タイムトラベル新京極(8)
第6章 裏寺町のお寺を巡る物語(続き)
(12)正覚寺(しょうかくじ)
蛸薬師通の裏寺南東角の3階以上が赤い鉄格子で囲まれたひときわ目に付くビルが、正覚寺のビルである。
浄土宗知恩院派で山号は成等山(じょうとうざん)。創建の詳細、変遷は不明であるが、安土桃山時代の永禄2年(1559年)に創建と伝わる。
天正年間に現在の地へ移転させられた後、慶長20年(1615年)に浄土宗総本山知恩院の末寺とされ、そのとき伏見城の赤門が移築されたことから、「赤門さん」又は「赤門正覺寺」の通称で呼ばれるようになった。
天明の大火で弁天堂以外の伽藍を消失。再興するも、昭和40年に火災で弁天堂と本尊胎内仏以外を焼失、平成元年に5階建てのビルとして再建された。
昭和40年は再開発に乗じた地上げの嵐が吹き始めていた頃であり、蛸薬師の北では西念寺や西林寺の移転話が持ち上がっていた。本件火災との関連は不明ではあるが、ビル化された背景には当時の時流に抗う意思が有ったのかも知れない。
ビルには多くのテナントが入り、西側の裏寺に面した入口の「赤門」の突き当りには空海作と伝わる白蛇辨財天を祀る「弁天堂」があり、昔から花街の信仰をあつめているとのこと。本堂へは弁天堂左手のエレベーターで5階に上がる。

(13)常楽寺
正覚寺と入口の門が向かい合っている寺院が常楽寺である。室町時代の創建と伝わる浄土宗西山禅林寺派の寺院で、山号は雲松山。
本尊は阿弥陀如来であるが、洛陽四十八願寺の第32番札所であり、札所本尊は本堂に祀られている弟児(おとこ)地蔵(御朱印では夜叉身弟児(やしゃみおとこ)地蔵尊と記される)とのことであり、門から本堂に続く通路の左側に見える墓地の中に朱塗りの玉垣で囲まれた小さな社があるが、ここも非公開寺なので詳しいことはわからない。
ちなみに当寺には明保野亭事件で切腹した土佐藩士麻田時太郎の墓があるらしい。

(14)稱名寺(しょうみょうじ)(称名寺)
常楽寺から下ってすぐの左手が称名寺。山号は影向山。浄土宗で本尊は阿弥陀如来。ここも非公開寺であり、この界隈の寺で唯一Googleストリートビューにぼかしが入っている。
近江屋の真裏にあり、坂本龍馬が仮寓していた土蔵からは緊急時に稱名寺へ逃げられるよう寺の塀に梯子が掛けられていたという。
しかし近江屋事件当日、龍馬は風邪のため母屋二階に移っており、中岡慎太郎と談合中、夕刻に刺客に急襲され、逃げることが叶わなかったとされる。龍馬はその場で絶命、中岡も2日後に死亡した。
江戸時代後期の漢方医で書家の有持桂里(ありもちけいり)の墓があるらしい。

(15)光徳寺
称名寺のはす向かいのお寺が光徳寺。浄土宗で本尊は阿弥陀如来。ここも非公開寺であり、お寺とは思えない近代的な門構えで、普段は固く閉ざされている。
本堂奥の墓地には、浮世絵師の速水春暁斎(はやみしゅんぎょうさい)(1767〜1823)の墓があるとのこと。

(16)西導寺
称名寺のはす向かい、つまり称名寺の南隣りが西導寺。浄土宗で本尊は阿弥陀如来。ここも非公開寺である。
「土州・安岡宦馬(かんま)の墓」があるとのこと。
土佐藩士の安岡宦馬(安岡勘馬、名は安平)は、文久3年(1863年)上洛して土佐藩京屋敷に滞在するも、七卿落ちにつながる「八月十八日の政変(堺町御門の変、禁門の変、文久の変)」に憤慨し京都藩邸を脱出(脱藩)。中国地方諸藩の尊攘派志士と交流した後、元治元年京都に戻るが、幕府側による弾圧の厳しい時勢を嘆き松原通鴨川の河原で自刃し22歳の若さで亡くなったという。

(17)浄心寺
西導寺の南隣りの大きな寺院が浄心寺。山号は烏柄山。浄土宗で本尊は阿弥陀如来。ここも非公開寺である。
したがってこの寺についても詳細は承知していないため解説できる事は特にない。
浄心寺の南隣りは次に記す河原町OPAのビルであるが、寺とビルの間には河原町通の「ひさご寿司」へ通り抜けできる細い通路が有り、抜け道として重宝している人も多い。


(18)歓喜光寺(移転)
浄心寺の門前から寺町通まで抜ける道は第二京極と呼ばれていた道で、錦天満宮東側の新京極公園と裏寺の角に建つスーパーホテルを含めた一帯は元の歓喜光寺があった場所。そこに明治44年に三友倶楽部が開業し、大正5年に三友劇場となって、戦後は京極東宝劇場という映画館として栄えたが平成18年に閉館。平成20年に現在のスーパーホテルが開業した。
歓喜光寺についてはタイムトラベル(6)で詳しく記したので、ここでは省略する。

(19)大龍寺(移転)
河原町OPAビルが建ってる場所にかつて存在していた寺が、裏寺を巡る散歩道の最後のお寺となる大龍寺。
山号は八部山(はちぶざん)、院号を護法院(ごほういん)と称する浄土宗の寺院。
本尊は阿弥陀如来であるが、本尊とは別に祀られていた烏樞沙摩明王(うすさまみょうおう)から「うすさま堂」あるいは「うっさん」、「うっさんの寺」などと呼ばれていた。
現在の新京極のKOEドーナツ(京都松竹阪井座ビル)と京極井和井の間の道をOPAビルに突き当り右折して四条まで続く細い抜け道を烏須沙摩辻子(うすさまのずし)と呼んでいたのは大龍寺の烏樞沙摩に由来する。
昭和52年に周山街道の奥、右京区梅ヶ畑高鼻町に移転したが、今も便所の神様として、また下半身の病気に効くとして女性の信仰を集めており、周山街道から寺に続く道中に「ウッサンの寺・大龍寺」という看板が立っている。
市バスで行くなら福王子から周山街道を高雄方面に4つ目のバス停「高雄病院前」で下車し、右手奥の坂を上っていくと現れる「浄土宗 大龍寺」と刻まれた石碑で左折すると、「烏樞沙摩明王奉安所」の石碑が立つ大龍寺の山門である。
急な石段を登り境内に入ると「うすさま堂」が有り、蟇股(かえるまた)には二代目中村鴈次郎が奉納した木彫りの一対の河童があるほか、七代目市川海老蔵、八代目団十郎の奉納額、中村鴈治郎、扇雀の奉納額などもあって、新京極時代の名残りをとどめている。
ちなみに先斗町の「鴨川をどり」は最初、大龍寺横の烏須沙摩辻子にあった寄席「千代の家」で開催されていたが、明治35年以降に平安奠都千百年を記念して建設された先斗町の歌舞練場で行われるようになったというエピソードも残っている。
烏須沙摩辻子を通り抜けると目の前は高島屋が聳え立つ、四条通りである。

→ タイムトラベル新京極(1)
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→ タイムトラベル新京極(7)
→ タイムトラベル新京極(9)
→ タイムトラベル新京極(10)最終回
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