【小説】キャットウォークの道標(みちしるべ)~おかあはいつもちょっと大変2~ 第4話
第4話
歌声が空気を震わせ、公園の木々を揺らすように広がっていく。
伸びやかな音はわずかにも押しつけがましいところはなく、力みもない。放つと同時にすうっと自分に引き寄せるような、美しいまとまりを見せる。
引き絞られた音は精緻な織物のようになって、聴く者の心を包み込む。
融はそっと目を閉じた。青く澄み渡る大空を眼裏に感じる。
世界中から、ただ一つの歌声を残してすべての音が消えたかのような気がした。宇宙のような深い静寂の中で、ぽっかりと浮かぶ一つの青い星のように、アイが歌っている。
ふくらはぎから腿へぞくぞくと鳥肌が上った。ぶるりと身震いをする。
音は耳からだけでなく、全身の毛穴から入り込み、身体を内側から震わせた。融の隣で聴いていた女性が、そっとハンカチを目にあてがい、涙を拭っている。
いつまでも世界を震わせ続けそうな最後の音の響きがとうとう空気に溶け、人々が詰めていた息を吐き出した。
怒涛のような拍手が湧き起こる。青い民族衣装を身につけたアイは、布で顔を半分覆ったまま、歓喜の目を向ける人たちに向かってそっとお辞儀をした───。
ぼんやりと立ち尽くしていた融に、衣装から着替えたアイが笑顔で歩み寄った。
「……素晴らしかったです」
まだ興奮が抜けきらないまま、融は吐息混じりに呟いた。
公園はまるで夢から覚めたように、普段の様子を取り戻していた。さっきまでアイの歌を聴くために集まっていた人たちは立ち去り、広場では子供たちが駆け回っている。
「ありがとうございます」
アイが恥ずかしそうに微笑んだ。そのイントネーションには、わずかに違和感がある。髪は黒く、日の光を溶かしたような肌は日本人と変わらないが、よく見ると顔立ちも純粋な日本人のそれとは違っている。
体つきはとても小柄で、まるで少女のようだ。けれども顔立ちは大人びていた。目元の華やかさとすっと通った鼻筋は、人目を惹きつける。
『わたしには、国がないんです』
アイはとある少数民族の自治区から日本へやってきた。故郷は現在、当局に支配されており、非人道的な扱いを受けている。
特にここ数年、当局は自治区に大量の人を入植させ、自分たちに都合のいいように法律を書き換えていた。
日本の歴史を研究し、故郷の独立のために活動していたアイの父にも、逮捕の手が迫っていた。もし囚われれば、残された妻と娘には地獄が待っている。
『娘だけでも逃がしたい』
自らが逮捕される前に、アイの父はアイを日本へ逃れさせた。
そんな事情もあってか、アイは融よりも一つ年下であるにも関わらず、強い風にも倒れないしなやかな逞しさを秘めている。
「おかあ」
浅黒い肌をした幼い女の子が、公園の奥にあるビオトープから駆け戻ってきた。
「リン」
アイが女の子を抱き留める。額に汗を光らせながら、リンは嬉しそうに身をよじった。
リンはアイよりもさらに異国の顔立ちをしていた。髪も瞳も黒いが肌は小麦色で、目の縁の輪郭がはっきりしており、睫毛も長い。
後ろから、佐紀が追いかけてきた。
「はあ、疲れた」
と言いながら息を弾ませ、膝に両手をついている。
アイを自治区から逃がす手伝いをしたのは、佐紀の父親である音無恭平だった。当局の網をかいくぐる手段として、佐紀の父親はアイと書類上の婚姻関係を結び、配偶者として日本へ連れてきた。
書類上は母親でありながら年齢は佐紀よりも五歳も年下であるアイと、諸事情により引き取られているリン。カメラマンとして海外を飛び回ったまま家に帰ってこない父親の代わりに、佐紀は保護者として二人を守っている。
「見て」
リンが握りしめていた小さな手を開く。
「わあ、お花。きれいね」
リンの手にある小さな青い花は雑草だった。それでもアイは膝を折り、リンと目線を合わせて微笑む。
「これ、ノアちゃんにあげるの」
リンの日本語はずいぶんと上達してきたようだった。融への警戒心も薄れたのか、青い花を融にも見えるように差し出してくる。
「ええ? お花なんてあげても喜ばないよ。猫が喜ぶのはカツオブシ」
佐紀がからかうように言った。リンがぷうっと頬を膨らませる。
「サキのいじわる」
融はふと、アイに目を向けた。
「猫を飼っているんですか?」
アイが微笑みながら首を横に振る。
「いいえ、ノアは野良猫なんです。あんまり言うの、ダメなんですけど」
口元に手を当て、声を潜ませる。
「保育園の帰りにいつもいて、こっそり餌をあげているんです」
「野良猫……」
融の頭の中で、なにかがきらりと光った。
「あの、その猫について、詳しく教えてもらってもいいですか」
