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タイムトラベル新京極(3)

第2章 新京極開通の経緯


(1)明治維新における廃仏毀釈と、寺社領地の官収

 元治の大火で荒廃した各寺院に追い打ちをかけたのが、幕末の治安悪化と明治維新による東京への遷都(奠都)であり、廃仏毀釈の嵐であった。
 慶応3年の秋には大政奉還直後、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、年明けには鳥羽伏見の戦いが始まるなど風雲急を告げる騒然とした時代、焼け野原が広がったままの寺町界隈を訪れる人も減り、寂れていく一方であった。
 翌年秋には天皇も東京へ行幸、行政機関も京都から去って街の賑わいも次第に消えてゆき、荒廃した寺院は復旧のため境内地を芝居小屋などに貸し出すなどしたが、かつての賑わいには程遠いものであった。しかも同年に出された神仏分離令をきっかけに廃仏毀釈運動が明治5年頃まで続き、寺院は存亡の危機に追いやられた。
 そして、明治4年に第一次上知令、8年に第二次上知令が出され、それまで認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が没収(上地)された。
 例えば誓願寺は六千坪を越える元の境内のうち四千八百坪もの土地を没収され、塔頭も統廃合されるなど、寺町界隈はまさに荒廃の危機に瀕したのである。

洛中洛外町々小名大成京細見絵図(1864頃)


(2)槇村正直(まきむらまさなお)による明治5年の新京極開通と払下げ

 新京極通の開通に関する京都府の行政文書等の公的資料は現存していないため、開通の経緯や過程は上地に際して作成された図面や、当時の状況を書き残した書物から類推することになるが、明治4年に京都府大参事になった槇村正直(後の二代目府知事)が主導する形で、官収した用地を整備し、三条から四条までの寺々の境内を貫通するようにして土塀を取り払い、明治5年に新京極通を開通させた、というのが通説である。
 そして沿道を商業地として坪50銭で売り出したが、当初なかなか買い手が付かず、槇村は香具師(やし)元締めの阪東文治郎に依頼して土地売却を進めたとも伝わっている。

新京極開通直前の寺町境内図


誓願寺外伝「国松の墓」

 豊臣秀頼と側室伊茶の間に生まれた豊臣国松は、6歳になって大阪城に入り始めて父秀頼と対面。翌年には大坂夏の陣が起こり、秀頼と別れの杯を交わして田中六郎左衛門と乳母に連れられて城を落ち延びたものの、「駿府記」によると徳川方により伏見農人橋で捕まったとのこと。これは京都の伏見ではなく、大阪城からほど近い東横堀川の農人橋あたりは伏見町と称するので、このあたりで捕まったのではないだろうか。
 その後国松は京都所司代板倉勝重に引き渡され、二条城にいた徳川秀忠のもとに連行され、市中車引き回しの後、同じく京都に潜伏後捕らえられた長宗我部盛親と共に、六条河原で斬首された。享年わずか8歳。田中六郎左衛門も自ら志願して同時に処刑され、乳母だけが助命されたという。
 処刑場に放置された国松の遺骸を引き取って誓願寺塔頭の竹林院に埋葬したのが亡き秀吉の側室でもあった松の丸殿(京極竜子)である。松の丸殿は京極高吉と京極マリアの子であり、淀・初・江の浅井三姉妹とは従姉妹でもあり、淀君とは醍醐の花見で競い合った逸話が有名であるが、一条小川(上京区元誓願寺町)から三条寺町に移転した際に誓願寺の諸堂建立にあたっては松の丸殿と京極家が施主となっている。
 松の丸殿は没後、竹林院墓所に国松と並んで葬られたが、時が流れ元治の大火で荒廃した誓願寺境内にあって二人の墓所はそのまま残され、境内地が明治5年に官収されて新京極が通じ、更に時が流れて明治半ばには竹林院跡が夷谷座(えびすざ)という劇場になってからも夷谷座の前には国松の供養塔が建っていたとのこと。
 明治31年に阿弥陀ケ峰の豊国廟が復興され、それから更に13年後の明治44年になって、やっと国松と松の丸殿の供養塔が国松の祖父秀吉が眠る阿弥陀ケ峰中腹の太閤坦(たいこうだいら)に移されたのである。
 太閤坦から長い石段が始まるその左手脇に、二人の供養塔が並んでおり、訪れる人もまばらな供養塔に手を合わせていると、非業の死を遂げた国松がようやく永遠の安らぎを得たのだと得心するしかない。
 すぐ近くに立つ漏世公子及寿芳夫人遷墓碑(ろうせいこうしおよびじゅほうふじんせんぼのひ)には墓所移転の経緯が刻まれている。漏世公子は国松、寿芳夫人は松の丸殿を指している。

天保時代の誓願寺境内見取図(天保14年)ー吉良覚峰氏蔵ー
国松と松の丸の供養塔及び漏世公子及寿芳夫人遷墓碑

脱線余話「夷谷座」

 元々誓願寺の塔頭であった竹林院の跡地に「夷谷座」(えびすざ)が、身振り狂言専門の劇場として開業したのは明治9年のことである。
 夷谷座はその後歌舞伎を上演する小屋へと変わっていくが、夷谷座の売店経営者の白井亀吉は松竹の白井松次郎の義父であった。つまり夷谷座は後に日本の興行界を席巻する松竹(白井松次郎、大谷竹次郎兄弟)につながる芝居小屋であり、明治28年には金蓮寺境内にあった新京極道場の芝居小屋に大谷竹次郎が興行主(仕打)となって阪井座(後に歌舞伎座)が開業するなど、新京極一帯は芝居や歌舞伎の一大本拠地であり、その後は映画館街に変貌することになる。
 時代が下って昭和13年に夷谷座は松竹劇場となり、昭和29年には京都ピカデリー劇場となって平成13年まで映画館として残り続けた。
 この建物の地下から2階には昭和42年からサカエスーパーが入り(ダイエーグルメシティ京極店)平成26年7月まで近隣の生活に密着したスーパーとして栄えたが、現在ではホテル(Hotel Gracery)として建て替わっている。

夷谷座の錦絵(疋田石印/明治26年)

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  → タイムトラベル新京極(10)最終回


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