タイムトラベル新京極(4)
第3章 寺院街から歓楽街への変化と映画衰退後の発展
(1)芝居小屋や寄席、および料亭や飲食店の興隆
明治6年にはようやく新京極に芝居小屋や狂言、見世物小屋、浄瑠璃、楊弓、料理店などが建ち並び賑わいを見せ始めていた。
天保年間に創業し、平成23年まで三条の角にあった「さくら井屋」、三条を挟んで北側の明治元年創業の「田毎」、隣の寺町ではあるが明治6年創業で今も続く「三嶋亭」、場所を変えて「乙羽」につながる四条角の「金丹」など、新京極開通当時から続いてきた店もあるが、大方の店は次々と看板を変えながらも、新京極は次第に全国的に有名な歓楽街へと成長をしていった。

また芝居小屋として繁盛していた劇場の中には、その後映画時代がくるまでの間、歌舞伎小屋として変身を遂げたものも多かった。たとえば新京極開通当時からあって、後年ピカデリーとなる「夷谷座(えびすざ)」は明治の後半は歌舞伎の劇場であり、大正期まであった「明治座」(現MOVIX)は花形歌舞伎で賑わっていた。また裏寺にあった「三友劇場」(現スーパーホテル)でも大正4年に火事を出すまでは関西歌舞伎が上演され、花遊小路北の「阪井座」は明治33年から歌舞伎座と改称され昭和9年に映画館となるまで歌舞伎小屋として繁盛するなど、新京極界隈は明治から大正にかけては歌舞伎が盛んな街としても有名になっていった。

(2)映画時代の到来と松竹などの映画館の興隆
明治2年、河原町六角北西角に出来た下京第六番組小学校が大正13年の明治座の火事で類焼し、昭和3年に移転して平成5年に閉校するまでの66年間、立誠小学校があった木屋町蛸薬師には、明治22年から京都電燈の変電所(当初3年間は火力発電所)と社屋があり、社屋の庭で明治30年、稲畑勝太郎がフランスのリュミエール兄弟が発明したばかりのスクリーン映写式「シネマトグラフ」を持ち帰り、日本初の試写に成功した。
前年にはエジソンの発明による、のぞき式「キネトスコープ」が既に京都でも披露されていたが、普及したのはシネマトグラフのほうであった。

現在の六角広場の北側には新京極開通当初に夷谷座が建ち、その売店経営者の白井亀吉は松竹創設者の一人となる白井松次郎の義父であった。夷谷座は昭和になって松竹直営の映画館となって松竹劇場と名を変え、戦後はピカデリー館として平成13年まで営業していた。この松竹第2ビルには昭和42年にサカエスーパーが入り、その後ダイエーに名前が変わっても平成26年にビルが閉鎖されるまで地元ではサカエと呼ばれ親しまれていたが、平成29年からは藤田観光が運営するホテル(Hotel Gracery)に建て替わっている。
新京極花遊小路北の松竹第3ビルは、もともと四条道場芝居が明治時代に芝居小屋の阪井座となり、誓願寺前にあった夷谷座の興行主である白井松次郎の弟の大谷竹次郎が興行主となって、歌舞伎座から始まり最終的に映画館として続いていたものであるが、商業施設を経て取り壊され、平成30年に9階建てのホテルに建て替わった。新しいビルは明治時代の由緒ある名前に因んで「京都松竹阪井座ビル」と命名された。新京極は双子の兄弟によって興された松竹創業の地でもある。

(3)映画の衰退とその後の新京極のにぎわい
明治40年代、電器館や日本館、パテー館、第一八千代館、等々多数の映画常設館が開業した。また新京極で映画事業を行っていた横田商会が大正元年に日活を創業。新京極で創業した松竹は大正9年に東京へ進出。翌年には日活からマキノ映画が独立。映画自体も活動写真や無声映画から、トーキー映画へと発展を遂げ、昭和30年代まで新京極は映画を中心に繁栄していった。
しかしその後、テレビの普及など娯楽の多様化により、映画館を始め、寄席や劇場が徐々に衰退してゆき、今も営業を続けている映画館はMOVIX京都のみとなっている。
現在の新京極から映画館や劇場の姿は消えてしまったが、今のところは外国人観光客で賑わうアーケード街として、多くの土産物店、雑貨店、飲食店が立ち並び、賑わいを保っている。

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