タイムトラベル新京極(7)
第6章 裏寺町のお寺を巡る物語
誓願寺墓地から四条まで通り抜ける小道は裏寺(裏寺町通、ウラデラ)と呼ばれ、その成り立ちは新京極通よりずっと古く、蛸薬師通と共に天正年間の寺町形成当時から開通していた道路である。
今も残る長仙院、頂源院、大善寺は誓願寺の塔頭であるが、そこから四条までかつては寺院が隙間なく連なっていた。しかし元治の大火後で大半が焼け野原となり、空き地を埋めるように飲食店や旅館が立ち並び始めると、やがて新京極の歓楽街化と対をなすようにして文字通り裏の歓楽街を形成していった。
時は流れて旅館は次第に姿を消し、明治以降も残ることのできた寺々が往時のまま、或いはビルに姿を変えながら、裏寺の両側に静かに佇んでいる。寺町や新京極に面した寺々に比べて普段は非公開のお寺が多いため、訪れる人も少ない裏寺の寺院群を北から南へと巡りながら、今も残る伝承を交えながら辿ってみたいと思う。
(1)誓願寺墓地
三条から新京極を下って最初の小道を左手(東)へ折れると、突き当りに「山脇東洋解剖碑所在墓地」の石碑があり、その奥には誓願寺の墓地が広がっている。その先右手の長仙院に至るこの曲がり道は、かつて誓願寺の方丈と、それを取り囲むように建ち並んでいた塔頭とを隔てていた通路の跡であり、裏寺と呼ばれるようになった通りである。
誓願寺墓地には山脇東洋のほかに、浄瑠璃や歌舞伎の世話物の名作「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」に登場するお半・長右衛門の墓や、加賀藩祖前田利家の三女で、豊臣秀吉の側室(加賀殿)となり、側室を辞した後に万里小路充房(までのこうじあつふさ)に嫁いだ摩阿(まあ)の墓、落語の祖と呼ばれ誓願寺の住職でもあった安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)の墓などもある。
広い墓地は周囲のビル群から一段低くなっており、元々河川敷であった頃の記憶を残している。

(2)長仙院
六角通リを越えるとまず現れるのが、「新京極の七不思議」でも取り上げた長仙院。誓願寺の塔頭であり、未開紅の梅で有名な寺院である。
これについてはタイムトラベル新京極(5)で詳しく記したので、ここでは省略する。

(3)頂源院
長仙院のすぐ南隣りが頂源院。浄土宗の寺で山号は竹林山。
非公開寺のようで私は詳しい情報を得ていないが、「京極の水子供養寺」などとして信仰を集めておられるらしい。

(4)大善寺
頂源院の向かい側、誓願寺の南隣りが大善寺である。浄土宗西山深草派の寺院で、本尊は阿弥陀如来。創建年は不明であるが、元は誓願寺の塔頭の一つ「大善庵」。明治16年に誓願寺の塔頭であった洞仙院、松吟院、江岸院などと統合して大善寺となった。
洞仙院から受け継いだ「洞仙院殿像」と呼ばれる女性の肖像画を所蔵しており、この女性が豊後岡藩(現大分県竹田市)初代藩主・中川秀成(ひでしげ)の正室・虎姫(織田信長の重臣であった佐久間盛政の娘)である事が平成6年に洞仙院の過去帳から判明し、市の指定文化財となって京都国立博物館に寄託された。
大善寺は、明治から大正にかけて活躍した三代目笑福亭円笑ゆかりの寺ということで、誓願寺と同様に今も定期的に大善寺寄席と称した落語会が開かれており、先日は京都市長のXでも取り上げられた。


(5)西念寺(移転)
浄土宗の寺で山号は浄業山、院号は開運院。現在ラウンドワンが建っている場所に平成2年まであったが、同年洛西ニュータウンへと移転した。
上方落語を代表する大ネタ「らくだ」を完成させた四代目桂文吾が酒で身を崩し、最晩年は西念寺で侘び住まいの末に大正4年に亡くなり、同寺に墓が建てられた。
戦後、五代目桂文吾が同寺で落語会を開き、五代目桂文枝や初代森乃福郎らも出演して人気を博したが、昭和30年代に途絶えたとのこと。
また三条柳馬場を東に入ったところの理容店前に「勤皇志士西川耕蔵邸址」という石碑がある。西川耕蔵は梅田雲浜が安政の大獄で捕らえられた際に雲浜の妻子を助けたほか、天誅組に資金を提供し、池田屋事件で新選組に捕らえられたのち処刑された人物である。明治38年、子孫にあたる近江新報社長で後の大津市長の西川太治郎が、西念寺にあった耕蔵の母と妻の墓の横に耕蔵の墓を建てた。
洛西に移転した現在の西念寺には今も桂文吾や西川耕蔵の墓がある。

(6)光明寺
ラウンドワンを過ぎてすぐ右手が立派なお堂と白壁が印象的な光明寺である。浄土宗西山深草派で山号は紫雲山。
ここは非公開寺であるが、門から眺めるときれいな庭越しに本堂の縁側に鎮座された賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)を拝むことが出来る。遠目にもびんずる様の赤い塗料はあちこち剥げているようで、多くの参拝者に撫でられてきた歴史を物語っている。
またここは洛陽四十八願所地蔵尊の「常盤華地蔵」がある第三十番札所でもあるらしいのだが、これも非公開寺ゆえ詳しいことはわからない。


(7)宝蔵寺
光明寺の向かいが若冲ファンに人気の宝蔵寺である。浄土宗西山深草派で無量山寶蔵寺と号する。本尊は阿弥陀如来。現在の本堂は昭和7年に建立されている。
門前には「開運弁財天」「安産地蔵尊」「伊藤若冲祖先の墓」と側面に刻まれた石柱が立つ。伊藤若冲の実家である伊藤家の菩提寺としてつとに有名で、若冲筆の「竹に雄鶏図」と「髑髏図」を所蔵するほか、若冲が建立した父母と末弟の宗寂の両墓がある。ちなみに若冲自身は伏見の石峰寺に埋葬されている。
拝観寺ではないが、伊東家の墓所参拝や若冲の髑髏をデザインした御朱印については決まった時間に受け付けられている。
また同寺にはほかにも、二代目中村鴈治郎の義父にあたる笑福亭圓歌の墓や、日本映画の父と呼ばれる牧野省三の先祖累代墓があり、落語会も時々開かれている。本堂の拝観は出来ないがイベントや教室などについての情報は同寺のホームページを参照のこと。

(8)法界寺(ほうかいじ)
宝蔵寺から1軒挟んで南隣りが法界寺である。浄土宗西山深草派で山号は無想山。
元治の大火で焼失後、明治12年に再興し昭和11年に改装されている。ここも非公開寺であり一般の拝観は叶わないが、平安時代末の仏師「定朝(じょうちょう)」の作と伝わる本尊の阿弥陀如来坐像については同寺のホームページから見る事が出来る。

(9)極楽寺
法界寺の向かい、光明寺の南隣りの寺が極楽寺である。浄土宗西山深草派で山号は欣求山。
ここも基本的に非公開寺のため詳細は不明であるが、近年若者向けの数々のイベントを行っており、それらの機会に拝観が可能と思われる。イベントの詳細については同寺のinstagramやFacebookページを参照のこと。
11月には十夜法要が行われているようだ。

(10)西林寺(さいりんじ)(移転)
極楽寺の南隣りの大きなマンションは、以前が京都ロフト、その前は河原町ビブレ、その前はニチイであった。それ以前の昭和44年までここにあった寺院が浄土宗西山禅林寺派の西林寺である。
移転先を訪ねるには、大原行のバスに乗る必要がある。八瀬駅から8駅進んだ登山口バス停で降車し、更に徒歩で500mほど北上すると右手に見える急な坂道を登って一曲りすると、眼前に広大な西林寺の境内が開けてくる。
西林寺は坂本龍馬の妻〝お龍〟の父にあたる楢崎将作(ならざきしょうさく)の墓所としても知られている。第14代住職の鏡空智門一道上人和尚が、武術に優れていた楢崎将作の父、奈良崎大造豊明に弟子入りした縁で、将作の死後、裏寺にあった西林寺に墓碑を建立した。
将作は父を継いで京都で内科・外科医を営み、青蓮院宮尊融法親王(昭和天皇の皇后妃である香淳皇后の祖父であり、中川宮とも呼ばれていた久邇宮朝彦親王)の侍医も務めた。一方で頼三樹三郎をはじめとする尊王の志士らと積極的に交流した。その結果安政5年(1858年)、安政の大獄に連座して捕えられたが翌年釈放。文久2年(1862年)に亡くなっている。
移転先同寺の無縁墓石群のなかに、一番上に「楢」の字が覗いている墓石があり、これが楢崎家の墓ではないかといわれてきた。
お龍は、龍馬暗殺から8年後に西村松兵衛と再婚しツルと名乗って横須賀で暮らしたが、明治39年に66才で貧窮の内に没してから8年後の大正3年、水戸藩脱藩の陸援隊隊士であった香川敬三や土佐藩出身の陸援隊隊士であった田中光顕(みつあき)の援助を受け、西村松兵衛の内縁関係になっていた妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となって横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」が建てられたが、遺言により同寺以外にも、霊山墓地にある龍馬の墓と、この楢崎家菩提寺となった西林寺にも分骨されている。そして平成17年に西村松兵衛の4代目の子孫により西林寺から天竜寺塔頭の寿寧院(じゅねいいん)に移され顕彰碑が建てられた。
ちなみに西林寺は、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の井口家の菩提寺でもあり、井口新助の墓もある。井口新助は醤油商「近江屋」の主人で二代目・近江屋新助を名乗る。土佐藩の御用達となり、勤皇志士を資金援助していたが、慶応3年(1867年)土蔵を改装して、材木商「酢屋」より移った坂本龍馬を匿った。また龍馬、中岡慎太郎が見廻組に暗殺された際には、土佐藩邸に報せに走り、翌年の鳥羽伏見の戦いでは、官軍に軍資金、食糧を提供し傷病兵の看護、武器弾薬の移送にも関わっている。

(11)妙心寺
西林寺跡地のマンションの向かい、蛸薬師通手前の角に向かって黒い塀が続く大きな寺院が妙心寺である。浄土宗西山深草派で高野堂と号し、本尊は阿弥陀如来。
洛陽四十八願所地蔵めぐり第31番札所であり、本堂脇の銅葺き唐破風造りの地蔵堂内に、札所本尊の醒ヶ井(さめがい)地蔵菩薩が安置されている(非公開)。
この地蔵菩薩は、平安中期に仏師定朝(じょうちょう)が彫った壬生寺の縄目地蔵(昭和37年に焼失)と同じ木で定朝が造ったもので、高野山に祀られていた像が本禅寺に移されてきたと伝わり、元々四条醒ヶ井に存在した本禅寺に祀られていたことに由来する。
ちなみに四条醒ヶ井の北側の亀屋良長には「醒ヶ井水」が湧き、京都の名水として知られている。そこから四条を渡った南側は「高野堂町」という町名であり、おそらくここが本禅寺の跡地と思われる。

このあと更に蛸薬師通を渡って四条へと南下するが、続きは次回のnote記事で・・・
→ タイムトラベル新京極(1)
→ タイムトラベル新京極(2)
→ タイムトラベル新京極(3)
→ タイムトラベル新京極(4)
→ タイムトラベル新京極(5)
→ タイムトラベル新京極(6)
→ タイムトラベル新京極(8)
→ タイムトラベル新京極(9)
→ タイムトラベル新京極(10)最終回
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