#653[短編]琥珀色の間[36]── 琥珀色の間にて
父に誓いを立てたことが遠い日のことのように思える。ふと、あの夜の琥珀色の光が蘇る。連載第41回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、22話、23話、24話、25話、26話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
彼女は医者だった──自分とおなじ空間を知る人。言葉の選び方、ほんの少しだけ見えた目の奥の疲れ──その呼吸、間がおなじだった。
大翔が帰宅すると、部屋の外はまだ少しだけ明るかった。カーテンを開けると薄いパープルが空を染めている。
カバンを置いて、スーツを脱いで、ベッドに身体を投げ出した。大翔は父の言葉を思い返していた。部屋の中に、消毒液の匂いが漂っている気さえする──。
彼女のことは、恋でも憧れでもない、ふしぎなその感情を、なんと呼んでいいのか、わからなかった。
上司、先輩、母校の先生、どれも違う。
家族、友達、仲間、これも違う。
新しい環境と仕事の狭間で、ふとした瞬間に出会った、人生をときめきに変える魔法。そんなものがあるとしたら、彼女がそうだと俺は思った。
すぐに帰る気にはなれなくて、ふらりとBarの扉を開けた。中から温かい空気がこぼれてきて、少し賑やかで、ホッとした。
「いらっしゃい!」マスターの澪さんの笑顔がはじける。広くはない。けれど、肩が触れ合うほどの窮屈さもない。
着なれないスーツで武装して、初めてパーマもかけた。死ぬほどお酒を飲まされて、フラフラで、さすがに勉強するのも諦めて、立ち寄ったBarでもやっぱりお酒を頼んで……。
声を張らなくても届く距離感がちょうどよかった。それに、澪さんのいるあの空間が好きだ。
「どうぞ」澪さんの声は柔らかかった。何杯か飲んで、グラスを置いてほんの少しだけ席を外した。
◇
席に戻ると見慣れない女の人が隣の席にいた。
女の人も1人でBarなんて来るんだ。彼女も俺と同じものを飲んでいた。どうして1人できているんだろう。澪さんと同性だからとか、ボーッとして、何を話していいか分からなくて、内心では焦っていた。
誰かの笑い声が、遠くで丸くほどける。
「こんばんは」彼女も同時に挨拶をしてくれた。
後ろのグループの笑い声に紛れないよう、少しだけ声を張った。彼女は軽く会釈をすると、一瞬だけカウンターの木目に目線を落とした。
少しだけ賑やかな雰囲気に人の気配を感じる空間と、琥珀色のライトがカウンターの木目を静かに照らし、夜の気配をやわらかく包んでいた。
彼女の声は、店の光と同じ温度で聴こえた。急がない。けれど、間延びもしない。
「近くの居酒屋の人に紹介されて、それが初めてで……」澪さんが話を振ってくれて、俺も自己紹介をした。今日は仕事帰りで、気の乗らない飲み会の帰りだと、他愛もない話をした。
彼女はよく通る声をしているのに、言葉を選ぶときだけ、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。その「間」が、妙に気になった。
年上だけれど、きっと強い人じゃない。弱さを隠しているのでもない。もっと……静かな「本当のことを言う前の間」みたいな。
言葉の端々の呼吸、その間の取り方にふっと、心を撫でられそうになった。
仕事帰りにシャワーを済ませ、外で食事をした後に立ち寄った──彼女は今日あったこと、澪さんと知り合ったきっかけを話してくれた。
急がない。けれど、言葉の芯はぶれていない。見た目の美しさよりも、所作がきれいだと思った。俺はいつの間にか、口元が緩んでいたかもしれない。
仕事はIT業界だと伝えた。本当は少し違うけれど、少しだけぼかすことにした。
いま思うと医者っぽいと言えばそうだけれど、あの時は気づかなかった。言えないことがあるのはみんな同じだと、さして気にも留めなかった。
「僕、今度、試験があるんです。今日は息抜きも兼ねて。二度目なんですけどね……」
姿勢のいい人だな。彼女から見れば俺は子ども扱いなんだろう。男ばかりの会社で、女の先輩もいないのに何を話そう。
彼女はこの賑やかな場所でも全く気取っていない。等身大で1人で立つ、大人の姿そのものだった。
「頑張ってるんですね」まんざらでもなかった。俺は彼女の質問に、家族のこと、好きな車、親父とは喧嘩ばかりだなんてことまで話した。
彼女も、普段ならあまり話さないことまで話してくれたようだった。あの夜の空気がそっと背中を押してくれたと思う。
心がじんわり温かくなる。澪さんの料理を食べる仕草がかわいいと思った。
会話の合間に訪れる沈黙が、まったく怖くない。むしろ心地いい。その呼吸が、カウンターの静けさにすっと馴染んでいく。
ただの “頑張り屋” じゃなくて、自分の未来に責任を持ってる人の姿勢。
年齢じゃなくて、背筋の伸びた生き方。
彼女の「間」は、大人の余白というより、自分を照らす光の角度を変えられる所から生まれていた。
「本当は、こうなりたかった自分」をちゃんと見つめ直したくて、勇気を出して名前を聞こうと思った。
「あ、あの、僕なんてお呼びしたらいいですか?」
上司でもないのに、思わず「僕」だなんて言ってしまった──
「あ、ぼ、僕は大翔と言います」「すみません、先に名乗るべきですよね。ごめんなさい」
どうにか呼吸を整えるだけでいっぱいだった。きっと、心では笑われているかもしれない。
「爽子です。よろしくね」
「さわこ、さん」「ありがとうございます!」
「シワシワネームですけどね」
シワシワネーム……かどうかを気にするのは、僕より少し後輩だと思います──それは言わないでおくことにした。
◇
──それから3時間は経った頃だった。
帰ろうとしたけれど、澪さんに悪い気もした。サワコさんの隣にいたい気持ちもあって、動けないでいた。
「それじゃ、お先です。おやすみなさい」先に席を立ったのは、彼女だった。
「は、はい。おやすみなさい。よいお年を」
結局、最後までお酒ばかり飲んで、帰ると夜が明けた。気軽に連絡先を聞けるような人間だったら……。
──でもあんなに笑ったのは、久しぶりかもしれない。
◇
ふいに、スマホが震えた。
──雨の音、まだ耳に残ってる
<了 2,300 字>
プチ・お知らせ(追記しました)
明日には(たぶん)
100万ビューいきます🙌
(あと80ビューくらいなので😁)
長かった……あっという間、
ありがとうございます😊
(改めてちょっとした記事にしようと思います)

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