ソ連MSX物語⑤パソコンの黄金郷、日本へ!
「MSXを生んだ日本に行きたい!」
突然のソ連MSXチームの直訴に、父は思わずグルジアワインを吹き出しました。
「そ、そんな無茶な・・・」

グルジアと共にワインの名産地でもあり、ロシア風にウオッカもガンガン飲みます😋
ことの発端は父の昇進祝いでソ連MSXチームのメンバーと宴会をしていた時のことでした。
「工場でこれだけPCを活用しているのは俺たちだけだろうな」
彼らが自慢しているの聞いた父が
「君らは井の中の蛙だ。我が日本にはもっと優れたパソコンの運用システムが山ほどあるぞ。」
と、口を滑らせてしまったのです。
「同志、日本のコンピューター技術がソ連を凌駕していることは薄々気が付いていた。我々はその現場をどうしても見てみたい。」
そう答えると、彼らは父が差し入れたMSXマガジンの記事を指さしました
「この雑誌によるとMSXには外付けフロッピーディスクドライブを接続できるそうだな。我々はカセットテープで自作品質管理ソフトを運用しているが、FDDになれば作業効率は格段に向上するだろう。」


父は驚きを隠せませんでした。労働意欲が限りなく低く、サボる口実を常に探していたような彼らが、まるで生まれ変わったように新しい技術を欲しているのです。
父はパソコンには不得手だったのでこの心境を理解できなかったようですが、パソコン少年だった僕はソ連MSXチームの気持ちが良くわかります。それはもはやパソコンユーザーの本能と言うべきものだったのでしょう。

父は悩みました。時は1985年の冷戦真っ只中、それは一介のサラリーマンの父にはあまりにも無謀な懇願だったのです。しかし怠けるソ連人労働者に
「努力した人間が評価される時代が必ず来る。」
と常に叱咤激励してきた父には葛藤がありました。ソ連MSXチームの活躍でバクー工場は生産台数で上位になったにも関わらず、共産主義の悲しさで彼らの賃金は1ルーブルも上がらなかったのです。
「あまりにも不憫すぎる。私は自由主義陣営の代表として、彼らにきちんとした対価を払う責任がある。」
父はウォッカを一気に飲み干すと
「解った。私に任せておけ!」
「Ураааааааа!!!!ウラー 万歳!」
こうしてスムガイットの夜は更けていったのでした。

「しまった、あんな安請け合いをするのではなかった・・・」
翌日二日酔いの頭痛の中で父はぼやきました。
東西冷戦の時代、父のような西側の人間がソ連に入国するにも一苦労でしたが、その逆はほとんど不可能な情勢でした。
一番の理由は亡命者が後を絶たなかったからです。日本では1976年のミグ25事件・ベレンコ中尉が有名ですが、多くの芸術家や学者がソ連体制を見限って西側に自由を求めてやってきました。
ソ連では亡命者を「非帰還者(ニュアンス的には非国民)」と呼び、祖国への裏切りとみなされ、財産没収、自由剥奪、そして最悪の場合には銃殺刑を宣告されるほどの重罪行為だったのです。

ミグ25はマッハ3を超える超高速戦闘機であり、電子機器は米国を凌駕しているのではと恐れられていました。しかし実態は耐熱用のチタニウム合金製と考えられていた機体は単なるステンレス鋼板に過ぎず、電子機器には旧式の真空管などを多用していることなどが判明。当時の技術水準としても著しく時代遅れなことを露呈してしまったのです。これはソ連の国防上大きな失点になりました。

ソ連の軍用真空管そのものの完成度は高く、現在でも音楽用に珍重されているとか。
ただミグ25に真空管が使用されている理由には諸説あるのですが、ソ連は最後まで高性能の半導体を自国生産出来なかったことは厳然たる事実でした。このことがソ連でのコンピューターの普及が著しく遅れた根本的な原因であり、しいては冷戦下の共産主義陣営が自由主義陣営に敗北する大きな要因となったのです。
21世紀に入って米中の覇権争いが緊張感を増すなかで、中国は半導体の自給自足を国家の最重要戦略のひとつに掲げています。これは中国首脳部がソ連の敗北から学んだ教訓を生かしているのだろうと父は回想しています。


そのため唯一と言える方法は入国先から入国ビザを受領する…つまり日本政府が入国ビザを発行するケースです。この場合は日本側が在留中の責任を担保する形になるので、亡命の危険性が少なくなるからでした。
幸運なことに父の所属する日本電気精器では、ソ連技術者の日本研修が定期的に行われていました。しかしこの人選はソ連側の本丸であるロシア工場の共産党員エリート枠が優先されています。研修にバクー工場のMSXチームを潜り込ませるには、日本政府が発行する入国ビザの割り当てを増やすしか方法が無かったのでした。


父は日本電気精器と契約していたロシア語技術通訳の第一人者、小林満利子先生(当時ロシア語通訳協会副会長)に相談し、ソ連とパイプを持っていた社会党の議員さんを紹介してもらいます。
父は社会党の支持者でも何でもなかったのですが、ありがたいことに「日ソ友好のために不可欠」という父の熱弁に賛同してくれることとなりました。この働きかけにより、渋る外務省も渋々OKを出してくれたのです。


便宜を図ってくれたのは衆議院副議長を務めた戦前からの重鎮、三宅正一先生でした。


こうして何とか3名分の入国ビザの申請には成功したのですが、問題はここからです。今度はソ連政府がこの3名を審査し外国旅行用パスポートを発行してくれなければ、すべてはご和算になってしまうのです。この審査には泣く子も黙るソ連の秘密警察「KGBソ連国家保安委員会」が深く関与しているのでした。
まず結婚していない人物や子供のいない物は除外されます。これは亡命を防ぐため、人質として家族を確保するためでした。日本における参勤交代と同じ理屈です。また疾患を抱えている人物も審査が通りません。ソ連は対外的に「心身ともに健康な労働者の楽園」という幻想をプロパガンダしていたからでした。


このためMSXチームでもっとも日本行を熱望していた、MSXの自作品質管理ソフト制作者であるグセイノフは審査が通りませんでした。彼は高所での作業中に転落事故により足に大怪我を負い、障害者として認定されていたからです。
「私の分まで頼むぞ、日本のPC技術を出来る限り学んできてくれ」
天才的数学者だったグセイノフは涙ながらに仲間達を見送ったと言います。
こうした紆余曲折の末、1985年の12月ついにソ連MSXチームのメンバー3人がパソコンの黄金郷たる日本へ降り立ちました。
「鉄のカーテン」は強固に共産主義陣営を世界から隔離していたのですが、MSXユーザーの熱意には前には無力だったのです。
これは僕が1分弱に編集した「ゴルバチョフ・冷戦終結をめぐる秘話」からのカット映像。生産報告の偽造はもはや常態化していたのです。
1985年に開始されたペレストロイカの一環で来日することが出来た彼らですが、既にソ連経済は破綻寸前でした。労働者の意欲は停滞し、社会の活力が失われていく様を父は体感しています。
その中でも己の向上心を失わないMSX軍団は異端の存在でした。
この物語は爛れゆく赤い帝国に抗い、技術者の矜持を忘れなかった男たちの記録なのです。


