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【闇シリーズ⑦】28~31(月の光と新宿クレッシェンド)

2026/07/27 mon
※闇28~31を一気にまとめました


闇 28(日本一汚い倉庫編)

翌日眠い目をこすりながら店に着くと、北中が散らかしたままのテーブルの上を掃除する事から俺の仕事は始まる。
北中は掃除というものをまったくと言っていいほどしない。
しかしこれが俺の現状なのだ。

先の事を何も考えずに遊び惚け、あれほどあった金をただ目減りさせただけの自分。
一からやり直す為には、こうした作業も甘んじて受け、修行の一環として頑張らねばねらない。

客のいない時間を利用して店のファイルを眺め、ビデオの種類を覚えるよう心掛ける。
ビデオの仕事さえ覚えてしまえば、あとは俺のパソコンタイムだ。
昔のゲームを遊ぶだけでなく、色々な事をできるようになっておきたい。

階段を降りる音が聞こえる。
客か。

俺は入口を見ると、シンシンがメロンへ入ってきた。
女性がここへ来る事なんてまずないので驚く。
この裏ビデオ屋は、いわば女性が生理的に嫌悪する男だけの聖域に近いものがあった。

「岩上さん、お願いある。いいか?」
「何でしょう?」

シンシンはセカンドバックから封筒を出し、テーブルの上に置く。
中身を見ると、婚姻届の保証人の名前を書く書類だった。

「パパと私、結婚する。でも保証人二人必要。一人、岩上さん頼む。いいか?」

「ちょ、ちょっといきなり過ぎますって」
「大丈夫。この書類、名前書けばいいだけ」

「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
「いつになったら書く?」

何で保証人をお願いされているのに、こんな催促されるような言い方をされなきゃいけないのだ。

「待って下さいって。少し考える時間を下さいよ」
「分かった。また来る」

そう言って彼女はメロンをあとにした。
シンシンという名前しか分からないのに、何で俺が保証人にならなきゃいけなんだ?

新しい客が入ってくる。
俺は客の対応をしながら仕事をする事にした。

毎日こんな事をしていると、必然的にビデオの種類を覚えてくるものである。
出前を頼み食事を済ませると、北中が店に来た。

「あの北中さん。先ほどシンシンさんが来まして、結婚の保証人がどうとか……」
「ああ、あれか。じゃあ、名前書いとけ」

何なんだ、この言いようは?
自分たちの結婚なのに、何故俺が引きずり込まれ、こんな言われ方をされるのか。
常識がないにも程がある。
それに北中自身の結婚に関する事を言っているのに、どこか面倒臭そうに感じた。

「今日から岩上は、倉庫へ行ってくれ」
「え、俺が倉庫ですか?」

「たまには倉庫の野路さんをゆっくり食事でもさせてやるだよ」

野路という名前なのか。
あの倉庫の無愛想な人は……。

「食事って、一時的にって事ですか?」
「もちろんそうだよ。俺が店にいるから岩上は倉庫に行って、その間野路さんを食事へ行かせるだけだよ」

「でも、倉庫の場所…。自分は分からないですが……」
「ちょっと待ってろ。今、野路さんに電話してこっちに呼ぶから、倉庫の場所を教えてもらえ」

頭の中で想像してみた。

店だけで六百種類ぐらいのビデオやDVDがあるのだ。
倉庫はストックもあるはずだから、二千本ぐらいビデオがズラッと並んでいるかもしれない。

もし俺が倉庫にいる時に電話があったとして、注文したビデオを探す事ができるだろうか?
つい、妙な不安をしてしまう。

「だ、大丈夫ですかね? 自分なんかが倉庫で……」
「大丈夫だよ。野路さんにビデオの置いてある場所とか説明させてから食事に行かせるから。なあに、簡単な仕事だ」

「はあ……」

階段を「はぁはぁ」と野路が駆け下りてきた。

「野路さん、食事ゆっくりしてくればいいだよ。その間、岩上に倉庫をやってもらう事にしたから。今日だけ岩上に、倉庫の仕事を教えてから食事に行ってくれ」
「ああ、そう」

オーナーである北中に対してもタメ口の野路。
この人は言葉遣いというものを少しは勉強したほうがいいのではないだろうか。

そんな訳で俺は、これから野路と倉庫へ向かう事になった。


ビデオ屋メロンを出て、花道通りを風林会館方面へ向かって真っ直ぐ歩くと、一軒の古いマンションがある。
一階は古そうな造りのラーメン屋。

倉庫はその四階の一室にあった。
野路がドアを開けた瞬間、俺は目を丸くした。

「……」

鼻が曲がりそうな何ともいえない腐った臭い。
口で吸っても味がしそうな臭いである。
そんな悪臭が鼻をつく。

倉庫は玄関先から、とてつもなく散らかっていた。

「早く上がりなよ」

入口で上がるのを躊躇っている俺に、野路は声を掛けてきた。
俺は一瞬だけ外に出て、目一杯息を吸い込んだ。
こんな事をしても、しばらく倉庫の中にいるようだから無意味なのは分かっていたが、それでも新鮮な外の空気を吸いたかった。

入ってすぐキッチンがある。
まずビックリしたのが、ガスコンロに出しっ放しのフライパン。
よく見ると、ゴキブリの死骸が何匹かいた。

ゾゾッと鳥肌が立つ。

「何か飲むかい? コーヒーなら冷蔵庫にあるから、勝手に飲んで」
「ありがとうございます」

思ったより野路はいい人なのかもしれない。
喉の乾きを覚えていたので冷蔵庫を開けた。

「ゲッ……」

季節は冬。
この時期にゴキブリなど普通は出ない。

それが倉庫の冷蔵庫には、ウジャウジャとゴキブリが徘徊していた。
缶コーヒーの口をつけるタブのところにも、構わず動き回っている。

さすがに水で洗っても口をつける気はしない……。

「遠慮しないで飲みなよ」

「あ、今、喉乾いてないから大丈夫です……」

野路は何も気にせず、このコーヒーを飲んでいるのか?
そういえばDVDやビデオをメロンに持ってくる時、いつも客用に買ってあるコーヒーを持っていく。

…という事は、普通に飲んでいるという事なのだ。

大丈夫なのか、この人は……。

倉庫の部屋は十畳一間で、壁に沿って棚がズラッと置いてある。
一つ一つの棚には、各ジャンル別にビデオが並べられてあった。

「一番右の棚から『和物』ね。タイトルで、あいうえお順に並んでいるから。次が『熟女』、『盗撮』、『SM』、『スカトロ』ね。『レイプ』は『和物』と同じにしてある」

「……」

何を言っているのか、さっぱり分からない。
野路さんは構わず話を進め、「最後が『洋物』だから」と言って食事へ行ってしまった。

部屋の中にはテレビが二台と、ビデオデッキが全部で九台置いてある。
ひょっとしてこんな小汚い環境で、あの裏ビデオのダビングでもしているのだろうか?

それにしても臭い部屋だ。
ボロボロの絨毯の上には、ゴキブリが我が物顔で歩き回っている。

とてもじゃないが、地面に腰掛ける気になれない。
かといってそのまま立っている訳にもいかない。

部屋に転がっているダンボールの一つを潰し、座布団代わりにして腰掛けた。

携帯の電池が少なくなっていたので充電をしようとビデオデッキで一杯の蛸足に、コンセントを挿そうとした時だった。
絨毯の汚れと思っていた黒いものが、一斉にサササと動く。

「うわっ!」

思わず出る叫び声。
黒い汚れ……。

それはゴキブリの塊だった。
蛸足のコンセントに籠もった熱で、温まっていたのだろう。

野路という人間は、どんな生活をしているのか……。

尿意を感じトイレへ向かう。

床にゴキブリがいないか注意しながら、常に慎重に一歩一歩進む。
トイレの中へ入ると、思わず鼻を押さえてしまう。
ムワッとする物凄い臭いだった。

手探りで電気をつける。

「ゲッ……!」

中はユニットバスになっており、左手にトイレ、右手が浴槽になっていた。
手を洗うはずの洗面器の上は、漫画本が積み重ねられている。

異臭を放つ元は便器だった。
水の溜まる部分はこげ茶色に染まり、掃除をまったくしていないのか便が固まってついたままである。

そして尻をつく部分のカバーの片側は、何故かガムテープでグルグルに巻かれている。
カバーが折れるなんて聞いた事もないが、実際に折れたからこその処置なんだろう。

浴槽を覗いてみると、普段使っているという気配がない。
底は黒い細かいものがまばらにある。
ひょっとしてゴキブリの糞だろうか?

駄目だ……。

これ以上、ここにいると気が狂う……。

俺は一度倉庫から出る事にした。
ドアを開けた瞬間、心地良い新鮮な空気が鼻に飛び込んでくる。

空気がこんな美味くものだなんて、生まれて初めて感じた。
歌舞伎町で空気がこんなに美味く感じるなんて初めての経験である。


倉庫の外でタバコを吸っていると、野路が帰ってきた。

「おまえ、何をしてんの?」

「あ、タバコ、中で吸っちゃいけなかったかなと思いまして……」

適当に言い訳をでっち上げた。

「そんなのは全然構わないよ。外にいちゃ寒いだろ。中に入りなよ」

久しぶりにゆっくりできたのがそんなに嬉しかったのか、野路は上機嫌だった。
笑顔でドアを開け中へ入っていく。
俺はタバコを消し、あとに続いた。

またあの臭いを嗅がなくてはならないのか……。

「北中さんから電話は?」
「特にないです」

「相変わらず暇だな~。まあいいや。とりあえず倉庫でやってもらいたい仕事ね。電話来たら店にビデオを運ぶっていうのが第一だけど、いる間は少なくなったビデオのダビングをやってほしいんだよね」

「はあ……」

野路はダビングについて色々何かを話していたが、そんな事ぐらい聞かなくても分かる。
彼の言葉は俺の右耳から左耳へそのまま通過した。

そんな事よりも、これからこの倉庫へ毎日来るようなのである。
この臭さをどう対処したらいいか。
そんな事ばかり考えていた。

「野路さん、俺、倉庫にはだいたいどのくらいいればいいんですか?」
「俺が飯に行く間だけだから、一時間から二時間ぐらいだろ」
「そうですか」

少しだけホッとする。
ここ専門になったら、俺は窒息死してしまう。

「明日も出勤だろ?」
「いえ、明日はお休みなんですよ。ではそろそろ俺、メロンに戻りますね」

「もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃんか」

親切心で言ってくれるのは充分分かるが、ノーサンキューである。
一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。

「いえ、北中さんが一人で店番をしてるでしょうし……」
「倉庫にさ、人が来たなんて久しぶりだよ」

野路は俺の台詞など聞いてないかのように喋り出している。

横にあるテーブルの上を一匹のゴキブリが走り出す姿が見えた。
野路は普通に話しながら素手でゴキブリを潰し、ゴミ箱へ放り込む。
見ていて吐きそうになった。

「……。久しぶりって、前にいた浦安さんは来てなかったんですか?」
「あいつはいい加減だろ? だいたいうちで働く人間って北中さんから金を借りて返せなくなり、その肩代わりに安い金で働かせられるだけだからさ。倉庫はビデオ屋にとって命綱だし、そうそう簡単に教えられるもんじゃないんだよ」

こんな汚い場所がメロンの命綱……。

「そういうもんなんですか」
「まあおまえは、北中さんから信頼されているんだろうな」

「どうなんでしょうね。とりあえず今日は帰りますね」
「明日もよろしくね」
「だから明日は休みですって」

視線をずっと下を向けたまま湿った床を歩く。
うっかりゴキブリを踏んでしまったじゃ、洒落にならない。


仕事帰り、ミサキへ電話をしてみるが出なかった。
キャバクラへ出勤しているのだろう。

仕方なく月に一度ぐらいの割合で行くスナックへ飲みに行く。

本当に暇な店で、二十五歳前後の女が三人で働いている店。

「あ、岩上さん、いらっしゃい」
「おう、久しぶり」

「いつもので、いいんでしょ?」
「ああ」

「グランリベ……」
「グレンリベット。いい加減、覚えろって……」
「あー、ごめんごめん」

女の質は落ちるが変に気を使わないでいいので、俺は気に入って通っていた。

俺はグレンリベットの十二年が大好きでたまらない。
目の前にこの酒を置かれるだけで、ニコニコしてくるから不思議だ。

以前ホテルで働いていた時の話だが、色々な酒を飲み、自分にあった酒を探していた時期があった。
何万種類の酒を飲んだか分からないぐらい、様々な種類の酒を飲んだ。

その時に俺はグレンリベットに出会った。

俺が一番、日本でこの酒を飲む。
みんなにそう思われるぐらい飲んだ。

この酒に出会ってからは、とんかつ屋へ行こうが、焼肉屋に行こうが、行きつけの店にはすべて、グレンリベット十二年を置かせてもらうように頼んだ。

店内は、相変わらず閑古鳥が鳴いていた。

俺が来た時点で、客が一人だけいた。
しかし三十分もすると帰ってしまい、とうとう俺一人だけになる。

「ねえ、岩上さん」
「何?」

「私たち、ビールもらってもいい?」
「はいはい、どうぞ」
「わーい、ありがとう」

これで会計にビールが三杯分足される事になる。
三千円は掛かるという意味だ。

「いただきまーす」

俺の持つグラスより、女たちはグラスを上に高くした状態で乾杯してきた。

サービス業をやるなら、絶対にやってはいけない行為である。
でも俺は何も言わず、笑顔で乾杯した。

「それにしても、本当に暇な店だな」

無駄に広い店内をゆっくり見渡す。
閑古鳥が鳴いているとはこういう事を指すぐらい、暇な店である。

よくこんな状態で店がもっているものだ。
ある意味、感心する。

「ほんと、そうなんですよ。岩上さんって、前にホテルでバーテンダーやってたんでしょ? 何か私たちにカクテル作ってよ」

「悪いけど仕事以外じゃ、俺はシェーカーを振らない。それに今はバーテンダーじゃない」
「えー」

昔は違った。
ホテルで働き出した頃は、給料が入ると色々な酒を買った。

部屋にたくさん色々なボトルを並べ、友達が来るとカクテルを作ってやった。
みんな、美味しいと喜んでくれた。

ただそれを数年繰り返して、気がついた事がある。
何年にも渡って、俺は友達たちにタダで酒をずっと振舞っていただけなのだ。

実際に多数のカクテルを家で作れるようにするには、メチャクチャ金が掛かる。
でも誰一人として金を払ったり、酒を差し入れしたりしてくれた奴はいなかった。
タダ酒だから、みんな喜んで来ていただけなのだ。

別のスナックに通っていた頃、ちょうど口説いている女にいいところを見せようと、カクテルを作った事がある。
散々飲んでみたいとせがまれ仕方なしにといった形の上だが、店の女全員が飲みたいと言い出した。

ママが「悪いけど岩上さん、みんなの分も作ってあげてくれないかな?」と言うので作った。

帰る時になって会計を見てビックリ。
店の女全員に頼まれて作ったカクテルの分まで会計に上乗せされて請求されたのだ。

良かれと思いお願いされたものに自身のスキルを使う。
結果、その誠意すら金を取られる悪意に搾取される愚かな愚行。
これに懲りてカクテルは仕事以外、二度と作らないようにしていた。

今となってはどうでもいい話である。

「何で、うちの店ってお客がこないのかなあ?」

「簡単だよ、原因は……」
「えー、何で?」

目の前に座る女三人は、俺の顔を真剣に見ている。

「まず、聞くぞ。今だったら、キャバクラってもんがあるよな?」
「うん」

「でも、おまえたちが水商売で働こうって頃は、まだなかった商売だよな?」
「そうだね…。スナックか、クラブか、キャバレーぐらいだね」

「私は熟女パブにいたよ。二十一の頃だけど……」

「まあいい、よく聞けよ。もし、おまえたちが高校を卒業して、水商売をやるとしたら、それが今だとしたらの話だけど、そこにキャバクラという選択肢もある。そしたらどこで働く?」
「キャバクラ」

 三人は即答で声をそろえて言った。

「何で?」
「だってぶっちゃけ、ここの時給千五百円なのよ。キャバクラなら、最低でも二千五百円はもらえるでしょ」

こんな適当な仕事ぶりで、時間給千五百円ももらえているという事に感謝すら覚えない馬鹿な女たち。

「私もー、スナックって大勢の団体さんが来ると、忙しくても基本的に一人で全部こなすようでしょ。キャバクラなら、一人だけ相手すればいいわけだしね」
「ここはママって存在がいないから気楽だけど、普通はいるでしょ? 前にいた店でいつもうるさいぐらい怒られてね。だからやっぱ、金もよくて、うるさいママのいないキャバクラがいいな」

こいつらは、恥という言葉を知らないのだろうか。

「何でこの店が暇かって言ったろ?」
「うん」

「そんな考え方で仕事をしているから、いつまで経っても流行らないんだよ。それにさっきの乾杯。客である俺のグラスの位置より、上でグラスをつけたろ? それって飲み屋の女として、一番やっちゃいけない事だぜ。ただ、店に女がいるってだけで客が来るほど、今の世の中甘くないぜ」

「すいませ~ん」
「すいませんじゃなく、すみませんが正しい日本語だ」

俺の指摘を受け、三人はしゅんとなっていた。
今日の酒は、非常に不味く感じる。


休み明けなので新宿へ行くのが気だるい。

悩みの種はあの不潔極まりない倉庫。
あそこへ入った瞬間、汚れた匂いが鼻から毛穴から、全身に沁みていくような気さえした。

それに北中のあの意地汚さ。
まさに掃き溜めの巣窟という表現がピッタリの場所である。

あんなところで働いていて、果たしていいものだろうか?
真っ当な就職口でも探そうかな……。

そんな事を考えている内、電車は西武新宿駅へ到着した。

一番街通りを通過しコマ劇場横へ差し掛かった時、俺はふとロッテリアの看板を見てハンバーガーが食べたくなった。
出勤時間までまだ余裕はある。

北中も食べるだろうと、二人分をテイクアウトで注文した。
その時だった。

どう見ても堅気ではない二人が怒鳴り合いを始めた。
一人は短い茶髪の男で、もう一人はメガネを掛けた口髭の男。

ロッテリアのアルバイトの子は、その光景を見てビックリし固まっている。

やがて二人は怒鳴り合いからエスカレートし、フルスイングでの殴り合いをおっぱじめた。

道の向こうで三名の警察官の姿が見えた。

茶髪の男の鼻から血が滴り落ちる。
口髭メガネのレンズにヒビが入る。

ヤクザ者同士が勝手に因縁をつけあって争うのは自由だ。
しかしこんな店の近くで白昼堂々というのがマズい。

警官もヤクザ同士の喧嘩に気付いているはず。
その内止めに入るだろう。

口髭メガネの動きが止まり、連続で茶髪のパンチが炸裂した。
そのまま口髭メガネは仰向けに倒れ、茶髪は馬乗りになる。
右腕を大きく振り上げた瞬間、ギョッとなり身構えた。

まさかまだ殴るつもりか?
俺はダッシュして間に入る。

茶髪が追撃しようと右腕を後方に開いた瞬間、横から俺は右腕を首に回しガッチリとロックした。
相手の右腕も一緒に挟み込んだ状態で、そのまま力づくで引き剥がす。

「何だ、テメーは!」

いくら喚かれても暴れても俺は手を離さない。
茶髪は右腕の自由を奪われた状態のまま、必死に振りほどこうとしている。

「離せ! 離しやがれ!」
「おい、あんま暴れると、このまま頚動脈絞めて落としちまうぞ」

脅しじゃないのを分からせる為に、俺は茶髪の頚動脈を軽く力を入れ絞めた。
そこでようやく茶髪も大人しくなる。

「これ以上こんな状態で殴ったら、下はアスファルトだぞ? 死んじまうだろうが」
「分かったよ。分かったから離せよ」

「もう暴れるなよ?」

ロックを外すと、茶髪は右肩を押さえながら黙っていた。

その時、仰向けで倒れていた口髭メガネが「まだ終わってねえんだよ!」と顔面血だらけのまま立ち上がる。
メガネは両方とも割れ、酷い有様だ。

「黙ってろ。おまえは俺が止めなかったら、死んでいたかもしれないんだぞ?」
「うるせー!」
「うるせーじゃねえ。こんな白昼堂々喧嘩をおっぱじめやがって。今頃起き上がっっといて、やる気になってんじゃねえぞ。おまえの負けなんだよ。それぐらい認識しろ。それに他の人間に迷惑だろ。喧嘩やるなら目立たない隅っこで遣り合えよ」

そこまで言われると、口髭メガネは黙ってしまう。
道の向こうにいる三名の警官は、俺たちの様子を黙って見ているだけで近づこうとしない。

「あんた、どこの組の人間だ?」

茶髪が声を掛けてくる。

「おいおい、俺は一般人だって。一緒にすんなよ」
「俺はよ、昨日務所から出てきたばかりなんだ。あんた、〇〇連合の宮部組長って知ってっか?」

「ああ、名前ぐらいは聞いた事ある」
「言っといてくれ。この根岸安治が昨日務所から出てきたって」

「おまえ、人の話をちゃんと聞いているのか? さっきから俺は、一般人だって言ってるだろうが。そんなの勝手に伝えに行けよ」

まったく人の話を何も聞かない男だ。
こんな馬鹿共は放っておいて、さっさとメロンへ向かうか……。

俺はテイクアウト用に包まれたビニール袋を受け取ると、ヤクザ者二人を置いて仕事へ行く事にした。

その場から俺がいなくなると、二人は睨み合い、再び胸倉をつかみだしている。

もう勝手にしやがれだ。
俺は気にせず歩く。

すると前方にいた三名の警官が「ちょっと君」と声を掛けてきた。

「何だよ?」
「職質だ」

コイツら頭がおかしいんじゃないだろうか。

「職質? おまえらふざけんなよな。あそこで今もそうだけど、さっきもヤクザ二人がフルスイングで喧嘩をしていたの見てるだろうが? それを見ないふりして職質だ? ほれ、まだあの二人、胸倉をつかみあってるぞ? さっさと注意しに行けよ」

街の治安を本来守るはずの警察。
それがこのザマは一体何だろう?
こういう連中は税金泥棒と呼ばれても仕方がない。

俺は警官を乱暴にどかし、メロンへと向かった。


店へ到着するのを待っていたかのように、北中の女シンシンが下に降りてくる。

「岩上さん、サインいいか?」

例の婚姻届の保証人の用紙をテーブルの上に置き、名前を書けと言ってくるシンシン。

この保証人という事を少し調べてみたが、結婚の保証人に関してだけ言えば、大した責任などないらしい。
これはおじいちゃんに聞いて得た程度の知識であるが、これで自分に何か迷惑が掛かるという事は無さそうだ。

ここで保証人になっておき、少しぐらい北中へ恩を売っておくか。
そう感じた俺は用紙を広げ、名前を書こうとした。

「ん?」

用紙をちゃんと見てビックリした。
中国人の女性の名前で片側のみ細かく記載してあるだけで、男性の記入欄は空白のままだった。
肝心の北中の名前がどこにもないのだ。

こんな訳の分からないものに、自分の名前などサインできるか……。

「ちょっと、シンシンさん。これ、北中さんの名前ないじゃないですか?」

うっかり名前を書いたばかりに気付けば偽装結婚なんてハメになっていたら、目も当てられない。
一体どういうつもりだ、この女……。

「早く岩上さん、名前書く」

「これじゃ書けませんって……」
「あとでもうじきパパ、ここに来るでしょ? その時、それに名前書く。そう言っといて」

そう言いながらシンシンは用紙を置いたままメロンを出て行ってしまう。

何ていい加減な人間なんだろうか?
ここまで非常識な人間がいるなんて信じられなかった。
誰がこんなものに名前など書くかってんだ。

客が入ってきたので、俺は用紙をテーブルの引き出しへしまい、仕事をする事にする。

夕方頃になってやっと北中が店に来た。
俺はシンシンから言われた事を告げ、用紙を見せると「そんなの早く名前を書いておけ」と不機嫌そうに言われた。

何様のつもりなんだ、この男は……。

あまりの理不尽さに苛立ちが走る。

「あのですね、肝心の北中さんの名前が書いてないじゃないですか? そんなものに何で俺がサインできると言うんですか」
「うるせー、早く名前書けばいいだよ」

「申し訳ありませんが、北中さんがご自分の名前を書かない限り、お断りさせていただきます」
「じゃあ早くそれを寄こすだよ」

ひったくるように用紙を取り上げる北中。

何でコイツは自分の結婚なのに、ここまで偉そうなんだろう?
本当に神経を疑ってしまう。

恩を感じるどころか逆に怒っている北中は、人間的に絶対間違っている。

「ほら、これでいいだろ。早くおまえも名前を書け」

あくまでも偉そうな北中。
俺はボールペンをひったくるように取ると、イライラしながら保証人の欄へ自分の名前を書いた。

こんな事、俺がする義理なんて何一つないというのに……。


倉庫は変わらず悪臭を放っていた。

この臭さが俺の体臭に入り混じったら、どうしてくれるんだ。
そう文句を言いたくなるぐらいである。

テーブルの上から床、至るところすべてにゴキブリが這っている恐怖の部屋。
ここでは嫌悪感しか覚えない。

俺はメロンから缶コーヒーが入っていた空のダンボールを持ってきて、いつも床の上に置き、その状態で座るようにしていた。

これでもまだ安心はできない。
ゴキブリの奴らはこの上だって平気で、ノソノソと這い回ってくるのだ。

倉庫の電話が鳴る。
配達の注文だろう。

受話器を取ると、北中の声が聞こえた。

「ビデオ……。『バカン、イヤン、もう駄目』、『レイプレイプレイプ』、『缶コーヒー入るかしら?』…。以上、三本」

「はい、了解です」

俺は、各棚の中から注文されたビデオを名前順で探す。

どうもこの作業が苦手だった。
野路の割り振りでジャンル別に分かるよう置いてあると言うが、何が『和物』でどれが『熟女物』なのかが分からない。

こんな全部で何百種類の中から、三本のビデオを探せと言うのだ。
慣れないとできない作業である。

それでも何とか探し出し、黒いスポーツバックにビデオをしまい込む。
倉庫を出て外へ出ると、俺は自転車へ飛び乗りメロンまで急いで向かう。
これが運びの仕事だった。

裏ビデオ屋は大きく分けて二種類のタイプに分かれる。
一つはメロンのように商品の受け渡しを別にする店。

もう一つは店内にすべての商品を置き、その場で客へ渡す店である。
金は店で受け取り、品物は外から。

北中曰くこれが警察に捕まらない一番いい方法だと、以前豪語していた。

確かにそれはそうだろう。
普通に考えれば想像がつく。

裏ビデオを売っているという事が『猥褻図画』という犯罪になるのだ。
ビデオの場合も現行犯逮捕。

店に品物がなければ警察も売る現場を押さえない限り、安全だと北中は言っていた。

こんな裏ビデオを売っている仕事で捕まりたくなんかない。
常々そう思う自分がいた。

仕事自体は非常に楽な仕事だ。
来た客にだけビデオやDVDを売ればいい商売なのだから。

この街へ最初に来た時働いたゲーム屋ベガのオーナーである鳴戸が言っていた台詞を思い出す。

「女のあそこで、飯なんか食いたくないじゃないですか。その点ゲーム屋は賭博。風俗やビデオと比べても格好いいですよね」

確かにその通りだと感じる。

裏ビデオ屋で働いているなんて、恥ずかしくて知人には言えない。
ましてや春美や妹代わりに可愛がっているミサキには絶対に知られたくない……。

つまり俺は、今しているこの仕事を格好悪い商売だと思っているのだ。

どんな形でもいい。
現状を何とか打破したい気持ちでいっぱいだった。


暇なメロンの仕事。

ピアノはあれだけハマって一心不乱に弾いていたのに、このところまったく弾かなくなった。

俺はこの時間を使い、絵を描いてみる事にした。
学生時代、美術部ではなかったが不思議と絵は得意分野だった。

但し写生会のような決まりきった背景を描く事や人物画は苦手である。
想像で好きなように描く。
そうして出来上がった作品のほとんどは入選し、上野美術館にも飾られた事があった。

得意分野な絵をまず描こう。

それにしても絵を描くなんて春美にプレゼントした以来だな。
さてどうするか?

俺は出勤前、東急ハンズに寄り、発泡スチロールでできたボードの板を買ってきた。

これはワールドワン時代、ビンゴを作ったり店頭の告知用に使えたりする優れもので、発泡スチロールの上に上質紙が貼ってある。
みんな、この上にカッティングシートで切り文字をして貼っていた。

カッターを使ってこのボードを横七センチ、縦十センチの大きさに切り分けた。

さすがに仕事中なので、すぐ片付けられないとまずいだろう。
だから絵の具で描くのは難しい。

じゃあ何で描こうか?

ゲーム屋でよく使っていたポスカ。
ロイヤルストレートフラッシュを撮ったプリンターの感熱紙に、よくポスカで日付と出した客の名前を書いていたっけな。

あれを使おう。
どんな絵を描いてみるか?

頭の中で思い浮かぶシーンをそのまま描くしかないだろう。

星の奇麗な夜空の草原の絵を思い浮かべる。
俺は水色のポスカをボードの上に塗っていく。

薄い色から塗っていき、渇くと次の色を重ねていくというやり方で絵を描いていった。

幻想的な絵にしたい。
慎重に色を塗っていく。

細かい部分は余ったボードの上にインクだけ出すようにして、楊枝やティッシュで丁寧に細かく描き込んでいった。

何日も時間を掛け、絵は完成する。
カッティングシートの透明タイプのもので絵を包み込み、渇いた布で何度も優しく擦っていく。

こうする事で水に濡れても大丈夫な絵になった。

星が無数にある夜空の公園。
そこに一人の人影がタバコを吸っている。

自分で見ても、いい感じの絵だと思う。


闇 29(パソコンとピアノ編)

記憶が暑くなると、憂鬱さは増すばかり。
何故なら倉庫に行くと、前にも増して匂いが強烈になっているからだ。

入口に立っただけで吐き気を催すほどの臭さ。
倉庫の住人である野路は、本当に不潔な男である。

ドラゴンボールに出てくる天下一武道会のクリリンと対戦したバクテリアンを思い出してしまう。

ゴキブリは季節のせいか倍以上の数が部屋の中を所狭しと動き回り、そんな中で彼は寝起きをして生活をしている。
風呂にほとんど入っていないせいか、野路に近づくと何ともいえない匂いがした。

夏の暑い日差しの中を自転車で動き回り、裏ビデオを配達する野路。
こんな人生を送っていて楽しい事などあるのだろうかと、つい余計な事を思ってしまう。

メロンで働いていて、一つ気に掛かる点。
それは客が紙にビデオの題名を書き注文する際の事だが、DVDとビデオの両方同じ品物がある時だった。

いつも電話口で野路は不機嫌そうに「ビデオ? DVD? どっち?」と聞いてくる。
その度どちらかをワザワザ言わなければならないもどかしさ。

これは倉庫に行って分かった事だが、商品管理がちゃんとできていないから。
それが明らかな原因。

ザナルカンドも完成し、ピアノに一旦一区切り置いていた俺は、仕事以外特にすべき事がない。

初めにパソコンを教えてくれた先輩の坊主さんへ連絡を取り、何か上手い方法がないか聞いてみる事にした。
快く先輩は俺の願いを承諾し、時間を作ると言ってくれる。

坊主さんとの付き合いは、もう十数年。
彼はIT系の会社で働く日本でも有数のプログラマーをしていた。

地元という接点がなければ、本来タイプも性格も違うので、まったく交わる事はなかっただろう。
俺はこの人と同じ地元に生まれ、仲良くなれた事を誇りに思っている。

それだけじゃない。
この人には数知れない恩義もあった。

二十一歳の頃、全日本プロレスを目指していた俺は念願のプロテストにも受かり、有頂天になっていた。
同級生たちが祝賀会をやろうと祝ってくれ、調子に乗っていた俺は全日本プロレスの合宿前日だというのに飲みに行った。
そこで酔った同級生の大沢が大暴れし、ヤクザ者十五人と乱闘騒ぎを起こす。
止めに入った俺まで警察に捕まり、プロ入りは却下された事があった。

それまで応援してくれていた人も警察に捕まった事で、俺を白い目で見るようになる。
あれだけレスラーになる事を願い、それだけの為一心不乱に頑張ってきた俺は、精神の限界を迎える。
積み木崩しのようにプロテスト合格を壊され、気力を失った俺は自殺すら考えるようになった。

その時、傍にいてくれたのが坊主さんである。
落ち込み塞ぎ込んでいた俺に、坊主さんは言った。

「何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ」

思わず号泣した俺。

そして合宿所へ強引に行ってしまえとも背中を押す。
あれがあったからこそ、俺はあのタイミングでジャンボ鶴田師匠と出会えたのだ。

あれから十年近く経つ……。

若い頃から結婚をしている坊主さんと、プライベートの時間を作るのは難しい。
奥さんの裕子さんに、息子の玲君もいるのだ。
常に仕事と家庭の両立で多忙。

それでも坊主さんは、いつだって俺に優しく接してくれた。

「智はいつ休み?」
「え~と今だと日曜日ぐらいですかね」

「仕事が終わるのは何時ぐらい?」
「日によってまちまちですが、通常なら夜の七時。遅い時で夜の十一時半になります」

「じゃあ、毎週金曜と土曜日は夜、そっちへ行くよ」
「そっちへって歌舞伎町へですか? 裕子さん、大丈夫ですか?」

「だっておまえがパソコンに対し、やっとやる気を出したんだ。こうなるとおまえは絶対パソコンが使えるように自分の気が済むまで、しつこく電話してくるだろうからな」

「へへへ……」
「時間を決めて、その時間帯を集中してやっとほうがいい」
「ありがとうございます」

こうして俺と坊主さんは金曜と土曜の夜になると歌舞伎町の漫画喫茶に入り、野郎同士カップルシートでパソコンの勉強をした。
傍から見れば、男同士で何をしているんだと思われるだろう。

専門的な坊主さんの教え方は非常に難しい。
もうゲームで遊ぶといった陳腐な使い方ではなかった。
パソコンの根本的なシステムの説明。
すぐ頭が混乱した俺は、分野外だから無理と投げ出そうとする。

「これから絶対必須になるんだから、これとこれだけはいいから覚えろ。あ、智! 寝るな! ほら、ここをこうして、まずこの基礎を覚えろ」
「もう坊主さん…、俺には無理ですよー」

「無理じゃない。おまえの脳みそがただ拒絶反応を起こしているだけ。いいからこれを覚えておけ」

徹底的にシステムを教え込まれ、朝になるまでひたすら習い、基本的なエクセルやワードのマイクロソフトオフィスの使い方を学ぶ。

ようやく少しずつパソコンとはどういうものかを身体で覚え出し、次に湧いた疑問は仕事に直結する内容。
どうやって映像を編集し、パソコンで同じ物を作れるか?

専門分野外の事を聞いても、坊主さんは「ちょっとだけ時間をくれ」と自分で勉強し、俺が聞いた事をすべてできるようにしてくる。
そしてその技術を俺の頭へ徹底的に叩き込む。

パソコンは頭のいい赤ん坊。
だからこっちがこうしなさいと教えてあげないと、何もできない。
ただ、教え方を間違わなければ、これほど便利な箱は世の中に無いとも豪語した。

週に二回の徹夜のレッスン。
これにより少しずつ、俺はパソコンの知識や仕組みを学んでいく。

単なる力自慢だった男が、ホテルで接客術と酒の知識を覚えた。
それは歌舞伎町という街の裏稼業で、最大限に発揮された。

いい地位を築き、高い金をもらう生活の日々。
そのシステムが崩壊し、一からの出直しとなった。

新たな裏稼業である裏ビデオ屋を始めた俺。
商売的な卑屈さから、自分自身がどんどん嫌いになっていく。

だからこそ、どうにかして現状を打破したかった。

そんな時期、一人の女と出逢う。
美しく儚さを感じさせる女だった。

これまでの自分の生き方を恥じる俺。
力や強引さだけではいけない。
素直な気持ちで彼女に捧げたいという名目。
それでピアノを始めた。

一心不乱に練習し、一つの曲を完成させる。
しかしその曲は、その子へ捧げる事すらできていない。
相手を思いやる心が欠けていた俺。
自業自得だった。

ポッカリ空いた心の穴。
プライベートで特に何もする事がなく目的意識を失っていた。

そんな俺に、坊主さんからパソコンを教えてもらえる時間は、とても至福の時となっている。

週末になると始まる坊主さんのパソコンのレッスン。
少しずつ俺にとって、新たなスキルが備わる。

どんな難しい事でも根気よく食らいつく。
仕事明けで正直眠かった。

しかし坊主さんはどうなる?
仕事を済ませ、これから本当なら家族サービスの時間なのに、それを犠牲にして俺にパソコンのスキルを教えてくれているのだ。

貪欲にパソコンのスキルを吸収していった。
どこへ習いにいったところで出会う事のない最高の先生に今、こうして教わっているのだ。

今までゲームしかできなかった俺だが、ようやくパソコンの本質というものを少しは理解できるようになる。

パソコンは赤ん坊と同じ、但し知識の非常に高い赤ん坊。
坊主さんの言っていた台詞の意味合いが少しずつ分かってきた。

今のパソコンはどれだけアプリケーションソフトを自由に使いこなせるか。
プログラムとかシステムでない限り、そこに尽きる。
そう坊主さんは言う。

今せっかく裏ビデオとはいえ、映像に携わる仕事をしている。

これまでDVDは映画などを買うものという認識しかなかった。
どうやったらDVDができるのか?
その細部に渡る仕組みまで理解したら、客に質問されても何だって答える事ができる。

パソコンというものを俺の中で突出したスキルの一つにしたかった。

市販されているDVDのほとんどは、プロテクトといってコピーができないようガードされている。
そのプロテクトをどう解除し、中身をどうするべきか。

坊主さんは専門分野でもないのに、俺が質問した事を自分で調べ上げ、次に会う際には必ず答えられるように努力してくれた。

幸い漫画喫茶には各種のDVDがそろっている。
俺たちは一枚ずつ借りて、同じものを作れるよう色々と試してみた。

空のDVDーRメディア。
この当時安くても、一枚三百二十円ぐらい。

俺はメロンでもらう『デズラ』から惜しみなく数十枚、何度も購入した。

DVDをコピーするのに分かった事。
まずはプロテクトを外す作業から始まる。
市販されているDVDの容量は七、八メガぐらい。

本来DVDは四・七メガしか入らない。
これは片面二層と呼ばれる方法で焼くからできる事であるようだ。
俺の場合、片面二層にはできないので、この大きなデータを四・七メガ以内に縮小しなければならない。

この時データは三つに分かれる。
映像部分、音声部分、字幕部分。
これらの中で、例えば中国語の字幕はいらない。
この音声もいいかといった具合に自分で選んでいく。

その点でいえば、裏ビデオは単純明快だった。
本来の四・七メガ以内に映像は納まっており、プロテクトもついていない。
ただそのままコピーすれば同じ物が作れた。

ワードを使った企画書の使い方。
そしてエクセルを使った表計算。
様々な事を俺は坊主さんから教わる。

段々とパソコンが手放せなくなってきた自分がいた。


早速坊主さんから教わった事を仕事に活かしてみる。
まずはエクセルを使っての商品管理。

俺はメロンへ到着すると、ノートパソコンを開く。
壁に貼ってあるDVDのジャケットをコピーしたお粗末なものを眺めた。
どこのビデオ屋も全部これだもんな。

新しい革命といえば大袈裟だけど、裏稼業に俺のパソコンのスキルを導入してやる。
エクセルを起動し、作品ごとのタイトル、出演女優、ジャンルなどをどんどん打ち込んでいく。

番号つける事で商品は整理され、もう電話口で「『人妻の乱れ』をお願いします」なんてもう言わず番号を言えば済むのだ。
しかし壁に貼ってあるものを一つ一つ見ては打ち込む作業は、とても面倒で非常に時間が掛かった。

北中が降りてきて、パソコンで作業をしている俺を見る。
何をしているのかさえ理解できない北中は、小馬鹿にした表情で「おまえ、何をしてるだよ」と口を開く。

「作品の整理をしているんです。エクセルを使って商品を整理すれば、注文の際や客に聞かれた時、一目瞭然ですからね」

せっかくここでこうして働いているのだ。
ブツブツ不平不満を言うぐらいなら、売り上げ向上に一役買い、前向きに仕事をしたほうがいい。

表社会でパソコンを導入している会社は当たり前にあるが、裏稼業でこうしてパソコンを導入したのは俺が初めてだろう。

「さっぱりおまえの言ってる事は分からん」

どうでもいいといった感じで北中は、上にあるフィールドへゲームを打ちに行ってしまう。

あんたの店を儲けさせようと自分のパソコンまで持ち込んでデータ整理をしているのに、何て言い草だろうか?
イライラしたが今は我慢しとこう。

このデータが完成されたらどれだけ便利なものなのか、あの北中も分かるだろう。

運びの野路は店に商品を持ってくる度、俺のしている事に関心を示し、「何をやってんの?」と毎回同じ事を聞いてきた。
商品を分かりやすいよう管理する為だと説明しても、野路には理解できなかったようである。

「例えば野路さんに注文の電話を入れる時ですね、いつも『ビデオ? DVD?』って聞いてくるじゃないですか? これが完成すれば、DVDに関してだけは番号を言えば分かるようになるんですよ」

「う~ん、よく分からないや」

照れ笑いを浮かべながら、野路は倉庫へ戻っていく。
何故これだけ分かり易く説明しているのに分からないのだろうか……。

春美にフラれた事で、俺は仕事に対し意欲的になっていた。

もうとれだけの時間が流れたのだろう。
未だ彼女からの連絡は一切無い。

懸命に仕事にでも打ち込んでいないと、精神的におかしくなりそうだった。

北中の理不尽さには苛立つ事も多い。
それでも自分の好きでやっているのだと割り切るように考えた。

金曜の夜から土曜の朝まで坊主さんと一緒に漫画喫茶へ入り、カップルシートを選ぶ。
その状態でずっとパソコンについて習う週末。

朝になるとさすがにフラフラになっていた。
坊主さんはこのまま会社へ出勤して、仮眠室があるからそこで寝ると言って別れる。

時計を見ると朝の五時。
いつもこの曜日は徹夜で仕事。

俺もメロンに行き、ソファの上で少し横になろうと思ったが、あそこは汚くて嫌だ。

十一時手前までどこかのサウナで過ごそう。
いや、待てよ……。

たまには風俗でも行ってみるか。
気だるい身体で街中を歩き、こんな朝早くでもやっている風俗があるか探す。

コマ劇場横のビル入口に、『ヘルス ポップコーン 三千八百円』という看板が目に入る。
ありえない金額のヘルス。
三千八百円で、女が客のチンチンをくわえるとでも言うのだろうか?

そういえばワールドワン時代の従業員で、こんな安いヘルスで働いていたという奴を思い出す。

「確かに金額が安いから、ロクな女がいないですよ。だって他の普通の風俗で断れまくった女共が最後に行きつく店でもありますから。でもですね、中には当たりがあるんですよ」

何をもって当たりなのか分からないが、確かそんな台詞を言っていたっけな。

こんな暑い季節なので汗だって掻いている。

外れの凄い女が出てきたら、三千八百円でシャワーを浴びにきたと言えばいいだろう。
俺はこの安いヘルスへ入る事に決めた。

入口は不思議な事に道路に面したエレベーターしか見当たらない。
通常ならどこか階段ぐらいあってもよさそうなものだが……。

睡魔が襲ってくる。
何でもいいか。
俺はボタンを押して、エレベーターへ乗り込む。
七階のボタンを押し、狭い小さな箱は上昇していく。

店へ到着すると、俺は細い通路をそのまま進んだ。
受付がその先に見える。

「ん?」

受付にいる男。
どう見ても堅気には見えない。

「あ、いらっしゃいませ」

男は俺に気付き、挨拶をしてくる。
受付頭上には料金表が貼ってあった。

『三十分一万円 四十分一万二千円 五十分一万四千円』

「外の看板に書いてある金額と違うじゃん」

すると男はビックリした表情になり、「あ、外の看板見ていらしたのですか?」と聞いてくる。

「外の看板以外、何を見て来るんだよ?」
「あ、そうですね。じゃあ、お客さまは外の料金通り、三千八百円でいいですよ」

どうもキナ臭い店だ。
あとになって高額請求のボッタクリされるんじゃないだろうな?

歌舞伎町に来て五年以上になるが、俺は一度もボラれた事がなかった。

「いいよ。そこに書いてある料金通り払うよ。それなら文句ないだろ?」

そう言って俺は財布から一万二千円を出す。

「あ、はい。四十分コースでいいですね?」
「疲れてすぐにでもシャワーを浴び、横になりたいんだ。早く案内してくれ」
「分かりました。それではこちらへどうぞ」

男は受付横にあるカーテンを引き、俺を促した。

目の前に見えるのは薄暗い木造の床。
ヘルスには何度も来ているが、こんな古めかしい作りの店なんて初めてである。

「左手の三番目の部屋を開けて、中で待機してて下さい」

言われた通り、俺は薄暗く狭い廊下をゆっくり進む。

旅館のような襖が左右に見える。
変な造りの店だ。
両サイドからは女の呻き声が聞こえてきた。

途中「フッフッ」と何かを嗅いでいる音が聞こえ、足元に何かがまとわりついてくる。
足で軽く振り払うと「キャン」という泣き声がした。
犬か……。

それにしても何でこんなところに犬がいるのだろう?

左手三番目の襖を開けると、畳四畳の部屋に到着する。
せいべい布団が引いてあるだけで、あとは横に丸い小さなテーブルが一つ。
その上にきゅうすと湯のみ、ポットが置いてあるシンプルな部屋だった。

ほんと大丈夫なのか、この店……。

腰掛けタバコを吸っていると、襖がガラッと音を立てて開く。
振り向くと五十代後半はどう見てもいっているおばさんが入ってきた。

ふざけんじゃねえよ。
こんなおばさんが相手か?
俺は警戒しながら立ち上がる。

「お兄さん、勘違いしないで。私じゃないから」

おばさんはそう言うと、畳の上に座り出した。

「お兄さん、タバコないかい? ちょっと話があるんだけどさ」

俺はタバコを一本差し出す。
おばさんは火をつけながら、さらに喋り続けた。

「これからお兄さんにはエース級の子をつけるからさ。本番しても構わないから、あと一万円もらえるかい?」

「いや、今日はシャワー浴びに来ただけだからいいよ」

「何言ってんの。エース級だよ? エース級」

この小うるさいおばさんには早く消えてもらいたい。
早くシャワーを浴びて横になりたかった。

「分かった。分かった。もしその子が来て気に入ったら一万でも二万でも渡すから。それならいいでしょ?」

「そう。じゃあ女の子来たらよろしくね。あ、そうそう。もう一本タバコもらえるかな?」
「さっきからうるせえよ。早く消えろって!」

寝不足で不機嫌だった俺は、おばさんを怒鳴りつけた。
おばさんは一目散に部屋から出て行く。

本番専門の売春ヘルスか。
どうりで如何わしい空気が漂っているはずだ。

少しして襖が再び開く。
俺は入ってきた女を見て、動物のトドを連想させた。

「あの~……」
「俺さ、徹夜ですごい疲れてんだ。シャワー室、案内してくれないかな?」
「分かりました。通路を真っ直ぐ進んで突き当たり左手にあります」

普通のヘルスなら女も一緒にシャワーへ行き、客は立っているだけで女が身体からすべてを洗ってくれる。
ここでは客一人に勝手に行かせるのか。

まああんなトドのような女に身体を洗ってもらいたい訳じゃないので、俺は黙ってシャワー室へ向かう。
薄暗い廊下を歩くと、さっきの犬がまた「キャンキャン」言いながら足元にまとわりついてきた。

シャワーを浴び、じっとりした身体を洗い流す。
終わると部屋に戻り、女に伝えた。

「俺さ、これから眠るから。四十分でしょ? 何もしなくていいからさ、その代わり時間になったら起こしてくれるかな?」
「分かりました」

そこまで言うと俺は横になり、すぐに寝てしまった。

ん?
何だか変な感じだぞ……。

俺はふと目を覚まし、足元を見た。
するとさきほどのトドが俺のチンチンをしゃぶっている。

「何をしてんだ!」

すぐ起き上がり、女を突き飛ばす。
春美を想い、純潔を貫いてきたのに汚された気がした。

「いや、あの…、一万で本番……」
「うるせー! 何もするなって言ったろうが」

時計を見るとまだ二十分しか経っていない。
俺はスーツに着替えながら、まだ時間はあったが店を出る事にした。

部屋を出ようとすると、先ほどのおばさんがやってきて「どうしたんだよ、お兄さん?」と声を掛けてくる。

「もう帰る」
「まだ時間じゃないよ?」
「うるせー! 何がエース級だ? 本当のエース級なんかつけやがって。どけよ!」

俺はおばさんを乱暴にどかし、廊下へ出た。
他の部屋からは変わらず女の喘ぎ声が聞こえる。

こんな店、来るんじゃなかった。
無性にイライラしている。

その時、受付のところから先ほどの男が道を塞ぐように出てきた。
ボッタクリをする店の常套手段だ。

何か俺に文句でもあると言うのだろうか?
男は俺の顔をジッと睨んでいる。
この俺から金をボッタクろうとしているのか?

上等だ。
最近ずっと暴れていない。

俺は右の拳を壁にフルスイングで叩きつけた。
もの凄い音が聞こえ、女たちの喘ぎ声は一斉に止む。

構わずもう一度、拳を壁に叩きつける。
右拳の皮が破れ、血が滲み出す。

ここで変に時間を稼がれ人数を呼ばれたら面倒なだけ。
今の内にこの建物から早く脱出しないといけない。

血だらけになった右の拳を目の前に突き出す。
受付の男の前まで来ると、「何か文句でもあんのかよ?」と凄んだ。

男は無言のまま下を向き、道を譲る。

俺は平然としながらエレベーターまで向かい、外へ出た。
コマ劇場横の通りに出ると、一気に駆け出しその場から逃げる。

こんな朝っぱらから大勢のケツモチでも呼ばれたら、洒落にならない。

そのままメロンまで行き、ドアに鍵を閉めたままソファーの上で倒れるように眠った。

時間になると裏ビデオ屋の看板を道路に出し、いつもの日常が始まる。
パソコンを覚える為、暇な時間帯は仕事のデータを作る為に没頭するしかなかった。

エクセルデータをようやく完成させる。

月に二回ほどDVDの新作は増えるので、全部で三百種類ほど。
世の中もようやくDVDプレイヤーが安価で出回り、ビデオからDVDに移り変わろうとしている。
今まで裏ビデオを買っていた常連客も、徐々にDVDへと移行していく。

家に帰り、プリンターでエクセルデータをプリントアウトする。

倉庫の野中は俺の作ったエクセルデータを見て、最初は意味が分からなかったが、各DVDへ番号を割り振り整理して、初めてその便利さを理解したようだった。
北中もプリントアウトされた用紙を見て、なるほどと思ったらしい。

パソコンの中なら、女優別、ジャンル別にすぐ分かるようになっている。
客に誰々の女優物は何作あるかと聞かれても、すぐに答える事ができるのだ。

当然DVDの売り上げは、今までと比べ三倍も増えた。

番号の若いDVDは古い作品。
新作になるほど番号は増えていくので分かりやすい。

北中は新作が入る度、俺に「おい、岩上。早くデータにしろ」と当たり前のように言ってきた。

考えてみれば、これは俺自身のパソコンで行っている善意である。
それをありがとうの言葉もなく、当たり前のように何を威張っているのだろうか?

時間が経つと、善意でした行動に対し苛立ちを感じている自分がいた。

いや、違う。
北中の態度がおかしいから苛立っているのだ。

あまりセコい言い方はしたくないのであえて黙っていたが、パソコンだってプリンターだってタダではない。

俺は数十万円も掛けて、一式を揃えたのだ。
それはあくまでも自分の為であり、メロンや北中の為ではない。

そういった事に一円の経費すらくれない北中。
ここではやる気を出して頑張っても、うまく利用されるだけなのだ。

そう思った翌日から俺は、パソコンを仕事場へ持っていくのをやめた。
馬鹿らしくなったのである。

北中は新作が入ると、「早く作れ」と命令してきた。

「すみませんが、パソコンの調子が悪いんですよ。今、修理中でしてね」
「いつ直るんだ?」

不機嫌そうに北中は言う。
おいおい誰のパソコンだと思っているんだ、この男は……。

「北中さん、申し訳ないですけどね。この紙を一枚プリントアウトするんだって、金が掛かっているんですよ。例えば店に一台プリンターがあれば、俺だって何とかしたいなって思います。でも全部俺が金を払って店の事をしてるんですよ? 少しは考えて下さい」

ムッとしながら話すと、北中は財布を取り出し「じゃあ、プリンターでも何でも買って来い」と不機嫌そうに口を開く。

珍しい事もあるもんだ。
でも北中はプリンターの仕組みなどまったく分かっていない。
機械だけでなく、インクだって用紙だってなければ印刷はできない。
そこもちゃんと言っておいたほうがよさそうだ。

「プリンターだけでなく、用紙もインクも消耗品なので揃えないとプリントできませんからね」
「紙でも何でも買ってくればいいだよ」

そう言いながら北中はテーブルの上に、千円札を一枚だけ放り投げた。

「……?」

一体どういうつもりなんだろうか?
この千円札の意味が分からなかった。

「あの~、北中さん……。この千円って一体何でしょうか?」
「だからそれでプリンターでも紙でも買ってくるだよ」

たった千円でプリンターを買ってこい?
ムチャクチャだ……。

「お言葉ですが、一番安いプリンターでも最低一万円ぐらいしますよ?」
「何だ、じゃあいい。ほら、よこせ」

そう言うと北中は俺から千円札を取り上げた。
本当にこの男、底なしのケチである。
少しでもこんな男に期待した自分が馬鹿だったのである。

春美から連絡が来なくなって数ヶ月。
俺は三十二歳になっていた。

寂しさを感じながら日々を過ごしている。
でもどうする事もできない。
いくら俺が努力しても、春美はこちらを振り向いてくれなかったのだから……。

その代わりパソコンのスキルはかなり上達した。
週末になると坊主さんとのパソコンレッスン。
どうにかして自分を変えようと必死だったのだ。

一度だけ春美のいるキャバクラへ行ってみる事にした。
しかし春美はとっくに店を辞めていた。

もうどうする事もできない。
俺は落胆するばかり。

春美への想い。
日に日に募るばかりだった。

「岩上君、今、帰り?」

仕事帰り道を歩いていると、ピアノの先生が声を掛けてきた。
手にビニールの買い物袋を持っているので、買い物の途中だったのだろう。

いつもピアノを教えてもらっている姿しか見ないので、その家庭的な姿に違和感を覚えた。

「ええ、今帰りです。先生こそどうしたんです?」
「たまには買い物をしないとね。一応主婦ですから。最近岩上君が来ないから、どうしたのかなと思ってたのよ」

「いや……」

春美にフラれたからだなんて、恥ずかしくて言えやしない。

「もうピアノが嫌いになっちゃった?」
「いえ、そんな事はないです。逆に新しい曲を習いたいなあって思っているぐらいです」
「ほんと?」

嬉しそうな先生の顔。

俺がまたピアノを始めるのが、そんなに嬉しかったのか。
こんな不肖の弟子に対し、ありがたいものである。

「ええ、やっぱり先生の弟子だし、クラシックを一曲弾きたいなって……」

また頑張ってみようか。
そんな気持ちになっていた。

「よ~し、じゃあ、このまま教室まで行こうか」
「はい、お供します」

くっきぃずへ向かう。
先生は歩くというよりも、楽しそうにスキップをしていた。

俺は、先生のところの楽譜を色々と眺めていた。

「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」

本川越駅のスイートキャデラックにいたピアニストの女の台詞を思い出す。
確かに分かってくれる女のほうが、俺にとって幸せかもしれない。

しかし、俺がピアノを始めたのは春美に聴かせたいから。
懸命に努力して練習したのも、彼女に捧げたい一心。
春美以外に捧げる相手など、どこにもいやしないのだ。

では今、何の為に俺は新しい曲を習おうとしている?

春美の為でも誰の為でもない。
自分の為に弾いてみたい。
それだけだ。

ジャズバーのピアノで奏でたピアニストの曲を思い出す。
あの綺麗な音色のドビュッシーの曲を弾いてみたかった。

「先生、ドビュッシーの曲を何曲か弾いてもらえますか?」
「ドビュッシー? いいわよ。どの曲がいいの?」

俺は楽譜を取り出して、先生に手渡す。

「できれば適当に俺が似合いそうなやつを色々と」
「う~ん、そうね。分かったわ」

先生はピアノを弾きだした。
いつものように表情はとても楽しそうに演奏している。

ピアノを弾くのが私の生き甲斐。
見ていて本当にそう感じた。
身体を弾ませながら、ピアノを弾く先生。

ドビュッシーの曲だからといって、すべての曲がお気に入りという訳ではない。
俺は一曲一曲聞き耳を立てしっかり聴いた。

舞曲スティーリー風のタランテラが流れる。
アラベスクが流れる。
二曲とも弾いてみたい曲ではある。

もし俺が弾けたら格好いいだろう。
でも俺には無理だ。
それぐらい分かる。

漫画のドラゴンボールのキャラクターで以前、クリリンがこんな俺でも相手の強さぐらいは分かるとか言っていたが、それと似たような感覚だった。
これ以外で何かいい曲がないだろうか……。

先生は、別の曲を次から次へと自由自在に弾きこなす。
ある時はゆったりまろやかに、またある時は激しく指が狂いだしたかのように鍵盤の上を動き回る。

「……!」

俺の背後に誰かが立ち、暖かい手で背中を軽く押されたような気がした。
振り返っても、誰もいない。

何だ、今の感覚は?
綺麗なゆっくりとした音色が聴こえる。

先生がまた新しい曲を弾きだした。
澄み切った乾いた音。
ゆっくりとスローテンポに鳴り響く。
少し悲しげなメロディ。

先生が左の方の黒い鍵盤を二つ叩く。
地の底から鳴り響くような低音。
そこを境にして一気に激しく聴こえるリズム。

軽く鍵盤を叩いているので、アップテンポな曲になるが、多数の和音を奏でる指がメデューサの蛇の髪の毛のようにうごめいている。

この曲の寂びの部分を聴いた瞬間、鳥肌が立っていた。
これだ……。

これしかない。
はやる心を懸命に抑えた。

「先生、俺、この曲がいい!」

失礼な行為だったが我慢できなかったのである。
先生の演奏中にも関わらず叫んでいた。

今までクラシックなど興味のかけらもなかった。
でもこの曲は違う。
俺は絶対にこれを弾けるようになりたい。
心の底からそう思った。

「ベルマガス組曲の月の光って曲よ。綺麗でしょ?」

「はい。俺もこの曲、頑張れば弾けるようになれますか?」
「そうね、ザナルカンドの七倍ぐらい頑張ればできるわ。岩上君は、小さい頃からやっていれば、今頃すごいピアニストになっていたのにね」

「お世辞なんてやめて下さい」
「本当よ。いい? ザナルカンドの時に出した集中力をもっと出しなさい。そうすれば、あなたならきっと弾ける」

「こんな俺が弾ける……」
「センスだけは持って生まれた天性のものなのよ」

センスは天性のもの。
俺にセンスがある?

全身に電撃が走った。
俺が真剣に真面目にやれば、本当にこんな難しい曲も弾けるようになるのか?

いや、先生は嘘を言わない。
ザナルカンドだって四回のレッスンで弾けるようにしてくれたじゃないか。

やってやる。
春美の為にじゃない。
自分自身の為に……。


闇 30(月の光編)

この日から俺は、正式にドビュッシー作曲『月の光』のレッスンを受けだした。

楽譜は相変わらず読めない。
ザナルカンドの時と同様、暗記しかない。

「男の子はみんな、ドビュッシーが好きね」

先生は笑いながら、そう言った。

「何でです?」
「だって私の教え子の半分以上が、ドビュッシーを弾きたいって言うんだもん」

「そうなんですか」
「ええ、あなたもその一人でしょ?」
「そうですね」

俺はドビュッシーの曲が大好きだった。
この月の光という曲。
俺は絶対に弾けるようにしてやる。

「先生、お願いがあるんですけど……」
「なあに?」

「この寂びの部分あるじゃないですか? 低音で、ジャーンってとこからです」
「あー、はいはい」

「そこから最初、教えてもらってもいいですか?」
「いいですよ」

先生はいつもこうだった。
俺の好きなように、弾きやすいように、嫌な顔一つもせずに教えてくれる。

静かに一番端の黒い鍵盤の『ミ』と次の『ミ』の上に指を添える。
軽く押してみた。
低く鳴り響く低音。
先生の出した音と同じ感じだ。

感情を込めて弾いてみる。
心に重く押しかかるような感じで低音が鳴り響く。

ピアノはいつだってそうだ。
弾く本人の感情を表現してくれる。

俺は必死に寂びの部分から習い始めた。

少しずつ弾けるようになるたび、新たな感動が俺を包み込む。
嬉しい。
ピアノをやって本当に良かった。

俺は部屋に帰っても弾き続けた。

行きつけ本川越駅にあるジャズバー。
スイートキャデラックへ行き、客が他にいなかったので店の音を消してもらう。

ピアノへ向かい俺を鍵盤の上に指を置く。
月の光の寂びの部分。
何度、弾いても飽きがこない。

これが全部弾けるようになったら、春美へ連絡してみよう。
俺はまだ、彼女にピアノを捧げていない。

ほんと女々しいよな、俺は……。

この日から俺の異常な日々が始まった。

仕事に行く時も常にキーボードを片手に持ち、堂々と歩く。
裏ビデオを売りながら、店にピアノを持ち込んで弾いた人間なんて俺ぐらいのものだろう。

メロンから聞こえるザナルカンドの音色。
上からビックリしてヤクザ者まで顔を出したぐらいだった。

「岩上さん、何をしてんでっか?」
「いや、この度またピアノを始めましてね」

俺のパソコンのスキルの話を聞き、上のヤクザ者が色々相談に来るようになっていた。
何度か上の事務所でパソコンの設定をした事もある。
それから俺はビルの住人に一目置かれるようになっていた。

これも坊主さんのお陰である。

そんな俺が今度はメロンでピアノを弾き始める。
みんなは目を丸くして驚いていた。
そんな姿を見ると、痛快で溜まらない。

北中は小馬鹿にしたような表情で、俺の姿を見て笑っているだけだった。
別にこんな人間に理解してもらおうだなんて、微塵も思っていないから平気だ。

街で通り過ぎる人々が、不思議そうに俺を見てくる。
裸のまま、キーボードを持って歩く俺に対し、何者なんだという視線だった。
別に周りの視線など俺にはどうでもいい。
月の光の上達こそすべてなのだから。

暇さえあれば、くっきぃずへ行き、先生にピアノを習った。
自分でもどんどん上達していくのが分かる。

春美の一件で気分は落ち込んでいたが、ピアノを弾いている時だけはすべてを忘れられた。
仕事とピアノだけの毎日といっても過言じゃない。

仕事帰りにキーボードを持ったまま、コンビニへ寄る。
レジにいる女店員が興味津々に話し掛けてきた。

「あの…、ピアノを弾かれるんですか?」

「ええ……」
「何だか格好いいですね」

何が格好いいもんか。
俺は単なる裏ビデオ屋の従業員だ。

「良かったら、聴きたいですか?」

「え?」
「ええ、このコンセント繋いでくれれば、ここで弾きますよ」

俺が冗談でも言っていると思ったのであろう。
女店員は笑いながらコンセントを繋ぐ。

キーボードをレジのカウンターの上に乗せ、俺は店内を気にせず弾き始めた。

本当に弾くと思わなかったのだろう。
女店員は目を丸くして驚いていた。

弾き始めた曲はザナルカンド。
俺は一切の雑音を気にせず、感情を込めて弾く。

ある意味、こんな場所で演奏をした人間など、今まで誰もいないだろう。
多分俺が世界で初めてだ。

コンビニのレジでの演奏。
恥ずかしさなどまったくなかった。
曲を弾き終えると、女店員は拍手をしてくれた。
それ以外にも店内にいた客まで、拍手をしだした。

中には、何だ、コイツ…、というような軽蔑の眼差しで見ているのもいたが、直接文句を言ってくる者はいなかった。

それでもどこかに空いた穴。
いつも俺の中に同居するせつない気持ち。

春美へ対する届かぬ想いからだった。
寂しい。
ピアノを弾いている時間だけが、その寂しさを忘れさせてくれる。

休みの日、部屋でキーボードを弾いていたが、頭の中は春美の事でいっぱいになっていた。
ここまで連絡もなく毛嫌いされるって事は、やっぱり駄目なのかな……。

一度ネガティブな思考になると、とことん悪い方向に考え出してしまう。

気分を紛らわせる為、キャバクラへ行った。
キーボードを持ちながら堂々と歩く俺に、たくさんの視線が集まる。
俺は平然としながら席へ座った。

フリーのキャバ嬢がつくと、何故キーボードを持っているのか、不思議そうに聞いてくる。
ピアノを弾く為にだと、俺はシンプルに答えた。

「へえ、そこまで堂々としていると、なんか格好いいですね」

感心したようにキャバ嬢は微笑む。

最近女と接触がない。
寂しかった。

「ぜひ一度、聴いてみたいです」
「だったら、今、聴かせようか?」

「え?」
「俺さ、一人の女に格好をつける為にピアノを始めたんだ。三十を越えてからね」

「三十歳なんですか? もっと若く見えますよ」
「どう見えようと俺が三十一年間は生きている事には違いない。別に今の生き方が嫌いじゃないし、いい感じで年をとれたなって思うよ」

俺もよく平気で嘘を言えるものだ。

「何だかそういうの、いいですね」
「ありがとう。でも、レッスンに行ってちゃんと弾けるようになったんだけど、俺の身勝手なわがままでふられてしまってね…。結局、曲は完成したけど、その子には聴かせぬままだった」

「私も最近、彼氏と失恋したばっかりだから、少し気持ちが分かります」

最近、女を抱いていない。
春美からあれ以来、連絡はなかった。
もういいんじゃないか。
自分の女という訳でもないのに、いつまで義理立てしていればいいのだ。

目の前にいる女。口説いてやるか……。

「そっか…。俺のピアノって多分、傷ついた人は癒せると思うんだ。君に俺のピアノを捧げようかな?」
「本当ですか? でもいつもそうやって女の子を口説いているんじゃないんですか?」

「俺の弾くピアノはそんな軽くないよ」

真顔で言うと、キャバ嬢は真っ赤になった。

「君の心を癒したいんだ。迷惑かな?」
「いえ、聴いてみたい……」

酒が入っているせいかヤケクソになっている。
どうせ春美は俺のピアノを聞いてくれやしない……。

「悪いけどさ、このコンセントを差し込んでくれる?」

近くを歩く従業員を呼び止める。

「え、あの~……」
「店の迷惑になるようなら、すぐにやめるよ」

「は、はぁ……」

俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、鍵盤を叩きだした。
横にいるキャバ嬢の為に弾く。

嘘だった。
俺のピアノはそんなに軽くない。
春美へ聴かせたいだけだ。

でも、そんな機会すら訪れない。
やるせなさをキーボードに込める。
せつなさを音で表現した。

キーボードの便利な点。
それはピアノの音源だけじゃなく、様々な音を出せるというところだ。
DUALと書かれた場所の音色。
俺は九十二番のボタンを押した。
悲しげな曲を弾く時は一番ピッタリとくる音色だった。

ただでさえ悲しいメロディのザナルカンド。
電子音で調整すると、さらに悲しく聴こえてくる。

キャバ嬢は真剣に俺を見て、頷きながら聴いていた。

演奏が終わると、店内にいる客の白い目が目立つ。
俺は気にせず堂々とした。

「素敵…、本当に上手いですね。感動しちゃいました」
「俺はこれしか弾けないからな…。でも、君に捧げられて良かったよ」

「でも、私なんかでいいんですか? 本当は大好きだった子に……」
「きっかけはそうでも、今は君の為に心を込めて弾いた」

いくらキザで臭いと言われても、目の前でそれをやられたら女は弱い。
今までの俺の哲学だった。
「バラの花なんか持ってこられたら、笑っちゃう」そんな事を言う女に限って、俺が実際にそれをすると、コロリと落ちた。

下をうつむくキャバ嬢に俺はそっと手を重ねる。
女は嫌がるそぶりも見せず、さらに頬を赤らめた。

「今日、何時に上がるの?」

「じゅ、十二時……」
「そのあと、俺と会えないかい?」

「……」

「嫌ならいいんだ。もう君の迷惑になるだろうから、ここにも二度と来ないようにする」
「迷惑じゃない…。でも、今日会ったばかりで……」

「確かに会ったばかりかもしれない。でも、運命的に感じるよ。俺、初めて人の為にピアノを弾いたんだ」

「嘘……」

確かにに弾いたのは嘘ではない。
しかしこの子の為ではない。

「嘘はつかない。そこまで俺のピアノを弾く精神は腐っていない。俺を信じなくても構わない。でも、俺の奏でた音は信じてほしい」

次の日、俺は強引に仕事を休んだ。
店で口説いた女とホテルへ行ったからである。

北中は電話口でブツブツ文句を言っていたが、どうでもよかった。

久しぶりに他の女を抱く。
春美との一件で傷ついた心。
俺は他の女を抱く事で、その傷を埋めようとした。

違う女を抱くのは気持ちがいい。
その分だけ俺の魂は腐って汚れていくような気がした。

本当は春美一人でいい。
でもその願いは通じない。

だから、たくさん女を口説いて抱いた。
心も通わさせず、身体だけを重ね合わせた。

どの女を抱いたかなど、記憶に何も残っていない。
適当に飲み歩いては口説き、抱くだけだった。

手帳に抱いた女の数を正の字でつける。
とことん腐った性根。

ピアノのレッスンに関してだけは真面目に取り組んだ。
以前のように突発的な習い方ではなく週に一度、ちゃんと時間を作って行くようにした。

俺は月の光を着々と仕上げていく。
それ以外の時間は部屋でひたすらキーボードを弾いた。

夜になると抱く女を求め、夜の街を彷徨い続ける。
俺の心はどんどん腐っていく……。

ある日のレッスン中、俺は先生に言った。

「先生、ピアノって素晴らしいですね」
「でしょ?」

「ええ、この前、目の前でピアノを演奏したら女を五人抱けました」

俺の台詞に先生の顔つきが変わる。

「私はそんな事の為に…、あなたにピアノを教えたんじゃありません」

それだけ言うと、先生は俺に背を向けた。
図に乗った俺の台詞が、先生を傷つけてしまったのだ。

先生の背中は小刻みに震えている。
それで初めて俺は悪い事をしたと感じた。

春美に捧げる為に始めたピアノ。
本当は俺にとってもっと崇高なものじゃなかったのだろうか?

先生への恩義はいつも感じていた。
わがままな俺をいつでもニッコリ笑って受け入れてくれた。

しかし今、その先生が泣いている。
ひょっとして俺にピアノを教えた事を後悔しているのかもしれない。
俺は謝って、くっきぃずをあとにした。

部屋でひたすら考えた。
俺にとってピアノってなんだろう……。

最近抱いた女たちからの着信が鳴る。
俺は電源を切り放り投げた。

先生の言葉がずっと頭に残っている。
音楽とは感動。
それは弾いた俺が一番理解している。
どれだけ俺を癒してくれたのか。

ピアノを始めて良かった。
でも、この心の奥のどこかで何かが詰っている。

あれだけ週一で真面目に行ったくっきぃずも行かなくなった。

先生に習った部分だけを反復しながら部屋で弾いた。
ザナルカンドを弾くと、春美の寂しげな横顔が浮かぶ。
月の光を弾くと、先生の悲しそうな表情が思い浮かぶ。

俺って最低だ……。

複雑な心境のまま毎日を食い縛って生きる。
そんな俺に対し、北中の対応は酷いものだった。

ビデオを買った客にサービスする缶コーヒー。

いつも業者から買っていたが、ほとんど定価と変わらない値段だったので、俺は北中へ百円ショップなら二本百円で売っていると伝える。
すると北中は「どこにある? これからはそこで買ってこい」と即決した。

金に目がない男である。
少しでも自分の取り分が増えると思ったのだろう。

俺は西武新宿駅前の通り沿いにある百円ショップへ行き、缶コーヒーをケースごと買いに行かされるハメになった。
今まで掛かっていたドリンク代が半分になったと分かった北中は味を占め、それからというものドリンクを買いに行く事まで俺の仕事となってしまう。

余計な事を言ってしまったなと後悔したが、もう遅い。

人に頼むからどうでもいいと言った形で、北中はいつも無茶な要求をしてきた。
俺一人で十五ケース運んで来いと抜かす始末である。

北中の自転車を借りて百円ショップまで行く訳だが、どうやって自転車に十五ケースも積めるのだろうか。
俺は店の店員に頼み、台車を借りる事にした。

歌舞伎町には路上で高級車が停まっている。
大方ヤクザ者の車なので、台車を傾けぶつけないよう慎重に運ぶ。

メロンに到着しても、まだ地下まで運ばなければならない。
面倒な作業だった。

ある日北中の自転車がパンクしていた事があった。
自分に見に覚えのない北中は俺のせいだと喚き「早く自転車を直して来い」と命令する。

「どこでパンク修理なんてしてるんですか?」
「職安通り沿いのドンキホーテでしてるだよ。早く行って来い」

パンク代も渡さず、俺は自腹で自転車の修理をしてきた。
あとで請求する為に領収書をもらっておく。
メロンへ帰り、北中へ「六百円でしたよ」と領収書を見せる。

北中は領収書だけ奪い、「おまえがパンクさせたんだから、おまえの自腹だ」と訳の分からない事を言い、店を出て行ってしまう。
滅茶苦茶で酷い男だった。

客がいない状態で俺と北中二人きりの時は最悪だった。
奴の自慢話を延々と聞かされるハメになるのである。

「俺はなあ~、色々なヤクザに顔が利くだよ。真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台もそうだし富士見興業もそうだ。まあ上の沖田会と笹倉連合もそうだな。唯一顔が利かないのが、城北ぐらいだな」

ヤクザ者にまったく興味のない俺にはどうでもいい話だった。
それにヤクザに顔が利くからって一体何になるというのだろうか?
そんな自慢話をする北中は、滑稽にしか見えない。

「俺はな、昔暴走族に入っていてな。東京を制覇したホワイトツェッペリンって族だ。だから喧嘩だって半端じゃねえぞ」

五十代にもなって、何を言っているのだろうか?
ひょっとして俺をビビらせるつもりで言っているのか分からないが、それだけ強いなら格闘技の世界でも行ってみればいいのだ。

それにプロレス、格闘技の経験がある俺に対し、俺は喧嘩が強いぞなんて、馬鹿にされているようにしかとれなかった。

いつも札束を三つほど持ち歩き、事あるごとに見せびらかす北中。
そんな彼を歌舞伎町の住人たちは陰でこっそりと言う。

「金を持っているのは分かるけど、ああまでして金なんてほしくないよな~」

北中の評判は歌舞伎町でも話題に登るほど悪かった。

俺がパソコンを開きデータを入力していると、客が来た。

「お兄さん、あのさ、深川アリスの裏ってあるかな?」
「ちょっと待って下さい。今調べますから」

俺がエクセルデータで検索をすると、三点見つかる。
客はパソコンを使いながら仕事をする俺を見て驚いていた。

「凄いね、君。ビデオ屋でパソコンを使っている人間って初めて見たよ」

気に入られたのか、その客は椅子に座り込んでずっと話し掛けてきた。

その時北中が店に降りてくる。
客がいるというのにバックから三百万円を取り出し、俺のパソコンの上に放り投げてきた。

「何をするんですか?」
「数えろ」

北中は客がいると、自分は金を持ってんだぞと言いたいが為にワザとこのような行為をしてくる男だった。

「社長さん、儲かってるんだね~」

客がそう言うと、北中は笑顔になりながら「そうでもないだよ」と嬉しそうに答える。
こんな日常にウンザリしながらも、俺はメロンで毎日のように働いていた。

仕事を終え、店の近くの焼鳥屋で酒を飲む。
あれからくっきぃずには気まずくて顔を出していない。

だから当然月の光は完成していないままである。
それでも教わった部分だけは毎日弾いていたので、序盤部分だけは完璧に演奏できるようになっていた。

酒を飲む事で自分を誤魔化す。
気分が良くなるまで飲み続け、おみやげに焼鳥を十本頼んだ。

北中の性格。
あれは生涯直らないだろう。
嫌なら俺があの店を辞めればいいだけ。

それよりももっと仲良くするように接したらどうだろうか?
そう思って俺はメロンへ焼鳥を持っていく。

「ん、何だおまえ? 今まで帰らず飲んでいたのか?」
「ええ、たまにはと…。おみやげで焼鳥持ってきましたが、よかったら食べますか?」
「俺は二本ぐらいでいい。あとは上の連中に持っていってやれ」

ありがとうのひと言ぐらい、素直に言えばいいのに……。

期待した俺が馬鹿だっただけか。
諦めてフィールドへ焼鳥を持って行く事にした。

インターホンを押すと、タイ人のレクがドアを開ける。
店内は珍しく多数の客がゲームをして忙しそうだった。

「何?」
「いや、良かったら焼鳥食べるかなと思いまして」

レクは黙って受け取ると、礼も言わずにドアを閉めた。
この野郎……。

まったく礼儀のないタイ人である。
こんな連中に何かをしてあげようだなんて思う俺がどうかしているのだ。

再び飲みに行く。
今日はこのまま歌舞伎町に泊まる事にしよう。
明日はフィールドへヘルプに行く日だ。

家に帰るのが面倒だった。
フラフラ道を歩いていると、同じビルの三階にある〇〇連合の組員とバッタリ会う。

「お、岩上ちゃんじゃないの。何してんの?」
「あ、三井さん。いや、これから飲みに行こうかなと思いまして」

「じゃあ、その辺で一緒に飲もうぜ」
「いいですよ」

あのビルの人間で一緒に酒を飲むのは、このヤクザ者の三井が初めてだった。
三井は気さくなオヤジで、年齢をハッキリ聞いた事はないがおそらく四十後半ぐらいだろう。

毎日フィールドに千円だけを持ってくるポン引き連中が数名いたが、その金を徴収する係でもあった。
何故ポン引きたちがフィールドへ千円を渡しに来るのか不思議だった俺は、三井に聞いてみる事にする。

「ああ、あれはさ。うちで金を貸しているからだよ」
「ポン引きにですか?」

「そうそう。最初に五万円という契約で金を貸すわけね」
「ええ」

「ポン引きに手渡す時は利子の五千円を引いて、四万五千円を渡すの」
「利子が十パーセントって事ですか?」

「最初だけね。あとは毎日フィールドへ千円ずつ持ってこさせるの」
「それを何日やればいいんですか?」

「ん、そんなの五万全部を一気に返すまでに決まってるじゃん」
「え?」

「毎日千円っていうのはただの利子分だけだよ。ヤクザ者から金を借りているんだぜ。そのぐらい当たり前だろう」

「……」

つまりポン引きたちは五万円を一括で返さない限り、永遠に千円を毎日持ってこなければならないのだ。
さすがはヤクザ者のやり口だなと感心する。

「連中はさ、毎日客からちょっとずつボッタクっているからさ。毎日日銭はあるんだ。だから簡単にゲーム屋とか飲みにに行って使っちゃうわけね。だから五万円って金額を持っているポン引きは、そういないもんなんだ」

絶対にこの筋から金を借りるのはやめよう。
そう心に固く誓った。

この日はサウナへ泊まり、朝になるとフィールドへ向かう。
今日は山本とのタッグでゲーム屋をやらなくてはならない。

俺が出勤すると、遅番の小泉と秋葉が笑顔で迎える。

「おはようございます」
「昨日は忙しかったようですね」

「珍しくですけどね。でもそうなると北中さん、INとOUT差を丹念にチェックして、また抜けそうな台から抜けるだけ取りますから困ったものです」

この店の店長である小泉も、北中の事をよく思っていないようだ。
山本が出勤すると、〆をして遅番は上がる。

俺はゴミ箱を見て愕然とした。
昨日の夜おみやげで渡した焼鳥が、まったく手付かずのままゴミ箱へ捨てられていたのだ。
レクの奴……。

あの腐った性格のタイ人はいつかぶっ飛ばしてやりたかった。

朝は変わらず暇な店だった。
負けの込んだシンシンが、ふて腐れてゲームをしているぐらいだ。

「山本、マッサージして」
「えー、勘弁して下さいよ~」

ワガママな中国人のシンシン。
北中の女というだけで、回りも一目置いている。

俺はいい事を思いつく。

「山本さん、俺がマッサージ行ってきますよ」
「すみません、岩上さん」
「いえいえ」

総合格闘技へ復帰した二十九歳の頃、俺は家の近所のTBB総合整体の先生に体のメンテナンスをしてもらっていた。
その時その先生からの好意で治す技も教わる。

一度だけ先生は意地悪そうな顔をして、「岩上さん、実は眠くなるツボっていうのがあるんですよ」とその場所を教えてもらった事があったのだ。
あれからまだ一度も試した事がない。

本当に眠くなるのか半信半疑だった。
シンシンみたいな女なら、試してみてもいいだろう。

「岩上さん、マッサージうまいね」
「随分と肩が凝ってますね」

最初は普通にマッサージをしてやる。
シンシンは気持ち良さそうな顔をしていた。

十分ぐらいしてから、眠くなるツボを試す事にした。

「シンシンさん、ずっとゲームしているから目も疲れてますね。ちょっと痛いけど我慢して下さいよ?」

俺は右耳の後ろにある凹んだ部分を親指で押した。
時間にして三十秒ほど押し続ける。

「どうですか? 楽になりましたか?」
「スッキリしたあるヨ」

俺はリストへ行き、山本へ「シンシン、もうじき寝ちゃいますよ」と言った。

意味が分からない山本は不思議そうな顔をしている。
ノートパソコンを開き、ゲームをして時間を潰す。
あと五分もしないでシンシンは眠くなるはずだが……。

「岩上さん、岩上さん。見て下さい。シンシンの顔」

山本が小声で話し掛けてくる。

見るとシンシンは今にも眠りそうな顔でうつらうつらしていた。
かろうじてゲームをしようと目を懸命に見開くが、眠くて身体がいう事を利かない。
そんな感じに見える。

「見て下さい。シンシン、凄い顔をしてますよ」

俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

テーブルの上で涎を垂らしながら眠るシンシン。
客がいないのと同じである。

「凄いですね、岩上さん。眠くなるツボなんてあるんですね」と山本は感心していた。

俺は以前シンシンに頼まれた保証人の話をしてみる。
北中の名前が書いていない状態なのに、平気でサインしろと抜かす礼義知らずの女。

「それにしてもあんな北中さんの奥さんになろうなんて、やっぱ金目当てなんでしょうね」
「北中さん自体、結婚に関してはあまり乗り気じゃなかったみたいですから」

あの時の事を思い出すと腹が立ってくる。

「やっぱ世の中、金なんですかね」
「いや、そんな事ないと思いますよ」

「でも、北中さんを始め、歌舞伎町の人って、ほとんど奥さん外人ばかりなんですよ。ここのオーナーの金子さんの奥さんも中国人ですからね」

奥さんか……。

春美が俺の奥さんになってくれるなら、すぐにだって結婚してもいいのにな。
久しぶりに春美の事を思い浮かべた。
もう俺の事なんてすっかり忘れてしまっているんじゃないだろうか。

月の光もあれ以来進んでいない。
俺はいつだって中途半端な人間だった。

パソコンはある程度使いこなせるようになった。

だけど上には上がいる。
坊主さんなんて、俺のスキルを一としたら、千ぐらいの違いがある。

あんな腐った性格の北中に扱き使われ、俺はこれからもずっとこんな調子なんだろうか。

「岩上さん、どうかしましたか?」

「え、いえ、何でもないですよ。北中のやってきた事をそのまま書いたら、面白い小説になるんじゃないかなと思いましてね」
「中々あんな酷い人間いませんからね」

「今度、北中のこれまでの所業を書いてみましょうか?」

俺は冗談で言ってみた。

「岩上さんならできますよ」
「え?」

「岩上さんって努力家じゃないですか。そう思ったら小説も書けるんだろうなって」
「俺が小説? 今までそんなのやった事もないですよ。冗談で言ってみただけです」

今まで真剣に打ち込んできたもの。
プロレスラーを目指し、日々トレーニングに打ち込んできた。

絵は学生時代、センスだけで描いていた。
春美と出逢う事で少しでも喜ばしたい。
そんな気持ちから久しぶりに描いた。
彼女はとても喜んでくれたっけな。

浅草ビューホテルでバーテンダーとしての技術、心構え。
いつだって酒に対しては真面目に取り組んで勉強してきた。

ピアノ……。

春美と出逢い、俺は彼女に聴かせたいという想いからピアノを始めた。
未だ彼女にはザナルカンドを捧げていない。

パソコンは、坊主さんから徹夜で週末になると教わっている。
あまりにも色々な事ができるパソコン。
俺は何をしたいのかある程度目標を絞り、坊主さんから色々教わっていく。

詳しくなる度、この人は本当に凄いという事が分かる。
少しでも追いつきたかったが、無理だと感じた。

これほどレベルの違いを感じるのも珍しい。

「俺は中学生の頃から毎日のようにいじってんだぜ? 差があって当たり前じゃん」

そう言って坊主さんは笑っていた。

ん、待てよ?
パソコンのスキルなら坊主さんに追いつけなくても、ワードを使って小説を書いてみたらどうだろうか?

さすがの坊主さんも小説を書くなんて思ってもみないだろう。
正攻法で駄目なら、違う角度で追いつければいい。

これは全日本プロレス時代に知り合った偉大なる師匠、ジャンボ鶴田師匠を見てそう思った事である。

今は亡き、鶴田師匠。
初めて接した時あまりのスケールの大きさに対し、いかに自分がちっぽけな存在かを思い知らされたものだ。

追いつきたかった。
しかしまともに同じ事をしていたのでは永遠に追いつけない。

完全なる善玉だった師匠。
だから俺は真逆であるヒール、悪党の道を意識して歩んできた。
プロレスが駄目になってからも、ヒールでいようと決めた。

どんな形でもいい。
俺は鶴田師匠に少しでも追いつきたかったのだ。

あの人が生きていたなら俺は、未だ頑張ってリングの上で戦う事を選んでいたかもしれないな……。

全日本プロレス時代にいた誇りを最近忘れていたようだ。

決して自分を見失うな。
俺はあくまでも俺でしかない。
だから自分なりの亜流で頑張ってみればいい……。

「山本さん、俺、小説をやってみますよ」

俺は新たなジャンル、小説に挑戦してみようと決めた。

家に帰ってから作品の内容を考えてみる。

北中の所業をいきなり書くのは簡単だ。
ありのままを書けばいいだけ。

しかしもし仮にそれが世に出たとして、読者はこれを信じるだろうか?
絶対に漫画のように空想の話だととられるだろう。
それじゃ小説を書く意味合いがいまいちだ。

では、どうする?
俺が人と違う経験をしてきた事を活かし、話を作るしかない。
まずは歌舞伎町を知ってもらわないと話にならないだろう。

この街に一番始めに来て働いたゲーム屋ベガ。
あそこのオーナー鳴戸は本当に酷かった。
北中とはまた違う種類の酷さである。

俺を気に入ってくれたまでは良かった。
しかし、ヤクザ者の親分のところへ連れて行かれ、危うく組員にされ掛けたのだ。
これを元に書いてみるかな……。

いや、まだあの時の事をそのまま書くには刺激が強過ぎる。
主人公はもっと大人しい性格にさせて、あの鳴戸の怖さを引き立てるように書く。

そして幼少期、母親に虐待された俺の過去。
あの時の思いを主人公へ託そうじゃないか。

まだ小説を書き始めてもいないのに、俺はどんどん先の話を膨らませていた。

よし、書こう。
小説を……。

山本と冗談で話していたものが、本当にする事になるとは。
だから生きるって面白いんだ。

完成したら真っ先に春美へ報告しよう。
そしてもし彼女が逢ってくれるなら、俺はザナルカンドを捧げたい。

主人公の名前はどうするか。
まだキーボードをブラインドタッチできない俺。

メロンで商品の入力をする時だって、人差し指でアルファベットを探しながら打つ始末である。
それなら打ちやすい苗字がいいだろう。

まずは同じ母音を使う苗字がいい。
右の人差し指でほとんど入力する訳だから、左手は一つの母音を常に押せる位置がいい。

すると『AIUEO』の中で一番押しやすいのが左端にある『A』である。

「あ、あから始まる苗字……。相田、赤間、浅生、浅野…。どうもしっくり来ないな。荒幡、新井、違う…。あ…、赤崎…、ん?」

赤崎だと母音の『A』を三回も使えるぞ。
こりゃあいい。

『A』が三回に『K』が二回も使えるから非常に打ちやすいはずだ。

決まり。
主人公の名前は『赤崎』にしよう。

名前はどうするか?
俺がつけてほしかった名前でいいや。

こうして主人公の名前は『赤崎隼人』となった。

年齢の設定はどうしよう?
やっぱ俺が歌舞伎町に来たのと同じ年の二十五歳がいいかな。

出だしはどうしよう?

小説を書く作業って、思ったよりも数倍楽しいかもしれない……。


闇 31(新宿クレッシェンド編)

翌日俺はメロンでもノートパソコンを持ち込み、仕事の準備を済ませると、題名も考えず、小説を書き始めた。
パソコンのワードを起動し、横書き四十字掛ける四十字を確認。

出だしはどうするか?
淡々と始めたいものだ。

裏ビデオを買いに来る客の相手をしつつ、俺は空いた時間を小説の執筆に没頭した。


 日本の景気?
 そんなもん、世の中、不況だろうが好況だろうが俺にはどうでもいい。

 今日もやる事がなく、家でただテレビをつけて横になっている。
 何かのドキュメンタリー番組で、やらせかどうかは分からないが、歌舞伎町特集をやっていた。本当、派手な街だ。ボーッと俺は、画面を眺める。
 二十四時間灯りが消えない街。新宿歌舞伎町。

「俺には関係ないことだ……」

 独り言をつぶやいて布団に横になる。すっかり肌寒くなってきた。もう十二月に入ろうとしている。

 現在、仕事もしていない状況で、わずかに貯めておいた金は、どんどん目減りしていく日々……。

 今の自分の現状が、嫌で堪らなくなる。
 目を閉じると、頭には昨日のことが思い出されてくる。



うん、なかなかいい感じだ。

実際テレビなんて俺はほとんど見ないので、内容は捏造だけど、確かこんな番組をやっていたとフィールドの誰かが言っていたっけ。

いいところが無く、まるで駄目な主人公を作りたい。

ついでにいきなり彼女にフラれさせようじゃないか。
作者である俺だって、春美にフラれているのだから……。

そうするとヒロイン登場って形になるが、名前はどうする?

高校時代にフラれた『永井泉』を思い出した。
今頃いい女になっているかな。
最後に会ったのはいつだっけ?

俺がまだ二十代半ば…、歌舞伎町に来て一年も経たないゲーム屋『プロ』で働いていた時。
高校卒業以来、初めて泉に会い浅草ビューホテルへ連れていった思い出。
あれが最初で最後だから、ずいぶん時間が経ってしまった。

よしヒロイン名は『いずみ』でいこう。

主人公はキーボードで打ちやすい苗字の赤崎隼人。
彼女役は泉。

あくまでも歌舞伎町の入門編として書くようだから、実際にあった事ではなく、かなり物事を薄めるようにしないといけない。
できれば鳴戸にあの時連れていかれたヤクザの事務所のエピソードを入れたいが、それだと読み手が嘘くさく感じ、実話なのに作り物っぽく見られてしまうだろう。

リアリティさは大事。
でもそれは歌舞伎町の話のほうじゃなくてもいいはず。

左瞼の傷が一瞬疼く。
そうか、俺は傷を左人差し指でゆっくりなぞる。

俺は過去お袋に受けた虐待の一部を思い出し、主人公である赤崎へ想いを託す事にした。
あの幼き頃無力だった幼少期。
この傷をつけられた時の鮮明な思い出。
自分の目線から見たあの恐怖を投影すればいい。

そうなると親父は、どうする?
あの女癖の悪さを書くと、どうしても加藤皐月まで出てしまう。
そこまで詳細を書くのは面倒だ。
物語上長くなってしまうから、事故で死んでしまった事にしてしまえばいいか。

物語を要約すると、無職で女にフラれた赤崎が、勘違いから新宿歌舞伎町へ行き、ゲーム屋で働くというシンプルなストーリー。

大まかな話の核になる部分を何個か考えてみた。
一つはお袋の虐待に遭っていたという過去。

三兄弟設定はどうする?
お袋はいない状態で親父は事故で死亡設定。
それで三人の兄妹って、何かバランス悪くねえか?

妹代わりに可愛がっているミサキの存在を入れるのも面白い。

でも女兄妹がいない俺にとって、生活描写はリアリティに欠けてしまう。
ならいっその事、幼少期に自分の責任で妹を亡くしている。
こんな設定なら違和感ないはず。

虐待と妹の喪失。
この二点は、赤崎隼人のこれまでの性格を形成させる上で必要だろう。

妹の件は作り話で、お袋の件は本当にあった事。
虚と実が入り混じる事により、作品はリアルさを出してくれるはずだ。
そんな妙な確信があった。

次は歌舞伎町へ行く訳だから、歌舞伎町について分かり易く説明しなければいけない。

まず店長をどんなキャラクターにするか。
いやいや、何故無関係の新宿に主人公が働く事になったのかが先だ。

当時の俺がこの街へ来たきっかけ。
純粋に金が無かったから。
それだけじゃない。
昔からつるんでいる先輩の坊主さんが裕子さんと披露宴をする。
友人代表のスピーチまで頼まれた俺は、本当に焦ったのだ。

当時祝い金を包む余裕すら無かった俺。
現実逃避で川越駅西口にある洋食屋グリルトーゴーへ行き、そこで東スポを読みながらハンバーグを食べている時だった。

ふと目にした三行広告。
『喫茶十二』という日当に釣られ、歌舞伎町へ行ったのがきっかけだ。

当時歌舞伎町で喫茶といえば、ゲーム屋を指す。
そんな事も知らずに俺は呑気に新宿へ初めて向かい、現在に至る。

あの時のオーナーの鳴戸。
何も知らない俺に対し妙に関心を抱き、それは見ず知らずの奴との死闘、挙句の果てにヤクザ者の親分のところまで連れて行かれた。
プロレスは八百長ではないと言い張る俺の顔面を何度も殴ってくれたよな。

ベガを辞めて以来まったく会っていないが、まだこの街にいるのだろうか?
あのイケイケな性格だ。
長生きはできないよな……。

まあこの辺は全部端折って、トーゴーでの東スポのシーンだけでも新宿へ行く充分な動機にはなるだろう。

仕事を終え、ノートパソコンの電源を落とす。
猛烈に腹が減っていたので、同級生の岩崎努へ電話を入れた。

「あ、ゴリッチョ。俺今仕事終わったところでまだ新宿なんだけどさ。一時間ぐらいで川越着くから、飯でも行こうよ」
「いいけど、どこ行くんだよ?」

「そうだな…、たまにはステーキ宮なんていいな」
「分かった。一時間後駅まで迎えに行くよ」

彼の仇名はゴリ、またはゴリッチョ。

あまり地元の人間とつるむ機会の無い俺ではあるが、ゴリとは妙な腐れ縁で不定期にちょくちょく会っていた。
西武新宿線の特急小江戸号に乗って帰る。

ゴリと合流し、俺たちはステーキ宮へ向かう。

「何だよ、話って」

独特のダミ声で聞いてくるゴリ。

「いや、俺さ…。小説を書き始めようと思ってね」
「俺は活字読まないからどうでもいいよ」

「別におまえに読んでくれなんて言ってないだろ。新しい事を始めたから言っといただけだ」
「へー、じゃあ俺も作品に登場させてくれよ」

ニヤニヤしながらゴリはステーキにフォークを突き刺す。

「仇名で? 本名で?」
「そうだなー…、苗字だけで」

主人公の名前が赤崎隼人。
岩崎を出すと、『崎』がいきなり被るじゃねえかよ……。

それを説明すると、ゴリは「そんな細かい事はどうだっていいじゃねえかよ」と、どうしても岩崎で登場させろとうるさい。

「どういう役柄がいいのよ?」
「そうだなー、主人公のいい上司役としてがいいかな」

コイツは本当の馬鹿である。
そもそも主人公は俺の半分分身のキャラクター。
そこへどうやってゴリのような男が俺の上司になれるのだ?

ゴリのままの性格で出すと、絶対に物語がおかしくなるだろう。
いや、名前だけ使ってくれればそれでいいと言った。
ならば話は別だ。

あの街で最初に知り合った店長といえば、『ベガ』の高橋ひろし。

彼が俺に対して色々親切にしてくれた事などを思い出し、…と言っても高橋は店の金を抜きまくっていたものを少しくれただけだけど。
うん、高橋の行動をそのままゴリの名前で書けばいい。

物語はある程度、自然と頭の中でできあがっていた。

俺が新宿歌舞伎町へ初めて行った時の心境。
虚と実を混ぜるようだから、ゲーム屋の名前もそのままベガじゃマズいよな……。

もしこの作品が世に出た時に、あの鳴戸の目に止まると面倒臭い。

ゲーム屋の名前はどうするか。

昔対戦格闘ゲームでハマったヴァンパイアハンターに出てくる女性キャラのモリガン。

彼女の必殺技がダークネス・イルージョン。
長過ぎるからダークネス?
うん、ダークネスなんて歌舞伎町らしいじゃん。

俺は岩崎をゲーム屋『ダークネス』の店長という設定にする。

寝て起きて歌舞伎町メロンへ出勤。
こんな早い時間帯から客など来ないから、俺はノートパソコンを広げ、意気揚々とワードを起動した。

あ、ゲーム屋なんて、一般は誰も知らないよな。
俺だって始めは喫茶がゲーム屋だなんて知らずに行ったぐらいなのだ。

ポーカーのルールはみんな分かるにしろ、店内ビンゴなんてどう説明する?

あー、あの頃の写真を撮っておけば良かったよ……。

もうゲーム屋なんて歌舞伎町じゃ絶滅危惧種だもんな。
頭の中にビンゴの風景が残っている内に、絵にしてみよう。

俺はフォトショップを起動して、インターネットでトランプのカードを拾う。

でもこんな絵を描いたところで、小説じゃ使えないぞ?
結局文章で説明しなきゃいけないのかよ……。

問題はゲーム屋のシステムなどを書く部分。
非常に面倒な作業だった。

自分では分かりきっている事を文字だけで、読者に分からせなければならない。

登場人物の赤崎と岩崎。
この二人でうまく説明できるように会話形式にしてしまえばいい。

途中来る客の対応をしつつ、小説はじわりじわり進んでいく。

ここまで書きながら先の展開を考えていると、階段を降りる足音が聞こえてくる。
北中だった。

「おう、売り上げはどうだよ?」
「お疲れさまです。現状で五万円ですね」

「そうか。あと少ししたら倉庫に行って、野路さんを飯に行かせてくれ」
「分かりました」

執筆意欲が湧いているところを邪魔しやがって、この馬鹿が……。

俺は心の中でそう呟きながら、パソコンの電源を落とす。
まあいい。
どうせ俺が倉庫に行けば、野路は二時間ぐらい帰ってこない。
その間の時間を利用して、小説を書けばいいだろう。
ちょっとした時間でも今は小説を書いていたかった。

通常の仕事なら考えられない事だが、裏稼業という杜撰な管理体系のお陰でそれが許される。

倉庫へ入ると相変わらず臭かった。
何度来ても、この匂いに慣れる事はないだろう。

野路は自由になれる時間がやってきたと上機嫌。
一日二時間程度の休憩時間を取れる事で、ここまで嬉しそうにはしゃぐ野路はある意味哀れだ。

「それじゃ飯に行ってくるけど、お願いね」
「ええ、ゆっくり行ってきて下さい」

「あ、そういえば最近ピアノ、持ってきてないじゃん。もう辞めちゃったの?」
「ああ、キーボードの事ですか。別に辞めた訳ではないですよ」

「いや、前にメロンの階段降りていくと、いい音色の曲が聴こえるなあって思ってたからさ。まだ辞めた訳じゃないのね」
「ええ、ただあれを毎日持ってくるって、結構大変な作業じゃないですか」

ピアノの先生との経緯からレッスンへ行っていない事を説明するのが面倒だったので、適当に言い訳をしておく。

「そりゃあそうだ」
「ゆっくり食事へ行ってきて下さいよ」

「ありがとう」
「そういえば野路さんって休みとかまったくないんですか?」

「俺はないよ」
「一年中まったくですか?」

「ああ、おまえはまだ入って半年も経ってないから知らないのか。俺さ、実はフィリピンに嫁さんと子供がいるんだよね」
「え、本当ですか?」

この野路のような男が結婚していたという事実。
予想もしていなかったので正直ビックリした。

「嘘ついたってしょうがねえじゃん」

「そ、そうですね……」
「一年に一度、二週間ぐらいはフィリピンへ行っているよ」
「一年に一度だけですか?」

結婚している意味などあるのかと思った。

「ああ…、昔は一ヶ月行っては、一ヶ月こっちにいてって生活だったんだけどなあ~」

野路は遠くを見るような視線でしみじみと呟く。
この人もこの人なりの人生があるのだ。

この台詞が本当なら、昔はかなり羽振りが良かったという事になる。
いまいち信じられないが……。

「まあ、飯に行ってくるよ。あとよろしくね」

始めは本当に無愛想だった野路も、ようやく俺という人間に対し慣れてきたようだ。
以前ならこんな普通に会話するなど考えられなかった。
今度ゆっくり酒でも飲みながら、彼の過去を聞いてみるか。

野路が倉庫を出ると俺は部屋の窓を全開にして、自腹で買っておいた芳香剤を部屋の隅に二袋分バラ撒く。
少しはこれで匂いも浄化するだろう。

俺はテーブルの上にダンボールを引いて、その上にパソコンを乗せる。
これでゴキブリ対策は少しマシになるはず。

さて小説の続きだ。
今はこの作品を一日でも早く完成させたい気持ちでいっぱいだった。

北中から配達の注文が来ない事を祈りつつ、俺は小説をまた書き始める。

文字を書くという作業が、こんな面白い事だなんて思いもしなかった。
ピアノとはまた違った面白さ。
それが執筆というものにはある。

自分の好き勝手に作り上げたキャラクターを動かせ、様々な形で考えを持たせる事ができるのだ。
文字を書いていく上で俺は、頭の中でそのイメージを映像化してみる。
俺の文章を読んだ読者がいたと仮定して、勝手に映像が頭の中にイメージ化できるよう心掛けた。

だいたい小説って、原稿用紙で何枚ぐらい書くものなんだろうか?
今まで小説を読んだ事はあるが、原稿用紙で何枚なんて気に掛けた事もない。

出版されている小説を思い出し、本の厚さを考えてみた。
原稿用紙で三百枚ぐらい書ければ、少なくても一冊の本になるだろう。

文学というものについて、何の知識もない俺。

無知ではあるが、この熱き魂を文章に投影すれば遜色のないものができあがるという何の根拠もない自信だけはあった。

本当に面白い小説って、読み出すと時間がまったく気にならないもの。
俺が読み手だった時そうだった。
そんな本に出会えると、幸せすら感じたものである。

俺もそういった感じの本を作りたかった。

書く上で気に掛けなきゃいけない事。
あとは読みやすさだろう。

俺は登場人物たちに、不自然さを感じさせないように会話をできるだけ増やすようにした。
背景描写など退屈なものは必要な事以外排除し、心の中の葛藤などをクローズアップさせるようにする。

人間の考えている事をメインに物語を進めさせよう。

倉庫に行って二時間。
その間に配達が三回あったが、それ以外は執筆に集中できた。

仕事帰りに行きつけのスイートキャデラックへ寄る。
そこでもパソコンを引っ張り出し、小説の続きを書いた。

いきなり小説を書き出した俺に、マスターはビックリしていたが、そんな事はどうでもいい。

俺の横では以前揉めた事のある水野が、小説について一人でブツブツ何かを語っていた。
こういう輩は自分では何もしないくせに、物事を偉そうに語るのが好きなのだ。

音楽にしてもそう。
ザナルカンドを俺が弾いた際、絶賛していたくせにゲームの曲と分かった途端手のひら返しをする人間。

相手にしている時間が勿体ないので、俺はグレンリベットを飲みながらひたすら作品を書き続けた。

ウイスキーをストレートで飲んだあと、続けてチェイサー代わりにアイスコーヒーを流し込む。
ここのアイスコーヒーは本当に旨い。

本当は一度でいいから春美をこのジャズバーへ連れてきたかった。
そしてこのアイスコーヒーを飲ませて、「美味しい!」と微笑んでほしかった。

あの百万ドルの笑顔がまた見たい。
今となっては叶わぬ願いではあるが……。

この俺が小説を書いているなんて聞いたら、春美はどんな顔をするだろうか?
君が喜んでくれるなら、喜んで俺はこの題名のない作品を捧げようじゃないか。

彼女との初デートを思い出す。
あの時は本当に幸せだった。
帰りに撮ったプリクラは、未だ大事にいつも持っている。

何で俺じゃ駄目なんだろうか……。

どんなに努力しても振り向いてくれない春美。

せつなかった。
そして悲しかった。

一度だけでいいんだ。
俺のザナルカンドを聴いてくれ。
そして微笑んでほしい。

今までこんなにも一人の女を愛した事などあるだろうか?

過去、気になった子は何人もいる。
好きなんだと自覚した優しい子だっていた。

金にものを言わせ、たくさんの女を抱く度その崇高な想いは薄汚れていった。
あの歌舞伎町の街並みのように。
それからはどんな女に会っても抱きたいというだけで、本当に求めた女なんていない。

何故俺は春美なんだろう。

確かに彼女の誕生日前日にデートをした。
何度かメールでやり取りした。

しかしそれだけなのだ。

抱いた訳ではない。
それ以上の何かがある訳でもない。

ここまで春美にこだわる理由。
いくら考えても分からなかった。

理屈なんかじゃない。
おそらく俺の本能があの子を求めているのだ。

生涯春美じゃなければ、俺は納得する事なんかないだろう。
そのぐらいの確立で、俺と春美は出逢ってしまったのだ。

春美の為に絵を描きだした。
春美の為にピアノを弾きだした。
そして今、春美の為に小説を書きだしている……。

これらは三十歳になってからすべてやったものだ。
二十代の頃を思うと、考えられない自分がいた。

全日本プロレス上がりの俺は、どこへ行っても力の対象として、みんなから支持された。
何らかの力仕事があると、いつも「岩上さんに頼めばいいじゃない」、そう言われ続けてきた。

力を頼られるのはいい。
人より多くの時間を費やし鍛えてきたのだから。

しかし俺は力だけを鍛えてきた訳じゃない。
内心、複雑な気持ちだったのだ。

自分を変えたかった。
力としての対象としてじゃなく、様々な意味で変えたかった。

だから絵を描き、ピアノも弾き、小説もやり始めている。

春美の為と思ってはいるが、本当はきっかけに過ぎないのかもしれない。
俺はもがき続けている、今も……。

いけない、いけない……。

過去を振り返る時間があるなら、今は小説の続きを書こう。

北中がいきなり旅行に行くと言い出した。
店は完全に俺と野路に任せ、十日間ほど行くと言う。

俺の休みはどうなるのか聞いてみた。

「そんなのある訳ないだよ。その分稼げるんだから、稼いでおけ」

偉そうに話す北中。
自分の都合で人を勝手に振り回し、それに対し何の感謝もない男。

まあいいか。
ここにいれば、小説を書いたりピアノを弾いたりできる自由だけはある。
不満を言ったらキリがない。

「あ、そうそう。この店の名義人って誰なんです? 俺、今まで聞いた事もないですけど。教えといてもらえません。最悪警察が来たら、対処のしようがないじゃないですか」
「浦安だよ」

「え、だって浦安さんって飛んだんじゃ……」

「浦安の名前で大丈夫だよ」
「そういう問題じゃ…。まず、その辺をちゃんとしてもらえませんか? 警察にパクられる商売じゃないですか」

歌舞伎町の裏ビデオ屋は、月に二、三軒パクられていた。
ゲーム屋はもっと酷いものだ。

どちらかといえば警察は、ゲーム屋を躍起になって検挙していた。
ゲーム屋は徐々に減り、空いた店舗にはビデオ屋が増えていく現実。

そろそろビデオ屋に対する取締りが増えていくような気がした。

こういう商売をしているのだ。
その辺はしっかりさせてもらわないと、捕まった時に俺が困る。

「あと、ここのケツモチです。教えといて下さい。もちろんヤクザ者が嫌がらせに来た場合を想定してですけどね」
「〇〇会と〇〇連合だろ」

「それは上の事務所じゃないですか。あそこの二つにケツモチ料払っているんですか?」
「いや、違うだよ」

「じゃあ、どこなんですか?」
「真庭組に橘川一家、西台、富士見興業…。大丈夫だ。全部俺は顔が利くだよ」

「だからそういう事を聞いてんじゃなくてですね……」
「今、俺は明日のフィリピンへ行く準備で忙しいだよ。今度ゆっくり話してやる」

そう言って、北中はメロンを出て行ってしまった。
本当にいい加減なオヤジだ。
フィリピンとか行っていたが、どうせ女を買いに行くだけだろうが……。

入れ替えにフィールドの大阪が入ってきた。

「また北中さん、うちに来ましたよ。飯行ってきますって、上手く抜け出してきたんですけどね」
「またゲームを打ってんですか?」

「多分。今、締め用紙眺めながら、INとOUT差をチェックしてましたからね」
「何でもフィリピンに行くとか言ってましたよ」

「ああ、うちの店長の小泉も行くらしいです」
「え、あの小泉さんも?」

あの店で唯一まともそうに見えた店長の小泉。
彼は貯金もしっかりしていると聞いていたが、そんな小泉ですら女を買いに行くのか。
ちょっとショックだった。

北中がフィリピンに旅行へ行ってから、俺は最後まで仕事をするハメになる。
仕事自体暇なので、何時間働いても疲れる事はない。

小説を書くという目的がなければ冗談じゃないが、まあプラス思考でとらえておく。

逆にあの臭い倉庫へ行く事もなくなるし、人使いの荒い北中がいないのだ。
伸び伸びと仕事ができる。
小説に没頭する事も可能だ。

俺に慣れてきた野路は、仕事が終わると嬉しそうな表情で「いや~、昨日は久しぶりに酒を飲んだよ~」と声を掛けてきた。

「どこかへ飲みに行ったんですか?」

俺はスナックを連想させた。
そういえば俺もしばらく行っていないな。

「馬鹿言えよ。フィリピンに十万ずつ毎月送っているんだ。どこにそんな金があるんだよ」

家族と離れ離れの毎日。
どんな思いで過ごしているのだろう。

「だって飲みにって……」
「部屋で発泡酒二つ買って、飲んだだけだよ」

この業界が長そうな野路。
居酒屋へ飲みに行く金もないと言うのだろうか?

そういえば倉庫では、いつも店にある缶コーヒーか、二リットルのペットボトルの烏龍茶をラッパ飲みしていたな。
とても贅沢をしているようには見えない。

「でも十万円を毎月送金してるって言っても、残りの分は貯金でもしてるんですか?」
「できる訳ないじゃん。俺の給料は二十万だからな」

「え~! ほんとっすか?」

俺よりも金をもらっていないなんて、一体どうなってんだ?
訳が分からない。

「金を送って、飯を食ったら何も残りゃしないって」

確かに毎日三食を外食で済ませていたら、十万円なんてあっという間になくなるだろう。

哀れに感じた俺は、自分の財布から千円札を三枚出して「野路さん、たまにはビールでも飲んで下さいよ」と手渡した。

「え、いいの? ありがとう、ありがとう」

野路は上機嫌で倉庫へ戻っていった。

翌日客の注文をして商品を運ぶ野路は、メロンへ来ると「昨日はご馳走さまでした」と礼儀正しくお礼を言ってきた。
あの程度でそこまで感謝されるなんて、今までどんな生活をしてきたんだ、この人は?
まあお礼を言われて気持ちいいことはいいので、笑顔で応対をしておく。

今度野路がフィリピンの家族へ行ける日というのは、一体いつ頃になるのだろうか。
俺にはさっぱり分からないが、もっとこの人は幸せに生きないといけないような気がした。
人見知りでなかなか心を開かない人ではあるが、根はいい人なんだろう。

不潔なだけと思っていた野路に対し、俺はちょっとした親近感を覚えていた。

十日後、北中は上機嫌で帰ってきて、紙袋からお土産を店内で広げだす。

何かくれるのかと期待したが、高そうな香水を渡され「上の〇〇会と〇〇連合の事務所に、俺からだって渡してこい」と言われただけで、従業員たちへのお土産など何もなかった。
いくら仕事とはいえ、ヤクザの事務所へ行くなんて嫌だなあ。

まあこんな商売をしているのだ。
上のヤクザはたまに暇なのか、顔を出し世間話をしてくる。

狭い階段を登り、二階の〇〇会のドアをノックする。

「はい」

短い返事が聞こえたので、ドアを開けた。
組員が近づいてくる。

「お、岩上ちゃんか。どうした?」
「これ、うちの北中から、フィリピンに行ったおみやげです」

「おう、どうも。うちのオジキも喜ぶよ。北中さんによろしく言っといて」
「分かりました。それでは失礼します」

ドアを閉め、三階へ向かう。

今度は〇〇連合だ。
同じようにノックをする。

「おう、何や」

ドアを開け、一礼する。

「何や、岩上はんやないけ。どないしたんや?」

組長の岡村が直々に出てきた。

「これ、うちの北中から、フィリピンへ旅行へ行ったおみやげだそうです。どうぞ」
「おう、おおきに。お礼言うといてや」

「分かりました」
「あ、岩上はん。お願いあるんでっけど」

「何でしょう?」
「知り合いでな、SM物を欲しがっている奴おるんや。十本ほど用意できんかな」

「十本もあるかどうかは分かりませんが、調べておきますよ。あとでまた連絡します」
「あと一時間ぐらいでワイ、用事あるんや。その時メロン寄らせてもらいますわ」

「分かりました。それではそれまでに何とかしておきますよ」
「おおきに」

店に戻ると、北中は携帯で撮ったフィリピン人女性の画像を何人も見せてきて、「どうだ? 俺はこんなにモテるだよ」と自慢げに語っていた。
お土産でなく、土産話を繰り返し話す北中。
間違いなく日本人を代表するクズ野郎である。
こういう奴が金をつかむから、日本はおかしくなるんだ。

北中は喋り飽きると、「上に行ってくるだよ」と出掛けてしまう。
勝手な奴だ。
いないほうが清々するが……。

一時間ほどして〇〇連合の組長である岡村がメロンに来た。
俺は用意しておいたSM物の裏ビデオを手渡す。

「おおきに、岩上はん。ちょっと一服してもいい?」
「ああ、どうぞどうぞ。缶コーヒーしかないですけど、飲みますか?」
「おおきに」

岡村はとても人柄の良さそうな笑顔をする。
組長だと聞かなければ一般人でも通用するんじゃないかと思うぐらい愛想がいい。

「そうそう、北中はんいるやろ」
「ええ、どうかしたんですか?」

「結構うちらの耳に、エグい事しとるって耳に入ってくるんや」

北中は、歌舞伎町の住人たちへ、個人的に金を貸している商売をしていた。
自分でヤクザ者に顔が利くと思い込んでいる北中は、金貸しに関してだけはケツモチをつけていないようだった。
確かにヤクザ者からしたら面白くないだろう。

「確かにエグいですからね、あの人は」
「まあ、うちらの目の届かないところでやっとる分には、まだいいけど、目の届く範囲でやらかしたら、ケジメとらなあきまへん」

「それはそうですね」
「まあ、岩上はんにこんな事言うの、愚痴に聞こえますかいのう。つまらん話はやめときまひょ」

「いえいえ、そんな事ないですよ」
「そんじゃ、そろそろ行きますわ。コーヒー、おおきに」
「どういたしまして」

組長の岡村が出て行くと、俺は小説の続きを書いた。

小説を書き始めてから二週間が過ぎる。
執筆途中で何度も面倒臭くなり、投げ出しそうになった自分がいた。

自分で適当に三百枚ぐらい書けばいいと思っていたが、未だ百枚まで到達していない現実。
やっぱ小説家って凄いよな……。

正直、あと二百枚以上書ける自信がなかった。
自分で想定していたクライマックスまでもう少しで到達してしまう。

それはそうだ。
俺は何の勉強もせず、いきなり小説を書いてみよう。
それだけで挑戦しているのだ。
いくら意気込んだところで、素人だとこの辺が限界なのかもしれない。

モチベーションがあきらかに落ちていた。

これだけ頑張って寝る間も惜しんで書いた作品。
執筆中止まらなくなり、メロンのテーブルの上で朝まで書き続けた日だってあった。

それなのにまだ百枚も書けていない現状……。

やる気だけじゃ駄目なのかもしれないな。
どうせ作品を完成させたって、春美は見てくれないさ。
そう考えると、あれほどあった執筆意欲がどんどん萎んでいく。

結局のところ俺なんて全部が中途半端なんだ。

だから全日本プロレスだって駄目。
浅草ビューホテルでバーテンダーしていましたと言ったところで今は関係ない。
ピアノだってザナルカンドだけ。

絵も過去の事を栄光と勝手に勘違い。
小説だって未熟なまま……。

自己嫌悪に陥っていた。

まだ金を稼げていたワールドワンの頃ならよかった。
有り余る金を使いながら、そういった事を誤魔化せたからだ。

今は違う。
誤魔化せるような遊び方をできるほど稼ぎだってない。

現状の俺は裏稼業の人間から「岩上さんって凄いですね」と、持ち上げられるだけの井の中の蛙と変わりがないのだ。
大学や大学院まで行って勉強をしている奴らとは、努力してきたものが極端に違うのである。

俺ら裏稼業の劣等生たち。
あきらかな人生の負け組。
一時、意地汚い真似をして金を稼げる時はあるが、そんなもの本当に一瞬である。

勝ち組は違う。
年数と共にどんどんいい給料を堂々ともらえ、警察の世話になる事なんてない。

いくら足掻いてみたところで、人生に逆転なんぞありはしないのだ。
これまで生きてきた過程をすべて打ちのめされた気がした。

俺が小説を書き出した事は、フィールドの客連中だって知っている。
中にはこんな俺に対し「岩上ちゃん、頑張って日の当たる世界に出てくれよ」と熱っぽく語る客だっていた。

どうやって日の当たる世界に行けというのだ。
こんな状態で……。

もう一度鍛え直し、リングの上にでもあがるか。

「……」

そんな甘い世界じゃないのは、自分が一番知っているだろうが……。

寝る時間も惜しみトレーニングし、毎日寝ゲロをするまで胃に食い物をぶち込んだあの頃とは全然違うのだ。

感覚が研ぎ澄まされていた若き時代。
随分と昔の事のように思える。

体力だけが自慢だったあの頃。
いつからこうなってしまったのだろう。

ピアノに没頭する余り、それと引き換えに体力はなくなっていった。

それはそうだ。
時間だけはどんな人間にも平等なのだから。
腕立て伏せやスクワットをしていた時間をやめ、ピアノの鍵盤を叩いていたのだ。

今、こうして小説を書くという事にどれだけ意味がある?
考えれば考えるほど気分は落ち込んでいく。

そもそも何で小説なんて書こうと思ったのだろう。
春美に伝えたいというのもあるが、それ以前に坊主さんの化け物のようなスキルを別の形でいいから超えたかったからである。

正攻法ではなく亜流でという事。
要はズルと一緒だ。

そのズルですら、こうして息詰まっている。
そして妙なプライドだけが高くなり、どんどんくだらない人間になっているのだ。

もういい。
駄目なものは駄目。
降参だ……。

こんなんだから、俺は春美からも相手にされないのである。

今日はこのあと坊主さんと会う日。
正直に今の心境を伝えよう。





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