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闇 32(物事の真相とピアノ月の光編)

闇 32(物事の真相とピアノ月の光編)

2024/09/ 29 mon
前回の章


夕方に北中が出勤してきて、倉庫へ行けと命じてくる。
正直こんな日常にもウンザリだった。

階段を上がり一階のフィールドのインターホンを鳴らす。
あの臭い倉庫へ行く前に、一息ついてからにしたかった。 

山本がドアを開け、中へ招き入れてくれる。
俺は北中の愚痴をこぼす。
どうも愚痴っぽくなりつつある自分。

「岩上さんの事、みんな可哀相にっていつも言っていますよ。あんな奴の下に、いつも一緒にいるじゃないですか」

別に同情されたい訳ではないが、山本の台詞が素直に嬉しかった。
いつも一緒にいるは語弊があるが、仮に四六時中一緒なら精神は持ちそうもない。

小説にも行き詰まり、春美からは相手にされない現状。
誰でもいいから話す事で、この辛さから逃げたかったのかもしれない。

「そういえばメロンって、十年以上もやっているらしいですね」

あんな杜撰でいい加減な体制なのに、よく今まで続いてきたものである。
俺がエクセルで在庫をまとめていなければ、未だアナログ的にせっせこと無駄な時間が掛かっていたはず。

組織が円滑化すればいいと思い、良かれとやった行為。
それなのに北中は、まるで感謝のかの字すらない。

「最初はあの倉庫にいる汚い人いるじゃないですか」
「汚い人…、随分な言い方しますね、山本さんも。野路さんの事ですか?」

「ええ、元々はあの人の店だったんですよ」
「え? 何ですか、それ?」

初耳だった。
メロンが野路の店?
今まで聞いた事すらなかった情報。

「俺も噂でしか聞いた事がありません。でも確かうちのオーナーの金子さんが言っていた事だから、本当だと思いますよ」

これから倉庫に行く。
ちょっとこれはどういう事なのか、野路自身にさり気なく聞いてみる必要がある。

俺はフィールドを出ると、倉庫へ向かう。
途中でビールを一ダース買い、バックの中へ入れておく。
山本の話を聞き、野路へ同情している自分がいた。

「お、今日も来てくれたんだ。じゃあ、飯に行ってくるかな」

野路は笑顔で外へ行く準備をしている。
一日の内でこの時間だけが、彼の楽しみなのだろうか。

ビールを渡す前にとっとと野路は外へ出ていく。
まあ彼が帰ってきてから聞けばいいか。
せっかく楽しみにしている飯をあえて不味くさせる必要なんてない。

ビデオのダビングをセットして、注文があると配達を済ませる。
ちょっと前までなら、ノートパソコンを開き小説を書いていた。
今の俺にはこれ以上無理がある。
勉強も何もしていない俺が、勢いだけで執筆などしたところで尻切れトンボで終わるだけ。

こんな腐った職場で日銭を稼ぐのが関の山。
三十二歳にもなって、ずっと中途半端なまま単調な日々を過ごしている。

裏ビデオ屋は、売り子も倉庫も単純な仕事内容。
慣れれば馬鹿でも務まるような職種だ。

俺はこのままどうしょうもない時間を送り、無駄に歳を取って人生が終わるのかな……。

そうだ。
買っておいたビールを冷蔵庫へ入れておかないと。

「……」

ドアを開けた瞬間絶句する。
寒いはずの冷蔵庫内には、ゴキブリが所狭しとウヨウヨいた。

そこへビールを入れてもし手に触れたら嫌だ。
仕方なくバックへビールを戻し、そっとドアを閉めた。

セブンスターに火をつけ、うろついているゴキブリがこっちに来ないよう煙を吹き掛ける。
二時間経ち、野路が帰ってきた。

「お疲れさま。もう店に戻ってもいいよ」
「一服してからじゃ、駄目ですか?」

「ん? 別に全然構わないよ」

俺は頃合いを見て、バックからビール一ダースを取り出す。
すっかりぬるくなっている。

「野路さん…、良かったらこれを」
「あれ、どうしたの?」

「いや、野路さんに飲んでもらおうかなって」
「何だよー…、何だか悪いなあ~」

顔をほころばせながら喜ぶ野路。

「ちょうど知り合いからビール券もらったんで。よかったらどうぞ」
「ありがとう」

話すにはいい頃合いだろう。

「ところで野路さん、ちょっと小耳に挟んだんですけど」
「ん、どうしたの?」

「いや、メロン、あれって野路さんの店なんですか?」

「……」

それまで笑顔だった野路が、急に黙りだす。

「野路さん、どうしたんですか?」

「あ、ああ……。確かにあの店は俺の店だったよ……」

彼の表情は暗い。
山本の話はやはり事実だったのか。

「じゃあ何で?」

「話すと長くなるんだけどさ……」

そう言いながら、野路は淡々と喋り出した。
まるで誰かに聞いてもらいたかったとでもいうように……。

十年前、野路は金を持っていた。
何故持っていたかまでは知らない。

今のメロンとさくら通りにもう一軒、そこの二店舗のオーナーだったらしい。
俺はちょうどその頃全日本プロレスを目指し、毎日トレーニングに励んでいる時期でもあった。

二年ほどして北中が、知り合いの紹介で売り子として入ってきたそうな。

「え、北中さんが始めは従業員だったんですか?」
「ああ、そうだよ。知り合いがちょっと使ってやってくれと紹介されてね」

この事実に俺はビックリした。
あの北中が始めはただの雇われだった。

従業員を信用し、店を任せっ放しの野路は、一ヶ月間は嫁さんのいるフィリピンで過ごす。
そして次の一ヶ月は日本でという優雅な暮らしをしていた。
北中が入って最初の一年間、店は順調だったらしい。

ちょうどそんな時だった。
野路と嫁さんの間に子供が生まれたのは。

その辺りから店の調子が急激に落ち始め、日本に帰ってくると北中は店が赤字だから、今月二十万補填してほしいと言ってきたそうだ。

人のいい野路は、人に任せていたという気持ちもあり、素直に言われた要求金を出す。
それから一ヶ月置きに戻る度、金を補填するようになり、気がついた時、野路の金が底を尽きていたらしい。

何かこの人って、性格が俺に似ていないか?
まるで過去自分が上手く利用され騙された時と、似たような話を聞かされている気分だった。

ある日北中が話を持ち掛けてくる。

「野路さん、こうなったらさくら通りの店は畳んで、俺と野路さんの二人で店を切り盛りしよう」

ピンチになった野路は、これまでの平和ボケから簡単に北中の話を鵜呑みにしてしまう。
それからだった北中の横暴ぶりが始まったのは……。

給料は二人とも二十万円ずつと固定し、売り上げが良かったら歩合で分け合う。
そう言った北中。

しかしここ数年間で歩合があったのは初めの一ヶ月のみで、それからは一切ないらしい。

北中の巧妙なところは、一年に一度だけ奴のポケットマネーでフィリピンへ二週間だけ行かせているというところだった。

そこまで話し終わると、野路さんは仕事中なのにビールを飲みだした。

「野路さん! まだ冷えてないじゃないですか」

一気飲みして次の缶へ手をつける野路。
余計な事を聞いてしまったかな……。

目の前にいる野路は、北中の毒牙に掛かった犠牲者なのだ。
しばらく言葉が出なかった。

俺はあんな腐った奴の下で働いていたのか……。

いつか北中は、これまでの報いを思い知る時がやってくるだろう。

いや、今の小説が完成したら、どんどん先の話まで書き上げ、いずれ北中の所業を絶対に書かなきゃいけない。
そしてそれを世に出さないと……。

しかし今、小説を書く事に限界を感じている俺。
怒りだけじゃ、小説を完成させる事は無理なのだ。

「野路さん……」

「あ、ごめんごめん…。いただくよ、ビール……」
「何言ってんですか! 野路さんにあげたものだから、好きに飲んで構いません。でも、冷蔵庫で冷やした方が美味しいはずですよ?」

「そ、そうだよね…。へへ、残りはまだまだあるから、冷やしとかなくちゃ」

「……」

煤けた猫背の後ろ姿。
この人は一体、何を楽しみに生きているのだろう?

完全に負け犬の目になっている野路。
目の前にドカッと座り、ビールをちびりちびり飲んでいる。

自分の店を北中のいいようにされ、金銭面でも雁字搦めに管理されて……。

向こうに嫁さんも子供もいるんだろ?
もうちょっとしっかりしろよ。
怒ればいいじゃないか。

「野路さん、悔しくないんすか? 北中さんにいいようにされて!」

俺がそう言うと、野路は下をうつむき、声を押し殺しながら泣いていた。

「……」

これ以上俺は、彼に対し何も言えなかった。

そろそろメロンへ戻らないといけない。
黙ったまま俺は、倉庫をあとにした。

店へ戻った俺を見て、北中は意気揚々と上のフィールドへ向かう。
またゲーム屋のINとOUTの差額を見比べて、金を抜ける台を打ちに行くのかよ。

いや、フィールドの従業員たちには申し訳ないが、今はこれで良かった。
野路から驚愕の事実を聞いたばかりの俺は、まともに北中の顔を見ながら笑顔で話をできる自信がなかったから。

ノートパソコンを開く。
ワードを起動。
キーボードへ右手を添える。

「これ以上どう書けって言うんだよ……」

完全なモチベーションの低下。
物事を何も考えたくなくなっていた。

時間になりメロンの仕事を終え、店を出る。

コマ劇場まで行くと、坊主さんが壁に寄り掛かりながらタバコを吸って待っている姿が見えた。

「坊主さん、すみません。今、仕事終わりました」
「お疲れ。じゃあ、漫画喫茶行こうか」

今日はパソコンのレッスン、どうも気が乗らない。

「坊主さん、その前に飯でもどうです? いつもこうして世話になっているんです。たまには俺に、ご馳走させて下さい」
「そういえばそうだね。毎回漫画喫茶でカップラーメン啜っているんじゃ、身体によくないか」

「焼肉でも行きましょうよ」
「いいね~」

俺たちは焼肉屋へ向かった。
ひと通り注文をして、最初に乾杯をする。

「どうよ、小説のほうは?」

坊主さんは現状を知らず、明るい声で聞いてきた。

「いや、それがですね……」

とてもじゃないが、原稿用紙三百枚なんて枚数を書くのは無理だった事。
百枚ちょっとは順調に進んでいたが、これ以上は無理だと心が折れ掛けている状況。
俺は息詰まっている現状を正直に伝えた。

すると坊主さんはポカーンとした表情になり「おまえ、何を言ってんだ?」と不思議そうにしている。

「だから、小説諦めようかなって」
「そうじゃなくてさ。何でそうなる訳?」

「だってとてもじゃないですけど、原稿用紙三百枚以上書くなんて無理ですよ……」

「…たく、本当におまえは馬鹿だな」
「ええ、どうせ馬鹿ですよ」

ヤケになっていた。
馬鹿というのは充分自覚している。
しかし面と向かって馬鹿と言われるのはイライラした。

「先週も智の書いた作品、途中までちょっと見たけどさ。おまえ、どれだけ自分が凄いか相変わらず分かってないんだな」
「どこが凄いんですか? 中途半端なだけじゃないですか」

「ちょっとパソコン出してみ」
「何でですか?」
「いいから」

そう言うと坊主さんは俺のバックを取り上げ、パソコンを取り出す。
俺の書いた題名のない小説を起動すると、何やら別にいじりだした。

「いいか、智。ワードにはほら、こうやって四百字詰め用のファイルもある訳ね」
「え?」

そう言って坊主さんは四百字詰め原稿用紙の型を画面に出した。

「おまえが今書いている形式っていうのはさ、四十掛ける四十なのね。ここまではいい?」

「はあ……」
「で、今までおまえが書いた文章を全文選択して、そんでもってコピーして…。この原稿用紙に貼り付けると……」

俺は画面を見ながら固まっていた。

原稿用紙ファイルにズラズラと並ぶ文字。
どんどん進むページ数。

二百九十三枚で止まる。

「分かった、龍一」
「え、これって」

「だからおまえが言っている原稿用紙三百枚って、何を基準にしてんのか知らないけどさ。今二百九十三ページまで智は書けている訳よ。どれだけ自分が意味不明な事を言っていたか分かる?」

「は、はい……」

涙が出そうだった。
焼肉の煙が目に入ったからじゃない。

今までやってきた事が、否定されていないという事実が分かったからだ。

「四十掛ける四十…。本当にビッチリ書いたら原稿用紙四枚分になるでしょ? 何でおまえはこんな単純な事に気がつかない訳?」

「……。本当にすみません…。本当に俺って大馬鹿ですよね……」

本当に俺は馬鹿だ。
痛感する。

自分で原稿用紙三百枚以上書こうと、ずっと寝る間も惜しんで頑張ってきた。
その通りにちゃんとできていたのだ……。

諦めちゃいけない。
諦めたらその時点ですべては終わる。

俺は何度も坊主さんにお礼を述べた。
食事を終えると、坊主さんは伝票を手に取る。

「ちょっと今日ぐらい俺が出しますよ」
「馬鹿野郎。俺のほうが二つも先輩なんだ」

「それは分かっています。でも俺、感謝してるんですよ。出させて下さい」
「いいよ、そんな気を使わなくて。それよりもこの作品が完成したら、俺に一番始めに見せろよな?」

「いえ、それは無理です。春美が一番目です」
「じゃあ、二番目でいいよ」

そう言って笑いながら、坊主さんは財布を取り出した。
俺はその後ろ姿に向かって深々と頭を下げた。

全日本プロレスのプロテストが駄目になった時も、坊主さんは部屋へ駆け付けてくれ俺を励ましてくれた過去が蘇る。

「智…、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」
「……」
坊主さんの言葉は正論すぎて、何一つ言い返せない。
あんな男とつるんでいたから、こうなってしまった。
「…で、全日はどうなったんだ?」
「……。馬場社長から来ないでいいって…、言われました……」
「これから合宿だろ?」
「……」
「行ってこいよ」
「だって…、来ないでいいって……」
言葉に詰まり大泣きした。
どのくらいそのままでいたのか分からない。
それでも坊主さんは黙って傍にいてくれた。
「もう…、死にたいですよ……」
「今、何て言った?」
「もう死にたいです! 何の価値もなくなりました……」
「……」
嗚咽を漏らしながらみっともなく突っ伏して泣く。
何度も泣きながら「死にたい」と連呼した。
「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」
「生きてどうしろって言うんですか!」
「ジャイアント馬場から来なくていいって言われたかもしれないけど、明日全日本の合宿所へ行け」
「無理ですよ!」
「いいから行ってこい」
「どうやって? どんな面して行くんですか?」
「死ぬつもりだったんだろ? だったら行ってから死ね。嫌なら生きろ」
「……」
その言葉はどんな崇高な言葉よりも心に突き刺さる。
俺は口で死にたいと言っているだけ。
それなら合宿所まで行く。
行ったあと死ねばいい。
どうせ死のうとまで腹を括ったのだ。
少しだけ光が見えたような気がした。
いや、光などでない。
門前払いを喰らい、ただ追い返されるだけなのが目に見えている。
それでも駄目元で…、全日本プロレスへ行ってみよう。
そこに一筋の光も無かったが、俺にはそれしかなかった。
再び大泣きする。
坊主さんは肩を力強くポンポンと二回叩く。

「……」

そう…、あの時背中を坊主さんが押してくれたからこそ、俺はあの時ジャンボ鶴田師匠と邂逅できたのだ。

レスラーはちょっとやそっとじゃ、へこたれちゃいけないだろ?
本当に俺はいつだって大馬鹿だ……。

漫画喫茶のカップルシートに座り、朝までパソコンの英才教育が始まる。
朝になり二人共フラフラになりながら外へ出た。

「もう、最近裕子の奴がうるさくてよー」
「え、裕子さんが? 何て言うんです?」

「俺と智が付き合っているんでしょって。本当あいつは馬鹿だ」
「まあそれだけ裕子さんに愛されている証拠じゃないですか」

「玲だって生まれて成長してんだから、少しは女じゃなく母親になれって感じだよ」

大笑いしながら坊主さんと別れる。
そんな不満を言いつつ、毎週俺にパソコンを教える時間だけは、ちゃんと裕子さんも了承しているじゃないかよ……。

そのままメロンへ行き、鍵を開けるとソファーへ寝転がり睡魔に包まれた。

久しぶりに夢を見る。
俺のただっ広い部屋で、ジャッキーチェンのビデオを観る夢。
俺と坊主さんが共に無職時代、よく二人で金を出し合って映画を観た。

俺が十九歳で坊主さんが二十一歳。
ジミードーナツへ行き、ミートソースを食べる。
タバコもお互いの金を合わせて買う。
いつも坊主さんは俺の吸うセブンスターでいいよと合わせてくれた。

血を分けた兄弟以上に仲良く、金の無い時期を一緒に過ごした。
台所へ行って米を炊き、冷蔵庫にあるあり合わせのもので料理して坊主さんへ食べさせた。
何度も叔母のピーちゃんに見つかり、泥棒呼ばわりされた。
それでも金が無いから食う為に仕方なかった。

坊主さんの就職が決まり、気が付けば新丸子へ住むようになっていた。
少しして今の奥さんである裕子さんと同棲も始めた。

何度か川越に裕子さんを連れてきて、紹介された俺はまるで弟のように可愛がってもらい楽しい時間を過ごした。

目を覚ましても、夢の内容は覚えていた。
俺は本当にいい先輩を持ったものだ。
そして坊主さんは、本当にいい奥さんをもらったものだ。

時間になりメロンの看板を外へ出しに行く。
さて、小説の続きを一気にやってしまうかな。

階段を降りる足音が聞こえてくる。
珍しいな、こんな早い時間から客なんて。

何故か昼間なのに、遅番の小泉がメロンへやってきた。
彼がここに来るなんて非常に珍しい。
どうもこの店が開くのを待っていたようだ。

「どうしたんですか、小泉さん」

「いや、ちょっと話がありまして……」

やけに神妙な様子の小泉。

「どうしました? 俺でよければ聞きますよ」
「ありがとうございます」

彼の事情を聞いてみる。
こんな時閑古鳥が鳴くメロンは都合のいい場所だ。

店長でありながら名義人でもある小泉。
オーナーの金子さんは、当初彼にこう言ったそうな。

「いいか、良平。おまえはまだ若いし、独身だ。名義料は給料とは別に二十万払う。だけどな、名義料の二十万はおまえ専用の口座を作っておくから、そこに俺が毎月積み立てておく。通帳だけは渡しておくよ。じゃないと金を渡せば、みんな使ってしまうだろうからな。で、店が辞める時、もしくは警察にパクられた時に、初めておまえに名義料は渡す。それでいいな?」

通帳は小泉で、判子とキャッシュカードは金子が管理。
中々いい話である。
裏稼業では聞いた事がない。

北中と先日フィリピンへ行った小泉。
ここで状況が少し変化する。

それまで真面目に貯金をしてきたのにフィリピンの女にハマった小泉は、金を使い果たしたようだ。

「それで今まで確認した事なかったんですけど、俺の口座を見てみたんです」
「これまでの名義料が振り込まれている通帳ですよね?」

「はい、二年分。だから最低でも二百四十万円はあるはずなのに、一円しかなかったんです……」
「はあ?」

考えられる事はただ一つ。
オーナーの金子が、小泉の金を使い込んでしまったという事しか考えられなかった。
まったくどいつもコイツも……。

「岩上さん、これって……」
「小泉さん! とりあえず直に金子さんへ聞く事ですよ。じゃないと何も真偽が分からないじゃないですか? ひょっとしたら口座を移しただけかもしれないし」

俺が言っている台詞は、ただの気休めに過ぎない。
小泉名義の金を他の口座へ黙って移す意味合いなどどこにもなかった。

「はあ…、そうしてみます……」

小泉は肩をガックリと落としながら、階段を上がっていく。
可哀想だが、話を聞いてあげるぐらいしか俺にはできない。

彼を見送るとノートパソコンを開き、小説を書き始める。
終盤の鳴戸が岩崎の抜きに気付き、容赦なく殴るシーンを書く。
同時に頭に浮かんだ光景を忘れない内に、フォトショップを起動して絵を描いた。

あの時の鳴戸の恐ろしさ。
俺に容赦なく拳で殴りつけた時の鳴戸ではない。
出会った頃、ニコニコ笑いながら従業員の頭を灰皿で叩き割った頃の鳴戸を思い出せ。

キーボードを打つ指先に、力を込める。
魂を文字へ入魂させろ。


 店に向かう途中で、俺は泉に一刻も早く電話を掛けたくなった。
 泉はどんな反応をするだろうか…。
 そう思うと、携帯のボタンを押す勇気が出てこない。一度は壊れた仲なんだから、もう恐れるな……。
 自分に言い聞かせる。
 覚悟を決めて携帯のダイヤルを押す。しかし、いくら鳴らしても出てくれない。無視されているのだろうか?
 あれだけの罵詈雑音を言ったのだ。当然の結果かもしれない。
 もうあまり時間がない。泉と連絡をとるのは諦め、店に向かうことにした。
 店はそこそこ混んでいた。小倉さんが来ていた。
 新堂と田中は忙しそうにINをしている。キッチンに行くと、岩崎が着替えていた。
「おはようございます。今日は客、そうそうたるメンバーですね。気合入れてやらないといけませんね」
「おはようございます。はい、頑張ります」
 会話するのも嫌なぐらい薄気味悪いホモ野郎だったが、そう感じる暇がないぐらい店は忙しかった。
 でもその方が、気が紛れていい。すぐに俺は着替え始める。
 岩崎のねっとりした視線が、俺の下半身に集中しているのに気付き、鳥肌がたつ。また俺のをくわえたいなどと、馬鹿なことを言い出すんじゃないかとハラハラする。
 逃げるようにしてホールに出ると、真っ先に小倉さんの座る台へ向かう。
「お疲れさまです」
「んっ…、おぉ、おはよう。赤崎君が来るってことは、もうこんな時間かー……」
「何時ぐらいから、いらしてたんですか?」
「夜の二時ぐらいかな。フォッフォッ…、今日は調子いいよ」
 小倉さんはとっても元気なおじいちゃんだ。話していて自然に顔の表情がほころぶ。
「じゃー、勝ってますか?たまには本当、持っていって下さいね」
「いやー、一晩中遊んで、勝って帰るんじゃ、申し訳ないよ」
「そんなことないですよ。頑張って下さいね」
 八卓は席が埋まっている。今日は客層がバシバシ叩く客ばかりなので忙しい。必然的にINを入れる回数が多くなるからだ。店側にとって、嬉しい悲鳴ではある。
 一人の客が俺の方を見ている。視線を感じ、振り返ると新宿プリンスの江島さんが三卓に座っていた。俺はニコニコしながら近付き、この間のお礼を言う。
「この間は本当にご馳走さまでした。とてもおいしかったです」
「いえいえ、そんなことないですよ」
岩崎も近付いてきて、江島と話をし始める。俺はさり気なく岩崎のそばから離れ、仕事に精を出すことにする。
 客はひっきりなしにINを入れるから、こっちは大忙しだった。あっという間に時間は過ぎていく。
 小倉さんが五万のビンゴをゲットして、集中力の切れた客からキリのいいところで帰り始める。小倉さんはまだやりたそうだったが、時計を見てボソボソと口を開く。
「そろそろうちのが怒っている時間だなー…。じゃー、今日は勝たせてもらうね」
 口をモゴモゴさせながら帰っていく。
 また一人また一人と客は帰り、夕方近くには客が切れた状態になった。

 俺と岩崎の二人だけになる。嫌な感じだ。
「赤崎さん。これ……」
 岩崎は三万を出してくる。俺は会釈だけして、それを受け取り財布にしまう。
「まだこの間のこと、気にしてるんですか?」
「え…、いや、あのーその……」
 いきなり言われると、何て答えていいか困る。
「もうあんなことしませんから安心して下さいよ。嫌がってる人に自分の性癖を押し付けても、さらに嫌われるだけですしね」
 そう言って岩崎はこっちを見てニヤリと笑う。気持ち悪かった。思わずこの場から逃げ出したくなる。
「大丈夫ですって、それよりも鳴戸さんや水野さん…。赤崎さんに色々聞いてきてませんか?以前よりも気のせいか、チェックが厳しくなっているような感じするんですよね」
「最初の頃、確かに色々聞かれましたよ。何か変なことあったらこっちに教えてくれって。でも、もちろん言うつもりないし、裏切ったりしませんよ」
 岩崎は俺の台詞を聞いて、いやらしい笑いを浮かべる。こんな気持ち悪いホモ野郎を庇うのは癪だが、それでも俺に毎回金をくれる貴重な存在でもあった。仕方がない。
 ピンポーン……。
 モニターを見ると鳴戸だった。俺はドアを開けて挨拶する。
「お疲れ様です……」
 鳴戸は俺に見向きもせず、真っ直ぐ岩崎の方へ向かっていく。表情は通常のままだが、変な違和感を覚えた。岩崎がいつもの調子で、今日の営業の状況を話す。
「あっ、お疲れさまです。さっきまで忙しかったのですが、今のとこ…、グッ……」

 ズダンッ!

 派手な音がする。岩崎の座っている椅子が、岩崎ごと真後ろにすごい音を立ててひっくり返る。
 何が起きたんだと思う前に、鳴戸が岩崎の腹の上に足を乗せた。まったく動けなくなる岩崎。
 鳴戸の視界には、俺などまったく入っていないようだ。甲高い怒鳴り声が響き渡る。
「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」
 鳴戸の表情は変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力がある。聞いているだけで、身がすくむ。
 まさか、売り上げから金を抜いているのがバレたのか……。
 俺にはそれ以外、考えつかない……。
 仰向けになっている岩崎のあごに、鳴戸は容赦なくつま先で蹴りをぶち込む。ゴツッと鈍い嫌な音が部屋に響く。
 普通の神経じゃ出来ない芸当だ。
 岩崎はあごを両手で押さえ、もがき苦しんでいる。指と指の間から、すごい量の血があふれ出していた。
「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ?立てよ!」
 またもあごに思いきり蹴りを入れる。岩崎の顔が一瞬、上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。
 鳴戸はゴロゴロ転げ回る岩崎の髪の毛を情け容赦なくワシ掴みにすると、強引に立たせようとしている。
 俺は目の前の光景を見て、何も出来ず、一歩も動けないでいた。
「立てよー、おいっ!私は立ちなさいと言ってるんですよ!」
 鳴戸が俺の方を急に振り向く。身動き一つ出来ない。まるで蛇に睨まれたカエルだ……。
 細胞の一つ一つが恐怖を感じている。
「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」
 何て答えたらいいのか、頭が真っ白になる。岩崎がゲーム台に手を掛け立ち上がろうとしていた。思わず目が行く。
 岩崎は俺をジッと見ていた。酷い出血だった。鼻から下が血で真っ赤になり、口の形すら見分けがつかない状況だ……。
「……!」
 岩崎が、白い歯を一瞬だけ見せ、確かにウインクした。
 俺に話すなとでも、合図したのか……。
「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」
 鳴戸が目を剥いて俺を睨みつけてくる。こんな恐ろしい顔を初めて見た。
 さっきの岩崎の合図というかウインクを見て、何も喋れないでいる……。
 でも、何かしら言わないと鳴戸は、俺に向かってくることだけは確かだ。何でもいい。とにかく口を開け。
「い…、いえ……」
「本当ですね?」
「は、はいっ!」
「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」
 鳴戸はそう言うと財布から二万円出して、俺に渡す。俺はガタガタ震えながら、日払い分の給料を受け取る。
「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」 
 鳴戸はもう俺に興味をなくしたのか、岩崎に振り向く。そのまま岩崎の体をところ構わずメチャクチャに蹴り出した。あれだけ無抵抗の人間に、まったく遠慮せず、蹴りをぶち込める人間を初めて見た。
 急いで着替えようとするが、指が震えてなかなかボタンがしめられない。やっとの思いで俺は着替え終わり、店を出ようとする。ドアノブに手を掛けてから、恐る恐る岩崎の方を振り返る。俺だけ助かって済まない思いでいっぱいだった……。
「……!」
 今、岩崎は、確かに優しく頷き、一瞬だけだが、俺と目を合わせた。

《それでいいんですよ、赤崎さん……》

 原形が分からなくなるほど、顔がグチャグチャになっているのに、岩崎が、そう訴えた気がした。
 何故、俺を庇うのか分からなかった。岩崎の誘いを断り、忌み嫌った。『赤崎も抜いた』と言えば、鳴戸の攻撃はこちらに来るのに……。
 どうして……?
 不思議でたまらなかった。
 岩崎の顔は、アザと血でメチャクチャになっている。それでも鳴戸はまだ、攻撃をやめない……。
「おいっ、赤崎ー、帰れって言ったの、聞こえなかったのですかー?」
「し、失礼します!」
岩崎はぐったりしていて、意識をなくした様子だった。
 俺は自分の身の可愛さに、慌てて店を出る。結局のところ、俺もクズ野郎と変わらなかった……。

新宿クレッシェンド 鳴戸暴行シーン

 歌舞伎町のおぞましい光景。
 以前見たテレビでこの街を映し出していたが、俺が見た限り、その番組は大袈裟だった。本当の怖さは、世間一般じゃ知らない場所で静かに行われているというところなのだ。
 抜きがバレた時の恐怖……。
 哀れにも顔面をグチャグチャにされている岩崎。
 まだ彼は、鳴戸にやられているのだろうか?
 このことを誰かに言ったところで、「店の金を抜いていたんでしょ?じゃあ、しょうがないんじゃない」と軽い言葉が返ってくるだけだろう。
 ただ単に店の売り上げから、金をちょろまかした従業員に、オーナー自らが制裁を加えているだけとしか捉えてくれない。
 この街では真面目に生きるだけで、いやそう見えるだけで一つの武器になる。それだけここには悪い人間が多くはびこっているのだろう。すでに、俺もその中の一人だ。
 岩崎は一体、どうなるのだろうか……。
 狭いゲーム屋から開放されたからか、全身から汗がドッと吹き出す。
 岩崎がどうなったのかを考えていたら、気付くと家の前にいた。
 考えたところで、何ができよう……。
 自分の身を案じ、その場から逃げただけの俺。卑怯で臆病者。
 疲れた……。
 非常に疲れが溜まっている。
 今、何時ぐらいだろう。
 携帯を見ると、沢山、泉からの着信履歴があった。着信拒否を解くのを忘れていた。でも、今は泉のことまで考える余裕がない。
 携帯を投げ出し、布団の上に横になる。自分が本当に何者でもない無力な弱者だと、痛感した。あんなになってまで俺を庇った岩崎の心理状態が、理解できなかった。
 ホモで俺を求め、気に入っていたからなのか……。
 あの最後に見た岩崎の目は、俺の安全を確認できて良かったといった感じの目つきだった。
 その心境は、永遠に俺には理解できないだろう、そんな気がする。
 結局のところ、俺はホモの岩崎に救われたのだ……。
 俺は明日、またあそこへ行かなければ…、出勤しなければならないのか……。
 俺一人がダークネスに行って、何ができるというのだろうか?
 急に吐き気を催し、トイレに駆け込む。胃の中にあった物を全部吐き出したが、まだ何か残っているみたいだ。
 ここ数日で、色々な出来事が起こり過ぎた。精神的に参っていた。まるで悪夢の中にいるみたいだった……。
 頭が痛い。
 傷も疼きだしてくる。
 今朝、遠藤からもらった頭痛薬を飲んでみる。目を閉じて横になっていても、痛みが消えることはなかった。



「フー……」

ここまで一気に書いて、大きく息を吹き出す。

多分この書き方で…、いいはずだ……。

ゆっくり空気を吸い込む。
初めて小説を書く俺に、文章に魂か宿ったかなんて分からない。
それでもあと少しで、この物語を書き終える事ができる。

メロンに客が来店。
一時ここで執筆を中断し談笑した。

内心続きを書きたくて堪らない。
早くこの人帰ってくれないかなと思った。

二千四年の一月十八日からこの作品を書き始め、ようやく一つの物語を書き切れそうな感覚。
客が帰ると貪欲にパソコンへ食らいつき、一気呵成にキーボードを打つ。

マラソンでゴールが見えた時の最後のひと踏ん張りに近い状況。
もう少し…、あとちょっと……。

「終わったあ……」

背もたれに身体を預け、両腕をだらんと垂らす。

小説を書き始めてから十八日目。
とうとう作品は完成した。

何ともいえない達成感。
とにかく気持ちが良かった。

精も根も尽き果てるとは、こういう事を現すのか?
時間の感覚も何もかも忘れ、文字の世界へのめり込んだ。

あ、そうだ。
坊主さんに教わった方法で、枚数をチェックしないと……。

原稿用紙で三百七十一枚の表記。
何だよ、俺ちゃっかり書けてんじゃん……。

うっすらと目に涙が滲む。
これって何の涙なんだろう?

結局物語を書き終えても、未だ題名は決まっていない。
さて、俺が生み出した初めての作品。
この処女作に、何て名前をつけようか?

歌舞伎町の入門編として書いた。
だから本来書きたかった事の百分の一も書いていない。
プロレスの試合でいえば、逆水平チョップとドロップキックしか使わないと決めて書いたような作品である。

それでも自分の過去を入れたこの処女作は、とても大事な宝物に見えた。
自身の手でこの世に生み出した名無しの小説。
つまり俺にとっての長男。

明日から連休なので、いい区切りになったものだ。
平沢ビルの入口の写真を撮る。
深い意味はないが、この場所で俺は初めて小説を書いたのだという記録を残しておきたかったのかもしれない。

2004/02/04 新宿歌舞伎町 平沢第一ビル

家に帰ると、本として読める形にしたい為、A4の用紙へプリントアウトする。

タイトルは歌舞伎町何々という題名がいいか?
いや、よく考えろ。

俺は地元の人間に言う時、いつも歌舞伎町ではなく新宿という言い方をしてきた。
だとすれば最初は『新宿』とつけたい。

問題は、そのあとに続く名前をどうするかである。

春美という存在があったから、俺はめげずに最後までやり遂げる事ができた。
目に見えないところでも格好を常につけていたかったのだ。
例えそれが意味のない事だとしても……。

彼女から連想するのは当然ピアノ。
ザナルカンドを聴かせたいが為に、ピアノを始めたのだ。

まず自分がピアノを弾いている写真をモチーフに、絵を描いてみよう。

坊主さんから教わったスキルの一つ。
プロのデザイナーも使用するアプリケーションソフトのフォトショップを起動する。

幻想的な感じの扉絵にしたい。
まず俺がピアノを弾く写真を中で展開し、別に新規レイヤーを作る。
写真の透明度を半分まで落とし、じっくりマウスで輪郭を描いていく。
部分的に拡大してちょっとずつ丁寧に……。

輪郭ができると俺は色をつけていく。
濃い色でなく薄い色を何度も重ね合わせるように少しずつ塗っていく。
面倒な作業だった。

しかし自分で書いた小説の扉絵でさえも、俺は自分で描きたい。

元の写真に歪みを使って、様々な形に歪ませる。
俺は六時間掛けて丁重に絵を描いた。

初期新宿クレッシェンド扉絵デザイン

あとは、この上に乗せるタイトルをどうするか。
何にする?

いいアイデアが思い浮かばなかった。
たまにはピアノを弾いてみよう……。

ザナルカンドを弾く。
これまで数え切れないぐらい弾いてきたので、スムーズに演奏できた。

まだ途中だけど、月の光も弾こう。

「……」

駄目だ。
ザナルカンドほどの情熱を持って接していなかったせいか、途中で演奏をつっかえてしまう。

あれからピアノの先生に、連絡をしていないな……。

俺が悪かったのだ。
潔く謝ろう。

久しぶりに『くっきぃず』へ寄ってみる事に決める。
しかし何て謝ればいい?
途中で考え込んでしまう俺。

そのまま通り過ぎて、本川越駅手前にある行きつけのスイートキャデラックへと向かう。
土壇場で臆病なところは、昔から変わらない俺。

「いらっしゃいませ」

寡黙なマスターが静かにボトルを目の前に置く。
グレンリベット十二年のボトルを眺め、今までの様々な事を思い出してみた。

いつも辛い時や悲しい時、グレンリベットは無言で傍にいてくれる。
愚痴をこぼす相手もいない。
俺はショットグラスに酒を注ぎ、語りかけてみた。

「小説を書いてみたんだ。でも惚れた女には相手にされず、ピアノの先生にも呆れられ…。俺って馬鹿だよな……」

「……」

「相変わらず無口な奴だな…。まあいいや、おまえが俺の事を一番分かってくれる」

緑色のボトルに光が当たり、綺麗に反射している。
俺はグレンリベットを手に取り、じっくりと眺めた。
ボトルにジャズバーの一部が映る。
そこにはピアノが映っていた。

「分かったよ。辛い時はピアノを弾け…。そう、言いたいんだろ?」

グラスの酒を一気に飲み干すと、俺はマスターに声を掛け、一心不乱にピアノを弾く。
帰り道『くっきぃず』へ寄ろうとしたら、もう帰ってしまったのかシャッターが閉まっていた。

昨日は飲み過ぎたなあ。
おじいちゃんに起こされ、新聞を取ってくるように言われる。

気怠い身体を起こし、一階へ降りる。
今日が休みで良かった。
眠い目をこすりながら、郵便受けに新聞を取りに行く。

「ん……?」

新聞の下に一枚の封筒があった。
宛名は俺。
送り主は『くっきぃず』からだった。
先生は何故こんな近くなのに、わざわざこんなものを……。

急いで封を破る。

『第八回 くっきぃずピアノ発表会 出場のお知らせ』

中に入っていた一枚の便箋。
見出しにはそう書いてある。

続けて先生の手書きで、文章が書いてあった。

『久しぶりね、岩上君。元気でお過ごしでしょうか? 今度の発表会、あなたにはぜひ、出てほしいわ。月の光、あとちょっとでしょ。もう一ヶ月ないんだから、早く顔を出しなさい。待ってますよ。 斎藤弥生』

先生は俺を見捨てた訳じゃなかった。
勝手に俺が勘違いをしていただけ。

まだこんな俺を必要としてくれているのか?
まだ価値があるのか?

月の光だってすべて完成した訳ではない。
発表会だって、もう三週間後だ。

それでも先生の気持ちが嬉しかった。

どす黒く濁っていた心に、美しい光が差し込んだような気がする。
春美に聴かせる為でなく、今度は自分自身の為……。

やってみるか……。

それから今後を考えよう。
少しだけ希望を持てた。
たった一通の手紙で相変わらず単純だな、俺は……。

久しぶりに、『くっきぃず』へ行く。
中に入るなり誠心誠意頭を下げた。
俺が悪かったのだから、必死に謝るしかない。

「何してんの、そんなところで。早くこっちいらっしゃいよ」

先生はいつもと変わらなかった。
優しい笑顔で俺を出迎えてくれる。

「先生、俺、発表会に月の光、間に合いますか?」
「大丈夫です」

「だって……」
「私の教え子でしょ? 自信を持ちなさい。あなたはザナルカンドをたった四回のレッスンで完成させたのよ。発表会まであと少し、頑張りましょう」

「はい……」

今までのおさらいとして、最初からピアノを弾く。
先生はうんうんと満足そうに首を振りながら楽しそうに見ている。

「あなた、本当にサボらず頑張っていたのね」

音を聴いただけで分かってくれるなんて、さすが俺の師匠だ。

「先生、一つ質問が」
「何でしょう?」

「ピアノの語源で、だんだん早くとか強くって意味合いの言葉ありますか?」
「ありますよ。アッチェレランド。もしくはクレッシェンド」

新宿アッチェレランド……。

いまいち語呂が悪い。

新宿クレッシェンド……。

「これだっ!」

思わずピンと来て、俺は大声を上げていた。

「ど、どうしたの、岩上君? いきなり……」
「いや、あのですね。実はレッスンに来ない間、小説を書いていましてね……」

俺はこれまでの事を先生に説明した。

印刷して自作した新宿クレッシェンド

「そう、小説を書いていたんだ? あなた、本当に色々できるのね」

感心したように先生は言ってくれるが、たまたまである。

印刷して自作した新宿クレッシェンド

「いえいえ、周りのサポートがあってこそです。先生のおかげで俺はピアノを弾けるようになり、小説のタイトルもたった今『新宿クレッシェンド』と決める事ができました。多分、これ以外ピッタリくるものはないと感じます」
「そう、そう言ってもらえると嬉しいわ。じゃあ、続きをやりましょうか?」

残りの部分を教わる。
俺が思うに、月の光は段階の違うパートみたいなものが八つある。

七つ目は一番初めを少しアレンジしたような感じだった。
音符の読めない俺は、暗記というシンプルな方法で演奏をするしかない。

それぞれの各パートに分けとにかく弾き続けた。
個別に暗記していくしか方法はない。

指で鍵盤の叩く位置を記憶し、目で確認する。
耳で記憶した音を確かめる。

六つ目までのパートは、ずっと弾いていたのでゲップが出るくらい記憶していた。
あとは七つ目と八つ目のみ……。

先生はレッスン料を今回受け取ってくれなかった。
俺は必死に食い下がる。

「あのね、前回月謝でレッスン料をもらったでしょ? 月で四回あるのに、岩上君は三回しか来てなかったのよ。だから今回はいいの」

「だって先生、それは俺が勝手に……」
「じゃあ、これからはきちんとレッスンに来て。あなたなら頑張れば、月の光がちゃんと弾けるから」

「ありがとうございます……」

それしか言葉が出なかった。
先生の恩情を無駄にはできない。
俺は月の光を完成させよう。

不肖の弟子が、ようやく恩返しできるかもしれない。
先生の恩に報いたかった。

発表会までの間、俺はひたすら五感を研ぎ澄ます。

部屋に帰ると返事など来ないのを承知で、春美へメールを打ってみた。

女々しく未練タラタラな俺。
しょうがない。
だってまだ彼女の事が好きなんだから。

この事実を彼女へ伝えたかったのだ。

『九月二十一日の日曜日…。市民会館山吹ホールにて、俺のピアノ発表会出場が決まりました。午後四時から開始します。君の為に始めたピアノが、こんな調子になりました。不思議なものですね。 岩上智一郎』

メールを送ると、そのまま横になる。

今の俺にはピアノしかない。
発表会を済ませてからゆっくり考えればいいさ。

自然と深い眠りにおちた。






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