#634[短編]琥珀色の間[24]──神の御許にて・II
教会の脇の小さな医院で当直に入った爽子。清掃員の路子の淹れたココアでひと息つくと、大翔からメッセージが来ていた。連載第29回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
「あ、大場さん。ちょっと電話してきます」
爽子は携帯の通知ランプが点いたのを見て、やや急いで立ち上がると、休憩室を出て、更衣室の先の非常口へ向かった。
アルミのドアのくもりガラスから、隣の教会のオレンジ色のライトが見える。爽子は病院の外に出た。薄暗い庇の下には、街路樹から風が運んだ桜の花びらが溜まっていた。
メッセージは大翔からだった。
[爽子さん、今度話せますか]
爽子が通話をすると、大翔は2コールで応答した。
「こんばんは、大翔さん。いま大丈夫ですか?」
爽子は携帯を持つ手にもう片方の手を添えて、息を整えた。
『爽子さん。こんばんは……あれ、勤務中ですか?』
大翔の声は突然の連絡に少し慌てたように、目いっぱい取り繕った。
「はい、いまちょうどタイミングがよくて」
『そうなんですね。今度でもよかったのに、すみません』
スピーカーの奥の大翔の声は、どことなく儚げに聞こえる。
「いつもかけられるわけじゃないけれど……話せるうちにちゃんと」爽子は改まって言うと、携帯を握る手に少しだけ力が入った。
「こういう仕事だから……ごめんなさい。いま大丈夫ですか?」
大翔は一瞬ドキリとして、『はい』とだけ言った。
◇
『あの歌のこと、聞いてもいいですか』大翔が呟く。
「あれは自宅で録音されたみたいで、私も詳しくは分からなくて……」
大翔はひと呼吸置いて、声のトーンを落とした。
『爽子さん。俺に遠慮しないで、俺が聞いていいことだったら、何でも話してくださいね』
『俺、実家が病院だから……』
大翔は声を抑えるようにして言った。
『医者かなって思ったのは、それで……』
爽子は一瞬、驚いて、小さく息をついた。大翔が自分の職業を知っても、引いたり嫌味を言ったりしない理由がわかって、ホッと胸を撫で下ろした。
『だからあんまり、びっくりしないと思います』
大翔はゆっくりと言った。
『なにかあっても。大丈夫です』
「そっか……なんか、ホッとしました」
爽子は壁に背中をつけ、息を漏らす。大翔がふっと電話の向こうで笑ったのが分かった。
『爽子さん。俺が嫌味とか言うと思いました?』
「うん。思いました」
爽子もからかうように言うと、大翔の吐息が漏れた。
『ひどいなあ。まあ、いーですけど』
大翔は電話の向こうで鼻をこすった。
◇
『爽子さん。ひとつ聞いてもいいですか』
大翔はひとつだけ小さな咳払いをした。
「はい?」
『その……先生、って呼ばなくてもいいですよね?』
「ええっ?はい。いつも通りでお願いします」
『ははは……いや、その、習慣で……』大翔の真面目な物言いに、爽子は少しだけ笑った。
「爽子で大丈夫です。まあ……あんまり好きじゃないんですけどね。大学の仲間くらいです。そう呼ぶのは」
「ありがとうございます。なんか落ち着かないな……がんばります、爽子さん」
「ありがとう」爽子は照れて言うと、軽く腕時計を確認した。
「じゃあ、また連絡します」
『はい。俺も、平日は夜なら。土日は休みなんで』
お互いに短く告げると、柵の向こうの教会から、オルガンの音色が聴こえ始めた。中で人が動いたのか、ガタガタと音がして、温かい旋律が漏れてきた。
『爽子さん。あれ?なんですか?歌……?』
「あ、病院の隣に教会があるんです。聴こえますか?」
『へぇ……はい。小さくですけどね……』
「賛美歌320番、神の御許に近づかん。今日はお別れの日みたいです」
爽子は柵の向こうの教会の窓をみつめ、大翔に言った。
「大翔さん。少しだけ、このままでいいですか。こう、胸に手を当てて、少しだけ……」
爽子はこの曲の日には祈りを捧げていると話し、右手を胸に当てて、静かに目を閉じた。
大翔は電話の向こうできょとんとした後で、すうっと息を吸ってベッドに仰向けになると、天井を仰いで右手を胸に当てた。
爽子と同じ場所にいるような、ふしぎな感覚がする。
爽子が自分を必要としてくれている──この手の温もりも、繋がっているこの時間も、彼女の祈りの支えになるなら、いくらでもこのままでいよう。
大翔は電話を持つ左手にぎゅっと力を込めると、静かに、深く息を吸い込んだ。
電話の向こうのオルガンの音はいつの間にか遠のき、
自分の内側で脈打つ鼓動だけが、
夜の静寂に響いていた──
執筆: 2026/5/18 <了, 約 1,800 字>
参考資料(動画)
讃美歌320番『主よ、御許に近づかん』
英題: 「Nearer My God to Thee」
(オルガン・Youtubeショート動画)
Unscripted Reflections: Nearer My God to Thee Organ Improvisation
(声楽・Youtube動画、歌詞つき)
プロオペラ歌手 秋本悠希が届ける「賛美歌320番・主よみもとに近づかん」
・・・
本編には登場しませんが、この教会でよく歌われている歌です。
讃美歌312番 いつくしみ深き
(声楽・Youtube動画、歌詞つき)
プロオペラ歌手 秋本悠希が届ける「讃美歌312番 いつくしみ深き」

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