ソ連MSX物語①ソ連に渡ったMSXと冷戦を生きた技術者の記録
はじめに・・・皆さんに僕と父からのメッセージ
この物語はソ連で長年仕事をしていた父が、MSXを通じて現地の技術者と交流した経緯を物語にしてみたものです。
教育用のパソコンとして個人贈与と言う形でMSXを彼らに贈ったことは全くの偶然でした。しかしいつしかMSXに熱中する彼らと父には国籍や人種を超えた共感が生まれ、多くのドラマを生むことになります。そして人類の歴史の転換点ともなった、ソビエト連邦の崩壊までを父の視点から綴っていければと思っています。
正直皆さんには旧ソ連にネガティブなイメージを持つ方も多いと思います。父もその体験上、ソ連共産主義体制に極めて批判的です。しかしこの物語は爛れゆく赤い帝国の中でも、MSXに限りない未来の可能性を見出し、技術者の矜持を取り戻していった男たちの記録なのです。そして父には日本の技術者として、僅かながらもソ連崩壊の一助になったという自負があるのでした。
冷戦と言う東西に分断された時代、その懸け橋にならんとした一人の名もなき技術者の呟きとして読んで頂ければ幸いです。
僕は歴史に埋もれてしまった冷戦時代の技術者たちの熱き生き様を、是非皆様に知って貰いたいと筆を取った次第なのです。内容はなるべく専門知識を解りやすく説明するよう心掛けてみました。貴重な当時の写真や、旧ソ連現地の様子などもふんだんに挿入しています。また執筆にあたっては父を中心に多数の当事者の証言を元に制作しています。
ソ連MSX物語は全15話で完結しています。この項の最後にリストを製作しましたので、よろしければ興味のある項だけでも読んで頂ければ嬉しいです。内容に疑問点があれば気軽にコメント欄でお知らせください。それではソ連MSX物語、開幕です!
サイボーグMSX

ソ連の鉄工所『共産党は我々の時代の精神、名誉、そして良心である』レーニンの言葉
僕がまだナイコン少年だった1985年の夏、帰国した父が突如「MSXを買いに行こう」と言い出しました。MSXというのは1983年に西和彦先生が発表した8ビットパソコンの共通規格のことです。詳しく語りだすとキリがないのですが、当時の感覚では子供向けの入門用パソコンだと考えてください。
大しゃしぎする僕に「私の仕事用だ」とのことでガッカリしながら秋葉原へ向かう場面からこの物語は始まります。父はソビエト連邦へのプラント(工場)輸出の専門家でした。機械技術者としてロシア語が堪能だったからです。

父は1971年よりソ連アゼルバイジャンに建設された圧縮機工場の品質管理責任者に就任します。立ち上げ時にはそのデータ管理は手動で行われていました。しかし80年代に入るとデータ管理はパソコンの仕事に移っていきます。膨大なデーターをコンパクトに集計するパソコンの効果は絶大でした。

日本のビジネス機は16bit機が標準でした。
1985年当時日本ではPC9801系が産業用PCとして活用されていましたが、ココム規制(対共産圏輸出統制)により16bitコンピューターはソ連への輸出が厳しく制限されていました。
東芝機械ココム違反事件が有名ですが、軍事転用の恐れのある工業製品は共産圏に持ち込むこと自体が違法だったのです。
そのためソ連の工場では8bit機であるPC-8801mk2が利用されたのですが、予算や手続きの煩雑さもあって各工場に僅か1台の割り当てでした。父は日本電気精器と言う日電系の企業に勤めながら、NECは非協力的で苦労したと当時を振り返っています。何しろNECは殆ど値引きせず定価近くでの納品を通告して来たとか。NECパソコンの全盛期らしいエピソードです。父が自分の勉強用にPC88mkⅡを購入しようとした顛末はコチラ

そこでソ連技術者の教育用のパソコンとしてMSXの出番となったわけです。その頃ナイコン少年だった僕はMSXが欲しくてたまらず、毎月MSXマガジンの広告欄を眺めながら溜息を付いていたのです。それを見た父がMSXを選択したことは全くの偶然でした。もし僕が読んでいたのがOh!FMであったなら、この物語はソ連FM7物語になっていたかもしれません。

僕達が向かったのは秋葉原の電気街を抜けた明治大学前にあるイシバシ楽器店。機種は当時の新型MSX1ヤマハのCX11や型落ちのCX5の2台を選択しました。値段が安いこともありましたが、一番の理由は領収書を「楽器」に分類出来たこと。ソ連に持ち込む際にパソコンとして申請すると手続きが面倒で、音楽用途に偽装するためなのでした。



帰宅すると父は早速MSXの箱を開け始めました。
「もしかして1台は僕にくれるの!」
その期待はあっさりと打ち砕かれます。新品であると転売や賄賂など、あらぬ疑いをかけられる可能性があるからでした。「1度電源を入れ父の私物として持ち込み現地で贈与する」という徹底ぶりだったのです。それぐらい電子機器の持ち込みに神経質だった時代だと思ってください。
「1日だけなら使っていいぞ」
「ケチ!」
父の残酷な宣告にむくれながらも「こんにちはマイコン」のプログラムを入力した、CX11の黒光りする美しいボディは未だに僕の記憶に残っています。



こうして最終的に合計十数台のMSXが個人贈与と言う形でソ連に送られました。余談ですがソ連のテレビは日本のビデオ・フォーマットであるNTSCではなく、フランスのSECAM方式を採用していたため、会社で余っていたTVを送ったそうです。TVはココム規制対象外でした。
父はあくまで業務の一環としての行為だったのですが、このMSXと言うパソコンは予想以上にソ連の技術者たちの心をつかむことになるのです。
現在50歳である僕以上の世代の方はご理解頂けると思うのですが、共産主義陣営の親玉であるソ連は謎に包まれた仮想敵国であり、アメリカに匹敵する恐るべき軍事大国でもありました。しかしソ連はコンピューターの発達が著しく遅れており、パソコンの存在を知る国民も僅かであるのが実態だったのです。

ナイコン少年がパソコンに魅了されたのと同じ、いやそれ以上にソ連の技術者がMSXを手に入れた喜びは大きかったのでした。いつしかMSXに熱中する彼らと父には国籍や人種を超えた共感が生まれ、多くのドラマを生むことになります。

父の業務はロシア本国より、むしろソ連内の構成国であるアゼルバイジャン・ウクライナ・リトアニアなどが中心でした。特に長期滞在したアゼルバイジャンを舞台にこの物語は進んでいきます。そして人類の歴史の転換点ともなった、ソビエト連邦の崩壊までを父の視点から綴っていければと思っています。
アゼルバイジャン・ウクライナ・リトアニアなど現在分離独立した旧ソ連各地の産業発展に寄与してきたことは父の誇りでした。しかし多くの知人友人のいるロシアの不毛な戦争に対しては
「本当に悲しく、怒りを禁じえない。」
父は若き日の思い出を語りながら、そう寂しそうに呟くのでした。

その一 助としてMSXと言う存在があったのでした。
タイトルの写真は赴任先のソ連アゼルバイジャン・スムガイト市。1989年の革命記念日祝賀会に父が招待された物です。新たに書記長に就任したゴルバチョフ氏の肖像画が印象的です。

