【小説】キャットウォークの道標(みちしるべ)~おかあはいつもちょっと大変2~ 第10話
第10話
昼間の銀行はいつも、目が回りそうなほど慌ただしい。会社員たちが昼休みのわずかな時間を使って押し寄せるため、窓口の業務は一秒たりとも途切れることがない。
彼らの焦りが伝わるのか、職員たちも自然と動きが早くなり、追い立てられるような気持ちになる。
「佐伯さん、それ終わったら休憩行って」
やっとそう声をかけてもらえたのは十四時過ぎだった。佐伯里奈はそっと会釈し、窓口を離れた。
行員たちが業務をしているバックヤードを通り抜け、ロッカーへ向かう。財布とスマホを小さな布バッグに入れ、職員通用口から外へ出た。
アスファルトに照り返された日差しが目を刺す。ずっと屋内にいたためか、外のまぶしさが痛いほどだった。
「里奈さん」
手のひらで光を遮りながら振り返ると、二人の男性が立っていた。
「昨日はどうもありがとうございました」
一瞬の混乱の後、昨夜会った男性たちだと気づいた。明るい光の下で改めて見ると、印象が変わる。
若い男性は、つるりとした綺麗な肌をしていた。まだ成人したばかりか、あるいは高校生だと言われてもおかしくない。
年上の男性は、三つ揃いのスーツを着ていた。チャコールグレーの格子柄はどこかクラシックな印象で、まるで古い映画に出てくる英国紳士のようだ。
そういえば昨日もらった名刺には、『福を呼ぶ探偵事務所 馬淵福蔵』と書かれていた。本物の探偵と会ったのは初めてだ。
「あなたの証言のおかげで、一人の貴重な命が救われました」
福蔵がそう言って、恭しく頭を下げた。里奈は思わず目を丸くする。
『彼女はこの近くで野良猫に餌をやっていたのですが、そのことについてなにかご存じですか』
昨夜そう問われた時に、里奈の頭に浮かんだのは、今から一年くらい前の、円香との会話だった。
『ねえねえ、里奈ちゃんって、猫好き?』
仕事終わりに、平日のみイートインができる地元のパティスリーの店で、向かい合ってケーキを食べている時だった。それまでの会話が途切れた後、円香が突然そう尋ねてきた。
『猫、好きですよ。でも、わたしはどっちかっていうと、犬派かなあ』
里奈がそう言うと、円香はちょっぴりガッカリしたようにしゅんと眉を落とした。そんな可愛らしい姿は普段の仕事ではとうてい見られるものではなく、里奈の胸がほっこりと温かくなる。
円香は、里奈がこの支店に配属されてから、仕事を教えてくれたり、時には相談に乗ってくれる存在だった。
肩の上できっちりと切りそろえられた髪や、細く茶色いフレームの眼鏡の印象からか、円香は優等生タイプとして頼られる一方で、取っつきにくい人物だと誤解されることも多い。
けれども、実は面倒見が良く、可愛らしい部分がたくさんある。それは里奈だけが知っている円香の意外な一面だった。
『わたし、猫が大好きでね、子供の頃、猫を飼ってたこともあるの。でも、今はアパートだから飼えなくて』
そこで円香はテーブルの上にぐっと身を乗り出すと、声をひそめ、
『そしたら最近ね、近所の野良猫がわたしのこと覚えてくれて、顔を見ると挨拶してくれるの』
そっと打ち明けてくれた。
『本当はいけないんだけど、こっそり餌をあげてるんだ。ナイショね』
仕事のできるしっかり者。面倒見が良く、優しい先輩。そして、本人は隠しているつもりだが、実はちょっぴり寂しがり屋。
里奈のよく知るそんな円香は、少しずつ変わってしまった。その変化にうすうす気づきながらも、里奈はかけるべき言葉をなにも見つけられなかった。
『そういえば、前に話していた野良猫ちゃんには、今でも餌をあげているんですか?』
円香が姿を消す一週間前。業務終了後の更衣室で、前よりも痩せた背中に向かって、里奈がふいに尋ねた。
振り返った円香は顔を曇らせ、
『うん……実は先週、餌をやっているところを見つかって叱られて、警察まで呼ばれちゃって』
『ええっ!』
里奈が口を覆う。円香は力なく微笑むと、
『大丈夫、それ以来、違う場所で餌をやることにしたから』
そう言って、里奈に背中を向けてしまった。拒絶の匂いに、里奈が諦めて自分のロッカーに向き直ると、
『ただね……その時、気になることがあったの』
円香が再び口を開いた。
『いつものように、クッキーに餌をあげようとした時にね……』
白と黒のぶち模様の野良猫に、クッキークリームという名前をつけているということは前に聞いていた。
『その家の庭でね、誰かの声がしたの』
円香がその時のことを思い出しているのか、怯えた表情になった。
『声……?』
つられて、里奈も眉を寄せる。円香は重々しく頷くと、
『ブチ、助けてくれって』
里奈が口を覆った。「助けてくれ」とは穏やかではない。
『その声に、クッキーがすごく鳴いて。でもそしたら、その家から太った男の人が出てきて、すごい勢いでわたしを怒鳴ってきたの』
よほど恐ろしい思いをしたのか、話しながら円香の息が浅くなってくる。
『聞こえた声のこと、本当は警察で話した方がいいのかもしれないけど、でも、わたし、怖いし……』
そう言って円香はきゅっと唇を噛むと、それ以上その話をしようとはしなかった───。
「あなたの証言から、あの家に誰かが監禁されているのではないかという可能性が濃厚になり、我々は昨夜、あの家に踏み込みました」
里奈が目を瞠った。うっすらと抱いていた疑いが、福蔵の言葉で輪郭を帯びてくる。
「蛭田の家には、父親が監禁されていました。円香さんが聞いたという声は、おそらく彼の声でしょう」
蛭田は働きもせず、年老いた両親に寄生していた。二ヶ月に一度の年金の受給と、両親の貯金を頼りに生活していた。
しかし二年前に母親が倒れ、入院したが、治療の甲斐なく亡くなってしまった。葬儀を終えた時には、貯金はかなり減っていた。
母が亡くなったため、受給金額も減った。母の食費等がかからない代わりに、自炊ができない父と息子の食費が上がり、残された二人はあっという間に生活苦になってしまう。
そんなある日、弱った父親が家の中で転倒し、骨折した。
苦しむ父親を、蛭田は病院へ連れていこうとしなかった。
母は入院したままこの家に戻ってくることはなかった。もし父まで亡くなれば、年金がもらえなくなり、収入がなくなる。
父の怪我は隠し通さなくてはいけない───。
警察が到着するまでの間、蛭田や父親の口から語られた断片的な情報をつなぎ合わせ、福蔵はおおよその事情をくみ取った。
「しかし、蛭田の家にはノアも円香さんもいなかった」
「……ノア?」
「ああ、失礼。円香さんが餌をあげていた野良猫です。警察が到着してから、改めてすべての部屋を探しましたが、ノアと円香さんの痕跡を見つけることすらできませんでした」
それほど大きくない古い平屋の家だ。収納も少ない。
念のためにと風呂場やシンクも丁寧に調べたが、ルミノール反応すら出なかった。
「里奈さん、あなたは昨日、円香さんのアパートを訪ねようとしたのではないですか」
里奈が身を固くした。手にしていた小さなバッグのひもを握りしめる。
「……はい。円香先輩のことが心配で……」
里奈がじっとうつむいて呟いた。福蔵は黙ってその様子を見ていたが、
「里奈さん、お願いします」
そう言って、深く頭を下げた。
「あなたの知っていることをすべて教えてもらえませんか」
里奈が腕で自分を抱きしめるようにし、半身を引いた。福蔵から顔を背ける。
「円香さんとノアが木曜日に消えてから、もう五日が経ってしまいます。彼女がもし、自分の意思で姿を消しているのなら、それでもいいのかもしれません。しかし、もしそうでないとしたら」
福蔵がそこで言葉を切った。その後ろで、沈痛な顔で里奈を見ていた融も頭を下げた。
里奈がごくりと唾を飲み込んだ。唇が震えだす。
「わたし……」
嗚咽が漏れた。涙が一粒こぼれたと思ったら、ぽろぽろと止めどなく流れてくる。
「ごめんなさい……」
そう言って、里奈が両手で顔を覆った。
