【小説】キャットウォークの道標(みちしるべ)~おかあはいつもちょっと大変2~ 最終話
最終話
『福を呼ぶ探偵事務所』の壁に掛けられた振り子時計が、午後の訪れを告げた。
電気式のケトルがカチッと音を立てた。お湯が沸いた知らせに、福蔵が腰を上げる。
「あの、福蔵さん、僕が淹れましょうか」
融が遠慮がちに声を掛けた。
「……不味い紅茶を飲むくらいなら、泥水を飲んだ方がマシだ」
福蔵が言葉少なにそう言った。
「あれから、少しは上達しましたけど……」
融がぼそりと呟く。まだ事務所で働き出したばかりの頃、不慣れな融が分量を間違えて淹れたお茶の味を、福蔵は今でも忘れない。
「それにしても、大変でしたよね。何度も警察に足を運んで」
一昨日の夜に、蛭田の家に侵入して蛭田の父親を保護したことに関して、福蔵は警察で事情聴取を受けた。
蛭田の父親の証言から、彼が息子から監禁されていたことの裏付けが取れ、福蔵の行為は不法侵入ではなく緊急の人命救助による立ち入りとして処理された。ガラス戸を割ったことは破壊行為にあたるものの、そこも不問になった。
ただし、侵入に至る経緯や、その判断について、細かい質問に答える必要があり、事情聴取は事件当日の夜と、翌日の午前の二日に渡って行われた。
そしてその夕方には、円香を救出したことにより、またしても遅くまで警察で事情聴取を受けることになった。
「事情聴取って、ずいぶんと時間がかかるんですね」
疲れのせいか、いつになく不機嫌な福蔵に、融がそう声を掛けると、
「時間がかかるのは、聞く側の処理能力の問題だ。私はちゃんと、筋道の通った簡潔な説明をしている。それなのに……」
警察でのやり取りを思い出したのか、忌々しげに顔をしかめる。融は黙って首をすくめた。今は下手なことを言わない方がいい。
チャイムが鳴った。融が扉へ向かう。
福蔵は紅茶をカップに注ぐと、そっと香りを吸い込んだ。澱のように溜まった疲れが、ほんの少しほぐれていく。
「福蔵さん、これ」
融がいくつかの段ボールを抱えてきた。たった今届いた荷物らしい。
融から差し出された受領書を目にして、福蔵がふと微笑む。
「依頼者からだ。調査料とは別に、心づくしのようだ」
猫が見つかったことを連絡すると、依頼者の女性は涙を流して喜んだ。
『低血糖はありましたが、点滴してもらったので改善されています。外傷もなく、意識もはっきりしています』
病院へ搬送された円香と、事情聴取のために警察へ向かった福蔵の代わりに、動物病院の夜間救急へ連れて行った融がそう説明すると、女性は遅い時間にもかかわらず事務所へ足を運んだ。
そして今、すっかり痩せてしまった猫のために食料を山ほど贈ってきたのだ。
「依頼者の女性、喜んでいましたよ。福蔵さんが猫を引き取るって聞いて」
ニャーンという鳴き声と共に、事務所の隅にいたノアが福蔵の元へやってきた。
「ほら、ノア。これ全部、お前のものだよ」
声をかける融の前を素通りすると、ノアは福蔵の足元に頭をこすりつけた。
「ちゃんとわかってるのだな、誰が自分の命を助けてくれたのかを」
福蔵が感心して言った。
「病院へ連れて行ったのは、僕なんですけどね」
融が不満そうに呟く。
「それにしても、福蔵さん、本当にノアを飼うんですか」
「仕方がないだろう。宇佐見円香さんは入院中だし、退院したら次は逮捕、起訴されることになる」
宇佐見円香は貸金庫からの横領の罪を認めた。そして、逢坂遊埜もまた逮捕され、自分の犯した罪について白状している。
拘束して監禁したまま、水も食料も与えずに放置したことは、監禁罪の中でも重罪になるだろう。直接手を下したわけではなくても、円香には死の危険が迫っていたのだから、未必の故意としての判断も加わる。
「福蔵さん、『理屈の通じない相手と接することは時間の無駄だ』って、前に言っていましたよね」
融がからかうように言うと、福蔵は軽蔑したような目を向けた。
「その言だと、ノアは当てはまらないことになる。ノアは自分に餌をくれていた蛭田の父親の命の危機を、誰かに知らせようとした。そして、宇佐見円香を庇って逢坂に怪我を負わせ、重大な証拠を残してくれた」
福蔵がノアの頭を撫でる。ノアが気持ちよさそうに首を伸ばした。
「ノアは相当に賢い猫だ。このままでは、第一助手の座を奪われるぞ」
「ええっ、僕は猫の次ですか」
融が目を瞠る。そこへ、もう一度チャイムが鳴った。
「こんにちは」
やってきたのはアイとリンだった。ちょうど保育園からの帰り道のようだ。
「ノア!」
リンが手を伸ばした。ノアがニャーンと鳴きながら駆け寄る。
「アイさん、またご負担をかけてしまって、本当に申し訳ない」
福蔵がアイに頭を下げる。アイが微笑んで首を振った。
「いいえ。わたしこそ、ノアを見つけてくれて本当にありがとうございます」
アイの言葉に、福蔵も顔をほころばせる。
「ねえ、おじちゃん、ノアをここで飼うってホント?」
リンが小さな手でノアを撫でながら尋ねた。
「そうだよ。そしてね、リンちゃん。私はおじちゃんではないよ。まだ三十五だからね」
福蔵が微笑みを浮かべて言った。しかし目は笑っていない。
「四歳から見たら、充分におじちゃんですよ」
融がぼそりと言った。福蔵が口の端をねじり上げたまま、眉間にしわを寄せる。
「ねえ、またノアに会いにきてもいい?」
リンが心配そうに尋ねる。
「もちろん」
福蔵がそう言って、リンとアイのために紅茶を用意し始めた。リンははちきれそうな笑顔で、
「よかったね、ノア」
と、足を投げ出すように寝そべっているノアの背中を撫でた。
「パパもね、ネコちゃんがだーい好きなんだよ」
「パパって、佐紀さんのお父さんのこと?」
融がアイとリンに向かって尋ねた。
「ううん、おじちゃんじゃなくて、リンのパパ」
リンは融に向かって首を振ると、
「ノアのこと、パパに見せてあげたいな」
そう言って、ノアの隣で両足を投げ出す。アイはそっと腰を折ると、リンがノアにしているように、リンの頭を撫でた。
おわり
