闇 530(真地獄変開幕編)
闇 530(真地獄変開幕編)

2026/04/18 sta
※この作品は、因果律に業を混ぜた小説です
前回の章

二千二十一年十月十五日、金曜日赤口。
インカジ『レディ』に入口にある自動検温器の前へ定期的に立つ。
体温いつもと変わりなし。
神田から誘われた舞台公演でも、何とか無事コロナの感染は大丈夫だったようだ。
でも一応明日も、まだ気をつけないとな。
「岩上さん、今日の朝、仕事が終わったら食事会やるから」
「え、今日ですか?」
「そう、今日は三人いるから俺は一回帰る。朝方になったら店に来るから。場所は区役所通りの龍の巣ね。じゃあ、あとはよろしく」
だったら昨日のうちに言えよ、クソメガネ。
俺は小西の後ろ姿を睨みつけた。
まああいつがいないほうが仕事も捗るもんだ。
とっとと消え失せろ。
キャッシャー室へ戻ると、片屋敷が笑顔で話し掛けてくる。
「岩上さん! 小西さんって癖あるかもしれないけど、あの人の言う事はあまり気にしない方がいいですよ」
「え、急に何ですか?」
「さっき倉敷さんから聞いたんですよ。昨日自分が休みの時、岩上さんが小西さんから酷い言われ方してたって」
「まあ、ミスをしたのは自分だから、しょうがないですよ」
「いやいや、メモにコースターと灰皿をくっつけないと、十回書けなんて、さすがにあれは無いですよ! 自分、聞いてて本当に酷い人だなあって思いましたから」
年下のスタッフたちに同情されるなんてな……。
今の俺は棺桶に片足つっ込みながら、金の為にプライドを捨てて働くだけの惨めな男に成り下がった。
誇りを…、矜持を一体いつから捨ててしまったのだろう?
名義の小西からは、何故か仕事ができない奴とレッテルを貼られ、何かにつけ小言を言われるような存在。
そんな致命的なミスを俺はいつした?
修羅場だけは人一倍潜り抜けてきた。
だが、そんな過去を知らない人間にとって、今の俺は軽く見られるような人間なのだろう。
若い頃は暴力第一に生きてきた。
喧嘩が強いのが信条というほど、強さに拘った。
一対一のタイマンで負けた事が無かったから、全日本プロレスを目指すようになっていた。
しかし井の中の蛙に過ぎなかった俺。
それでもジャンボ鶴田師匠のいたあの場所が、自分にとってはとても誇りに感じ、せめてあの人たちの後塵を汚すような生き方だけはすまいと、騙されようが利用されようが、懸命に生きてきたつもり。
今の俺はどうか?
十二分にあの人たちを汚してしまっている。
裏稼業へどっぷりと浸かっている時点で、始めから話になっていないのだ。
でも、ここを辞めてどうなる?
表社会で似たような収入など稼げはしない。
せめて今の内に金を貯め、表舞台を堂々と歩けるように……。
どうやって?
こんな俺がどのように表社会を歩く?
もうすでに人生詰んでいるんだよ、俺は。
自分らしく生きてきたつもりだったんだけどなあ……。
何でこうなった?
何が失敗した?
店内のシフト表をボーっと眺める。
裏稼業インターネットカジノ『レディ』で一番下っ端。
それが今の俺。
今日で半月おしまいか。
早いものだ。
そして明日はになれば、第三土曜……。
本来なら土日は、川越祭り。
だが、今年もコロナの影響で、二年連続休み。
こんな状況下だから仕方ないのかもしれないけど、やっぱり淋しいもんだ。

栗原名誉会長が亡くなってから、一度も開催されない川越祭り。
一年以上経って、未だ線香もあげに行けていない。
今度息子の一郎さんに連絡を取って、会長の家に香典を持っていかなければ。
ジャンボ鶴田師匠の墓参りすら、一度も行っていない不義理な俺。
おじいちゃんが亡くなって、未だ線香一本あげに来ないゴリとの縁を切った。
人の行動は許せないくせに、自分自身はいいのか?
不義理という点では同じじゃないか。
まず今度ちゃんと調べて、山梨県にあるという鶴田師匠の墓参りへ行こうかな。
「岩上さん、ボーっとしてどうしたんですか?」
俺の顔を覗き込むように片屋敷が見ている。
コイツも三十一歳なのに、てっぺんまでハゲが進行しているじゃないか。
ある意味不憫な奴だ。
「いや、ジャンボ鶴田師匠の事をちょっと考えていまして」
「えーと…、ごめんなさい。ジャンボ鶴田って誰ですか?」
「え? プロレスラーのジャンボ鶴田を知らないんですか?」
「ええ、聞いた事もありません」
約ニ十歳も年が離れると、こんな事があるのか。
これには酷いカルチャーショックを受けた。
「倉敷さん! 倉敷さんはジャンボ鶴田分かりますよね?」
「ええ、もちろん。かなり有名な人じゃないですか」
倉敷が十歳下の四十歳。
当たり前の事が、世代毎にこうも変わっていく現実。
「片屋敷さん、ジャイアント馬場社長は知ってますか?」
「そのぐらいは分かりますよ」
「……」
なるほど、馬場猪木は知っていても、それから下の世代のレスラーは知らないのだろうな。
三沢光晴さんの名前を出したところで、また誰ですかと言われるのがオチだ。
俺自身がもっと努力して、総合格闘技の世界で結果を出し続ければよかったのか?
よせよせ、たらればは。
いつまで大した事もない過去に、しがみつくつもりなんだ。
何も残っていない空っぽの俺。
せめて無心で仕事をしよう。
もうそれしか価値などないのだから。
仕事を終え、焼肉屋『龍の巣』で食事会が始まる。
メニューを見ると、値段は叙々苑並に高い。
それでも大場系列の食事会はすべて経費で出してくれるので、スタッフたちも遠慮く高級肉をバンバン頼んでいた。
まずは上たん。

定番の上カルビ。

どこの部位か知らないがランプ。

イチボ。

トンビなんて肉は初めて聞いた。

上ミノ。

「小西さん、あとエノキダケのバター炒めと、サンチュも欲しいですね」
「ああ、じゃんじゃん好きなの頼みなよ」
会計四名で十万円越え……。
涼しい顔をしながら代金を払う小西であるが、店の経費だろ。
大場系列の財力とシステムが凄いのであって、おまえはただのパクられ要員なんだからな。
何だか本当に俺も、恨みつらみが多くなってきたな……。
二千二十一年十月十六日、土曜日先勝。
神田から飲みの誘いの電話が来るが、仕事だと断る。
そういつまでも、あいつの暇潰しなどに付き合っていられない。
いつのもように大明飯店へ行き、卵とウインナー炒め定食に餃子を頼む。

いくら組織が巨大でも、それで自分が力を得たつもりで勘違いしてはいけない。
底辺なりの美意識。
庶民は庶民らしく過ごさないと。
二千二十一年十月十七日、日曜日友引。
フェイスブックの過去の思い出を眺めていると、二年前の今日は原因不明の瞼の腫れた日だった。

当時は右膝、右足首の甲の謎の腫れ、一ヶ月くらい続いた風邪、そして今度は目……。
俺、ひょっとして呪われてるか霊障に掛かっているのかと、不安になっていたものだ。
だが五十歳前後のただの身体のガタだったのかな?
まああれ以来、特に何の異常もなかったし、鬼の霍乱のようなものか。
とうとう明日は、コロナワクチンを打つ。
ファイザーとか言っていたけど、予防接種なんて小学生の時以来じゃないか?
ハンコのような変な注射で、確かBCG?
結構な数のクラスメイトが泣いていたもんな。
痛みには強いほうだけど、打ったあとみんなが言うように腕が痛くならなきゃいいけど。
二千二十一年十月十八日、月曜日先負。
アスクルームでゆっくり睡眠を取ってから、新大久保駅へ向かう。
池袋から東上線で川越駅まで行けば、すぐ赤心堂病院なので結構楽だ。

東口で降りてしまい、踏切に引っ掛かったので歩道橋を使って線路の上を渡る。
右手に見える病院。
ワクチン一回目。
何となく自然と写真を撮っておいた。
予約をしていたのと、接種する人がそんないなかったせいか、三十分ちょっとの時間ですべてを終える。
注射のあと十五分ぐらい異常がないか待たされるのが怠い。
レディの小西が本当に打ったのか聞かれるのも面倒なので、病院内で自分の顔を撮っておく。

あれ?
右目の上に二つ傷があるぞ?
そうか、自撮りモードにすると、鏡のような感じで写るから左右反対になっているだけ。
つまりこれは左目の傷で間違いない。
「……」
この二つの傷を見る度、お袋と幼少期の自分を思い出してしまう。
部屋に到着すると、床に放り出される。
僕はそこで初めて泣いた。
泣けば恐ろしいママの顔が、涙で滲んで見えなくなる。
「何度、言ったら分かるんだよ」
頬に痛みが走る。
僕は両腕で顔を隠した。
痛みは色々なところから感じた。
容赦なく無差別に攻撃を繰り出すママ。
僕は泣くしか方法がない。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくママ。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。
分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも僕は電話の受話器を震えながら持っている。
恐ろしかったのだ。
抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、ママの手元から離れていた。
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。
目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
胸を押され、床に倒れ込む。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
僕は言われるまま立ち上がる。
足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。
ママはいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。
身体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。
ママがブロックを投げつける途中だった。
青色のブロックが僕の頭に命中する。
僕は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。
分かっていながら立ち上がった。
そうするしかないのだ。
何度もママは、僕にブロックを投げつけた。
僕はこのまま殺されるのかな。
素直にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開く。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。
今まで見た事のないような厳しい目でママを見ていた。
二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。
必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。
床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
僕は目を押さえながら、床に転がった。
たくさんの血が出ていた。
僕は強くならないと、いつか殺されちゃう……。
それからあとは記憶にない。
そっと指先で傷跡を撫でる。
あの時の傷って、どっちだったっけ?
「お時間になりましたので、お帰りになられても大丈夫ですよー」
看護婦に言われ、赤心堂病院を出た。
クレアモール商店街を歩きながら、今はもう亡きお袋の事をぼんやり考えていた。
無力だった俺に、こんな傷を残してこの世を去りやがって……。
昔のような憎悪のようなものはなく、何故俺とお袋は永久に分かり合えないまま終わってしまったのだろう…、そう考えている自分がいた。
腹を痛めて産んだはずの長男に虐待をするほど精神を病んでいた母親。
親父は遊び儲け完全なる育児放棄の中、身一つで嫁に来たお袋は誰もあの家で味方がいなかったのだろう。
多分あの虐待はしたくてしたのではなく、身近にいた俺だから八つ当たりしてしまった。
そうでもしないと自我が崩壊する一歩手前だったのかもしれない。
悪い事をしたという自覚が何も無いまま、ただ暴力に怯え、震えながら泣くしかなかったあの頃。
今の職場レディで負け犬のような感覚は、すでにこの時で植え付けられていたのではないか。
思わず笑ってしまう。
何が強くならなきゃ殺されちゃうだよ……。
俺は頑丈になったというだけで、壊れにくくなっていただけ。
強くなった訳ではないのだから。
だからヤクザの事務所へ行こうが、総合格闘技のリングで試合をしようが、腐るほどの地獄が襲い掛かって来ても、壊れなかっただけなのだ。
つまり元から備わっていた遺伝子。
皮肉な事にお袋が、そう俺を頑丈に健康に産んでくれたというだけ。
この傷は岩上家の長男としてこの世に生まれ落ちた時から、つけられるべくしてついたものなのだろうな。
左手に回転寿司の『魚べい』が見えてくる。
あれ、こんなところに魚べいがあるよ。
確か新大久保駅のシュベールの上にも最近できたばかりだよな。
身近なところで二軒も見掛けるなんて、最近勢いあるんだな。
ワクチンも打ち終わった事だし久しぶりにマグりますか。
ひたすらマグロの赤身の握りと、コーンサラダを一つ、ネギトロ軍艦も一つ頼む。

携帯電話でフェイスブックを見ると、先ほどの赤心堂病院からの投稿に対しコメントが寄せられていた。
『そろそろ腕が痛くなってくるころかな。 森貴裕』
『全然変わらなかったですよ! 今マグってます。 岩上智一郎』
『寝る頃からかな。何ともない人もいるようだから、痛くないかもね。 森貴裕』
『多分飲んでも大丈夫だと思いますよ。 岩上智一郎』
この森とは実際に会った事はないものの、初期横浜時代インターネットのゲーム上で知り合い未だこうしてやり取りが続いていた。
『泣かなかった? 吉岡裕祐』
『泣くわけないじゃないですか。 岩上智一郎』
いつもえげつない冗談のやり取りをしている吉岡さん。
俺がよくからかったコメントをするから、そのお返しのつもりなのだろう。
『これで無敵ですね。 いしかわまさゆき』
『二回目行くの面倒臭いですね。 岩上智一郎』
石川雅之とは二度目の横浜時代から、本当にいい付き合い方をできている。
また落ち着いたら焼肉を一緒に行きたいものだ。
「……」
馬鹿親父にも、たまには寿司のお土産を持っていってやるか。
電話をすると似た者親子で、親父もマグロしか寿司は食べられないようだ。
持ち帰り容器にマグロを詰める。
別にこんな事をしてやる切りなど本来ない。
だが、おじいちゃんは亡くなり、お袋も亡くなっていた。
あとになって変な後悔をしないよう、今の内に先手を打っているだけ。
自分で自分を納得させようと何を考えているのだ、俺は……。
久しぶりに地元へ帰ってきた息子が、親にお土産を持っていく。
それだけの話だろ。
こんな事を思う自分。
おそらくそれだけ平和になったからなのだろう。
あの守銭奴、加藤皐月がまだ実家に棲みついていたら、絶対にこの図式はなかったし、また親父とも絶縁したままだったはず。
こうして五十年も無駄に生きて思う事。
人間というのは本当に馬鹿な生き物で、すべての嵐が過ぎ去ったあとじゃないと色々なものに気付けないという事実。
これは俺にしても、親父にしてもそう。
自分一人だって考えがまとまらないのに、それが複数になればなるほど意見が一致するなんて絶対に無理だよな。
そう考えると今のインカジ『レディ』や他の『ダウンロード』にしても、あそこまでのシステムを引き、まとまりを見せている大場系列のやり方は本当に大したものだ。
小西という膿を生み出すのは仕方ないが、それを差し引いてもある意味裏稼業の完成形に近いだろう。
そんな事を思いながら実家へ到着し、親父に寿司を渡す。
「おまえ、今どこにいるんだ?」
「新宿でホテル暮らしをしているよ」
短い親子会話を終え、大正浪漫通りのヤスのカガヤカフェに行く。

「あれ、智さん、今日は休みですか?」
「休みだけど、赤心堂にワクチン打ちに来たんだよ」
「へー、智さんもとうとうワクチンですか」
「ジントニックと、ウイスキー冷えているならストレートでくれよ」
「え? 飲んで大丈夫なんですか?」
「さっきもマグってきたし、酒も問題ないだろ」
酒を飲んで会話をしていると、元ホームラン劇場の櫻井さんが入ってくる。
「あ、智一郎。フェイスブック見たけど、ワクチン打ったあと酒なんて飲んじゃ駄目だろ!」
「大丈夫ですって。みんな大袈裟ですねー」
何でワクチン一つで、みんなからこうも言われるんだ?
俺が赤心堂病院の写真をフェイスブックへ載せたからか。
数杯飲んでから新宿へ戻り、明日の休みは向こうでゆっくりしようと思った。
「ヤス、チェックして。向こうで大人しくしとくよ」
「四千五百円です。大人しくって、うちで九杯も飲んでいるじゃないですか」
「うっせー! 釣りは取っとけ。じゃあ、櫻井さんお先に失礼します」
帰り道本川越駅ビルペペの中にあるくらづくり本舗で、和菓子を買った。
いつもお世話になっている大明飯店のおばあさんたちへ川後の銘菓をお土産で持っていってやろう。
以前の癖で、つい本川越駅の改札を潜り、十九時の小江戸号へ乗ってしまう。

特急電車が発車してから、失敗したと思った。
まあ高田馬場駅で山手線に乗り換えればいいか。
アスクルームへ到着すると、大明飯店へ行こうと思ったがもう閉店時間かと思い、一階のまいばすけっとで弁当や飲み物を買って帰る。
くらづくり本舗のお菓子は、明日持っていけばいいや。
こんな感じで連休初日は終わった。
二千二十一年十月十九日、火曜日仏滅。
ゆっくり寝てからシャワーを浴びて、大明飯店へ向かう。
ここまでまったり過ごすのも珍しい。
大明飯店のずっと気になっていた生カボスサワーを注文。
「あ、おばさん。これ、良かったらどうぞ」
「ん? 何だいこれは?」
「川越のお菓子です。いつもここにはお世話になっているから、買ってきたんですよ。食べて下さい」
「何だか悪いねえ」
前回カボスサワーを頼んだ時は、カボスが取れなくてという理由で飲めなかった。
今回はあるので楽しみだった。
何故俺はカボスにここまで異常な反応を示すのか?
それは中学生の頃アクアマリンの出したカボスという飲み物を思い出すからだ。

いつの間にか市場から消えてしまったが、真夏の夜中冷蔵庫を開けたら、この飲み物しかなかった為、仕方なく飲んだ時の衝撃は今でも覚えている。

瓶のタイプもあったよな。
あれ以来、カボスが妙に好きになった俺。
「はい、お兄さんお待たせ」
目の前に置かれる生カボスサワー。

「お兄さん、今日はお酒なんて珍しいねー。休みかい?」
「ええ、連休で地元が川越なんですけど、コロナワクチン打ってきたんですよ」
「ほんと早くコロナなんて無くなってほしいもんだよ」
「そりゃあ全世界の人間が、そう思ってますって」
よし、今日は奮発して贅沢に注文するか。
「あ、おばさん、エビチリと…、あと炒飯。それに野菜スープも下さい」
「相変わらず食べるねー」
実際にカボスサワーを飲んでみる。
「……」
あれ?
何か昔のアクアマリンのような衝撃がないぞ?
ただの柑橘系のサワーを飲んでいるような感じだ。
あれは飲料水としてメーカーが甘さなどを加え、飲みやすくしていたからこそ美味かっただけだったのか……。
「はい、お兄さん、エビチリね」

普段海老なんて絶対に食べないが、不思議とエビチリなら食べられる俺。
浅草ビューホテルの中華『唐紅』の車海老のエビチリもまた食べたいが、もうあそこのホテルとは縁が無いもんな……。
かつてホテル時代の上司だった林。
彼には本当に申し訳ない事をしてしまった。
浅草ビューホテル最上階スカイラウンジベルヴェデール時代の上司、林から連絡があった。
話を要約するとホテルの給料だけでは生活がキツく、何か仕事がないかの相談。
「それはホテルを辞めたいって事ですか? それともホテルを続けながらの兼業として?」
「もちろんホテルをやりながら副業って言うの? 岩上、裏稼業って言っていたから何か無いかなと」
確かに裏稼業だが、ゲーム屋で週一、二だけ働く訳にもいかないだろう。
それにこの店で働くにしても、あと一ヶ月しかない。
「少し時間下さい」
俺は電話を切り、従業員に何か金になるいい仕事はないか聞いてみた。
岡本があると言ってくる。
内容を聞くと、クレジットカードを使った詐欺だと言う。
「犠牲になる人いるからヤバいだろ?」
「いえ、それがクレジットカード会社は保険があるから、犠牲になった人は後々保証受けるので、誰も被害受けないんですよ」
よく分からなかったが、とりあえず林に伝えると実際に会って話を聞きたいと言う。
二人同時に店は休めないので、夜十時の出勤に間に合うよう七時くらいに浅草へ行く約束をした。
クレジットカードを使った詐欺行為。
あれ以来、林から連絡は無かった。
一度電話をしてみたが、元々優しい性格なので躊躇っているようだ。
「無理しないでいいですからね」とだけ伝えておく。
岡本はあの機械貸したままで、元の管理している中国人がどうなってるんだと毎日うるさいと、せっついてくる。
仕方なくビューホテルのセントクリスティーナへ連絡をすると、小沢が出た。
「あ、小沢さん。お久しぶりです。岩上です。あの…、林さんは……」
「おいっ、オマエ何をしたんだ? 林さん、警察に呼ばれたぞ?」
「……」
何故そんな展開に?
ホテル時代の仲が良かった後輩へ内緒で内情を聞いてみた。
どうやら自分でカードを通す勇気が無かった林は、キャッシャーの新人に機械を手渡し分け前をあげるからやれと命令。
ビビった新人は支配人へ報告。
それから警察介入。
そんな流れで林はクビになったと聞いた。
俺は一人の人生を台無しにしてしまったのだ。
ただ林は何を聞かれても俺の名前を出さなかったらしい。
実際今現在もこの件で、俺に警察から連絡が来た事が無い。
岡本に状況を伝えると、数日後機械を戻さないなら林の命を奪うと脅されたと言う。
俺がその中国人と直接話をつけると言うと、岡本はあの機械自体二十万するので、俺と折半で十万ずつ出し合って話をつけてきますと説得された。
仕方なく十万を岡本に渡す。
以来この一件は何事も無くなった。
あとに残ったのは林との連絡は、今後つかなくなった事。
そして俺が二度と浅草ビューホテルへ顔を出せなくなった事だろう。
ある程度時間が過ぎてこの話を知り合いにすると、恐らくその岡本は俺を引っ掛けて十万円をうまく騙し取っただけだと言われた。
過ぎてしまった過ちは取り戻せない。
俺が金を失った事よりも、林のホテルマン人生を壊してしまった事に対して、心が痛かった。
「……」
結果的に、俺は一人のホテルマンの人生を台無しにしてしまったのだ。
胡散臭かった部下の岡本。
あんな人間の口車に乗ってしまった林。
間接的に紹介した俺も、罪は根深い。
エビチリを食べると、あの当時の嫌な思い出が蘇ってしまう。
あの時騙されるように失った十万など、どうでもいい。
ただもう連絡のつかなくなった林。
今はどこで何をしているのか。
「はい、炒飯ね」

あ、またカレーライス頼むの忘れてしまった。
まあいいか。
ここの炒飯美味しいし。
「はい、野菜スープね」

コロナ禍で客数もまばらだったので、ゆっくり飲みながらおばあさんと会話をした。
お代わりはカボスでなくいつもの緑茶割りにして、餃子も追加で注文する。
緊急事態宣言の為、四時で店を閉める大明飯店。
三時過ぎまでまったり過ごし、会計をしてアスクルームへ戻った。
ベッドに寝転がりながら任天堂スイッチをしていた時だった。
急激な胸の痛み。
ゲーム機を放り投げ、瞬間的に俺は身体を丸める。
何だ、こりゃ?
心臓?
凄い苦しいぞ?
身体の内部で何かで心臓を鷲掴みされたような圧迫感。
俺は右手で左胸の上を強く押さえながら、苦しさのあまり転がりだす。
ベッドからそれで転げ落ちたほどだった。
息苦しく呼吸も碌にできていない。
何だよ、これ?
ふざけんじゃねえよ。
右の拳を固く握りしめ、心臓の上を何度も強く叩く。
少しだけ楽になった。
ヨロヨロとした足取りでベランダへ向かう。
セブンスターに火をつけてタバコを吸っていると、また先ほどの心臓の痛みが来そうな気配を感じる。
俺は手すりに左腕を入れ、胸を鉄の棒へ押し付けるような体勢を自然と取り圧迫していた。
あんなキリキリした痛みなんて、もう絶対に嫌だ。
タバコを途中で揉み消し、何度も胸を強く叩いた。
これって昨日打ったワクチンのせいだろ?
副作用ってやつか?
だから打ちたくなかったんだよなあ。
まあ今日は大人しく部屋で念の為休んでいるとするかな。
とりあえずこの今の症状をフェイスブックへ投稿しとこう。
えーと、時間は十五時四十六分。
ワクチン打って一日経ったら、心臓が物凄く締め付けられるような痛みでのた打ち回った。
これってヤバいのか。
案の定みんな好き勝手なコメントをすぐしてくる。
『やっぱ酒じゃない? 櫻井弘幸』
『酒なんですかね? かなり苦しかったでした。 岩上智一郎』
あの程度の酒を飲んだぐらいで、こんなになるものか?
絶対にワクチンだろ。
『大丈夫かい? 医者行っとけよ。 吉岡裕祐』
『今は心臓に重さが残った感じですね。 岩上智一郎』
医者は昨日行ったと書こうとしたが、さすがにこの手の冗談を書くにはタイミングが悪過ぎるよな……。
『お疲れ様です。自分は一回目から肩の痛みが続いてますが、これから二回目を受けに行くのですが不安です。 戸高由多加』
『このままぽっくり行けるならいいですが、苦しみが続くのは嫌ですね。 岩上智一郎』
横浜の戸高からも。
この人とは実際に会った事もないのに、親身になってくれるよな。
『二回目は、高熱確定みたいだね。 森貴裕』
『もう二回目はいいかなって感じです。 岩上智一郎』
いくら店からの命令だとしても、こんな思いをするぐらいなら二度目なんて絶対に嫌だ。
一万二千円の保障は有難いが、逆にいえば俺の命をその金額で危険に晒すのかという事になる。
『大丈夫ですか? お大事になさってください! 中嶋康博』
『あんま大丈夫じゃなかった。身体の中だとどうしようも出来ないね。 岩上智一郎』
普段コメントなんてしてこないナカジーまでもが。
これって凄い重症だったという事か?
まあ今はもう落ち着いたしなあ。
『ヤバいですね、血栓です! 脳で起これば脳梗塞です。 渡邉祐美子』
『血栓なんですかね? 苦しまず楽にぽっくりいけるなら、それでもいいのですが。 岩上智一郎』
『智一郎さん! 今流行りの血栓です。毎日救急車が鳴り病みません…。
ぽっくりいけたらいいですよね? 誰もが思っている事ですが……。二回目わ、やめて下さい! あたしわ、反対派です! 渡邉祐美子』
俺だって嫌だよ。
一回目だって本当は嫌だったんだ。
それをレディの連中がみんな、口を揃えてまだ打っていないとうるさいから仕方なく打ち、こうなっただけなんだ。
裏稼業なので、細部を詳しく言えないのがもどかしい。
『接種した病院に電話で伝えてみて下さいね。あと、医者が大丈夫ってなったら、二回目も受けましょう~! なるべく二回とも受けた方が良いので、まずは接種した病院に連絡して下さいね。 かおり蒼井』
『ありがとうございます。二回目の時に聞いてみますね。 岩上智一郎』
本当に人によって意見がバラバラだな。
まあそれでもここにコメントをしてくれている人たちは、俺の身を気遣っての事。
有難いものだ。
『副反応で心筋炎が稀ですが起こりえます。病院に行かれた方がよろしいかと…。お大事になさって下さい。 KousukeUeno』
『ありがとうございます。とりあえず今はもう落ち着きました。二回目の接種の時に聞いてみようと思ってます。 岩上智一郎』
KDDI時代の同僚の上野からまで。
それだけこの心臓の痛みは、みんなにとって異常事態だったという訳なのか。
まあ明日から一週間、また仕事が始まる。
次の休みは二十四日の日曜だもんな。
今日は大人しくして、次の休みは岡部さんに連絡して飲む約束をしてみようかな。
「岡部さん、今週の日曜って空いてます?」
「空いてるけどどうしたの?」
「俺、ワクチン打ってきたんですけど、さっき心臓が一瞬もの凄く締め付けられたというか、転げ回るような痛みだったんですよ」
「おい、それ本当にヤバいぞ? 医者行ってこい!」
「大丈夫ですよ、もう今は落ち着きましたから。岡部さんも、俺の頑丈さは知っているじゃないですか。それで日曜日、川越まで行くので飲みませんかという電話です」
「構わないよ。昼ぐらいから飲んで、夕方になったら栄二のところへ顔出すか。久しく行けてなかったし」
こうして次の休みは、川越で飲む事が決定する。
明日から四日間仕事かよ。
怠いなあ……。

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