闇 531(真地獄変心筋梗塞一節)
闇 531(真地獄変心筋梗塞一節)

2026/04/19 sun
※この作品は、因果律に業を混ぜた小説です
前回の章

二千二十一年十月二十日、水曜日大安、秋の土用入り。
昨日の急激な心臓の痛みは、一体何だったのだろうか?
ワクチンの副作用にしては、洒落にならない苦しさだったぞ。
左胸を手で擦ってみる。
二度目の摂取は、この事を言い訳に打たないでいいか、今日の夜出勤したら聞いてみよう。
あれ以降は特に何の問題もなく過ごせた俺。
昼になると、心臓の違和感もまるで無かったので、大明飯店へ行き、壁に貼ってある新メニューを眺める。
「あれ、おじさん。アジフライなんて始めたんですね」
「前から貼ってあるよ。お兄さんが見てなかっただけだって」
「じゃあ今日はアジフライを注文しますかね」
横浜橋商店街で住んでいた頃、近くにあった中華一番を思い出すなあ。
いや、あれはまだ住む家もなく、仕事が終わると毎日のように横浜を探索していた頃だったっけ。
あそこのアジフライ定食って、当時確か五百円だったもんなあ。

ボリューム満点で、金が本当に無かった俺はあの店のお陰で本当に救われた気持ちになれた。
もう今では閉店してしまったけど、あの当時にあのような店があった過去。
ちょっとしたものに、俺は色々と救われていたんだなとしみじみ思う。
そして今は、この大明飯店という店のお陰で、日常を見失わずリズムとなっている。
「はい、お待たせー、アジフライね」

中華一番だったら、三羽のアジフライで五百円。
それから十年経った大久保では、二羽で八百円。
時代の流れとこのコロナ禍、そして土地的な家賃の違いなのだろう。
こんな事をいちいち考える俺は、本当にセコい人間だ。
昔は昔、今は今。
そして横浜と新宿では、全然土地柄が違う。
こうして寛いで食事をできる環境に、まずは感謝を覚えないと。
『肉厚な感じね。 篠崎一茂』
フェイスブックの投稿を見た篠崎から、コメントが入る。
『たまにはこういうシンプルなのもいいでしょ。もし篠ヤンがこっち来る事あって、神田も来れるようなら、ここで酒飲もうよ。ここタバコも席で吸えるよ。 岩上智一郎』
篠崎も、神田の本当の金遣いの荒さを知ったら、一撃で付き合いをやめてしまうだろうな。
同級生同士でそうならない為にも、俺はこういう店へ連れてきて、上手く橋渡しをしないといけない。
また夜の十一時から、インカジ『レディ』の仕事が始まる。
二千二十一年十月二十一日、火曜日赤口。
レディの業務が落ち着いてから、名義社長の小西へ、一昨日ワクチン打ったら副作用なのか心臓がもの凄い痛みが走った事を伝える。
目的は二度目のワクチンを打たないでいいかというもの。
「いや、仕事にちゃんと来れて普通じゃないの。ちょっと大袈裟じゃないの?」
「……」
やはりコイツとは話にならない。
痛みに強い俺が、痛いと言っているんだぞ?
試合中、ろっ骨を折った状態でもそのまま続けた過去。
このパクられ要員のメガネは、そんな修羅場も何も経験した事がないから、簡単に抜かしているんだろうな。
俺と四つ違いの小西。
おそらくこの大場系列に入るまで、店長や責任者など一度も務めた事はないはず。
だから人の気持ちも分からず無能なのだ。
この手の馬鹿に一番与えてはいけない権力。
その辺が完璧なシステムを誇る大場系列の弱点だと思う。
それにしても疲れからか、妙に肩から背中に掛けて凝りを感じる。
珍しいな、今までこんな事感じた事すらなかったのに……。
キャッシャー室で待機しながら、時間潰しする。
相変わらず片屋敷と小西は、親子のようにじゃれ合い仲がいい。
ふと、横浜時代金を貸したのに裏切り飛んだ坂本の事を思い出す。
あの馬鹿のせいで、レオパレスのマンションは追い出されるは、金は戻ってこないわで、散々な目に遭った。
そうだ、あの時の教訓をフェイスブックへ投稿しよう。
もう二千十六年の話だから、ある程度の内容を暴露してもいい。
【子供の給食費を払えないから金を貸して欲しいと言われた話】
これは二千十六年の時の話。
とある人から店の経営を頼まれた俺は、全力で仕事へ取り組んでいた。
舞台は横浜。
客もフルハウスで集まり、売上も月に数百万は作れ、中々いい出だしを切った。
ただ集められた従業員はヤクザ者ばかりだったので、俺はかなり大変な目に遭った。
二日に一度は大幅な遅刻をする奴。
この時間から八時間働いてねと伝えているのに、勝手に一時間早く来て、一時間早く帰る奴。
来て店の個室で寝るだけの奴。
いきなり休む奴。
二十四時間営業している店で、自分のシフトをまともにこなせる奴が誰一人いない現状。
それでも店は動いている。
必然とその皺寄せはすべて自分がカバーしていた。
基本八時間か十二時間働けばいいシフトを組みながら、突発的な休み、遅刻などで急遽十八時間勤務になる俺。
酷い時は四十四時間ぶっ通しなんて事もあった。
一日の休みすらまったく取れない現状の中、俺は知り合いにうちの店来ないか?と声を掛けた。
こっちに来て知り合って二年は経つ人間だったので、気心知れた奴だ。
しかし彼は仕事が無く逼迫した状態で、店に入る際個人的に金を貸して欲しいと懇願してくる。
聞くと家賃はおろか、子供の給食費すら滞納しているようで、俺はとりあえず十万貸す事にした。
本来ならこんな事する義理などないが、早くまともに仕事できる奴を入れ、俺自身少し楽になりたかったのだ。
日が経つとそいつは「岩上さんすみません。実は家賃の滞納が数ヶ月あって……」と言った具合に金の無心をしてくる始末。
何だかんだで俺も総額二十八万まで貸していた。
ここまでしたのだから仕事を真面目にしてくれるだろう…、そう思った俺だが現実は甘くない。
女房が別れると言い出してと遅刻、出ていくと言われ俺が早く出勤。
結局二ヶ月くらい働いて休み一つ取れず、無茶苦茶なシフトをこなしていた俺は、身体がおかしくなるのを実感した。
それでいてまるで反省のない従業員たち。
俺は切れて「そんな偉そうにするなら、おまえらだけでやってみろ」と、その店を辞める事にした。
金を貸した奴には、すぐ返せと言っても無理なのは分かっていたので、自分の口座を教え、「ここに毎月俺の家賃分だけでいいから振り込んで」と伝え了承を得た。
ある日管理不動産から連絡があり、家賃滞納をしていると言う。
そんな馬鹿な?
確認すると二ヶ月丸々振り込んでなく、俺は部屋を追い出された。
貸した奴はというと、店での金の使い込みがバレて逃げたらしい。
あれから六、七年経つが、そいつからの連絡は一切無い。
普通に考えれば、十万単位で金を無心してくる奴など信用してはいけないのである。
当時データ化した免許証のコピーが未だあるが、ほんと晒してやろうかなという気分になる。

何が言いたいかと言うと、変な同情心から簡単に金など貸してはいけないって事を伝えたかったのかな。
あのクソ野郎、若頭の三田の店の金まで手を付けて逃げたらしいが、ヤクザ者に追い駆けられ、まだ生きているのだろうか?
本当に俺も甘いというか、馬鹿だよな……。
人を助けようとして金を貸し、その馬鹿に騙されて家を追い出されて自殺未遂手前まで行くのだから。
あの時岡部さんからの電話と二十万円を渡してくれなかったら、俺は今生きていたのだろうか?
そう考えるとゾッとする。
「岩上さん、買い物まだ行かないの?」
「あ、すみません。すぐ準備します」
「本当さー、メモ用紙にメモっておきなよ。覚えが悪いんだから」
おまえ、俺がここを辞めると決めた時、本当に殺すぞ、小西……。
その気になれば、ヤクザだろうと何だろうと引かないんだよ、俺は。
土下座させて地面をいつか舐めさせてやろうか、ボケが。
人間の尊厳を軽く見る奴は、いずれ地獄を見せてやる。
俺の広い心に、今はせいぜい感謝をしておけ。
連休明け初日の仕事から気分悪く終わった俺。
琴美の天使の囀りのような声を聴いてから、ゆっくり休もう。
新大久保駅まで歩き、二階のシュベールへ入る。
「いらっしゃいませー、お好きなお席へお掛け下さいませ」
説明しようのないこの身体の隅々まで浸透する琴美の声。
彼女の声には本当に癒される。
ミートソースとモーニングを食べながらシュべり出す。

このような朝食を取れる俺って、結構このコロナ禍でも幸せなほうだよな?

マイナスの方向へ考えれば、人間いくらでも落ちてしまう。
せっかく生きているのだ。
少しでも前向きに捉えるよう頑張らないと。
こんな座り心地のいいソファーへ座っているのに、妙に背中が固い。
精神的な疲れでも溜まっているからか。
アスクルームに帰ってしっかり睡眠を取ろう。
また夜から仕事。
今日を含め、あと三回出れば休みで岡部さんと川越で飲める。
今はまだ、この生活を壊す訳にはいかない。
「……」
それにしても身体が寝ていてもキツいなあ……。
ちょっとマッサージに行ってくるか。
一度アスクルームを出て、大明飯店の道を大久保駅へ歩く。
南口手前にタイ式マッサージの店があるのは知っていたので入ってみた。
入口にタイムセールで四千円と書かれていたが、入口で五千円と言われる。
千円ぐらい面倒だったので、金を払い念入りに背中を押してもらう。
首や肩というよりも、左側の背中が攣ったような痛みと固さがあるのが分かった。
「ねえ、身体の上に、足で体重掛けて思い切り押してくれる?」
そこまでやって幾分身体が楽になれ、帰って睡眠を取った。
夜になりレディへ出勤した時、湯浅が俺の顔を見ながら「岩上さん、顔色悪いですよ? 病院行ったほうがいいですよ」と言ってくる。
大袈裟だなと思いながら、トイレに行き自分の顔を見てみた。
別段変わらないだろ?
今日終われば、あと二回で休みだし。
二千二十一年十月二十二日、火曜日先勝。
仕事中、夜中の三時過ぎ、また背中が重く感じる。
マッサージへ行ったばかりなのにな。
多分あれだけ強く押したから、揉み返しに近い状態になっているのだろう。
今日仕事が終わったら、琴美の声を聴いて、タイ式でない普通の整体へ行ってみるか。
連日のシュベールにて、シュべりタイム。
天使の声を耳で楽しみ、ピザトーストを食べる。

携帯電話で検索しながら、近くの整体を探す。
大久保駅のほうに良さげな整体があるな。
行ってみるか。
すぐらく堂整体院?
ちょうど地図的には北口と南口の真ん中ぐらい。
シュベールを出る際、階段の踊り場にある鉄柵の角へ、背中を押し付ける。
そのぐらい身体が辛かった。
五十歳になったから、今までのガタでも来たのかよ?
気のせいか、大久保駅まで歩く三分程度の距離も、息切れがする。
何か身体が明らかにおかしい。
昨日のタイ人に強く踏ませ過ぎたから、背中の筋肉でも痛めてしまったのか?
何とかすぐらく堂整体院へ辿り着き、タイ式マッサージでしてもらった事と、年齢による体力の衰えを説明。
「ちょっとあちらの国のマッサージだと、乱暴なやり方で筋肉を痛めてしまう患者さんが多いんですよ。さあ、横になって下さい。まずここの骨がズレているので……」
ウンチクを語っているが、俺も以前岩上整体をやっていたから分かるよ。
とっとと分かっているなら治せ。
口には出さないものの、体調不良から神経が苛立っていた。
初回料金は三千九百八十円。
通常なら七千円と中々強気な値段設定だ。
「どうでしょうか?」
左側の肩を回しながら肩甲骨も一緒に動かすと、ゴリゴリっと凄い靭帯の鳴る音がする。
いまいち背中の重さは残っていた。
「うーん…、まだ重いですね」
「まあ一回の施術では中々改善できないものです。次はいつにお越しになれますか?」
なるほど…、俺が自分の整体で欠けていたのはこの部分だったのか。
岩上整体の患者のリピーター率は八割ほどある。
しかし来る度毎回きちんと治してしまうから、患者の身体のガタが来るのは数ヶ月先になってしまう。
立ち仕事で常に身体に負担の掛かる床屋の長澤さんや、美容師の小輪瀬さん、銀行員の渡辺信さんは週に一度は来てくれる。
森昇のお袋さんやトヨタ主幹の中原さんなどは、俺の事を気遣い応援する意味で通ってくれている気がした。
小料理屋こしじの岩沢さんは、本当に俺から気が出ているのか知らないが、岩上整体を気に入って来てくれている。
きょうちんなんかもその類いだな。
ん-、あと定期的にってなると二ヶ月以上空いたり、または三ヶ月空いたりだもんな……。
あ、あとは泉ちゃんも来るけど、あの子収入少ないの知っているから正規で料金取れないんだよな。
ゴリやチャブーはよく来るけど、患者でも何でもないただのゴミ。
リピーターじゃない患者が来ても、初診千円だから収入へ直結しない。
もう少し短い間隔でリピーターが欲しかった。
じゃあ治す一歩手前で?
次にいつ来るか予約を入れさせて……。
馬鹿かよ。
それこそ俺が整体を開業し、ここまで苦しみながらやってきた意味合いが無くなってしまう。
この拘りが元で、俺は売上に苦しみ自分の首を自分で絞めていた。
だからあんなシステムエンジニアと称しながら、母体は出会い系サイトの詐欺会社へ副業など行ってしまったのだ。
とりあえずこの身体の違和感を無くさない事には、生活に支障が出るレベル。
ここの先生も人が良さそうだし、もう一度通ってみるか。
「明日も来ますよ。まだこの時間ぐらいに」
「では、岩上さんで明日の十一時頃にしておきましょうか?」
「そうですね。なんなら先にお金も払っておきましょうか?」
「いえいえ、その時で結構ですから」
「あ!」
「どうしました?」
「ごめんなさい。明日は来れるけど、ちょっと残業があって、朝の十一時まで仕事があったんですよ。だから十二時頃に予約変えて下さい」
「畏まりました。では明日の十二時にお待ちしております」
大久保駅からアスクルームの何て事のない距離を歩いていると、また途中で息をするのが辛くなっていた。
一旦、道路へしゃがみ込み、セブンスターに火をつける。
何だよ、あの整体……。
全然身体が良くなっていないじゃんか。
これで明日もまた七千円払うの?
まあ予約入れちゃったからしょうがないか。
呼吸も元に戻ったので、アスクルームへ帰るとすぐ休む事にした。
夜までしっかり眠ったはずなのに、背中の重さはまるで取れていない。
長めに熱いシャワーを当て、身体を温めるも違和感はまるで変わらなかった。
ベランダへ出てタバコを吸いながら、鉄の棒へ背中を押し付け体重を掛ける。
そうする事で幾分楽になった。
さて、あと二日頑張りますか。
今日の残業、できれば誰か分かってほしいなあ……。
二千二十一年十月二十三日、土曜日友引、霜降。
背中の重さは、仕事中も酷くなっていく。
何かヤバいなあ、これ……。
ちょっと駄目元で言ってみるか。
「片屋敷さん…、悪いんだけど、今日の残業って変わってもらう事できませんか?」
「ごめんなさい、岩上さん。僕も今日用事があって」
「いや、急なんでしょうがないですよ。無理言ってすみません」
まるで左の背中肩甲骨の部分が、ガチガチに固まった岩のようだ。
座っているのも辛く、ホールへ出て壁の角へ、背中を押し付けた。
そうする事で、不快感も少しはマシになる。
このにっちもさっちもどうにもならない感覚って、いつ以来だ?
種類は違うが、浅草ビューホテルの喉の違和感以来じゃないか?
当時俺が働いていた浅草ビューホテル二十八階トップラウンジの『ベルヴェデール』。
初めて入院する前の状況は、今でもハッキリ覚えている。
ある日泊まりシフトで仮眠室へ泊まる前に地下の大浴場でゆっくり湯へ浸かる。
身体が火照っていたので仮眠室の天井にダクトの穴が空き、強い風が吹く二段ベッドの上で寝た。
起きると体調がどうもおかしい。
声がガラガラなのだ。
身体も気だるさを感じる。
ラウンジのスタッフたちは、具合の悪そうな俺を見て「岩上さんが珍しく弱っている」と笑っていた。
途中声も出なくなり、翌日から連休だったので休んでいれば治ると甘く高を括る。
しかし状態はさらに悪くなる一方で、起きる事もできないくらいの高熱。
まったく声も出ないので、さすがに家の目の前の三井病院へ駆け込む。
すぐさま入院が決まった。
「……」
この背中の張りといい、どうにもならない違和感。
湯浅に言われたように、整体なんかでなく病院へ行くべきなんじゃないのか?
唯一の救いは客がいない状態で、暇な部分だけ。
これで忙しかったら、本当にヤバかった。
もう一度立ち上がり、壁の角へ背中を押し付けにいく。
体重を掛け、一点に集中させるように負荷を掛けていると、突然楽な状態に切り替わる。
体内のどこかから一気に血流が駆け巡る感覚。
やはりタイ式マッサージで、背中のどこか痛め、血流が悪くなっていただけなんじゃないか。
岩上整体であれだけ多くの患者を治しておきながら、自分の身体を良くできないなんて愚の骨頂もいいところだ。
少し弱気になり過ぎていた。
いつからこんな風になってしまったのだろう。
俺は本当にやろうと思った時、言った事はほとんど実現させてきたはず。
全日本プロレスへ行き、ジャンボ鶴田師匠と出会えた。
ピアノだって市民会館で月の光を演奏した。
小説だって賞を取って本にした。
総合格闘技のリングにだって上がって戦った。
自分の身体を治そうという気迫が足りなかっただけなのだ。
肩を回すとまだ靭帯がゴリゴリと音を立てていたが、後は勝手に自然治癒で良くなっていくだろう。
これまでの経験による本能的なものが、自身を納得させようとしていた。
キャッシャー室へ戻ると、そういえば俺がいたベルヴェデールはどうなったのだろうと気になり、インターネットで調べてみる。
もうかつてのスカイラウンジではなく、宴会や会議、または披露宴会場で使う用のスペースになってしまったようだ……。
ホームページに載っている風景は、俺が働いていた当時のもの。
見覚えのある浅草側の風景。
あの時と違うのは、スカイツリーが写っている部分だけ。
俺がいた頃は、こんなものなんてまだ無かった時代。

これも時代の流れなのか。
俺はここで酒の作り方を…、そして接客のサービスを学んだ。
ベルヴェにいた同僚たちは、どこのセクションへ配属されたのだろうか?
もう二十五年以上前の話。
誰も残っていないのかなしれない。
時計を見ると、朝の五時半になっていた。
また小西の小言が始まる前に、買い物の準備を始めるとするか。
「小西さん、そろそろコンビニ行く準備しますね。ちょっと早いですけど」
「いや、まだいい」
「え?」
「まだいい」
「分かりました」
六時ぐらいになると、早く行けと怒るくせに三十分早く行こうとすると、今度は止める。
この気分的な感じで物事を決めるのは本当に勘弁してほしい。
仕事がやり辛くてしょうがない。
また椅子に腰掛け、ビューホテルのホームページを見ていると「何で行っちゃいけないか、分かる?」と、小西の声が聞こえた。
俺に言っているのか?
顔を上げ、小西を見る。
こっちを見ていたので、俺に言っているのかと思い、少し考えた。
最低五百万円の回銭は常に置いてあるレディ。
現在客数は一人だけ。
俺がこれで買い物に行くと、店内は小西と片屋敷の二人だけになる。
最悪の想定をしたら、今いる客が実は強盗目的で来ているとしたら、俺がいなくなった時が、実行のし時となるだろう。
これは大袈裟な話ではなく、以前横浜へ俺が行く前、平田から聞いた話で似た事があったのだ。
当時下陰さんと平田の二人で裏スロをしていて、常連客は一人になったので、下陰さんがタバコを買いに外へ出掛けたらしい。
店内は平田一人。
客がトイレに行き、長いなあと思っていると、出刃包丁を持って出てきて金を出せと突然脅されたようだ。
回銭の入った財布を入口のほうへ投げ、平田自身は怪我無く済んだようだが、常連と思って油断していると、このようなケースもある。
インカジにしても裏スロにしても、店内に従業員が人数いるという事は、それだけで強盗などを防ぐ防止策にもなっているのだ。
「防犯上の問題だからですか?」
「そう」
「じゃあ、早番の人間が出勤したら、買い物に行きますね」
それだけ言うと、再び携帯電話の画面を見た。
本当に小西の性格は面倒臭い。
普段そんな事気にしないで、人には口うるさく買い物へ行けと言うくせに……。
以前湯浅と同じ番だった時の台詞を思い出す。
「岩上さん、西君ヤバい奴ですから」
「ヤバいって何がです?」
「西君、アスペですから」
「アスペ? アスペルガー症候群って事ですか?」
「あの人は結構ヤバいですよ。この店で一番癖ありますし」
「一見穏やかそうですけどね」
「いえいえ、岩上さんの西君の実態知ったら、ブチ切れますって」
「でも、俺はこれまで色々な裏稼業をしてきて、本当に酷い人間を見てきたんですよ。だからその屑共と比べたら、どんなに酷くても可愛いもんですよ」
「いやいや、西君ヤバいですよ?」
「いくらヤバくても、店の金を使い込んだり、仕事中店を抜け出して帰ってこなかったり、そういうんじゃないじゃないですか。俺が以前いた職場は、店の金をとにかく抜こうとして月に百万以上抜いたり、二人しか従業員いないのに俺一人残して、八時間帰って来なかったり…、ちなみに店はその時満席ですからね? そういう屑と比べたら、小西さんはまだまだ全然マシですって」
あの時湯浅を諭すように言ったが、矢田部や坂田に比べればマシではあるが、別の意味で厄介な存在である事はよく理解できた。
「行きたかったら行けよっ!」
突然怒鳴り声が聞こえてくる。
え、何今の?
顔を上げると、小西が俺のほうを睨み付けていた。
え、俺、何かしたか?
「そんなに買い物行きたいんだったら、行けよっ!」
「え? あの…、さっき早番が出勤したらって、自分は言いましたよね?」
「行きたいんだったら行けよっ!」
何だ、コイツ?
狂犬病にでも掛かったのか?
何をもって怒り狂っているのか分からないが、面倒だったので俺は買い物に出掛ける事にした。
レディの外へ出ると、段々怒りが込み上げてくる。
行けと言ったり、行くなと言ったり……。
店の買い出しは、しなくてはならないもの。
そんなものを俺が自分から行きたがる?
そんな事、ある訳ねえだろうが!
何が行きたきゃ行けよだ。
あいつ、本当に俺を舐めてんな……。
長谷川ビルの壁を思い切り殴る。
右の拳に痛みが走り、血だらけになった。
いくら何でも限度がある。
次、小西が何か仕掛けてきたら、俺も我慢せず、ハッキリ言おう。
その時は爆発して、手が出てしまうかもしれないが。
何度も深呼吸をしてから、コンビニで買い物を済ませる。
いつも行くゴジラホテル横のローソン。
俺の顔を覚えていた店員が「手から血が出てますよ? ちょっと待って下さい」とティッシュをくれた。
「すみません、壁で引っ掛かってしまいまして」
「いえいえ、こんな事しかできずにすみませんね」
一日一度コンビニへ買い出しに行くだけでも、こうした縁がある事を知る。
彼の気遣いのお陰で冷静さを取り戻せた。
さて、店に戻って小西が何か言ってきたら、いい加減覚悟しろよな。
レディへ帰ると同時に、小西は店を出て行く。
何だ、コイツと思いながらも片屋敷に聞いてみた。
「小西さん、暇だから岩上さんが戻ってきたら先に上がるって帰っちゃいました」
「……」
先ほどは防犯うんぬんで理不尽に怒鳴り付けといて、あいつのしている行動は何なんだ?
壁の一点を睨みながら、静かな憎悪が募っていた。
「岩上さん…、小西さん、ちょっと口うるさいけど、あまり気にしない方がいいですよ」
「ええ……」
短く返事をするのが精一杯だった。
朝七時になり星野が時間ギリギリ出勤すると、片屋敷は「ホッシー来るの遅いよ」とブツブツ言いながら帰る。
客のいない店内。
俺はあとここから四時間の残業。
星野へ小西の事を言ったところで、変に密告されても面倒だしな。
特に会話もないまま携帯電話を見て時間を潰す。
「……」
また背中がガチガチに固まっていく感じがして、何ともいえない怠さが出てきた。
俺はホールへ行き、角の部分に背中を押し付ける。
一体どうなってしまったんだ、俺の身体……。
椅子に座っては何度も壁に押し付けて、ようやく残業が終わる。
中番から早出で来た半崎が、俺の顔を見て「岩上さん、顔色悪いですよ? 大丈夫ですか?」と声を掛けてきた。
「半田さん…、申し訳ないけど、俺の背中に思い切り膝を当てて体重掛けてもらえませんか?」
「え? そ、そんな事したら……」
「何だか背中が妙に張ってしまって。かなり強くお願いします」
「はあ…、こんな感じですか?」
「いえ、もっと強く」
「こうですか?」
「も…、もっと強く……」
ようやく背中が少し楽になっていく。
礼を言いレディを出て、すぐらく堂整体院へ向かう。
ちょっと体調ヤバいなあ……。
西武新宿駅前通りを歩き、北口辺りまで来た時、また呼吸しづらくなった。
一体俺の身体、どうなっちまったんだよ?
その場でしゃがみ込み、少し休憩をした。
いくらか楽になり、大久保駅へ向かって歩き出す。
すぐらく堂整体院へ到着すると、背中の違和感を伝えた。
最初に金を渡そうと七千円を出すと、店のシステムで施術料は七千円だが、別途に通う回数用として八千円も掛かると言われる。
とにかく背中が苦しかったので、一万五千円を支払い、強めに押してもらう。
だが、全然身体がスッキリしないまま終わった。
金を取るだけで、腕も何もねえじゃねえか。
ドンキホーテに寄り、背中を寝た状態で押せるものはないか探す。
棒状にちょっとしたトゲトゲのついたストレッチポールというのがあったので購入。
アスクルームへ帰ると、ひたすらストレッチポールの上に背中を乗せて、体重を掛けた。
一時間ほどしていると、身体が一気に楽になる。
最初からこうしていればよかった。
ベランダへ出てタバコを吸っていると、今朝の小西の件で苛立ちが再び募る。
あいつ、ぶっ飛ばす前に、中番の斉木へ伝えておくか。
彼には拾ってくれた義理がある。
昼の三時になるのを待ち、俺はまたレディへ向かう。
突然時間外に表れた俺を見て、驚く斉木。
小西の理不尽ぶりを正直に話す。
「うーん…、小西さんにも困りましたねー」
「斉木さん、次あったら俺も我慢の限界です。手が出てしまうかもしれません」
「いやいや、待って下さい、岩上さん! それはマズいですって!」
「もちろん迷惑掛からないよう、外へ連れ出してからやりますから」
「とりあえず落ち着きましょう、岩上さん。自分のほうから、番頭の井川ちゃんに話しますから。小西さんにも状況を聞きますから、何でそんな事を言い出したのかと。今日はとりあえず自分の顔を立ててもらえませんか?」
「……。分かりました…。斉木さんには恩義を感じています。今日はこれで帰ります。また夜に出勤しますね」
「今日は小西さん休みだし、岩上さんも顔を合わせる事ないんで、ちょっとホッとしていますよ。絶対にいきなり手は出さないで下さいね? 何かあったら、夜中でも自分に電話してきて構いませんので」
言いたい事を伝え、少しだけ冷静になれた自分がいる。
「斉木さん、ちょっとだけタバコ吸っていっていいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。何本でも吸ってって下さい。ちょっと自分はトイレ行ってきますね」
キャッシャー室でセブンスターに火をつけていると、中番の我妻が声を掛けてきて事情を聞いてくる。
簡易的に小西の傍若無人ぶりを話すと、ホールへ連れ出され、口を開く。
「岩上さん! 自分が怪我した時も本当に色々穴を埋めてくれて、凄い自分は感謝しているんですよ。なので、一旦怒りを抑えて下さい。自分はもうちょっと岩上さんと一緒に仕事がしたいです」
彼の言葉が素直に嬉しかった。
この店ではすっかり必要とされていないと思い込んでいた俺。
変に自分を追い込み過ぎていたのかもしれない。
中番のメンバーに深々と頭を下げ、アスクルームへ戻って睡眠を取った。
今日の夜出れば、やっと休みになる。
岡部さんには悪いけど、愚痴り酒になってしまうな……。
二千二十一年十月二十四日、日曜日先負。
小西が休みの遅番は、今の俺にとってちょっとした天国だった。
あれから背中の違和感も無くなり、いつものように業務をこなす。
朝七時になると、アスクルームへ帰って昼近くまで睡眠を取る。
起きてシャワーを浴びると、川越へ向かう。
二本目のタバコを吸おうとして、岡部さんとの待ち合わせ時間が近かったので電話をしてみた。
「今、駅に着きました」
「俺はクレアモールの入口にいるよ」
「了解しました。すぐ行きます」
潰れたパチンコ屋の横を小走りに歩き、商店街入口へ向かう。
「おう、智一郎」
「岡部さん、どうも」
「ちょっとここ外れて一服してから行こうぜ」
「どこ行くか決まってんですか?」
「いや、まだ何も。この通り歩いていりゃ何かしらあるだろ」
「とろたくどうすか? とろたく」
「あそこもさー、前にも言ったと思うけど、喫煙室で揉めてから行きたく無くなっちゃったんだよなあ」
「うー、残念です」
「別におまえが行きたかったら、とろたくでもいいよ?」
「いえいえ、せっかくなら行きたい店入りましょうよ」
クレアモールの商店街を歩きながら居酒屋をチェックする。
ん、ちょっとまた苦しくなってきたぞ?
少し休めば元に戻るからな。
「岡部さん…、ちょっと一服しませんか?」
「何だよ、さっき吸ったばかりじゃねえか。まあいいけど」
俺はタバコに火をつけながら座り込む。
変に岡部さんへ心配を掛けたくなかった。
このままジッと座っていれば、ヤニパワーですぐ治るんだから。
一分ほど座っていると楽になるのが分かった。
俺は立ち上がり、クレアモールを歩きながら入る店を探す。
居酒屋『海や』と店が中でもタバコが吸えるようなので、ここに決めた。
「うわ、岡部さん…、この店のお通しって、俺が駄目なやつですよね?」
「多分これ、あん肝だろ? いいよ、俺が食べるよ。本当好き嫌い多いよな。まあ好きなもの頼みな」

「岡部さん何にするんですか?」
「俺はそうだな…、馬刺しにマグロの山掛けもいいな」

お互いの近況を話しつつ、俺は今の職場の名義社長の話を始めた。
マグロの山掛けに醤油を垂らしながら、岡部さんは聞く態勢に入る。

「年は岡部さんより一つ下になるんですけど、名義でパクられ要員の奴がいるんですよ。凄い偏屈な奴でして……」
俺はここ数日間の理不尽ぶりをありのまま話す。
「いるよな、そういう奴。あ、智一郎はつまみ頼まないの?」
「えーと…、ソーセージに、チヂミなんてどうです?」
「好きなもの頼みなよ」
「あ、うな重もある! 岡部さんも行きますか?」
「俺はいいよ。本当におまえ、食欲あるな」
「健康な証拠ですよ。食べられる内が華ですからね」

ソーセージの盛り合わせを食べながら、自棄を起こさず休みまで我慢して正解だったと思う。
何故なら無職になったら、こんな風にゆっくり酒なんて飲んでいられなかっただろう。
店長の斉木が、小西には対応すると言ってくれたし、今日一日ゆっくり休んで店に出てから、俺は考えればいい。
短気は損気。
もう若くないのだ。
感情的になっていい事など何もない。
チヂミを食べつつ、新宿の〇〇会直営の二階のゲーム屋の話になる。

お互い暗黒時代だった二千十五年。
六年前の事も、今となっては笑い話に過ぎない。
「あの指の無い高木さんとかって、元気でやってんのかな?」
「あの人、何回指を詰めたのか、分からないですからね」
「あれ、相当なドジやらかした証拠だぞ? 小指は根元まで無いし、薬指も半分ぐらい無いじゃん」
「歌舞伎町では全然見掛けなくなりましたね。どっかで野垂れ死にしているかもしれませんね」
「どうだかな。結構あの手のタイプはしぶといからな」
「あ、そういえば岡部さん、高木さんに五千円貸したままでしたよね? 俺があの店辞める前に、ちゃんと回収しておきましたので、今払いますよ」
「おまえ、何年前の話をしてんだよ。別にいいよ、取っとけよ」
「じゃあ、ここの会計は俺が払いますからね」
うな重が運ばれてくる。
箸をつけるも、妙に通りが悪い。

おそらく中国産で湯煎したものだろう。
身も固いし美味しくない。
だが、自分でこのような品を頼んでおきながら文句を言う訳にもいかず、黙って全部食べた。
「次はどこ行きます?」
「そうだな…、西口のほう行ってみるか」
グリルトーゴーが閉店してから、川越駅の西口にはほとんど用がないので行かなくなってしまった。
海峡にしろトーゴーにしろ、西口の俺の好きだった店は、どんどん無くなっていく。
岡部さんがやっていた店『とよき』にしてもそうだ。
「西口のどの店行くんですか?」
「智一郎は覚えているかな? 前にさ、俺の店に来ていたキャバ嬢覚えている?」
「うーん…、キャバ嬢って、あの踏切のところのさくらでしたっけ?」
「そうそう。その子が結婚してさ、旦那さんと料理屋やってんだよ」
すっかり変わってしまった川越駅西口側。
ウェスタ川越という巨大集合体の建物付近を歩く。
「岡部さん、この辺って以前県立図書館があった辺りになるんですか?」
「まあ近いけど、ちょっと違う」
また息をするのが少し苦しくなってきた。
少し休まないと……。
「すみません、ちょっとだけまたタバコ吸ってもいいですか?」
「何だよ、本当によく吸うなあ。まあいいけど」
本当に俺の身体、ちょっとおかしいぞ?
何でこんな距離を歩いた程度で息切れをしている?
せっかく川越で飲んでいるのだ。
変な心配は掛けたくない。
今日は夜までに切り上げて、新宿へ帰ってからゆっくり休もう。
「あ、もうタバコ大丈夫です。そういえばこの辺って、大幅な立ち退きで、すっかり風変りしたから、どこに何があったのかまるで分からないですよ」
「俺もだいたいしか分からないよ。あ、ここだ」
二軒目は和食の店『万五屋』。
階段を上がって店内へ入る。

岡部さんが女将らしき人と挨拶をしていたが、何となく見覚えのある顔だ。
俺も紹介するも、向こうはいまいち分からないらしい。
「刺身の盛り合わせをちょうだい」
「マグロじゃないから俺、それは無理ですからね」
「白身なんてほとんど味しねえんだから、食ってみりゃあいいのに」

「アジフライとかイワシフライなら食べますよ」
「本当におまえはひろむ時代からずっと偏食だもんな。好きなものしか食わないし」
「俺はこの茄子の天ぷらさえあれば最高ですからね」

「そうそう智一郎、ザワチンいるだろ?」
「ええ、小沢さんですよね」
日本航空JAL勤務の小沢さん。
岡部さんの同級生であり、かつてよく俺にご馳走してくれた先輩でもある。

「今このコロナだろ? JALも苦しいらしくてさ、ザワチンが企画したイタリアオンラインイベントをやってんだよ」
そう言いながら岡部さんは、携帯電話の画面を俺に見せてくる。
『欧州で一番早くに解禁! 今年のイタリア新種ワインを産地からのLIVEと歌で乾杯!』
「何ですか、これ?」
「要はJALの用意したワイン購入して、自分の部屋であっちの映像を見ながら酒を飲もうって、どうしょうもない企画なんだよ」
そう言ってゲラゲラ笑う。
小沢さんの実家のホームパーティーには過去三回くらい呼んでもらった恩がある。
同僚のJAL職員ばかりの中、俺は後輩だというだけで。
トンカツひろむがあった時代、よく俺は小沢さんに色々な店へ付き合わされ、ほとんどご馳走してもらった過去。
「俺もワイン買いますよ。その向こうの中継ってのは見るつもりありませんが。一人でもこの企画に参加すれば、小沢さんも喜びますよね?」
「馬鹿、そんなんで付き合っていたら、金なんていくらあっても足んなくなるぞ」
「岡部さん同様小澤さんにも恩義ありますから。伝えといて下さい。智一郎も買うと。このぐらいの事ならいくらだって協力しますよ」
「そっかー…。ザワチンきっと喜ぶよ」
「うちの実家へ送るのも可能ですよね?」
「ん、おまえ、新宿住んでいるんだろ?」
「俺、ワインそんな好きじゃないんで。うちの馬鹿親父に高級ワインを送ってやりますよ」
「まあ良かったよ」
タバコに火をつけながらほほ笑む岡部さん。
「何がですか?」
「おまえとおまえの親父さんだよ。智一郎と智さんにまさかこんな日が来るなんてな……」
俺が十九歳の頃から実家の隣りで働いていた岡部さんは、どれだけ親子間の仲が酷かったのをすべて知っている。
一時は殺してやろうとさえ思った親父。
横浜から戻ってきてからは、拍子抜けしてしまった感じがずっと続いている。
「……。離れてみて、いつだか知りませんが加藤皐月とも離婚したみたいだし、一つ分かった事があったんですよ」
お互い過去にあった事は、一切触れずにただ生活をしているだけ。
俺は何故親父が加藤皐月なんかと内緒で籍を入れたのかを未だ何一つ分かっていない。
「おまえの親父さんの何が分かったんだよ?」
「うちの親父は、ただの人がいいボンボンだったってだけなんだなと」
「まあ智さん、本当にモテたからなー」
「最後に捕まえたのが加藤みたいな物の怪じゃ、いくらモテても意味ないですよ」
「加藤さんは…、俺も本当にあの人は怖かった…。初めてひろむで見た時よー、この人とは関わっちゃいけないなと本能的に思ったもんな」
俺の小学三年生の時、親父に配達へ付き合わされ、霞ヶ関の住宅街で加藤皐月と初めて会った時、本能的に苦手だなと感じていた。
幼い頃の直感は、ズバリ当たっていた訳だ。
本当にあの女は、俺の人生において長期間に渡り弊害となった。
高校三年生の頃は、山口油材のアルバイトから帰ってくると、いつも家の横に車を停めて、親父の動向をストーカーしていた。
そのあとパートの緑と近所の馬橋という女と三人で、家に乗り込んできた事もある。
あの時親父は事前に逃げ、長男だからと俺が三人の相手をしたのだ。
二十九歳の総合格闘技の試合前夜、勝手に家へ上がり込み俺の部屋のドアを開けた加藤は、親父に捨てられると大騒ぎをして、結局寝られず徹夜で試合へ臨むようになってしまった。
俺がSFCGで真面目にサラリーマンをやり出した頃、いつの間にか加藤は実家に棲みつくようになった。
始めは週に一度掃除をしに来ていると嘘の言い訳。
次第に居る率が増えてきて、気付けば親父の妻だと名乗るようになる。
早朝の四時から五時に掛け、毎日おじいちゃんの部屋へ侵入し、金の無心や親父を何故社長を譲らないのかと、寿命を縮めるような行為をした。
弟の徹也から状況を聞いた俺は会社を辞め、おじいちゃんを守る為に家族会議、そして委任状を集め、役員会議まで首を突っ込む。
だから岩上整体の場所を川越で開業するしかなかったのだ。
やがて長男の俺を追い出す為に、様々な嫌がらせを始めた加藤。
寝ているところを掃除機でガンガンドアにぶつけながらの睡眠妨害。
湯船に浸からせないよう毎日風呂栓を隠された。
近所にも俺の事をパラサイトだと言い触らす。
やがて加藤皐月の娘婿まで、家業の会計士として入れてしまい、親父もそれを喜んで迎え入れた。
自分の家にいながら、何故無関係の余所者にそんな真似をされなければならないのか?
そしてそんな女と籍を入れ、実権を握らせた親父が憎くて仕方がなかった。
心の底から殺したいと思うようになっていたのだ。
明確な殺意を自覚した俺は、無一文で家を出て、横浜へ行った。
五年ほど家を空けた状態で再び帰って来た時は、加藤皐月が四千万円の金を抜き取ったという情報といつの間にか離婚したという事を徹也から聞いただけだった。
「そんな奴が戸籍上とはいえ、俺の母親になって家に入り込んだんですよ? あの当時は地獄で毎日が修羅場でしたよ」
「俺は前にも話した通り、智一郎を始めとしておまえの親父さんの智さん、弟の徹也、貴彦、叔母さんの由美子さん…、亡くなってしまった甲子郎さんまで家族全員に所縁があるんだよ。まああの加藤さんは別だけどな」
「岡部さん、貴彦は弟ではないですよ」
あの時俺が家を出る決意をした殺意は、加藤皐月だけではない。
叔母のピーちゃんと内緒で養子縁組をした弟の貴彦の二人もそうだった。
「まあ、あいつが由美子さんと内緒で養子縁組したのは確かにいけない。ただよ…、俺からしてみりゃあやっぱりあいつだって可愛いんだよ。でもな、岩上家ではおまえが俺と一番親しい。だから貴彦の『北風と太陽』だって、おまえに気を使って一度も行ってないからな」
「いやいや、それは気にしないでいいですよ。別に岡部さんが貴彦の店行こうと自由なんですから」
「まあそれぐらい気を使ってるって事だけは分かってくれよ」
「俺が頭の上がらない先輩は二人。一人は岡部さんであり、もう一人は坊主さん。それだけですよ」
岩上家は、呪われた家系とも表現するべき歪んでいる。
お袋は小学二年生で俺ら三兄弟を捨て家を出て、俺が四十代後半の頃死んだと聞いた。
嫁にも行かず、家に棲みつき貴彦と養子縁組をした叔母。
ただ利用され騙された親父。
俺を含めすべてが歪だ。
「あ、智一郎。この店の近くで知り合ったピザ屋あるから付き合ってくれねえか?」
「いいっすよ」
何故俺は、あれほど憎んだ親父と、普通に接しているのだろう?
おそらく歳を取り、一向に解決も無ければ延々と続く憎悪の連鎖に疲れてしまったのかもしれない。
何だかまた背中に違和感を覚えた。
左肩を回すと、ゴリゴリとなる音が聞こえる。
三軒目、岡部さんの知り合いのこじんまりとしたピザ屋。
「中々シックでお洒落な店じゃないですか」
「だろ? 俺も結構気に入ってんだよ」
「何を飲みます?」
「こういうとこはやっぱワインだろ。それにワイン専門店だぞ、ここ」
「なら、どちらかと言うと赤ワインがいいですね」
「じゃあマスター! 赤ワインちょうだい!」

ワインとピザの店らしく、赤ワインのグラスを注文。
店内でタバコが吸えるのは嬉しい配慮である。

焼き上がったマルガリータピザ。
パリパリの薄い生地。
美味しいが、俺の好みはもっと厚手の生地が好みだ。
「よし、こうなったら栄二の店行くか!」
できればアスクルームへ戻り、ストレッチポールで背中を強く押したい心境だった。
しかし岡部さんも楽しそうに飲んでいる。
俺ももう少し飲みたい気分だった。
まあ最悪、終電に間に合えばいいか。
「いいですね。しばらく顔出せてないし、栄二の親父さんの顔も見たいし」
タクシーに乗って後輩の店『栄じ』へ向かう。
夜の七時半に到着。
七時間ぶっ続けでの四軒目。
「おう、岩上ちゃん久しぶり。マグロ握るかい?」
「ちょっとだけお願いします。今日ここで四軒目なんですよ」
いつもなら山ほど握ってもらう俺も、さすがに胃袋が苦しかった。
栄二の親父さんは悲しそうな表情をしながら数貫のマグロを握る。
たくさん自分の握る寿司を食べてくれる客が大好きだと常に公言するほどだ。
申し訳ない気持ちになった。

「智ちゃん、落花生食べなよ」
一つ年下の栄二が厨房から皿を持ってくる。
落花生をつまみながらウイスキーを飲んでいると、隣りで岡部さんは完全に潰れていた。
「あーあー豊樹ちゃん、潰れちゃったよー」
「ここからなら近いし、俺が送ってくよ。栄二悪いけど、タクシー呼んでくれ」
また明日の夜からインカジ『レディ』で仕事が始まる。
今日は岡部さんのお陰でいいリフレッシュができた。
タクシーが到着するまで、フェイスブックへ投稿する。
『君ら凄すぎるよ〜。ルル〜。 大橋伸行』
吉岡さんと同級生の床屋の大橋さんからコメントが入る。
確かにこんなコロナ禍の中、四件も梯子して片方が潰れるまで飲んでいるのは、川越だと俺らぐらいじゃないか。
『もう歳ですよ。ここで岡部さんダウンして終了です。 岩上智一郎』
時刻はもうじき夜の十一時半。
昼からノンストップで飲んでいたら、そりゃ酔い潰れるよな……。
タクシーが到着し、会計を済ませて栄じを出る。
岡部さんを担いで家まで送り、そのまま待たせたタクシーに乗り込み実家へ向かう。
今日はもう新宿へ帰れる時間帯じゃない。
たまには自分の部屋で寝てから帰ればいいか。
俺はセブンスターに火をつけてから、寝転がりながらタバコを吸った。

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