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タイムトラベル新京極(2)

第1章
新京極開通以前の三条から四条にかけての寺町界隈


(1)現在の寺町・新京極周辺は秀吉以前どんな場所だったか

 現在の寺町通は、平安時代には東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)と呼ばれ、平安京の最東端の通りでした。
 最果ての通りとはいえ、平安時代から東京極大路の内側(西側)は公家の邸宅が建ち並び賑わっていましたが、その外側(東側)は鴨川の河川敷が拡がる氾濫原となっていました。
 地形図からは現在の新京極付近の東側が約1mほど落ち込んでいることが確認でき、これは以前の鴨川の氾濫原がこの付近まで広がっていたことを示しています。今もお寺の奥にある墓地などに入ると、一段低くなっている事が良く分かります。(現在の三条通が高いのは後に三条大橋に続く道として作られたからです)
 鴨川はたびたび氾濫を起こし、歴代の権力者が治水に頭を悩まされてきた川ですが、鴨川は平安京から見ると風水で言う青龍にあたる神聖な川であると同時に、風葬や処刑の場ともなってきた負の歴史も背負ってきました。
 その後1467年に始まった応仁の乱で京都の街は焼け野原となり荒廃していく訳ですが、特に応仁の乱が東京極大路の鞍馬口に近い上御霊神社であったため、東京極大路の街並みは北から南までほとんど焼失してしまい、荒廃を極めました。

(2)秀吉による都市改造の一環としての寺院移転

 1590年(天正18年)豊臣秀吉は、平安京以来の都市機能を再編する中で、市街地を『お土居』で囲み、市内に点在していた広大な敷地を持つ寺院を市域の周辺部に集めるように移転させ、道路網を整備しました。主として日蓮宗(法華宗)の寺院は寺之内に東西に、浄土宗の寺院が現在の寺町通の東側に沿って南北に配置させたのです。
 平安京の東端である京極大路の東側は鴨川河岸ですが、洛中に散在していた寺院をそこに南北に並ぶように移転させ、翌年の天正19年には、寺域の東端と鴨川の間に沿って御土居が築かれたのです。

秀吉が目指した城下町(出典「京都・観光文化時代MAP」光村推古書院 2006年)

 「寺町」となった鞍馬口から五条までのうち、三条から四条の間に移されてきた寺院のうち最も大きかったのが誓願寺(せいがんじ)です。北は三条、西が寺町、南は六角より少し南側、そして東が現在の河原町通の西側にあたる御土居、これら四辺に囲まれた広大な境内には、18もの塔頭を抱え、茶店や小屋も建ち並び、大層な賑わいを見せていたということです。
 誓願寺以外にもいくつもの寺院が天正18年に移されてきましたが、一方で鎌倉時代からこの地にあった寺院があります。それは、現在の錦天満宮のあたりから四条までの地に鎌倉時代からあって、通称「四条道場」と呼ばれていた金蓮寺(こんれんじ)です。記録によると誓願寺に匹敵するほどの広い境内を持ち、複数の塔頭が建ち並ぶなか、やはりいくつもの茶店や小屋が建ち、たいそう賑わっていたと伝わっています。
 こうして元の京極大路の東側には隙間なく寺院が建ち並び、門前である京極通は寺町通と呼ばれるようになったのです。

京大絵図(1688)に現在の道路名を重ねた(新京極通も追加)

(3)江戸時代に発生した三大大火による被災

宝永の大火は宝永5年(1708年)3月8日、油小路姉小路下る宗林町の銭屋市兵衛宅から出火して、西南の風に煽られた炎が、西は油小路、北は今出川、東は鴨川、南は錦小路で囲まれた範囲の多くの建物を消失させることになった大火災です。特に御所は壊滅状態となり、焼失した禁裏の復興再建として公家町を拡張するために、現在の御苑内の南部や西部にあった民家は二条川東(にじょうかわひがし)や、内野(うちの)と呼ばれる平安京大内裏旧地へ移転させられました。
 川東地区には新丸太町通、新麩屋町通など、移転前の名前に新の字を冠した通り名が多く残り、また河原町通近辺にも新椹木町通、新烏丸通など同様の通り名が残っています。
 そして民家が焼け出された区域に公家屋敷が禁裏を囲むように再建され、現在の京都御所に繋がりました。

出典:立命館大学歴史都市防災研究所

天明の大火は天明8年(1788年)1月30日、宮川町団栗図子付近(現在の団栗橋の東たもと)の民家から出火して、千本、鞍馬口、大和大路、六条で囲まれた広大な範囲(当時の京都市域のほぼ全域)を二昼夜にわたり延焼して、二条城本丸や御所、東西の本願寺を始めとする市内中心部の約3万7千戸を焼き尽くし、6万5千世帯が住む家を無くし、応仁の乱による戦火を上回る被害を出しました。これは京都における江戸期最大の火災となりました。
 数少ない史跡としては府大病院近くの清浄華院に五輪塔と石碑が有り、東三本木の円通寺にも犠牲者供養の石碑が残っています。

・そして元治の大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)は元治元年(1864年)7月19日、禁門の変(蛤御門の変)のさ中、河原町二条にあった長州屋敷付近と、堺町御門に隣接する鷹司邸から相次いで出火し、火の手は北東の風により瞬く間に延焼し、現在の京都御苑の西側から南東方向の広い範囲に広がり、禁裏御所は消失を免れたものの、東本願寺を始めとする多くの寺院や、約3万近くの世帯が焼け落ちて、京都の市街地が荒廃を極めることになった江戸期最後の大火災です。

京都大火(元治の大火)を伝える瓦版

 秀吉時代に作り上げられた寺町の賑わいも、こうした江戸時代に起きた大火によって三条から四条にかけての寺町通の寺院のほとんどがその都度被災し、その度に長い年月をかけて復興に努めてきた訳ですが、最後に起きた元治の大火においては、ほどなくして明治維新を迎えたため、再び江戸時代の栄華を取り戻すことは叶いませんでした。

この後の明治維新直後になっても、現在の新京極にあたる通りはまだ生まれておらず、あたりは焼けて荒廃した寺町の寺院やその跡地だったのです。(続く)

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  → タイムトラベル新京極(10)最終回

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