【小説】キャットウォークの道標(みちしるべ)~おかあはいつもちょっと大変2~ 第1話
あらすじ:
『福を呼ぶ探偵事務所』に、野良猫の行方を案じる女性が訪れる。
猫の捜索の過程で、所長の馬淵福蔵と助手の櫻井融は、複数の人がその猫に餌を与えていたことを知る。
その中には、融が以前の事件で出会った、不思議な力を持つ少女・アイの姿もあった。
やがて調査は、猫と深く関わっていた女子行員が、現在連絡の取れない状態であることへとつながっていく。 小さな命をめぐる優しさが、思いがけない真実の扉を開き、三人は静かにその先へ踏み出していく。
第1話
「あの子の声が、耳から離れないんです」
握りしめていたハンカチをたたみ直しながら、女性がぐずぐずと鼻をすすった。
「可愛いんですよ、いつもわたしの足音を聞きつけて、嬉しそうに寄ってくるんです。わたしのこと待ってるんですよ」
窓の外から秋の日差しが差し込んでくる。外の風を入れるためにほんの少し開けてある窓の隙間から、通りを走る車の音がかすかに届く。
『福を呼ぶ探偵事務所』の一隅にある革張りの応接ソファで、依頼人である女性はまるで手元のハンカチに向かって話しかけるように、目線を落としたまま話し続けた。
「あの子、多分ですけどどこかのお家で飼われていた子だったんでしょうね。そうじゃないと、あんなふうに人に慣れたりしませんから」
そこで言葉を切り、ぐずぐずと鼻を鳴らした。しかし目元に涙はない。鼻炎か、秋の花粉症かもしれない。
「いっつもお腹を空かせていて、可哀想だなって思っていたんです」
そう言って、盛大に鼻をすすり上げる。
「あの、これ、どうぞ」
櫻井融がティッシュボックスを差し出した。しかしその耳には届いていない様子だ。
女性の向かいに座っていた馬淵福蔵は、融に向かってそっと首を振って見せた。
「わたしが引き取ってあげたらよかったんでしょうけど、でも、うちにはもういっぱい保護猫ちゃんがいるでしょう」
よく見ると、女性のフリースの上着やスパッツには猫の毛がたくさんついていた。かろうじてナイロン素材のスカートだけは光沢を放っている。服装は簡素だが、くたびれた印象はない。髪型もきちんとしている。手には大きな石の入った指輪が光っていた。
「この前、七匹目を保護したばかりで。その子がね、夜になってケージに入れられるのをイヤがって、一晩中ニャーニャー鳴くんですよ。おかげでわたし、すっかり寝不足で」
女性はやっと目を上げ、融と福蔵と目を合わせた。確かに顔色は良くないが、元からそうであるかはわからない。福蔵が曖昧に目尻を下げ、話を促すように頷いた。融も隣で真似をする。
「おまけに、糖尿病の子がいるでしょう。夜中に一度は必ず起きて、様子を見てあげないといけないんですよ。だからわたし、本当に寝不足なの」
糖尿病の子、という言葉に融はどきっとしたが、どうやらそれも保護猫のうちの一匹のようだ。
「大変ですね」
福蔵の相槌に、女性は眉をひそめると、
「もうね、旅行なんてずーっと行ってないですよ。だって置いていけないでしょ。だからずーっと家にいて、ずーっと猫ちゃんの世話ばかり」
言葉の内容とは裏腹なやや自慢げな口調に、福蔵と融はさっきと同じように目尻を下げて頷いた。
女性は七十代半ばと言ったところだろうか。身なりを変えれば、ひょっとするともう少し若く見えるのかも知れない。
大きな目と小さな口元が猫に似ている。猫が好きだと、顔もそのようになってくるのだろうか。それとも、似ているから好きになるのかもしれない。融の頭に、とりとめもなくそんな考えが浮かぶ。
「それに、猫の介護だけじゃなくて夫も具合が悪いんです。だから、これ以上は増やすことはできないと思ってね。でも、毎日餌だけやりに行ってたんです。もちろん、野良猫に餌をやっちゃいけないってわかってるんですけど」
女性が口元に手を当てながら声を潜める。寄り道していた話がやっと元に戻る気配に、福蔵がほっと表情を緩めて、やや身を乗り出した。
「たまに、知らない人から怒られるんですよ。この前も、変な男に『野良猫に餌をあげるな!』って怒鳴られて」
その時のことを思い出したのか、女性が険しい顔になる。
「でもね、命あるものがお腹を空かせてさまよっているって考えただけで、たまらないじゃないですか」
「そうですよね……」
思わず口を挟んだ融の代わりに、女性はぎゅっと口を結んでしまった。また鼻をぐずぐずとすすり上げている。
「どうぞ」
女性の前に置かれたままのティーカップに、福蔵が手のひらを向けた。
「ありがとうございます……」
女性が紅茶に口をつける。福蔵は居住まいを正すと、
「その野良猫を探して欲しいというご依頼なのですね」
と女性に尋ねた。
「はい、そうなんです」
女性はカップを置き、ハンカチを鼻に当てながら、
「わたしが行ってやると、毎日嬉しそうにニャーニャー鳴きながら出てきていたんです。それが、急に姿を消してしまって」
「それはいつからですか」
福蔵がメモを手に取る。
「一昨日の夜からです。わたし、行ってやれるのは夜だけなので」
女性はもう一度紅茶を口にすると、
「もちろん、野良猫ですからね。これまでだって、姿が見えないこともありましたよ。そんな時はこっそり、餌を置いておくんです」
女性の家の近くには、国道と住宅地を隔てる植え込みがある。猫とはいつもそこで会っていたらしい。
「それなのに、一昨日から餌がそのまま残っているんです。気になって、朝と夜の二回、様子を見に行っても姿も見えなくて」
食べた形跡がないということは、猫はまったくそこに戻ってきていないということになる。
「市役所に電話して、確認もしました」
福蔵の心の内を先んじて、女性が言った。
「でも、野良猫をつかまえて収容した記録はないっていうんです」
「そうですか……」
福蔵がサラサラとペンを走らせる。
「ひょっとしたら、どこかよその家で飼ってもらえることになったのかもしれないって、最初はそう思うことにしたんですね。あの子はすごく頭が良いし可愛いから、きっと大事にしてもらえるって自分に言い聞かせて」
女性がまた、手の中のハンカチを揉みながら呟く。
「でも、夜寝ているとあの子の夢を見るんです。わたしに助けを求めて、ニャーニャー鳴いているんです。それで何度も目が覚めて」
それはケージに入れられるのを嫌がる七匹目の保護猫の鳴き声なのでは、と口に出しそうになる融を、福蔵が目で制する。
「それでこちらの『福を呼ぶ探偵事務所』を思い出したんです。以前ここを通った時、看板だけは目に入ったことがあって、縁起がよさそうな名前だなって」
「ありがとうございます」
福蔵が微笑み、頭を下げる。女性はふっと顔を曇らせ、
「たかが野良猫だし、姿が見えなくなったくらいでこんな風に騒ぐなんて、バカみたいでしょ。でもね、本当にあの子の……」
女性が声を詰まらせた。福蔵が差し出したティッシュボックスに、女性はわずかに目礼し、一枚引き抜いて目元に当てる。
「あの子の声が……耳から離れないんです」
女性は両手を膝の上に揃えると、福蔵と融に向かって深く頭を下げた。
「お願いします。どうかあの子を探して下さい。お礼はしっかりお支払いします」
