闇 499(浦島太郎編)
闇 499(浦島太郎編)

2026/03/11 wed
前回の章

二千二十年九月一日、火曜日友引。
仕事の終わりが仮〆の準備をしていると、山下が近付いてくる。
「岩上さん、あそこの酒場いいすねー」
「ん? ビーフキッチンスタンドの事?」
「ええ、凄い安いじゃないすか」
「飲んですぐ部屋で眠れるのもいいし、最高だな」
「今日も行くんすか?」
「うーん……」
「行きましょうよ! 自分も行きますから」
自分が泊まる訳でもないのに、俺以上に張り切る山ゴネス。
結局何かしらの口実を作ってタダ酒にありつきたいだけなのだろう。
まあ前回コイツがご馳走してくれたからいいか。
第二期ホテル暮らし二日目。
チェックインする前に一階のビーフキッチンスタンドにて山下と乾杯をする。
「本当おまえ、コロナビール好きだな。その内コロナに感染すんじゃねえか」
「名前が一緒なだけじゃないすか」

下手なところで飲みより、格安メニューのこの店で飲む方が無駄遣いもしないで済む。

「次どこ行くんすか?」
「行かねえよ! 俺はこのままアパに帰って寝るだけだ」
そう言って俺は伝票を持ち立ち上がる。
山下との付き合いの秘訣は、ダラダラと付き合わない事だ。
少しずつ俺も成長を遂げているのだろう。
二千二十年九月二日、水曜日先負。
第二期ホテル暮らし三日目。
またついつい帰りに寄ってしまうビーフキッチンスタンド。

もう俺もすっかりここの常連扱いだ。

部屋へ戻ると、まずは池袋のちかへLINEの返信を済ます。
そしてゆっくり風呂へ入り、英気を養う。
こんないいルーティンがあるなら、もっと早くしていれば良かったと思うほど。
睡眠時間もたっぷり休めるし、何よりホテルから出てすぐ職場へ行けるというのが最高の環境である。
基本的に店とホテルの往復だから、コロナ感染のリスクも少ない。
まだ宿泊料金が安い内、来週の分も先に予約しておくか。
先日小谷野と行ったガールズバーで知り合った十九歳の美代から連絡が入る。
池袋のちかと違い、バリバリの営業電話だ。
「悪いけど、普段平日は俺さ、新宿でホテル暮らしなんだよ」
「えー、何てブルジョワな生活を」
「美代も泊まりにおいでよ」
「新宿じゃ遠過ぎるよー。またお店来てよ」
「週末にならないと無理だよ。ずっと新宿にいるから」
「え、じゃあ日曜日ご飯食べに行こうよ」
「いいけど、どうせそのあとあの店へって言うんだろ?」
「うん!」
ちかもこのぐらい積極的なら、池袋のキャバクラへ一度ぐらい顔を出すのにな。
まあたまには若い女と食事もいいか。
「分かったよ。じゃあ日曜日、何時ぐらいにする?」
「うーん、五時ぐらい?」
「土曜の夜に川越帰るから、そしたら日曜日ね」
下手したら青い果実を味わう事ができるのかな?
いやいや、過度な期待はやめておこう。
二千二十年九月三日、木曜日仏滅。
快適な目覚め。
風呂場へ向かい歯を磨きながら室内をウロウロ歩く。

カーテンを開けると、西武新宿駅と無機質な元グリーンプラザ新宿跡地の工場現場が見えて、何とも言えない気分になる。
もうあのサウナが無くなって、二年ほど経つのか?
グリーンプラザで思い出すのは二つ。
一つはおそらく同じ系列であろう過去俺が働いたグリーンプラザ上越。
上越国際スキー場の銀世界の中、閉鎖された空間にあったホテル。
思えばあの場所で、接客というものを俺は初めて学んだのだ。
期間は短くワンシーズンもいなかったが、若い時代にホテルでの接客サービスを学べたのは間違いなく大きい。
もう一つグリーンプラザ新宿で思い出すのは、ワンオン系列『チャンプ』の従業員だった林である。
遅番のスタッフは責任者の有路、二番手の原、新潟からねずみ講で失敗し自己破産して逃げてきた林、元相撲取り上がりの久保田。
誰かしらが日々休みを取り、基本的に残りの四名で店を回す。
有路はプロレスが好きで妙に馬が合う。
原は仕事は黙々するが、完全なマイペース人間で他人には興味がない。
林はおおらかな性格だがインキンで股が痒いらしく年中指でかいている。
久保田は俺より大きな身体を面倒くさそうにチョコチョコ動く。
店では自腹であるが出前も取れる。
年配の女性客がアマンドのカレーを取り、半分ほど残した状態で「もうお腹一杯下げて」と皿を渡してきた。
受け取ろうとすると、林がダッシュで皿を奪うようにして「岩上君、ワイが下げる」と洗い場へ消える。
中々出てこないのでチラッと様子を見ると、林は女性客の食い残しのカレーを「うめえ! うめえよー」とガツガツ食べていた。
新潟で自己破産し、こっちでも近くにあるサウナ、グリーンプラザ新宿で寝泊まりをしていると言っていたが、本当に金に困っているのだろう。
そんな林もチャンプを辞め、〇〇連合のヤクザ者になってしまった。
同僚だった久保田へシャブを売り捌き、ルイヴィトンの偽物を売るのを生業にしたいた彼は警察へ捕まり、それ以降の消息は不明だ。
あの当時のメンバーで、この歌舞伎町へ残っている人間など、もう誰もいないだろう。
もう今後の生涯で出会う事のない人が、どれだけいるか。
見苦しく俺が、こうしてギリギリ生き残っているだけ……。
ゆっくり二度目の風呂へ入り、身支度を整えてからラッキーハウスへ出勤した。
今日は吉岡が休みなので、山下と二人だけの早番勤務。
最近は平和といえば平和だが、以前の木下が残した悪習が一つ残っていた。
それは出前での叙々苑弁当。
一人前三千四千円もする高級焼肉弁当だが、一人前だと出前すらしてくれない。
最低でも五千円以上か、二人前以上注文しないと届けてさえくれないのだ。
この金も客が自分で出すのではなく、あくまでも店の経費。
その辺の蕎麦屋の出前ならともかく、何故こういったものまで許容してしまったのか不思議でならなかった。
一度了承してしまったものを取り消すのは至難の業。
今日も佐藤充が来店し「岩ちゃん、叙々苑弁当」と言ってくる。
まだ一人分だけなら体よく断る事ができた。
だが充は「誰か他に頼む人いないですか?」と、他の常連たちへ余計な声を掛ける。
サトウセイジや樋口たちが次々と手をあげた。
これでまた経費から数万円が飛んでいく……。
もちろんこの悪習を香川は容認していた。
一体何を考えているのだろうか。
明らかに過剰サービス気味なラッキーハウス。
他のライバル店が多数いる時代なら、百歩譲ってまだ分かる。
しかし今の主流はインターネットカジノ。
斉藤弘一のいたジョーカーも潰れた今、そのまでして客へ媚びを売る必要性が俺には見い出せなかった。
店のインターホンが鳴る。
最近常連になりつつある梶原の来店。
山下の話では、過去ゲーム屋『サン』の頃から来ているポーカーでは古い客のようだ。
佐藤充の噂では、教育委員会のお偉いさんとも聞いた事がある。
少しして届く叙々苑弁当。
それを見た梶原は「店長、俺も叙々苑弁当ちょうだい」と言い出した。
「あ、梶原さん大変申し訳ございません。一人前だと叙々苑って、弁当持ってきてくれないんですよ。今日はうちも従業員二人だけなので、弁当を取りに行けないので、他のお店の出前にしてもらえないでしょうか?」
タイミングが悪いといえばそれまでの話だが、できるだけ丁重に声を掛ける。
「だったら二つ注文すりゃあいいだろうが! 一つはうちの女房へ持って帰るから」
黒縁メガネを外し、ギョロリとした目玉で睨みながら大声を出す梶原。
「……」
店がすべて金を出しているのに、女房の分の持ち帰りまで頼む?
だから叙々苑弁当なんて、とっとと禁止にすればいいんだよ。
面倒臭い事ばかりやらせやがって……。
平穏無事だった早番も、こうしたくだらない事にいい空気感はすぐ壊れてしまう。
他の賭博系の店ではあり得ない事だった。
「山ちゃん…、帰り一杯飲みに行かないか?」
珍しく俺のほうから山下を誘う。
梶原の一件で、仕事が終わっても気分が悪いままだった。
「いいすけど、またビーフキッチンスタンドすか?」
「いや、梶原とかの愚痴を言いたいから河岸を変えよう」
俺たちは花道通りにある手羽先で有名な『世界の山ちゃん』へ行く。

この店に来るのは、クビになった問題児木幡以来か。
裏稼業は、本当にあの手の調子いい輩が多い。
あいつがクビになって一年半ぐらい経つが、あの時を思い出す未だイライラしてくる。
仕事終わり店を出ると、木幡が追い掛けるようについてくる。
「赤崎さん、たまには飯でもどうですか?」
「構わないけど、どこ行くの?」
花道通りを歩いていたので、目についた牛タン麦飯のねぎしに行くか聞くと、これはその隣りにある『世界の山ちゃん』がいいと言う。
特に拘りもなかったのでリクエスト通り店へ入る。
テーブルの上に置ききれないほど注文をする木幡。
それでいて残すので「食べられる分にしておけよ」と注意した。
会計時になると「あれ? 赤崎さんすいません! 店に財布忘れちゃったんで、ここ出しといてもらえますか」とちゃっかりしている。
調子のいい奴だなと呆れながらも全額支払い家に帰った。
普通の社会で生きられないからこそ、みんな裏稼業へやってくる。
それはもちろん俺も同じだ。
そう考えると、こうしてプライベートで仲良く酒が飲める山下みたいな人材は貴重なのかもしれない。

「あれさー…、今日の梶原の態度どう思う?」
「あり得ないっすよ! あいつ、サン時なんて、ケンちゃん扱いを太客からされてたぐらいなんすよ。その時を知っている客がいないからって、粋がってんすよ」
「そもそも香川の馬鹿が、叙々苑なんて注文をOKにするからこうなるんだよ。山下、ジョーカーの時、客にそんな事していたか?」
「やる訳ないじゃないすか。ラッキーハウスは少しおかしいすよ」
「だよな…。ラッキーハウスというより、香川の管理体制が問題なんだよ。大久保冬芽の件にしたって、ただゴネたら店の金十万をノブがヘラヘラしながら渡しているだけだろ? それをあいつの接客を見習えとか責任者の俺に向かって言いやがって。あー、イライラしてくるわー」
久しぶりのヤケ酒。
アパホテルへ帰ると、吹き抜けの通路をしばらく眺めた。

本当にこんな造りじゃ、自殺志願者は簡単にここから飛び降りてしまうんじゃないか?

何となく薄気味悪さを覚え、とっとと自分の部屋へ向かった。
今日は少し酔っているようだ。
早めに休もう。
部屋に戻ると、美代とちかから連絡が入る。
俺はバスタブに湯を溜めながら、それぞれに返信をした。
二千二十年九月四日、金曜日大安。
ラッキーハウスの業務中、妙な話を山下が言い出す。
以前、内藤ノブが早番にいる頃、結構な頻度で店の回銭が合わなかった状態。
あまりにも自分たちの金を埋めるので、俺は個人ビンゴを完成した体にして差額分を一度だけした事があった。
もちろんこの事実は、俺とノブだけの話。
その事を言ってきた山下に正直驚いた。
「今日吉岡さんいるから、あとにしよう」
俺は小声で囁く。
ノブを崇拝しているヨッピーコレクションも出勤していたので、あとで変な事を言いつけられても困る。
考えてみれば、この店で信用できる人間はこの山下と、遅番の大山ぐらいなのだ。
仕事を終えると、いつものアパホテル一階ビーフキッチンスタンドへ向かう。
何故か普段は付き合いの悪い吉岡も「たまには自分も行きますよ」と付いてきた。
断る理由もないので、早番三名で酒飲みが始まる。
先ほどのノブの一件はさすがに話題に出せない。
明日ヨッピーコレクションは休みなので、その時ゆっくり聞けばいいだろう。
「岩上さん、内藤ノブさんの件なんですが……」
心配した傍から口の軽い山下が、あの一件を話に持ち出す。
ここであたふたするのも変なので、腹を括って様子を伺った。
彼の内容は、店の回銭を埋める為、俺が抜きをしたというもの。
吉岡もあの当時の早番が、よく〆が合わず埋めていたのを知っているので正直に話す事にした。
「まあ赤崎さんがやった事は褒められた事じゃないですけど、うちら従業員を守る為ですよね?」
「以前酒井さんと話した時そう言われ、俺的には毎月何万も埋めるんじゃ大変だろうとやった行為です。その一回だけですけどね」
それをわざわざ内藤ノブは橋本へ余計な事を喋り、香川まで伝わっているという事実。
そんな事をすれば、俺に責任問題を追及されるのが分からないのだろうか?
助けたはずの飼い犬に手を噛まれた感覚。
いや、まるで竜宮城へ連れて行かれず玉手箱だけ渡された浦島太郎である。
何だか本当に気持ち悪い店だ。
やはり直感的に、内藤ノブは信用できないと思ったいたのは正しかった。
この一件は、吉岡も知らなかったようで、俺より上の橋本と香川が何を考えているのか調べようもない。
まあそれで責任を追及されたら、最悪俺が店を辞めればいい。
ノブの裏切り行為に対し、気力をかなり失っていた。
ビーフキッチンスタンドの店員へ我儘を言って、ピザトーストの持ち帰りができないか聞いてみる。
快く応じてくれた店は、オマケに唐揚げまでサービスしてくれた。

このちょっとした気遣いに少しだけ救われた気分になり、酒の席をお開きにする。
第二期ホテル暮らし第五日目にして、妙な暗雲が立ち込めてきたような感じだ。
部屋で一人考えていても嫌な方向にしかいかず、服を脱ぎ捨て風呂場へ向かう。
俺は熱いバスタブの中へ顔をつけて、怒りを分散させた。
二千二十年九月五日、土曜日赤口。
ラッキーハウスへ出勤しても、店長の橋本が個人ビンゴの一件で何か言ってくる事は何もなかった。
まだ理由を聞かれた方が楽だった分、彼の行動に薄気味悪さを覚える。
内藤ノブはしれっとして挨拶をしたまま店を出て行く。
二万円程度の金を誤魔化すぐらいなら、自分で身銭を払えばよかったのだ。
しかししてしまった行為は、もう覆らない。
気晴らしに競馬で札幌二レースをやってみるも、結果軸馬が五着で全滅。
心がモヤモヤした状態のまま一日の仕事を終える。
明日の休みで気持ちを切り替えなきゃな。
一週間ぶりの地元川越へ帰還。
たまには篠崎の働く大漁丸でも顔を出していくか。
ちょうど店へ入ろうとした時、出て来る客がいたので道を譲る。
「あ、岩上さんですよね? 一番上のお兄さんですよね?」
「えーと…、君は?」
「あ、申し遅れました。この先で居酒屋の『いっしょうけんめい』をしている竹村と申します」
随分と礼儀正しい青年だな。
軽く世間話をしている内に、彼が自分の店へ戻るところだったので俺も早速行ってみる事にした。

和風造りの店構えで、中々洒落て落ち着いた空間。
メニューを見て驚いたのが、一番好きな茄子料理のレパートリーの多さ。
「もうね、茄子のメニューこんなあったらね、全部頼むしかないじゃんかよー!」
嫌な事などすっかり忘れ、いっしょうけんめいの料理を食べつつ酒を飲んだ。

茄子の煮びだしに、茄子焼き。

茄子のグラタンと、ここまで種類があるのも珍しい。

マグロの刺身まであるなら、マグるしかないだろう。

こんないい店が近くにあったなんて知らなかったぞ。
すっかり上機嫌のまま酒を堪能する。
美代から明日予定通り大丈夫なのか、確認の連絡が入る。
こんなもうじき四十九歳になるオヤジと食事に行くのが、そんな楽しみなのか?
随分変わった十九歳だ。
帰り道、大漁丸へ寄ろうとしたら、もう閉店の時間になっていた。
また近い内寄ればいいか。
仕方なくキャリーバックを転がしながら実家へ向かった。
二千二十年九月六日、日曜日先勝。
昼頃まで寝ていると、親父が前回食べたカレーをまた食べたいと起こされる。
「またあそこの淡路島カレーでいいの?」
「ああ、あそこでいいよ」
「結構気に入ったんだ? じゃあ買ってくるよ」
湯游ランド斜め向かいにある淡路島カレーの店へ行き、チキンカツカレーを注文すると品切れのようで、焼きチーズカレーにコロッケをトッピングしてもらう。

まだ美代との約束の時間まで結構ある。
俺は部屋でゲームをしながらいつの間にか寝てしまう。
起きたのは美代からの着信だった。
時計を見ると夜の七時過ぎ。
結構睡眠を取ったはずなのに、疲れていたのかな?
結果彼女との食事をすっぽかす形になってしまう。
「ごめんごめん、ついうたた寝しちゃって起きれなかったみたい」
「じゃあ、これからお店来てよー」
「もう店にはいるの?」
「私は九時の出勤から」
わざわざガールズバーへ行くのも面倒だったが、すっぽかした借りはしないと悪い。
仕方なく着替えを済ませ、家から出た。
機嫌を取る為、ケーキでも買っていこうかな。
まだ美代の出勤まで時間あるので、クレアモールを真っ直ぐ歩き『バタフライカフェ』へ入る。

ボロネーゼにミートドリアを食べて、時間調整をした。

ガールズバーへ向かいながらクレアモールを歩いていると、以前よくUFOキャッチャーをプレイしたゲームセンターに、巨大なガチャガチャが設置しているのを見つける。
一回三千円?
随分高いな……。

景品を見ると何気にいいものも提示してあるので、一回やってみようと千円札を三枚入れる。

大きな白いハンドルを回すと、バスケットボールほどの大きさのガチャガチャが出てきて、中には『K』という名札のついた鍵が入っていた。
台の横にあるガラス張りのロッカーで『K』のドアを開く。
「……」
これって確か『鬼滅の刃』に出てくる女性キャラだよな……。

四十八歳のおっさんが、こんなTシャツ着れるか。
三千円でこれじゃ、もうやる事はないだろう。
まあ、美代ならもらってくれるかもしれない。
彼女のいるガールズバーへ寄り、Tシャツをプレゼントすると
「これより今日すっぽかしたお詫びにシャンパン入れてよ」と、二万円のボトルを入れさせられた。
本当に飲み屋の女は、金金とあざとい。
分かっていながら関わってしまった俺がいけないだけ。
この日の夜、ちかからLINEが届いたが、返事をする気分にもなれず放置して布団へ寝転んだ。
二千二十年九月七日、月曜日友引、白露。
ノブの一件で、憂鬱な第三期ホテル暮らし一日目が始まる。
不正の事は、橋本も香川も知っているはずのに、俺と会っても何一つ言ってこない状況。
何かしら仕組んでいるのだろうか?
変に自分から動けないもどかしさ。
まあ向こうサイドから責任追及をしてきたら、俺もノブが早番にいた時だけ〆が合わなかった事実を言うまで。
そのノブを庇おうとした行為を喋られ、このような気まずい雰囲気になっている。
二千十六年の十二月から、ここラッキハウスで働いているが、どうも未だ馴染めない部分があるのは、香川がこの店のトップにいるからだろう。
仕事を終えると山下を誘い、またビーフキッチンスタンドへ行く。

未だ個人ビンゴの件へ触れて来ない現状を伝え、何かおかしな動きがあったら教えてほしいと頼む。

「おかしいと言えば、橋本さん…、多分抜きやってますよ」
「え?」
思わずいきなりの告白に、大きな声が出てしまう。
「昨日岩上さんが休みだったじゃないすか」
「何があったの?」
山下の話によると、最近ではめっきり来なくなったガジリ屋佐藤ヤスの個人ビンゴが、昨日俺のいない日に遅番で完成してらしい。
トランプのAからKまで全部で十三枚のフォーカードを一ヶ月以内で完成させないと成立しない個人ビンゴ。
一週間以内なら十万円のプレミア。
二週間以内で五万円。
一ヶ月…、開始から三十日間で二万円。
俺が以前店の誤差でマイナスが出た際、ノブへ穴埋めとして使ったのは、この二万円のプレミアの完成。
橋本はガジリ屋ヤスの名義で、十万円の金を抜いた訳である。
何故俺や山下が、橋本の抜きと断定できるかの根拠はあった。
基本キャッシャーにいるのは店長の橋本や、責任者の俺である。
つまりビンゴなど完成した場合、その番の責任者のサインなども必要となってくるのだ。
休みでもない限り、責任者のサイン無き伝票は、不正扱いされても文句は言えない。
次に個人ビンゴを完成させるには、最低でも十三回のフォーカードを出さないといけないのだ。
毎日長丁場で通う常連でないと、まず完成は難しい。
さらにAからKまでのフォーカードをすべて出して完成なので、確率的にも運的にも両方が兼ね揃わない限り、無理なのだ。
それをほぼラッキーハウスへ来なくなったケンチャンのヤスが、あれを完成する事など不可能。
ましてや俺が休みの日に、その不可解な完成伝票があったという事実から、橋本が抜きをして店の回銭から十万円をポケットに入れたと判断されるのは、当たり前の事だった。
「岩上さん、どうするんですか? 香川さんへ報告します?」
店を束ねる立場の番頭の香川。
俺は正直彼の判断能力と依怙贔屓さに対し、ラッキーハウスへ入った頃から疑問や疑念を抱いている。
まず人間性を疑ったのは、俺に対し卑しい笑みを浮かべながら言った台詞。
「赤崎さん……」
「はい、何でしょう?」
香川がいやらしい笑みを浮かべながら口を開く。
「今どんな気分ですか?」
「え、何がです?」
「昔顎で扱き使っていた部下が、他の店ではトップ。かたや赤崎さんはこの店で一番下っ端。それを聞いて、今どんな気分なのかなーと」
「……」
本当にこの男、底意地が悪い野郎だな……。
全身の細胞が香川を拒絶していた。
だけど落ち着け。
絶対にキレるなよ……。
あんな言葉を笑いながら人に言える香川。
真の地獄を経験せず、自分は安全だと思える立ち位置にいるからこそ出てくる人として最低な台詞だ。
そんな俺が何故これまであの店で我慢して働き続けられたのか?
それには今は亡き斉藤弘一の言葉があったのも、大きく影響している。
マグロ赤身だけですべて十五貫。
それを見た斉藤はまた吹き出してテーブルを叩きながら大笑いした。
「いや、斉藤さん。俺、実は魚類苦手でマグロの赤身しか食べられないんですよ」
「ぎょ、魚類……」
しばらく笑いが止まらそうなので、俺は放っておきマグる事にした。
別に受け狙いで頼んだんじゃないんだけどなあ。
彼が冷静になってから俺はラッキーハウスの愚痴を話す。
すると斉藤は神妙な顔つきになり、静かに口を開く。
「岩上さん…、その香川って男…、私は名前ぐらいしか知りませんが、最低な人間ですね。大倉は確かに今ジョーカーの店長という名目ですよ。ただそれをどう思いますなんて、いちいち聞いてくるなんて、人間の所業じゃありません。少なくとも私はそういった人間は本当に真から軽蔑するし、大嫌いですね」
「……」
斉藤弘一の台詞が、心の中にあったトゲトゲしい感情をすべて溶かしていくのが分かった。
おそらく俺は誰かにこの事をずっと分かってほしかったのだろう……。
ゲーム屋という絶滅危惧種に近い商売。
長年その業界にいた人間でないと分からない事もある。
彼はおそらく裏稼業の狭い業界の中で、一番の理解者だったのだ。
だから俺は彼を付き合いが短いのに、盟友だと勝手に思っていた。
いくらでも話が尽きない相手。
それが今目の前にいる。
一緒に働いた事もなければ、今日初めて酒を飲んだだけ。
それでも最高の気分だった。
「山下よ…、俺はさ、斉藤さんがあの時、あのような言葉を掛けてくれたから、今までラッキーハウスで理不尽な事があっても、頑張ってこれたんだ」
「……」
「香川の人間性…、どう思う?」
「正直あり得ないすよ! 大倉なんて、ワールドワンの頃、岩上さんにまるで頭が上がらなかった存在じゃないすか! 自分と大倉があの店を辞めると言った時それを止めて、吉田の豚野郎をクビへ持っていったのも岩上さんです。香川さんは、過去の歴史も何も知らず馬鹿にし過ぎだと思いますよ」
まさか山下の口から、あの当時の吉田を追放した事が出てくるなんてな……。
コイツもコイツなりに、少しずつ進歩はしているのだろう。
振り返れば、山下とは本当に長い付き合いになってしまっている。
俺が三十歳ぐらいから十八年…、いや、もう少しで四十九歳になるから十九年も。
二十年近くの付き合いになるのだ。
ゲーム屋の酸いも甘いも知り抜く俺たち。
業界に対して本来の常識や歴史などは、充分知り尽くしている。
だからこそ大久保冬芽がゴネて十万円を渡しながら出入禁止にしないやり方、そしてそんな方法を取る内藤ノブを評価しているといった部分がおかしいと言えるのだ。
それだけではない。
オカマの木下を責任者へ抜擢し、スカウト軍団『ナチュラル』の恩恵をたまたま受けて増長した時もそう。
結果カマッテチャン南筆頭のスカウト軍団が、ヤクザ者といざこざを起こし、ラッキーハウスへ来なくなった途端、オカマの木下は無責任に店を飛んだ。
香川は説明もなく、自身の判断ミスを何一つ言わない。
俺から見て、香川は信用に足りない人間なのである。
オーナーの酒井さん筆頭に上層部が警察へ捕まった今、そんな男が今のラッキーハウスのトップへ君臨している現実。
誰もあいつを正せる人間がいないのだ。
思うに香川体制は、自分の好みの人間で依怙贔屓をしているとも言える。
そんな人間に対し、橋本の不正を伝えたところでどうなるか?
また支離滅裂な事を言い出し、こっちの首を絞めるようなものになるかもしれない。
「どうするんすか、岩上さん?」
「とりあえず橋本の抜きの件は、俺たち二人の間でまだ秘密にしておこう」
「でもそれじゃ……」
「いいか? これは一つの俺たちにとってアドバンテージになるんだ。香川の判断バランスが欠けている今、これをすぐバラすのはいい方向へ転ばないと思う」
「じゃあ自分たち早番はどうすんですか?」
「俺が早番の責任者になってから、店全体の客の入りはどうだ?」
気持ちがはやる山下をとりあえず制し、店の話題へ切り替える。
「吉岡さんも言ってましたけど、岩上さんになって入客状況は良くなっていますし、来店した客の滞在時間が本当に長くなったと言っていますね」

ラッキーハウスでは、顧客来店表を毎日つけている。
この用紙へ顧客の来店時間から帰宅時間、また収支やちょっとしたメモをしておくもの。
最近では本来遅番のほうが来客数も多くなくてはいけない中、早番の時間帯に客が集中していた。
酷い日になると、遅番での来客数はゼロで早番から残った客数のみの時もあるほどだ。
「数字は正直だろ? 別に客が来たと、こっちは捏造している訳じゃない。香川が本当かと疑ったところで、入口のインターホンのカメラを見れば、その通りの客が映っているんだからさ」
「まあそれはそうすね」
「だから最近早番のほうが店は勢いがある。俺たちはいい接客を心掛けて、まずこの数字を継続させればいいんだ」
「でもそれじゃ、橋本の抜きはどうなんですか?」
「一つ疑念があるんだよ、俺は。下手したら橋本と香川…、それとノブは、裏で繋がっている可能性もあるんじゃないかとね」
「え、それって協力して抜きをしているって事すか!」
「そこまでは分からないけどね。たださ、大久保への十万の返金を何度も繰り返し、出禁にもしていない現実とか色々加味して考えると、そういう結論に行きついてもおかしくないだろ?」
「……。何か嫌な店すね…、ラッキーハウスって……」
「しょうがないよ。今まで杜撰にだらしなく生きてきた俺たちは、そこで働いて生活しているんだから」
「……」
「まあそろそろチェックしよう。おまえも終電の時間近付いているだろ」
「あ、自分ちょっと今日手持ちが……」
「いいよ、別に。俺が誘ったんだから、出しておくに決まってんだろ」
山下を見送り、ホテルの部屋へ戻る。
ベッドへ寝転がり、天井を見つめた。
俺なりのラッキーハウスの護り方……。
うまく考えがまとまらない内に、気付けば深い睡魔に引きずり込まれた。
二千二十年九月八日、火曜日先負。
爽快な目覚めと共に、部屋の窓を開ける。
元コマ劇場のゴジラホテル。
等身大のゴジラの後頭部が見えた。

んー、先週とは逆側の部屋で十七階だけど、何だか眺めはイマイチなんだよな……。
ラッキーハウスへ出勤すると、今日は吉岡も出勤しているので山下には昨夜の話は箝口令を敷く。
うっかりヨッピーコレクションが、ノブへ話でもしたら洒落にならないからだ。
業務中、次々と来店する客たち。
おじいちゃんの深谷さんは毎日のように来ている。
話をしたくてうずうずしているのが分かるので、業務に支障出ない範囲で丁重に話に付き合った。
一人でも多くの客が来るように。
そして居心地良く長居してくれるように。
とりあえずこれが俺の出したラッキーハウスの護り方だった。
仕事を終え、何か言いたそうだった山下。
俺は第三期ホテル暮らし二日目も、彼を連れいつものビーフキッチンスタンドへ寄る。

俺ってこの店に、週で三回四回と来ているんじゃないか?

店員も入ってきた俺の顔を見るだけで、笑顔を見せながら挨拶をしてくれる。
何よりも、飲んですぐ上で眠れるという破格の条件が最高だ。
山下の話はもちろん昨日の続き。
だがこれ以上いくら論議したところで、結論など出やしない。
「何だかゲーム屋も、昔と変わりましたよね。まあラッキーハウスが異常なだけかもしれないすけど」
「だって俺たちが一番街通りのワールドワンで働いていたのって、二十年ぐらい前だぞ? そんな時代から裏稼業で働く俺と山ちゃんなんて、化石みたいなもんだ」
「化石すか?」
「まあ分かり易い表現をしたら、亀を助けてお礼に竜宮城へ連れて行かれ、玉手箱を開けて老人になった浦島太郎みたいなもんだ」
「酷い言い方すねー。自分はまだ四十七すよ」
「俺と一歳しか変わらねえじゃねえか。もう老人世代に片足はお互い突っ込んでいるんだよ」
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