したあと、大正2年に再建され、仮建築のまま現在に至っている。京都十二薬師の第11番札所で、洛陽四十八願所地蔵めぐりの第34番札所でもある。
 寅薬師と称する薬師如来を祀っているため、通称「寅薬師」と呼ばれている。また腹帯地蔵(木像坐像)が本尊阿弥陀如来の脇壇に祀られており、これは江戸期に本寺の前にあった清帯寺(せいたいじ)の土造り腹帯地蔵の胎内仏であったとのこと。

蛸薬師の北隣のお寺「西光寺」は寅薬師と呼ばれ、通路奥の左手が本堂で更に奥には広い墓地

(2)永福寺(えいふくじ) 通称「蛸薬師」(たこやくし)

 浄土宗西山深草派で山号は瑠璃光山、院号は林秀院。本尊の薬師如来のほか、小さな地蔵堂に祀られている鎌倉時代の作と伝わる高さ90センチほどの木造の地蔵がある。
 この寺の変遷は複雑で、元は室町御池にあった「円福寺」が天正年間にこの地に移されてきたのが始まり。その境内に、室町二条から「永福寺」(えいふくじ)が移されてきて、これを合併。元治の大火で類焼した後の明治16年、元々あった「円福寺」が三河国岩津村(現愛知県岡崎市)にあった「妙心寺」と寺号を交換して現在に至り、新京極側に近い方の蛸薬師を祀っている「永福寺」が、奥にある「妙心寺」の管理をしているとのこと。したがって蛸薬師は永福寺であるが、妙心寺も同じ境内にあるという複雑な寺である。
 妙心寺と言えばまず花園の妙心寺が思い浮かぶが、裏寺にあるこの妙心寺はそちらとは無関係である。

蛸薬師の入口の上を見上げると「永福寺」と書かれた額がかかっている

(3)善長寺 通称「瘡神(くさがみ)さん」

 浄土宗西山禅林寺派で山号は大原山。非公開の地蔵菩薩は、枕反地蔵(まくらがえしじぞう)とも呼ばれているが、かつては立江(たちえ)地蔵菩薩と呼ばれていた。
 洛陽四十八願所地蔵めぐりの第35番札所本尊であり、親しみを込めて「くさがみさん」と呼ばれてきた。
 かつて死亡率の高かった天然痘の治癒、すなわち「瘡(くさ)除(よ)け」あるいは「おでき」などのできものや湿疹の治癒に後利益があるとして広く信仰を集めたが、今では知らずに通り過ぎる人がほとんどである。

訪れる人影も少ない善長寺本堂の提灯には「立江地蔵尊」と有るが非公開らしい

(4)了蓮寺(移転)

 善長寺と錦天神の間にあった浄土宗知恩寺派の寺で、明治22年の火災で本堂を失い、明治末期に本山の百万遍知恩寺の境内に移転して、跡地は中座(京都花月を経て現吉本ビル、1階にmont-bellが入っているビル)と帝国館(京都日活を経て現ダイアモンドビル、地下にDAISOが入っているビル)になった。
 鹿野峰吉(菊屋峰吉、鹿野安兵衛)の墓があることで有名。鹿野峰吉は京都土佐藩御用達の書肆(しょし)「菊屋」(現在の河原町四条上る「抹茶館」あたり)の主人であった鹿野音吉の長男である。脱藩した中岡慎太郎が菊屋に下宿した際には中岡慎太郎と坂本龍馬から「峰やん」と呼ばれて可愛がられていた。近江屋事件の際には龍馬の好物である軍鶏(しゃも)を買いに出掛け、事件直後に陸援隊屯所(土佐藩白川邸、現京大北部キャンパス内)へ知らせに駆けつけている。亡くなったのは大正7年(1918年)68歳であった。
 鹿野峰吉の墓は現在、本山である百万遍知恩寺裏手の広い墓地に祀られているが、この墓地にはほかにも歴史上有名な人物の墓があり、興味ある方は下調べてから墓参りするのもいいかも知れない。

百万遍知恩寺の塔頭のひとつ「了蓮寺」は非公開寺
百万遍知恩寺境内の東北に広がる墓地の入口と、鹿野峰吉こと安兵衛の墓

(5)錦天満宮

 元は歓喜光寺の境内鎮守社であったが、神仏分離により明治5年に分離独立し、門前の錦小路商店街の賑わいとともに、今では多くの観光客で賑わう人気の高い神社となっている。
 門前から始まる錦通りには、寺町と新京極の間に両端が建物の中に食い込んだ鳥居がつとに有名であるが、神社内の日之出稲荷神社には、額束(がくづか)に合掌形の破風扠首束(はふさすづか)をはめ込んだ奴禰鳥居(ぬねとりい)という昭和10年に建立された珍しい鳥居がある。この形は全国で2例しかなく、もう一つは伏見稲荷大社の稲荷山中にある荷田社(かだしゃ)の鳥居である。

外国人観光客に大人気の錦天満宮
錦天満宮の境内社である日之出稲荷神社の破風扠首束のある奴禰鳥居

(6)歓喜光寺(移転)

 時宗六条派本山の寺院で、山号は紫苔山。本尊は阿弥陀如来。鎌倉時代に八幡の地に創建されてすぐ六条河原院に移ってきた善導寺が、既にその地にあった歓喜寺を合併して寺名を歓喜光寺と改め、「六条道場」と呼ばれるようにもなった。応仁の乱後に高辻烏丸に移転した後、天正年間に金蓮寺の境内に移ってきた。
 明治以降は神仏分離令により錦天満宮が独立して、歓喜光寺のほうは明治40年に東大路五条を上ったところにあった法国寺に移転し合併した。
 そして昭和50年、山科区大宅の音羽山山麓に移転して現在に至っているが、江戸時代から東山五条にあった「南無地蔵尊(なむじぞうそん)」もその時に一緒に移されている。

六条道場から始まった歓喜光寺はここ山科区大宅奥山田に落ち着いた
「なむじぞうそん」はここに移転する前、東大路五条の北東に立っていたお地蔵さん

(7)金蓮寺(こんれんじ)(移転)

 時宗四条派本山の寺院で、山号は錦綾山。本尊は阿弥陀如来。鎌倉時代に四条京極の地に創建され、「四条道場」と呼ばれていた。全盛時は18もの塔頭が並ぶ広大な境内を有し、江戸時代以降も誓願寺と並ぶ大きな寺であったが、大火の度に荒廃し、明治以降は廃仏毀釈で土地を切り売りして、ついに大正15年(1926年)に現在の北区鷹峯藤林町(たかがみね ふじばやしちょう)に移転した。
 かつての境内には「千鳥ノ池」や「杜鵑松(とけんしょう)」(ホトトギスの松)という名木があり、大変有名だったという。京都のホトトギスは、まずこの木の枝に来て鳴き始めたといい、室町時代には六代将軍の足利義教も初声を聞きに駕籠で来たと伝わっている。

鷹峯の地に移転した「四条道場」こと金蓮寺の現在の姿
寺が経営する錦綾幼稚園の脇に、新京極にあった当時の寄進者の名前が刻まれた石柱が立つ
都名所図会の「四条道場」には金蓮寺本堂の右奥に「杜鵑松」の文字が

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