闇 460(浅草緑寿司と澄夫さん編)
闇 460(浅草緑寿司と澄夫さん編)

2026/01/21 wed
前回の章
二千十九年七月十四日、日曜日大安。
仕事を終え、いつもと変りなく川越へ戻る。
夕方になり山下からの電話で起こされた。
「何だよ、寝ていたのに……」
「岩上さん、今から新橋行って下さい」
「はあ? 何故新橋?」
「美香いるじゃないですか、昨日会った」
「ああ、おまえの彼女ね。シーちゃん喜んでいたろ?」
「彼女じゃないですって、友達です、友達!」
「まあ何でもいいけどよ…、何だよ、連絡してきて」
「美香が今日友達と新橋で飲むんですよ。それで岩上さんにその子紹介しようかなと」
「え? ちょ、ちょっと待てって。話が急過ぎるだろ? おまえは?」
「自分は今日仕事すから」
「いやいや、確かに美香ちゃんとは昨日会ったよ。でもさ、いきなりそれで今日俺に紹介っておかしくねえか?」
「ん-、まあ岩上さんが乗りきじゃないならいいすけど……」
昨日会った美香は、まだ三十代前半でショートカットの似合う可愛いタイプだった。
その連れの子を俺に紹介する……。
少なくとも不細工ではないだろう。
せっかく向こうが好意で言ってくれたのだ。
ここは行くしかない。
「分かった、行くよ! でも俺、新橋なんて分からないよ?」
「美香の連絡先教えておくんで、岩上さんは新橋行ったら直接あいつに電話して合流して下さい」
「いいのかよ? おまえ抜きで」
「いいすよ。岩上さんなら昔から知ってんですし」
突如決まった新橋女の子紹介。
山下の絡んだ案件ではこれまでで最高の出来事だった。
一つだけ問題がある。
アイノー皇帝で知り合い親密になったひろみだ。
彼女の束縛癖からか、あれだけ毎日のように投稿していたフェイスブックは、七月三日の泡の絵以来アップしていない。
六月の時、逐一投稿を見られながらああでもないこうでもないと言われ続け、正直うんざりしていたのだ。
今回新橋遠征は、結構な時間となるはず。
普段のやり取りからひろみは絶対に不自然さを覚えるだろう。
しかも今日俺が休みというのも知っている状態。
さて、どうする?
山下が部下だという存在は知っている。
美香は山下の彼女という認識でも伝えてあった。
そうか!
ラッキーハウスのシフト状況までは知らないので、山下に誘われて新橋へ行くという事にすればいいのだ。
俺は着替えを済ませ早めに家を出たが、美香との待ち合わせまで時間がある事に気付く。
仕方なくクレアモール沿いの喫茶店に入り、アイスコーヒーとスパゲティーグラタンを注文した。

もし今日で紹介が上手くいき、彼女ができたらひろみをどうする?
そんなものは簡単だ。
元々ひろみは人妻。
別に会って訳でも抱いた訳でもない。
旦那さんがいるのだろと諭し、関係を終わらせればいいだけ。
うまくいかないケースにも備え、とりあえず今日はこれから山下と新橋へ飲みに行っていくとだけ伝えておく。
紆余曲折を経て何とか美香と合流。
彼女の友人七海はもの凄い美人で驚く。
ただバツイチ子持ちらしく、まだ小学生前という事で色々大変なようだ。

チーズフォンデュで野菜をつけて食べながら楽しいひと時。
ひろみから何度も連絡が入るが、邪魔にしか感じない。
正直鬱陶しい。
トイレへ行くふりをして携帯電話を見ると、女の勘なのか美香に紹介されている俺を疑っているような文章だ。
今部下と一緒だからと素っ気ない返事をする。
七海に子供がいても、これだけの美人なら頑張って生きていけそうな気がした。
俺はいつも以上に気遣い、ジェントルマンな振る舞いに終始撤する。
「ねえ、美香ちゃん。新橋って俺よく分からないんだけど、浅草ってここからだと近いの?」
「うーん、ちょっと私は分からないですね」
「結構あるんじゃないですか? あ、でも地図で見ると車なら十分ぐらいで行けそうですね。何でいきなり浅草なんですか?」
俺は二十代の頃、浅草ビューホテルでバーテンダーをしていた過去を話す。
そこでホテルの近くにあった緑寿司。
そこの絶品な焼き穴子を是非二人に食べさせたいという意思を伝えた。
あの時は二十代半ば、まだ歌舞伎町を知らない時代の俺。
四十七歳になった今、二十年以上の月日が流れている。
豚八のように潰れてしまったケースもあった。
あれはいつだったっけ?
確か伊達とアメ横から浅草へ行った時だ。
まだあの時は時間前で緑寿司は開いていなかった。
仕方なく昔よく行った焼肉屋へ行くと、世話になったおばあさんは亡くなってしまっていたのだ。
タクシーでワンメーターほどで行ける浅草へ到着。
まずは田原町駅を過ぎたところで降りて、よく行った豚八へ行く。
「え、潰れているじゃん……」
大好きだったそこまで美味しくなかったジャンボハンバーグ定食があった豚八は潰れて別の店になっていた。
またしても好きだった店が一つ……。
そのまま国際通りを左へ曲がり、真っ直ぐ行った左手にある緑寿司へ向かう。
あそこの大絶品な焼きアナゴが無性に食べたい。
「美香ちゃん、七海ちゃん! 多分今こうして思った時が本当に行き時なんだ。ここを出たら浅草へ行こう!」
二十数年ぶりに、あの緑寿司の焼き穴子の握りが食べたい。
そして七海とあの味を共有したい。
ついでにこの子を紹介してくれた美香にもご馳走したい。
全員の会計を払い、タクシーで浅草へ向かう。
国際通りまで出れば、見覚えのある景色になる。
俺は運転手へ道順を伝え、緑寿司の前へ辿り着いた。

「へい、らっしゃい」
「あのー…、もう二十年以上前になるんですが、当時よく浅草ビューホテルのベルヴェデールの人間とよく来た岩上と申します。さすがに覚えていないですよね? あの頃は確か板前でテツさんって方がいたと思うんですが」
「うーん…、テツは確かにいたねー。もう辞めて随分経つけど。さすがにそこまで時間経っちゃうと覚えてないなあ」
「それはそうですよね…。あ、今日は彼女たちへここの絶品な焼き穴子を食べさせたいなと思いまして。あとマグロもいただけますか?」
出された焼き穴子は、二十数年前と変わりなくとても美味しかった。

「え、何これ? 凄い美味しい!」
「でしょ?」
「本当に凄いお寿司屋さん知っているんですね」
「二十年以上空いてしまったけどね」
「ねえ、七海も岩上さんと連絡先交換したら?」
「そうだね。いい人そうだし」
美香、ナイスフォロー!
君は何ていい女なんだ……。
俺は携帯電話を取り出し、連絡先を交換しようとした時、ひろみからのメッセージが届く。
慌てて俺はクリックしてしまい、彼女が送った画像が出てくる。
「……」
ひろみが自分のほうへ向いてほしいと思ったのか、彼女は自分の太腿を写した画像を送っていた。
「い、いや…、これは……」
「何だ、岩上さん…、彼女さんいるんじゃないですか」
「いや、これは違って……」
もう何を言っても弁解の仕様がなかった。
仕方なく俺は二度目の地雷を踏まぬよう、ツイッターへ緑寿司の記事を載せる。
今日は部下に誘われて最初は新橋で
— 新宿トモ(岩上智一郎) (@shinjukutomo) July 14, 2019
次は浅草まで行って、20年ぶりに緑寿司へ
ここの焼き穴子本当に最高! pic.twitter.com/dWv37JHfy9
七海を最寄り駅までタクシーで送り、俺と美香は何とも言えない空気のまま、西武新宿線で途中まで一緒に帰り、この日は終わった。
頭の中ではドナドナの歌が絶えず流れていた。
二千十九年七月十五日、月曜日赤口、海の日。
あれほどの上玉を逃がした馬鹿な俺。
ひろみのタイミングの悪過ぎるメール。
しかし俺は彼女を責める事はできない。
何故なら七海は去り、美香はもう俺に紹介してくれる事はないだろうから。
つまり俺はひろみと会って抱くしか道は残されていないのだ。
昨夜のツイッターの投稿を見て、今度私も連れて行ってほしいとねだるひろみ。
もちろん君がこっちに来た時はと精一杯の格好をつけておいた。
男はつらいよって、こういう事をいうのかと何となく理解する。
腹が減っていたので大正浪漫通りへ向かう。
喫茶店シマノコーヒー『大正館』へ久しぶりに入った。

レトロな店構えの写真を見て喜ぶひろみ。
さらに店内の様子をもっと見たいと言ってくる。

この店のコーヒーの淹れ方はサイフォン仕立て。
ひろみにとっては珍しいものらしく、何枚も写真を撮るよう言われる。

ランチメニューのヤキサンドを二種類頼む。
マスターを話していると、この店の大家である真仁田さんが亡くなったと聞く。
もう数年前のようで、俺が二度目の横浜で地獄めぐりをしている辺りらしい。
週末になると居間に来て、おじいちゃんと一緒に競馬を楽しんでいた真仁田さん。
おじいちゃんにとって最後の友達だったあの人も、亡くなってしまったのかよ。
俺は自然と居間へそのまま入った。
「おお、智一郎じゃないか。おまえ、何をやってんだ? 全然川越にいないだろ?」
すぐにおじいちゃんは俺へ気付き、競馬を中断して声を掛けてくる。
「久しぶり、おじいちゃん。今ね、横浜に住んでいるんだ」
「おまえは何の仕事をしてんだ?」
まさか裏稼業のインカジなど言えるはずもない。
「接客業…、サービス業をしているよ」
「そんな真っ金金な髪の毛でか?」
「だって大手のホテルとかじゃなく、個人の小さい店だもん」
「まあ、真面目に働くんだぞ」
「分かってるよ、おじいちゃん」
「あ、会長、次のレース開始五分前ですよ」
真仁田さんが声を掛け、おじいちゃんはレース予想に集中している。
俺はその様子をしばらくずっと眺めていた。
レースが終わり、真仁田さんと手を叩き合って喜ぶおじいちゃん。
「おじいちゃん、いくら当たったの?」
「うーん、十二倍だから千二百円」
「何だよ、百円しか賭けてなかったのかよー」
久しぶりに家族と心から笑う。
横浜にいた俺にずっと欠けていたもの。
「私から金を取ってばかりで、たまには智一郎からも小遣いぐらい寄越しな」
おじいちゃんの台詞に真仁田さんは「そうだそうだ」と笑いながら相槌を打つ。
真仁田さんいなきゃ、十万円くらいポンと出したいけど、それだとまた何の仕事をしているってなるだろうしな……。
俺は財布から一万円札を出し、おじいちゃんへ手渡した。
結局あの時がおじいちゃんとも最後だし、真仁田さんとも最後になってしまったんだなあ……。
「はい、ランチお待たせしました」

ホットサンドのハムチーズに、ポテトサラダのランチが出てくる。
オレンジ色のサウザンドドレッシングが掛かったミニサラダ。
茹で卵二つにアイスコーヒー。
もっと早めに来ていれば……。
いやいや、あの頃地獄の真っ最中で何もできないだろうが。
本当に俺は成長をしない馬鹿なままだ。
ひろみとのやり取りは現実逃避に過ぎない。
それでも今の俺は、それに縋るしか方法を見いだせなかった。
大正館を出ると「智ちゃん!」と声を掛けられる。
見ると以前電話で口論になったままの伊藤久子が立っていた。
考えてみれば彼女は目の前のマンションに住んでいる。
こんな形でバッタリ出くわしてもおかしくはない。
二度目の横浜へ逃げた頃、ヤクザと揉めた状況を話している内に揉めた彼女。
精神的にまるで余裕の無かった俺は本当に正論を言うのはやめてくれと懇願した。
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