【闇シリーズ⑧】32~35(でっぱりと月の光)
2026/07/29 wed
※闇32~35を一気にまとめました
闇 32(物事の真相とピアノ月の光編)
夕方に北中が出勤してきて、倉庫へ行けと命じてくる。
正直こんな日常にもウンザリだった。
階段を上がり一階のフィールドのインターホンを鳴らす。
あの臭い倉庫へ行く前に、一息ついてからにしたかった。
山本がドアを開け、中へ招き入れてくれる。
俺は北中の愚痴をこぼす。
どうも愚痴っぽくなりつつある自分。
「岩上さんの事、みんな可哀相にっていつも言っていますよ。あんな奴の下に、いつも一緒にいるじゃないですか」
別に同情されたい訳ではないが、山本の台詞が素直に嬉しかった。
いつも一緒にいるは語弊があるが、仮に四六時中一緒なら精神は持ちそうもない。
小説にも行き詰まり、春美からは相手にされない現状。
誰でもいいから話す事で、この辛さから逃げたかったのかもしれない。
「そういえばメロンって、十年以上もやっているらしいですね」
あんな杜撰でいい加減な体制なのに、よく今まで続いてきたものである。
俺がエクセルで在庫をまとめていなければ、未だアナログ的にせっせこと無駄な時間が掛かっていたはず。
組織が円滑化すればいいと思い、良かれとやった行為。
それなのに北中は、まるで感謝のかの字すらない。
「最初はあの倉庫にいる汚い人いるじゃないですか」
「汚い人…、随分な言い方しますね、山本さんも。野路さんの事ですか?」
「ええ、元々はあの人の店だったんですよ」
「え? 何ですか、それ?」
初耳だった。
メロンが野路の店?
今まで聞いた事すらなかった情報。
「俺も噂でしか聞いた事がありません。でも確かうちのオーナーの金子さんが言っていた事だから、本当だと思いますよ」
これから倉庫に行く。
ちょっとこれはどういう事なのか、野路自身にさり気なく聞いてみる必要がある。
俺はフィールドを出ると、倉庫へ向かう。
途中でビールを一ダース買い、バックの中へ入れておく。
山本の話を聞き、野路へ同情している自分がいた。
「お、今日も来てくれたんだ。じゃあ、飯に行ってくるかな」
野路は笑顔で外へ行く準備をしている。
一日の内でこの時間だけが、彼の楽しみなのだろうか。
ビールを渡す前にとっとと野路は外へ出ていく。
まあ彼が帰ってきてから聞けばいいか。
せっかく楽しみにしている飯をあえて不味くさせる必要なんてない。
ビデオのダビングをセットして、注文があると配達を済ませる。
ちょっと前までなら、ノートパソコンを開き小説を書いていた。
今の俺にはこれ以上無理がある。
勉強も何もしていない俺が、勢いだけで執筆などしたところで尻切れトンボで終わるだけ。
こんな腐った職場で日銭を稼ぐのが関の山。
三十二歳にもなって、ずっと中途半端なまま単調な日々を過ごしている。
裏ビデオ屋は、売り子も倉庫も単純な仕事内容。
慣れれば馬鹿でも務まるような職種だ。
俺はこのままどうしょうもない時間を送り、無駄に歳を取って人生が終わるのかな……。
そうだ。
買っておいたビールを冷蔵庫へ入れておかないと。
「……」
ドアを開けた瞬間絶句する。
寒いはずの冷蔵庫内には、ゴキブリが所狭しとウヨウヨいた。
そこへビールを入れてもし手に触れたら嫌だ。
仕方なくバックへビールを戻し、そっとドアを閉めた。
セブンスターに火をつけ、うろついているゴキブリがこっちに来ないよう煙を吹き掛ける。
二時間経ち、野路が帰ってきた。
「お疲れさま。もう店に戻ってもいいよ」
「一服してからじゃ、駄目ですか?」
「ん? 別に全然構わないよ」
俺は頃合いを見て、バックからビール一ダースを取り出す。
すっかりぬるくなっている。
「野路さん…、良かったらこれを」
「あれ、どうしたの?」
「いや、野路さんに飲んでもらおうかなって」
「何だよー…、何だか悪いなあ~」
顔をほころばせながら喜ぶ野路。
「ちょうど知り合いからビール券もらったんで。よかったらどうぞ」
「ありがとう」
話すにはいい頃合いだろう。
「ところで野路さん、ちょっと小耳に挟んだんですけど」
「ん、どうしたの?」
「いや、メロン、あれって野路さんの店なんですか?」
「……」
それまで笑顔だった野路が、急に黙りだす。
「野路さん、どうしたんですか?」
「あ、ああ……。確かにあの店は俺の店だったよ……」
彼の表情は暗い。
山本の話はやはり事実だったのか。
「じゃあ何で?」
「話すと長くなるんだけどさ……」
そう言いながら、野路は淡々と喋り出した。
まるで誰かに聞いてもらいたかったとでもいうように……。
十年前、野路は金を持っていた。
何故持っていたかまでは知らない。
今のメロンとさくら通りにもう一軒、そこの二店舗のオーナーだったらしい。
俺はちょうどその頃全日本プロレスを目指し、毎日トレーニングに励んでいる時期でもあった。
二年ほどして北中が、知り合いの紹介で売り子として入ってきたそうな。
「え、北中さんが始めは従業員だったんですか?」
「ああ、そうだよ。知り合いがちょっと使ってやってくれと紹介されてね」
この事実に俺はビックリした。
あの北中が始めはただの雇われだった。
従業員を信用し、店を任せっ放しの野路は、一ヶ月間は嫁さんのいるフィリピンで過ごす。
そして次の一ヶ月は日本でという優雅な暮らしをしていた。
北中が入って最初の一年間、店は順調だったらしい。
ちょうどそんな時だった。
野路と嫁さんの間に子供が生まれたのは。
その辺りから店の調子が急激に落ち始め、日本に帰ってくると北中は店が赤字だから、今月二十万補填してほしいと言ってきたそうだ。
人のいい野路は、人に任せていたという気持ちもあり、素直に言われた要求金を出す。
それから一ヶ月置きに戻る度、金を補填するようになり、気がついた時、野路の金が底を尽きていたらしい。
何かこの人って、性格が俺に似ていないか?
まるで過去自分が上手く利用され騙された時と、似たような話を聞かされている気分だった。
ある日北中が話を持ち掛けてくる。
「野路さん、こうなったらさくら通りの店は畳んで、俺と野路さんの二人で店を切り盛りしよう」
ピンチになった野路は、これまでの平和ボケから簡単に北中の話を鵜呑みにしてしまう。
それからだった北中の横暴ぶりが始まったのは……。
給料は二人とも二十万円ずつと固定し、売り上げが良かったら歩合で分け合う。
そう言った北中。
しかしここ数年間で歩合があったのは初めの一ヶ月のみで、それからは一切ないらしい。
北中の巧妙なところは、一年に一度だけ奴のポケットマネーでフィリピンへ二週間だけ行かせているというところだった。
そこまで話し終わると、野路さんは仕事中なのにビールを飲みだした。
「野路さん! まだ冷えてないじゃないですか」
一気飲みして次の缶へ手をつける野路。
余計な事を聞いてしまったかな……。
目の前にいる野路は、北中の毒牙に掛かった犠牲者なのだ。
しばらく言葉が出なかった。
俺はあんな腐った奴の下で働いていたのか……。
いつか北中は、これまでの報いを思い知る時がやってくるだろう。
いや、今の小説が完成したら、どんどん先の話まで書き上げ、いずれ北中の所業を絶対に書かなきゃいけない。
そしてそれを世に出さないと……。
しかし今、小説を書く事に限界を感じている俺。
怒りだけじゃ、小説を完成させる事は無理なのだ。
「野路さん……」
「あ、ごめんごめん…。いただくよ、ビール……」
「何言ってんですか! 野路さんにあげたものだから、好きに飲んで構いません。でも、冷蔵庫で冷やした方が美味しいはずですよ?」
「そ、そうだよね…。へへ、残りはまだまだあるから、冷やしとかなくちゃ」
「……」
煤けた猫背の後ろ姿。
この人は一体、何を楽しみに生きているのだろう?
完全に負け犬の目になっている野路。
目の前にドカッと座り、ビールをちびりちびり飲んでいる。
自分の店を北中のいいようにされ、金銭面でも雁字搦めに管理されて……。
向こうに嫁さんも子供もいるんだろ?
もうちょっとしっかりしろよ。
怒ればいいじゃないか。
「野路さん、悔しくないんすか? 北中さんにいいようにされて!」
俺がそう言うと、野路は下をうつむき、声を押し殺しながら泣いていた。
「……」
これ以上俺は、彼に対し何も言えなかった。
そろそろメロンへ戻らないといけない。
黙ったまま俺は、倉庫をあとにした。
店へ戻った俺を見て、北中は意気揚々と上のフィールドへ向かう。
またゲーム屋のINとOUTの差額を見比べて、金を抜ける台を打ちに行くのかよ。
いや、フィールドの従業員たちには申し訳ないが、今はこれで良かった。
野路から驚愕の事実を聞いたばかりの俺は、まともに北中の顔を見ながら笑顔で話をできる自信がなかったから。
ノートパソコンを開く。
ワードを起動。
キーボードへ右手を添える。
「これ以上どう書けって言うんだよ……」
完全なモチベーションの低下。
物事を何も考えたくなくなっていた。
時間になりメロンの仕事を終え、店を出る。
コマ劇場まで行くと、坊主さんが壁に寄り掛かりながらタバコを吸って待っている姿が見えた。
「坊主さん、すみません。今、仕事終わりました」
「お疲れ。じゃあ、漫画喫茶行こうか」
今日はパソコンのレッスン、どうも気が乗らない。
「坊主さん、その前に飯でもどうです? いつもこうして世話になっているんです。たまには俺に、ご馳走させて下さい」
「そういえばそうだね。毎回漫画喫茶でカップラーメン啜っているんじゃ、身体によくないか」
「焼肉でも行きましょうよ」
「いいね~」
俺たちは焼肉屋へ向かった。
ひと通り注文をして、最初に乾杯をする。
「どうよ、小説のほうは?」
坊主さんは現状を知らず、明るい声で聞いてきた。
「いや、それがですね……」
とてもじゃないが、原稿用紙三百枚なんて枚数を書くのは無理だった事。
百枚ちょっとは順調に進んでいたが、これ以上は無理だと心が折れ掛けている状況。
俺は息詰まっている現状を正直に伝えた。
すると坊主さんはポカーンとした表情になり「おまえ、何を言ってんだ?」と不思議そうにしている。
「だから、小説諦めようかなって」
「そうじゃなくてさ。何でそうなる訳?」
「だってとてもじゃないですけど、原稿用紙三百枚以上書くなんて無理ですよ……」
「…たく、本当におまえは馬鹿だな」
「ええ、どうせ馬鹿ですよ」
ヤケになっていた。
馬鹿というのは充分自覚している。
しかし面と向かって馬鹿と言われるのはイライラした。
「先週も智の書いた作品、途中までちょっと見たけどさ。おまえ、どれだけ自分が凄いか相変わらず分かってないんだな」
「どこが凄いんですか? 中途半端なだけじゃないですか」
「ちょっとパソコン出してみ」
「何でですか?」
「いいから」
そう言うと坊主さんは俺のバックを取り上げ、パソコンを取り出す。
俺の書いた題名のない小説を起動すると、何やら別にいじりだした。
「いいか、智。ワードにはほら、こうやって四百字詰め用のファイルもある訳ね」
「え?」
そう言って坊主さんは四百字詰め原稿用紙の型を画面に出した。
「おまえが今書いている形式っていうのはさ、四十掛ける四十なのね。ここまではいい?」
「はあ……」
「で、今までおまえが書いた文章を全文選択して、そんでもってコピーして…。この原稿用紙に貼り付けると……」
俺は画面を見ながら固まっていた。
原稿用紙ファイルにズラズラと並ぶ文字。
どんどん進むページ数。
二百九十三枚で止まる。
「分かった、龍一」
「え、これって」
「だからおまえが言っている原稿用紙三百枚って、何を基準にしてんのか知らないけどさ。今二百九十三ページまで智は書けている訳よ。どれだけ自分が意味不明な事を言っていたか分かる?」
「は、はい……」
涙が出そうだった。
焼肉の煙が目に入ったからじゃない。
今までやってきた事が、否定されていないという事実が分かったからだ。
「四十掛ける四十…。本当にビッチリ書いたら原稿用紙四枚分になるでしょ? 何でおまえはこんな単純な事に気がつかない訳?」
「……。本当にすみません…。本当に俺って大馬鹿ですよね……」
本当に俺は馬鹿だ。
痛感する。
自分で原稿用紙三百枚以上書こうと、ずっと寝る間も惜しんで頑張ってきた。
その通りにちゃんとできていたのだ……。
諦めちゃいけない。
諦めたらその時点ですべては終わる。
俺は何度も坊主さんにお礼を述べた。
食事を終えると、坊主さんは伝票を手に取る。
「ちょっと今日ぐらい俺が出しますよ」
「馬鹿野郎。俺のほうが二つも先輩なんだ」
「それは分かっています。でも俺、感謝してるんですよ。出させて下さい」
「いいよ、そんな気を使わなくて。それよりもこの作品が完成したら、俺に一番始めに見せろよな?」
「いえ、それは無理です。春美が一番目です」
「じゃあ、二番目でいいよ」
そう言って笑いながら、坊主さんは財布を取り出した。
俺はその後ろ姿に向かって深々と頭を下げた。
全日本プロレスのプロテストが駄目になった時も、坊主さんは部屋へ駆け付けてくれ俺を励ましてくれた過去が蘇る。
「智…、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」
「……」
坊主さんの言葉は正論すぎて、何一つ言い返せない。
あんな男とつるんでいたから、こうなってしまった。
「…で、全日はどうなったんだ?」
「……。馬場社長から来ないでいいって…、言われました……」
「これから合宿だろ?」
「……」
「行ってこいよ」
「だって…、来ないでいいって……」
言葉に詰まり大泣きした。
どのくらいそのままでいたのか分からない。
それでも坊主さんは黙って傍にいてくれた。
「もう…、死にたいですよ……」
「今、何て言った?」
「もう死にたいです! 何の価値もなくなりました……」
「……」
嗚咽を漏らしながらみっともなく突っ伏して泣く。
何度も泣きながら「死にたい」と連呼した。
「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」
「生きてどうしろって言うんですか!」
「ジャイアント馬場から来なくていいって言われたかもしれないけど、明日全日本の合宿所へ行け」
「無理ですよ!」
「いいから行ってこい」
「どうやって? どんな面して行くんですか?」
「死ぬつもりだったんだろ? だったら行ってから死ね。嫌なら生きろ」
「……」
その言葉はどんな崇高な言葉よりも心に突き刺さる。
俺は口で死にたいと言っているだけ。
それなら合宿所まで行く。
行ったあと死ねばいい。
どうせ死のうとまで腹を括ったのだ。
少しだけ光が見えたような気がした。
いや、光などでない。
門前払いを喰らい、ただ追い返されるだけなのが目に見えている。
それでも駄目元で…、全日本プロレスへ行ってみよう。
そこに一筋の光も無かったが、俺にはそれしかなかった。
再び大泣きする。
坊主さんは肩を力強くポンポンと二回叩く。
「……」
そう…、あの時背中を坊主さんが押してくれたからこそ、俺はあの時ジャンボ鶴田師匠と邂逅できたのだ。
レスラーはちょっとやそっとじゃ、へこたれちゃいけないだろ?
本当に俺はいつだって大馬鹿だ……。
漫画喫茶のカップルシートに座り、朝までパソコンの英才教育が始まる。
朝になり二人共フラフラになりながら外へ出た。
「もう、最近裕子の奴がうるさくてよー」
「え、裕子さんが? 何て言うんです?」
「俺と智が付き合っているんでしょって。本当あいつは馬鹿だ」
「まあそれだけ裕子さんに愛されている証拠じゃないですか」
「玲だって生まれて成長してんだから、少しは女じゃなく母親になれって感じだよ」
大笑いしながら坊主さんと別れる。
そんな不満を言いつつ、毎週俺にパソコンを教える時間だけは、ちゃんと裕子さんも了承しているじゃないかよ……。
そのままメロンへ行き、鍵を開けるとソファーへ寝転がり睡魔に包まれた。
久しぶりに夢を見る。
俺のただっ広い部屋で、ジャッキーチェンのビデオを観る夢。
俺と坊主さんが共に無職時代、よく二人で金を出し合って映画を観た。
俺が十九歳で坊主さんが二十一歳。
ジミードーナツへ行き、ミートソースを食べる。
タバコもお互いの金を合わせて買う。
いつも坊主さんは俺の吸うセブンスターでいいよと合わせてくれた。
血を分けた兄弟以上に仲良く、金の無い時期を一緒に過ごした。
台所へ行って米を炊き、冷蔵庫にあるあり合わせのもので料理して坊主さんへ食べさせた。
何度も叔母のピーちゃんに見つかり、泥棒呼ばわりされた。
それでも金が無いから食う為に仕方なかった。
坊主さんの就職が決まり、気が付けば新丸子へ住むようになっていた。
少しして今の奥さんである裕子さんと同棲も始めた。
何度か川越に裕子さんを連れてきて、紹介された俺はまるで弟のように可愛がってもらい楽しい時間を過ごした。
目を覚ましても、夢の内容は覚えていた。
俺は本当にいい先輩を持ったものだ。
そして坊主さんは、本当にいい奥さんをもらったものだ。
時間になりメロンの看板を外へ出しに行く。
さて、小説の続きを一気にやってしまうかな。
階段を降りる足音が聞こえてくる。
珍しいな、こんな早い時間から客なんて。
何故か昼間なのに、遅番の小泉がメロンへやってきた。
彼がここに来るなんて非常に珍しい。
どうもこの店が開くのを待っていたようだ。
「どうしたんですか、小泉さん」
「いや、ちょっと話がありまして……」
やけに神妙な様子の小泉。
「どうしました? 俺でよければ聞きますよ」
「ありがとうございます」
彼の事情を聞いてみる。
こんな時閑古鳥が鳴くメロンは都合のいい場所だ。
店長でありながら名義人でもある小泉。
オーナーの金子さんは、当初彼にこう言ったそうな。
「いいか、良平。おまえはまだ若いし、独身だ。名義料は給料とは別に二十万払う。だけどな、名義料の二十万はおまえ専用の口座を作っておくから、そこに俺が毎月積み立てておく。通帳だけは渡しておくよ。じゃないと金を渡せば、みんな使ってしまうだろうからな。で、店が辞める時、もしくは警察にパクられた時に、初めておまえに名義料は渡す。それでいいな?」
通帳は小泉で、判子とキャッシュカードは金子が管理。
中々いい話である。
裏稼業では聞いた事がない。
北中と先日フィリピンへ行った小泉。
ここで状況が少し変化する。
それまで真面目に貯金をしてきたのにフィリピンの女にハマった小泉は、金を使い果たしたようだ。
「それで今まで確認した事なかったんですけど、俺の口座を見てみたんです」
「これまでの名義料が振り込まれている通帳ですよね?」
「はい、二年分。だから最低でも二百四十万円はあるはずなのに、一円しかなかったんです……」
「はあ?」
考えられる事はただ一つ。
オーナーの金子が、小泉の金を使い込んでしまったという事しか考えられなかった。
まったくどいつもコイツも……。
「岩上さん、これって……」
「小泉さん! とりあえず直に金子さんへ聞く事ですよ。じゃないと何も真偽が分からないじゃないですか? ひょっとしたら口座を移しただけかもしれないし」
俺が言っている台詞は、ただの気休めに過ぎない。
小泉名義の金を他の口座へ黙って移す意味合いなどどこにもなかった。
「はあ…、そうしてみます……」
小泉は肩をガックリと落としながら、階段を上がっていく。
可哀想だが、話を聞いてあげるぐらいしか俺にはできない。
彼を見送るとノートパソコンを開き、小説を書き始める。
終盤の鳴戸が岩崎の抜きに気付き、容赦なく殴るシーンを書く。
同時に頭に浮かんだ光景を忘れない内に、フォトショップを起動して絵を描いた。
あの時の鳴戸の恐ろしさ。
俺に容赦なく拳で殴りつけた時の鳴戸ではない。
出会った頃、ニコニコ笑いながら従業員の頭を灰皿で叩き割った頃の鳴戸を思い出せ。
キーボードを打つ指先に、力を込める。
魂を文字へ入魂させろ。
店に向かう途中で、俺は泉に一刻も早く電話を掛けたくなった。
泉はどんな反応をするだろうか…。
そう思うと、携帯のボタンを押す勇気が出てこない。一度は壊れた仲なんだから、もう恐れるな……。
自分に言い聞かせる。
覚悟を決めて携帯のダイヤルを押す。しかし、いくら鳴らしても出てくれない。無視されているのだろうか?
あれだけの罵詈雑音を言ったのだ。当然の結果かもしれない。
もうあまり時間がない。泉と連絡をとるのは諦め、店に向かうことにした。
店はそこそこ混んでいた。小倉さんが来ていた。
新堂と田中は忙しそうにINをしている。キッチンに行くと、岩崎が着替えていた。
「おはようございます。今日は客、そうそうたるメンバーですね。気合入れてやらないといけませんね」
「おはようございます。はい、頑張ります」
会話するのも嫌なぐらい薄気味悪いホモ野郎だったが、そう感じる暇がないぐらい店は忙しかった。
でもその方が、気が紛れていい。すぐに俺は着替え始める。
岩崎のねっとりした視線が、俺の下半身に集中しているのに気付き、鳥肌がたつ。また俺のをくわえたいなどと、馬鹿なことを言い出すんじゃないかとハラハラする。
逃げるようにしてホールに出ると、真っ先に小倉さんの座る台へ向かう。
「お疲れさまです」
「んっ…、おぉ、おはよう。赤崎君が来るってことは、もうこんな時間かー……」
「何時ぐらいから、いらしてたんですか?」
「夜の二時ぐらいかな。フォッフォッ…、今日は調子いいよ」
小倉さんはとっても元気なおじいちゃんだ。話していて自然に顔の表情がほころぶ。
「じゃー、勝ってますか?たまには本当、持っていって下さいね」
「いやー、一晩中遊んで、勝って帰るんじゃ、申し訳ないよ」
「そんなことないですよ。頑張って下さいね」
八卓は席が埋まっている。今日は客層がバシバシ叩く客ばかりなので忙しい。必然的にINを入れる回数が多くなるからだ。店側にとって、嬉しい悲鳴ではある。
一人の客が俺の方を見ている。視線を感じ、振り返ると新宿プリンスの江島さんが三卓に座っていた。俺はニコニコしながら近付き、この間のお礼を言う。
「この間は本当にご馳走さまでした。とてもおいしかったです」
「いえいえ、そんなことないですよ」
岩崎も近付いてきて、江島と話をし始める。俺はさり気なく岩崎のそばから離れ、仕事に精を出すことにする。
客はひっきりなしにINを入れるから、こっちは大忙しだった。あっという間に時間は過ぎていく。
小倉さんが五万のビンゴをゲットして、集中力の切れた客からキリのいいところで帰り始める。小倉さんはまだやりたそうだったが、時計を見てボソボソと口を開く。
「そろそろうちのが怒っている時間だなー…。じゃー、今日は勝たせてもらうね」
口をモゴモゴさせながら帰っていく。
また一人また一人と客は帰り、夕方近くには客が切れた状態になった。
俺と岩崎の二人だけになる。嫌な感じだ。
「赤崎さん。これ……」
岩崎は三万を出してくる。俺は会釈だけして、それを受け取り財布にしまう。
「まだこの間のこと、気にしてるんですか?」
「え…、いや、あのーその……」
いきなり言われると、何て答えていいか困る。
「もうあんなことしませんから安心して下さいよ。嫌がってる人に自分の性癖を押し付けても、さらに嫌われるだけですしね」
そう言って岩崎はこっちを見てニヤリと笑う。気持ち悪かった。思わずこの場から逃げ出したくなる。
「大丈夫ですって、それよりも鳴戸さんや水野さん…。赤崎さんに色々聞いてきてませんか?以前よりも気のせいか、チェックが厳しくなっているような感じするんですよね」
「最初の頃、確かに色々聞かれましたよ。何か変なことあったらこっちに教えてくれって。でも、もちろん言うつもりないし、裏切ったりしませんよ」
岩崎は俺の台詞を聞いて、いやらしい笑いを浮かべる。こんな気持ち悪いホモ野郎を庇うのは癪だが、それでも俺に毎回金をくれる貴重な存在でもあった。仕方がない。
ピンポーン……。
モニターを見ると鳴戸だった。俺はドアを開けて挨拶する。
「お疲れ様です……」
鳴戸は俺に見向きもせず、真っ直ぐ岩崎の方へ向かっていく。表情は通常のままだが、変な違和感を覚えた。岩崎がいつもの調子で、今日の営業の状況を話す。
「あっ、お疲れさまです。さっきまで忙しかったのですが、今のとこ…、グッ……」
ズダンッ!
派手な音がする。岩崎の座っている椅子が、岩崎ごと真後ろにすごい音を立ててひっくり返る。
何が起きたんだと思う前に、鳴戸が岩崎の腹の上に足を乗せた。まったく動けなくなる岩崎。
鳴戸の視界には、俺などまったく入っていないようだ。甲高い怒鳴り声が響き渡る。
「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」
鳴戸の表情は変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力がある。聞いているだけで、身がすくむ。
まさか、売り上げから金を抜いているのがバレたのか……。
俺にはそれ以外、考えつかない……。
仰向けになっている岩崎のあごに、鳴戸は容赦なくつま先で蹴りをぶち込む。ゴツッと鈍い嫌な音が部屋に響く。
普通の神経じゃ出来ない芸当だ。
岩崎はあごを両手で押さえ、もがき苦しんでいる。指と指の間から、すごい量の血があふれ出していた。
「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ?立てよ!」
またもあごに思いきり蹴りを入れる。岩崎の顔が一瞬、上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。
鳴戸はゴロゴロ転げ回る岩崎の髪の毛を情け容赦なくワシ掴みにすると、強引に立たせようとしている。
俺は目の前の光景を見て、何も出来ず、一歩も動けないでいた。
「立てよー、おいっ!私は立ちなさいと言ってるんですよ!」
鳴戸が俺の方を急に振り向く。身動き一つ出来ない。まるで蛇に睨まれたカエルだ……。
細胞の一つ一つが恐怖を感じている。
「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」
何て答えたらいいのか、頭が真っ白になる。岩崎がゲーム台に手を掛け立ち上がろうとしていた。思わず目が行く。
岩崎は俺をジッと見ていた。酷い出血だった。鼻から下が血で真っ赤になり、口の形すら見分けがつかない状況だ……。
「……!」
岩崎が、白い歯を一瞬だけ見せ、確かにウインクした。
俺に話すなとでも、合図したのか……。
「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」
鳴戸が目を剥いて俺を睨みつけてくる。こんな恐ろしい顔を初めて見た。
さっきの岩崎の合図というかウインクを見て、何も喋れないでいる……。
でも、何かしら言わないと鳴戸は、俺に向かってくることだけは確かだ。何でもいい。とにかく口を開け。
「い…、いえ……」
「本当ですね?」
「は、はいっ!」
「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」
鳴戸はそう言うと財布から二万円出して、俺に渡す。俺はガタガタ震えながら、日払い分の給料を受け取る。
「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」
鳴戸はもう俺に興味をなくしたのか、岩崎に振り向く。そのまま岩崎の体をところ構わずメチャクチャに蹴り出した。あれだけ無抵抗の人間に、まったく遠慮せず、蹴りをぶち込める人間を初めて見た。
急いで着替えようとするが、指が震えてなかなかボタンがしめられない。やっとの思いで俺は着替え終わり、店を出ようとする。ドアノブに手を掛けてから、恐る恐る岩崎の方を振り返る。俺だけ助かって済まない思いでいっぱいだった……。
「……!」
今、岩崎は、確かに優しく頷き、一瞬だけだが、俺と目を合わせた。
《それでいいんですよ、赤崎さん……》
原形が分からなくなるほど、顔がグチャグチャになっているのに、岩崎が、そう訴えた気がした。
何故、俺を庇うのか分からなかった。岩崎の誘いを断り、忌み嫌った。『赤崎も抜いた』と言えば、鳴戸の攻撃はこちらに来るのに……。
どうして……?
不思議でたまらなかった。
岩崎の顔は、アザと血でメチャクチャになっている。それでも鳴戸はまだ、攻撃をやめない……。
「おいっ、赤崎ー、帰れって言ったの、聞こえなかったのですかー?」
「し、失礼します!」
岩崎はぐったりしていて、意識をなくした様子だった。
俺は自分の身の可愛さに、慌てて店を出る。結局のところ、俺もクズ野郎と変わらなかった……。

歌舞伎町のおぞましい光景。
以前見たテレビでこの街を映し出していたが、俺が見た限り、その番組は大袈裟だった。本当の怖さは、世間一般じゃ知らない場所で静かに行われているというところなのだ。
抜きがバレた時の恐怖……。
哀れにも顔面をグチャグチャにされている岩崎。
まだ彼は、鳴戸にやられているのだろうか?
このことを誰かに言ったところで、「店の金を抜いていたんでしょ?じゃあ、しょうがないんじゃない」と軽い言葉が返ってくるだけだろう。
ただ単に店の売り上げから、金をちょろまかした従業員に、オーナー自らが制裁を加えているだけとしか捉えてくれない。
この街では真面目に生きるだけで、いやそう見えるだけで一つの武器になる。それだけここには悪い人間が多くはびこっているのだろう。すでに、俺もその中の一人だ。
岩崎は一体、どうなるのだろうか……。
狭いゲーム屋から開放されたからか、全身から汗がドッと吹き出す。
岩崎がどうなったのかを考えていたら、気付くと家の前にいた。
考えたところで、何ができよう……。
自分の身を案じ、その場から逃げただけの俺。卑怯で臆病者。
疲れた……。
非常に疲れが溜まっている。
今、何時ぐらいだろう。
携帯を見ると、沢山、泉からの着信履歴があった。着信拒否を解くのを忘れていた。でも、今は泉のことまで考える余裕がない。
携帯を投げ出し、布団の上に横になる。自分が本当に何者でもない無力な弱者だと、痛感した。あんなになってまで俺を庇った岩崎の心理状態が、理解できなかった。
ホモで俺を求め、気に入っていたからなのか……。
あの最後に見た岩崎の目は、俺の安全を確認できて良かったといった感じの目つきだった。
その心境は、永遠に俺には理解できないだろう、そんな気がする。
結局のところ、俺はホモの岩崎に救われたのだ……。
俺は明日、またあそこへ行かなければ…、出勤しなければならないのか……。
俺一人がダークネスに行って、何ができるというのだろうか?
急に吐き気を催し、トイレに駆け込む。胃の中にあった物を全部吐き出したが、まだ何か残っているみたいだ。
ここ数日で、色々な出来事が起こり過ぎた。精神的に参っていた。まるで悪夢の中にいるみたいだった……。
頭が痛い。
傷も疼きだしてくる。
今朝、遠藤からもらった頭痛薬を飲んでみる。目を閉じて横になっていても、痛みが消えることはなかった。
「フー……」
ここまで一気に書いて、大きく息を吹き出す。
多分この書き方で…、いいはずだ……。
ゆっくり空気を吸い込む。
初めて小説を書く俺に、文章に魂か宿ったかなんて分からない。
それでもあと少しで、この物語を書き終える事ができる。
メロンに客が来店。
一時ここで執筆を中断し談笑した。
内心続きを書きたくて堪らない。
早くこの人帰ってくれないかなと思った。
二千四年の一月十八日からこの作品を書き始め、ようやく一つの物語を書き切れそうな感覚。
客が帰ると貪欲にパソコンへ食らいつき、一気呵成にキーボードを打つ。
マラソンでゴールが見えた時の最後のひと踏ん張りに近い状況。
もう少し…、あとちょっと……。
「終わったあ……」
背もたれに身体を預け、両腕をだらんと垂らす。
小説を書き始めてから十八日目。
とうとう作品は完成した。
何ともいえない達成感。
とにかく気持ちが良かった。
精も根も尽き果てるとは、こういう事を現すのか?
時間の感覚も何もかも忘れ、文字の世界へのめり込んだ。
あ、そうだ。
坊主さんに教わった方法で、枚数をチェックしないと……。
原稿用紙で三百七十一枚の表記。
何だよ、俺ちゃっかり書けてんじゃん……。
うっすらと目に涙が滲む。
これって何の涙なんだろう?
結局物語を書き終えても、未だ題名は決まっていない。
さて、俺が生み出した初めての作品。
この処女作に、何て名前をつけようか?
歌舞伎町の入門編として書いた。
だから本来書きたかった事の百分の一も書いていない。
プロレスの試合でいえば、逆水平チョップとドロップキックしか使わないと決めて書いたような作品である。
それでも自分の過去を入れたこの処女作は、とても大事な宝物に見えた。
自身の手でこの世に生み出した名無しの小説。
つまり俺にとっての長男。
明日から連休なので、いい区切りになったものだ。
平沢ビルの入口の写真を撮る。
深い意味はないが、この場所で俺は初めて小説を書いたのだという記録を残しておきたかったのかもしれない。

家に帰ると、本として読める形にしたい為、A4の用紙へプリントアウトする。
タイトルは歌舞伎町何々という題名がいいか?
いや、よく考えろ。
俺は地元の人間に言う時、いつも歌舞伎町ではなく新宿という言い方をしてきた。
だとすれば最初は『新宿』とつけたい。
問題は、そのあとに続く名前をどうするかである。
春美という存在があったから、俺はめげずに最後までやり遂げる事ができた。
目に見えないところでも格好を常につけていたかったのだ。
例えそれが意味のない事だとしても……。
彼女から連想するのは当然ピアノ。
ザナルカンドを聴かせたいが為に、ピアノを始めたのだ。
まず自分がピアノを弾いている写真をモチーフに、絵を描いてみよう。
坊主さんから教わったスキルの一つ。
プロのデザイナーも使用するアプリケーションソフトのフォトショップを起動する。
幻想的な感じの扉絵にしたい。
まず俺がピアノを弾く写真を中で展開し、別に新規レイヤーを作る。
写真の透明度を半分まで落とし、じっくりマウスで輪郭を描いていく。
部分的に拡大してちょっとずつ丁寧に……。
輪郭ができると俺は色をつけていく。
濃い色でなく薄い色を何度も重ね合わせるように少しずつ塗っていく。
面倒な作業だった。
しかし自分で書いた小説の扉絵でさえも、俺は自分で描きたい。
元の写真に歪みを使って、様々な形に歪ませる。
俺は六時間掛けて丁重に絵を描いた。

あとは、この上に乗せるタイトルをどうするか。
何にする?
いいアイデアが思い浮かばなかった。
たまにはピアノを弾いてみよう……。
ザナルカンドを弾く。
これまで数え切れないぐらい弾いてきたので、スムーズに演奏できた。
まだ途中だけど、月の光も弾こう。
「……」
駄目だ。
ザナルカンドほどの情熱を持って接していなかったせいか、途中で演奏をつっかえてしまう。
あれからピアノの先生に、連絡をしていないな……。
俺が悪かったのだ。
潔く謝ろう。
久しぶりに『くっきぃず』へ寄ってみる事に決める。
しかし何て謝ればいい?
途中で考え込んでしまう俺。
そのまま通り過ぎて、本川越駅手前にある行きつけのスイートキャデラックへと向かう。
土壇場で臆病なところは、昔から変わらない俺。
「いらっしゃいませ」
寡黙なマスターが静かにボトルを目の前に置く。
グレンリベット十二年のボトルを眺め、今までの様々な事を思い出してみた。
いつも辛い時や悲しい時、グレンリベットは無言で傍にいてくれる。
愚痴をこぼす相手もいない。
俺はショットグラスに酒を注ぎ、語りかけてみた。
「小説を書いてみたんだ。でも惚れた女には相手にされず、ピアノの先生にも呆れられ…。俺って馬鹿だよな……」
「……」
「相変わらず無口な奴だな…。まあいいや、おまえが俺の事を一番分かってくれる」
緑色のボトルに光が当たり、綺麗に反射している。
俺はグレンリベットを手に取り、じっくりと眺めた。
ボトルにジャズバーの一部が映る。
そこにはピアノが映っていた。
「分かったよ。辛い時はピアノを弾け…。そう、言いたいんだろ?」
グラスの酒を一気に飲み干すと、俺はマスターに声を掛け、一心不乱にピアノを弾く。
帰り道『くっきぃず』へ寄ろうとしたら、もう帰ってしまったのかシャッターが閉まっていた。
昨日は飲み過ぎたなあ。
おじいちゃんに起こされ、新聞を取ってくるように言われる。
気怠い身体を起こし、一階へ降りる。
今日が休みで良かった。
眠い目をこすりながら、郵便受けに新聞を取りに行く。
「ん……?」
新聞の下に一枚の封筒があった。
宛名は俺。
送り主は『くっきぃず』からだった。
先生は何故こんな近くなのに、わざわざこんなものを……。
急いで封を破る。
『第八回 くっきぃずピアノ発表会 出場のお知らせ』
中に入っていた一枚の便箋。
見出しにはそう書いてある。
続けて先生の手書きで、文章が書いてあった。
『久しぶりね、岩上君。元気でお過ごしでしょうか? 今度の発表会、あなたにはぜひ、出てほしいわ。月の光、あとちょっとでしょ。もう一ヶ月ないんだから、早く顔を出しなさい。待ってますよ。 斎藤弥生』
先生は俺を見捨てた訳じゃなかった。
勝手に俺が勘違いをしていただけ。
まだこんな俺を必要としてくれているのか?
まだ価値があるのか?
月の光だってすべて完成した訳ではない。
発表会だって、もう三週間後だ。
それでも先生の気持ちが嬉しかった。
どす黒く濁っていた心に、美しい光が差し込んだような気がする。
春美に聴かせる為でなく、今度は自分自身の為……。
やってみるか……。
それから今後を考えよう。
少しだけ希望を持てた。
たった一通の手紙で相変わらず単純だな、俺は……。
久しぶりに、『くっきぃず』へ行く。
中に入るなり誠心誠意頭を下げた。
俺が悪かったのだから、必死に謝るしかない。
「何してんの、そんなところで。早くこっちいらっしゃいよ」
先生はいつもと変わらなかった。
優しい笑顔で俺を出迎えてくれる。
「先生、俺、発表会に月の光、間に合いますか?」
「大丈夫です」
「だって……」
「私の教え子でしょ? 自信を持ちなさい。あなたはザナルカンドをたった四回のレッスンで完成させたのよ。発表会まであと少し、頑張りましょう」
「はい……」
今までのおさらいとして、最初からピアノを弾く。
先生はうんうんと満足そうに首を振りながら楽しそうに見ている。
「あなた、本当にサボらず頑張っていたのね」
音を聴いただけで分かってくれるなんて、さすが俺の師匠だ。
「先生、一つ質問が」
「何でしょう?」
「ピアノの語源で、だんだん早くとか強くって意味合いの言葉ありますか?」
「ありますよ。アッチェレランド。もしくはクレッシェンド」
新宿アッチェレランド……。
いまいち語呂が悪い。
新宿クレッシェンド……。
「これだっ!」
思わずピンと来て、俺は大声を上げていた。
「ど、どうしたの、岩上君? いきなり……」
「いや、あのですね。実はレッスンに来ない間、小説を書いていましてね……」
俺はこれまでの事を先生に説明した。

「そう、小説を書いていたんだ? あなた、本当に色々できるのね」
感心したように先生は言ってくれるが、たまたまである。

「いえいえ、周りのサポートがあってこそです。先生のおかげで俺はピアノを弾けるようになり、小説のタイトルもたった今『新宿クレッシェンド』と決める事ができました。多分、これ以外ピッタリくるものはないと感じます」
「そう、そう言ってもらえると嬉しいわ。じゃあ、続きをやりましょうか?」
残りの部分を教わる。
俺が思うに、月の光は段階の違うパートみたいなものが八つある。
七つ目は一番初めを少しアレンジしたような感じだった。
音符の読めない俺は、暗記というシンプルな方法で演奏をするしかない。
それぞれの各パートに分けとにかく弾き続けた。
個別に暗記していくしか方法はない。
指で鍵盤の叩く位置を記憶し、目で確認する。
耳で記憶した音を確かめる。
六つ目までのパートは、ずっと弾いていたのでゲップが出るくらい記憶していた。
あとは七つ目と八つ目のみ……。
先生はレッスン料を今回受け取ってくれなかった。
俺は必死に食い下がる。
「あのね、前回月謝でレッスン料をもらったでしょ? 月で四回あるのに、岩上君は三回しか来てなかったのよ。だから今回はいいの」
「だって先生、それは俺が勝手に……」
「じゃあ、これからはきちんとレッスンに来て。あなたなら頑張れば、月の光がちゃんと弾けるから」
「ありがとうございます……」
それしか言葉が出なかった。
先生の恩情を無駄にはできない。
俺は月の光を完成させよう。
不肖の弟子が、ようやく恩返しできるかもしれない。
先生の恩に報いたかった。
発表会までの間、俺はひたすら五感を研ぎ澄ます。
部屋に帰ると返事など来ないのを承知で、春美へメールを打ってみた。
女々しく未練タラタラな俺。
しょうがない。
だってまだ彼女の事が好きなんだから。
この事実を彼女へ伝えたかったのだ。
『九月二十一日の日曜日…。市民会館山吹ホールにて、俺のピアノ発表会出場が決まりました。午後四時から開始します。君の為に始めたピアノが、こんな調子になりました。不思議なものですね。 岩上智一郎』
メールを送ると、そのまま横になる。
今の俺にはピアノしかない。
発表会を済ませてからゆっくり考えればいいさ。
自然と深い眠りにおちた。
闇 33(裏ビデオ屋の懲りない客の面々編)
ある程度自分でパソコンを使いこなせるようになった俺。
週末に決まって行われた坊主さんとのレッスンは、その成長ぶりを見て「あとは自分で応用を利かせて頑張れ」と終了する。
特に予定もなく、川越の街をあてもなく歩く。
小学時代の同級生滝川兼一の母親である加賀屋のおばさんに、自分で印刷した『新宿クレッシェンド』をプレゼントし、隣りのスガ人形を継いでいる先輩の須賀栄治さんにもあげた。
もう四年ぐらい前になるが、栄治さんには四歳の可愛い男の子がいて、当時幸せそうだった。
でも、子供が病気で亡くなってしまい、当たり前の話であるが栄治さんや奥さんはずっと表情が暗かった。
何とか元気付けたい。
そう思って、自分のピアノ発表会にも誘ったし、処女作の新宿クレッシェンドをプレゼントした。
「こんな大男が市民会館でピアノ発表会に出るなんて、笑っちゃいますよね」
ユーモアを利かせたつもりでも、栄治さんの奥さんに笑顔はない。
四年前のあの時からずっと心を閉ざしたままなのだろう。
気丈にも栄治さんは、自分の文章の中の誤字、脱字や表現のおかしなところへ付箋を貼り、丁寧に訂正部分を書いてくれた。
その行為はとても嬉しく感じたが、元気付けたいのにこれじゃ逆に俺が元気付けられてる。
裏ビデオ屋メロンで働き出して数ヶ月間。
守銭奴、金の亡者といった表現が適切な、北中の人間性は当初フィールドの山本が話していた事が嫌というほ理解できた。
あの男の下にいるのはとてもストレスが溜まる。
そして野地との人間関係は良くなったにせよ、あの臭くて不潔な倉庫へ行くのはやっぱり嫌だった。
いつの間にか俺は栄治さんに愚痴をこぼし、いつか北中を懲らしめてやると憎悪を込めて話していた。
すると栄治さんは自分の後頭部を触ってきて、口を開く。
「大丈夫、智ちゃんはそういうの出来るような人間じゃないから」
「え、何でですか?」
「悪い奴っていうのは、頭の後ろがでっぱっているんだよ」
その時、人の後頭部のでっぱり具合が気になる主人公で小説を書いたら面白いんじゃないか。
簡単に思いついた設定を話すと、奥さんは少しだけ笑ってくれた。
もしその作品が完成したら、栄治さんや奥さんも、もっと笑ってくれるかもしれない。
処女作の『新宿クレッシェンド』を完成させてから、一週間も経たない二千四年二月十日。
俺はまた続編を書き出そうと決意する。
またあの文字だけしか浮かんでいない空間へ潜るのは、ある程度覚悟が必要。
それでも一つの作品を書き終えたあの達成感は、十分過ぎるほどの報酬だ。
そう考えると、裏ビデオ屋メロンも、嫌な事ばかりではない。
基本的に暇な仕事なので、パソコンはやり放題。
北中は嘲笑していたが、キーボードを店に持ち込んで仕事中ピアノを弾いているのも自由。
給料面でいえば月に三十万半ばではあるが、普通に生活していれば問題のない稼ぎではある。
俺はクレッシェンドの続編を『でっぱり』と名付け、執筆を開始した。
一気呵成に書き進めると、次は月の光の演奏。
どちらにせよ『くっきぃず』のピアノ発表会が迫るこの時期に、家と職場の両方で月の光を弾けるのはありがたい。
月に数回程度来る常連客が、小説を打つ俺に声を掛けてきた。
見た目は少し剥げかかった四十半ばの男。
中肉中背というよりは体格がガッチリめであり、牛乳瓶のようなメガネを掛けている。
天然パーマなのか短髪は大仏のような感じに見えた。
細く釣り上がった目。
そんな彼は裏ビデオを買うというよりも、俺と色々な話がしたかったようだ。
それでもいつも五千円程度の金をおとし、ちゃんとビデオを買っていく良識も持ち合わせている。
悪い人ではないので、俺も普通に会話へ付き合った。
話をしていて感じたのが、真面目で不器用な人なのだろう。
サラリーマンをしながら、新宿駅東口近くにあるボディービルへ通っているらしい。
俺の身体を見て、いつも何か過去にしていたんじゃないですかと聞いてくるので、全日本プロレスや総合格闘技の話をした。
すると彼は興奮し、自分の通うボディービルのジムへ一緒に行きませんかとしつこく誘って来る始末。
丁重に断りを入れるが、それでも彼は定期的にメロンへ顔を出してくれた。
裏ビデオを買う金が無い時は、その辺の屋台で売っている鶏の丸焼きをお土産で買ってきたり、何かしらの差し入れをしてくれる。
いつもそんな気を使わないでと伝えるも、彼なりの気持ちなのだろう。
ゲーム屋とはまた違った客との交流。
これはこれで面白い。
俺は客用に買い置きの缶コーヒーの段ボールをテーブルの上に置き、会話が弾んだ客の前で何度か打突を披露した。
何故俺が何の技術も練習もしていないのに、畑違いの総合格闘技の試合へ臆する事なくあの時出られたのか?
それはこの打突を編み出していたからだ。
真剣勝負という謳い文句の総合格闘技。
それならばこの技を解禁してもいいよなという絶対的な自信があったからこそ、命を亡くしても主催者側に責任を追及しないという誓約書へサインして試合に出る覚悟があったのだ。
当時の試合の様子を聞きたがるので、俺は三年前のあの試合を思い出しながら語る。
試合が始まる。
シュート二位という触れ込みの小池はいきなりタックルをしてきた。
俺はステップバックし勢い止め、上から覆い被さる。
横腹に一発パンチを浴びせた。
相手の胴へ両腕を回し、パワーボムで持ち上げようにも必死で亀になる相手。
俺はジリジリ身体をずらし、ジャーマンスープレックスで投げてやろうと思ったが、足のフックがズレて瞬間宙に舞う。
またパワーボムを狙うも相手は亀の状態で必死にガードをしたいるだけ。
この状態なら上から肘か膝を落とせば終わる。
だがそれじゃつまらない。
俺は体勢を解き、相手を自由にした。
すぐさま掛かってくるので両脚を首に巻き付け、三角絞めを極める。
それも解き、立ち上がった。
一発くらい殴らせてやろう。
プロレスは相手にも見せ場を作らないといけない。
妙な余裕があった。
殴られ、これからという時にレフリーが間に入り相手の腕を上げる。
「何だ、そりゃ?」
ダウンもグラつきもしていない。
不可解な裁定に俺はマウスピースを取り叩きつける。
今でも俺は負けていないという自負があった。
そして俺は強い…、そんな自惚れもある。
あの試合のあと、坊主さんが「智が九十九パーセント勝っていた試合なのになあ」と言った台詞は未だハッキリ覚えていた。
彼の言うように、俺自身何のダメージも受けていないのだ。
あの時情けなど掛けず、全力で戦っていれば良かったのである。
不完全燃焼のまま俺は三十代になり、未だ根底には格闘の火種が燻っていた。
当時の様子を語る俺に対し、ワクワクしながら話を聞く客。

そんな時俺は決まって段ボールへ打突をお見舞いしてみせた。

缶コーヒーが中にぎっしり詰まった段ボール。
それを気にせず鍛えぬいた親指で突く。
「うぉ!」
打突を、間近で見た客は絶対に驚いて大声をあげた。
何故なら突いた逆側の段ボールから、衝撃で缶コーヒーが勢いよく飛び出すのである。
中身の入った缶をそのまま親指で突くのだから、当然俺にも被害はあった。
大抵親指の爪は割れ、中に血が滲み黒くなってしまう。
それを見た客は「大丈夫ですか、指が…」と言うが、威力を見せたくてやったのだ。
俺にとって後悔など何もなかった。
よくよく考えてみたら、新宿歌舞伎町の地下一階にある寂れた裏ビデオ屋で働く男が、パソコンで小説を執筆したり、キーボードでザナルカンドや月の光を演奏し、仲良くなると打突まで披露しているのだ。
エロスを求めてこの店へ来たはずの客が、風変わりな俺を見て気に入られる図式。
この空間にいる人間は、どこか滑稽で自分を含めみんな歪んでいる。
ここ最近メロンへよく来る男。
泉と名乗るこれまた四十代前半の男の客からも、俺は妙に懐かれた。
きっかけはどんな裏DVDがいいかというきっかけであるが、俺も色々下調べをして彼の望む好みの作品を教える。
それが嬉しかったのか、買った作品のチョイスが良かったのかは分からない。
それ以来頻繁にメロンへやって来るようになった。
ゲーム屋時代も結局な客から慕われたが、裏ビデオ業界でも種類は違えど好かれる人には好かれるようだ。
「岩上さん、中山美穂の裏ビデオの噂って聞いた事ないですか?」
中学、高校生時代、大人気だったアイドルの中山美穂。
確かに裏ビデオがあるという噂は聞いた事がある。
若い頃…、いつそれを耳にしたんだっけ?
そうだ!
同級生の篠崎もいたインチキ教材売りの仕事の時だ。
斉藤という太った上司がいて、したり顔で「中山美穂の裏は実際に存在するんだよ!」と昼休み力説していたのを思い出す。
俺自身その実物を見た事も無いし、中山美穂は元々そんな好みでは無かったので別段興味は薄かった。
但し今この業界にいるので、それが本物なら凄いニュースになる事は間違いない。
個人的な好みを言えばグラビアで活躍している市川由衣のがあれば、五万円くらいでも買ってしまうのだろうが……。
「あの中山美穂の裏ビデオ…、実在したんですよ」
「え? 本当ですか?」
身を乗り出す俺。
泉は話を続ける。
「見た事あるんですか?」
「見たも何も俺ね、昔その作品に男優で出ていたんですよ」
「えーっ!」
さすがにこの話には驚く。
中山美穂の裏は本当に実在した……。
「あ、そんなに喜ばないで下さいよ」
「だってそんなのあったら……」
「いえいえ、続きを聞いて下さいって」
「はあ……」
彼の話によると、もちろん中山美穂本人の裏ビデオなんて無い。
彼女が大ブームだった頃、そっくりさんを出演させて裏ビデオの撮影をするという体だったが、連れてきた女優は中山美穂にまるで似ていなかったらしい。
その時の出演男優が自分だと、泉は言う。
そこで撮影はしたものの、すぐに別人だと分かってしまう為、マスターテープを何度もダビングを繰り返し画質を悪くさせ、中山美穂の裏ビデオと銘打って世に出したようだ。
「えー…、何だ……」
「だからそんな期待しないで下さいって、最初に言ったじゃないですか」
「でも偽物だけど、その子は可愛かったんですよね? 一応そっくりさんという名目だったんだから」
「それがですね…、似てもないし、凄いブスだったんですよ」
「……」
泉自身、そのがまったく可愛くなく立ちも悪かったらしい。
射精で出す精液は卵の白味と何を混ぜて作った疑似のものをスポイトに入れて、ピュピュっと出すという裏話まで教えてくれた。
それにしても中山美穂って俺の一つ年上だったよな?
彼女がブームなんて、二十歳前後だろ?
俺が成人したかどうかぐらい?
業界裏話をこのように話してくれた泉。
彼に懐かれているのだけは理解できた。
小説を書きながら集中していると、世間話をしてくる客たち。
俺は仕事中なので、一旦執筆を中断する。
内心早く帰ってくれないかなと思うが、そう邪険にもできない。
俺が常連客と仲良く話していると北中が階段を降りてメロンへ入ってきた。
この馬鹿は偉そうにカバンから札束を取り出し、ノートパソコンの上へ放り投げてくる。
パッと見、百万円の束を五つ。
「岩上、数えろ」
「はあ……」
客がいる時に必ずやるお決まりのパフォーマンス。
ケチなくせに金持ちアピールだけは凄い。
「社長、金持ってんですねー」
そう言われるのが好きで、毎度同じ行動をする。
本当にうんざりしてきた。
俺にしてみたら、五百万の札束を無駄に数えるだけ。
小銭持ちなのは分かったからいい加減にしろよと言いたい。
一度「北中さん、こんな大金この街で持ち歩いちゃ物騒ですよ」と助言するも「俺がどれだけヤクザに顔利くか知ってるだろ?」と虚勢を張る始末。
馬鹿につける薬はなかった。
確かにそこそこの金は持っているのは分かるが、趣味の悪い成金丸出しなので羨ましくも何とも思わない。
そもそも野路が元々持っていた金を奪っただけの男。
常に何かしらの自慢をする北中。
面倒なのでモニターを眺めながら、はいはいと適当な相槌を打つ。

気分良く話す馬鹿を横目でチェックしつつ、俺は右から左に話を流し、フォトショップを起動する。
右腿の側面にマウスを当てながら北中の顔を描いてみた。
俺が自分の似顔絵を描いているなんて夢にも思わず、いかに金を持っているか、昔は喧嘩が強かったと話が止まらない。
俺はチラッと見ては、マウスを少しずつ動かす。
そんな事を何も気付かず自慢話に夢中な守銭奴。
滑稽な男だと思いながら、笑いを堪えた。
上のゲーム屋フィールドの従業員が〆用紙を持ってくると、INとOUT差をチェックしてメロンを出ていく。
また金をガジリに行くのかよ……。
奥さんになった中国人のシンシンは、たまに地下のメロンに降りてきて「パパ、本当にケチね」と愚痴をこぼす。
食事のほとんどがラーメンとライスのみで、シンシンが餃子も頼みたいと言ったところでまったく聞き入れてくれないようだ。
そんなどうでもいい愚痴を俺に抜かすなと言いたい。
それを承知で籍を入れたのは自分だろと思うが、さすがに腹の中で呟く程度。
そんな日常を送りながら、俺は『でっぱり』を二月二十四日…、十四日間で完成させた。
新宿クレッシェンドより四日も早い物語の完成。
プリントアウトして本にしたら、近い内、栄治さんへプレゼントしないとね。
フィールドのオーナーである金子も、北中のいない時間帯を見計らって顔を出す。
最初は世間話だけだったが、次第にパソコンの事を聞いてくるようになった。
「岩上さん、パソコン詳しいですよね? ちょっと画像修正のやり方を教えてほしくて」
目的はパソコンを使ったやり方だが、話をしている内に北中の愚痴に行き着く。
自分が気付いていないと思って好き勝手やっているがと不満を漏らすが、それなら俺にでなく北中本人に言えばいいものを……。
そういえばフィールドの店長小泉の貯金の件は、どうなったのだろうか。
気にはなるが、無関係の俺が関わったところで藪蛇だ。
変に俺から口を出して面倒な事に巻き込まれるのは嫌なので、触れずに置いておいた。
たまに顔を出すヤクザも、二言目には北中の愚痴。
みんなそれぞれあの守銭奴に、何かしらの不満を抱いている。
客がいない時俺がピアノを弾いていると、音色に釣られて不思議そうな表情で降りてくる者もいた。
「ここってビデオ屋ですよね?」
店内を見回しながら恐る恐る聞いてくる客。
俺は発表会が近い事、そして弾く曲がドビュッシーの月の光である事を説明した。
本当はザナルカンドを弾きたかったが、ピアノ発表会ではクラシックが定番。
しかも先生にも頑張って月の光を弾くと宣言してしまったのだ。
今さら後には引けない。
「いやー、お兄さんのお話は本当に面白い」
五十代半ばのサラリーマン風の男は、俺の話を興味津々に聞いている。
「まさかね、こんなって言っちゃ申し訳ないですが、こんな裏ビデオ屋で岩上さんみたいな人がいるなんて思いもしませんでしたよ」
確かにこんな俺に対し、興味を持ってくれる客はたまにいた。
褒められて悪い気はしない。
自然と弾む会話。
「良かったら、連絡先交換しませんか?」
パソコンでフォトショップを扱うようになって、俺は小説の表紙や絵だけでなく、自身の名刺などもデザインしていた。
何回か坊主さんにやり方を来たが、答えはいつも「自分で好きなようにいじって慣れるしかないよ」と素っ気ないものだ。
前回北中の似顔絵を描けたのが、怪我の功名になった。
フィールドの従業員たちへ見せると「うわー、すげえ北中さんに似てるわ」と大笑い。
それ以来、とにかくフォトショップをいじり続け、色々なものをデザインできるようになっていた。
俺の格闘技現役時代と、ピアノを演奏している時の写真をモチーフに作った個人用名刺。
これまで飲み屋の女にあげる活用法くらいしかなかった。
裏ビデオ屋に来た客と、連絡先の交換か……。
しかし悪い人では無さそうなので、仲良くなった客とは名刺交換をするようにした。
「ふむふむ……」
男はしばらく俺の名刺を穴が開くくらい眺めている。
「あの…、何かありました?」
「いえ、私…、実は姓名判断を生業にしているんですね」
「はあ……」
「岩上さんのお名前見て、職業上ついつい気になってしまうんです」
姓名判断鑑定士ってやつか?
俺も占いやこういう類いのものは嫌いではなかった。
「気になった事言ってもいいですか?」
「是非ともお願いします」

「まずですね…、苗字の岩上で十一画。名前の智一郎が二十二画。合わせると三十三画…。これ、特殊格という本当に考えられて作った名前ですよ」
この名前に今でこそ納得しているが、幼い頃は本当に嫌で仕方がなかった。
岩上智一郎は読み方で十文字。
鬼ごっこやかくれんぼをする際、三十秒数えてからとかいう時に「岩上智一郎、岩上智一郎、岩上智一郎」と三回復唱し、喧嘩になった事もあった。
そのような経緯から、幼少期どうしても自分の名前に親しみが持てなかったのだ。
「名前から見ると、岩上さんはこれまでバラバラな事を色々してきたんじゃないですか?」
俺は自衛隊から始まった社会人生活から、全日本プロレス、浅草ビューホテルなど経歴を簡単に話した。
「失礼ですが、今お年は?」
「三十二歳です」
俺が答えると姓名判断士は満面の笑みを浮かべながら「いやー、岩上さん…。三十三歳になった時、これまでの経験も活かせる凄い出来事が起きますよ」と言われる。
そんな事を言われたら、俺も過度な期待をしてしまう。
三十二歳になったぱかりだから、あと一年後。
その時俺に何かが起きるのか……。
店番をしながら小説の見直しをしていると、一人の客が声を掛けてきた。
「大変申し訳ありません。あの…、熟女ものもっとありませんか?」
四十代後半の物腰柔らかそうなメガネを掛けた中肉中背の男。
ジャンル的に熟女ものは、そこまで需要のあるジャンルではない。
「こちらにあるものが、一通りの熟女ものになりますね」
「いや、あのですね…。こう三、四十代ではなくもっと年上のものは……」
データ化して調べてみたものの、この客に沿うDVDはそこまで置いてなかった。
「それ以上の年齢になると、求めるお客さんが少なくなるので、あまり見掛けないんですよね」
「うーん…、やっぱりそうですよね」
肩をガッカリ落とす客。
しかし俺が真摯的な対応が気に入ったのか、メロンには定期的に来てくれた。
何度かやり取りしている内に、連絡先の交換までするような仲になる。
驚いたのが、この西山という客は歯医者の先生である事。
三鷹で開業しているらしく、趣味が合うと喜んでくれた。
俺のは趣味でなく、ただ仕事だからやっているだけ。
しかしわざわざ言うのも野暮なのでやめておく。
この人との付き合いは、裏ビデオ屋を辞めても続いた。
久しぶりに妹代わりに可愛がっているミサキの店へ行く。
今俺が裏ビデオ屋をやっている事は、当然恥ずかしくて言えていない。
従って北中に関する愚痴さえ言えない状況だった。
彼女には絶対裏ビデオ屋で働いているという実態を知られたくない。
家に戻ってはDVDのプロテクトを外して同じものを作る作業をする。
これはある程度準備さえ整えれば、あとはパソコンが勝手にやってくれた。
俺は待っている時間、月の光を弾いて過ごし、店に置いてある作品のコピーをどんどん作っていく。
一日一万二千円程度の給料では、パソコン用品を買うとすぐ無くなってしまう。
だから人気のある作品をいくつか作り、知り合いで欲しがる人間たちへ売って日々を乗り切るような生活になっていた。
家の隣のトンカツひろむでは、そこでずっと働いている先輩の岡部さんが義理で買ってくれる。
顔の広い岡部さんは他の知り合いたちにも声を掛けてくれ、いい小遣い稼ぎになった。
この時期、ひろむのおばさんと岡部さんの仲はあまりいいものでなくなっていた。
お互いに誤解が誤解を生み、間に俺が入っても軌道修正は難しい。
そんな状況下の中、岡部さんは十年以上働いたトンカツひろむを辞め、自分で店を出す事になる。
その為、岡部さんには時間が産まれ、俺が休みの時は一緒に飲みに行く機会が増えた。
知り合いから頼まれたからという名目で、偽中山美穂裏ビデオ男優の泉は直々メロンへ顔を出す。
俺より十歳くらい年上なのに、妙に懐く犬のように思えた。
この頃裏ビデオ業界で、芸能人の加藤あい温泉盗撮というDVDご話題を独占する。
当然泉はこの作品が手に入らないか聞いてきた。
サンプル映像などはインターネット上に転がっていたので、実在するのだろう。
俺はメロンを紹介してくれた中口の店に行き、聞いてみる事にする。
裏ビデオの新作がいち早く届く彼の店。
「加藤あいっすよねー? うちもまだ入ってこないんですよ」
俺だけでなく周りからも聞かれているのだろう。
中口は半ばうんざりした感じで答える。
「まあ岩上さんなら、入った時点ですぐ言いますよ」
「よろしくお願いします」
せっかちな泉からは毎日のように電話が入った。
「入荷次第、泉さんにはすぐ連絡しますよ」
そう言っても泉は落ち着かないのか、メロンに来たり電話したりとしつこい。
面倒な人だなと思い始めた頃、中口から連絡が入る。
「俺見ましたけど、あれ多分本物ですね」
「では買いに行ってもいいですか?」
「構わないんですが、いつものように千円じゃ無理なんですよ。業者からこれは特別なものだから仕入れ値七千円は譲れないって言うんです」
中口はDVDの新作が入ると一枚千円で俺には卸してくれていた。
その七倍の価格でも、需要があるので俺はお願いする。
泉だけでなく他の客からも散々聞かれたDVD。
一枚三千円くらいで売れば、元などすぐ取れる。
二日後加藤あいのDVDを入手した俺は、同じものを複数枚作った。
ピアノ発表会まで一週間。
俺は一通り習った月の光を家に帰るとひたすら練習した。
ゆっくり深呼吸をして心を落ち着かせる。
キーボードの電源を入れ、ザナルカンド、月の光の途中までを弾く。
何度も繰り返し弾き続けたザナルカンドは完璧だった。
発表会で弾く月の光は、数回ミスをしてしまう。
ピアノって本当に正直だ。
誠心誠意向き合わないと、綺麗な音色を奏でてくれない。
当日まで練習あるのみ。
その時、携帯が鳴った。
見るとメールが一件届いている。
「……!」
自分の目を疑い、何度もゴシゴシとこする。
あの春美からのメールだった。
『まだずっとピアノを頑張っていたんですね。ピアノ発表会、よろしければ私、見に行きたいと思っています。 品川春美』
彼女が俺の演奏を観に来てくれる?
嘘だろ……。
何度も頬をつねってみた。
痛い。
夢でもない。
短い文章の中に凝縮された彼女の気持ち。
俺は意識が飛びそうなぐらい嬉しかった。
冷静に考えてみる。
今度の発表会、俺は月の光で出場する。
春美へ捧げる曲ではない。
できればザナルカンドを弾きたかった。
しかしクラシックを一生懸命教えてくれる先生に対して、俺の私情で発表曲を変えるなんて今さらできやしない。
大舞台でザナルカンドを春美へ捧げられたら、どんなに素敵な事だろう。
彼女はどんな顔をするだろうか。
こうなったら発表会までの僅かな期間を俺はピアノにすべて集中しよう……。
そうじゃないと、月の光は完成しない。
春美へメールを打った。
今の自分の素直な正直な気持ちだった。
『ありがとう。本当にありがとう。心から嬉しい。君が見に来てくれるって聞いて、涙が出そうになった。でもその日、俺は月の光を弾く。君に捧げる曲ではない。君には本当に捧げたい曲があるんだ。発表会が終わったら、俺と一緒に時間を過ごしてほしい。そこで初めて君にピアノを捧げたい。ずっとせつなかった。ずっと寂しかった。だから俺と一緒に時間を共有してほしい。何度も言わせてもらう。春美、君が俺は大好きだ。発表会まで連絡はいらない。当日、会場で待っているよ……。 岩上智一郎』
余計な事まで書いたかな。
でも本当の気持ちだった。
春美にもその覚悟がほしかった。
俺は格好をつけたかっただけなのか。
よく分からない。
あ、小説の事も付け足そうかな?
いや、無駄に長くなる。
やめておこう。
俺は『新宿クレッシェンド』が完成した事はまだ黙っておく事にした。
もうこれ以上、失うものは何もない。
自分自身へのけじめだったのかもしれない。
俺は『くっきぃず』へ、ピアノを習いに行った。
部屋でも月の光をとことん弾き続けた。
それしか方法がなかった。
起きている時間の間、飯、トイレ、風呂以外の時間は、出来る限りピアノを弾いた。
自分でも聴き飽きるぐらい月の光に没頭した。
長い曲だった。
時間にして四分半ほどの曲。
楽譜の読めない俺は、ひたすら暗記をするしか方法がなかった。
指に染み込ませ、目で覚え、耳で音を確認する。
三十歳を過ぎてからピアノを始め、すでにフラれている女を追い駆け続ける裏稼業の男。
世間的に見たら、阿呆なんじゃないかと思われるだろう。
どう思われてもいいさ。
俺は月の光が弾きたい。
魂を削って……。
よくこの表現が使われるが俺は今、魂を削っているのだろうか。
分からない。
魂って何だ?
それを削るって何だ?
すべてを捧げるという事なのか……。
視界にはピアノの鍵盤しか映らない。
月の光を弾く俺の行為。
自分でも異常だと感じていた。
でももう遅い。
とまらない。
俺はピアノにどっぷり浸かっている。
生活をするのに必要な事以外、俺はピアノを弾いた。
一つ一つの音を丁寧に、そして想いを込めて弾く。
ピアノは俺の想いを音として表現してくれる。
睡眠時間さえ削った。
風呂も滅多に入らなくなった。
湯船に浸かる時間があったらピアノを弾きたかった。
飯も空腹感さえ満たしてくれればそれでいい。
弾きながら意識を失うようしてその場に倒れる日々。
すべてのベクトルを指先に……。
最近、俺のピアノの音は狂気を帯びている。
自分でそれが分かった。
月の光が弾きたい。
今の俺にはそれだけだった……。
春美からの返事は、まだない。
上にあるゲーム屋フィールドの事実上のオーナーである金子。
珍しく早い時間帯に彼がメロンへ顔を出す。
俺がいるのを確認すると、妙に笑顔で近づいてくる。
「岩上さん、実はお願いが……」
「どうしたんです?」
何故か金子はパソコンを持参していた。
先日の小泉の話が頭の中をよぎる。
「岩上さんってDVDをパソコン使って、そのままコピーしたりする事できるじゃないですか」
「ええ、それが?」
「その技術を私に教えてほしいんです」
彼はパソコンの事で、俺に教えを乞いに来た訳である。
「別に構いませんが」
俺は小泉の話を聞いていないふりをして接する事にした。
「ちょっと最近不景気でして、ネットオークションで私の持っているジッポのコレクションをちょっとずつ売っていたんです」
「ジッポ? ジッポってあのライターのですか?」
「ええ、そうです。千九百三十三年…。この年にジッポーは初めて販売されだしました。その数は約千五百個とも言われています。私、実はこの内の一つを持っています」
妙に気取りながら話す金子。
しかし彼は、小泉の名義料を使い込んでいる……。
「さすがにそれを売りに出す訳にはいきませんが、そこそこ値打ちのあるジッポも以前コレクションしていましてね」
「はい」
「それがネットで、七万とか十二万とかで売れたりするんですよ」
「へえ、そういうもんなんですね」
マニアからしてみれば、いくら出しても欲しい物があるだろう。
「でも、売りに出すジッポもそろそろ底を尽き始めましてね。そこで岩上さんのパソコンの技術を少しでも習いたいなと思いまして……」
要するに金がなくなったという訳か……。
「そうそう、岩上さん。お腹減ってませんか? 鰻食べましょうよ。私、おいしいところ知っているんです。ちょっと電話借りますね」
金子は半ば強引に鰻屋のうな鐵へ出前を頼み、鰻ダブルを二人前と注文していた。
鰻が届くまでの間、俺はDVDを焼く仕組みを詳しく教える。
それと同時にその為に必要なアプリケーションソフトも金子のパソコンへインストールしてあげた。
「これでやり方、分かりましたか?」
「ええ、分かりました。もし自分でやってみて駄目な時は、また連絡します。あ、鰻来ましたよ。食べて下さい。美味いんですよ、このダブルが」
金子はそう言いながら、出前持ちに一万円札を渡し、お釣りで二千円をもらう。
え、今この人…、八千円を払ったっていう事?
どこでもうな重の相場は、だいたい千八百円程度。
一人前四千円もするのを頼んだのか?
フタを開けると特上のうなぎが縦に通常の二倍入っていた。
確かに豪華なうな重である。
でもさ…、こんな風に振る舞うお金あるならさ…、小泉の金遣いこむなよ……。
「岩上さん、さあ温かい内にどうぞ!」
「い、いただきます……」
確かに高額な値段だけあって非常に美味い。
鰻が縦に四つ入っているなんてさ…、俺なら普通のうな重二人前のほうが良かったよ……。
いまいち喉の通りが悪かった。
当たり前だよ。
俺は何故好物なはずの鰻を食べているのに食欲が湧かないのか、その原因をすぐ分かるから。
一応お礼は言っておいた。
しかしね…、本当にあのさあである。
そんな金あるなら小泉に名義料払ってやれよ!
まあ他人事に、そこまで首を突っ込むつもりはない。
そんな俺にとってデメリットしかない事に首を出して、何もいい事なんてないからね。
これは近い内ひと波乱ありそうだ。
帰り際の金子の後ろ姿を見ながらそう感じた。
闇 34(裏ビデオ屋地獄変)
自分にとって二つ目の小説である『でっぱり』。
銀座通りのスガ人形店を継いだ先輩の栄治さんは、この作品を読み終わり少し軽蔑した視線で俺を見る。
処女作の『新宿クレッシェンド』の時にはあった訂正箇所の付箋など、今回はどこにも貼っていない。
「智ちゃん、何で岩崎を殺したの?」
突然そう言われ、俺は『でっぱり』の最後の部分を思い出した。
靖史も今までずっと仕事、仕事できて、急に仕事なくなったから暇を持て余しているのだろう。
僕も今さっき、むつきへの想いをぶつけて、一つの形が終わったばかりだから、誰かと話しでもしながら気を紛らわせたかった。
タイミング良く、靖史からの誘いの電話があったのは、とてもありがたかった。
むつきと腹を割って話して頭で理解したつもりでも、やはり辛い。
彼女の中では娘を取り戻す為に、完全に誰も寄せ付けない孤独な世界でやっていかなくてはいけないのだ。
むつきの…、母親としての意識は執念を感じるが、どうしてもせつなさと悲しさが付きまとう。だけど僕には何の手助けも、いや…、できたとしても、絶対に彼女は受付けてくれない。あれほどの決意を持った女の心を、一体誰が崩せるというのだろうか。
考え事をしながら歩いていると、もう目の前は新宿プリンスホテルだった。赤いレンガの壁を見ていると、むつきとこの場所を通った事を思い出し、胸がせつなくなる。わずか数日前の出来事なのに、遥か昔のように感じた。
INと書かれた自動扉の入り口の前に立つと、僕はゆっくり深呼吸をして、ホテルに入った。
僕はエレベーターに乗り込み、真っ直ぐに靖史の部屋へと向かう。ベルを鳴らすと、すぐに靖史はドアを開けてくれた。
「お疲れ、仕事どうだった?」
「い、いやーボチボチだね。そ、それよりも、も、もうお腹ペコペコだよ」
「何が食いたい? 好きなもの奢ってやるよ」
「えー、い、いいよー。い、いつも世話になってるから、ぼ、僕が出すよ」
「いいよ、俺はまだ金あるしさ」
「ダ、ダーメ。き、今日ぐらいは僕に出させてくれよ、お、お願いだよ」
「何かあったのか、勝男?」
靖史は相変わらず鋭い。
まさか僕がむつきと再び会ったとまでは分からないだろうけど、この事は彼女の過去もあるから心に秘めておかないといけない。でも、むつきと再び会えた事ぐらいは靖史に伝えておきたかった。
「おい、勝男……」
靖史が僕を心配そうに覗き込む。やっぱりむつきとの事は伏せておこう。
「い、いや…、し、仕事で嫌な事があっただけなんだ。や、やっぱゲーム屋って嫌な客が、り、理不尽にゴネたりするじゃん。い、今の責任者も、け、結構、い、嫌味ばかり言うしね……」
「そうか」
「そ、それより、お、面白い喫茶店を見つけたんだ。あ、赤崎君も一度そこへ連れて行ったけど、か、かなり気に入った様子なんだ」
靖史をあそこに連れていって反応を見てみたい。いや、今の僕には純粋に笑いが欲しいだけなのかもしれない。
「じゃあ、そこでいいよ。どの程度のもんか、勝男の面白いってやつを見極めてやる」
「や、靖史、は、早く着替えちゃいなよ。パ、パンツ一丁じゃ表を歩けないだろ?」
靖史は風呂上りだったのか、パンツ一丁のままだった。
「すぐ着替えるよ。場所はどこら辺にあんの?」
「コ、コマ劇場横の道を真っ直ぐ行くと、あ、東通りに突き当たるでしょ? そ、そこを右に曲がったT字路の角なんだけどね」
「あーあー、あの昔からあるとこだろ?」
「そ、そうみたいだね。あっ! そ、そうそう…、あ、赤崎君と、こ、今度、ご、ご飯食べに行く?」
「あれから会ってないもんなー。じゃあさ、勝男…。明日の仕事明けにさー……」
「な、何?」
「俺と会うのを彼にはわざと秘密にしてさ…、勝男が赤崎を誘ってみれば?」
「な、何でそんな事を?」
「場所だけ決めといてさ。俺がそこであらかじめ、いるようにするんだよ。偶然を装ってね。絶対、赤崎はいい意味でビックリするだろ?」
「な、なるほどね。あ、赤崎君をビックリさせようって事だね」
「面白くねえか?」
靖史は意地悪そうな表情で、僕を見てニヤニヤしている。昔からたまにこういうところがあるんだよな。でも赤崎と靖史を黙って会わせるのは、案外面白いかもしれない。
「そ、そうだね」
僕はソファーの上に腰掛けようとすると、横にダンボールが置いてあるのに気が付く。靖史は、あの大金をあれから部屋にずっと置きっ放しだったのか。この金があればむつきは……。
「何だよ。ダンボールなんかジッと見て…。何か悪い事、企んでんだろ?」
「あ、あのダンボールのお金、こ、ここに置きっ放しだとよくないから、ちょ、貯金でもしてきなよ。しょ、正月の三が日も過ぎて、も、もう銀行もやっているでしょ?」
靖史は腕を組んで考えている。じゃないと僕はこの金を持ってむつきの元へ行ってしまいそうだ。
「そうだな、鳴戸に最悪ここにいるの見つかった時、洒落にならないもんな…。勝男さ、その喫茶店へ先行っててよ。俺は着替えて貯金してから行くからさ」
「じゃあ僕、先に喫茶店へ行ってるよ。何か注文しておく?」
「銀行で時間掛かって料理が頼冷めんのも嫌だから、俺は行ってから注文するよ」
「わ、分かったよ。ま、またあとでね」
「あいよー」
靖史は私服に着替えながら答える。
僕はホテルの外へ出て、一人で先に喫茶店へ向かう事にした。
靖史があの店でというよりも、あの店員にどんな反応を示すか楽しみだ。思い出し笑いしながら歩いていると、通行人が気味悪そうに僕を見ていた。
赤崎と明日、会える可能性が一気に高まった。
いや、可能性じゃない。会えるんだ……。
あの時、勝男がこの場所にいなかったら、飛び跳ねてしまったかもしれないぐらい、ウキウキしていた。
着替えを手早く済ませて、貯金しに行かないとな。そして明日は勝男にうまく誘い出してもらわないと……。
気分は上々だった。全身の細胞が歓喜の叫び声をあげているようだ。
今日はむつきとのセックスが、他の指名客のせいで中途半端で悶々としていた。
そのあと勝男からの赤崎の情報を聞き、一気に気分が良くなった。明日会えるかもしれないのだ。
もし明日、赤崎に会っても絶対に焦ってはいけない。冷静にクールに……。
今の心境では難しい注文かもしれない。
だって赤崎の事を想うだけで、俺の下半身はこんなに固くなっている。
俺はギンギンにたぎった一物を右手でこすりながら、部屋の窓へ何度も射精した。
さて勝男が先に喫茶店で待っているから、急ぐとするか。
ホテルの外へ出る。この金を貯金しとかないとな。
西武新宿駅前の道を渡ろうとする。ダンボールを持っているので前が見えず、さすがに歩きづらい。
あれだけ射精したのに、まだ頭の中は赤崎の事でいっぱいだった。
「パーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」
派手なクラクションを鳴らす馬鹿な車。
「うるせぇなぁ……」
今の俺は、機嫌がいい。ちょっとの事じゃ、イライラしないだろう。
「パーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」
間髪入れず、またクラクションが鳴る。
「何度も何度もうるせーなあ」
ぶつぶつ独り言を呟きながら歩いていると、突然、体がものすごい衝撃を受けた。
「あれっ?」
目の前の景色がグルグル回っている。ものすごいスピードで回っていた。
いや、俺の体がすごいスピードで回転しているのか?
通行人がみんな、俺に注目していた。
辺り一帯に一万円札が乱れ飛んでいる。尋常じゃない数の金だった。
何でこんなところに金が?
突然火花が散り、何かの衝撃と共に目の前が真っ暗になった。
一体、どうなっているんだ?
首を動かそうとしたが、まったく動かない。
他の部分を動かそうとしても、全然動かない。
一体どうなってんだ?
目の前が徐々に見えてきた。
「……」
おかしい……。
視界が明らかにおかしい。
よく見慣れたアスファルト…。その道路が至近距離に映っている。それとは別に西武新宿駅の二階へ昇るエスカレーターの入り口も映っていた。
何だ、この景色は?
分かった。いつもと風景が逆さまなんだ。
「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
「うわっ!」
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
まったく体が動かない俺の耳元に、ものすごい数の悲鳴が聞こえてきた。
目玉すらいくら意識しても、動いてくれない。
ちゃんと景色は見えているのになあ……。
ありゃ、地面に、一万円札が何枚もヒラヒラしながら落ちてくるぞ?
何がどうなってんだ?
「ギャー…」
「ャー……」
「……」
あれだけうるさかった悲鳴が、ドンドン小さくなっている。
目の前の一万円札の色が擦れて見えた。
目の前の景色が徐々に暗くなっていく。
あれ、まだ昼頃だよな?
夜でもないのにおかしいな……。
いくら冬だと言っても、こんなに早く日が暮れる訳がない。
あれ…、完全に目の前が真っ暗になった。
どうなってんだ?
遠くで勝男が笑いながら、手を振っていた。
何やってんだ、あいつは……。
むつきが裸で立ってこっちを見ていた。
相変わらずエロい体をしてやがる……。
赤崎の後ろ姿が見えた。
「おーい。おーい……」
俺がいくら叫んでも、赤崎はどんどん先へ進んでいく。
振り返ってもくれやしない。
「おーい!」
赤崎の姿は豆粒くらいになり、やがて見えなくなった。
いくら何でもそれはねえだろ……。
そこまで俺を毛嫌いするのかよ……。
「チクショウーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
そんなに俺が気持ち悪いのかよ……。
「答えやがれ、赤崎っ!」
テーブルの上が水で濡れている。また例の太った女店員が、乱暴に水を置いたからだ。靖史の奴、早く来ないかな。
「何する」
靖史にあのハンバーグサンドを見せてみたいし……。
うーん、モーニングメニューが時間的に終わっているのが、非常に残念だ。
あの「Aーかー、B―かー……」をぜひ聞かせたかったのにな。
そうか、明日もここに赤崎連れてくれば、時間帯的にモーニングメニューがある。その時でもそれはいいか……。
「何する」
店員は僕に早く選べという感じで、いつもの如くマイペースな接客をしている。
「と、とりあえず、コ、コーヒー一つ」
「あい」
お腹がペコペコだが、靖史が来るまで我慢しないと失礼だ。
早く来ないかなー。
空腹感は、いつも呑気な僕ですらイライラさせる。
「お、遅いなあ~」
携帯を取り出して、靖史の携帯に掛けた。
プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルプルルルル…、ルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルル…、プルルルプルルルル…、ル…、プルルルル…、プルルルル……。
一体、何をしてるんだ、靖史は……。
空腹感がイライラを余計に掻きたてる。バイブにでもしているのか?
これだけ鳴らしているんだから、早く出てくれよ……。
「お待ちっ!」
ガシャッ!
太った店員がコーヒーを乱暴にテーブルの上に置く。
あーあー……。
コーヒーがこぼれてちゃってるよ。靖史にこういうシーンを見せたいのにな……。
僕はもう一度携帯を手に取り、靖史に電話をした。
プルルルル…、プルルルル……。
―了―
あれはダブル主人公である片割れの岩崎が、最後車に跳ねられその後をあえて書いていない。
そしてもう一人の主人公勝男が、そんな岩崎の状況を知らずに約束した喫茶店で待ち続ける終わり方にした。
栄治さんの何故岩崎を殺したのかという問い。
ひょっして、彼の病気で亡くなったお子さんを連想させてしまったのか?
俺は慌てて岩崎を作中で殺した訳ではないと言い訳した。
元気付けるつもりが、逆にトラウマを呼び起こすようなラストシーンにしてしまった自分を呪う。
やっぱり小説をただ書いただけで、自分には才能の欠片もなかったのかもしれない。
一旦小説は置いて、ピアノへ集中しようと頭を切り替える。
ドビュッシー作曲『月の光』も、完成まであと僅か。
再び歌舞伎町へ仕事に行く時もキーボードを持参し、裏ビデオ屋メロンで客のいない時は曲を弾く。
物騒なヤクザビルの地下から奏でる月の光。
外を通る人々は、何故ピアノの曲がと奇妙に思っているだろう。
数名の階段を駆け降りる音が聞こえた。
客にしてはおかしい。
集団で裏ビデオ屋に来る人間など、見た事がないからだ。
入口をボーっと眺めていると、十数人のヤクザ者がいきなり店内に入ってきた。
俺は演奏を止め、立ち上がる。
一体何の騒ぎだ?
尋常ではない。
とりあえず他に、客がいない状態でよかった。
こんな状況を目の当たりにしたら、ビビッてこの店には一生来なくなるだろう。
ヤクザ者は店内をキョロキョロ見回してから、俺しかいないのを分かると口を開く。
「おい、ここのケツモチどこだ?」
パンチ頭の目つきの悪い若僧が、粋がりながら凄んでくる。
「はあ?」
俺が惚けた様子でワザと答えると。
いきなりテーブルを蹴飛ばすヤクザ者。
大人数でいるからって何を思い違いしているのか?
こんな陳腐な脅しでビビらせようとする小者。
ゲーム屋時代、組を破門になり行き場のなくなったヤクザがよくこのような手口で店に入り、従業員を脅かして金をせびるやり方は色々見てきた。
あの時のような一人から二人程度なら、強気に出れた。
しかし今回は違う。
目の前にいる人数は、どう見ても十五名はいるのだ。
一体何故これほどの人数のヤクザが、メロンに押し掛けて来たのだろう?
訳が分からなかった。
「ここのケツモチどこだって聞いてんだよ、コラ」
顔面神経痛に掛かったような面で俺を睨むヤクザ。
迫力も何もない。
コイツ一人なら、半殺しにしていただろう。
それにしても、ここのケツモチか。
弱った。
北中がいつも話をはぐらかすから、俺は本当に何組がケツモチなのかを正確に知らないし、何も把握していない。
「う~ん、どこなんでしょうね。その前にこういう事されると、思いきり店の営業妨害なんですけどね」
仕方なく薄笑いを浮かべながら、のんびり答える。
「舐めてんじゃねえぞ、コラ!」
再度テーブルを蹴っ飛ばす若僧。
視野が狭まる。
粋がるのは勝手だが、もし俺のキーボードに少しでも触れてみろ。
その場合、覚悟しておけよ。
俺は堂々と相手の目を見ながら静かに言った。
「昨日入ったばかりなんで、分かりませんね」
「ふざけてんじゃねえぞ、おい? 俺はどこがケツモチなんだって聞いてんだよ?」
一生懸命粋がっているが、コイツ、喧嘩弱そうだな。
「だから本当に知りませんって」
「おい、兄ちゃん。筋者舐めてんじゃねえの?」
「別に舐めちゃいませんよ。あとで社長に聞いておくんで、連絡先の名刺もらえますか? 責任持って、俺が電話しますから」
「この野郎……」
どんなに凄まれてもしょうがない。
だって本当に知らないんだから。
パンチ頭の若僧が先頭で俺を睨み、その後ろで十名以上のヤクザが一斉に俺を見ている。
まあ威嚇なのは分かる。
実際にこれで俺を殴ったりしたら、ヤクザ集団も後々面倒になるのは分かっているだろう。
それにしても嫌だなあ、こういうのは……。
別にヤクザ者へ喧嘩など売るつもりはない。
だからといって変に媚など売りたくもなかった。
ケツモチはどこかと聞くヤクザ。
俺自身が知らないから答えようもないだけ。
適当な組の名前を言うと、それこそ後々面倒になってしまう。
このような傍若無人な振る舞い。
あまりしつこいようなら俺も、ある程度の覚悟を決めねばなるまい。
「ケツモチどこだって言ってんだろうが!」
「名刺…。とりあえず名刺をもらえまますか? 別に喧嘩を売ってる訳じゃありません。本当に昨日入ったばかりで何も知らないんですわ」
「オメーよ?」
胸倉を掴まれる。
本当に喧嘩のイロハを知らない。
最悪の悪手だぞ、これは。
自ら相手の胸倉を掴む行為。
これは自分から関節を極めて下さいと、首を差し出すようなものに等しい。
俺は何もしていない。
チンピラヤクザが勝手に裏ビデオ屋メロンへ来て威嚇し、仕掛けてきただけ。
一応これって暴力行為そのものだよね。
十五名か……。
とりあえず相手の手首を左手でしっかり押さえつつ、弱気な声で「やめましょうよ、何もこっちはしてないじゃないですか」と言い返す。
「ふざけんじゃねえぞ、オラッ!」
右手でヤクザの拳を上から押さえ、ここから右肘を捻じり込めば、俺の加減一つで簡単に関節は極まり骨などへし折れる。
どうしよう、やっちゃうか……。
「もういい。駄目だ、これ以上言ったって」
後ろから四十代ぐらいの貫禄ある男が前に出てくる。
「でも兄貴……」
「コイツは何も知らん。手を放せ」
「はあ……」
知らず知らずの内に、兄貴分に救われたな、チンピラヤクザめ。
「おう、兄ちゃん。名刺置いてくわ。ちゃんと連絡せいよ」
「分かりました」
俺が名刺を受け取ると、ヤクザ者たちはズラズラと店を出て階段を登っていく。
組の名前を見ると、『〇〇興業』と大きな字で書いてあり、電話番号まで乗っていた。
ヤクザの名刺って金を掛けてんだなあと、妙なところで感心する。
あのパンチ頭の若僧。
プライベートの時に道端で会ったら、後ろから急襲してとっちめといてやろう。
キーボードの電源を入れて、月の光を弾き出した。
先ほどの騒ぎを聞きつけたのか、〇〇連合の組長である岡村が降りてくる。
「何かあったんかいな? 妙に騒々しいなあ思うて窓から道路見たら、〇〇興業の奴らがドヤドヤとビルから出てきたから、どないしたんやと思うてな」
「何だかここのケツモチはとか、妙に興奮してましたね」
俺はそう言いながら〇〇興業の名刺を岡村へ見せる。
「確か北中はんのところは〇〇一家やろ。あの人、そんな事も言うてへんのか?」
「ええ、困りますよね」
ひと言北中が俺にちゃんと言っておけば、あんな目に遭わずに済んだはず。
俺は北中の顔を想像し、思いきり殴りつけてやりたかった。
「それにしても岩上はん。あんた見事なもんや。全然ブルってないのう」
「まあ、そこそこ修羅場は潜ってますからね」
もっと辛い世界に俺はいた。
全日本プロレスの合宿。
あそこは本当に地獄だった。
「うちの業界に本当来てほしいわ」
「勘弁して下さいよ。そんな甲斐性なんてありませんから。買いかぶり過ぎですって」
「いや、あの人数にビビららん奴なんて、なかなかいまへんや」
「いえいえ、本当怖かったですよ。でも、ここって橘川一家だったんですか」
「何ならワイが話をつけたろか?」
親分の気持ちだけで充分嬉しかった。
ただヤクザ者に借りなど作りたくもない。
「いえ、自分で電話しますって言っちゃったんで、自分で言いますよ」
「ほれ、ええ根性しとるやんけ。ま、何かあったら気軽に声を掛けてや」
「すみません。気に掛けていただいて」
「な~に、岩上はんにはパソコンの事とか色々世話になってますからのう」
「大した事じゃありませんよ。逆にこっちがいつもお世話になってますから」
「あ、そうや。岩上はん、腹減ってへんか? 昨日ゲームでえろう勝ってな。岩上はんに昼飯奢ったるわ」
「そんな、申し訳ないですよ」
懐の深い親分だなとつくづく感心する。
北中は今まで一度だって奢ってくれた事もない。
逆に俺が何か差し入れをしているぐらいだ。
「ええからええから、食っとき。そや、かど平のそば食おうや」
「分かりました。いただきます」
岡村は出前を二人前頼み、俺の分までご馳走してくれると言う。
そういえばかど平といえば、あの小柄な出前のオヤジが来るのだろうか?
以前山本が面白がって楽しんでいたが、ここしばらく頼んでいない。
他愛ない世間話をしながら、俺と岡村はそばの出前を待つ。
何でこんないい人がヤクザになったんだろうな。
不思議でしょうがなかった。
足音が聞こえ、かど平の小柄なオヤジがやってくる。
オヤジは俺の横にいるのがヤクザの組長だと知らずにそばを置くと、「これから歌舞伎町は荒れるぜ~。何たってヤクザ者同士の抗争が始まりそうだからなあ」と訳の分からない事を言っていた。
出前の配達を済ませたのだから、さっさと帰ればいいものを……。
「へえ、どこの組か分かるの、オヤジさん」
岡村も悪乗りして笑いながら質問をしていた。
オヤジは神妙な顔つきになり、「そうだなあ、〇〇と沖田。あそこは一発触発だな」と腕を組みながら偉そうに話し出す。
目の前にいる男が〇〇連合の組長だと知ったら、おそらく腰を抜かすだろうな。
それにこのビル内のある組二つが、どうして一発触発なのだろうか。
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪える。
ひと通り喋り終えると、オヤジはメロンにある缶コーヒーの入った透明の冷蔵庫をジッと眺めだした。
「おっ! ここのコーヒーって本当旨そうだな~」
「え?」
「いや、ここのコーヒーは旨そうだ」
素直に欲しいって言えばいいのに……。
「おじさん、いいよ。持っていきなよ。まだ外も暑いし喉も渇くでしょ?」
「おお、悪いね~」
そういうとオヤジは両手に缶コーヒーを一つずつ持ち、急いでポケットへしまう。
油断も隙もないオヤジである。
かど平のオヤジが店を出て行くと、俺と岡村は腹を抱えて大笑いした。
どこかで俺はこんな歌舞伎町での日常を楽しんでいる節がある。
先ほどの集団ヤクザの件にしても、普通の感覚を持った人間なら一発で懲りて辞めてしまうだろう。
ずっと嫌々仕事をしていたように思えるが、気がつけばこのビルの住人たちと妙に馴染んでいる。
どこか居心地の良ささえ感じる俺。
家族はともかく、おじいちゃんにこんな実態を正直に言えるはずがない。
つまり俺は悪い環境にいると自覚しながらも、泥を被り続けている。
まだ三十二歳だぜ、俺。
本当にこのままでいいのだろうか?
しかしこの裏ビデオの仕事を辞めて、次に何をすればいい?
月に三十万以上稼げる仕事が、川越にあるのか?
誤魔化すように俺は月の光を弾き続けた。
時間だけは過ぎていき、ピアノ発表会の時期が刻々と近づく。
あれからまだ春美からの連絡はない。
以前メールに書いてあった通り、彼女は本当に来てくれるのか?
発表会はある意味、俺の春美へ対する想いの集大成の場。
裏稼業でしか自分を活かせない俺。
当初はそんな自分に恥ずかしさをずっと感じていた。
だから自分の仕事を偽り、絵を描き、ピアノを弾いてきた。
挙句の果てには小説まで書いてしまった。
春美への想い。
これだけは本当である。
すべて彼女へ格好つけたいが為にやり始めた事なのだ。
発表会へ来てくれよな……。
祈る気持ちでいっぱいだった。
毎朝少し早起きして、『くっきぃず』で月の光を一時間だけ習い、新宿へ向かう日々。
休みの日は一心不乱に、ずっとキーボードを弾く。
何度も春美へメールしようと思った。
その度、野暮な真似はよそうと歯止めを掛ける。
やるだけやった。
その点だけは自信を持って言えたからだ。
今は月の光を完成させる事だけに、意識を集中させればいい。
今日もレッスンを終え、急いで歌舞伎町へと出勤する。
西武新宿駅へ到着すると、走ってメロンまで向かった。
「ん、何だ?」
いつもなら薄暗い階段に明かりがついている。
こんな時間から北中が、店に来ているのか?
いや、それはありえないだろう。
俺はゆっくり足音を立てないように階段を降りていく。
メロンのドアは開いており、明かりが見える。誰かがいる気配も感じた。
覗き見るように中を伺う。すると奥の椅子に座る北中の姿が見えた。
随分と早い出勤だな……。
「おはようございます」
店内へ入ると、北中以外にフィールドの店長の小泉と、そこのオーナーである金子の姿が見えた。
嫌な予感がした。
とうとう来るべき時がきたのだ。
考えられるのは一つ。
小泉の名義料を金子が使い込んでしまった件だろう。
俺に構わず北中は口を開く。
「で、金子さんよ。どうするつもりだよ?」
「……」
「小泉は先日俺とフィリピン行って、向こうで女を作っただよ。それまで溜めていた貯金も使い果たし、あの名義料しかないんだ」
「え、ええ……」
金子の様子で、使い込みしたという事実が完全に分かる。
頼むから、こんな重い話を朝からメロンでやらないでくれ。
そう祈りたいが、もう遅い。
傍で小泉はずっと下を俯いたまま終始無言。
「金子さん、もうこうなったら方法は一つしかないだよ。小泉にそのまま店を譲る。まあ俺も下にいるから今まで通り面倒は見るから心配ないだよ」
本当にこの北中はとんでもない事を平気で抜かす。
小泉に対してならまだ分かる。
自分の金を使われてしまったのだから。
しかし北中は何なのだ?
何一つ被害に遭っちゃいない。
それどころか散々メロンを食い物にしてきたくせに……。
本来の持ち主である金子を押し出し、一緒にフィリピンへ連れて行き、手なずけた小泉を店のオーナーにしてしまう。
これまで以上に好き勝手ができるはずだ。
この分でいくとメロンを乗っ取られた野路同様、金子もフィールドを乗っ取られるのも時間の問題だろう。
しかも店のオーナーという事は、家賃やその他諸々の経費などは小泉持ち。
捕まった時の責任も小泉。
北中は旨い汁を啜るだけ……。
しばらく金子は目を閉じ、何かを考えているようだったが、どんなに思案を重ねようと答えは一つしかない。
「分かりました。良平にフィールドを譲ります……」
金子は深々と頭を下げ、メロンを出て行く。
俺と一瞬だけ目が合うと、軽く会釈をして去った。
嫌なタイミングでここに来てしまったものだ。
北中からすべてを毟られた男の後ろ姿。
哀れにしか見えなかった。
名義上は小泉の店となった一階にあるゲーム屋フィールド。
実質、北中がより自分のやりやすいようになっただけに過ぎない。
再び小泉は北中へ連れられて、今度はフィリピンでなくタイへと旅行へ行った。
女で骨抜きにするつもりなのだろう。
しかも北中が金を出す訳ではない。
もちろん自分の分は、自分で金を出す。
裏稼業の世界にいた割には真面目に生きてきた小泉。
そんな彼が女に溺れ、借金にまで手を出す始末になる。
北中は俺に店を任せ、頻繁に女を買いに海外へ行くようになっていた。
ピアノ発表会の近い俺にとって、休みがなくなる事は非常に辛い。
でも、そんな事お構いなしに北中は、傍若無人さを発揮。
フィールドの早番の山本がワザワザ下へ降りてきて、愚痴をこぼしに来た。
「岩上さん…。北中さん、以前より酷くなりましたよ」
「今度はどうしたんです?」
「喫茶店のルノアールあるじゃないですか?」
「ええ」
「あそこでコーヒー飲んで領収書をもらい、たかだか数百円なのに自分でゼロを一つ余分に書き加えているんですよ」
「そんな事をして、何になるんですか?」
「その数千円にした領収書を持って、『これ、経費だ。早く金よこすだよ』って店から金を持っていく始末です」
「小泉さんは何て?」
「あの人、完全に女に骨抜きされていますからね。定期的に連れて行ってくれる北中さんには頭が上がらないし、何も言えないんですよ。あの人、サラ金で百万ぐらい手を出しているみたいですよ」
ちょうどその時階段を降りてくる足音が聞こえた。
北中だった。
「山本、おまえ仕事中なのに何をしてるだよ?」
「いえ、あの…、失礼します……」
逃げるように去っていく山本。
北中は機嫌悪そうに椅子へ腰掛けた。
「あいつ、おまえに何を話していただよ?」
「いえ、友人の愚痴を言いに……」
「嘘をつくな! 何となく俺には分かるだよ」
普段いい加減なくせに、こういう時だけ鋭いんだよな……。
「いや、実は…。山本さん、今月金がピンチなようでして、金を貸してもらえないかって相談に……」
山本には申し訳なかったが、適当に信憑性あるような理由をでっち上げておく。
金と女の事にしか興味のない男だ。
こう言えば納得すると思ったのだ。
「馬鹿な奴だ。金なら俺が貸してやるのになあ」
おまえから借りたら例え従業員だったとしても、月に一割の利息を取るだろうが。
この店メロンを野路から乗っ取ったように、フィールドも乗っ取るつもりの北中。
当初山本が言っていた台詞、「北中さん、金に関しては悪魔ですから」。
その事がこの数ヶ月で嫌というほど理解できた。
仕事終わりの時間になり、北中は『デズラ』を渡す前に、俺に質問をしてきた。
「おい、岩上。お金ってのはどうやったら貯まるか分かるか?」
「使わない事じゃないでしょうかね」
「馬鹿野郎。だからおまえは駄目なんだ」
ふざけやがって……。
誰がこの店の売り上げを数倍にも増やしてやったと思ってんだ?
この男には感謝という心がまったくない。
「どうやったら金が貯まるか、教えてやるだよ」
「いや、結構です」
「いいから聞くだよ」
これだけ自分本位に生きられたら幸せだろうな。
いや、それは違う。
こんな小悪党を野放しにしておくのはいけない。
「いいか? 金ってのはなあ、奇麗な札は使っちゃいけねえんだ」
バックから、新品の三百万の札束をあえてテーブルの上に置く。
何度も嫌ってほど見てきているよと言いたかった。
「で、汚い金な。それは使ってもいい金だよ」
そう言いながら、北中は売り上げの中から金を吟味し始める。
左側に弾かれるように置く汚い札二十枚。
その二十枚の中から破れたり薄汚れたりした札を五枚ほど抜き出し、さらに何度も隅まで見返す。
「そうすればな、金ってのは必然的に溜まっていくもんだ」
北中は一番薄汚れ、しかも真ん中に切れ目がありセロテープで貼りつけてある一万円札を手渡してくる。
「……」
この野郎……。
そんなくだらない事を抜かしながら、俺には一番汚い札をよこすなんて、本当に舐めていやがる。
ここまで屈辱を実感させてくれる奴など、そうはいない。
「もう帰っていいぞ」
「お疲れさまです……」
こんな男に雇われているという現実が、非常に悔しかった。
発表会まであと三日……。
休みの日、俺は月の光を何度も繰り返し弾いた。
すべて暗記なので、途中で何度か音を失敗する。
悔しかった。
これだけ時間もかけ、頑張っているのに何故完璧に弾けないのだ。
自分自身に腹が立つ。
実際のドビュッシーの演奏の寂びの部分は、どの演奏者も軽く淡々と弾いていた。
俺はこの部分に対して、少し違うんじゃないかと思っている。
寂びの部分だからこそ、もっと力強く気持ちを込めて弾いてもいいのではないか。
自分の発表会だ。
自由に思うまま弾いてこよう。
もう、ここまでやれるだけの事はした。
あとは明日に備えて、ゆっくり睡眠をとっておく事にしよう。
あと二回メロンに出勤して、発表会へ臨む俺。
集中力を継続させる為、強引に休んでおけばよかった。
新宿へ行きながらそんな後悔を覚える。
まあ何でもいいや。
どちらにせよ、発表会まであと二日しかないんだ……。
裏ビデオ屋メロンへ到着する。
テーブルの上には吸い終わったタバコが山のように積み重ねられていた。
北中の野郎。
本当にあいつは掃除をするという概念がまるでない。
全部他の人間が勝手にやってくれると思っているのだ。
一体、何様のつもりなのだろう。
人のいい野路から上手い具合に取り上げただけじゃねえかよ。
自分の店でもないくせに……。
今まで出会ってきた人間の中で一番嫌いなタイプの人間だった。
金に対する貪欲過ぎる執着心。
人間を雇うでなく、飼うといった表現がこれほど似合う男も珍しい。
善意で何かをしても当たり前と思うだけで、何一つ感謝というものがない。
それでいてヤクザ者などが文句を言えないよう媚を売るのだけは上手い。
自分の利益になる事なら、どんな人間も利用する。
他人がどんな不幸になろうが、自分さえよければいい男。
この店を乗っ取られ、仕方なく毎日を生きる倉庫の野路。
「悔しくないんですか?」と俺が言っただけで彼は静かに泣いていた。
あんな生活を自ら望んでしている人間なんて、誰もいやしない。
北中と出会ったばかりに、あのような目に遭ってしまっているだけなのだ。
許せないが、今の俺ではどうする事もできなかった。
毎日こんな歯痒さと戦っている。
俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、電源を入れる。
ザナルカンドをゆっくり弾きだした。
このやるせない現状を抜け出したい。
音を奏でる事で忘れたかった。
昼の三時ぐらいになって北中がやってくる。
「またおまえはキーボードを持ってきてるのか?」
「もうじきピアノの発表会がありますからね」
俺がそう言うと、北中は鼻で笑いながら呆れた表情を見せる。
「まあ、別におまえの趣味だから、どうこう言うつもりはないが」
あきらかに小馬鹿にされている。
そう感じると腹が立ってきた。
「俺はこれから麻雀に行くから、あとは頼むだよ」
「分かりました。野路さんの休憩は?」
「たまにはいいだよ。毎回毎回じゃつけ上がる」
何て言い草だろうか。
だがコイツに何を言ったところで、何の意味もないか……。
北中が店を出ると、俺は再びキーボードを弾き始めた。
ピアノはやればやっただけ、音色が証明してくれる。
あんな男に理解してもらおうと始めた訳じゃない。
春美にさえ伝われば、俺はそれで満足だ。
しばらくして客が二人入ってきた。
妙に体格のいい客だった。
「ん?」
どうも変だ。
店にある裏ビデオのファイルを見る訳でもなく、色々な場所をチェックするかのように見回っている。
「あの…、何か用でしょうか?」
客はいきなり警察手帳を取り出した。
目の前が一瞬真っ暗になる。
ふざけんじゃねえ……。
あと二日で俺はピアノ発表会なんだぞ……。
こんなところで捕まりたくない。
「おっと動くなよ」
刑事二人組はそう言ってニヤリと笑った。
こんなところで働く自分を悔やんだ。
だがもう遅い。
何故俺はあんな男の下で、いつまでもこうして働いていたのだろうか?
いくら悔やんでも悔やみきれない。
暴れて逃げるか?
いや、さすがに無理だ。
テーブルの上には俺のパソコンとキーボードがある。
これを置いていけと言うのか?
それにパソコンの中身を調べられたら、一発で俺の身元など割れてしまう。
「店に物は置いてないのか?」
「……」
「とっとと話せ! すぐに署へ持ってくぞ?」
威嚇するように刑事は怒鳴りつけてくる。
「置いてありません……」
「倉庫から運びタイプの店か。倉庫はどこだ? 言え」
「き、昨日入ったばかりなので俺は何とも分かりません」
俺はいきなり胸倉を掴まれた。
「昨日入ったばかりだ? おまえ、警察をおちょくってんのか?」
ヤクザと警察の対応は本当に似ている。
国家権力を盾に粋がる刑事。
この右腕の骨をへし折ってやるか。
いやいや、そんな事をしたら洒落にならないのは分かっているだろ。
落ち着けよ。
「おちょくってなんかいませんよ。昨日入ったばかりで、俺は何も分かりません」
「チッ、このガキが!」
俺を尋問していた刑事が手を離す。
もう一人の刑事はコードレス電話の子機を調べていた。
マズい……。
中に『ソウコ』と書かれた番号がある……。
俺は以前からこの事を北中に散々忠告してきた。
「北中さん、この『ソウコ』って入れるのやめときましょうよ?」
「何でだよ」
「まんまじゃないですか? 警察来た時どう弁解するんですか?」
「別の名前じゃ、俺が分からないだよ」
そう言ってまったく取り合ってくれなかった北中。
だからこういう時を想定して言ってきたのに……。
「おい、この『ソウコ』って何だ?」
「……。知りません」
「ふざけんじゃねえ! おまえ、ここに電話をしろ」
「するのは構いませんが、俺、場所とかまったく知りませんよ?」
「いいからしろ!」
「はいはい…、分かりましたよ」
仕方なく野路のいる倉庫へ電話を掛けた。
遠回しでいい。
名義人を呼んでもらわないと。
このままじゃ、俺は捕まっちまう……。
「はい」
野路が出る。
「あ、すみません。メロンの岩上です」
「そんなの分かってるよ。注文? DVD? ビデオ?」
馬鹿!
そばで刑事が聞き耳を立てているっていうのに……。
「あのですね! 今、お店に警察の方々がいらしてましてね……」
俺は大きな声で分からせるように言った。
「……」
無言になる野路。
「それでですね、社長の浦安さん、呼んでもらえませんか?」
「何を言ってんだよ? 浦安はとっくに飛んだじゃねえか」
やっぱり……。
北中のクソ野郎。
何が名義人だ。
こんな事だろうと思ってはいたが……。
「だ・か・ら~! 社長に連絡をつけて下さいよ!」
遠回しに北中へ連絡をして、何とかしろと伝えているつもりだった。
「知らないよ。あいつはとっくに辞めたじゃねえか」
「だ・か・ら~! 社長にって何度も言ってんでしょうがっ! 連絡して下さいよ!」
早く北中へ連絡しろって……。
無性にイライラしていた。
俺はこんな状況なのに、北中を庇っている。
「知らないよ! 俺、携帯の番号なんて知らないって!」
ガチャン……、ツー…、ツー……。
信じられない。
野路の奴、電話を切りやがった……。
俺は子機を地面に叩きつけ、観念する事にした。
本当についていない。
発表会が目前だというのに……。
悲しそうな春美の横顔を思い浮かべた。
自分で呼んでおいて、パクられるからドタキャンだよな……。
闇 35(修羅場のピアノ発表会編)
絶体絶命の大ピンチ……。
今、俺は刑事二人に囲まれ、まったく身動きがとてない状態でいる。
頼みの綱だった野路には電話を切られ、どうする事もできないでいた。
このままパクられるのか……。
何とかあと二日間だけ捕まるのを見逃してもらえないだろうか?
無理に決まっている。
あれだけ時間を掛けてピアノを弾き、集大成を見せる時が来たというのに……。
もし会場へ春美が来ていたら、何て言い訳したらいい?
しかも捕まっていた原因が裏ビデオの販売。
格好悪いったらありゃあしない。
ゲーム屋の頃は本当に良かったな……。
様々な目に遭ったけど、ちゃんと無事にやり過ごす事ができた。
こうなったのも、全部北中のせいじゃねえか。
それなのに俺は、まだあの馬鹿を庇っている……。
しょうがない。
俺は警察も大嫌いだ。
いくら捕まるからって、警察に絶対協力なんかするもんか。
「刑事さん…。俺、本当に何も知りません。捕まえたいならどうぞ。但し、これ以上叩いたって何も出てきませんよ。それでいいならどうぞ、手錠を掛けて下さい……」
どうせ捕まるなら格好良く捕まってやろうじゃねえか。
これまで警察の前でみっともない感情を剝き出しに錯乱する人間を、ゲーム屋時代腐るほど見てきた。
あの『ワールドワン』時代の店長だった所を思い出す。
所に食事休憩をそろそろ回すか話している時、目つきの悪い三人組が入ってくる。
一人は見覚えがあった。
あの時違和感を覚えた刑事だ。
客はほぼ満席。
俺は客を外に出そうとすると、刑事がポケットから警察手帳出して「全員動くなっ!」と怒鳴る。
凍りつく店内。
「流行っていますね、何席あるんですか?」と下っ端のふりをしていた若い刑事が一番偉そうな態度だった。
残りの部下に客の連絡先などを聞きに行かせ、終わった客から随時外へ出される。
若い刑事は一人で怒鳴りながら奥の休憩室へ行き、従業員の吊るしてあった私服を床へ投げた。
カチカチに固まり、刑事の質問にどもりながら答える店長の所。
俺はあの時の聞き込み調査自体が茶番なのが分かり、妙に苛立っていた。
「お巡りさん!」
「お巡りさんじゃねえ! 刑事だ」
「じゃあ刑事さん、俺の服床に落ちて汚れっから拾っていいすかねー?」
あえて小馬鹿にした口調で言う。
「あ、ああ」
ムカついたので刑事を威嚇してやる。
今回は捕まえに来たというよりも、警告を入れに来ただけらしい。
刑事から名前と住所を聞かれたので、神威龍一、住所は所沢市と嘘を書く。
刑事たちが出ていくと、所はいきなり俺に怒鳴ってきた。
「岩上っ! 警察に向かってあんな威圧的な態度はやめろ!」
散々ビビっていたくせに、セーフティな状況になった途端これか……。
「はいはい……」
俺は小馬鹿にした声で返事をした。
ベテランだった島村が辞め、新人の二宮は休みを代わってから店を飛んだ。
俺、小山、山下、石黒と所が休みで四人で店を回す時なら問題ない。
誰か休み、所が出勤する時は基本奥で寝てしまうので地獄のような忙しさになる。
石黒が目に涙を溜めながら「岩上さん、所さんが寝ててグラス溜まってるからソーッと洗っていたら、水を飛ばすなって怒鳴られました」と言ってきた。
「寝てんのにそんな状態でグラスなんて洗わなくてもよかっただろ?」
「洗わないと溜まり過ぎてて、客に出すグラスのストックが無いんですよ!」
「そっか…、ごめんな。そうだよな……」
店長だから多少の楽ぐらいはしてもいいと思っていた。
年上だし敬った対応をしていたつもりだ。
しかし最近の所の業務姿勢は明らかに酷い。
俺はホールを従業員に任せ、奥の休憩室へ向かう。
寝ている所を起こし「所さん、いつまでぬるま湯に浸かってんですか?」と文句を言った。
睨んではきたが何も口を開かない。
「みんな休憩も入れず、ホールを駆けずり回りヘトヘトですよ。少しは店の事考えてくれても良くないですか?」
所は終始無言だった。
翌日になり早番の吉田が帰り際俺に声を掛けてくる。
「岩上さん…、さすがに所さんにぬるま湯発言はマズいですって。所さんにそんな事言うの岩上さんぐらいですよ」
確かに言い方は悪かった。
しかし所の最近の行動は酷い。
その数日後、所はワールドワンを辞める事になった。
先日の警察や強盗の一件、俺との関係の悪化、年齢的な問題もあったのかもしれない。
送別会をやったが、所が俺に対し話し掛けてくる事はなかった。
「おい、何をさっきから黙ってんだ!」
刑事の怒鳴り声で我に返る。
俺はまた正念場に立たされている。
過去に俺はこの状況でビビった連中を冷ややかな目で軽蔑してきたのだ。
いざ自分の番になって見苦しい真似なんてなんて、できるはずがない。
しかし北中の名前を出したところで意味が無いし、倉庫にいる野路は錯乱して電話を切ってしまった。
これ以上、自分でどう対処していいのか分からない。
何か言葉にしようとしても、何一つ言語化しようがなかった。
黙ったままの俺に対し、刑事が声を掛けてくる。
「今までたくさんのこういう稼業見てきたけど、ここまで酷いところは初めてだぞ?」
「え?」
「おまえみたいな奴が、何でこんなところにいるんだ?」
刑事は不思議そうに聞いてきた。
「だから言ったじゃないですか。昨日入ったばかりだって……」
「そんな嘘はいい! 何でおまえみたいな奴が、こんなところで働いている?」
刑事の目は真剣そのもの。
俺はカバンの中からプリントアウトして作った自作の小説『新宿クレッシェンド』と『でっぱり』を取り出す。
そしてパラパラとページをめくりながら見せた。
「刑事さん…。この小説、俺が書いたものなんですよ。あくまでも内容は作り物ですが、この街のリアルさは追求しているつもりです。でももっと色々知りたかった。だから昨日からこうしてちょっとだけ働いてみようかなと……」
「おまえは馬鹿か?」
「ええ、大馬鹿です。よくそう言われます」
「そのピアノは何だ?」
「あ、これですか? はは、実は明日ピアノ発表会でしてね…。捕まっちゃうから、出場できなくなっちゃいますけど……」
「……。おまえ、何者なんだ?」
「俺ですか? さっきから言ってるじゃないですか。昨日ここへ入ったばかりの新人だって……」
できるだけ明るく笑顔で話した。
最後ぐらい笑っていたいもんだ。
「発表会?」
「もちろんピアノのですよ? ちゃんと市民会館借り切って、大勢の観客の前で演奏して……」
「おまえがピアノを弾くのか?」
「もちろんそうに決まってんじゃないですか? あ、疑ってますね。いいですよ。どうせ、捕まるんだ。その前に俺の演奏を聞いて下さいよ」
俺はキーボードの電源を入れ、ザナルカンドを弾きだした。
月の光じゃまだ完璧じゃないし、途中でとちったら格好悪い。
ここは一番自信のある曲を披露しよう。
中に入ったら、もう弾けないんだろうな……。
春美……。
これがおまえに聴かせる事のできる最後の演奏だ。
ちゃんと君の耳に届いているかい?
こんな俺に口説かれないで本当に正解だ。
だって俺はこれから娑婆にいられなくなるからね……。
俺は全身全霊の気持ちを込めて、精一杯弾く。
だから聴いてくれよ、春美……。
ザナルカンドをゆっくり奏でながら、俺は泣いていた。
何の為の涙だろう?
分からない。
自分の馬鹿さ加減にうんざりしてだろうか?
春美、ほんとごめんな……。
でもさ、どうだい。
俺のザナルカンド……。
こんなに上手く弾けるようになったんだぜ?
視界が滲み、鍵盤がぼやけて見える。
でもさ、俺、この曲だけは目隠ししたって弾ける。
それぐらい多分だけど、俺がこの曲を世界で一番練習したんだ。
曲を弾き終えると、俺は静かに立ち上がった。
最後ぐらい堂々としよう。
「刑事さん、どうぞ。抵抗なんてしませんから」
俺は両腕を合わせて真っ直ぐつきだした。
捕まったの知ったら、おじいちゃん悲しむだろうな……。
ごめんね、こんな馬鹿野郎で……。
「……」
ジッと俺の眺める刑事二人。
「……?」
いつまで経っても刑事は俺の両手首に手錠を掛けてこない。
「あれ、どうしたんです? 刑事さん」
「俺たちは何も見てない」
「は?」
「これは独り言だ」
「……」
「こんなところでおまえは働くな。今日で辞めろ。分かったな?」
「それって全然独り言じゃないじゃないですか」
俺は大笑いしていた。
心の底から笑った。
「うるせー、本当にしょっぴくぞ?」
「刑事さん、ありがとうございます。俺、本当に今日限りでここ、辞めますよ……」
「うるさい。懐くな!」
刑事はそのまま無言でメロンを出て行った。
何だか夢の中にいるようだった。
信じられない。
俺はこの窮地を本当に脱出できたのだ……。
まず急いで看板をしまい、防火扉まで閉めた。
俺はメロンの中に閉じ籠もる。
鍵を掛けられるところはすべて鍵を掛けた。
俺はあんな目に遭っても北中の名前を出さないで守った。
だからひと言何かを言わない事には、気が済みそうもない。
北中の携帯電話へ連絡をした。
数回コール音が鳴り、電話に出る。
「北中さん……。今、刑事が来ましたよ……」
「うるせー、今忙しいんだ!」
そう言って電話が切れる。
後ろで麻雀牌を掻き回す音が聞こえていた。
北中はどんな時でも北中でしかない。
このクソ野郎が……。
何の為に俺は身体を張って、この店を守ったんだ?
もう一度電話をする。
「何だ、おまえは?」
「おい、ふざけんじゃねえぞ?」
「……」
「どれだけこっちが身体を張ったと思っているんだ?」
「おまえ…、誰に口を利いてるつもりだ?」
「北中! テメーにだよっ!」
「そんな口を利いて、どういう目に遭うか…。分かってんのか、小僧!」
「やれるもんならやってみろよ、コラッ!」
「おい、俺はだな…、真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台……」
「うるせーよ! ヤクザが何だってんだよ? おまえ、喧嘩強いんだろ? 今出てきて俺とキッチリタイマンしろや!」
「おい、本当におまえの命なくなるぞ?」
「何だ? ヤクザ者でも動かそうってのかよ?」
「どれだけ俺がヤクザに顔が利くと思ってんだよ。命がねえぞ!」
「知らねえよ、んなもん。やれるもんならやってみいや、ボケッ!」
俺は受話器を叩きつけ、足で粉々になるまで踏みつけた。
熱くなっていた。
しかしあんなクソ野郎にこれ以上媚びたくなんてなかった。
あいつの事だ。
本当にヤクザ者に手を回すだろう。
これだけコケにされた事はないだろうし、金に物を言わせ、手当たり次第に俺を追い詰めてくるだろう……。
だけど後悔はしていない。
最低二日間生き延びられれば、それでいい……。
あ、刑事に明日が発表会って、嘘ついちゃったな。
明後日のピアノ発表会まで無事なら、俺はそれでいい。
最悪、家に手が回るのだけは嫌だった。
俺は店内をくまなく探し、自分の履歴書を見つける。
杜撰な北中は、こういうところは本当に抜けていた。
その場で火をつけ、履歴書を燃やす。
今日の売り上げの入った財布を見る。
二十七万円入っていた。
俺は退職金代わりに全部抜き取り、自分の財布へ入れた。
このビルを出る前に、一つだけやっておかなきゃいけない事がある。
心臓が大きな音を立てていた。
やめとけ……。
自分の心の中からそんな声が聞こえてくる。
やめられる訳がないだろうが……。
ここまで来たら、引けねえんだよ。
三階まで上り、〇〇連合の事務所をノックした。
「あい、何でっか?」
「失礼します……」
俺は軽く頭を下げ、中へ入る。
目の前には組長の岡村を始め、他の組員が何名かいた。
「どないしたんや、岩上はん?」
「岡村さん、お話が……」
「なんや?」
「俺、ヤクザ者ではないです…。でも裏稼業の人間です。世界は違うかもしれませんけど、同じ種類の仲間だと思いながら、ずっと今までやってきました。だから義理人情って、本当に大事にしてきたつもりです。先ほど警察が来ました。俺は北中をそれでも売るような真似だけはしませんでした……。それなのにあいつは、どうでもいいような事を抜かしました。だから俺、喧嘩を売りました。北中はヤクザを使って俺に追い込みを掛ける。そう言いました。だから上等だって受けました。でもそれはあなた方、暴力団に喧嘩を売った訳ではありません…。でも、北中の金で俺の命を狙ってくるというなら話は別です。俺、全日本プロレスのはぐれ者です。その時は全力で立ち向かいます……」
身体が大きく震えていた。
右手を足に当てていなければ、足の踏ん張りが利かないほど。
本当は泣きそうになるぐらい怖かった。
でも引きたくなかった。
組長の岡村は真剣に俺の目を見つめていた。
「岩上はん…、ワイはな、北中はんとは銭金の絡んだ大人の付き合いや。ただな、岩上はん。あんさんとは銭金の絡まん人間同士の付き合いやと、ワイは思うとる。また連絡下さいや。飯でも一緒に食いまひょ」
「あ、ありがとうございます……。生意気言ってすみませんでしたっ!」
俺は岡村に向かって深々と頭を下げ、感謝をした。
平沢第一ビルを出ると、大きく息を吐き出す。
それからゆっくり息を吸い込んで、自分がどれだけ無茶な事をしたのか震え、その場へへたり込む。
北中の店メロンを去って二日間。
どの組も俺を狙うという事で、動く事はまるでなかったようだ。
岡村から電話があった。
「ほんまあの男は腐ってるのう。ワイのところにも金を出すから、岩上はんを消せなんて連絡あったわ。あ、安心してくれや。あんな奴の金なんかで、あんさんやりに動いたら、仁義もクソもないですわ」
今日はピアノ発表会。
家から近くなので、歩いて市民会館まで行く。
昔、この市民会館にはいかりや長介率いるドリフターズが来た事があった。
幼い頃見に行き、これがそのままテレビで映っているんだと興奮して見たものだ。
今、俺はこのホールでステージに立ち、ピアノを演奏するのだ。
他の演奏者たちの家族や友達などが、多数見物に来ている。
俺は春美が会場に来場してないか、辺りをキョロキョロ見回した。
まだ姿はどこにも見えない。
奥の通路からピアノの先生が歩いてくる。
発表会用に豪華なドレスアップした衣装を着ている。
「うわ~、先生。派手派手じゃないですか」
「恥ずかしいわ。でも、発表会ぐらいはね……」
「紫一色のドレスですか」
「そうね、一番好きな色だから…。岩上君、今日は頑張ってね」
「了解しました」
先生との会話を終え、俺は春美を探す。
ひょっとしたら来てくれないのか……。
一抹の不安を覚えたが、無情にも時は進んでいく。
控え室のほうへ向かい、『くっきぃず』のスタッフと世間話をしてリラックスした。
まだ時間はある。
春美も何か事情があって遅れているだけだ。
誰と話をしていても上の空だった。
ステージを覗く。
まだ客席には誰もいない。
俺は正面に置かれたグランドピアノに近付く。
音の調子を確かめたかったというのもあるが、春美に対してザナルカンドを聴かせたかった。
椅子に座り、鍵盤の上に手を乗せる。
俺はザナルカンドを弾きだした。
指先にこの想いを込めて……。
観客席のほうのドアが開き、明かりが漏れる。
春美か……。
俺は演奏を途中で止め、ドアを見た。
数名の人間がぞろぞろと入ってくる。
「あ、やっぱり兄貴だ」
聞き覚えのある声。
俺は立ち上がって見てみると、弟の徹也、貴彦を始め、坊主さん夫婦、後輩のたー坊が会場内にいた。
「どうしてここへ?」
「兄貴が演奏をするって言うから、仲のいい知り合いに声を掛けたんじゃねえかよ」
「みんなで通路で話していたら、聴き覚えのある曲が聴こえて。智さんがよく弾いていた曲だって。それで覗いたら案の定」
「久しぶり。ちょっと痩せたんじゃないか?」
みんな、俺の演奏を聴きにわざわざやってきてくれた。
人と人の繋がりって本当にありがたい。
真面目にみんなと接してきて、これほど良かったと思った事はなかった。
「だって俺なんかの……」
「何を今さら言ってるんですか。みんな、智さんの発表会を見に行こうって」
「ありがとう……」
まだ涙ぐむのは早い。
本番はこれからなのだ。
控え室で先生と談話をする。
終始、先生は笑顔だった。
よほどこの発表会開催を待ち望み嬉しかったのだろう。
自分の育てた生徒たちが公の場で自分の曲を披露する。
先生にとって至福の瞬間かもしれない。
「岩上君、一応さ、楽譜を置いておいたほうがいいわよ」
「だって俺、楽譜は読めないですよ」
「あなたはちゃんと読めてるのよ。読もうとしてないだけ」
先生は大いに俺を勘違いしている。
音符など見たところで、線に沿っているところが『ミ』ぐらいは分かるけど、そこから離れると何かの記号の羅列しか見えない。
「違うんですよ。俺、本当に楽譜読めないんですって……」
「たまに見ながら弾いてるじゃない」
「それは先生がカタカナで、音符の下に書いてくれているじゃないですか。それを見ているだけなんです。俺が楽譜を置いたら、みんなが暗記してないじゃんって思うじゃないですか? だから何も置かずに堂々と弾きますよ」
「分かったわ。頑張ってね」
「了解っす。任せて下さい」
俺はギリギリの時間まで春美がいるか、会場内を探し回った。
彼女はどこにもいない。
来てくれないのか……。
俺が送ったメールに何か問題でもあったのか?
それとも春美に何か用事でもあったのか?
「岩上さん、そろそろお時間です」
くっきぃずのスタッフが呼びに来る。
タイムオーバーか……。
いや、春美はこの会場にきっと来るさ……。
「頑張って下さいよ、智さん」
「おう、ありがとう。行ってくるわ」
「智一郎、ちゃんと俺がおまえの姿を映像で撮っといてやるからな」
「いつもすみません、坊主さん。裕子さんまで一緒に…。それではいってきます!」
大袈裟に手を振って、俺は控え室に消えた。
頭の中は春美の事でいっぱいだった。
次の出番は俺。
手前の人の演奏が聴こえる。
曲はベートーベン作曲のエリーゼのために。
最初の部分は誰でも聴いた事のあるぐらい非常に有名な曲だった。
他人の演奏はとてもうまく聴こえる。
俺は大丈夫なのか。
緊張が全身を走った。
向こうから拍手が聞こえる。
演奏が終わり自分の番がやってきた。
春美は会場にきているのだろうか。
それだけが気にかかる。
「二十三番、岩上智一郎。ドビュッシー作曲、月の光……」
シーンと静まり返った場内。
俺はカーテンを開け、堂々とグランドピアノに向かって歩く。
正面を向いて挨拶をした。
俺の視線は春美を探していた。
弟たちの姿はすぐに確認できた。
坊主さんは大きなビデオカメラを肩に担いでこちらを向いている。
何だよ、撮影してくれているんじゃ、みっともない弾き方できないな。
春美は?
いない……。
春美がいない……。
全身の力が抜け、その場へ倒れそうになる感覚。
景色がグニャリと歪む。
いつまでも探す訳にはいかず、動揺した自分を周りに悟られないよう仕方なく椅子に腰掛けた。
軽く深呼吸をする。
落ち着け。
弾く為にここへ来たんだろ。
鍵盤の上に指を滑らせる。
ペダルを軽く踏んでみる。
うん、いい感じだ。
静まりかえった会場の中、俺は静かに月の光を弾き始めた。
出だしのスローテンポな綺麗なメロディ。
最初はここからじゃなく、いきなり寂びの部分からってわがままを先生に言ったっけな。
こうしてじっくり聴きながら弾くと、最初の出だしの良さが分かる。
今までどれだけ弾いてきたと思っているんだ。
鍵盤を押さえる指、一つ一つを目でチェックする。
淡々とメロディは流れていく。
複数の音を重ねて弾く和音。
ズレがないよう丁寧に押すよう心掛けた。
春美、君はこの会場に来ているのかい……。
今、俺はこんな難しい曲を弾いているんだよ。
結構、頑張ったんだぜ。
寂びの部分に入る。
俺は左端のシャープの『ミ』と次の『ミ』に、左手の中指と親指を置く。
ここからだ。
ここが一番弾きたかった。
一瞬、目を閉じ、軽く息を吸う。
「ダァーン~……」
今まで頑張ったすべての想いを指先に集中し、感情を込めて弾いた。
鳴り響く重低音。
俺の指はダンサーになったかのように、鍵盤の上を軽やかに飛び跳ねる。
一番大好きで練習を重ねた部分だ。
グランドピアノは最高の音色を奏で、会場内奥まで鳴り響かせる。
ゾワッと全身に電撃が走り、鳥肌が立つ。
もう一人、自分が別にいて、後ろから弾いている姿を見ているような感覚を覚える。
誰かが優しく俺の肩をつかんでいるような気がした。
もの凄い快感。
俺は幸せだ……。
まだまだ曲は続く。
今までの反復練習を思い出し、次のメロディはこれ、その次はといった感じで一生懸命弾いた。
「……!」
一つ音を間違えた。
俺の耳がそれを教えてくれる。
慌てるな。
軽く息を吹きだす。
冷静に次の音へと繋ぐ。
もう中盤以上は、こなしたかな……。
まだ油断するなよ。
必死に自分に言い聞かせる。
うまい具合に、月の光は進む。
七つ目のパートに差し掛かる。
最初と似通ったメロディ。
指を押さえる部分が似ているだけ、かえってややこしい。
俺は余計な事を考え、音を外した。
すぐに正規の音を弾く。
「とちった……」
心の中で呟く。
小さかった焦りが、徐々に大きくなってくる。
落ち着け……。
頭の中が真っ白になる。
ヤバい……。
どうしたんだ?
早く思い出せ……。
指を止めちゃいけない。
焦りが自分の神経をおかしくさせる。
このまま中途半端な状態で、俺の発表会は終わっちゃうのかよ……。
あんなに練習したじゃねえか……。
「力を貸しましょう……」
そんな言葉が、頭の中で聞こえたような気がした。
肩から背中に掛けて、暖かい何かが体内に入ってくるような感覚。
止まっていた指が再び動き出す。
ワザとスローに弾き、演奏を止めたところをさり気なくカバーした。
うん、思い出してきたぞ。
大丈夫。
そのまま弾くんだ。
俺は必死に指を動かす。
あれだけやってきたんだ。
妙な自信が湧いてきた。
本来なら静かに微かに弾く部分。
俺は気にせず、感情を込め思い切り元気よく弾いた。
通常とは違う元気いっぱいの月の光。
これも俺らしいだろう。
すべての感情を噛みしめて鍵盤を叩きつけた。
気がつくと、月の光をすべて弾けていた。
頭がボーっとする。
ゆっくりと立ち上がり、観客席のほうへ向かう。
精神的な疲労感が全身を覆っている。
春美はどこだ?
俺の視線は観客席内のあちこちを見回している。
いない……。
彼女は来なかった……。
観客席すべての人が、俺に注目している。
俺の演奏を聴いてくれて、ありがとう……。
心から感謝を込めて、深々と一礼をしたかった。
だが俺は軽く会釈程度のお辞儀をして、すぐ会場から去る。
「パチパチ……」
拍手が聞こえてきた。
「バチバチバチバチ……」
俺って自分の為に、この曲を弾いたんだ……。
素直にそう感じる。
目頭が熱くなってきた。
こんな大勢の前で泣く訳にはいかない。
さっさと奥へ引っ込んだ。
あの月の光を俺は全部弾けた……。
自分で弾いておきながら不思議に感じた。
あんなに練習したのに、発表会の時が一番上手く弾けていたのだ。
結局、春美は発表会に来なかった。
でも気分はスッキリしていた。
春美が来なかったのは、俺の返事に対する答えだったのだろう。
悲しいが仕方がないと割り切れるしかない。
駄目なものは駄目なんだ……。
きっかけは春美にピアノを聴かせたいから始めた。
そんな想いから始まった俺のピアノ。
あの嵐のような拍手が俺に教えてくれた。
あの発表会に出場して本当に良かった。
俺は自分へ捧げる為にピアノを弾いてきたのだ。
誰の為でもない。
俺が俺の為に……。
こんな素晴らしい想いをできたのも、春美のおかげ。
それについて感謝しよう。
発表会を振り返ってみた。
途中で二度音を外し、よくあの状況から持ち直して最後まで弾けたものである。
自分でも感心してしまう。
後日、ピアノの先生から一枚の写真と音楽CDが届いた。
音楽CDは、俺が発表会で演奏した時の月の光が収録されたものだった。
いっぱいダビングして知り合いに配ろう。
それで自慢しまくってやる。
一枚の写真……。
それは俺がグランドピアノに向かって、月の光を弾いている姿だった。
俺ってこんなに格好良く弾いていたのかな……。
そう思うような写り方だった。

「んっ……!」
写真の頭の部分、変な光みたいなものが見える。

俺の頭から、まるで光の角が天井に向かって突き出ているような写真。
不思議な写真だった。
「私が力を貸しましょう……」
演奏中に頭の中で聞こえたあの言葉。
体内に何か暖かいものが入ってきたような不思議な感覚。
発表会の音楽CDをかける。
俺は自分の演奏した月の光を何度も繰り返し聴いた。
セレナーデ……。
親しい相手や賞賛する相手に対し、夕方指す演奏を指すと言う。
大抵は愛する女の為に音楽を演奏しながら捧げるという意味らしい。
春美の為に始めたこのセレナーデ。
こんなに頑張ったのに、彼女は分かってくれなかったなあ……。
うん、これで俺のピアノはおしまい。
だってあれだけ頑張ったけど、一人の女の心すら動かせないんだから。
いい加減女々しい真似はやめとけって……。
俺は膝を丸めて、静かに泣いた。
