闇 631(2024年幕開け編)
闇 631(2024年幕開け編)

2026/08/06 thu
※俺は13年間のブランクのリハビリをしているだけなんじゃないかなとまで感じるようになった。そしてこのまま朽ち果てるのは悔しいから自身の人生を書き残している。
前回の章

二千二十四年一月一日、月曜日大安、元日。
新年を迎え、二千二十四年。
河本マンションで、ポツンと一人淋しく年越しを迎えてしまった。
ベランダへ出てセブンスターに火をつける。
五十二歳になった今、俺は何年まで生きるのだろう。
自殺願望はないものの、夢も希望も何もない年齢。
小説を書かなくなり、これで十三年間。
無駄に身体だけ頑丈にできてしまい、パラメーターのすべて体力に割り振りしてしまったかのような運気の無さ。
その自慢の体力でさえ、二度に渡る心筋梗塞によりガタガタになっている。
生きる屍ってこういう事を指すんじゃないだろうか。
大きく煙を吐き出して部屋へ戻った。
外にいるには寒過ぎる。
『謹賀新年。岩ヤン、今年も元気でグルメを楽しんでくださいね。三月にそちらへ行こうと考えています。何やら本多真理ちゃんの書道の作品展に合わせて、新潟から米山美紀ちゃんが出て来るらしく、岩ヤンも一緒に観に行ってあげようね。 でったん』
小学校卒業と共に九州へ引っ越したでったん。
彼から三十八年ぶりに連絡が来て再会し、いい関係を再び構築していた。
三月にわざわざそんなものの為に関東へ遊びに来るなんて、本当にでったんも人がいい。
本多の奴、習字なんてやってんのか。
前に篠ヤンの大漁丸で会った時、そんな事言っていたっけ。
米山は苗字に米がついているから、新潟へ嫁入り。
どうも子供の頃からあの女を見ると、好きでも何でもないくせに苛めたくなるから不思議だった。
この二人の名前が出てくると、当然もう一人の阪尾和美となるが、もう五十を過ぎた今ではそんな仲良くないのかな?
『あけましておめでとう。本多、書道だか何かやってるみたいね。三月の日にち言ってくれれば合わせるよ。 岩上智一郎』
一月、二月と俺は早番シフトになるけど、三月は何番だったっけ?
どちらにせよ休みを取るなら、どのシフトでも関係ないか。
『人工地震って、あるのかなぁ〜。 でったん』
不思議な質問をしてくるでったん。
おそらく東日本大震災を指しているのだろう。
ふと二千十四年の大雪が降った頃を思い出す。
考えてみれば、俺はあの時群馬の先生に会いに行った。
部屋の奥にある不思議な黒の階段。
天井にぶつかり階段としての機能をしていない。
そして龍神の掛け軸。
昔から何も変わらない空間。
それらを見ながら随分と時が経ったのだなと実感する。
「あなたは真の意味で自立する事…。以前そう言いましたが、今それができているのではないでしょうか」
自分で家賃を払い、掃除して洗濯をする。
働いて金を得て、料理を作る。
そうか…、俺が横浜でやっていた事は自立だったのか……。
気付けば訪れていた平穏。
そうだ、その平穏が少しおかしくなってきた。
だから一度先生のところへ来てみようと思ったのだ。
過去、幼馴染みの安達すみれを一緒に群馬の家へ連れてきた事が一度だけある。
その彼女の家が全焼。
そして俺の小説にモデルとして書いた店が全部で三軒も全焼した事実。
「先生…、俺の小説って呪われているんですかね?」
「そんな事ないわよ。ただ前にも言ったけど、あなたは強く人を恨んだりしないようにと。今言えるのはそのくらいですね」
「強く恨まない…。あ! 先生。俺、またトレーニングとかも横浜行ってから始めたんですよ」
「健康維持でトレーニングはいいですけど、あなたは格闘技の方向へ行こうとすると、雷電が袖を引っ張りますよ」
年齢的にも無理であるが、やはりもう俺がリングに立つのは止めたほうがいい。
過去二度に渡って立った総合格闘技の試合。
一度目は加藤皐月の邪魔。
二度目は悪友ゴリの邪魔。
そういえば以前ここへ連れてきた安達すみれ。
先生は彼女が火事で全焼するとは分からなかったのだろうか?
いや…、不思議な力を持っているにせよ、人間万能ではないのだ。
「あなたは神に選ばれた人間です。なので、これからもより試練が降り注ぎます」
最近は落ち着いたとはいえ、ここまで色々な事を掻い潜ってきたのだ。
さらに試練?
冗談じゃない。
「先生…、神と話せる、もしくは意思疎通できると言うなら、別に俺を選ばず平穏無事でいさせてくれと伝えといて下さい。もう、これ以上嫌な目に遭いたくないです」
嘘偽りなく本音を言う。
しかし俺の言葉に対し、先生は意地悪そうに微笑むだけだった。
そういえば俺はせっかく横浜から高崎まで行ったのに、途中で会話が尽きてしまった。
だから東日本大震災…、311の事で先生を責めたのだ。
「先生! 先生は神と会話ができると言いながら、何故あんな大きな地震が来る事を予知できなかったんですか!」
出会った頃から私は神と会話ができると言っていた群馬の先生。
それが本当なら何故あんな大惨事になるような出来事が分からないのか。
不思議な能力があるのは始めから感じていたが、先生のこれまでの発言に対し、俺はそんな事まで責めた。
「あら、あれは違いますよ?」
「違うって何が違うんですか?」
「私はあの日、神様に聞きました。何故このような事をと」
「……」
「神にですか?」
「はい、そうです。するとこれは私のせいではない、人災だと言われました」
人災…、人間の不注意、怠慢、誤った判断、または十分な対策を怠ったことによって引き起こされる、あるいは被害が拡大する災害の事。
自然災害の天災の対比として使われる言葉。
地震、台風、火山噴火など、人間の力では発生そのものを防げない現象が天災。
適切な管理や事前の避難指示があれば、被害を防げた、あるいは最小限に抑えられたケースを人災。
その両方、地震や大雨自体は天災であっても、建物の手抜き工事や、危険区域への盛土、避難誘導の不備によって被害が出た場合は人災の側面が強く批判がち。
あの時は胡散臭いと感じたが、当時仲の良かった岩手県陸前高田市に住む菅野将との会話を思い出す。
東日本大震災について二千十六年に、あれからどうなったのかの様子を聞いた記憶。
以前パソコンゲームで知り合い、フェイスブックでも連絡のやり取りをした東日本大震災岩手県陸前高田市に住む菅野将。
311彼と震災後をメッセンジャーでのやり取りをそのままフェイスブックの記事として載せてみよう。
彼女へ格好つけたいという思いと、被災した人々への復興を一日でも良くなるよう懇願を込めて。
少しでも多くの人の目に留まれば、復興速度も早まるかもしれない。
311からこれだけの年月が経った今、復興ってどうなっているのか?
岩手で被災に遭った親しい知人に現状を聞いてみました。
俺は今はまだこういう協力の仕方しかできないけど、仲いい人間がみんな心から笑える世の中になっていきたいなあ。
やり取り書くのもあれなんで、チャット内容そのまま載せます。
復興の現状興味ある方は見て下さい。
【岩上 智一郎】
これいろんな動画で確認できるよね…今現地はどのような状況なのかは分かりませんが一刻も早い復興をお祈りしています。
将さん久しぶりです。
以前将さんに断って載せた動画が三百万の視聴超えました。
その中で今さっきコメントをくれた人の件で、多くの人がこう注目している中、今、将さんたちの復興って本当はどうなっているのか?
その状況を踏まえた上で、俺はコメントを返したいと思っています。
【菅野 将】
ご無沙汰してます。
三百万視聴、凄いですね。
被災地の復興の進捗状況については、自治体によって様々だと思います。
俺は岩手の陸前高田市というところに住んでいますが。
【岩上 智一郎】
以前よくこうしてチャットやっていた頃よりも、少しはマシになりましたか?
例えばまだ仮設住宅のまま改善されていないとか。
【菅野 将】
俺は未だに仮設住宅住まいですが、今年、災害公営住宅に入居する予定です。
【岩上 智一郎】
じゃあ少しずつではあるけれど、いい方向へ。
【菅野 将】
市街地のかさ上げはまだまだ完了にはほどとおく、市役所がどこに建設されるのかも決まっていない状況ですが、確実に復興は進んでいます。
【岩上 智一郎】
なら良かったです。
とりあえずこれだけの人が見ている動画だから、将さんの意見を参考に多くの人に現状伝えたいなと。
【菅野 将】
でもニュースとかを見ていると、首都圏では「復興したんでしょ?」と思ってる人たちが多いみたいで、まだ仮設住宅に住んでる俺からすると、ちょっと悔しいですね。
【岩上 智一郎】
そうですよね。
【311津波映像に白い何かが異様な速度で動いているのを見ましたが......】
岩手の知人で311の震災を振り返り、当時の状況を聞きつつ、色々な映像を見ていたところ、白いものが異様な速度であきらかにおかしい動きがあったので、まとめてみました。
ご遺族・被災地の皆様方のご多幸、そして被災地の一日も早い復興を。
犠牲となられた方々の安らかなご冥福を心からお祈りいたします。
※コメントで見苦しいなと感じたものは、私的判断で削除や非表示にしますので、ご了承下さい。
あれはユーチューブへそのまま載せた彼との会話であるが、以前俺は聞いた事がある。
「将さん、波が来るって警報とかそういうのは何もなく、いきなり津波が来たんですか?」
「いえ、そんな事ないですよ。一時間前から街中警報は鳴っていました。でも、誰もこんなところまで津波が来るなんて予想していなかったんですよ。だから友達や多くの知り合いが、一気に来た津波にさらわれたくさんの人を失いました」
あの時の言葉を思い出すと、確かに天災とあると同時に自然災害を軽く見た人災でもあるのだ。
ただ被害数が膨大過ぎたから、あれは人災だと言える人間がいなかっただけで……。
でも群馬の先生のあの時の言葉をそのままイメージすると、地震ですら人工地震だったのではないかと勘繰ってしまう。
いつの間にか菅野将とは連絡が途絶えてしまったが、彼も家庭持ち。
現実の生活に色々と逼迫されているはず。
また縁があれば、連絡をひょっこりとよこすかもしれない。
あ、返事をしていなかった。
慌てて携帯電話を手に取る。
『俺は311の震災も、ひょっとしたら人工地震じゃないのか?って思っているよ。 岩上智一郎』
でったんへ返信してから、いきなり人工地震は変に思われるんじゃないかと思ったが、あとの祭りだ。
俺は横になると、ゆっくり睡眠を取った。
昼になり、フェイスブックで今年初の投稿をする。
今年の抱負はまず、キチガイたちと関わる環境を断ち切る事です。
本当に今月中、このマンションを出ていかないと、俺の精神は持たない。
元旦だし今は動きようもないが。
白い天井を眺めながらボーっと時間だけが過ぎていく。
二千二十四年一月二日、火曜日赤口。
正月でも地元川越へまるで帰ろうとも思わない俺。
血の繋がった家族ではあるが、これまでの経緯が酷過ぎた。
他人より質が悪い。
例えこうして孤独な時間を過ごそうとも、あの家族と顔を合わせるぐらいなら今のほうが断然マシだった。
二千二十四年一月三日、水曜日先勝。
正月休みも今日でおしまい。
結局ほとんど部屋で過ごしただけじゃん。
こんな目に遭ったのも、自称俳優若菜龍平のふざけた梯子外しのせいだ。
去年の段階から俺は、不動産で物件を探してもらったのに、いちいちあいつから余計な情報をもらったから、こうなったのだ。
一度目は六万八千円で二部屋という情報に踊らされ、不動産に物件が見つかったからと断りを入れていざ契約となる前、八万六千円と管理費六千円の間違えでしたというあの馬鹿の一言。
二度目はすべて込み込みで七万五千円でうちの不動産を納得させたのでどうかと、龍平から言ってきたから、それならと了承しまた探してもらっていた物件を再度断った。
いざ契約となる事前になり、親族の一人が正規料金じゃないと駄目だと言い出し、ご破算。
若菜龍平が余計な介入で、俺は引越し時期を二度も見誤ってしまったのである。
あー、ミートソースでも食べに行こう。
でも正月だから新大久保駅前のシュベールって営業しているのか?
ちょっと近辺をインターネットで調べてみよう。
あれ?
駅から真っ直ぐ行ったところにイタリアンがあるんだ?
ポモドーロ…、イタリア語でトマト。
メニューを見ながらピザもパスタも色々あるので、早速行かなきゃと着替え始める。
意気揚々と大久保通りを歩き、自然と足取りも軽く感じた。
これもミートソースをこれから胃袋にいっぱい詰め込むという期待で、身体中の細胞が喜んでいる証拠だ。
左折してパチンコエスパスの向かいの道をひたすら進む。
「……」
ポモドーロへわざわざ足を運んだのに、正月の三箇日は休み……。
串市場んも無くなってしまったし、俺はこれからどうすればいいのだろう。
明日は朝の七時から仕事開始。
深い溜め息をつきながら河本マンションへ戻った。
二千二十四年一月四日、木曜日友引。
今年初の仕事始め。
早番シフトになった俺は、朝七時から昼の三時というサラリーマン業務を早めに終わるような時間帯。
三時に仕事を終えると、昨日からずっとイタリアンモードなので、懲りずにポモドーロへ向かう。
ミートソースとカルボナーラを注文し、腹一杯詰め込んだ。

店のおばさんは一人でこれを食べるのかと注文の際驚いていたのが面白かった。

早番の相棒湯浅から、お互い休みをあまり取らずに頑張ろうと話したばかりなので、休むのは半月に一度で充分。
いい英気を養えた。
部屋でアマゾンプライムのミーガンを観る。
中々面白い。
派手な日常ではないが、このような平和な時間はずっと続けばいいんだけどなあ。
そういえば今日中国人のリオが食事へ行こうと三十日に言っていたけど、連絡ないな……。
まあ所詮あの子も洗体エステと、風俗に近いところで働いている人間。
色恋を期待した俺が馬鹿だったのだろう。
またセックスしたくなったら金を払ってラブリーハートへ行けばいいだけの話。
俺はリオに何も言わず、一日を終えた。
二千二十四年一月五日、金曜日先負。
またいつものうるさい中国語がガンガン薄い壁を通り越して聞こえてくる。
昼の三時過ぎに帰ってきてこれだ。
早番の時間じゃなかったらと思うとゾッとする。
ふざけた河本マンション台湾人大家。
消費者センターでも訴訟を起こすレベルと言われているのだ。
まず宅建協会へ電話を入れこれまでの簡単な経緯を話すが、年明けで現時点では機能していないらしい。
代わりに都庁ホットラインの連絡先を聞く。
都庁の無料弁護士相談を教えてもらい、訴訟でも調停でも相談には乗るので、どの日にちに予約するかを聞かれる。
とりあえず来週の火曜日が九日なので、その日に予約を入れ。俺はフェイスブックをメモ代わりに投稿。
1/9(TUE) 3:20 都庁
第二庁舎3階 不動産業過。
今のマンションの大家に対し、訴訟準備。
1/5 宅建協会へ電話し、事情を話す→ 年明けもあって現時点で機能している都庁ホットラインの連絡先を教えてもらう→ 状況を伝えると、都庁の無料弁護士相談を教えてもらい、調停するなり訴訟起こすなり1/9相談に乗ると話が進む。
これまで散々理不尽な煮え湯を飲まされ続けてきたのだ。
あの大家が嫌がる事をしてやりたかった。
二千二十四年一月六日、土曜日仏滅、小寒。
今年の初競馬、中山と京都金杯に、京都9レースの門松ステークス。
一年の計は元旦にあり…、もう六日だけど、運試しをしてみよう。

結局門松ステークスのワイドしか当たらず、収支は半分マイナスに終わる。
やはり人間コツコツと真面目に生きなければいけないようだ。
二千二十四年一月八日、月曜日赤口、成人の日。
そういえば今年になってまだハンバーグを食べていない。
好きな食べ物二番目。
一番目の茄子は、素揚げにして生姜醤油で何度か食べている。
インカジ『レディ』の業務を終えて新宿駅へ向かう途中、交差点のところにあるゴールドラッシュ。
前から気になっていたので入ってみた。

店内を見る限りそこそこ流行っている店のようだが、味があまりに美味しくないのでかなりガッカリした。
手抜きをしないで自分でハンバーグを作れば良かったのである。
さて、明日は仕事を終えたらそのまま弁護士へ、河本マンションの件で相談だ。
二千二十四年一月九日、火曜日先勝。
仕事明け、都庁第二庁舎へ向かう。
一階で受付を済ませ、三階にある不動産行課で弁護士との話し合いの場を設ける。
エレベーターに乗る前、窓から見える西新宿の景色が綺麗だったので写真を撮った。

弁護士の先生にこれまでの河本マンションの不当な光熱費の請求を話し、証拠にこれまで集めた手書き請求書や領収書を提示。
先生曰く、俺が何が何でも金を取り返したいという訳でないなら、対応は簡単だと言われる。
大家の手書き請求書の時点で、法的根拠のないものに値する為、支払い義務は発生しないらしい。
だからちゃんとした請求書を持ってこないと光熱費払いませんよと対応すればいいと言われる。
そのようにしていたが、あのキチガイ大家にはそれがまったく通用しないから、このように面倒な手順を踏んでいる訳なのだが……。
それで大家から裁判起こすなり調停起こすなりの行動をされたら、それはそれで好都合。
仮に大家から出て行けと言われたら、家賃や光熱費はこれまでちゃんと払っているのでそれは通じない。
その為、引っ越しや新居先の補償など、やり方はいくらでもあると言われた。
しかしまた去年の年末のような面倒な時間を割くのは、正直憂鬱である。
本音をいえば、大家が正規の手続きで光熱費を請求してくれば、何も問題などないのだから。
それを三万だ四万だあり得ない金額提示をしてくるから、事態がどんどんおかしくなっていくだけの事。
無料の弁護士相談じゃ、この程度かと肩を落としながら都庁を出た。
久しぶりにKDDI事業所ビルの前を通る。

かつて俺が数年通っていた場所。
二十八階で毎日のように働いていたあの頃の記憶が蘇る。
七対三の割合で、女性の数が多い課。
一見華やかに見えるが、綺麗と呼べる女性は少ない。
最近仲良くなった同僚の渡辺喜六は「まるで動物園ですよね」とボソッと呟き、業務中俺を笑わせる。
喜六は三十歳で、顔は『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公両津勘吉に似ていた。
彼は自分の風貌を棚に上げ「岩上さんが最初入ってきたのを見た時、何て悪そうな人を採用したんだと思いましたよ」と豪快に笑う。
一度パチンコ屋の打ち子の仕事を誘われ、この会社よりも給料が高いから迷っていると相談を受けた事がある。
もちろん徹底的に反対し、現在もKDDIに落ち着いている変わり者だ。
課の人数が多いので、全員の名前が分からない。
たまたま向かい側に座った女性のアニメ調の声が聞こえ、こんな美声の娘がいるのかと顔を覗く。
外見はカバに似た女性の顔を見て、動揺を隠せなかった俺。
その行動をチェックしていた喜六は隣で「パンチ効いてますよね」とボソッと話してくる。
吹き出しそうになるのを我慢して、喜六の横腹に肘打ちを軽くお見舞いした。
上司のSVで一人だけハーフな顔立ちな美人がいるのを発見する。
名前は安田道枝。
年は若干俺よりも下の三十代半ば。
以前飲み会で、課の長である田中が酔って俺に話し掛けてきた。
「SVの佐藤さんは水原さんのようなイケメンがタイプなんですけど、安田さんは逆に岩上さんみたいのタイプなんですよね」
その事を思い出し、何かチャンスがあったら飲みに誘いたいなあと思うようになった。
また交友の無い同僚が辞める事になり、送別会が開かれる。
俺や水原は参加し、安田道枝も会に出た。
酒に酔った安田は俺のグラスにどんどん酒を注ぐので、すべて一気飲みをする。
それを見た同僚たちが面白そうに俺の前へ色々な酒を集めだす。
赤ワインのデキャンタ。
焼酎のボトル。
ビールのピッチャー。
続々と俺の前に置かれ、さすがに無理だと伝える。
「岩上! 私の酒が飲めねえのか!」と悪酔いする安田。
俺は、目の前の酒を手当たり次第一気で飲み出した。
気が付くと、病院のベッドの上で寝ていた。
右腕には点滴が付いている。
「あ、岩上さん、大丈夫ですか?」
傍で水原が椅子に座った状態で声を掛けてきた。
何故ここにいるのか何も分からなかった。
水原の説明によると、尋常でない酒の量を飲んだ俺は暴れる事もなく、その場で突っ伏して寝だしたらしい。
その状態で大量のゲロを吐き、送別会は修羅場になった。
いくら起こしても俺は起きる様子がなく、誰かが救急車を呼び、救急隊員から「誰か一人付き添いをお願いします」と言われると、みんなが面倒を避けて帰り支度を始めたので、水原が見てられなく付き添ってくれたようだ。
「岩上さん、かなりの酒の数を飲まされていましたよ。とにかくたくさんの種類の酒を。みんな、あれだけ飲ませて潰れたら知らん顔で冷たいですよね」
時計を見ると朝方の四時。
俺は心から水原の行動に感謝した。
いつからか水原とも連絡が途絶えたまま。
彼は元気で過ごしているのだろうか?
新宿駅西口といえば、ゲーム屋ワールドワンの頃から知っているステーキのルモンド。
久しぶりに寄ってみるか。

「……」
しかし開店は夕方五時からか…、残念。
さすがに一時間以上も外で待っていられない。
仕方なく帰り道、小便横丁へ入り始めて岐阜屋へ行く。
今でこそ思い出横丁なんて看板を出しているが、俺が二十代の頃ここが火事になった時は、歌舞伎町の住民のほとんどが「小便横丁が火事だ」と言っていた。

こんなオンボロな駅前通りが、今や外国人受けしているんだもんな。
メニューを眺めながらそこそこ安いなあと思いつつ、餃子が四百三十円は取り過ぎだろと思う。

それでもラーメンを頼むと、餃子にライスと追加注文してしまう俺。

餃子は予めラー油が垂らしてあったが、酢醤油用の小皿も出してほしい。

値段の割に、大して美味くもない餃子だな。
今度また自分で餃子を作ってみるか。
明日もまだまだ仕事は続く。
二千二十四年一月十日、水曜日友引。
インカジ『レディ』の仕事を終え、河本マンションの受付を通った時だった。
「岩バミさん、家賃!」
何を抜かしてんだ、コイツと呆気に取られる。
そもそも来月分の家賃は月末まで払えばいいと、契約書にも記載されていた。
それを俺が毎月五日が給料日なので、早めに支払っていただけの事。
大家と良好な関係を築こうと、色々努力をしてきたつもり。
横浜へ行けば崎陽軒のシウマイをお土産に渡し、地元川越へ帰った時はくらづくり本舗の和菓子だってあげた。
それなのに横暴な光熱費を一年以上請求し続けた守銭奴たち。
そんな輩に必要以上、こちらから親切な真似などもうできない。
「あのー…、月末までに払えばいいんですよね? 俺、一度だって滞納した事ないですよ」
「岩バミさん、家賃!」
光熱費の時とすっかり同じだ。
ただ大きな声で恫喝するように言えば、こっちが払うと思っているのだろう。
「気が向いたら払いますよ」
「岩バミさん、家賃! 家賃!」
何だこのキチガイは?
仕事帰りで疲れていたので、無視して部屋へ戻る。
背後から何度も同じ台詞が聞こえた。
やはりここは本当に限界だ。
弁護士が言うように出ていけと言われるまで、こんな場所で暮らすのは無理がある。
二千二十四年一月十一日、木曜日先負。
仕事帰り他の不動産へ行くも、中々いい物件がない。
一度タウンハウジングのマーと河本マンションの入口で会ったが、無視して相手にしなかった。
あんないい加減な対応をする無責任で、役立たずのマー。
貴重な時間を割きたくなかった。
インターネットで色々な不動産を探し、区役所通りにある店へ向かう。
そこは何故審査が通らないかと見極め、確実に通りそうな物件を探してくれるので、話が早いと思ったのである。
もう串市場んも無いので、大久保エリアに拘る必要性もない。
希望はインカジ『レディ』へ徒歩で行ける場所。
もしくは高田馬場近辺。
しかしいい物件が条件でない為、西武新宿線上なら歌舞伎町は目の前なので少しだけ融通した。
出てきたのは新井薬師時駅から徒歩十五分、家賃八万八千円の物件。
値段もほとんど変わらないなら、まだ自称俳優若菜龍平マンションのほうが立地もいいだろう。
そこの住所を不動産に伝え、調べてもらうと、以前龍平に案内された三〇二号室は空き室のままだった。
できれば龍平とは関わりたくなかったが、河本マンションの大家よりはマシ。
とりあえず緊急にあのマンションを出る必要が俺にはある。
「すみません。このマンションの人間を知っているので、直接連絡を取ってもいいですか?」
「あ、お知り合いの物件なんですね。それならその方が話は早いですよ」
背に腹は代えられない。
若菜龍平へLINEを打つ。
『若菜さんのマンション、今不動産来てて、申し込みますが、若菜さんから申込受け付けてもらうよう不動産に連絡できますか? 岩上智一郎』
すぐ既読になったので、電話で状況を話す事にした。
『不動産に連絡終わったら、教えてもらえますか? 岩上智一郎』
正規料金の八万六千円に、管理費五千円の物件。
こんな基本的なところでも、龍平は間違った料金を俺に言っていた訳だ。
『不動産屋が通話中で、もう少々お待ちください。 若菜龍平』
早くしろよ、この無職俳優が。
散々奢ってやったんだから、とっとと俺の役にたまには立て。
『お手数お掛けします。 岩上智一郎』
外面ジキルの内面ハイドな俺。
目の前の不動産の従業員にはジキル博士的な笑顔を見せる。
自称俳優から連絡が届く。
『お待たせしました! 連絡つきまして。 若菜龍平』
遅いよ、このウスノロ。

栄福といきなり言っている龍平だが、そこが若菜マンションを取り扱う専門の不動産なのだろう。
いきなり栄福とか抜かしてんじゃねえよ、この馬鹿。
とりあえず明日に俺から電話を掛けて、その不動産と話す事が決定した。
河本マンションへ帰ると、受付にいた大家が俺の姿を見るとオウムのように「岩バミさん、家賃!」と何度も連呼している。
月末までに払えばいいのに、本当に馬鹿な人間だ。
浅ましさを通り越し、何にでも食らいつく馬鹿な魚のように見えた。
こっちは何一つルール違反などしていない。
平然としながら視線も合わせず通り過ぎる。
「岩バミさん、家賃! 岩バミさん、家賃!」
覚えた日本語はそれだけなのか、メガネザルめ。
また警察に通報してパクらせるぞ、この台湾人が。
ん、でもあれって龍平情報だよな?
あいつの話が情報源じゃ、いまいち信憑性に欠ける。
「岩バミさん、家賃! 岩バミさん、家賃!」
だから払わねえって、馬鹿大家。
月末までここにいるようなら、来月分も払ってやるよ、ボケ。
「岩バミさん、家賃! 岩バミさん、家賃!」
失敗したな。
この様子を何故俺は動画に納めておかなかったのだろう。
今さら振り返って映像を取ったら、さすがに変だよね。
「岩バミさん、家賃! 岩バミさん、家賃!」
「岩バミって誰ですか? 俺は岩上ですけど?」
「岩バミさん! 岩バミさん!」
何だ、コイツ、ちゃんと発音できないのかよ……。
日本で暮らして、日本人から金を毟り取りたいなら、まずはイントネーションを一から勉強してこい。
あまりにも滑稽過ぎて、つい顔がニヤけてくる。
人間て極限状態でも、おかしかったら笑ってしまう生き物なのだ。
ワザと大きな音を立ててドアを締めた。
まだ外で「岩バミさん!」と連呼する大家。
うるさいのでベランダへ出て、セブンスターに火をつけた。
二千二十四年一月十二日、金曜日仏滅。
この日急遽残業になってしまい、業務中なので若菜マンション不動産には明日連絡する事になる。
上手く行けば、今月中には河本マンションを脱出できるだろう。


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