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闇 500(令和二年49歳編)

闇 500(令和二年49歳編)

2026/03/11 wed
前回の章


二千二十年九月十二日、土曜日先勝。

第三期ホテル暮らしも無事終了し、今日出れば明日は休み。
そして四十九歳を迎える俺。
とうとうジャンボ鶴田師匠と同じ年になってしまうのか……。

あの時の事は、未だ鮮明に脳裏に焼き付いている。

二千年五月十三日、土曜日先勝。
ジャンボ鶴田師匠が亡くなった。

2000年05月13日ジャンボ鶴田師匠死去

マニラで手術失敗出血死と報道される。
呆然となるしかなかった。
新聞を買い「嘘をつくんじゃねえよ!」と一人で怒声を出す。
クシャクシャになった新聞を広げ、何度も見出しを読んだ。

ジャンボ鶴田師匠死去を報じる新聞

嘘のニュースだよな?
信じたくなかった。
小江戸号に乗って新宿へ向かう。
俺、これから少しは恩返しできるかもって……。
電車の中で大泣きした。

ずっと背中を見てきたけど、同じ年になった今でもあなたの背中は遠いままですよ、師匠……。

試合に出てプロレスラーの偉大さを…、強さを見せたかった。
でも元々の資質が違う。
あれほど親指を鍛え抜いた『打突』を使う事もなく、俺はリングから遠ざかったまま。

ずっと中途半端なままな俺。

ピアノを弾いた。
一人の女の為に。
でも奏でた音は、意中の女性へ届かず辞めた。

小説を書いた。
文学賞を運良く取れた。
図に乗った俺は、当時ブログ『智一郎の部屋』で、少しは距離が近くなりましたかと、小生意気な事を書いた。

二千二十年になり、同じ年月を重ねた今、どこがだと恥に思うだけ。

本を出し、四日後にまた総合格闘技のリングへ上がった。
しかし打突を使う事なく試合に負け、俺は坂道を地獄まで転げ落ちた。

『人生はチャレンジだ』

そう言い残してこの世を去ったジャンボ鶴田師匠。
俺なりにチャレンジしてきたつもりだったけど、半端者はいつまで経っても半端なまま。

こんな俺が、あの人と同じ年になるなんて……。

今じゃ場末のポーカーゲーム屋勤務。
残っているのは当時全日本プロレスにいた誇りだけ。

「岩上さん、今日競馬買うんすか?」

人がしんみりしている最中、山下哲也がいつもの調子で声を掛けてくる。
雰囲気がすっかり台無しだ。

だが、俺はそんな人種がいる職場で働いているのだ。
屑は屑なりにこれまで生き延びてしまっただけの話。

もし神様がいるのなら、運任せに買った競馬を当てさせてくれ、この運命を変える転換期になるんじゃないだろうか?
いつだって他力本願。
小説も書かなくなった俺に、勝利の女神など微笑むのかよ。

俺は馬鹿げた行為と分かりつつ、フェイスブックへ投稿しながら馬券を買った。


第34回 産経賞セントウルステークス
明日は誕生日なんでね。

ちょっとやります、中京11R。
三連単7-15-16-17BOX。
本線は、7→17→15.16。
追加で誕生日馬券も買わないとね。
3連複4-9から総流し。
もちろん9-1-3の3連複、3連単も。

これは今日で49歳になるからというゴロ合わせ数字と、46年9月13日というあらゆる数字に対応した結果。

あ、西暦でもいっとくか。
1971年だから3連複1-7-9-11のBOX。
三連単 1-7-9BOX。
さあ、デカいの来い!


こんな投稿をしながら、俺は一体何の為に生きているのか考える。

やる事はギャンブルと酒。
安い料金のホテルへ泊まり、ブルジョワだとふんぞり返るだけの四十八歳。

仕方ない。
死に損なった俺の現状を自分でそう生きているのだから。

考える葦でも、成長する葦でもない。
学ばない屑なだけ。

「岩上さん、明日休みなんだから一杯行きましょうよ」

山下に促され、西武新宿駅近くにある焼鳥屋『萬太郎』へ入る。

以前あったワンオン系列『チャンプ』の斜め向かいにある昔からの老舗。
俺がこの街に来た頃から店構えは変わらない。

2020/09/12 焼鳥 萬太郎

「岩上さん、明日休みなんだから、帰りに花小金井寄りましょうよ」
「絶対に嫌だ!」

2020/09/12 焼鳥 萬太郎

「えー、たまにはいいじゃないすかー。ホテル暮らしも今日で終わったんだし」
「来週も続けるよ。それに何でキャリーバック転がして、あんな辺鄙なところ行かなきゃいけないんだよ」

「人の住んでいる場所を酷いすね」
「酷くねえよ! それに明日で俺は誕生日なの。たまにはここぐらい奢れ」

「えー! 自分手持ち余裕ないんすよ」
「…ったく、おまえはいつもそればかりだな……」

川越へ到着すると、もう十二時手前。
誕生日を迎える前に、リバティでも寄っていくか。

2020/09/12 Beer&Spice PUB Liberty 店内

グレンリベットのストレートにチェイサー代わりのジントニック。

2020/09/12 Beer&Spice PUB Liberty トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ

トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼと、マッシュポテトをつまみに酒を飲む。

2020/09/12 Beer&Spice PUB Liberty マッシュポテト

心の準備ができている訳じゃないが、無情にも時間は進み、俺は四十九歳になる。
ならばせめて寝ている間に勝手に来ればいいさ。

家に帰るとキャリーバックを放り投げ、俺はすぐ布団へ横になった。


二千二十年九月十三日、日曜日友引。

ゆっくり瞼を開ける。
当たり前だが電話機はもう飛んで来る事はない。

強くならなきゃ殺されちゃう……。

まだお袋が家に居た頃の幼少期。
虐待されたあの時の夢を見ていたようだ。

部屋に到着すると、床に放り出される。
僕はそこで初めて泣いた。
泣けば恐ろしいママの顔が、涙で滲んで見えなくなる。
「何度、言ったら分かるんだよ」
頬に痛みが走る。
僕は両腕で顔を隠した。
痛みは色々なところから感じた。
容赦なく無差別に攻撃を繰り出すママ。
僕は泣くしか方法がない。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくママ。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。
分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも僕は電話の受話器を震えながら持っている。
恐ろしかったのだ。
抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、ママの手元から離れていた。
「……!」
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。
目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
胸を押され、床に倒れ込む。
合気道に行った時の風景が思い出される。
稽古を始める前に正座して一礼。
そのあと正座をして目を閉じているところを不意に先生が胸を押してくる。
そこで倒れてはいけない。
精神を集中させるのが、本来の目的らしかった。
でもそんな事は、当時の僕には分からない。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
僕は言われるまま立ち上がる。
足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。
ママはいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。
身体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。
ママがブロックを投げつける途中だった。
青色のブロックが僕の頭に命中する。
僕は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。
分かっていながら立ち上がった。
そうするしかないのだ。
何度もママは、僕にブロックを投げつけた。
僕はこのまま殺されるのかな。
素直にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開く。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。
今まで見た事のないような厳しい目でママを見ていた。
二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。
必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。
床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
僕は目を押さえながら、床に転がった。
たくさんの血が出ていた。
僕は強くならないと、いつか殺されちゃう……。
それからあとは記憶にない。

「……」

そっと左手の指で、左眉毛付近の傷を触る。
未だ消えない傷。

だが、これをつけたお袋は、もうこの世にいない。

結局和解し合えないまま終わってしまった親子関係。
子へ八つ当たりする母親。
親をまるで労わらなかった不肖の息子。

四十九歳になった俺に残ったのは、そんな過去だけ。
何度ここまでの強さを求めた愚直な自分を責めた事だろうか。

セブンスターに火をつけながら思わず笑みがこぼれる。
何を今更……。

あの時ああしていればと、いくら悔やんだところでもう何もかも遅いのだ。

ジャンボ鶴田師匠、三沢光晴さん、そしておじいちゃん。
生前何一つ恩を返せなかった人間が、奇麗に過去を美化しようとするな。
いつだって俺は懸命に生きながらも、選択肢を間違え空回りしながら来たのだ。

ただ生き延びた目的意識のない屑は、屑らしくいればいい。

さて、これから小谷野一家と食事か。

携帯電話を手に持つと、池袋のキャバ嬢ちかからお祝いの祝福LINEが届いていた。
返信をし終えると、また今日もこの日が来たのかと、少し憂鬱になる。
フェイスブックへ届く祝福コメント。
一人一人が時間を掛けて書いてくれたものなので、嬉しい気持ちは当然あった。
だが、数が尋常でなく一人ずつ返すのが本当に面倒なのだ。

意を決してフェイスブックを見てみる。

『誕生日おめでとう! 吉岡裕祐

まずは三つ上の近所の先輩の吉岡さんから。

『誕生日おめでとう。 高橋明彦

親父のあとを継いで三代目囃子連『雀會』会長の高橋さんから。

『おめでとー! 一柳始

和菓子屋『伊勢屋』の始さんから。

『お誕生日、おめでとうございます。 初山香代子

ヤスのカガヤカフェで知り合ったウィーン料理のミーココさん。

『お誕生日おめでとうございます。 根生学

この人、フェイスブックだと出身川越になっているけど、実際は知らないんだよな。

『智一郎さん、お誕生日おめでとうございます。 中野友紀子

政治家英幸さんの妹の友紀子さんから。

『誕生日おめでとう。 和泉康

富士見中時代一つ上のサッカー部の先輩和泉さんから。

『お誕生日おめでとうございます。 櫻井弘幸

家の目の前にあった映画館『ホームラン劇場』の櫻井さんから。

『誕生日おめでとうございます。 三上健一

横浜のイワカミ工業世話になった現場監督まで。

『お誕生日おめでとうございます。 浅見祐一

日高市の和菓子屋『栗こま娘本舗亀屋』の人みたいだけど、直積的な繋がりはない。

『お誕生日おめでとうございます。素敵な1年になりますように。これからも宜しくお願いします、ペコ。 TsuChe

名古屋の人みたいだけど、おそらくゲーム友達募集関連の人だろう。

『誕生日おめでとう。 江口英行

吉岡さんの同級生らしいが、直接的な面識は三つ上なので学生時代ではない。

まだ昼前でこれかよ……。

返信は後日でも構わないだろう。
俺は身支度を整え、家を出た。
まだどの店で食事をするか決めていなかったので、歩きながら小谷野へ電話を掛ける。

「岩上、今日どこで飯食うの?」
「サンロードのさ、川越駅側に町鮨とろたくって、寿司や天ぷら、鰻の店あるんだけどさ、そこなんてどうだい? 最近のお気に入りなんだ」

真っ直ぐクレアモールを歩き、川越駅方面へ向かう。

丸広を超えさらに進むと、ようやくとろたくが見えてきた。
店内へ入り見渡すが、まだ小谷野一家は到着していないようだ。

俺は酒を注文してから、喫煙室へ行きセブンスターを吸って時間を潰す。
二本目を吸い終わってから席へ戻ると、小谷野の姿が見えた。

俺がKDDIを辞め休業補償で暮らしていた時期に再会した高校時代の同級生。
一度彼女を紹介してくれた事があったが、その子と結婚し、今では男の子を二人産んだ家族になっている。
着実に積み重ねてきた結果の目の当たりにし、これまでの生き方を恥じる自分がいた。

「岩上さん、お久しぶりです。今日お誕生日なんですってね。おめでとうございます」
「いやいや、本当に久しぶりだよね。前はビストロ岡田で、小谷野があの時ご馳走してもらってさ。今日は俺が全部出すからね」

「いえいえ、こっちは家族全員で来ていて、さすがにそれは」
「金が無かったあの時に俺はご馳走をしてもらった。だからその時思ったんだよ。小谷野と食事する時は、全部俺が払おうってね。これでも感謝してんだぜ」

当時たまたま電話があった小谷野。

彼とはサッカー部の仲間で、まだ再会はしていないが、去年の暮れに突然電話があったからである。
始めはどうしたって、勧誘かネズミ講…、またはマルチ商法かなって思った。
ところが、我が母校『西武台高等学校』のサッカー部が全国に出るからOB集合しないかとの誘い。
俺は一年の時でサッカー部辞めたから、行かなかったけど。
…で今度飯でも食おうよと社交辞令になっていたのを思い出し、電話でもしてみようかなとなった。
小谷野もミクシィをやっていると言うので、早速今日マイミクに。
来週ぐらいに飯でも行こうとなる。
会ったら二十年ぶりの再会か。

二千十年ぐらいからの再会。
それ以来いい関係を続けられている。

彼の長男はまだ小学校低学年らしく、和食のメニューしかないとろたくをお気に召さなかったようだ。
買ってもらった漫画『ワンピース』をひたすら読んでいた。

「ワンピース好きなの?」
「うん」

「今日は和食の店にしてごめんね」
「ハンバーグとかのほうが良かったなー……」

少し俺の配慮が欠けていたようだ。
大人の欲を優先するより、まず子供たちの事を考えるべきだった。

鉄火丼や天ぷら、寿司など色々なものを注文したが、小さい子供用に赤色のタコさんウインナーがあったので、それも頼んでみる。

2020/09/13 町鮨とろたく 小谷野一家

「あ、岩上」
「ん、どうしたの?」

「下の子がね、岩上に渡したいものあるんだよ」

次男はまだ幼稚園児らしく、たどたどしい感じでビニール袋を俺に手渡してきた。
中を覗くと、俺の大好きなウイスキーのグレンリベットだった。

「ありがとう! 俺ね、このお酒が一番の大好物なんだ」

彼らのちょっとした気遣いに、心の根底に温かい何かが流れ込んでくる。
こうした温かい一家団欒に触れるのは、いつ以来か?

数年前の榊先生の自宅へ招かれた時ぐらいだろう。

2020/09/13 町鮨とろたく 小谷野一家

昔から幼い子供をあやすのが大好きだった。
古くは二十代前半には、亡くなってしまった京子叔母さんの長男清水純一にできた息子の亮と怜。

三十代には当時付き合っていた百合子の弟の子供竜星。

百合子の弟夫婦と簡単な挨拶を済ませ、お目当てのゴマシオを見た。
名前は竜星。
目がクリクリした三歳のれっきとした一流のゴマシオである。
子供は本当に可愛い。
無条件で愛情を注ぎたくなる。
初対面なのに妙に懐いてくれる竜君に対して、何かしてあげたかった。
それからというものの、毎週日曜日は東松山にいる竜君に会いに時間を作るようになる俺。
ゴマシオは絶対に戦隊モノが好きなはず。
俺はゴレンジャーから始まる様々な映像を集め、種類の違うオリジナルのDVDを作ってあげる。
例えばジャッカー電撃隊、快傑ライオン丸、レインボーマン、ウルトラマンセブンが個々に入ったもの。

次は怪傑ズバット、仮面ライダーV3と宮内洋が主演モノに特化したDVDを作ったり…、この時何故ジャッカー電撃隊をこっちに入れなかったのか悔やむ。
ゴマシオ竜君は俺の作ったオリジナルDVDをとても喜ぶ。

「……」

結局あの時竜星と撮った一枚の写真から、群馬の先生へと繋がったんだよな……。

偶然写った心霊写真。

当時一緒に寝ていたはずの百合子が、目を覚ますと俺の左腕をしきりに撫でていた。
薄気味悪さを覚えた俺は、百合子へ何をしているのか聞く。
「よく分からないんだけどね…、何か左腕…、気を付けて……」
「気をつけろって随分前に左肘はぶっ壊れてんだ。今さら気を付けるも何も無いだろ」
「私も何故かよく分からないの…。でも何か気を付けてと、急に心配になって……」
時計を見ると夜中の二時。
すっかり眠気が覚めていた。
「あ、そうだ!」
「何々、どうしたの?」
「ほら、昼間竜君のところ行ってたくさん写真をデジカメで撮ったでしょ? あれ、まだパソコンに移していないから今やっちゃおうかなって」
俺はデジカメのSDカードをノートパソコンに入れて、データを移す。
主に俺と竜君の写る写真をプリントしていると、両腕で抱き上げた画像が出てくる。
「え? 何これ?」
たった一枚の写真だが、竜君を抱っこした俺の左腕だけ半透明になり、背景が煤けて見える。
腕の奥にいる竜君の姿はそのままクッキリと写っていた。
俺の左腕の肘の部分のみ、何故か半透明なのだ。
これってひょっとして心霊写真?
百合子はプリントしたばかりの写真をビリビリに破き、灰皿の上で燃やした。
「ねえ…、智ちんは胡散臭がっていたけど、群馬のあの先生のところ…、一度行こうよ」
さっき起きた時、嫌な感じがすると俺の左肘をさすっていた百合子。
彼女は時たま感が妙に鋭い時があった。
そんな百合子が仲のいい友達と会った時、群馬の高崎に住む不思議な先生を紹介される。
その当時の事を百合子は色々話していたが、俺は胡散臭いと話半分で聞いていたのだ。
「ねえ、変な感じがする。パソコンの中にあるその画像も消して」
必死な表情で言う百合子に釣られ、俺は左肘の画像を削除した。
「ねえ、智ちん…、群馬の先生のところ、一度だけでいいから行ってみようよ」
俺はすっかり灰になった写真を眺めながら、「そうだな……」と短く返事をするのがやっとだった。

あの当時を思い出しながら、俺は何度も小谷野の子供たちの頭を撫でる。

無邪気な子供の笑顔は人間を自然と癒すもの。
幼少期恐怖を受けた分、大人になった今、少しでも自身の愛情を幼い子たちへ分け与えたいだけなのかもしれない。

「そうだ! ここ出たらさ、すぐ近くに『お菓子のまちおか』があるんだよ。今日は俺は二人に好きなだけお菓子を買ってあげるね」
「ほんと!」
「やったぁ!」

「いやいや、岩上悪いって」
「ここもご馳走になって、そんな事までされたら……」

「今日は誕生日で俺が主役でしょ? たまにしか会わないんだから、このぐらい甘やかしてもいいだろ」

大はしゃぎの小谷野の子供たち。
何だか本当に癒され楽しい誕生日になったものだ。

夕方になり小谷野ファミリーを別れた俺は、その足で同級生の篠崎が働く大漁丸へ向かう。
前回いっしょうけんめいへ寄ったあとなので閉店してしまい、次に行く時はと考えていたからだ。

歩きながら、子供をあやして怒鳴られなかったのも久しぶりだなと思う。

弟だった貴彦の子供の然。
あの子がまだ四歳ぐらいの頃の記憶が蘇ってくる。
まだ丸広の屋上に遊園地が合った頃だった。

そろそろ戻らないと佐川急便の準備もある。帰り道抱っこをしながら戻る途中、然はトロンとした目になり、あっという間に寝てしまう。
家に戻ると、弟では無くなった貴彦の嫁の麻美が大慌てで然を探していたようだ。
大泣きしながら然を抱き締める。
伯母さんのピーちゃんは、俺をジロリと睨み付け「何を勝手に然を連れて歩いてんだ!」と怒鳴りつけてきた。
「勝手に連れ出したのは悪かったよ。ただ、俺が下に降りたら、然は一人で玄関のところにいたんだぞ? 外へ飛び出していたら、どうするんだよ?」
「おまえには関係無い! 然に関わるな!」
酷い言われようだ。
俺はあの時…、子供をおろす時ピーちゃんへ泣きついた。
「自分の事は自分で責任取れ」
そう突き放された。
貴彦は調理師の免許も取れない内に退職。
同棲していた朝美が妊娠し、家に泣きついて帰ってきたのだ。
百合子と俺の部屋にいた頃、バレンタインデーで俺の部屋を通過して朝美は親父に「お父さーん、チョコレートです」と無視された。
別にチョコレートが欲しい訳ではなかったが、あれだけ世話をしてこういう行動をコイツは取るのかと思った。
今では貴彦の嫁になり、長男である俺に遠慮せず自分の家面していた。
俺はコイツらに激しい憎悪がある。
目の前が暗くなっていく。
一体何なんだ、この生き物共は?
常に自分たちの都合ばかり主張。
俺はそこまで嫌われるような事をしたのか?
確かに自慢できるような生き方をしてきていない。
そこは自覚している。
外にいた然をあやそうと外へ連れ出したのが、そこまで卑下するほど悪い事なのか?
三者三様で俺を責める様子を黙った眺める。
この手で殺したくなった。
都合良く良いところ取りの屑共が。
何が岩上家の長男だ……。
積年の怨みが募る。
右の拳を固めた。
おそらく俺が本気で殴れば、人間など簡単に壊せる。
どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むのか?
断末魔を上げさせ、この場で俺に吐いた台詞を死んでからも後悔しろ……。
黙ったまま近付く。
その時然が目を覚まし、泣いた。
我に返る。
暴力で物を言わせてどうするつもりだ?
この場にいたら、俺は間違いなくおかしくなる……。
「どけよ」
乱暴にピーちゃんをどかすと、部屋へ戻り仕事の準備をした。
車に乗って佐川急便へ向かう途中、何度も涙が溢れ出た。
俺は…、何で人間扱いされないのだろう……。
憎悪だけが根底に静かに積もっていくのを感じた。

「……」

あの時、然が泣かなかったら、俺は殺人者になっていたのだろうか?

時間がこれだけ過ぎても、それは分からない。
だが、明確な殺意が根底に芽生えた事だけは否めなかった。

心についた過去の無数の傷。
俺は横浜でその傷を癒し、新宿へ戻ってまた地獄へ突入した。

因果律とは何だろうか?

すべての出来事は、原因に由来するという論理的原理。
ある時刻の状態が、未来の状態を確定的に決定するというのなら、それより前…、お袋が家を出て行った時からすべては起因している?

いや、そこまで遡るなら延々と原因は続いてしまう。
お袋が俺を産まなかったら?
その前に親父とお袋が結婚しなかったら?

因果を辿るとキリがなくなる。

現時点で自覚している事。
それは貴彦と叔母のピーちゃんとの亀裂は、生涯掛けても許す事はないという決意だけ。

昨日買っていた競馬の結果を見るのを忘れていたので確認する。
結果全部外れ。
神様は、まだまだ鬼畜道をこのまま歩めと言うのだろう。

あー…、今日ぐらい勝てると思ったんだけどなあ。
こうなったら馬を食ってやろうじゃないか。

大漁丸へ到着し、篠崎と話しながら馬刺しを食べる。

2020/09/13 大漁丸 馬刺し

イカゲソ焼きも注文し、酒を飲みながらフェイスブックに溜まったコメント欄を眺めた。

2020/09/13 大漁丸 イカゲソ焼き

『誕生日おめでとう。より良い歳に。 山崎照夫

京子叔母さんの三進産業の隣りの山崎クリーニングの照さん、確か遠い親戚だったような気がする。

『誕生日おめでとうございます。 森貴裕

初期横浜時代、三国志のゲームで知り合ったネット仲間。

『岩上さん、お誕生日おめでとうございます! いしかわまさゆき

横浜時代の盟友石川雅之。

『おめでとうございます。 樋口忍

今は亡き『ポケットマネー』の息子の忍。

『ともさん、誕生日おめでとうございます! 金子修一

同じ登校班で小学校へ通った修。

はあ…、一人ずつ返事をするの本当にこりゃ大変だぞ……。

その時親父から着信があった。
また飯でも買ってこいという電話だろう。

「栗原さんが亡くなったぞ」

「はあ? どの栗原さんよ?」
「馬鹿、栗原楽器の武雄さんだよ!」

目の前が一瞬真っ暗になった。
俺が生まれた頃からずっと世話になった雀會の栗原名誉会長の訃報。

川越祭りが、今年はコロナ渦で中止。
それが一番堪えちゃったのかな……。

俺が生まれた時からずっと可愛がってもらって、気付けばちょうど四十九年間……。

「おい、まだあまり知られていないから、おまえ他所で口滑らすなよ?」
「親父…、本当に栗原会長は亡くなったのか?」

「病気でここ数年ずっと具合い悪かったからな」

「……」

大漁丸の中で、突然泣き出す訳にもいかなかった。

チェックを済ませ、家に戻る。
今日が十三日だというのをすっかり忘れていた。

今月も十三日がやって来た。
五月十三日は、ジャンボ鶴田師匠の命日。
六月十三日は、三沢光晴さんの命日。
十月十三日は、おじいちゃんの命日。
一月三十一日は、十三日ではないけどジャイアント馬場社長の命日。
因果な事に、九月十三日は俺の誕生日。
この月以外の十三日が来ると、いつも心がザワつく。
これだけこの数字が重なると、薄気味悪い奇妙なものさえ感じてしまう。

まさか名誉会長の命日が、自分の誕生日と重なってしまうなんて……。

またこれで十三日の因果が一つ増えてしまった。
部屋の中で静かに泣いた。

落ち着いてから昔の写真を眺めてみる。
これは二千四年十月十五日の日曜日。
栗原会長宅にて。

2004/10/15 川越祭り

これは二千七年十月二十一日の日曜日の写真。
連雀町の山車が来たところ、会長宅の前に一緒に撮ったもの。

2007/10/21 川越祭り

毎年川越祭りの二日間だけ、栗原会長宅のガラスのケースで展示される数々の衣装や踊りに使うお面。

2010/10/24 川越祭り

会長と同級生だった同じ町内の小林澄夫さんが先に亡くなり、続いての訃報。

栗原会長…、本当に、ありがとうございました……。

俺はまた大粒の涙をこぼした。
そして会長の息子である一郎さんへ連絡をしてみる。

「まあずっと具合い悪かったからなあ…。でもさ、死に目に会えたし、俺が自分の父親をちゃんと診れた。だから悔いは無いよ。智一郎、電話ありがとな」

俺より十歳年上の一郎さんは、現在朝霞市で病院を経営している院長だ。
北朝霞整形外科という病院だったっけ?

二千十年の頃の川越祭りでの一郎さんとのエピソードを思い出す。

「あ、智一郎、この野郎ー」
「一郎さん、久しぶりです」
数年ぶりの再会を喜び、昔話に花を咲かせた。
一郎さんは自分の病院で雇っているスタッフを数名連れて川越へ戻ってくる。
「コイツはな、本当に悪い奴だから気を付けろよ、みんな」
「フン、君らもこんな院長の下で働いていると、顎が曲がるぞ」
スタッフたちは俺たちのやり取りを見て「本当に仲がいいんですねー」と感心していた。
俺と親父の仲の悪さの話題になり、これまでの近況を話す。
「うーん、智さんもなー。昔は本当格好良かったんだぞ。おまえがまだ小さい頃だけどな。俺も当時は憧れたもんだ」
「でも結局捕まえたのが、あの物の怪じゃないですか。名誉会長とも話さなくなっちゃったし、ここにも祭りなのに顔すら出さなくなったじゃないですか」
腕組みをしながら、一郎さんは考え込んでいる。
随分前の話になるが、俺はタンベさんが知子のスナックで偶然会った時の事を話してみた。
バラバラになった雀會をまたまとめようとしたあの頃。
途中まで良かった。始さんとタンベさんはまた普通に話せるようになり、澄夫さんのわだかまりを少しは解消できた。
親父が誰にそそのかされたんだと非協力的にならなければ、あのいいムードのままいけたはずなのだ。
「なあ、智一郎……」
「ん、どうしたんですか?」
「おまえの親父さん、ここへ掻っ攫ってくるか?」
「まあ川越祭りくらいですよね、こんな事できんの」
「俺とおまえで、まずおまえの親父さんをここへ拉致」
「次はチビですか?」
「よく分かってんじゃねえか」
岩上家、栗原家の長男同士がタッグを組み、普段はまず俺と話す事のない親父を捕獲。
「何だ、テメーは! お、一郎じゃねえか。おい、どこへ連れてくんだ?」
強引に栗原名誉会長宅へ。
親父は最初気まずそうにしていたが、やがて会長と話し出した。
その様子を確認すると、俺は一郎さんへ話し掛ける。
「次はチビですね!」
「おう」
連雀町の雀會詰所前にいた現会長の高橋さんを捕獲。
「何しやがんだ、離せ! 離せ!」
俺たちは高橋さんの両脇を抱えて持ち上げ、問答無用で会長の元へ連れて行く。
酒が入っていたのもあり、無礼講で傍若無人に振る舞う。
栗原名誉会長も、親父や高橋さんと久しぶりに話していて、とても嬉しそうだった。
川越祭りという特殊な空間だからこそできた行動。

「一郎さん…、もう十年前の川越祭りの時ですが、あの時うちの親父や高橋さんを強引に一郎さんと搔っ攫って、会長の前に連れてきた事あったじゃないですか」

「ん-…、ああ、そんな事やったっけなあ」

「あの時ああやっといて、今は本当に何か良かったと思ってます」
「そうだな…、智一郎。ありがとな」

一郎さんは葬儀の準備などをこれから取り仕切らないとならない立場。
そのあと落ち着けば、自分の病院という戦場が待っている。

今日会った小谷野の家族だけじゃない。
一郎さんもみんな、それぞれ自分の地位をちゃんと段階を踏んで積み上げているのだ。
誕生日でただ浮かれ、裏稼業で働く俺とは違う。
力が抜け布団へ倒れ込む。

そういえばまだまだ誕生日コメント届いていたな……。

『誕生日おめでとうございます。 水村健司

会った事はないが、うちから近所のお茶屋さんの人から。

『誕生日おめでとー! 須賀昭夫

須賀栄治さんの兄であり、シンガポール帰りのプロカメラマンの昭夫さん。
今では市議会議員になった。

『お誕生日おめでとう。 SumiyoYamamoto

中学三年生で同じクラスの勝田澄代からも。

『お誕生日おめでとうございます。 KimikoHashimoto

岩上整体時代から患者で来てくれた橋本貴美子。

『誕生日おめでとうございます。 伏谷卓

同じ連雀町内で、マンションへ越してきた伏谷さん。

目出度いはずなのに、会長の訃報と重なり、酷く混乱していた。
こんな状態でも、明日からまたラッキーハウスの仕事は始める。

せめてもの救いは、アパホテルでの部屋を押さえていた事ぐらい。

会長との川越祭りの思い出を振り返りながら、俺はいつの間にか眠っていた。


二千二十年九月十四日、月曜日先負。

自身の誕生日と栗原名誉会長命日の翌日の朝。
キャリーバックに一週間分の荷物を詰め込んで家を出る。

新宿へ向かう電車の中で、一日遅れのフェイスブック祝福コメントを確認した。

『おたおめです! 栗原傑

栗原一郎さんの従姉妹の傑。
彼とのファーストコンタクトは、今はもう無いジャズバーのスイートキャデラックにて。
甥である栗原会長が亡くなった中、俺の誕生日を気遣う彼の心遣いに感謝した。

『誕生日おめでとうございます。一日過ぎてしまった〜! 青木怜子

北海道奥尻島に在中するれっこ。
未だインターネット繋がりの中だが、岩上整体の頃だからなので随分付き合いは古い。

ラッキーハウスへ到着すると、いつもの日常が始まる。

深谷さんは、不動産の物件の紙を何枚かわざわざ持ってきてくれて、掘り出し物だからここへ住めと言ってきた。
その行為には有難く感じるも、昨日の訃報があった今、部屋を借りるという気にはなれない自分がいる。

仕事帰り、いつものように山下が飲みに誘ってきた。
俺は恩人が昨夜亡くなった事を伝え、喪に服したいと断る。

リカーショップ信濃屋へ寄り、クラッカーとクリームチーズ、そしてショットグラスを購入。

第四期ホテル暮らし一日目。
昨日プレゼントで頂いたグレンリベットをキャリーバックから取り出して、テーブルの上に並べた。

ボトルの封を開け、ショットグラスへウイスキーを注ぐ。

2020/09/14 新宿コマ劇場前 アパホテル

「うん、グレンリベットもクリームチーズもクラッカーも準備良し。栗原名誉会長…、献杯させて頂きます

酒を飲み干すと、それから静かに一人で泣いた。


二千二十年九月十五日、火曜日仏滅。

起きてから熱い湯を溜めて、バスタブが満たされるのを待つ。
時間潰しにフェイスブックを見ると、一件祝福コメントが届いていた。

『おめでとうございます。 戸高由多加

実際に会った事はないが、横浜時代に誰かの繋がりで友達になった戸高さんから。

そういえばカガヤカフェのヤス、あの野郎俺の誕生日に何のコメントも寄越さなかったな……。

早番になってホテル暮らしをするまでは、毎日のようにあの店で二千円以上金を使っている客に対して、さすがにちょっと礼儀がなってないんじゃないか?

いやいや、どうでもいい事で短気を起こすなよ。
加賀屋のおばさんの顔があるから、あそこには行っている。
それでいいじゃないか。
それでもムカつくなら、俺が行かなければいいだけの話。
つまらない事で、これまで構築した人間関係を乱すなって。

まだ仕事まで時間があったので、ベッドへ横になりながら携帯電話で適当な記事を見る。

一つの記事に目が留まった。
立憲民主党の小川という政治家の発言。
何を意図しての発言なのかよく分からないが、明らかに人間の生い立ちを上から目線で小馬鹿にした感じにしか見えなかった。

長期政権を築いた安倍首相が退陣し、菅総理体制になった自民党。
その菅総理に向かい、この小川という政治家は酷い差別的な発言をしている。

立憲民主党の小川

『お父様は議会議員であられたのか。そして集団就職で来られたのか。あるいは単独で来られたのか』

この馬鹿一体それを言って、何がしたいんだ?

立憲民主党の小川

菅総理の生い立ちどうのこうのの前に、自分のところの立憲民主党副代表兼参議院幹事長の蓮舫さんとかに、これ言ったの?
集団就職で来て働いた人間は、政治家になっちゃ駄目だと言うのか?
発言のすべてに悪意しか感じないし、この中途半端さが逆に気持ち悪い。

このような粗探ししかできない奴は、本当に政治家を辞めてほしいものだ。
税金の無駄遣いにしか見えない。
このコロナ渦で世の中が混乱している中、何馬鹿な事ぬかしているのだ?

俺は自身の意見をそのままフェイスブックへ載せる
すると同じ感覚を持ってくれたのか、石川雅之とれっこがコメントをくれた。

『呆れます……。 石川雅之』

『こういう事を何も考えず言えるこの議員の生い立ちを聞いてみたいですね。 岩上智一郎

『生い立ちで政治をするの? そう思ってるなら国民の目線とはかけ離れてるので辞めていただいて貰いたい! そもそも首相にならない人でも、集団なんちゃらで来た人は政治をやるべきではないと言ってるようなもんだけど頭にウジでも沸いてるのか? 青木怜子』

『ほんとこういうバカに投票、支持した人たちにも、選挙権取り上げたほうがいいくらいヤバい奴ですよね。おそらく頭の中はウジやボウフラの巣窟となってんでしょうね。 岩上智一郎』

『何でも文句言えば良いってもんじゃないだろうに、言って良い事と悪い事の区別もつかないなら小学校からやり直しなよだよね。 青木怜子』

『今後新規の内閣総理大臣は、目につく政治家を三人までクビにできる権限を与えたらいいと思うのですよ。 岩上智一郎』

半分冗談交じりでコメントをしながら出勤への時間が近付いてくる。
俺は身支度を整え、ラッキーハウスへ向かった。

また夕時時になり、梶原が叙々苑弁当と言い出す。
店内にいた深谷さんは、脂っこいものは食べたくないと断り、梶原一人だけ。
それだと叙々苑が持ってこれないと再び説明すると、烈火の如く怒り出した。

「申し訳ありませんが、一人前だと配達ができないルールが叙々苑にある以上、別の出前にして下さい」
「だったら二人前頼めばいいだろうが!」

「さすがに来ていないお客さんの分まで、店負担で出せませんよ」
「何でそんな事おまえが抜かしてんだ!」

「この店の早番を預かる責任者だからです」
「まったく小生意気なクソガキだ!」

俺がこの馬鹿に言いたいのが、十万円の勝負もしない中途半端な客のくせに、太客ぶって二人前の弁当を頼めとよく恥ずかしげもなく言えるものだと思う。

まだ自分の金で我儘を言うなら百歩譲って分かるが、タダ飯にありつくのにここまでキレる神経が分からない。
こんな奴が佐藤充の言う通り教育委員会のお偉いさんなのなら、日本の教育は腐っていると断言できる。

接客とは何も、客へ無制限にペコペコする事ではない。
人間としての最低限の所作を持てない輩に対しては、他の客の迷惑にもなるので教育をしていかないと駄目なのだ。

この梶原一人が店全体の利益になっているなら、話は別。
だが、十万程度の勝負をしたぐらいでここまで居直られても、ラッキーハウスから見れば迷惑なだけ。

「覚えてろよ、このクソガキが」

まるでチンピラのような捨て台詞を残して店を去っていく梶原。
本音を言えば、おまえこそ俺が従業員という立場で命拾いしたなと言いたい。

再び店内に静寂が訪れると、吉岡が近付いてくる。

「赤崎さん、前の大久保さんの時もそうですけど、本当に店を守るのに頑張りますよね」
「いやいや、吉岡さん…。俺は特別な事など何もしていないですよ。過去にオカマの木下や香川がどう対応したのか知りませんが、あいつらが甘やかして図に乗せるから、梶原や大久保のようなどうしょうもない客が増えていくんです。じゃあ同じ条件で真面目に勝負しに来ている客はどうなるのって。律するところはキッチリ律さないと、店はどんどんおかしくなるんですよ」

こんな落ちぶれた裏業界の中でも、筋を通さないといけない事はあるはず。
少なくとも俺はずっとそうして生きてきたつもりだ。

俺の考えに興味を持った吉岡は、仕事帰り飲みに誘ってきた。
もちろん山ゴネスも当たり前のようについてくる。

2020/09/15 新宿コマ劇場前 アパホテル ビーフキッチンスタンド

いつものビーフキッチンスタンドでゲーム屋の論議を交わす。

「赤崎さんって、自分が今まで見てきた責任者とちょっと違ってますよね。もちろん悪い意味じゃないですよ」

「俺は前に言ったじゃないですか。今捕まっている酒井さんには恩義があると」
「ええ」

「だから責任者としてラッキーハウスを俺なりに守っているだけなんです」

「うーん…、赤崎さんは男だ!」
「吉岡さん、岩上さんは昔、若い頃だったらもっとヤバかったっすよ」

「え、そうなんですか? 普段は温和なのに」
「ヤクザでも粋がった客でも、構わず唸り飛ばしていましたからね」

「いつの話をしてんだよ。二十代の頃の話だろ」

こんな状態でも、俺は全日本プロレスに居た誇りを忘れたくない。
強いてはその想いが、今は亡きジャンボ鶴田師匠や三沢光晴さんの汚さないという事になる。

屑なりの矜持。
もう格闘技も小説も関わらなくなった俺が持っている最後の砦。

じゃなければおじいちゃんや栗原名誉会長、澄夫さんといった生まれた時から愛情を注いでくれた先人たちへ顔を向けられないのだ。

四十九歳になり、人生の折り返し地点は間違いなく来ている。
だからこそ、この部分だけには拘って生きたい。


二千二十年九月十六日、水曜日大安。

今週の日曜競馬はローズステークス。
誕生日に全部のレースを外した俺は、少しだけ競馬熱が戻りつつあった。

懲りずに神頼みで、仕事後腹減ってたので、スカウト通りと並行した通りの定食屋『こまつ』へ向かう。

三平ビルの横の道を入ったところにあるこの店は、過去数える程度しか来た事がない。
だが今週の競馬を勝つ為に、この店のカツカレーを胃袋へ納めようじゃないか。

2020/09/16 新宿こまつ カツカレー

思ったより美味しかったカレー。
ゲンを担いだ俺はホテルに帰ってからグレンリベットを飲んでから眠った。


二千二十年九月十八日、金曜日先負。

仕事を終え部屋に戻ると、セブンスターを咥えながら窓を開ける。
今回の部屋は元コマ劇場広場とは真逆にある花道通り方面。

見せる景色は道を隔てた大久保病院だった。
コロナ前なら交番の横にある入口の階段部分にたむろする歌舞伎町の住民たちの姿は見えない。
みんな感染を恐れているのか、歌舞伎町自体元気のないままだった。

2020/09/18 新宿コマ劇場前 アパホテル

今回は部屋で一人寂しく酒を飲む回数が増えた。

第四期ホテル暮らしも今日泊まれば、仕事へ行ってからまた川越へ帰る。
宿泊代も少しずつ上がっていく中、いつまでこの生活スタイルが成り立つのだろうな。

砂上の楼閣に過ぎないルーティン。
どうせ俺のような馬鹿は、無い知恵を振り絞ったところで碌な目にしか遭わないのだ。
結局のところなるようにしかならない。

だから今は、ただ時流の流れに沿って……。


二千二十年九月十九日、土曜日仏滅、彼岸。

明日のローズステークスの軸馬を決定する。
もう9番のクラヴァシュドール頼みしかないだろう。

理想は俺の誕生日馬券9-1-3で決着を望む。
もし、これで来たら大きいものだ。
競馬で大勝し、とっととこの腐った店から脱出をしたい。

でも、それだと酒井さんが戻ってくるまで店を護る事にならないのか……。

じゃあ勝ったとしても、驕れず図に乗らずいつも通りに…、このぐらいにしておこう。
今日は中国人の太客ルルがずっと店にいたので、楽しい気分で業務を終える事ができた。

キャリーバックを転がしながら本川越駅を出ると、先日行った竹村の『いっしょうけんめい』へ顔を出す。

2020/09/19 川越 炉端いっしょけんめい

まだ今回で二度目の来店になるが、一人カウンター席で飲んでいると、後方から声を掛けられる。

2020/09/19 川越 炉端いっしょけんめい

「お久しぶりです、岩上さん」
「え、ひょっとしてマー君?」

何年ぶり以来だろうか。
俺が小学二年生まで通ったピアノの飯島敦子先生の長男のマー君が、彼女とたまたま来店していた。

もう今では久しく連絡を取っていなかったが、敦子先生は俺にとって今でも感謝をしている恩師の一人である。
彼の妹のバトントワリング金メダリストの友美ちゃんは元気なのか、昔話に花が咲く。

一回り以上年の離れた恩師の息子カップルを前に、すっかり上機嫌になった俺はすべてご馳走すると強引に金を払い、和牛焼きしゃぶを人数分注文した。

2020/09/19 川越 炉端いっしょけんめい

店員が目の前で牛肉へバーナーで炙り、それを卵の入ったつけ汁で食べる醍醐味な料理。

「竹村君、これ超旨い! もう一人前ずつ持ってきてよ」
「いやいや、智一郎さん! 金遣い過ぎですって」

2020/09/19 川越 炉端いっしょけんめい

「いいのいいの! 俺は若い頃、敦子先生に色々お世話になったし、ご馳走にもなったんだから。お願いだから、ここの払いは俺に任せて」

店内は禁煙なので、店の外へタバコを吸いに一旦出る。
戻ってくると、マー君が母親に俺との偶然的な再会を電話で話しているところだった。

「あ、智一郎さん。うちの母です。電話代わって下さい」

久しぶりの敦子先生との電話。
もう先生は息子のマー君に飯島電機の会社を譲り、半分隠居状態だと明るく笑っていた。
つまり一階に天下鶏のあるあの家にはもう住んでいないらしい。
娘の友美ちゃんと、小仙波にある会社のほうにいるようだ。

親から子への美しい継承。
身近なこの例を見て、自分の家系を振り返る。

お袋が出て行ったあとの小学高学年。

小学校高学年になるとおじいちゃんが弁護士を同伴した状況で「養子にならないか?」と言われる。
財産を少しでも俺に多く残したかったらしいが、それを受けると父親の立場が無いだろうし丁重に断った。
おじいちゃんは笑顔で俺の頭を撫でながら「そうか、智一郎は偉いな」とだけ言った。

あの時俺は、子供ながら変に格好をつけてしまったのだ。
俺があの話を受けていれば…、親父が内緒で籍を入れた加藤皐月が家に棲みついた事も何とかできたはず。

少なくともおじいちゃんは、岩上家を長男である俺に対し託したかったのだろう。

だが仮に養子縁組の話をあれで受けていたら、どうなっていたか?
当然家の金を自由奔放に遊び歩いていた親父には内緒なはずだ。

つまりその話を受けたら受けたで、俺は自分が同じようにやられ軽蔑した弟だった貴彦とピーちゃんへの軽蔑と同じ穴の貉になっていたのである。

内緒で養子縁組をして白を切った貴彦。
あれで俺は二人を絶縁したのだから……。

新年早々嫌なものを見た。
数年前から家に住み着いている物の怪加藤皐月。
気にせず部屋へ行こうとすると、声を掛けられた。
「何ですか? 俺に気安く話し掛けないでもらえますか?」
「あのね…、智ちゃん。あなたはここの家の長男なのよ」
いつもと違う感じな加藤。
その本家の長男に対して近所ではパラサイトだと言い触らしたり、数々の嫌がらせをして追い出そうとしているのはおまえだろ。
俺は加藤を睨み付けた。
「お父さんを手伝って、この家を継ぐつもりはないの?」
「あんたさー、どの口が言ってたんだ? 頭大丈夫かよ?」
これまでの行動とは一転して、逆に気持ち悪い。
「もうね、お父さんの智さんにとって子供は智ちゃんと徹っちゃんしかいないしね……」
「はあ? あんた、さっきから何を言ってんだ? 俺らは三兄弟だよ!」
「先日ね…、私が戸籍謄本を調べていたらね」
「だから何であんたが、うちの戸籍謄本なんざ、調べる必要性があるんだよ!」
この守銭奴が……。
段々怒りが沸いてくる。
「一番下の貴彦ちゃんね…。あの子は由美子さんと養子縁組しちゃってるから、もうお父さんの子供では無いのね」
「養子縁組? 何だ、そりゃ?」
貴彦が叔母さんのピーちゃんと養子縁組?
初耳だった。
しかしこの女が吐く台詞だ。
何かしらの計算あっての事には違いない。
加藤皐月は両手を口に当て「あら、嫌だ…。私、ひょっとして口を滑らせちゃったの?」と大袈裟に驚いた演技をしている。
「たーが、ピーちゃんと養子縁組?」
「私から聞いたなんて言わないでよ。口が滑っちゃっただけだから」
それだけ言うと、加藤はまた親父の部屋に戻った。
今貴彦が始めた『北風と太陽』。
俺が元々は岩上整体をやろうとしていたのを強引にピーちゃんに阻止された。
そのあとすぐ貴彦がやってきた。
そういえば何故家のスペースの問題をピーちゃんが決められたんだ?
おじいちゃんが駄目だと言ったのなら分かるが……。
養子縁組でできた貴彦とピーちゃんの親子関係。
だからこそあそこへ、貴彦の店をやらせた?
そういえばおじいちゃんに向かって「おじいさん、遺言状」と何度も言うピーちゃんの姿を見た事がある。
おじいちゃんはうんざりしながら逃げるように二階の自分の部屋へ行ってしまう。
遺言状に養子縁組。
あの加藤皐月の気持ち悪い接し方。
この家で、何かが起ころうとしているのは間違いない。
俺と貴彦は戸籍上もう兄弟ではない。
兄弟は徹也だけ。
気にするな……。
加藤が混乱させて、家族同士を揉めさせようとした法螺に過ぎない。
俺はせっかく有り余る時間を小説に捧げないと。

俺はトイレへ駆け込み、喉へ手を突っ込んで強引に吐いた。

あの時からどれだけ経ったと思っているのだ?
もう加藤皐月は家にいない。
四千万の金を引っ張り出て行った。

貴彦とはあれ以来一言も口を利いていない。
それは叔母のピーちゃんにしてもそう。

俺が横浜にいる間に、おじいちゃんは亡くなった。
数年前にお袋さえ亡くなったと聞いた。

幼少期、小学校が終わるまでピアノの塾にはずっと通っていた俺。
敦子先生と再会する三十代まで、ずっと同じ先生だと思っていた記憶の改ざん。
現実はお袋が家に居た頃までの先生が敦子先生。
お袋が家を出て行ったあと習ったのは、親父の不倫相手だった別の先生。
その驚愕の事実に十数年も、俺は記憶を都合よく改ざんしていて過ごしてきたのだ。

過去のトラウマがパンドラの箱を開けたように悪意が全身を覆い、気付けばトイレで吐いていた。

人間は脆い。
冷たい起因と結果だけの因果律だけでは、精神が持たなくなる。
だからこそ仏教の概念では、それらを業…、カルマと呼び、自分の行為が来世も含めた未来に影響を与えるという考え方をした。

因果律と業。
似ているようで少し違う。

道徳的な重みが乗っている。
善い行いは善い結果を、悪い行いは悪い結果を生むと……。

つまり因果律へ、人間の都合のいい思想を乗せたものが業。

駄目だ…、頭が酷く混乱している。
俺は洗面所で顔を洗い、席へ戻った。

「智一郎さん、大丈夫ですか?」
「ごめん、ちょっと疲れていたみたい。マー君、ここの払いはしといたから、俺は帰って先に休むね。お二人共ごゆっくり。邪魔してごめんね」

俺は無理に作り笑顔でそこまで言うと、キャリーバックを力無く転がしながら帰宅した。




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