見出し画像

MSX物語⑤85年ナイコンからの脱出、初めての愛機とPC購入事情

初めてMSXやパソコンを手に入れた感動は生涯の宝物だと思います。80年代パソコンの入手は、大袈裟ではなくその後の人生を決定づける分岐点とも言えました。
何が何でもMSXをと心に誓った1985年秋、僕はパソコン少年が一度は通らねばならぬ、究極の選択を迫られていました。すなわちどのメーカーの機種にするかという決断です。
今回は8bit黄金期に、修羅道に足を踏み入れた僕のMSX物語を綴ります。


その後の有名人もPC雑誌に登場していました。女子大生時代の川島なお美さんです。

❶パソコン少年予備軍「ナイコン族」


パソコン雑誌では頻繁にパソコン購入の特集を組んでいました。これは1983年8月ですが、小学生の僕は価格を見て絶望していましたよ。


1983年8月のパソコンの値段はこんな感じ。

1985年は僕にとって怒涛の一年でした。キャプテンシステムという最先端の通信システムを体験、つくば科学万博では史上最大テレビ、ジャンボトロンによるMSXゲーム大会に参加することができました。パソコンイベントではLDゲームと言う豪華すぎる映像機器に衝撃を受ることになります。

幼馴染のFM7くんの家では名作アドベンチャーゲーム「オホーツクに消ゆ」や、黎明期パソコンRPGの代名詞「ザ・ブラックオニキス」を遊ぶことで、ゲームセンターやファミコンでは味わうことのできない「パソコンゲーム」に魅せられていった時期でもあります。

こうして1982年のすがやみつる先生の『こんにちはマイコン』から始まった、パソコンへの憧れは最高潮に達していました。この時代を体験した方はご理解頂けると思うのですが、パソコンを「実用品」として購入したパソコン少年は皆無だったと思います。
当時のパソコンは素晴らしい未来を連想させる科学的ガジェットという位置づけだったので、そのパスポートとしてパソコンはとてつもなく輝いて見えたのです。銀河鉄道999の冒頭で星野鉄郎が機械の体を手に入れるため、999のパスを切望するシーンが描かれていますが、僕の心境は正しくそれでした。

1982年4月のパソコンの広告。小学生には機械の体以上に高額でした😅


「何が何でもMSXを入手しないと時代に取り残される…」そんな心境でしたね。
まあ、結局鉄郎は機械の体を手に入れることはできなかったんですが😁


松本零士先生の作品達は、輝かしい未来と科学技術の夢が詰まっていました。その憧れが僕をMSXへと導いてくれたように思うのです。

しかし小中学生のホビーとして、パソコンは高価過ぎるということも残酷な現実でした。そんな訳でパソコンに憧れるものの、指をくわえるしかなかったパソコン少年予備軍たちは「ナイコン少年」と呼ばれ、パソコン雑誌を読みながら、ため息をつくのがやっとだったのです。自分もこの「ナイコン族」時代が長く、それ故現在でもパソコン雑誌に特別な想いがあるのだと思います。


初期のテクノポリスは「マイコンビギナーズ マガジン」として「ナイコンでもわかる遊べる」を謳っていました。今読むとそれでも十分にマニアックなのですが・・・・


パソコンの世代交代のスピードは尋常ではなく、数カ月で時代遅れになる機種も珍しくありませんでした。だからこそ雑誌の情報は貴重だったんです。

❷魑魅魍魎の集うパソコンショップ


1985年お正月のパソコンセール。8bitパソコンが黄金期を迎えようとしていました。

まず80年代のパソコンは、商材として相当特殊でした。したがって購入できる場所はかなり限られていて、通称パソコンショップと呼ばれていました。ここのパソコン放つ光に引き寄せられる蛾の如く、ナイコン少年が集まるのは自然の摂理だったように思います。


1984年4月の広告。MSXからIBMまでというコピーがいいですね。
密かに小学生の男の子がもっているのはソニーのMSX「HIT BIT HB-55」です。


85年11月。僕の中でパソコンショップと言うとラオックスのイメージが強いです。
名機PC-8801mkIISRやFM-77、X1といった8ビット御三家が勢ぞろい。


ラオックスはパソコンゲームコーナーも充実していました。


1984年10月の第一家電。華やかな店内の雰囲気は随一で、接客も素晴らしかったです。

パソコンショップで最も一般的だったのは、ラオックスなどを筆頭とする大型パソコン販売専門店です。このチェーン店の本社の多くが秋葉原に集中していたので、秋葉原は長く「パソコンの聖地」としての地位を確立していました。当然秋葉原に集うパソコン少年のレベルは高く、その後の日本のIT業界を牽引するような偉人たちがこの街から巣立っています。しかしその分キチガイじみた奇行もつきもので、この街には一種異様な「電脳魔境」としての雰囲気が漂っていました。


1985年4月の秋葉原マップ。この頃は秋葉原はパソコンで埋め尽くされていました。
この「電脳魔境」を徘徊した冒険者も多いのでは…

プロレスなら後楽園ホール、ムエタイならルンピニー・スタジアム、ゲームセンターなら巣鴨キャロット。そしてパソコンユーザーが目指すべき聖地はと言えば、やはり秋葉原に他ならないでしょう。僕もこの街には特別の想いがあり、体験した秋葉原のイカれぶりについては、またいずれ投稿したいと考えています。


83年3月、マイコンのメッカ・ラジオ会館。ラジカン前に降り立つと「秋葉原に来た!」と言う興奮に包まれました。大手PCメーカーのショールームや実力派のマイコンショップが集結した、パソコン業界の最前線でした。

僕は時期的にはちょっとずれているのですが、パソコン黎明期にはアマチュア無線などから発展した個人経営のパソコンショップも多くありました。パソコンゲーム黎明期のゲームメーカーの多くがパソコンショップを母体にしていたと伝え聞きます。特に地方都市におけるパソコンの普及と文化の発展は、こういったお店が起点になっていたと言っても過言ではありませんでした。ここに集う実力派のパソコン少年達が、次々とスタープログラマーとしてパソコンゲーム業界にデビューしていくことになります。


『こんにちはマイコン』で紹介されたマイコンショップ。
まさに魑魅魍魎の巣と言う感じで、一般人お断りの雰囲気。


1984年5月のマイコンショップ。足の踏み場もない状態でした。


店員とお客さんの会話が殆ど理解できませんでしたよ。


パソコンショップを母体にしていたゲームメーカーで最も有名なのは日本ファルコムでしょう。天才作曲家、古代祐三先生他多くの人材を輩出しています。83年5月の広告



東海の雄であるマイクロキャビンの1982年9月の広告。
パソコン教室や大手メーカーの代理店業務も行っていました。


数々の名作を送りだした光栄も、元々はパソコンショップを経営していました。シブサワ・コウこと若き日の襟川陽一氏が登場しています。これは1983年9月の記事。


黎明期のパソコン史を語る上で外せないのが北海道のハドソン。その高い技術力はショップに集ってきたPC少年上がりの超人プログラマーたちに支えられていました。

SNSなどで僕より上の世代の方に話を聞くと、ナイコンの少年時代にショップの展示用PCを使用してプログラミングを独学したなんて話をよく聞きます。

😉「ショップに入り浸ってるうちに自然とプログラム覚えたよ。」

🤔「basicは各機種違うから、Z80アセンブラの方が楽だったな。」

こんな信じられないような武勇伝を聞いたりします。
このようなお話で、パソコンゲーム界の暗黒卿・クーロン黒沢さんの「マイコン少年残酷物語」と題されたコラムは必読です。地方のマイコンショップで、野生児として怪物プログラマーに覚醒した壮絶な体験記が楽しめますよ。

地方都市のもう一つの特徴として、書店から発展したパソコンショップの存在も忘れることが出来ません。2023年1月15日に惜しまれつつ閉店した、中部オタク街・大須のシンボルだった三洋堂書店Σさんなどがその筆頭格です。


外見は普通の本屋さん。しかし一歩中に入ればそこはパソコンワンダーランド😍パソコン雑誌見たらそりゃゲームが欲しくなっちゃいますよ!店長さんのコメントが「わかってる」感を漂わせておりますね。大戦略Ⅱエプロンをしてる書店店長さんは三洋堂書店さんだけですよ。僕は大学時代は名古屋だったのでお世話になりました。

しかしこれらのショップは店員さんもお客もレベルが高すぎて「ちょっとパソコンに興味がある」といったナイコン少年には敷居が高すぎました。僕も『こんにちはマイコン』を読んで数回足を運んだことがあるのですが、店内で交わされる会話が宇宙語同然で、殆ど理解できなくて恐ろしくて逃げ出してしまいました。


日本で輸入販売されたシンクレア社のZX81は全国の三省堂書店、旭屋書店、ジュンク堂などでも取り扱いがあったため、本屋さんに行ったついでに触った、という体験を持つ方も多かったそうです。

ところが西和彦先生が1983年末に「手軽に家庭で楽しめるパソコン」というコンセプトでMSX規格を発表してくれたおかげで、パソコン購入の敷居が一気に下がってきました。こうした流れを受けて、西友、ジャスコ、ダイエーなどの庶民スーパーまでもが「家電」としてパソコンを扱うようになってきます。ようやくパソコン購入が一般の家庭でも現実味を帯びてきたのでした。


1984年3月の大手スーパー、ダイエー店のパンフレッド。5万円を切る価格帯にMSX登場しています。右側の他のマシンとの価格の差に着目してください。

MSXの販売方式の最大の特徴はパソコン専門店だけでなく、一般の家電量販店でも大量に流通したことです。これによって気軽に展示品のMSXに触れることが出来るようになり、初めて「パソコンを使ってみる」現実感を得られた人も多かったのではないでしょうか。


僕が丁度MSXを入手した時期である85年11月の記事。「😁西友ではパソコンは買いたくねえなあ」とパソコン仲間は噂していました。

しかしこういった急造のパソコン売り場の店員さんは専門知識に乏しく、ベテランのパソコン少年?からはなめられていましたね。これは丁度僕の通っていた小学校からほど近い、中央線西荻窪駅の庶民スーパー西友のパソコン売り場の記事。油の飛ぶ惣菜売り場の横でパソコンが販売されるというカオスな状態でした。
試しにパソコンゲームを買いに行った悪友FM7くんは、安っぽい西友の袋にゲームを入れられて激怒、「😡もう二度と買わねえ」とおかんむりでした。雑誌に紹介されると学校で評判になりましたが、店員さんは素人丸出しで

😑「MSX用のマリオブラザーズが好き」

とコメント。「そんなの出てねえよ!🤣」とパソコン少年達からバカにされ、それが原因かどうかは定かではないですが、1年持たずに潰れてしまいました。ここらへんパソコン少年はシビアですからね~。このようにパソコン専門店と量販店では、まだ店員さんの知識やアフターフォローに相当差がありました。


1984年4月号。ついに29800円近辺でパソコンが買えるという特集記事。MSXの登場で間違いなくパソコンの価格帯が下がってきました。僕は「ついにMSXを手に入れる時代がキター🤩」と大興奮していましたよ。

この時期ゲーム機市場にも大きな地殻変動が起こっており、ファミコンが事実上の日本統一を果たそうとしていました。しかしMSXはファミコンと競合する「おもちゃ売り場」での販売は少なく、これがMSXが「パソコンとしてのブランド」をギリギリ維持していた大きな要因であったと思います。これは当時競合していた入門機パソコン「ファミリーベーシック」「ぴゅう太」「RX-78」「セガSC-3000」「ゲームパソコンM5」「PV-2000」などと対照的でした。


83年11月のMSXの数カ月先行して7月15日発売されたセガ『SC-3000』
希望小売価格は29,800円と時期的にはMSXの強力なライバル候補でした。『パソコン宇宙大作戦・アイドルを救え!』というタイアップ番組まで放送されたのですが…


84年6月21日に発売された『ファミリーベーシック』。ファミコン本体に接続する形状とはいえ、希望小売価格は14800円で、実売価格は1万円を切ると言う安さでした。書店でも参考書籍が山のように発売されましたが、残念ながら普及には至りませんでした。


こんなファミコン用キーボードも発売されましたが、全く普及しませんでした。個人的にはファミコンはやはり「ゲーム機」だったのだと思います。


1983年7月発売の『RX-78』バンダイの看板商品であるガンダムの形式番号を名付けたほどの意欲的な製品でしたが、売上的には惨敗だったようです。希望小売価格は59,800円で、性能も他の入門機に比べて高かったのですが…
謎なのは意地でも広告にガンダムのイラストが掲載されてないんです。パソコンショップでも見たことがないマシンで、僕が唯一見たのは近所の模型店でした。


1982年9月とMSXより1年以上先行して発売された『ぴゅう太』。59,800円とはいえ正真正銘の16ビット機で、潜在能力は入門機PC中で最高でした。このマシンもパソコンショップでは見かけない機種で、デパートなどのおもちゃ売り場が主戦場でしたね。トミーは玩具メーカーですから仕方ないのですが「パソコンて、過激なオモチャじゃ。」というキャッチフレーズが、パソコンとして定着しなかった一因であると思います。ちなみに僕の幼馴染が所有していたのですが、親父さんがパチンコの景品として取ってきてくれたのだそうです。


1982年11月にソードが開発・発売したホビーパソコンM5を、タカラからOEM販売したものが『ゲームパソコンM5』。価格は49,800円で性能はほぼMSXと同一です。強力な専用basicも開発され和製Apple IIとも呼ばれた名機なのですが、最終的に企業体力的にMSX連合に押し切られてしまった形になりました。
メーカーがタカラだけあってやはり玩具関係に流通され、ゲームパソコンと言う名前からゲーム機として認知されてしまったのは不運だったと思います。僕がお世話になっている凄腕のプログラマーの方のにも、このマシンで学んだ方がいらっしゃいます。


後述するカシオ激安路線MSXの源流となったマシン『PV-2000』。発売日はMSXとほぼ同時の1983年10月で、互換性は無いですが性能はMSXとほぼ同一。価格は29,800円で実売価格はさらに低く、当時のパソコンでのぶっちぎりの最安値でした。
愛称は「楽がき」で、それだけでブランドイメージが低下したような…😁ちなみに安っぽいキーボードが時間の経過で硬化して破砕するらしいです😲僕が発見したのは翌年カシオの激安MSXであるPV-7の横で、5000円で投げ売りされている姿でした。

これに関しては色々な意見があるでしょうが、僕の実感としてMSXが「おもちゃ売り場」に山積みになっていたとしたら、MSXはセガSC-3000やファミリーベーシックと同列の「おもちゃ」として扱われていたように思います。そして単なる「ゲーム機」と認識されて、僕の母上は購入を許可してくれなかったと断言できますね。

MSXユーザーあるあるとして

🤭「ファミコンはゲーム機だから、親がパソコンとしてMSXを買ってくれた」

と言うのがあります。西和彦先生はMSXをあくまでパソコンとして設計しており、そこに強いこだわりを持っていました。正直なところ当時の入門機パソコンはどれも性能的には大差ないのですが、このマーケティングやブランディングのわずかな違いが、結果的に大きな差になったことは歴史が証明したように思います。

また公式の子供向け専門誌として、MSXマガジンの存在も極めて大きなものでした。MSXマガジンは学校や図書館にも置ける科学情報誌を意識していたので、ゲーム機としての側面は極めて抑えられていました。こういった積み重ねがMSXユーザーの実際の購買層である「保護者」の信頼を勝ち得て行ったのではないでしょうか。


1984年12月の特集記事。入門機としてであっても専門雑誌が「パソコン」として扱ってくれたことはMSXのブランドイメージ向上に繋がったと思います。

❸遥か高みの8ビット御三家


8ビット御三家筆頭PC-8801mkIISR。88ユーザーに「88にあらずんば、パソコンに非ず(意訳)」と言われた日にゃあ、血が逆流しましたよ🤣


FM-7シリーズはバランスの取れた良いマシンだったのですが、僕の周りではFM-7くんが富士通がFM-77を早々に見切ってFM77AVに切り替えたことを恨んでましたよ。タモリさんの知的なイメージがハマってましたね。


X1は初代もturboも優れた設計で、デザインは間違いなく8ビット御三家でずば抜けてカッコよかったです。しかしシャープ自体が企業体力的に富士通や日本電気に劣るのにも関わらず、MZシリーズの電子機器事業部と、X1のテレビ事業部が別々に販売、展開していったことが最終的にネックとなってしまいました。

1985年は8bitパソコンが黄金期を迎えていました。天下のNECはパソコン史上に輝く名機PC-8801mkIISRを発売、一気にホビーパソコン市場の主導権を握ります。それを追従する富士通のFM-7シリーズシャープX1は通称8ビット御三家と呼ばれ、強力なパソコンゲームソフト市場を形成していました。この代表的ソフトが1985年末に発売された怪物ソフト『ザナドゥ』 だったと思います。


ゲームメーカーもパソコンユーザーの特権意識をくすぐるような広告を打っていたのでした。これはわざわざファミコン雑誌に掲載されたザナドゥの広告。「ファミコンでは発売されていません」と銘打ったうえで、何と「12歳未満禁止」と煽ってます。おまけにご丁寧に8ビット御三家の写真入りですよ。ザナドゥが発売されないMSXはお子様向きって言いたいのか!MSXと8ビット御三家の「超えられない壁」を象徴する一枚として(ムカついて😁)印象に残っています。

正直に告白するとMSXの同志に刺されそうですが、僕だって
「🤭MSXより本格的な8ビット御三家が欲しい~」
と言うのが偽らざる本音だったんです。『ザナドゥ』がプレイしたくてたまりませんでしたよ。しかし月のお小遣いが1000円の小学生にとって、30万円近いパソコンは非現実的な価格でした。缶ジュースが100円だった時代を鑑みるに、現在は50万円以上の感覚でしょうか。


86年お正月のパソコン新機種購入ガイド。やはりPC88とFM-77が筆頭に来ています。


ここまでが所謂「一般的なパソコン」値段的に手が出ませんよ!


そして超えられない壁を越えてMSXが登場します。


この時期ではまだMSX2は手が出ませんでした。

夏休みに科学万博から帰ってきた僕は「何が何でもMSXを入手しないと時代に取り残される…」という焦燥感に駆られていました。しかし我が家の大蔵大臣である母上を説得するのは並大抵ではありません。後述しますが我が家では前年の84年に一度PC-88の購入を検討して、母上がブチギレた苦い経験があるのでした。
したがって僕はショップに行ってMSXのチラシを貰いまくり、慎重に購入計画を練ることになります。MSXマガジンの購入特集記事で5万円以下の機種が発売された秋ごろを狙って、ようやく母上にMSX購入を切り出すことになるのでした。

❹一般人がPCを買うと?


父上が我が家に持参したPC8801mkⅡのパンフレッド。
これがサイボーグ家を揺るがす大騒動に発展するとは…

僕のMSXとソ連をテーマ―にした大河ドラマ「ソ連MSX物語」をお読みになられた方はご存じでしょうが、父はNEC系企業に勤務していて、ソ連の工場でPC8801を使用していました。父はパソコンには不得手だったので、1984年に自分の勉強用として購入を検討したことがあったのです。


一般人には理解できない宇宙語で書かれています。

パソコンマニアなら型落ち品や中古を買うという選択肢もあるでしょうが、一般人の父には不可能でした。そんな訳で日本電気の正規販売店に行ったのが運の尽き。

PC8801mkⅡ本体定価27万円
純正ディスプレイ約15万円
漢字プリンタ約15万円、日本語ワープロ約5万円。
当時PC9801やビジネスで主流だった、8インチフロッピーディスクドライブの拡張用セットは何と40万ですよ!

この超高額セットを入門用にと涼しい顔で勧めてきたのでした。


販売員に内容を質問しても、やはり宇宙語で返事が来たそうです。

しかも3年もすればゴミ同然の扱いを受けるのがレトロPC業界の恐ろしい所。父が店員に「型落ち品はないのか」と聞くと

🤥「初代PC88?あんなもの使い道ありません。第一FDDが接続できません」(嘘です出来ます!)

と言われたとのことでした。更に父は勤めていた日本電気精器の総務に問い合わせて、日本電気本社に「社販価格で安くできないか」と頼んだところ「正規販売店で定価で買ってください」と、にべもなく断られたそうです。


日本電気の正規販売店は一切値引きには応じなかったそうです。この塩対応せいで系列会社に勤務しているにも関わらず、父はNEC嫌いとなり、結果的に僕が入門機としてPC6001を選択しなかった遠因となるのでした。

そんな訳で仕方なく父がPC8801mkⅡのパンフレットを母上に見せた所

😡「日産サニーのローンも残ってるのに何考えてんのよアンタ!」

と逆上されて、暫く口を聞いてくれなかったそうです。このように一般人がパソコンを購入するのは大変な時代だったんですよ。


PC8801mkⅡはビジネス用途でもかなりのシェアがあったそうです。一応NECを弁護しておくと、NEC本社内でも個人の教育用PCは当時ビジネスの主力だったPC98とのデータ互換を考慮して、PC8801mkⅡが推薦されていたとのことです。
これは父の勤務した日本電気精器の1988年の写真ですが、3.5インチFDD内蔵の最新式PC9801UXに8インチFDDを接続しています。これはPC88とのデータ互換を考慮してのことだと父の同僚が回想してくれました。

困ったことにキャプテンシステムの通信費などでも痛い目にあっていた母上は、この一件で完全にパソコンアレルギーに毒されてしまい、「パソコンはむやみに高い物」という先入観が付いてしまったのでした。

❺ナイコンからの脱出


「どれを選ぶかMSX」それが問題でした。

ラッキーだったのは84年あたりから、お茶の間で華やかなMSXのCMが頻繁に放送されるようになったことでした。僕は「パソコンとMSXは全然違うんだ」と嘘をつきまくって母上を懐柔する作戦に出たのでした。もうMSXの為なら手段を選んでられませんでしたよ。


ジャイアンの言うことは大体正しいです😁

それに対して母上は古典的な対抗手段を取ってきました。

🙋‍♀️「テストで100点取ったら買ってあげる」

これに対抗して僕も超古典的な手法で対抗してやりましたよ。ヒントは秀才のFM7くんの隣に席替えして貰ったこと😁
母上note見てないだろうな?


😏「おい、急いで写せよ!」😁「了解」
FM7くんとの腐れ縁は現在も続いています。

こうして何とか購入までこぎつけた僕でしたが、最後の難関が機種選びです。この時は本当に悩みました。
我が家ではまず「ゲームをするとバカになる」とトンデモ陰謀論を信じている大蔵大臣の母上様を説得しなければなりません。となると広告のイメージが重要なことになるのですが‥‥


松田聖子さんはMSXの広告に登場した最大のビックネームなんですが…

当時のMSXの旗手は何といってもソニー。ブランドの絶対的なイメージは今以上の物がありました。ソニーMSXのスタイリッシュなデザインは僕も憧れましたね。しかし松田聖子さんの登場するキャッチコピーは

「私よりちょっと賢い」

今見ても素敵なコピーですが、

🙅‍♀️「アイドルよりちょっと賢い?じゃあ碌なもんじゃありません」

と母上の機嫌を損ね早々に却下!松田聖子さんファンの方には申し訳ありませんが、当時はこんな偏見がまかり通ってたんです。


松下のキングコング>アシュギーネの猛獣路線は知的なPCと真逆のイメージでした


キングコングは基本に忠実な、とっても頼れる奴なんですが…
なんでよりによって猿なんだよ!🤣

それでは対抗馬の松下は?よりによってキングコングですよ。「叩いてごらんよ」ってハンマーでかよ!🤣母上は

🙅‍♀️「猿が使う機械なんてもってのほか!」

強烈なダメだし。ソニーと松下はMSX市場におけるライバル関係でしたが、キングコングのイメージで大分損をしていたと思います。


親子揃って暴力事件を起こした不吉過ぎる二人


引き継いだ岡田有希子ちゃんはMSX史上最高の美少女だったと思うのですが…😭

三番手の東芝のパソピアIQの横山やすしのイメージは当時お茶の間で最悪で、IQの欠片もない感じ。当時から漫才より飲酒や暴力での不祥事で報道される方が多いという有様で、正直東芝のセンスを疑いました。胡散臭さ爆発の息子の木村一八とのコンビはこのマシンの将来を暗示していたような・・・
酩酊&暴力という、漂う反社の香りに僕の母上は心底嫌っていて「😡東芝のMSXだけはダメ」とくぎを刺されていました。


日立の名キャッチコピー「初恋MSX💓」。
MSXが初恋と言うのもせつなさ炸裂ですが・・・😁


ビクターはキョンキョンこと小泉今日子さんを起用。
「恋のプログラムしてあげる💓」ってどんな言語のプログラムなんだよ!😁


「元祖ときめき」はコナミじゃなくてキヤノンなんです!


ゼネラルのPCT-50は珍しいテレビ一体型MSX。よくデモ機に使われていました。パソコン&テレビが合体ということで「いっしょになって、あ・げ・る👩‍❤️‍💋‍👨」 というコピーがいやらしすぎ…あわわ意味深すぎますよ😆

他社メーカーも華やかなアイドルを起用していました。
しかし「男女七歳にして席を同じうせず」の教育で育った母上はご不満な様子。恋愛やパソコンは成績が下がると真剣に思い込んでいる始末です。「初恋」やら「ときめき」やらはご法度なんですよ。もうそうなると選択肢が無くなってくるような…


母上の教育方針のせいで、僕は長いことガールフレンドも出来ずにMSXが恋人でした(逆恨みです😁)

随分後の話ですが、ザナドゥMSX版パーケージの可愛すぎるお尻に母上が大激怒!覇邪の封印の見事なおっぱいも見つかって

🤦‍♀️「こんないやらしいゲーム全部捨てるわよ!」

でもあんたの息子、このゲームの256倍おげれつなゲームで遊んでますから! 残念!!🎸「小林ひとみパズルインロンドン」斬り!🤣


小林ひとみさんはMSXの如く長期間ご活躍されたのでお世話になりました😁
刑事大打撃のくだらなさぶりはもはや伝説です。


MSXの本当の意味でのライバルはPC6001だったのかもしれません。1981年の発売当初から入門機パソコンの代名詞でした。しかし84年のPC60mkIISR以降モデルチェンジされることがなく、85年の段階でNECが主力をPC88に移そうとしているのは明白でした。ただ長くパソコンショップでは展示されていた記憶があります。

ちなみに母上の推しは当時好感度抜群の武田鉄矢さんが広告のPC6001だったんですよ!この広告が母上のハートを直撃したようです。しかしパソコンの先輩であるFM7くんやⅩ1くんは
😩「パピコンはNECが見捨ててる感アリアリだからやめとけ!」と警告していました。そんな訳でどうしてもMSXの欲しかった僕は

😣「もうこのPC6001ってパソコンは廃盤なんだ。新機種のPC88って高すぎて無理でしょ?だからMSX!」

と訳の分からない嘘をついて、危機?を脱出しました。


ディスプレイも高額でした。しかし家庭用ゲーム機では再現できないRPG出力の美しさに魅せられたパソコン少年は多かったのです。

他のパソコンが候補に上がらなかったもう一つの理由として、価格以前に我が家に子供部屋がなく、ディスプレイが置けないという事情もありました。MSXが普及した要因の一つに家庭用テレビと手軽に接続できた点も大きかったと思います。御三家PCを持ってる連中は皆自室を持っていましたよ。ここら辺も越えられない壁ですね~。


丁度この時期1985年9月のヤマハの広告。ヤマハのMSXは無茶苦茶カッコいいんですが、音楽やらない奴お断りのオーラが滲み出ていました。


富士通のFM-Xは、どうしてもFM7の子分格というイメージ。


カシオ伝説の激安マシンPV-7。全国700万人のカシオファンの皆様には申し訳ないのですが、有名な激安店ロヂャースで、前述したPV-2000と共に山積みされて叩き売られているのを見て候補から外しました💦
実はカシオのMSXは多くのユーザーを育てた名機なんです。実際僕の19,268倍凄いMSXの現役ユーザーさん達が、処女機であることを明言されています。
しかし当時の僕はどうしても友達のパソコンユーザーの目線を気にしてしまいましたよ😅PV-7の伝説については以下を参考にしてください。

かといってこの3機種だけは僕は選びたくありませんでした。

ヤマハは音楽に特化しすぎていて手を出しずらい。

富士通はFM7の子分格というイメージで避けたいところ。

カシオは他のパソコンユーザーから「パソコンもどき」「劣化ファミコン」とバカにされていて嫌でした。

となると最後に残ったのは・・・


三洋のMSXはバランスのとれた良いマシンが多かったです。しかしこのPHC30にはとんでもない罠が仕掛けられていることを後に知るのでした。

元祖二刀流MSXこと三洋のPHC30!デザインも非常にカッコよく、データーレコーダー内蔵の優れ物。実売価格も5万円ギリギリで、母上もしぶしぶOKしてくれました。僕は購入の前日は興奮して眠れませんでしたよ。
ところが翌日学校からダッシュで返ってくると僕の机の上には・・・・!😱


ちょっと古かったとは言え結果的に松下CF2700は良いマシンだったので良かったんですけどね。ただファンクションキーのf5キーが歯抜けになっていて、プログラムでRUNしたり、コナミのゲームでコンティニューするのに苦労しました。

何故かキーボードが歯抜けのボロボロの松下CF2700ががが!

🤷‍♀️「従弟のお兄ちゃんがもういらないから、それでいいでしょ!」

それはないよママン!😭
しかし紆余曲折ありましたが、何とかナイコン少年から脱出し、MSXユーザーになることが出来た感動はひとしおでした。こうして僕は、それまでと全く違う小学生ライフを送ることになるのです。

❻誰にでもあるMSX・パソコン物語


この表紙はアイドルから予防医学のためのロボット研究者へと転身し、現在「情報経営イノベーション専門職大学」教授を務めている伊藤麻衣子さん。
MSX印の白衣のコスプレが似合ってますね😍

今回はMSXを入手した忘れ得ぬ想い出が蘇り、いつも以上に冗長な文章になってしまいました、スイマセン。更に自分の投稿の引用がやたら多いのですが、これは元々この投稿のために1985年の時代背景を綴っていたら、それぞれが長くなりすぎて独立させたものだったんです。


「自分のパソコンが持てる」という憧れは今思い返しても熱いものがあります。どの機種をいつ入手したかで、PCユーザーのその後の人生は大きく変わっていくのでした。

これは僕の持論なのですが、パソコンユーザーになるという選択は、その後の人生に大きな影響を与えることになりました。その証拠に僕のパソコンの友人にまともな奴は皆無・・・アワワ超個性的な面々ばかりです。


1978年のマイコン。ここからパソコンは急激な進化を遂げていました。

そしてパソコンと言う趣味は決して個人では完結せず、必ず他のユーザーとの交わりが生まれ、それがうねりとなって大きな物語に繋がっていくのだと今になって感じるのです。


1979年のマイコン教室。この時代パソコンは「選ばれし者たちの趣味」でした。

楽しかったこと、悔しかったこと、皆と遊んだこと、そしていずれ訪れる愛機との別れ…パソコン少年には誰もが忘れることのできない、自分だけの物語があるのではないでしょうか。


PC黎明期1979年の最高のPC机。初代PC8001・小型ディスプレイ・小型スピーカー・プリンター・Maxellの小型カセット・マイコン入門書。これこそが80年代ナイコン少年が憧れたパソコン机、全てが完璧の構図です!大人のワンポイントでHarperの瓶がイカしてます。


現在僕のパソコン机。PCの性能は現在では凄まじく発達しましたが、僕のCPUは殆ど変わっていません😁

僕はかつてのMSX&パソコンユーザーから多くのお話を聞き、改めてその思いを強くしたんです。今回の投稿は貴方のパソコン物語を、是非もう一度想い出して欲しいという願いを込めて綴りました。
これからのMSX物語は、自分の体験を少しずつ紡いでいけたらと考えています。今後も暑苦しくマニアックな内容になると思うのですが、もしお付き合い頂ければ嬉しいです。今回も長文最後までお付き合い頂きありがとうございました。

                       サイボーグMSX

いつもスキ💛や凍結された僕に変わってのXでの紹介ポスト、暖かいコメントなど感謝です🙇皆さんとの繋がりが次の投稿への励みになるんです🥹 

いいなと思ったら応援しよう!